最終更新日 2025-07-29

星野鎮種

筑後国人・星野鎮胤(吉実)の生涯―戦国末期九州における国人領主の克己と滅亡―

序章:筑後の雄、星野鎮胤(吉実)をめぐる謎

日本の戦国時代、特にその末期における九州は、数多の英雄たちが覇を競い、権謀術数が渦巻く激動の舞台であった。その中で、筑後国(現在の福岡県南部)の山深き地に拠点を構え、大大名の狭間で翻弄されながらも、一族の誇りと存続をかけて壮絶な生涯を閉じた一人の武将がいた。その名は、星野鎮種。しかし、史料を紐解くと、彼の名は「鎮胤(しげたね)」、「吉実(よしざね)」、あるいは「重種(しげたね)」としても記録されており、その実像は複雑な様相を呈している 1

本報告書は、この筑後の国人領主、星野鎮胤(吉実)の生涯を徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。特に、天正14年(1586年)に筑前高鳥居城で弟・鎮元(吉兼)と共に討死した人物を「星野鎮胤(吉実)」と捉え、この呼称を主軸に論を進める 3 。この名前の揺らぎ自体が、彼の生きた時代の複雑さを物語っている。例えば、「鎮」の一字は、当時九州最大の勢力を誇った豊後の大友宗麟(義鎮)からの偏諱(主君が家臣に名前の一字を与えること)と推察され、大友氏への従属期を示唆する 7 。一方で「吉実」の名は、一族の通字か、あるいは別の勢力との関係性の中で用いられた可能性があり、彼の生涯が一つの主君への単純な忠誠ではなかったことを象徴している。

彼が生きた16世紀後半の九州は、豊後の大友氏、肥前の龍造寺氏、そして薩摩の島津氏という三大勢力が互いに鎬を削る、さながら「三国志」の様相を呈していた 5 。星野氏のような国人領主は、これらの巨大勢力の間にあって、ある時は従属し、ある時は反旗を翻しながら、自らの家と領地の存続という至上命題のために、常に困難な選択を迫られる存在であった。

本報告書では、まず星野氏の出自と、彼らの独立性を支えた筑後星野谷の地理的・経済的基盤を明らかにする。次いで、大友氏との長年にわたる相克の歴史を追い、星野鎮胤(吉実)が如何にして一族の当主となり、時代の荒波に立ち向かっていったのかを詳述する。そして、彼の生涯のクライマックスである「高鳥居城の戦い」における悲壮な決断と、その背景にある武士としての義と死生観を、彼らが遺した辞世の句群の分析を通して深く考察する。星野鎮胤(吉実)の生涯を追うことは、戦国末期の九州を駆け抜けた一人の武将の物語に留まらず、国人領主という存在が抱えた宿命と、彼らが貫こうとした武士道の本質を理解する上での、貴重な光を投げかけるものとなるであろう。

第一章:星野氏の淵源と筑後における勢力基盤

星野鎮胤(吉実)の人物像を深く理解するためには、彼が背負っていた一族の歴史的背景と、その勢力を育んだ領国の特質を把握することが不可欠である。星野氏は、単なる地方の小豪族ではなく、由緒ある家柄と独自の経済基盤を持つ、誇り高き一族であった。

一族の出自と南北朝時代の栄光

筑後星野氏は、鎌倉時代初期に議奏を務めた公卿・徳大寺実定の子、星野胤実を祖とすると伝えられる名門である 6 。筑後国生葉郡(いくはぐん)および竹野郡に約1000町(約1万石に相当)の所領を有し、この地域における大身の国人領主として「筑後十五城」の一つに数えられていた 6

星野氏の歴史において特筆すべきは、南北朝時代の動乱における活躍である。彼らは一貫して南朝方に与し、征西将軍宮・懐良親王および良成親王を奉じて、九州における南朝勢力の中核として戦い抜いた 6 。北朝方の今川了俊率いる大軍と渡り合い、元中8年(1391年)には九州の南朝方が八代の名和氏と星野氏のみとなる状況下でも節を曲げなかった 9 。この「勤王」の歴史は、後世に至るまで星野一族の強い矜持となり、大大名に対して容易に屈しない独立志向の精神的な支柱となったと考えられる。

また、一族のアイデンティティは信仰にも深く根差していた。彼らは北斗七星や北極星を神格化した妙見菩薩を篤く信仰し、本拠地の城を「妙見城」と称した 9 。妙見信仰が亀(玄武)と結びつけられることから、家紋には「亀甲紋」を用いており、これは一族の結束と独自性を象徴するものであった 9

山が育んだ独立の気風と経済力

星野氏が長きにわたり独立を保ち、大大名に反抗し得た要因は、精神的な矜持のみに留まらない。その力の源泉は、彼らの本拠地である星野谷の地理的特性と、そこから生み出される独自の経済基盤にあった。

星野谷は、筑後平野の東端に位置する山間地域である。このような地理的条件は、平野部の穀倉地帯を支配する大名からの直接的な干渉を受けにくいという防御上の利点をもたらした。しかし、それ以上に重要なのは、この山々がもたらす豊かな資源であった。

江戸時代の地誌『筑後志』には、「金 生葉郡星野村・上妻北川内村に産す。就中北川内の産は沙金にして無上の好金なり」との記述があり、星野氏の領内から良質な砂金が産出されていたことがわかる 13 。金は、戦国時代において軍資金の調達、武器の購入、情報収集など、あらゆる活動の根幹をなす戦略物資であり、星野氏の経済的自立を大いに支えたであろう。

さらに、この地域は古くから和紙の産地としても知られている。矢部川の清流と豊富な楮(こうぞ)を原料とする「八女和紙」は、その強靭さから藩の御用紙(専売品)にもなった重要な産品であった 14 。和紙生産は、米作が困難な山間部における貴重な収入源であり、交易を通じて一族に富をもたらした。

加えて、九州山地一帯では古来より「鉄穴流し(かんなながし)」と呼ばれる砂鉄の採集方法による製鉄が行われていた記録があり、星野氏もまた、武器の生産に不可欠な鉄資源を自領内あるいは近隣から確保していた可能性が高い 17

このように、星野氏は米の生産量(石高)だけでは測れない、金、和紙、木材、そして鉄といった「山の産物」を掌握することで、独自の経済基盤を確立していた。この経済的自立性こそが、彼らに大大名に対しても屈しない強固な軍事力と外交交渉力を与え、度重なる反抗と独立志向を貫くことを可能にした根源的な力だったのである。

第二章:大大名の狭間で―大友氏との相克と一族の動揺

戦国時代を通じて、筑後の国人領主・星野氏は、九州北部に覇を唱える豊後の大友氏との間で、従属と反抗を繰り返す複雑な関係にあった。この相克の歴史は、星野鎮胤(吉実)の時代に至る一族の動向を理解する上で極めて重要であり、また、戦国期における国人領主の置かれた厳しい立場を浮き彫りにするものである。

繰り返される反乱と謀略による鎮圧

星野氏の独立志向と大友氏の支配欲は、幾度となく激しい軍事衝突を引き起こした。その中でも、星野重泰の代における抵抗は、大友氏に強い衝撃を与えた。大友義長(宗麟の祖父)の支配に従わなかった重泰は、本拠・妙見山城に籠城して徹底抗戦の構えを見せた 6 。妙見山城は天然の要害であり、大友軍は攻めあぐね、いたずらに時を費やした。業を煮やした大友方は、力攻めを諦め、謀略に転じる。家臣の竹尾新左衛門を偽って重泰に仕えさせ、その信頼を得た後、無防備な入浴中を襲って暗殺するという卑劣な手段で、ついに重泰を討ち取ったのである 6

この一件は大友氏にとって、星野氏がいかに油断ならぬ存在であるかを痛感させる出来事であった。永正14年(1517年)に大友義長が遺した遺言状には、「星野九郎は重泰の息子である。重泰は度々征伐を行ったが手にかけることはできなかった。それを臼杵安芸守の知謀によって、竹尾新左衛門に暗殺させた。(中略)星野九郎の兄弟子孫は絶対許してはならぬ」という趣旨の記述が残されており、星野一族に対する並々ならぬ憎悪と警戒心が窺える 6

重泰の死後も、星野氏の抵抗は終わらなかった。星野親忠の代には、大友義鑑(宗麟の父)が自ら大軍を率いて侵攻するも、攻略に失敗する 5 。義鑑は幕府の権威を借り、大内氏や島津氏を含む九州の諸将を動員して再び星野城を包囲するという、異例の大規模な討伐作戦を展開した 5 。親忠は一年以上にわたり奮戦したが、天文4年(1535年)、ついに城を脱出し、遠く越後の地へ落ち延びたと伝えられている 5

一族の分裂と大友氏の分断統治

大友氏との絶え間ない抗争は、星野一族の内部に深刻な亀裂を生じさせた。一族は一枚岩ではなく、その時々の情勢に応じて、異なる政治的選択をする者たちが現れた。大永5年(1525年)の筑後における反乱では、星野氏は敵味方に分かれて戦っている。大友方に与して先陣を務めた星野親忠に対し、反乱側に立った星野正実は敗れて豊前の大内義興を頼った 19

大友氏は、こうした一族内の対立を巧みに利用した。反抗的な当主を武力や謀略で排除した後、一族の中から親大友的な人物を新たな惣領として擁立することで、星野氏の勢力を内部から切り崩し、支配を安定させようと図ったのである 9 。親忠が越後に落ち延びた後、大友義鑑が星野重実を一族の惣領としたのは、その典型的な例である 9

この時代の星野氏の系図は、史料によって重泰、親忠、正実、重実らの関係性が異なって記されるなど、錯綜している 9 。これは、度重なる当主の交代や一族内での主導権争いが、いかに激しく行われていたかを示す間接的な証拠と言えよう。

国人領主の「生存戦略」としての離合集散

星野氏の行動は、現代的な「忠誠」や「裏切り」といった単純な二元論では到底捉えきれない。彼らの行動原理を理解する鍵は、戦国時代の主従関係が、現代人が想像するような情緒的なものではなく、「御恩と奉公」という、ある種の契約的な側面を強く持っていた点にある。主君は家臣の領地を保障(御恩)し、家臣はそれに対して軍役などの義務(奉公)を果たす。この双務的な関係が、主従の絆を支えていた。

星野氏をはじめとする筑後の国人衆が、再三にわたって大友氏に反旗を翻した背景には、大友氏の国人に対する政策が「総じて冷淡であった」という事実がある 20 。大友氏は、国人領主の自治権を尊重するよりも、自らの一族や譜代の家臣を送り込んで直接支配を強化しようとする傾向があった。これは、領地の安堵という「御恩」が十分に果たされていないと国人側に受け取られ、主従関係の基盤を揺るがす原因となった。

したがって、星野氏の反抗や、より有利な条件を提示する大内氏や島津氏への接近は、単なる「裏切り」ではなく、自らの「家(いえ)」の存続という至上命題を達成するための、極めて合理的な「生存戦略」であったと解釈すべきである。主君が契約内容(御恩)を履行しない、あるいはその能力を失ったと判断すれば、国人領主は自らの奉公義務から解放され、新たな保護者(主君)を求める。これは、激動の時代を生き抜くための、必然的な選択であった。彼らの行動は「主君への忠誠」以上に、「家名の存続」という、より根源的な「義」に基づいていたのである。

第三章:星野鎮胤(吉実)の台頭と鷹取城

一族が内紛と大友氏からの圧迫に揺れる中、歴史の表舞台に登場するのが星野鎮胤(吉実)である。彼は、戦国末期の軍事的緊張の高まりに対応すべく、一族の新たな拠点として、それまでの城とは一線を画す堅固な山城を築き上げた。それが、耳納連山に聳える鷹取城である。この城は、鎮胤(吉実)の戦略思想と、当時の最先端の築城技術が集約された、星野氏最後の砦であった。

鷹取城の築城と戦略的価値

伝承によれば、鷹取城は星野氏第10代領主とされる鎮胤(吉実)によって築かれたとされる 21 。それまでの一族の拠点であった福丸城や、本拠地・星野谷を見下ろす妙見城(内山城)から、さらに険しい耳納連山の最高峰、標高802メートルに達する鷹取山へと主城を移したのである 21

この移転は、単なる拠点の変更以上の戦略的な意味を持っていた。鷹取城の立地は、まさに絶妙であった。山頂からは、北に筑前、西に肥後、東に豊後と、周辺諸国の動向を一望できる 23 。北西面は筑後川流域を見下ろす急峻な崖となっており、敵の接近を容易に許さない天然の要害を形成している。一方で、東南面は本拠地である星野村へと続く比較的緩やかな山並みであり、有事の際の兵員や物資の補給、そして最終的な退路の確保といった、本拠地との連携も考慮されていた 21 。この城は、防御拠点であると同時に、広域を監視する情報拠点でもあったのだ。その標高の高さから「全国で一番高所の山城」と称されることもあるこの城の存在は 21 、戦国末期の九州における軍事的緊張がいかに高まっていたかを物語っている。

高度な防御施設「畝状竪堀群」

鷹取城が特筆されるべきもう一つの理由は、その高度な防御施設にある。近年の調査により、城の南側斜面には、無数の「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」が、極めて明瞭な形で現存していることが確認されている 1

畝状竪堀群とは、山の斜面に対して垂直に、畝のように何本もの堀を並行して掘削した防御施設である。これは、斜面を攻め上ってくる敵兵の横移動を著しく困難にし、大軍を細かく分断させる効果がある。分断された敵兵は、城内からの弓矢や鉄砲による側面攻撃の格好の的となる。この築城技術は、戦国時代も末期になってから発達したものであり、鷹取城が当時の最新の軍事思想に基づいて設計されたことを示している。星野鎮胤(吉実)が、単なる勇猛な武将ではなく、高度な築城術にも通じた戦略家であったことが窺える。

以下の表は、星野氏の主要な城郭を比較したものである。これにより、鷹取城がいかに特異な存在であったかがより明確になる。

城郭名

所在地(現)

標高(推定)

規模・特徴

役割・機能

妙見城(内山城)

福岡県うきは市

約330 m

南北600m、東西250mに及ぶ筑後最大級の山城。星野氏の本来の本拠地 12

一族の政治的・軍事的中心地。妙見信仰の聖地でもあった 9

福丸城

福岡県うきは市

約100 m

平時の居館である福益館の詰城。妙見城の支城としての役割も担う 5

居館と防御施設を組み合わせた、平時の統治拠点。

鷹取城

福岡県八女市・久留米市

802 m

耳納連山の最高峰に位置する。大規模な畝状竪堀群を備える 1

周辺諸国を監視する情報拠点であり、最終防衛ラインとしての詰城。

この比較から明らかなように、鷹取城はそれまでの城とは次元の異なる、極めて防御に特化した要塞であった。星野鎮胤(吉実)が、なぜこれほどまでに険しい高所へ新たな城を築かねばならなかったのか。それは、彼の生きた時代が、もはや従来の城では生き残れないほどに、過酷で切迫した状況にあったことの何よりの証左なのである。

第四章:九州の覇権争いと運命の選択

星野鎮胤(吉実)が鷹取城に新たな拠点を構えた頃、九州の政治情勢は、一つの大きな戦いを契機として劇的に変化する。天正6年(1578年)の日向「耳川の戦い」である。この戦いは、長らく九州の覇者として君臨してきた大友氏の没落を決定づけ、星野氏をはじめとする筑後の国人領主たちに、自らの存亡を賭けた運命の選択を迫るものであった。

耳川の戦いの衝撃と大友氏の権威失墜

天正6年10月、キリシタン大名としても知られる大友宗麟は、日向国への勢力拡大を目指し、数万と号する大軍を南下させた。しかし、高城川(耳川)を挟んで対峙した島津義久の軍勢の前に、大友軍は戦術的な失敗も重なり、壊滅的な大敗を喫した 10 。この一戦で、大友氏は多くの重臣を失い、その軍事力と政治的権威は地に堕ちた 29

この敗戦の報は、九州全土に衝撃を与えたが、特に大友氏の支配下にあった筑前・筑後の国人たちに与えた影響は甚大であった 28 。彼らにとって、大友氏は自らの領地と権益を保障してくれる絶対的な保護者であったはずが、その力が幻想であったことを思い知らされたのである。弱体化した大名に付き従うことは、もはや自らの身を危険に晒すだけであり、国人たちの心は大友氏から急速に離れていった 28

国人衆の離反と島津氏への帰属

耳川の戦いを境に、大友氏の支配機構は麻痺状態に陥り、筑後の国人衆は堰を切ったように離反を開始した。彼らは、大友氏に代わる新たな保護者を求め、西からは肥前の「肥前の熊」龍造寺隆信が、そして南からは耳川の勝利で破竹の勢いを示す薩摩の島津氏が、その勢力圏を筑後へと伸ばしてきていた 9

このような情勢の中、星野鎮胤(吉実)もまた、重大な決断を下す。彼は、もはや落日の大友氏を見限り、反大友の旗幟を鮮明にしていた筑前の有力国人・秋月種実と連携を深めた 1 。そして、秋月氏が同盟関係にあった島津氏の陣営に、その身を投じることを選んだのである 23 。これは、単独では巨大勢力の波に抗しきれない国人領主が、より強力な勢力の傘下に入ることで、一族の存続を図ろうとする、当時の状況下では極めて合理的な選択であった。

主従関係の「契約」的側面

星野鎮胤(吉実)のこの行動を、単に「大友氏への裏切り」と断じるのは、戦国時代の武家社会の実像を見誤るものである。前述の通り、この時代の主従関係は、御恩(領地安堵や外敵からの保護)と奉公(軍役や忠誠)からなる、双務的な「契約」の側面を色濃く持っていた。主君が「御恩」という契約上の一方の義務を履行できなくなった時、家臣もまた「奉公」の義務から解放される、という論理が成り立ち得たのである。

耳川の戦いは、大友氏が筑後の国人たちに対して負っていた「保護者としての責務」を、もはや果たし得ないことを白日の下に晒した事件であった。大友氏という「契約相手」がその能力を喪失した以上、星野鎮胤(吉実)が自らの家を守るために、新たな、そしてより信頼に足る契約相手として島津氏を選んだのは、当時の価値観からすれば、むしろ当然の帰結であったと言える。彼のこの決断は、不忠や裏切りではなく、主従という契約関係が事実上破綻したことに伴う、新たな生存戦略の開始を意味していた。そしてこの新たな「契約」こそが、後の彼の運命を決定づけることになるのである。

第五章:高鳥居城の死闘―ある国人領主の滅亡

星野鎮胤(吉実)が島津氏に与するという決断を下してから8年後の天正14年(1586年)、九州の情勢は再び大きく動く。天下統一を目前にした豊臣秀吉が、島津氏の討伐を掲げて九州平定軍を派遣したのである。この巨大な政治的・軍事的圧力は、星野一族をその存亡を賭けた最後の戦いへと追い込んでいった。その舞台となったのが、筑前国の山城、高鳥居城であった。

殿軍としての死地への赴任

九州統一の野望を打ち砕かれた島津義久は、豊臣の大軍との直接対決を避け、本国薩摩への戦略的撤退を決定した 33 。この撤退作戦において、島津氏は追撃してくるであろう敵勢、特に大友方の勇将・立花宗茂の軍を足止めするための「殿(しんがり)」を必要とした。この極めて危険な役割を命じられたのが、星野鎮胤(吉実)と弟の鎮元(吉兼)であった 5

彼らが守備を命じられた高鳥居城は、現在の福岡県糟屋郡須恵町と篠栗町にまたがる岳城山に築かれた山城である 35 。星野氏の本拠地である筑後星野谷からは遠く離れた、まさに敵地の真っ只中であった。主力が撤退した後に孤立した城で、復讐に燃える敵の大軍を迎え撃つ。それは、生還を期すことの難しい、事実上の「死地」への赴任であった。

立花軍の猛攻と玉砕に至る戦闘

島津軍主力の撤退を察知した立花宗茂は、この機を逃さなかった。彼は、先の岩屋城の戦いで父・高橋紹運を島津軍に討たれており、その復讐心は凄まじいものがあった 37 。宗茂は手勢を率いて高鳥居城に殺到し、城を完全に包囲した。

星野勢の兵力は、わずか300余名に過ぎなかったと伝えられる 37 。対する立花軍は数で圧倒し、士気も極めて高かった。しかも、高鳥居城は島津軍の急な命令で入城したため、防御施設も十分に修復されていない状態であった 38 。絶望的な状況下で、戦闘の火蓋は切られた。

しかし、星野兄弟とその家臣団は驚くべき奮戦を見せる。彼らは巧みに鉄砲隊を運用し、城に殺到する立花勢に多大な損害を与えた。その正確な射撃は、敵の総大将である立花宗茂自身を負傷させるほどであったという 38 。だが、衆寡敵せず。立花軍の波状攻撃の前に、出丸、二の丸は次々と陥落し、城には火が放たれた。猛火と白煙の中、兄の鎮胤(吉実)は東門付近で、弟の鎮元(吉兼)は二の丸で防戦中に、それぞれ壮絶な討死を遂げた。そして、彼らに従った300余名の将兵もまた、一人残らず玉砕したのである 9

戦略的自己犠牲としての玉砕

戦闘の最中、あるいはその直前、星野兄弟に対して降伏を勧告する者がいたと伝えられる。しかし、鎮胤(吉実)はこれを毅然として拒絶した。「今、我々が降伏すれば、島津氏との約束に違うことになる。潔く義のために死ぬべきである」と述べ、討死する道を選んだという 5

この星野兄弟の玉砕は、単なる犬死にや、絶望の果ての自暴自棄な行動として片付けるべきではない。それは、複数の目的を内包した「戦略的な自己犠牲」であったと解釈することができる。

第一に、彼らは島津氏との「約」、すなわち主従関係における信義を貫くことで、武士としての「名誉」を守ろうとした。一度主と定めたからには、その主君が苦境に陥ったとしても見捨てることはしない。これは、戦国武士が最も重んじた価値観の一つであった。

第二に、彼らがこの地で玉砕することで、追撃してくる立花軍の足を止め、その勢いを削ぐという軍事的な目的があった。もし彼らが早々に降伏したり、敗走したりすれば、勢いに乗った立花軍は星野氏を追って、その本拠地である筑後星野谷まで侵攻した可能性が高い。そうなれば、領地は蹂躙され、領民は戦火に巻き込まれることになる。彼らは自らが犠牲の防波堤となることで、故郷への災禍の拡大を防ごうとしたのである 26

星野鎮胤(吉実)とその一族は、高鳥居城という死地において、自らの命と引き換えに、島津氏への「義」、武士としての「名誉」、そして自らの「家名」の存続と領民の「安寧」という、複数の目的を同時に果たそうとした。彼らの死は、戦国領主としての責任感と、武士としての死生観が凝縮された、壮絶かつ主体的な決断の帰結だったのである。

第六章:武士の義と死生観―「草城十五詠」の分析

星野鎮胤(吉実)とその主従が、高鳥居城でどのような思いを抱いて最期の時を迎えたのか。その内面世界を雄弁に物語る、類稀な史料が存在する。城の別名である「草城」の名を冠した、辞世の句群「草城十五詠」である 5 。これらは、死を目前にした武士たちが、和歌という洗練された文学形式を用いて遺した、自らの死生観と武士としての矜持の結晶である。

辞世に込められた武士の心

「草城十五詠」は、総大将である星野鎮胤(吉実)と弟の鎮元(吉兼)をはじめ、楠正礼、和田正恭といった主だった家臣15名によって詠まれた和歌で構成される。これらの歌には、共通していくつかのテーマが見出される。それは、自らの肉体の滅びという運命を受容しつつも、それと対比される形で、武士としての「名」や「操(みさお)」、すなわち信義や名誉が永劫に朽ちることのない価値を持つという強い信念である。

以下の表は、「草城十五詠」の中から、特に星野兄弟の心情を象徴する句と、家臣たちの典型的な句を抜粋し、分析したものである。

詠み人

和歌(原文)

読み下し文

現代語訳

分析・考察

星野中務大輔吉実

草城に心おく露ふみわけて消えゆく野辺の道しるべせむ

そうじょうに こころおくつゆ ふみわけて きえゆくのべの みちしるべせむ

この草城に心残りの露を踏み分けて、私がまず消えてゆく野辺の道案内をしよう。

総大将として家臣たちに先んじて死地へ赴くという、強いリーダーシップと覚悟を示す。儚い命を象徴する「露」と、先導者としての「道しるべ」の対比が印象的である。

星野民部少輔吉兼

草城のつゆと消えなむ身なれども心はほしのひかりとぞ思ふ

そうじょうの つゆときえなむ みなれども こころはほしの ひかりとぞおもう

この草城で露と消えてしまう我が身ではあるが、その心は一族の名である「星」のように、永遠に輝き続けると思う。

肉体の死(露)と、不滅の家名(星の光)を鮮やかに対比させている。自らの死を、一族の名誉を輝かせるための行為として肯定的に捉える、武士道的な死生観が色濃く表れている。

楠 河内守正礼

わが名こそ世に朽ちざらめ重ねゆく歳は千たびの秋を経ぬとも

わがなこそ よに朽ちざらめ かさねゆく としはちたびの あきをへぬとも

我が名だけは世に朽ちることがないだろう。たとえ、幾千年の歳月が過ぎ去ろうとも。

「名」の不朽性への絶対的な確信を詠んでいる。多くの家臣の句に共通するテーマであり、彼らが何のために死ぬのかを明確に示している。

清水宗治(参考)

浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して

うきよをば いまこそわたれ もののふの なをたかまつの こけにのこして

(本文なし)

備中高松城で同じく豊臣軍に包囲され、城兵の命と引き換えに自刃した清水宗治の辞世。自らの死によって「武士の名」を後世に残そうとする点で、星野主従の心情と強く共鳴する 42

これらの和歌から浮かび上がるのは、死を単なる生命の終わりとしてではなく、自らの生き様を完結させ、武士としての価値を証明するための最後の機会として捉える、極めて能動的な死生観である。彼らは、敗北という現実を受け入れながらも、その中で「義」を貫き「名誉」を守るという、精神的な勝利を確信していた。

「草城」という、草に覆われた儚げな城の名と、そこで詠まれた「露」や「枯れる」といった無常観を示す言葉。それとは対照的に、「朽ちじ」「千代」「光」といった永遠性を象徴する言葉が力強く響き合う。この対比構造こそが、「草城十五詠」の核心であり、滅びゆく肉体と、不滅の名誉という、戦国武士が抱えた二律背反の価値観を見事に表現している。星野鎮胤(吉実)とその家臣たちは、和歌という形で、自らの死を武士道における「滅びの美学」へと昇華させたのである。

終章:星野鎮胤(吉実)が遺したもの

天正14年(1586年)8月25日、高鳥居城の炎と共に、筑後の名族・星野氏は国人領主としての歴史に幕を閉じた 39 。軍事的には完全な敗北であった。しかし、星野鎮胤(吉実)の生涯と、その壮絶な最期が後世に遺したものは、単なる敗者の記録に留まらない。それは、敵将をも動かし、地名に記憶を刻み、そして何よりも一族の血脈を未来へと繋ぐ、無形の遺産であった。

敵将による顕彰と「吉塚」伝承

星野兄弟の、主君への義を貫き、最後まで勇猛に戦い抜いた姿は、敵将であった立花宗茂に深い感銘を与えた。武士が武士の「見事な死に様」を尊ぶのは、戦国の世の常であった。宗茂は、鎮胤(吉実)・鎮元(吉兼)兄弟の首を丁重に扱い、現在の福岡市博多区堅粕の地に手厚く葬ったと伝えられる 38

この塚は、兄・吉実の名から「吉実塚」と呼ばれ、やがてそれが転じて、現在の「吉塚」という地名の由来になったという伝承が、今なお地域に根強く残っている 26 。一人の武将の死が、数百年後の街の名として生き続けているという事実は、彼の最期がいかに人々の心を打ち、語り継がれるべき物語であったかを物語っている。敗者でありながら、その義勇は敵将によって顕彰され、土地の記憶として刻まれたのである。

血脈の存続という最大の成果

高鳥居城で玉砕する覚悟を決めた鎮胤(吉実)は、戦いに先立ち、一人の幼い息子を密かに城から脱出させ、筑後の本領へと帰したとされる 9 。この子、長虎丸こそが、鎮胤(吉実)が自らの命と引き換えにしてでも守りたかった、星野氏の未来そのものであった。

長虎丸はその後、敵対勢力であったはずの龍造寺政家に預けられ、庇護された。これもまた、鎮胤(吉実)の武士としての義理堅い最期が、敵方の武将たちの間でも評価され、その遺児を保護すべきだという共感を呼んだ結果かもしれない。成人した長虎丸は星野親(鎮)之と名乗り、龍造寺氏の跡を継いだ佐賀鍋島藩に仕官した。また、弟の熊虎丸も小城鍋島家に仕え、星野氏の血脈は、国人領主としては滅びながらも、近世を通じて武士の家系として存続することに成功したのである 33 。鎮胤(吉実)の「戦略的自己犠牲」は、一族の「家名」を存続させるという、最大の目的を達成したと言える。

歴史的評価―国人領主の典型として

星野鎮胤(吉実)の生涯は、戦国末期の九州において、巨大勢力の狭間で自立を模索し、翻弄され、そして滅んでいった国人領主の典型的な姿を、凝縮して映し出している。大友、龍造寺、島津という巨大な力の奔流の中で、彼が下した一つ一つの決断は、いずれも「家」の存続という一点に向けられていた。

彼は、戦いには敗れた。しかし、「義」を貫き「名誉」を守るという、武士としての精神的な戦いにおいては、勝利したと言えるのかもしれない。だからこそ、彼の死は単なる敗北として忘れ去られることなく、敵味方を超えて敬意を集め、その記憶と血脈は後世へと継承された。

星野鎮胤(吉実)の物語は、我々に問いかける。物理的な勝敗だけが歴史のすべてではない。いかに生き、そして、いかに死ぬか。その壮絶な最期をもって、戦国武士の本質的な価値観の一つを体現して見せた一人の領主の姿として、彼は歴史の中に確かな光を放ち続けているのである。

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