最上義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけて、出羽国(現在の山形県および秋田県の一部)にその名を轟かせた大名である 1 。天文15年(1546年)に出羽国山形城で生を受け、慶長19年(1614年)に69年の生涯を閉じた 2 。彼は、清和源氏の名門・斯波氏の流れを汲む最上氏の第11代当主であり、後に出羽山形藩の初代藩主として、その治世と業績は現在の山形県の発展に大きな影響を与えた 1 。
義光が生きた戦国時代は、室町幕府の権威が失墜し、日本各地で群雄が割拠した動乱の時代であった。出羽国も例外ではなく、多くの国人領主が勢力を争う中、最上家は当初、隣接する強大な伊達氏の圧力を受け、一時はその影響下に置かれていた。しかし、伊達家内部の相続争いである天文の乱(1542年-1548年)に乗じ、最上家は独立性を回復し、徐々に勢力を拡大していく土壌を築いた 4 。
本報告書は、最上義光という一人の武将の生涯を多角的に検証することを目的とする。彼の出自と台頭、関ヶ原の戦いにおける活躍、そして出羽国57万石の大大名としての領国経営、さらには彼の複雑な人物像、主要人物との関係、最上家の改易とその後の歴史的評価の変遷に至るまで、提供された資料に基づき、その実像に迫るものである。
最上義光は、天文15年(1546年)1月、最上家第10代当主・最上義守の嫡男として、出羽国山形城(現在の山形市霞城町、霞城公園)で誕生した 1 。幼名は白寿丸と伝えられる 1 。その家系は清和源氏を祖とし、室町幕府将軍家である足利氏の一門、斯波氏の支族にあたる 2 。最上家は代々、幕府より出羽国の統括を担う羽州探題に任じられる名門であったが、義光が生まれた当時はその勢力も衰退し、伊達氏の圧迫を受けるなど、厳しい状況に置かれていた 4 。この名門意識と、かつての栄光を取り戻そうとする意志が、後の義光の羽州探題職再興への執念に繋がった可能性は否定できない。母は小野少将の娘であった 1 。
永禄3年(1560年)、義光は15歳で元服し、時の将軍・足利義輝より偏諱(「義」の字)を賜り、「義光」と名乗った 1 。将軍からの偏諱は、中央の権威との繋がりを示すものであり、最上家の格式を維持しようとする意志の表れと見ることができる。同年3月、義光は寒河江城攻めで初陣を飾るが、この戦いは失敗に終わり、父・義守が進めてきた領土拡張政策は頓挫を余儀なくされた 1 。
家督相続に至る過程は、必ずしも平坦ではなかった。元亀元年(1570年)頃、父・義守との間に諍いが生じたことが記録されている 1 。この父子の対立は、病床にあった重臣・氏家定直の仲裁によって和解に至った。この事実は、最上家内部における潜在的な緊張関係と、家臣団が当主間の調停に乗り出すほどの影響力を持っていたことを示唆している。従来、義守が義光を廃嫡し、次男・義時に家督を継がせようとしたことが不和の原因とされてきたが、一級史料に義時の名は見られないため、この説は義時の存在も含めて後世の創作と見なされている 5 。しかし、深刻な「諍い」が存在したこと自体が、義光の家督相続への道が盤石でなかったことを物語っている。このような家臣の介在による内部紛争の解決は、後の最上騒動における家臣団の動向を考える上で、一つの伏線となり得る。元亀2年(1571年)8月、義守が出家して栄林と号し、義光が家督を相続した 1 。
義光は、若年の頃よりその武勇に優れた逸話を数多く残している。身長は六尺(約180センチメートル)を超す長身で、並外れた膂力の持ち主であったと伝えられる 1 。その一例として、蔵王温泉(現在の山形県山形市)に現存する「義光公の力石」は、義光が16歳の折、家臣との力比べで約190キログラムの大石を軽々と持ち上げて驚かせたという伝説を今に伝える 1 。
また同年、父と共に湯治に訪れた蔵王温泉で、数十人の盗賊に襲撃された際には、率先して防戦にあたり、盗賊2名に重傷を負わせ、1人を刺殺したという。この時、顔に複数の傷を負ったものの、その武勇を父・義守に賞され、家宝の名刀「笹切」(伝貞宗)を授けられた義光は、感動のあまり言葉もなく涙したと記されている 1 。これらの逸話は、義光が単なる大名の嫡子ではなく、卓越した武人としての資質を早くから備えていたことを示しており、後の「驍将」としての評価を形成する素地となった。
家督を相続した義光は、内政を固めるとともに、積極的な領土拡大策に乗り出す。天童氏、上山氏、白鳥氏、そしてかつて初陣で苦杯を喫した寒河江氏などを次々と攻略し、最上郡全域をその支配下に収めた 1 。さらに庄内地方においては、大宝寺氏を内応によって滅ぼし、仙北地方の小野寺氏とも激しい戦いを繰り広げた 1 。
義光の領土拡大戦略は、単なる武力行使に留まらなかった。天正12年(1584年)の白鳥長久謀殺 5 や、小野寺義道の重臣・八柏道為を偽書によって陥れ自滅させた計略 5 など、謀略を駆使した側面も顕著である。また、重臣・氏家守棟は、1580年代の諸勢力との戦いにおいて、敵方に内通者を作り寝返らせる調略で次々と勝利をもたらしたとされ、最上家の勢力拡大に大きく貢献した 7 。このように、義光は早くから武力と謀略を巧みに使い分けることで領国を拡大していった。この二面性こそが、後に「羽州の狐」と称される所以であり、最上家の急速な、しかし時には不安定さを伴う勢力拡大の原動力となったのである。
表1:最上義光 略年譜(主要事項抜粋)
年代(和暦) |
西暦 |
年齢 |
主要な出来事 |
典拠 |
天文15年1月1日 |
1546 |
1 |
出羽国山形城にて最上義守の嫡男として誕生。幼名、白寿丸。 |
1 |
永禄3年 |
1560 |
15 |
元服。将軍足利義輝より偏諱を受け義光と名乗る。寒河江城攻めにて初陣(失敗)。 |
1 |
永禄4年頃 |
1561 |
16 |
蔵王温泉にて盗賊を撃退、父より名刀「笹切」を授かる。 |
1 |
元亀元年頃 |
1570 |
25 |
父・義守と不和になるが、氏家定直の仲裁で和解。 |
1 |
元亀2年8月 |
1571 |
26 |
父・義守の出家に伴い家督を相続し、最上氏第11代当主となる。 |
1 |
天正年間初期~中期 |
- |
- |
天童氏、上山氏、白鳥氏、寒河江氏などを攻略し最上郡を統一。庄内、仙北へも進出。 |
1 |
中央で織田信長に代わり豊臣秀吉が天下統一を進める中、義光もまた、この新たな時代の潮流に対応していく。天正16年(1588年)、義光は秀吉によって羽州探題に任命された 1 。これは、かつて室町幕府から与えられていた名誉ある職であり、最上家にとっては悲願の再興であった 8 。この任命は、奥羽地方における義光の地位を形式的に高めるものであった。
天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐が始まると、義光はこれに参陣し、戦後、本領である出羽国24万石の所領を安堵された 1 。これは、秀吉の天下統一事業への参加が戦国大名としての存続に不可欠であり、領土の公的な承認を得るという重要な意味合いを持っていた。さらに、秀吉からは「羽柴出羽侍従」の称号を与えられ、豊臣政権下における有力大名の一人として位置づけられた 10 。
豊臣政権下での義光の立場は、文禄4年(1595年)に起きた悲劇によって大きく揺らぐことになる。義光の愛娘であった駒姫は、「東国一の美少女」と噂され 11 、秀吉の甥であり関白であった豊臣秀次の側室候補として、わずか11歳(あるいは15歳とも)で京に送られた 1 。しかし、間もなく秀次が謀反の疑いをかけられて失脚し自害すると、駒姫もこれに連座し、京都三条河原で処刑されるという非業の死を遂げた 1 。
義光は、徳川家康にも取りなしを依頼するなど、必死の助命嘆願を行ったが、その願いは聞き入れられなかった 5 。この事件は、義光にとって計り知れない衝撃と悲嘆をもたらした。妻である大崎殿は、娘の横死に心身を消耗し、間もなく後を追うように亡くなったと伝えられる 8 。駒姫の死は、義光の豊臣政権に対する忠誠心に大きな影を落とし、その後の彼の政治的立場に決定的な影響を与えたと考えられる。この個人的な悲劇が、義光を徳川家康へと傾倒させる大きな要因となったのである。事実、この事件以降、義光は家康との関係を深めていき 1 、慶長元年(1596年)の慶長伏見地震の際には、秀吉ではなく家康の護衛に駆けつけたとされる 5 。この行動の変化は、駒姫の死を契機とした義光の心境の変化と、来るべき政局の変動を見据えた彼の政治的判断を示すものと言えよう。
慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死後、豊臣政権内部では徳川家康と石田三成を中心とする対立が急速に表面化する。義光は、駒姫の一件もあり、早くから家康に接近していた 1 。一方、会津には上杉景勝が120万石で移封され、最上領は南と西から上杉領に挟撃される形となり、軍事的緊張が高まっていた 13 。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、義光は迷わず東軍(徳川方)に与した。これに対し、上杉景勝は西軍(石田方)に属し、出羽国において最上領への大規模な侵攻を開始した。これが「北の関ヶ原」とも称される慶長出羽合戦である 1 。
上杉軍の総大将は、景勝の重臣・直江兼続であり、その兵力は2万5千から3万にも及んだとされる 4 。対する最上軍は、多く見積もっても7千から1万弱であり、兵力において圧倒的に不利な状況であった 9 。義光は、この危機的状況に対し、主要な城郭に兵力を集中させる籠城策で対抗した 8 。
上杉軍はまず、最上領南部の拠点であった畑谷城を攻撃し、城将・江口光清以下500の城兵は玉砕した 13 。続いて、上杉軍の主力は山形城の西約8キロメートルに位置する長谷堂城に殺到した 1 。長谷堂城は山形城防衛の最後の砦であり、ここが陥落すれば山形城も戦場と化す戦略的要衝であった 15 。城主・志村光安(伊豆守)を中心とする最上軍は、義光自らも山形城から出陣して後詰を行うなど、必死の防戦を展開した。この時、義光は甥である伊達政宗にも援軍を要請し、政宗は留守政景を将とする援軍を派遣したが、その動きは積極的ではなかったとも伝えられる 5 。
長谷堂城を巡る攻防は十数日に及び、上杉軍の猛攻を最上軍はよく凌いだ。9月29日、関ヶ原の本戦において西軍が敗北したとの報が長谷堂の陣中にもたらされると、戦局は一変する 14 。士気の上がった最上軍に対し、直江兼続はそれ以上の戦闘継続を断念し、会津への撤退を開始した。最上軍はこれを追撃し、上杉軍に大きな損害を与えた 13 。この一連の戦いにおける双方の死傷者数については諸説あるが、最上側の記録では最上軍の戦死者623名に対し、上杉軍は1580名、上杉側の記録では敵の戦死者2100余りとされている 13 。義光の兜には、この戦いで受けた銃弾の痕が残っていると伝えられ、その激戦の様相を物語っている 14 。
慶長出羽合戦は、関ヶ原の戦いと並行して行われた地方戦ではあったが、その戦略的意義は極めて大きかった。義光が寡兵をもって上杉景勝の大軍を釘付けにし、その南下を阻止したことは、家康率いる東軍本隊の勝利に間接的に貢献したと言える 9 。もし上杉軍が早期に最上領を制圧していれば、関ヶ原の戦局にも影響を与えた可能性は否定できない。義光の戦略的忍耐と軍事的指導力、そして何よりも関ヶ原の本戦における東軍勝利という外的要因が、この「北の関ヶ原」の帰趨を決したのである。
戦後、徳川家康は義光の功績を高く評価し、旧上杉領であった庄内地方などを加増、最上家の石高は一挙に57万石に達した 1 。これは、徳川家・豊臣家を除けば全国で第5位に相当する大領であり 2 、最上家は名実ともに奥羽の雄としての地位を確立した。義光にとって、この戦いはまさに一世一代の賭けであり、それは見事に成功を収めたのであった。
表2:慶長出羽合戦 主要参戦武将と推定兵力
軍勢 |
主要指揮官 |
推定兵力 |
典拠 |
東軍 |
最上義光 |
約7,000~10,000 |
9 |
|
└ 志村光安(長谷堂城守将) |
(長谷堂城兵1,000) |
8 |
|
伊達政宗(援軍指揮:留守政景) |
約3,000 |
13 |
西軍 |
上杉景勝 |
約25,000~30,000 |
4 |
|
└ 直江兼続(総大将) |
- |
13 |
|
└ 江口光清(畑谷城守将、戦死) |
(畑谷城兵500) |
13 |
関ヶ原の戦いを経て57万石の大大名となった最上義光は、その広大な領国の経営にも卓越した手腕を発揮した。彼の施策は、城郭・城下町の整備、治水・交通網の整備、産業振興、そして文化政策と多岐にわたり、現在の山形県の礎を築いたと言える。
義光は、本拠である山形城(現在の霞城公園 2 )の大規模な拡張工事に着手した。慶長年間に行われたこの改修により、三重の堀を持つ広大な三の丸が構築され、家臣団の屋敷が配置された 1 。その規模は姫路城をも凌ぐとされ、全国でも有数の平城となった 19 。近年の発掘調査では、金箔瓦や魚の形をした鯱瓦などが多数出土しており、当時の山形城が壮麗な多層構造の建物群を有していたことが窺える 19 。
城郭の整備と並行して、義光は城下町の建設にも力を注いだ。商人町では地子銭や年貢を免除し、間口4間半から5間、奥行30間を基本とする区画を与えるなどして商業の発展を促した 5 。また、羽州街道や笹谷街道といった主要街道沿いには定期市を開設し、物流の拠点とした 5 。職人町は「御免町」として諸役が免除され、中には家臣並みの待遇を受ける者もいたという 5 。義光の時代、山形城下は町数31、町屋敷2,319軒を数え、その人口は家臣団を含めると3万人を超えたと記録されており 5 、現在の山形市の都市としての原型はこの時に形成されたと言える 22 。このような都市計画は、単に防御施設としての城を強化するだけでなく、広大な領国を統治するための政治・経済の中心地を創出し、藩の安定と繁栄を目指すものであった。充実した城下町は、領国経営に必要な人材や物資を集積させ、義光の権力基盤を強化する上で不可欠な要素だったのである。
義光は、領内の経済発展のため、交通網の整備、特に最上川の水運開発に注力した。当時、最上川舟運の最大の難所とされていた「碁点」「三ヶ瀬」「隼」の三難所に対して大規模な開削工事を行い、航行の安全性を飛躍的に高めた 1 。道路が未整備であった時代において、河川は物資輸送の大動脈であり 24 、この改修によって村山地方や最上地方で産出される米や紅花などの特産物が、日本海側の酒田港へ効率的に運ばれるようになった。その結果、舟運の中継地であった大石田や、積出港であった酒田は商業都市として大いに発展した 24 。
農政面においては、治水工事を積極的に推進し、新田開発にも力を入れた。家臣の北楯利長らに命じて、庄内平野に北楯大堰や因幡堰といった大規模な用水路を開削させ、用水問題を解決した 1 。これにより庄内平野の耕地は飛躍的に拡大し、農業生産力が向上した。現在、庄内平野が日本有数の米どころとして知られるのは、義光の時代の治水・灌漑事業に負うところが大きいとされている 8 。
産業振興策としては、現在も山形市の春の風物詩として知られる「薬師祭植木市」の起源が、義光の時代に遡ると伝えられている。これは、大火によって失われた城下の緑を取り戻すため、義光が領民に植樹を奨励したことが始まりとされる 5 。これらのインフラ整備や産業奨励策は、短期的な成果に留まらず、長期的な視点に立った地域全体の繁栄を目指すものであり、最上領の経済基盤を強固なものとした。
武勇や領国経営に優れた義光であったが、同時に文化人としての一面も持ち合わせていた。特に連歌の才に長け、京都から里村紹巴ら当代一流の連歌師を招いては、しばしば連歌会を催したという 1 。現存する義光の連歌作品は33巻248句にものぼり、その数と質において、同時代の諸大名の中では細川幽斎に次ぐものと評価されている 5 。また、『伊勢物語』や『源氏物語』といった古典文学にも深く親しみ、家臣にも文学を奨励した 1 。さらに、狩野派の絵師を山形に招き、桃山文化を積極的に導入するなど、地方文化の振興にも貢献した 1 。
このような文化活動への傾倒は、単なる個人的な趣味に留まらず、為政者としての教養と権威を示すものであった。戦国時代から江戸初期にかけて、連歌などの文芸に通じていることは、洗練された支配者としての証であり、中央の文化人と交流することは、地方大名としての格を高める意味合いも持っていた 8 。京都の文化を積極的に導入することで、義光は自領の文化的地位向上を図り、軍事力だけではない、総合的な国力の充実を目指したと言えるだろう。
宗教に対しても、義光は篤い信仰心を持っていたとされる。領内にある100ヶ所以上の神社仏閣に対し、田畑の寄進や建物の修復を積極的に行った記録が残っている 1 。愛用した鉄製の指揮棒には「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」と刻まれており 5 、自身を仏門に帰依する者と位置づけていたことが窺える。非業の死を遂げた娘・駒姫と妻・大崎殿の菩提を弔うため、専称寺を建立したとの伝承も残っている 5 。寺社の保護は、領民の精神的な安定を図るとともに、伝統的な権威との結びつきを通じて自らの支配を正当化する意味合いも持っていた。
最上義光は、その生涯を通じて「羽州の狐」と畏怖される謀略家としての一面と、領民を慈しむ名君としての一面を併せ持つ、極めて多面的な人物であった。彼の複雑な性格は、同時代の主要人物との関係性にも色濃く反映されている。
義光の人物評は、しばしば両極端に振れる。一つは、目的のためには手段を選ばない冷徹な謀略家としての姿である。天正12年(1584年)の白鳥長久謀殺 5 や、小野寺義道の家臣・八柏道為を偽の書状で陥れて自滅に追い込んだ計略 5 などは、その代表例とされる。彼の巧みな戦術は、時に周囲から非道と揶揄されることもあった 6 。後年、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で原田芳雄が演じた義光像は、この謀略家としての側面を強調したものであり、広く一般に「悪役」のイメージを植え付けた 9 。
しかし、史料を丹念に読み解くと、これとは異なる義光像も浮かび上がってくる。同時代の軍記物などでは、「智・仁・勇の三徳を兼ね備えた人物」として高く評価されている 1 。家臣や領民に対しては慈悲深く、戦で負傷した家臣には自ら筆を執って見舞状を送ったという逸話も残る 28 。また、兵の多くが農民であった当時、彼らが戦で傷つくことを極度に嫌ったとも言われ 33 、義光の存命中は領内で大規模な一揆がほとんど起きなかったことからも、領民思いの一面が窺える 5 。江戸時代には「最上源五郎は役(年貢以外の税金)をばかけぬ」と領民に謳われるほどの善政を敷いたと伝えられる 5 。彼の戦術が時に非情に見えたとしても、それは結果的に自軍の被害を最小限に抑えることを重視した結果であったとする見方もある 6 。『奥羽永慶軍記』には「其ノ性寛柔ニシテ無道ニ報ヒズ、然モ勇ニシテ邪ナラズ」と記されており、寛容でありながら勇猛、そして邪心がないと評されている 1 。
このような謀略家としての側面は、彼が置かれた出羽国の厳しい政治状況と無縁ではない。伊達氏や上杉氏といった強大な隣国に囲まれ、常に存亡の危機に晒されていた中で、最上家を存続させ、さらに勢力を拡大するためには、清濁併せ呑む覚悟と、時には非情な決断も辞さない現実主義的な対応が必要であった。彼の「狐」としての顔は、敵対勢力にとっては脅威であったが、自領の民にとっては、むしろその辣腕によって平和と安定がもたらされた側面もあったと言えるだろう。
身体的特徴としては、身長六尺(約180cm)を超える長身で、膂力にも優れていたと伝えられる 1 。慶長出羽合戦の際に用いたとされる鉄製の指揮棒は、長さ86.5センチメートル、重さ1.75キログラムもあり、通常の刀の倍近い重さであったという 1 。これを自在に振るったとすれば、相当な腕力の持ち主であったことが想像される。
義光の生涯は、同時代の主要な戦国大名との複雑な人間関係によっても彩られている。
伊達政宗: 義光の妹・義姫(保春院)は伊達輝宗に嫁ぎ、政宗を産んだため、義光は政宗の叔父にあたる 1 。この縁戚関係から、当初は同盟関係を結ぶこともあったが、両者は南羽州の覇権を巡って激しく争うライバル関係でもあった 1 。天正16年(1588年)の大崎合戦では、政宗が大崎義隆を攻めた際、義光は援軍を派遣して伊達軍を破り、政宗の侵攻を阻止している 1 。
両者の関係を語る上で欠かせないのが、いわゆる「政宗毒殺未遂事件」である。これは、母・義姫が政宗よりも弟の小次郎を溺愛するあまり、政宗を毒殺しようとし、その背後には義光がいたのではないかとされる事件である 9 。しかし、この事件については近年研究が進み、事件そのものが存在しなかった、あるいは政宗による自作自演であったとする説も有力視されている 9 。義姫が山形へ出奔したとされる時期の記録の矛盾や、事件後も母子の間で交わされた情愛あふれる手紙の存在などが、その根拠として挙げられている 36 。鮭を好んだ義光は、関係が必ずしも良好でなかった甥の政宗にも、しばしば鮭を贈っていたという微笑ましい逸話も残っている 6 。
上杉景勝: 上杉景勝とは、主に庄内地方の領有を巡って激しく対立した 1 。豊臣秀吉による奥州仕置の結果、上杉領が最上領を分断する形で配置されたことも、両者の対立を決定的なものとした 5 。慶長出羽合戦では、両者は東西両軍に分かれて直接干戈を交えることになった。
豊臣秀吉: 義光は秀吉の天下統一事業が進む中でこれに臣従し、羽州探題への任命や所領の安堵といった形でその地位を認められた 1 。しかし、前述の駒姫の悲劇は、義光の秀吉に対する感情に深い遺恨を残した可能性が高い 5 。
徳川家康: 義光は早くから家康に接近し、親密な関係を築いたとされる 1 。家康もまた、義光の能力を高く評価していたという 2 。駒姫事件の際には家康に取りなしを依頼し 5 、慶長伏見地震の際には秀吉ではなく家康の護衛に駆けつけるなど 5 、その信頼関係は深かった。関ヶ原の戦いにおいては、東軍の主力の一翼を担い、上杉軍を牽制することで家康の天下取りに大きく貢献した 5 。嫡男・義康との不和が生じた際には家康に相談し、家康は義光の判断を支持したとも伝えられる 40 。
義光の外交政策は、重臣・氏家守棟らが補佐し、変転する中央政局や周辺諸勢力との力関係を冷静に見極めながら、時には臣従し、時には対立し、そして時には同盟を結ぶという、極めて現実的かつ柔軟なものであった。特に、駒姫事件を契機として豊臣政権に見切りをつけ、急速に台頭しつつあった徳川家康に接近し、その信頼を勝ち得たことは、最上家のその後の飛躍にとって決定的な意味を持った。この外交手腕こそが、最上家を57万石の大大名へと押し上げた大きな要因の一つと言えるだろう。
表3:最上義光と主要人物の関係性
人物 |
関係性の種類 |
主要な出来事・関わり |
背景・要因 |
典拠 |
伊達政宗 |
縁戚(叔父と甥)、ライバル |
大崎合戦での対立、政宗毒殺未遂事件(異説あり)、慶長出羽合戦での援軍要請 |
南羽州の覇権争い、両家の複雑な利害関係 |
1 |
上杉景勝 |
敵対 |
庄内地方を巡る領土紛争、慶長出羽合戦での直接対決 |
地理的要因(上杉領による最上領の分断)、関ヶ原の戦いにおける東西両軍への所属 |
1 |
豊臣秀吉 |
主従(臣従) |
小田原征伐参陣、羽州探題任命、所領安堵、駒姫事件 |
天下統一の流れへの対応、中央政権との関係構築、駒姫事件による関係悪化の可能性 |
1 |
徳川家康 |
同盟、主従(関ヶ原以降) |
早期からの接近、駒姫事件での取りなし依頼、慶長伏見地震での護衛、関ヶ原の戦いでの共闘(慶長出羽合戦)、戦後の加増、嫡男義康問題での相談 |
豊臣政権の不安定化と家康の台頭を見据えた戦略的判断、個人的な信頼関係 |
2 |
最上義光が一代で築き上げた57万石の広大な所領と、奥羽の雄としての威勢は、しかし彼の死後、驚くほど短期間で失われることになる。その背景には、後継者問題と、義光の急すぎる勢力拡大が招いた家臣団の構造的な問題があった。
慶長19年(1614年)1月18日、最上義光は病のため、山形城において69年の波乱に満ちた生涯を閉じた 2 。その亡骸は、山形市鉄砲町にある光禅寺に葬られた 2 。
義光の死に先立ち、最上家では後継者を巡る深刻な問題が発生していた。義光は、豊臣家との関係が深いとされた長男・義康(義保とも)を廃嫡し、徳川家康との関係が良好であった次男・家親を後継者とした 4 。この義康は、慶長8年(1603年)、義光の命によるものか、あるいは家親を支持する家臣団の独断によるものかは定かではないが、非業の死を遂げたとされる 1 。義光と義康の父子間の不和の原因については、家臣間の対立が背景にあったとする説や、家康のお気に入りであった家親に家督を継がせることで最上家の安泰を図ろうとした義光の深謀遠慮があったとする説などが存在する 42 。
義光の死後、家督を継いだのは次男・家親であった。しかし、藩主となった家親も元和3年(1617年)に急死してしまう。その死因については、毒殺説も囁かれている 42 。家親の跡は、その子である義俊(義光の孫)がわずか13歳で継いだが、この若年の当主のもとで、最上家は深刻な内紛、いわゆる「最上騒動」に見舞われることになる。
この騒動は、義俊を支持する松根権右衛門を中心とする派閥と、義光の四男で勇将として知られた山野辺義忠(清水義忠とも)を擁立しようとする鮭延秀綱、氏家光氏ら重臣派閥との間で、家中の主導権を巡る激しい権力闘争であった 5 。幕府は事態を収拾すべく仲介に乗り出したが、両派の対立は根深く、調停は不調に終わった。
このような家中不届きの状況を重く見た江戸幕府は、元和8年(1622年)、最上家に対し57万石の所領を改易(没収)するという厳しい処分を下した 4 。これは、義光の死からわずか8年ないし9年後の出来事であり、奥羽に一大勢力を築いた最上家のあまりにも早い終焉であった。
最上家の改易の要因は複雑である。義光による急速な領土拡大は、多くの国人領主を家臣団に組み込むことになったが、その結果、家臣団内部の求心力や統制が十分に確立されないまま、各々が大きな知行と発言力を持つ分権的な構造を生み出した 5 。義光のカリスマ性と実力によって辛うじて維持されていたこの体制は、彼の死後、後継者の若さや力量不足も相まって、容易に崩壊したのである。また、義光自身が嫡男・義康を廃嫡したという前例が、その後の家督争いを正当化する口実を与えた側面も否定できない 41 。これらの要因が複合的に絡み合い、最上家は自壊に近い形で没落していったと言える。
改易後、義俊には近江国大森に1万石が与えられたが、まもなく早世。その後、最上家は5千石の旗本(交代寄合)としてかろうじて家名を保ち、明治維 إليهاった 5 。
最上義光に対する歴史的評価は、時代とともに大きく揺れ動いてきた。江戸時代の軍記物などでは、「智仁勇の三徳を兼ね備えた英雄」として、その武勇や知略が称賛されることが多かった 1 。
しかし、昭和に入り、特にNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」(1987年放送)において、原田芳雄が演じた最上義光像は、甥である伊達政宗を陥れようとする冷酷非情な謀略家としてのイメージを強烈に印象付けた 9 。また、昭和40年代に刊行された『山形市史』においても、義光は比較的低い評価を受けていたとされる 45 。これらの影響もあり、義光=悪役というイメージが一般に定着した時期があった。
近年では、山形大学名誉教授の松尾剛次氏をはじめとする研究者たちの努力により、史料に基づいた実証的な義光像の再評価が進められている 1 。その結果、従来の悪役イメージとは異なる、領国経営や文化振興に尽力した名君としての一面や、人間味あふれる側面がクローズアップされるようになった 8 。特に、伊達政宗毒殺未遂事件については、事件そのものの存在を疑う説や、政宗による捏造説などが提起され、義光の関与については慎重な見方が主流となりつつある 9 。
かつて最上義光研究の必読書とされた誉田慶恩氏の『奥羽の驍将 最上義光』(1967年刊行)も、その後の研究の進展により、美術作品や文学作品の史料的価値の再検討など、新たな視点からの見直しが行われている 47 。
このように、最上義光の評価は、英雄から悪役へ、そして近年ではより複雑で多面的な歴史上の人物へと、時代や研究の進展とともに変遷してきた。この評価の揺らぎ自体が、義光という人物の持つ多面性と、歴史解釈の奥深さを示していると言えるだろう。なお、義光は明治時代に入り、正四位を追贈されている 5 。
最上義光は、その波乱に満ちた生涯を通じて、現在の山形県を中心とする地域に数多くの有形無形の遺産を残した。それらは、史跡や文化財として今に伝えられるとともに、地域の歴史や文化の中に深く息づいている。
義光の治世は、今日の山形県の発展に繋がる多くの遺産を残した。
最上義光の人物像は、驍将、謀将、優れた文化人、そして領民思いの名君といった多様な側面を持ち、現代においても様々な形で語り継がれている。
これらの史跡、文化財、そして語り継がれる物語は、最上義光が単なる戦国武将としてだけでなく、領国経営者、文化のパトロン、そして複雑な人間性を持つ一人の人物として、後世に大きな影響を与え続けていることを示している。彼の遺産は、戦場での武勇伝に留まらず、山形の風土と文化の中に深く刻み込まれているのである。最上義光歴史館の存在や、彼に関する研究が継続して行われていることは、その多面的な魅力と歴史的重要性に対する現代の関心の高さを物語っている。
最上義光は、その卓越した軍事的才能と政治的手腕により、一代で最上家を奥羽有数の大大名へと押し上げた戦国時代を代表する武将の一人である。関ヶ原の戦いにおいては、東軍の勝利に大きく貢献し、その後の東北地方の勢力図に決定的な影響を与えた。
また、領国経営においては、山形城と城下町の整備、最上川の治水と水運開発、新田開発と産業振興など、長期的な視野に立った政策を次々と実行し、山形地方の発展の礎を築いた。文化人としても高い素養を持ち、連歌などの文芸を奨励し、地域の文化水準の向上にも寄与した。
その一方で、謀略を駆使し「羽州の狐」と恐れられる冷徹な一面や、複雑な人間関係、そして後継者問題に起因する最上家の早すぎる没落など、その生涯は光と影に彩られている。しかし、これらの多面性こそが最上義光という人物の魅力であり、今日に至るまで多くの人々を惹きつけ、研究の対象とされ続ける理由であろう。彼は、激動の時代を生き抜き、強烈なリーダーシップを発揮して東北の地に確固たる足跡を残した、記憶されるべき武将である。