最終更新日 2025-06-15

春日元忠

「春日元忠」の画像

直江被官の棟梁、春日元忠の実像:武田から上杉へ、戦場と藩政を駆け抜けた生涯

序論:再評価されるべき武将、春日元忠

春日元忠は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将である。一般的には、上杉景勝の家老・直江兼続の腹心として、「直江被官の棟梁」と称された人物として知られている 1 。しかし、この評価は彼の多岐にわたる生涯の一側面に過ぎない。彼の出自は甲斐武田氏にあり、武田家滅亡という激動を経て上杉家に仕官。そこでは軍事指揮官として、また行政官として、主君・上杉景勝と宰相・直江兼続を支え続けた。さらに、日本軍学史上の最重要史料の一つである『甲陽軍鑑』の成立に深く関与した可能性も指摘されている。

本報告書は、春日元忠の生涯を、その出自、武田家臣時代、上杉家における軍事・行政両面での活躍、そして『甲陽軍鑑』との関わりという複数の視点から徹底的に掘り下げ、その実像に迫ることを目的とする。なぜ彼は、上杉家の譜代家臣ではないにもかかわらず、直江兼続という稀代の宰相から絶大な信頼を寄せられ、藩政の中枢を担うに至ったのか。この問いを解き明かすことは、上杉家の家臣団編成や統治体制、ひいては戦国から江戸初期への移行期における武士の生き様を考察する上で、極めて重要な意味を持つ。

まず、彼の生涯の軌跡を概観するため、以下の略年表を提示する。

表1:春日元忠 略年表

年代(西暦)

元忠の動向・役職

主要な歴史的出来事

生年不詳(1559年説あり 4

春日惣二郎(元忠)として生まれる。本姓は滋野氏 2 。叔父は高坂昌信(春日虎綱) 4

-

天正年間初期

武田勝頼に仕える 1

-

天正10年(1582年)

武田家滅亡。越後に逃れ、上杉景勝に仕官する 1

本能寺の変、天正壬午の乱

天正12年(1584年)

信濃国青柳城代に就任 1

小牧・長久手の戦い

天正18年(1590年)

青柳城の引き渡しを巡り、豊臣政権の上使と対立 7

豊臣秀吉による小田原征伐

天正19年(1591年)

越後国村上城代に就任。大国実頼の代官を務める 8 。一揆の残党を鎮圧 1

豊臣秀吉、天下統一を完成

慶長3年(1598年)

上杉家の会津移封に伴い、出羽国高畠城代に就任(知行4,000石) 1

豊臣秀吉死去

慶長5年(1600年)

慶長出羽合戦に従軍。長谷堂城の戦いで最上軍の夜襲を受け敗北 1

関ヶ原の戦い

慶長6年(1601年)

上杉家の米沢30万石への減転封に従う。米沢藩の執事、奉行、郡代に就任 2

-

慶長13年(1608年)

死去 1 。後任に平林正恒を推挙したと伝わる 1

-

第一章:出自と武田家臣時代 ― 春日惣次郎としての前半生

春日元忠の生涯を理解する上で、彼が上杉家に仕える以前の経歴、すなわち武田家臣としての前半生は極めて重要である。彼の本姓は滋野氏であり、通称として与十郎、右衛門尉を用いた記録が残っている 1 。また、武田家臣時代や後述する『甲陽軍鑑』の記述においては、「春日惣二郎(惣次郎)」という名で登場する 4 。生年は定かではないが、一部の史料では永禄2年(1559年)生まれとされている 4

彼の出自で特筆すべきは、その一族背景である。元忠の父は春日又八郎助宣、そして叔父は武田四天王の一人に数えられる高坂弾正昌信、本名を春日虎綱であった 4 。高坂昌信は、武田信玄の寵臣として海津城代などを務め、「逃げ弾正」の異名を取るほどの優れた戦略眼を持つ武将であり、武田家の譜代家老衆として重きをなした人物である 15

この事実は、元忠が単なる「武田家の元家臣」という出自以上の、特別な背景を持っていたことを示唆している。彼は武田家臣団の中でも中枢に近いエリート層の出身であり、幼少期から武田流の軍学、統治術、そして家臣団の力学を間近で見聞きしながら育った可能性が極めて高い。彼の後年の行政官としての卓越した手腕や、直江兼続から寄せられた深い信頼の源流は、この「武田エリート」としての環境に求めることができる。

元忠は、武田信玄の後を継いだ勝頼の代に仕え 1 、天正10年(1582年)に織田・徳川連合軍の侵攻によって武田家が滅亡するまで、その家臣として活動した。主家の滅亡という悲劇は、彼の人生の大きな転換点となった。

第二章:『甲陽軍鑑』との関わり ― 記録者としての元忠

春日元忠の人物像に深みを与えるもう一つの重要な側面が、日本を代表する軍学書『甲陽軍鑑』との関わりである。

『甲陽軍鑑』の跋文などによれば、この書は高坂昌信が武田家の将来を憂い、その治績や軍法を後世に伝えるために口述したものを、甥である春日惣次郎(元忠)と家臣の大蔵彦十郎が筆録し、昌信の死後は惣次郎が書き継いだとされている 4 。この記述が事実であれば、元忠は単なる武人ではなく、武田家の歴史と軍学の精髄を記録し、後世に伝えようとする強い意志を持った知識人としての一面を持っていたことになる。

しかし、『甲陽軍鑑』の史料的価値については、長年にわたり大きな論争が存在した。江戸時代を通じて武士の教本として広く読まれたものの、明治時代に入ると歴史学者の田中義成が、史実との矛盾点が多いことを理由に「小幡景憲による偽書」であると断じた 22 。この「偽書説」は学界で長く定説とされ、それに伴い、書き手とされる春日惣次郎の役割や、同書にのみ登場する山本勘助などの人物の実在性までもが疑われることとなった 23

この評価が大きく転換したのは、昭和後期から平成にかけての研究の進展によるものである。特に国語学者の酒井憲二による網羅的な写本・版本研究の集大成である『甲陽軍鑑大成』 19 や、歴史学者の黒田日出男による史料論的研究 14 は、その価値を劇的に再評価するものであった。これらの研究は、『甲陽軍鑑』が江戸初期の人物には到底書くことのできない室町末期の古語を多用していること、そして記述内容も厳密な史料批判を経れば、同時代の一級史料として十分に活用できることを明らかにした 19

『甲陽軍鑑』の再評価は、その書き手とされる春日惣次郎、すなわち春日元忠の人物像にも新たな光を当てる。彼が武田家滅亡という苦境の中にあっても、主家の歴史と教訓を記録し続けたという記述の信憑性が高まったのである 14

この『甲陽軍鑑』の記録者という側面は、後に直江兼続が元忠を重用した理由を解き明かす鍵となる。御館の乱という内乱を経て、上杉謙信時代とは異なる新たな統治体制の構築を迫られていた上杉景勝と兼続にとって、戦国最強と謳われた武田家の統治システム、軍法、家臣団統制のノウハウを体系的に記録し、深く理解している人物は、計り知れない価値を持つ「生きた経営書」そのものであった。元忠は、単に武勇や忠誠心で仕えたのではなく、武田の統治思想という高度な「知的財産」を上杉家にもたらしたのである。彼の登用は、単なる武将のリクルートではなく、高度な専門知識を持つ技術者をヘッドハンティングする行為に近かったと言えよう。

第三章:上杉家への仕官と「直江被官の棟梁」への道

天正10年(1582年)、主家である武田家が滅亡すると、春日元忠は多くの武田遺臣と同様に新たな道を模索することになる。彼は越後国へ逃れ、上杉景勝に仕官した 1 。当時、甲斐・信濃の旧武田領を巡って徳川・北条・上杉が争う「天正壬午の乱」 30 の混乱の中、上杉家は武田旧臣を積極的に受け入れており 31 、元忠もその一人として迎えられた。

上杉家に仕官した元忠は、若き家老・直江兼続の配下となり、その側近として急速に頭角を現していく 1 。兼続は、出自や家柄にこだわらず能力本位で人材を登用することで知られており 33 、武田家で培われた元忠の実務能力や、前章で述べたような武田流の統治思想に対する深い知見を高く評価したと考えられる。

元忠は兼続から絶大な信頼を勝ち取り、やがて「直江氏被官の棟梁」、すなわち直江兼続の私的な家臣団の筆頭、と称されるほどの地位を確立するに至った 1 。この呼称は、彼が兼続直属の家臣たち、特に元忠と同じく他家から移ってきた者たちを束ねるリーダー的な存在であったことを明確に示している。

この背景には、当時の上杉家臣団の内部事情があったと推察される。上杉家には、謙信以来の国人領主層である譜代家臣(揚北衆など)と、景勝・兼続体制下で新たに登用された家臣(武田・北条旧臣など)との間に、潜在的な力学が存在した。兼続は、自身の改革を強力に推進するため、旧来のしがらみが少ない外部人材を積極的に重用した 11 。元忠は、この「新興勢力」とも言うべき武田旧臣グループの筆頭格であった。彼が「直江被官の棟梁」と呼ばれたのは、単に兼続個人の家臣のトップという意味合いに留まらず、上杉家全体の家臣団の中で、兼続の政策を支える中核派閥「武田旧臣派」のリーダーとしての役割を期待されていたからに他ならない。これは、兼続が家臣団内に自身の改革を推進するための強固な権力基盤を築く上での、巧みな人事戦略の一環であったと考えられる。

第四章:豊臣政権下における城代としての活躍

上杉家に仕えた春日元忠は、直江兼続の信頼のもと、領国経営の要となる各地の城代を歴任し、その実務能力を遺憾なく発揮した。彼の城代としての経歴は、上杉家の領国支配の変遷と密接に連動している。

表2:春日元忠の城代歴と知行高の変遷

城名

就任時期

知行高

主な職務・出来事

青柳城

信濃国

天正12年(1584年) 1

不明

対徳川・北条の防衛拠点。豊臣政権への城地引き渡し問題が発生 7

村上城

越後国

天正19年(1591年) 1

不明

大国実頼の代官として統治。一揆残党の鎮圧 1

高畠城

出羽国

慶長3年(1598年) 1

4,000石 10

会津移封に伴う就任。対伊達・最上氏の最前線拠点 10

信濃青柳城代

天正12年(1584年)、元忠は信濃国青柳城の城代に任命された 1 。この城は、上杉領と徳川・北条領の境界に位置する重要な拠点であった。彼の城代としての手腕が試される最初の大きな出来事は、天正18年(1590年)に起こる。豊臣秀吉による小田原征伐後、徳川家康が関東へ移封されるのに伴い、青柳城を含む信濃の諸城を秀吉の上使に引き渡すよう命じられた。しかし元忠は、松本大炊助らと共に「これらの城はもともと上杉の属城である」と主張し、軍勢を入れて引き渡しを拒否するという重大事件を引き起こした 7 。これは、天下統一を成し遂げた秀吉の「惣無事令」、すなわち私闘を禁じ領土の裁定権を天下人に集中させるという新秩序に真っ向から挑戦する危険な行動であった。この事件は、土地の領有権は実力と旧来の経緯で決まるという「戦国的論理」と、全ての領土の裁定権は天下人にあるという「統一政権の論理」が正面から衝突した象徴的な出来事であった。元忠の行動は、新しい秩序への無理解というよりは、主家である上杉家の利益を最大化しようとする戦国武将としての忠誠心と矜持の表れであった。最終的にこの問題は、直江兼続の政治交渉力もあってか、元忠らが処罰されることなく赦免という形で決着したと見られている 7

越後村上城代

天正18年(1590年)に越後の国人領主・本庄繁長が改易されると、その居城であった村上城は直江兼続の実弟・大国実頼の所領となった。しかし、実頼は在京していることが多かったため、春日元忠が城代として現地に派遣され、実質的な統治を担った 8 。彼は大国実頼の権威を背景に、単独で黒印状を発給するなど、強力な権限を行使して領内を支配した 38 。天正19年(1591年)には、領内で蜂起した一揆の残党を成功裏に鎮圧するなど、武力と行政手腕の両面で功績を挙げ、兼続の信頼に違わぬ働きを見せた 1

出羽高畠城代

慶長3年(1598年)、上杉家は豊臣秀吉の命により、越後から会津120万石へと大移封される。この国替えに伴い、元忠は出羽国置賜郡の高畠城代に任命され、4,000石の知行を与えられた 1 。高畠城は、会津領の北方に位置し、隣接する伊達政宗や最上義光といった有力大名に対する抑えとして、軍事的に極めて重要な拠点であった 10 。元忠がこの最前線の城代に抜擢されたことは、彼が上杉家中で屈指の信頼と実力を有する武将と見なされていたことの証左である。

第五章:慶長出羽合戦 ― 長谷堂城の戦いにおける苦杯

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、その戦いは全国に波及した。徳川家康に敵対する西軍に与した上杉景勝は、家老の直江兼続を総大将として、東軍についた最上義光の領国である出羽国へと侵攻を開始した。この「慶長出羽合戦」において、春日元忠は主要な指揮官の一人として参陣する 44

9月8日、元忠は上泉泰綱らと共に先発隊として米沢城を出陣した 46 。上杉軍本隊は、最上氏の諸城を次々と攻略し、最上氏の居城・山形城に迫った。その攻略の鍵となる最重要拠点・長谷堂城に対し、兼続は城の北方にある菅沢山に本陣を構え、総攻撃の態勢を整えた 12 。元忠の部隊も、この菅沢山の麓に布陣した 12

しかし、長谷堂城主・志村光安は、わずか1,000名ほどの兵で2万を超える上杉軍を相手に、決死の覚悟で抵抗を続けた 48 。そして9月16日の夜、光安は自ら決死隊を率いて、闇夜に乗じて菅沢山の麓に布陣する春日元忠の陣に夜襲を敢行した 12 。この予期せぬ奇襲攻撃により元忠の部隊は大きな混乱に陥り、同士討ちが発生するほどの損害を被ったと記録されている 13 。一部の史料ではこの敗北を「惨敗」と記しており 1 、元忠の軍歴における最大の苦杯となった。

この夜襲による敗北は、上杉軍全体の攻勢が停滞する一因となった。上杉軍はその後も長谷堂城を攻めあぐね、そうしているうちに関ヶ原における西軍本隊の敗北という凶報が届く 12 。これにより、兼続は全軍に撤退を命令。この撤退戦は「直江の退き口」として後世に語り継がれる見事なものであったが、長谷堂城の攻略は完全に失敗に終わった 12

元忠の敗戦を、彼個人の指揮能力の欠如や油断と断じるのは早計であろう。むしろ、2万を超える大軍を擁しながら、一つの支城の攻略に2週間以上も足止めされた上杉軍全体の戦略に問題があった可能性を考慮すべきである。力押しで落とせるとの楽観や、攻城戦術の硬直性が、志村光安ら最上軍の巧みな防衛戦術に綻びを突かれる結果を招いた。元忠の部隊が夜襲の標的とされたのは、彼が先鋒として最も危険な位置にいたからに他ならず、彼の敗北は、上杉軍全体の作戦計画の非効率性が生んだ具体的な損害の一つと見るのが、より公平な評価と言える。

第六章:米沢藩初期の執政 ― 藩政の礎を築く

慶長出羽合戦、そして関ヶ原の戦いにおける西軍の敗北により、上杉家は大きな転機を迎える。慶長6年(1601年)、徳川家康の命により、上杉家は会津120万石から出羽米沢30万石へと、実に4分の1の規模にまで所領を削減された 7

この未曾有の危機的状況の中、春日元忠は藩政の中枢でその手腕を発揮することになる。彼は米沢移封後、執事、奉行、そして郡代を兼任し、直江兼続の右腕として米沢藩の創成期における実務を統括した 1 。彼の任務は、郷村支配を始めとする藩政全般に及び 2 、120万石時代の膨大な家臣団の再編と知行の再配分、新たな城下の整備、そして破綻寸前の財政の立て直しなど、困難を極める課題に直面した兼続の統治、いわゆる「直江体制」を実務面から支えるまさに中核的存在であった 10

この米沢藩初期の藩政において、元忠と同じく武田旧臣である平林正恒の存在も重要である。平林も武田信玄・勝頼に仕えた後、上杉家に仕官した人物で、会津時代には白河小峰城代などを務め、米沢移封後は元忠と共に藩政を担っていた 10 。そして、元忠が死去すると、その後任の執事にはこの平林正恒が就任した 2 。元忠自身が死に際して平林を後継者として強く推挙したと伝えられている 1

米沢藩の初代と二代目の執政(藩政の最高責任者)が、春日元忠と平林正恒という、いずれも武田家出身者で占められたという事実は極めて示唆に富む。上杉家は急激な減封という危機に際し、旧来のやり方では立ち行かないことを兼続は痛感していた。そこで、より合理的で先進的な統治システムを導入する必要に迫られた。そのモデルとなったのが、組織的な領国経営で戦国最強と謳われた武田家の統治手法であったと考えられる。元忠や平林は、武田家で培った高度な行政手腕、特に検地や郷村支配のノウハウを米沢藩に持ち込んだ。彼らの登用は、兼続による意図的な「経営改革」の一環であり、彼らは武田家の成功体験と専門知識を米沢藩に「移植」する、いわばチーフエンジニアのような役割を担ったのである。元忠が後継に同郷の平林を指名したことは、この「武田流」統治体制を藩に根付かせ、継続させようという強い意志の表れと解釈できよう。米沢藩の藩政の礎は、上杉伝統の「義」の精神と、武田流の合理的な「知」とが融合した、ハイブリッドな統治思想の上に築かれたのである。

第七章:死と後世への影響

米沢藩の基礎固めに尽力した春日元忠は、慶長13年(1608年)にその生涯を閉じた 1 。死に際して、後任の執事として同郷の平林正恒を推挙したという逸話は、彼の私心なき忠誠心と、藩の将来を最後まで案じる責任感、そして人物を見抜く確かな眼を持っていたことを物語っている 1

彼の墓所の所在地を明確に示す直接的な史料は、現在のところ確認されていない。上杉家の菩提寺である米沢の林泉寺には、上杉家および多くの家臣団の墓所が存在するが 52 、そこに元忠の名を見出すことはできない。また、多くの戦国武将が墓所を設けた高野山 53 にも、その痕跡は確認されていない。

しかし、彼の活動の記憶は、彼が城代を務めた地に残されている。山形県高畠町には、慶長出羽合戦の緒戦において一番槍の功名を挙げたとされる元忠の家臣・静田彦兵衛の名にちなんだ「静田橋」という地名が今も伝わっており 55 、地域史の中にその名が刻まれている。

元忠の子孫については、断片的ながらその存在を示唆する史料がある。秋田県公文書館が所蔵する系図史料の中に、「春日元忠―元久―元定―元苗―元晴」という系譜が記されており、彼の家系が後代まで続いていた可能性を示している 56 。この系図の信憑性についてはさらなる検証を要するが、彼の血脈を追う上で貴重な手がかりである。また、上杉家の会津時代の分限帳には、「本庄衆」の一人として「春日与十郎 続忠」という1,000石取りの武将の名が見えるが 11 、元忠との直接的な関係は不明である。

春日元忠は、武田家臣として培った軍事・行政の能力を、主家滅亡後、新天地である上杉家で最大限に発揮した稀有な人物であった。彼は単なる忠実な家臣に留まらず、直江兼続の理想とした藩政改革を実務面から支え、米沢藩の礎を築いた有能なテクノクラート(技術官僚)であったと言える。さらに、『甲陽軍鑑』の継承者とされる側面は、彼が武田の遺産を後世に伝えようとした知識人であった可能性を示唆し、その人物像に比類なき深みを与えている。「直江被官の棟梁」という呼称は、彼の武勇、行政手腕、そして兼続からの絶大な信頼の全てを凝縮した、最も的確な評価と言えよう。

結論

春日元忠の生涯を多角的に検証した結果、彼は一般に知られる「直江兼続の忠実な側近」というイメージを遥かに超える、複雑かつ重要な役割を担った人物であったことが明らかになった。

第一に、彼は武田家のエリート層の出身であり、戦国最強とされた武田流の軍学と統治術を深く体得していた。この知的背景こそが、彼が上杉家で重用された最大の要因であった。

第二に、彼は軍事と行政の両面で卓越した能力を発揮した。信濃青柳城や越後村上城の城代として領国経営の最前線に立ち、豊臣政権との緊張関係や一揆の鎮圧といった難局を乗り越えた。その一方で、慶長出羽合戦における敗戦は、彼の軍歴における試練であったが、それは上杉軍全体の戦略的課題を映す鏡でもあった。

第三に、彼は米沢藩創成期の「設計者」の一人であった。上杉家が存亡の危機に瀕した際、彼は執政として直江兼続を支え、武田家で培った先進的な統治ノウハウを米沢藩に移植することで、その藩政の基礎を築いた。彼の存在なくして、米沢藩の初期の安定はなかったかもしれない。

第四に、『甲陽軍鑑』の書き継ぎ手とされる彼の姿は、単なる武人ではなく、歴史と教訓を後世に伝えようとする知識人としての一面を浮き彫りにする。

結論として、春日元忠は、武田の「知」を上杉の「義」に融合させ、戦国の終焉と近世の黎明という時代の大きな転換点において、新たな藩国家を築いた「架け橋」のような存在であった。彼の生涯を追うことは、武田遺臣の動向、上杉家の統治体制の変遷、そして大名家臣団の再編という、より大きな歴史的文脈を理解する上で不可欠である。その多面的な功績は、単なる「側近」という言葉では到底語り尽くせないものであり、戦国史においてより一層の再評価がなされるべき武将である。

引用文献

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  35. 中小企業診断士 https://member.shindanshi-osaka.com/wp/wp-content/uploads/sites/2/2024/01/5d9e156132501114a4699d6ba7190b8b-1.pdf
  36. 直江兼続 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E5%85%BC%E7%B6%9A
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  39. 第2章 村上市の維持向上すべき歴史的風致 https://www.city.murakami.lg.jp/uploaded/attachment/24308.pdf
  40. 越後国瀬波郡絵図の基礎的研究Ⅰ - 鶴見大学 https://tsurumi-u.repo.nii.ac.jp/record/211/files/55_4_06.pdf
  41. 古城の歴史 村上城 https://takayama.tonosama.jp/html/murakami.html
  42. 史跡村上城跡 保存活用計画 https://www.city.murakami.lg.jp/uploaded/attachment/48363.pdf
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  44. 慶長出羽合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%90%88%E6%88%A6
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  48. 長谷堂城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/yamagata/hasedou/hasedou.html
  49. 『羽前米沢 秀吉期には 120万石を領する五大老で関ヶ原合戦後 30万石に大減封されるも家康が最も恐れた最強の武将上杉景勝居城『米沢城』訪問』 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/10925273
  50. 米沢藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E6%B2%A2%E8%97%A9
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  53. 羅細慈尊院中橋家文書目録 https://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/46-k1.pdf
  54. 石田三成- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90
  55. 伊達政宗特集|まほろばの里たかはた 歴史探訪 - 高畠町観光協会 https://takahata.info/date_history/
  56. 系 図 目録 H - 秋田県 https://www.pref.akita.lg.jp/uploads/public/archive_0000000413_00/005keizumokuroku2.pdf