最終更新日 2025-07-31

明智光綱

明智光綱は光秀の父。土岐氏支流で、斎藤道三と姻戚関係を結び明智家を安定させた。若くして病死し、明智家の転機となった人物。
「明智光綱」の画像

戦国武将・明智光綱の生涯と実像:史料に基づく徹底的考察

第一章:序論 ― 謎に包まれた光秀の父、明智光綱

本能寺の変という日本史上屈指の大事件を引き起こした明智光秀。その名は広く知られている一方で、彼の出自、特にその前半生は深い謎に包まれている 1 。この謎を解き明かす上で、鍵を握る人物が、彼の父とされる「明智光綱(あけち みつつな)」である。しかし、光秀本人に比べて光綱に関する記録は極めて乏しく、その存在自体が後世の系図や軍記物語の記述に大きく依存しているのが現状である 2

利用者が当初提示した「美濃の豪族。明智城主。光継の嫡男。名は光隆とも光国ともいい、はっきりしない。1538年に死去したとも、斎藤道三の攻撃を受けて敗死したともいう」という情報は、まさにこの錯綜した伝承と記録の断片的な状況を的確に示している。光綱の実像は、史料の海の中に埋もれた、輪郭のぼやけた存在と言わざるを得ない。

本報告書は、この歴史の狭間に消えた武将、明智光綱に焦点を当てる。現存する『美濃国諸旧記』のような地誌、各種系図、そして『明智軍記』といった軍記物語に至るまで、多岐にわたる資料を網羅的に収集し、それぞれの史料的価値を批判的に吟味する。そして、光綱個人の生涯だけでなく、彼が生きた時代の美濃国の政治情勢、一族の動向、さらには息子・光秀の運命に与えた影響までを多角的に考察し、その実像を可能な限り再構築することを目的とする。

光綱の生涯の探求は、単に一人の無名な武将の経歴を追う作業に留まらない。それは、戦国時代における地方豪族の流動的な立場、そして「逆賊」の烙印を押された一族の歴史がいかにして記録され、あるいは忘却されていったのかという、より大きな歴史の力学を解明する試みでもある。光綱というフィルターを通して、我々は明智光秀という人物の原点と、彼を形作った時代の複雑さを、より深く理解することができるであろう。

第二章:明智光綱の出自と系譜

明智光綱の人物像を探る第一歩は、彼が属した明智氏の系譜と、史料上で彼がどのように位置づけられているかを明らかにすることである。錯綜する系図を比較検討することで、その実像への輪郭が見えてくる。

2-1. 美濃源氏土岐氏の支流・明智氏

明智氏は、清和源氏の名門であり、室町時代を通じて美濃国の守護を務めた土岐氏の支流にあたる 2 。その名字は、美濃国可児郡にあった明智荘(現在の岐阜県可児市周辺)を本拠としたことに由来するとされる 4 。この出自は、明智家が単なる在地の一土豪ではなく、室町幕府の統治体制下において一定の格式と権威を持つ武家であったことを示唆している。

2-2. 『美濃国諸旧記』における明智三代

江戸時代初期、寛永年間(1639年頃)に成立したとされる美濃国の地誌『美濃国諸旧記』は、光綱の存在を記す重要な史料の一つである 6 。同書は「可児郡明智の城主」として、以下の三代の名を明確に記している。

明智駿河守光継 同子遠江守光綱 其子十兵衛光秀

右は、文明より弘治の頃迄の三代の人々なり。

(『美濃国諸旧記』巻之十一より)7

注目すべきは、同書が明智氏を「土岐氏連枝と申して、一族の内にての随一にして、此上に出づる庶流なし」と、土岐一族の中で最も格式高い家柄として最大級の評価を与えている点である 7 。この記事は、同時代史料ではないため後世の顕彰が含まれる可能性は考慮すべきだが、少なくとも江戸時代の美濃において、明智氏が非常に由緒ある名家として認識されていたことを示している 8

2-3. 諸系図の比較と名乗りの異同

光綱に関する記述は、参照する系図によって大きく揺れ動く。その名は「光綱」のほかに「光隆」「光国」などとされ、名乗りすら定まっていない 2 。これは、彼の存在の不確かさを象徴する事象である。

以下に、主要な史料における光綱関連の記述を比較・整理する。

表1:主要系図における明智光綱関連の記述比較

史料名

父の名

本人の名

官途名

子の名

没年・死因

備考

『美濃国諸旧記』

光継(駿河守)

光綱(遠江守)

遠江守

光秀(十兵衛)

(文明~弘治頃)

土岐氏随一の庶流と記述 7

『系図纂要』

光継

光綱

-

光秀

-

2

『続群書類従』所収「明智系図」

光継

光国

-

光秀

-

2

『細川家記』

-

(不明)

-

-

道三に攻められ討死

2

『明智軍記』

光継

光綱

-

光秀、信教、康秀

(若年で死去)

光安が後見 2

『明智氏一族宮城家相伝系図書』

光継

光綱(光隆)

-

(光秀は養子)

-

光綱の妹と進士信周の子が光秀 11

この表から明らかなように、光綱を光継の子、光秀の父とする点では多くの系図が一致するものの、その詳細は大きく異なる。特に、軍記物語である『明智軍記』や、それに基づくとされる系図では、光秀の弟として信教や康秀の名が見えるなど、物語的な要素が加わっている 10

これらの系図の不一致は、単なる記録の散逸だけが原因ではない。本能寺の変により明智家が「逆賊」として断絶したため、公式な家譜が編纂・継承される機会が失われた。その後、江戸時代に入り、光秀の子孫を称する沼田藩主土岐氏のような家や、光秀との関係を語る諸家が、それぞれの家の由緒を正当化する過程で、異なる系譜を伝承・創作した可能性が考えられる 3 。光綱の人物像は、こうした「後世の要請」によって様々に形作られ、変容させられてきたのである。

第三章:光綱の生涯と美濃における明智家の動向

明智光綱の実像に迫るには、彼が生きた16世紀前半の美濃国が、いかに激動の時代であったかを理解する必要がある。守護大名の権威が揺らぎ、下剋上の嵐が吹き荒れる中、光綱は一族の存続をかけて巧みな政治戦略を展開したと考えられる。

3-1. 動乱の時代背景:土岐氏の内紛と斎藤道三の台頭

当時の美濃国は、守護・土岐政房の二人の息子、兄・頼武と弟・頼芸による熾烈な家督争いの渦中にあった 15 。この内乱は美濃一国を二分し、周辺の越前朝倉氏なども巻き込む大規模な争乱へと発展した 18

この混乱に乗じて急速に台頭したのが、油商人から身を起こしたとも伝わる斎藤道三である 19 。道三は、守護代・斎藤氏の家臣であった長井氏に仕え、やがてその主家を乗っ取り、弟の頼芸を擁立することで美濃の政治の実権を段階的に掌握していった 18 。光綱ら明智氏のような在地豪族は、この巨大な権力闘争の中で、いずれの陣営に与し、いかにして生き残るかという極めて困難な選択を常に迫られていた。

3-2. 明智家の生存戦略:多方面への婚姻政策

このような不安定な情勢下で、明智家は婚姻政策を巧みに利用して自らの地位を固めようとした。

若狭武田氏との結びつき

光綱は、若狭国(現在の福井県南部)の守護であった武田氏の娘「お牧の方」を妻として迎え、光秀をもうけたとされる 10 。美濃の東部に位置する明智家にとって、隣接する越前・若狭の有力大名と姻戚関係を結ぶことは、自領の安定化を図る上で極めて重要な戦略であった。

しかし、この関係は永続しなかった。若狭武田氏が、道三と敵対する越前朝倉氏の影響下に入ると、光綱は妻・お牧の方を離縁したと伝えられている 10 。これは、国際情勢の変化が個人の運命をも左右する戦国時代の非情さを示すエピソードであると同時に、明智家が最終的に若狭武田氏との関係よりも、美濃国内の新興勢力である道三との協調を選択したことを物語っている。

室町幕府奉公衆・進士氏との関係

明智家は、中央の権威とも深く結びついていた。光綱は、お牧の方との離縁後、室町幕府の将軍直属の家臣団である奉公衆・進士氏の娘を後妻に迎えたとされる 10 。また、光綱の弟が進士家の養子に入るなど、両家は幾重にもわたる婚姻関係で結ばれていた 10

この進士氏との関係は、明智家が単なる地方豪族ではなく、京都の中央政界の情報にアクセスし、幕府の権威を背景に在地での影響力を行使できる存在であったことを示唆している。事実、明智家は道三の意向を受け、進士家を介して土岐頼芸の守護就任や、近江六角氏との縁組の取次ぎといった重要な外交任務を担っている 23 。これは、道三にとって明智家が、中央との貴重なパイプ役として極めて有用な存在であったことを意味する。

3-3. 斎藤道三との決定的な結びつき

光綱の外交戦略の極めつけは、自らの妹とされる「小見の方」を斎藤道三の正室として嫁がせたことである 12 。これにより、明智家は道三の「外戚」という極めて強力な立場を確立した。

この婚姻は、道三政権下における明智家の地位を盤石なものにした。道三は明智家を重んじ、光秀が幼い頃には小姓として召し出して可愛がったともいう 23 。しかし、この決定的な結びつきは、明智家の運命を道三と一蓮托生にすることも意味していた。この時に結ばれた固い絆が、皮肉にも次代の明智家を破滅へと導く直接的な伏線となるのである。

3-4. 官途名「遠江守」の意味

『美濃国諸旧記』は光綱の官途名を「遠江守」と記している 7 。遠江守は従五位下相当の官位であり、戦国時代には有力な武将が称するものであった 28 。もしこれが事実であれば、光綱は美濃国内で相応の地位を認められた人物であったことになる。ただし、他の一次史料でこの官途名は確認できないため、後世の『美濃国諸旧記』編纂の際に、光秀の父として顕彰する意図で付与された可能性も考慮する必要がある。

第四章:光綱の死と明智家の転機

明智光綱の死は、その時期や死因をめぐって諸説が存在し、彼の生涯の中でも特に謎多き部分である。しかし、彼の早世が明智家の権力構造を大きく変え、息子・光秀の運命を決定づける転換点となったことは間違いない。

4-1. 没年と死因をめぐる諸説

光綱の死については、大きく分けて二つの説が伝えられている。

一つは 病死説 である。複数の系図や記録が、天文4年(1535年)に30代の若さで病により死去したとしている 2 。この説に従えば、享禄元年(1528年)生まれとされる光秀は、わずか7歳で父を失ったことになる 10

もう一つは 討死説 である。肥後細川家に伝わる『細川家記』には、光綱が斎藤道三に居城の明智城を攻められ、討死したという記述が見られる 2

しかし、この討死説には大きな矛盾点が存在する。前述の通り、光綱は妹・小見の方を道三の正室に嫁がせており、両家は固い姻戚関係にあった。道三が義理の兄にあたる光綱を攻め滅ぼすには、よほどの政治的対立や裏切りといった理由が必要となるが、それを裏付ける史料は見当たらない。このため、この記述は、後に起こる長良川の戦いにおける明智城落城の出来事(後述)と混同された可能性が指摘されている。

現時点では、父・光継(1538年没とされる)よりも先に亡くなったこと、そして光秀が幼少期に父を亡くしたという点では各説が比較的共通しており、光綱が若くしてこの世を去った蓋然性は極めて高いと言える。

4-2. 叔父・明智光安による後見体制

家督を継ぐべき嫡男・光秀がまだ若年であったため、光綱の死後は、その弟である明智光安が明智城主となり、一族の舵取りと光秀の後見を担うことになった 2

光安は、単なる中継ぎの当主ではなかった。兄・光綱と共に道三との外交を担い、天文16年(1547年)には室町幕府12代将軍・足利義晴に謁見して従五位下兵庫頭に任じられるなど、中央政界にも通じた優れた政治手腕を持つ武将であった 25

4-3. 光綱の早世がもたらした影響

光綱の早世は、明智家の運命に連鎖的な影響を及ぼした。第一に、当主の座が本来の嫡流である光秀ではなく、叔父の光安へと移った。これは戦国時代の家督相続において、一族の内紛の火種となりかねない不安定な権力構造を生み出した 34

第二に、光安は兄・光綱が敷いた親道三路線を継承・強化した。これにより、明智家は道三政権とさらに不可分な関係となり、その後の政治的リスクを一身に背負うことになった。

そして第三に、光秀の人間形成への影響である。幼くして父を亡くし、叔父の後見のもとで成長するという経験は、彼の自立心や、主家や血縁に対する複雑な感情を育んだ可能性がある。光秀の謎に満ちた前半生は、この「嫡流でありながら当主ではない」という特殊な状況から始まっているのである。

第五章:光綱死後の明智家 ― 長良川の戦いと一族の離散

明智光綱が築き、弟の光安が継承した斎藤道三との強固な関係は、皮肉にも一族を破滅へと導く引き金となった。光綱の死から約20年後、美濃国を揺るがす内乱によって、明智家は壊滅的な打撃を受けることになる。

5-1. 斎藤道三・義龍父子の相克

美濃国主となった斎藤道三は、嫡男・義龍の器量を低く評価し、疎んじていた。やがてその対立は、道三が義龍を廃嫡し、他の息子に家督を譲ろうと画策するまでに深刻化した 19 。弘治元年(1555年)、この動きを察知した義龍は先手を打ち、道三に寵愛されていた弟二人を殺害。これにより、父子の対立はもはや修復不可能な段階へと突入した 25

5-2. 明智光安の決断と明智城籠城

この父子相克において、明智家の当主・光安は極めて困難な立場に立たされた。彼の妹・小見の方は道三の正室であり、明智家は道三の「外戚」という、最も近しい姻戚関係にあったからである 25 。義龍が父に対して挙兵した以上、光安には道三方につく以外の選択肢はなかった。

弘治2年(1556年)、長良川の戦いで道三が義龍に敗れ、討死すると、義龍軍の矛先は道三派の残党に向けられた。光安は弟の光久や、藤田氏、妻木氏といった一族郎党と共に本拠・明智城に籠城し、義龍の大軍と対峙する道を選んだ 26

5-3. 明智城の落城と一族の末路

義龍は17,500(一説に3,700)ともいわれる大軍を率いて明智城を包囲した 25 。数日間にわたる激しい攻防の末、衆寡敵せず明智城は落城。城主・光安は弟・光久らと共に自害して果て、明智一族の多くがその命を落とした 25

後世の軍記物語『明智軍記』によれば、光安は落城に際し、嫡流である甥の光秀と、自身の子とされる秀満を城から脱出させ、「明智家再興」を託したとされている 25 。この劇的な逸話の真偽は定かではないが、この落城によって明智宗家が事実上滅亡し、光秀が流浪の身となったことは歴史的な事実である。

ここに、戦国時代の歴史の皮肉が見て取れる。光綱の代に、一族の安泰と発展を願って結んだはずの斎藤道三との姻戚関係が、結果として次代の光安と一族を滅ぼす直接の原因となったのである。これは、特定の強大な権力者と深く結びつくことの危うさを示す、戦国時代の典型的な悲劇と言えよう。そして、この一族離散という悲劇こそが、光秀を美濃から追放し、越前の朝倉義景を頼る流浪の旅へと向かわせた 1 。その流浪の果てに、彼は足利義昭、そして織田信長と出会うことになる。父・光綱の死と、その後の明智家の崩壊なくして、歴史上の人物「明智光秀」は生まれなかったのである。

第六章:史料批判と研究史的検討

明智光綱の人物像は、信頼性の異なる様々な史料や伝承のモザイクによって成り立っている。その実像に迫るためには、これらの情報を鵜呑みにするのではなく、史料批判の視点を持って解体し、再検討する必要がある。

6-1. 軍記物語の限界:『明智軍記』の史料的価値

光綱や光安の事績、そして光秀の若き日を描く逸話の多くは、江戸時代に成立した『明智軍記』に依拠している 2 。しかし、本書は歴史的事実を記録することを第一の目的とした史書ではなく、読者の興味を引くように物語性を重視して編纂された軍記物語である。そのため、史実を面白く脚色した創作部分が多く含まれており、一次史料としての信頼性は低いと評価されている 39

例えば、光秀の母が丹波八上城攻めの際に人質となり、波多野氏に磔にされたという有名な逸話も、この『明智軍記』が出典であり、同時代の信頼できる史料では確認できないことから、その信憑性は今日では疑問視されている 22 。光綱に関する記述も同様に、慎重な取り扱いが求められる。

6-2. 光綱の存在を揺るがす異説:小林正信氏の「進士氏出身説」

近年、明智光綱の存在、ひいては光秀の出自そのものを根底から問い直す、注目すべき研究が提出されている。歴史研究者の小林正信氏は、光秀の父は美濃の明智光綱ではなく、室町幕府の奉公衆であった進士晴舎(しんじ はるいえ)であり、光秀自身は晴舎の子である進士藤延(ふじのぶ)が後に改名した人物である、という大胆な仮説を提唱した 1

この説の論拠は多岐にわたるが、主なものとして、前述した明智家と進士家の幾重にもわたる深い婚姻関係 10 、そして光秀のその後の行動が、美濃の一地方豪族出身者と考えるには不自然なほど、京都の中央政界や幕府の儀礼・実務に通じている点などが挙げられる。

この「進士氏出身説」が事実であった場合、「明智光綱」という人物の位置づけは大きく変わる。彼は光秀の実父ではなく、光秀が織田信長に仕え、美濃の旧領回復を目指す過程で、自らの出自を土岐氏庶流の名門「明智氏」に繋げるために迎えた養父、あるいは複雑な養子関係が後世に単純化されて伝えられた結果生まれた「系譜上の父」であった可能性が浮上する。光秀の前半生の謎は、彼が「明智氏」ではなく、将軍側近の「進士氏」という全く異なる文脈でキャリアをスタートさせたと仮定すれば、より合理的に説明できる部分も多い。光綱の実在性を問うこの研究は、光秀研究の根幹を揺るがす重要な論点となっている。

6-3. 伝承の創出プロセス:「二つの明智城」問題

光綱や光秀の居城、そして光秀の生誕地とされる城が、岐阜県内に二つ存在することも、歴史の複雑さを示している。一つは土岐明智氏の名字の地であり、多くの系図が本拠地とする可児市の明智城(長山城) 4 。もう一つは、恵那市明智町にある明知城である 4

可児市の明智城は、文献上の蓋然性が高いとされる一方で、近年の城郭調査では城としての遺構が明確でないとの指摘もなされている 46 。対照的に、恵那市の明知城は本来、遠山氏の城であるが、「光秀産湯の井戸」や母・お牧の方の墓所といった具体的な伝承が数多く残り、地域に深く根付いている 48

この「二つの明智城」問題は、単なる史実の探求という側面だけではなく、歴史上の英雄を地域の文化遺産(ヘリテージ)として位置づけ、活用しようとする近現代の社会的な動きを色濃く反映している 46 。特に大河ドラマの放送などは、こうした伝承の創出や再生産を加速させる要因となる 2 。光綱や光秀の史実を追うことは、同時に、歴史がいかにして人々に語り継がれ、時に変容し、消費されていくのかというプロセスそのものを考察することでもあるのだ。

第七章:結論 ― 歴史の狭間に消えた武将、明智光綱の実像

錯綜する史料と伝承の霧をかき分け、戦国武将・明智光綱の姿を追う探求は、一人の人物の生涯を超え、戦国という時代の複雑さと、歴史が語り継がれるプロセスの奥深さを我々に示してきた。本章では、これまでの調査と考察を統合し、現時点で最も蓋然性の高い光綱の人物像を提示するとともに、その歴史的意義と今後の研究課題を展望する。

7-1. 再構築される光綱像

確固たる一次史料は欠いているものの、複数の二次史料や系図が共通してその存在を示唆することから、明智光秀の父(あるいは養父)として「明智光綱(光隆、光国)」という名の人物が実在した可能性は高いと結論付けられる。

彼は、美濃源氏土岐氏の有力な支流に生まれ、守護家の内紛と斎藤道三の台頭という激動の時代に、若狭武田氏や幕府奉公衆・進士氏との婚姻政策を巧みに駆使して、一族の存続と発展を図った有能な地方領主であったと推察される。特に、新興勢力である道三と結んだ姻戚関係は、彼の代における最大の政治的功績であり、明智家の地位を一時的に安定させた。しかしそれは同時に、道三の運命と一族の未来を一体化させる、危険な賭けでもあった。

彼の人生は、道三による美濃統一が完成する以前に、若くして幕を閉じた。その早世は、明智家の権力構造を嫡流から叔父・光安へと移行させ、結果的に一族の運命を大きく左右する決定的な転換点となったのである。

7-2. 光綱が息子・光秀に与えた影響

光綱の生涯と早世は、息子・光秀の人間形成と行動原理に、計り知れない影響を与えたと考えられる。父の死と、その後の明智城落城による一族離散は、光秀に「失われた故郷」と「再興すべき家」という、生涯を貫く強烈な原体験を刻み込んだ可能性がある。父の記憶、そして父が築き、守ろうとした明智城への思いが、彼の行動の根底にあったと想像することは、光秀という複雑な人物を理解する上で重要な視座を提供する。

また、光綱が結んだ進士氏との縁は、流浪の身となった光秀が、やがて足利義昭という幕府中枢の人物と繋がり、中央政界への足がかりを得る上で、無形の、しかし決定的な財産となった可能性も否定できない。光綱の政治的遺産は、彼の死後、形を変えて息子・光秀に受け継がれたのである。

7-3. 今後の展望

明智光綱、ひいては光秀の前半生をめぐる謎を解明するためには、新たな一次史料の発見が不可欠である。特に、美濃、近江、越前の古寺社や旧家に眠る古文書の中に、彼らの動向を示す未知の断片が発見されることが期待される 53

明智光綱の実像は、依然として歴史の霧の中に深く閉ざされている。しかし、その不明瞭さこそが、我々に史料を批判的に読み解き、固定観念に囚われず、多様な可能性を模索する歴史研究の本来の醍醐味を教えてくれる。彼の物語は、もはや一人の武将の生涯に留まらない。それは、戦国という時代の過酷さとダイナミズム、そして歴史が後世に語り継がれる中でいかに変容し、新たな意味を帯びていくのかという、普遍的な問いを我々に投げかけ続けているのである。

引用文献

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  2. 明智光綱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%B6%B1
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  4. 明智氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E6%B0%8F
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  31. 歴史人物語り#33出自不明な明智光秀の祖父と父と云われている明智光継と明智光綱 - ツクモガタリ https://tsukumogatari.hatenablog.com/entry/2019/08/29/210000
  32. 明智光秀の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/32379/
  33. 斎藤家 武将名鑑 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/saitouSS/index.htm
  34. 戦国武将の相続・失敗例 上杉謙信と織田信長 https://www.kamomesouzoku.com/16075856387324
  35. 戦国武将の相続・成功例 毛利元就、徳川家康、織田信雄 https://www.kamomesouzoku.com/16067089881233
  36. それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い) - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2022/11/14/100349
  37. 明智城 (美濃国可児郡) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%9F%8E_(%E7%BE%8E%E6%BF%83%E5%9B%BD%E5%8F%AF%E5%85%90%E9%83%A1)
  38. 明智城 斎藤義龍の攻撃を受けて、光秀は越前に逃げた | 岐阜新聞デジタル https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/3049
  39. 【家系図】明智光秀の出自はどれが正しい?諸説を総ざらいして考察! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/381
  40. 本能寺の変① 明智光秀の謀反 - 城びと https://shirobito.jp/article/1165
  41. 歴史と物語は何が違うのか? 私が教科書作りから離れた理由 - ビジネス+IT https://www.sbbit.jp/article/cont1/77256
  42. 明智光秀の乱 - 福岡県弁護士会 https://www.fben.jp/bookcolumn/2014/08/post_4068.php
  43. 明智光秀の乱 : 天正十年六月政変織田政権の成立と崩壊 - CiNii Research https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB16167764
  44. 明智光秀、謎の前半生~いつ、どこで生まれたのか? 斎藤道三との関係は? https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7434
  45. 明知城の見所と写真・800人城主の評価(岐阜県恵那市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/469/
  46. 創出されたヘリティジ - - 岐阜県可児市明智城跡を事例に https://tokaigakuin-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2565&file_id=21&file_no=1
  47. 2020年大河ドラマ主人公・明智光秀とは何者なのか? 謎に包まれた前半生に迫る - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/44618/
  48. 明智光秀は生きていた!衝撃の明智伝説が残る岐阜県山県市へ - ORICON NEWS https://www.oricon.co.jp/article/963750/
  49. 美濃国を代表する明智光秀ゆかりの城「明知城」【岐阜県恵那市】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/23117
  50. 明智光秀公ゆかりの地マップ - 恵那市観光協会 https://www.kankou-ena.jp/wp-content/uploads/2019/12/yukari-illust-map.pdf
  51. 特集明智光秀公ゆかりの地 - 日本大正村 http://nihon-taishomura.or.jp/mitsuhide
  52. 城跡を活用した 可児市の地域づくりの考察Ⅱ - OKB総研 https://www.okb-kri.jp/wp-content/uploads/2019/07/174-research.pdf
  53. 明智光秀のルーツか?新史料発見! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=SiUs_FL8N6I