年代(西暦) |
出来事 |
典拠例 |
大永元年(1521年) |
中野城主・中野義清の二男として誕生。幼名は長松丸。 |
1 |
天文年間初期(推定) |
大伯父・最上義定の死去(永正17年/1520年)に伴い、伊達稙宗の介入のもと、義定の養子として最上家第10代当主となる。 |
1 |
天文9年(1540年)頃 |
伊達氏の内部紛争「天文の乱」に介入し、一時的に置賜全域を制圧。 |
3 |
天文17年(1548年) |
娘・義姫(後の伊達政宗の母)が誕生。後に伊達輝宗に嫁ぐ。 |
4 |
永禄3年(1560年) |
嫡男・最上義光が元服。 |
5 |
永禄4年(1561年)頃 |
(粟野説)義守が隠居し、義光が家督を継承した可能性が指摘される。 |
6 |
元亀元年(1570年) |
義守と義光の父子間で争いが生じる。重臣・氏家定直の説得により一時和解し、8月に義光が家督を継承。義守は出家し栄林と号す。 |
6 |
天正2年(1574年) |
「天正最上の乱」勃発。義守は伊達輝宗に援軍を要請し、義光と全面対決。9月に和議が成立。 |
6 |
天正18年(1590年) |
5月18日、死去。享年70。豊臣秀吉の小田原征伐の最中であった。 |
1 |
本報告書は、戦国時代に出羽国(現在の山形県および秋田県の一部)に勢力を有した大名、最上氏の第10代当主である最上義守(もがみ よしもり)公について、その生涯、事績、関連人物との関係性、そして歴史的評価などを、現存する史料に基づき多角的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。最上義守公は、後に伊達氏の当主となり「独眼竜」として名を馳せる伊達政宗の外祖父にあたり、また、最上氏を大大名へと飛躍させた実子・最上義光との間で繰り広げられた家督争い「天正最上の乱」の中心人物としても知られている 1 。
しかしながら、最上義守公自身に関する一次史料は、その子である最上義光に関するものと比較して限定的であると言わざるを得ない。義光の事績が江戸時代を通じて、また現代に至るまで注目され続けてきた結果、相対的に義守公の時代の記録や研究が手薄になった可能性が考えられる。義光が最上氏を57万石の大名へと成長させたという輝かしい業績 5 は、後世の関心を彼に集中させ、その父である義守公の治世や人物像については、ややもすれば義光の物語の「前史」として、あるいは対立者としての側面から語られることが多かった。このような歴史記述における傾向は、顕著な功績を残した人物に光が当たりやすいという一般的な事象の一側面とも言えよう。近年の研究では、粟野俊之氏や胡煒権氏などによって、天正最上の乱の背景や最上氏の官途などについて新たな視点が提示されており、義守公の再評価に向けた動きも見られる 6 。本報告書は、こうした研究の進展も踏まえつつ、限られた史料の中から義守公の実像を可能な限り明らかにし、その歴史的意義を考察するものである。
最上義守公は、大永元年(1521年)、出羽国中野城主であった中野義清(なかの よしきよ)の二男として生を受けた 1 。幼名は長松丸と伝えられている 1 。中野氏は、清和源氏足利氏の流れを汲む斯波氏の庶流である最上氏の、さらにその庶流にあたる家系であった。しかしながら、中野氏は単なる分家ではなく、過去において度々最上本家の当主を輩出してきた有力な家柄であり、最上家における血統的にも重要な位置を占めていた 1 。この事実は、後に義守公が最上本家の家督を継承する上での、一定の正当性を与えるものであったと考えられる。
義守公が誕生する前年の永正17年(1520年)、最上氏の第9代当主であり、義守公から見れば大伯父にあたる最上義定(もがみ よしさだ)が、跡継ぎとなる男子がないまま死去した 1 。この最上本家の後継者不在という状況は、隣接する有力大名であった伊達氏にとって、その勢力圏を拡大する絶好の機会と映った。義定の義兄(妻の兄)にあたる伊達稙宗(だて たねむね)は、この機に乗じて最上家を自らの影響下に置こうと画策し、積極的に介入を開始する 1 。
伊達稙宗の強い意向のもと、当時まだ幼少であった義守公(一説には2歳 2 )が、故・最上義定の養子という形で最上家の家督を相続し、第10代当主となった 1 。この家督相続の経緯は、義守公自身の主体的な権力掌握というよりも、伊達氏の政治的計算と勢力拡大戦略の産物であった側面が強いと言える。戦国時代において、有力大名が近隣の弱小勢力や後継者問題で揺れる大名家の家督相続に介入し、自らにとって都合の良い人物を当主に据えることで傀儡化を図るというのは、常套手段の一つであった。義守公の当主就任は、まさにそのような伊達氏の戦略の一環であり、彼の治世の初期は、伊達氏の強い影響下におかれることとなった。このことは、後の最上氏と伊達氏の複雑な関係、そして天正最上の乱における伊達氏の介入の伏線ともなったのである。
最上義守公の家族構成を以下に示す。これらの血縁関係、特に娘・義姫を通じた伊達家との姻戚関係は、後の最上氏の動向を理解する上で極めて重要である。
これらの家族関係をまとめたものを以下の表2に示す。
表2:最上義守 家系図(主要人物)
Mermaidによる家系図
注:中野義時の実在については諸説あり、史料的裏付けに乏しい。
最上義守公の治世において、隣国である伊達氏との関係は、常に最上氏の外交・軍事政策の中心にあり、極めて重要かつ複雑なものであった。
義守公の娘である義姫が、伊達氏の当主・伊達輝宗に嫁ぎ、後に「独眼竜」として名を馳せる伊達政宗が誕生したことにより、義守公は政宗の外祖父という立場になった 1 。この婚姻は、表面的には最上氏と伊達氏の間に強固な姻戚関係を築き、両家の友好を深めるものと期待された。戦国時代において、有力大名家同士が婚姻によって同盟を結ぶことは、勢力均衡や相互の安全保障を図るための一般的な外交戦略であった。
しかし、この婚姻同盟は必ずしも最上氏にとって安定した平和をもたらすものではなかった。最上家の家督相続に伊達稙宗が深く関与した経緯からもわかるように、伊達氏には常に最上家に対する影響力を保持し、機会があれば支配下に置こうとする野心があったと考えられる 1 。義姫との婚姻は、伊達氏にとって最上氏の内情に介入する新たな口実を与える側面も持ち合わせていた。事実、後に発生する「天正最上の乱」においては、伊達輝宗が義守公を支援する形で軍事介入を行い、義守公の嫡男である最上義光と敵対している 6 。これは、姻戚関係が必ずしも絶対的な友好を意味せず、むしろ政治的な駆け引きの道具となり得ることを示している。
一方で、義守公自身も、単に伊達氏に従属するだけの存在ではなかった。伊達氏の内部で、伊達稙宗とその子・晴宗が家督を巡って争った大規模な内乱「天文の乱」(天文11年~17年、1542年~1548年)の際には、義守公はこの争いに積極的に介入し、一時的に伊達領である置賜郡全域を制圧するなど、伊達氏の混乱に乗じて自勢力の拡大を図ろうとする動きも見せている 3 。これは、彼が戦国大名として、常に自家の利益と勢力拡大の機会を窺っていたことを示す証左と言えよう。
また、義守公の娘である義姫は、単なる婚姻の道具としてだけではなく、後に最上氏と伊達氏の関係が悪化した際には、両家の間に立って調停役を果たすなど、政治的にも重要な役割を担った。天正16年(1588年)、伊達政宗が大崎氏を攻撃した際、最上義光が大崎氏に援軍を送ったことで、伊達・最上両軍は一触即発の事態となった。この危機的状況において、義姫が兄である義光と息子である政宗の間に入り、懸命に説得にあたった結果、両者は和睦するに至ったと伝えられている 4 。これは、義姫個人の資質もさることながら、彼女が両家にとって無視できない存在であったことを物語っている。
このように、最上義守公の時代の伊達氏との関係は、婚姻による同盟と、それに伴う緊張や介入、そして時には対立と、極めて多層的かつ流動的なものであった。それは、奥羽地方における勢力均衡の複雑さと、戦国大名が生き残りをかけて繰り広げた外交戦略の現実を如実に示している。
最上義守公の治世における最大の事件の一つが、嫡男である最上義光との間で行われた家督を巡る内乱、「天正最上の乱」である。この争いは、最上家の内部に深刻な分裂をもたらし、隣国である伊達氏の介入を招くなど、奥羽の勢力図にも影響を与えた。
対立の背景と原因
この父子間の対立の原因については、複数の説が提示されており、その解釈は未だ定まっていない。
伝統的に語られてきたのは、義守公が嫡男の義光よりも、次男(とされる)中野義時を偏愛し、義光を廃して義時に家督を譲ろうとしたことが原因であるとする説である 1 。しかし、この説の根幹をなす中野義時という人物の実在性については、確実な一次史料にその名が見当たらないことから、近年の研究では疑問視、あるいはその存在自体が否定される傾向にある 1 。最上義光歴史館の研究では、義光が父・義守を隠居に追い込み、自らが家督を掌握するための大義名分として、この「義時偏愛説」ひいては「中野義時」という存在そのものを後世に「創作」した可能性まで指摘されている 12 。もしこの指摘が事実であれば、天正最上の乱の性格や、義光の行動の正当性について、根本的な見直しが必要となる。
これに対し、歴史学者の粟野俊之氏は、義守公の隠居時期を元亀元年(1570年)よりも早い永禄4年(1561年)頃と推定し、天正最上の乱は単純な家督争いではなく、家督を継承した義光が進めた家中統制の強化や集権化政策に対して、これに反発した国人領主や旧来の勢力を持つ家臣団が、既に隠居していた義守公を名目上の旗頭として擁立して起こした反乱であったとする説を提唱している 6 。この説は、乱の性格を、より政治的・構造的な対立として捉えるものである。
その他にも、最上義光自身の強引とも評される性格や、野心的な領国拡大政策に対する家中からの反発 17 、あるいは義守公と義光の統治に対する基本的な考え方の相違(義守公が伝統的な諸勢力との緩やかな連合共存を志向したのに対し、義光はより強力な中央集権的な大名権力の確立を目指したとされる) 17 などが、対立の複合的な要因として考えられる。
これらの諸説を総合的に勘案すると、天正最上の乱は、単一の原因によって引き起こされたものではなく、最上義守・義光父子間の個人的な感情のもつれ、後継者問題、家臣団内部の権力闘争や路線対立、さらには隣国伊達氏の介入といった、複数の要因が複雑に絡み合って発生したと見るのが妥当であろう。特に「中野義時」の存在に関する問題は、この乱の原因論における史料批判の重要性、そして歴史解釈の難しさを示す象徴的な事例と言える。
合戦の経過
義守公と義光の間の緊張は、元亀元年(1570年)頃から表面化し始めた。当初は小規模な衝突に留まっていたが、次第に深刻化していった。この最初の対立は、最上家の重臣であった氏家定直(うじいえ さだなお)が病身を押して両者の間に入り、懸命に説得にあたった結果、一時的に和解が成立した。この和解に基づき、同年8月、義光が家督を継承して山形城主となり、義守公は出家して栄林(えいりん)と号した 6 。
しかし、この和解は長続きしなかった。天正2年(1574年)1月、義守公は娘婿である伊達輝宗に援軍を要請する書状を送り、ここに「天正最上の乱」と呼ばれる本格的な内乱が再燃したのである 6 。伊達輝宗はこの要請に応じ、ただちに軍勢を最上領内に派遣。これにより、戦いは「伊達・最上義守連合軍 対 最上義光軍」という構図で展開されることとなった。
伊達軍の介入は戦局を大きく動かした。最上領内の国人領主の多くは、伊達氏の威勢を背景に持つ義守方になびき、義光は孤立し苦しい戦いを強いられた 6 。上山城(山形県上山市)や寒河江城(山形県寒河江市)などが戦場となり、各地で激しい戦闘が繰り広げられた 6 。義光側も、時には伊達領へ逆襲を試みるなど、必死の抵抗を続けたが 6 、総じて劣勢であった。
和睦の成立とその後の影響
約8ヶ月に及んだこの内乱は、天正2年(1574年)9月10日、最上家臣の氏家氏(おそらく氏家定直の子である守棟)と伊達家臣の亘理元宗(わたり もとむね)らによる交渉の結果、ようやく和議が成立し終結した 6 。
この和議の結果、最上氏は伊達氏の強い影響下から脱し、名実ともに独立した戦国大名としての地位を確立したと評価されている 6 。しかし、乱は最上家中に大きな爪痕を残した。義守・伊達方についた最上八楯(もがみやつだて)と呼ばれる国人領主連合や、上山氏、白鳥氏、寒河江氏、大宝寺氏といった諸勢力は、和議成立後の天正5年(1577年)以降、義光によって次々と攻略され、その勢力を削がれるか、あるいは滅亡させられる運命を辿った 6 。これは、義光による出羽国内の反対勢力の一掃と、強力な大名権力確立への本格的な歩み出しを意味するものであった。
一方、この乱に深く関与した伊達氏は、最上氏への直接的な支配は達成できなかったものの、この一件以降、陸奥国南部(現在の福島県や宮城県南部)方面における勢力拡大活動をより活発化させることになった 6 。
以下に、天正最上の乱における主要な関係者とその立場をまとめた表3を示す。
表3:天正最上の乱 主要関係者と立場
人物・勢力 |
立場(主な動向) |
典拠例 |
最上義守 |
義光方に対抗。伊達輝宗に援軍を要請。 |
6 |
最上義光 |
義守・伊達連合軍と交戦。当初苦戦するも、最終的に和議により家督を確実なものとする。 |
6 |
伊達輝宗 |
義守を支援し、最上領に軍事介入。 |
6 |
中野義時(?) |
(通説では)義守に偏愛され、義光と対立したとされるが、実在は疑問視。 |
6 |
氏家定直(守棟) |
(元亀元年の対立では)父子の調停に尽力。(天正の乱では)義光方、あるいは両者の交渉役として活動した可能性。 |
6 |
最上八楯 |
天童頼貞を中心に、多くが義守・伊達方につく。乱後、義光により制圧される。 |
6 |
上山氏・白鳥氏 |
義守・伊達方につき、義光と敵対。乱後、義光により制圧される。 |
6 |
寒河江氏 |
当初義光方であったが、伊達勢の攻撃を受け降伏。一部は義守方にも。乱後、義光により制圧される。 |
6 |
最上義守公の統治の実態やその人物像については、断片的な史料や後世の編纂物から推測する部分が多いものの、いくつかの側面が浮かび上がってくる。
活動拠点と領国
最上氏の伝統的な本拠地は、出羽国山形(現在の山形県山形市)に築かれた山形城であり、義守公の時代においても、ここが政治・軍事の中心であった 2 。最上氏の領国は、主に最上郡や村山郡といった、現在の山形県内陸部を中心としていた 6 。
統治政策
義守公自身が主導した具体的な内政、例えば検地の実施、楽市楽座のような商業振興策、あるいは分国法の制定といった記録は、現存する史料からは明確には確認されていない 1 。彼の治世は、伊達氏との緊張関係や、後の最上義光との内乱など、対外的・内的な軍事問題への対応に多くのエネルギーが割かれていた可能性が高い。
ただし、伊達氏の内部抗争である天文の乱に介入した際には、一時的に置賜地方全域を支配下に置いたり 3 、あるいは領内の治安維持を目的として、国境である笹谷峠を越えて軍事行動を起こしたりした記録は残っており 3 、領国の維持・拡大や安定化のための軍事的な統治行動は積極的に行っていたことがうかがえる。
官途に関しては、近年の胡煒権氏の研究によると、最上氏(義守・義光の時代)は、伊達氏や常陸国の佐竹氏、陸奥国の岩城氏といった他の有力大名ほどには、室町幕府や朝廷に対して積極的に官位を求める動きを見せなかったとされる 8 。最上氏の官途は、伝統的に左京大夫と考えられてきたが、胡氏はこれを裏付ける史料が乏しいとし、各種系図や豊臣政権下での義光の子・義康の任官事例などから、むしろ修理大夫であった可能性が高いと指摘している 8 。このことは、最上氏が中央権威との結びつきよりも、出羽国内における実力による勢力基盤の確立を重視していた可能性を示唆しており、義守公の統治方針の一端をうかがわせる。
義守公の時代の統治の実態については、史料的な制約が大きい。これは、息子・義光による強力な中央集権化が進む以前の、国人領主たちの連合体に近い緩やかな統治形態であった可能性、度重なる戦乱のために内政の整備まで手が回らなかった当時の状況、あるいは後世における史料の散逸などが理由として考えられる。天正最上の乱の原因の一つとして、義光による家中統制の強化に対する旧来の勢力の反発があったとする粟野俊之氏の説 6 を考慮すれば、義守公の時代は比較的緩やかな、あるいは伝統的な秩序を重んじる統治が行われていたのかもしれない。
人物像と評価
最上義守公の人物像については、後世の編纂物や逸話を通じて、いくつかの異なる側面が伝えられている。
一つの評価として、息子である最上義光の強引とも言える手法や、時には不遜とも取れる態度に対して、義守公が強い怒りを示したという記録がある 18 。これは、義守公が伝統的な秩序や礼節を重んじる人物であったか、あるいは義光の急進的なやり方とは異なる価値観を持っていた可能性を示唆している。
また、娘婿である伊達輝宗との関係においては、自身が病に倒れた際、枕元に義光や輝宗・義姫夫妻を呼び寄せ、自らの死後に最上氏と伊達氏が争うことになるのではないかと深く憂慮し、両家の和睦の重要性を切々と説いたという逸話が『奥羽永慶軍記』などに残されている 3 。この逸話は、彼が両家の将来を案じ、平和を願っていた温情的な一面を伝えている。
一方で、特に最上義光の輝かしい事績と比較される形で、義守公を「暗愚の主君」と評する見方も存在する 3 。これは、義光との家督争いに敗れたことや、義光の時代に最上氏が大きく飛躍したことの裏返しとして、義守公の指導力不足が強調された結果かもしれない。しかし、同じ史料群の中には、彼を「温厚」で「平和主義者」であったとする記述も見られ 3 、単純な暗君説では捉えきれない複雑な人物像が浮かび上がる。これらの評価の差異は、義光の事績が突出しているために義守公が過小評価されてきた可能性や、史料の解釈、あるいは依拠する編纂物の性質による違いを示していると言えよう。
天正最上の乱の原因として、義守公が義光を疎んじ、山形近郊の高擶(たかだま)に幽閉したという逸話も伝えられているが 1 、これもまた、父子の深刻な対立を示すものとして解釈される。
総じて、最上義守公に対する「暗愚」という評価は、主に義光との対立の結果や、義光の輝かしい業績との対比から生まれた後世の見方である可能性が高い。史料を丹念に読み解けば、むしろ慎重で、強大な伊達氏との関係に苦慮し、一族内の融和や安定を願う一面も垣間見える。彼の行動や判断は、当時の奥羽における複雑な政治状況と、強力な個性と野心を持つ息子・義光との緊張関係の中で理解されるべきであろう。一面的な評価を避け、史料に基づいて彼の行動原理や人間性を多角的に考察することで、より深みのある歴史像を提示する必要がある。
最上義守公の治世を支えた家臣団については、息子・義光の時代の家臣団ほど詳細な記録が残されているわけではないが、特に重要な役割を果たした人物として氏家定直(守棟とも)の名が挙げられる。
氏家定直(うじいえ さだなお、守棟 もりむね とも)
氏家定直は、最上家の宿老として重きをなした人物である 15 。彼の功績として特に知られているのは、元亀元年(1570年)に表面化した最上義守・義光父子間の最初の深刻な対立において、病身を押して両者の調停に乗り出し、義光への家督相続という形で事態を収拾させたことである 1 。この時、義守は隠居して出家し、義光が最上家の当主となった。氏家定直のこの尽力がなければ、最上家はより深刻な内紛状態に陥り、伊達氏などの外部勢力による介入をさらに招いていた可能性も否定できない。
天正最上の乱(天正2年/1574年)における氏家氏の動向については、史料によって記述に若干の揺れが見られる。義守の隠居後もその政権を支え、乱においては義守方として義光軍を撃退した、あるいは父子の和解交渉に尽力したなど、複数の解釈が存在する 21 。いずれにせよ、彼が義守にとって「忠実な家臣」であり、義守の政治的立場や、特に義光との複雑な関係において、極めて大きな影響力を持っていたことは疑いない 21 。
その他の家臣
氏家定直(守棟)以外の、義守公直属の主要な家臣団の具体的な構成や個々の家臣の事績については、提供された情報源からは詳細を特定することが難しい 21 。多くの家臣名は、最上義光の家臣として記録されているものが大半である。
この情報不足は、いくつかの可能性を示唆している。第一に、義守公の権力基盤が、後に中央集権化を強力に推し進めた息子・義光ほどには強固ではなく、国人領主の連合体的な性格を色濃く残していたため、義守公直属の家臣団という概念自体が希薄であった可能性である。第二に、天正最上の乱の結果、義守方が敗北し、義光を中心とする新たな権力構造が確立される過程で、義守公を支えた家臣団が解体されたり、あるいは義光の家臣団に吸収されたりした結果、義守公時代の記録が散逸、あるいは意図的に改変された可能性も考えられる。
胡煒権氏の研究では、最上義光の時代において有力な一門衆が不在であったことが指摘されている 8 。もしこの傾向が義守公の時代から続いていたとすれば、氏家氏のような特定の譜代の重臣への依存度が必然的に高まり、その役割が突出して記録される一方で、他の家臣に関する情報が相対的に乏しくなったという解釈も成り立つかもしれない。
いずれにしても、氏家定直(守棟)の存在は、最上義守公の政権の安定と運営に不可欠であったと考えられ、彼の役割を理解することは、義守公の治世を考察する上で極めて重要である。
天正最上の乱が終結した後、最上義守公の晩年と最期については、以下のように伝えられている。
天正最上の乱以降
天正2年(1574年)の天正最上の乱において、実子である最上義光と争った結果、義守公は敗れ、強制的に隠居させられたとされている 1 。隠居後の生活の詳細は不明な点が多いが、一説には中野(現在の山形市中野地区周辺か)に隠棲したとも言われている 17 。嫡男との激しい権力闘争の末の隠居であり、その心境は複雑であったと推察される。
死没
義守公は、天正18年(1590年)5月18日(旧暦)に、70歳(数え年)でその生涯を閉じた 1 。この時期は、豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げとも言える小田原征伐が行われている最中であり 5 、全国的にも大きな時代の転換期であった。
墓所と戒名
義守公の墓所は、現在の山形県山形市北山形に位置する龍門寺に現存している 1 。龍門寺は最上氏ゆかりの寺院であり、彼の菩提が弔われている。戒名は「竜門寺殿羽典栄林義公大居士(りゅうもんじでんうてんえいりんぎこうだいこじ)」、法名は出家後に名乗った「栄林(えいりん)」である 1 。
最期の言葉に関する逸話
義守公の直接的な最期の言葉は伝えられていないが、彼の晩年の心境をうかがわせる逸話として、天正11年(1583年)頃、彼が大病を患い危篤状態に陥った際の出来事が『奥羽永慶軍記』などに記されている 3 。この時、義守公は枕元に息子の義光、娘の義姫とその夫である伊達輝宗らを呼び寄せ、大勢の重臣たちが居並ぶ中で、自らの死後に最上氏と伊達氏が不和となり合戦に及ぶのではないかと深く憂慮し、両家が末永く和睦を保つよう切に訓戒したという。これは彼の死没時の言葉ではないものの、伊達氏との関係に生涯苦慮し、一族と領国の安寧を願っていた彼の心情をよく表していると言えよう。
最上義守公の生涯は、戦国時代の東北地方における激動の時代を象徴するものであった。中野氏からの養子として最上本家の家督を継承したものの、その治世は当初から隣国・伊達氏の強大な影響力下にあり、さらに実子である最上義光との深刻な家督争い「天正最上の乱」という、内外の困難に絶えず直面し続けるものであった。
歴史的に見れば、義守公は伊達政宗の外祖父という血縁的な繋がりや、天正最上の乱における中心人物として、奥羽地方の戦国史に無視できない足跡を残した。しかしながら、その評価は、息子・義光の輝かしい業績の影に隠れがちであり、時には「暗愚」との酷評を受けることもあった。だが、現存する限られた史料を丹念に読み解けば、義守公の人物像は決して一面的ではなく、より複雑で深みのあるものであったことがうかがえる。
彼は、強大な伊達氏との間で、時には従属的な立場を強いられながらも、機会を見ては自家の勢力維持・拡大を図ろうとする戦国大名としてのしたたかさも持ち合わせていた。また、家臣の諫言に耳を傾け、父子の対立を一時的に収拾した場面(氏家定直による調停)や、病床にあって最上・伊達両家の将来を憂い和睦を願ったとされる逸話は、彼が単なる権力者ではなく、一族の安寧を願う人間的な側面も有していたことを示唆している。
義守公の統治や、彼が直面した苦悩、そして義光との対立といった出来事の全てが、結果として最上義光による後の最上氏の大飛躍の、ある種の土壌となった可能性も否定できない。義守公の時代に解決されなかった課題や、彼が抱えた矛盾が、義光という強力な指導者を生み出す一因となったとも考えられるからである。
最上義守公に関する研究は、未だ発展の途上にあると言える。今後、彼自身に関する一次史料のさらなる発掘と精密な分析が進むこと、特に彼の具体的な統治政策の実態や、天正最上の乱に至るまでの最上義光との関係性のより詳細な解明がなされることが、彼の歴史的評価をより確かなものにする上で強く望まれる。彼の生涯を多角的に捉え直すことは、戦国時代の地方大名の動向や、権力継承の複雑な実態を理解する上で、貴重な示唆を与えてくれるであろう。