最上義康は義光の嫡男で武勇・教養に優れ、慶長出羽合戦で活躍。父と家臣の讒言で廃嫡・暗殺され、最上家改易の遠因となった。
日本の戦国時代にその名を刻む武将、最上義康。彼の生涯は、一般に「父・義光と対立し、非業の死を遂げた悲劇の嫡男」として語られることが多い 1 。しかし、この通説の背後には、一個人の悲運に留まらない、時代の転換期を生きた大名家の苦悩と、その後の没落へと至る複雑な因果関係が隠されている。本報告書は、最上義康の生涯を多角的に検証し、彼の武将としての器量、父子対立の深層、そしてその死が最上家全体に与えた破滅的な影響を解き明かすことで、彼の歴史的実像を再構築することを目的とする。
義康が歴史の表舞台に登場する天正3年(1575年)頃、出羽国は激動の時代にあった。父である最上義光は、「奥羽の驍将」「羽州の狐」と畏怖され、権謀術数を駆使して周辺勢力を次々と併呑し、出羽における一大版図を築き上げつつあった 3 。しかしその道のりは平坦ではなく、義光自身もかつて、父・最上義守や弟・中野義時を偏愛する父と骨肉の家督争い(天正最上の乱)を繰り広げ、これを制することで家中の掌握を果たしたという過去を持つ 6 。この壮絶な経験は、義光に「家」の存続のためには肉親の情をも断ち切る非情な決断が必要であるという、苛烈な価値観を植え付けた可能性がある。後に彼が嫡男・義康に対して下すことになる冷徹な判断の根底には、自らが経験した御家騒動の悪夢を、自身の子供たちの代で再発させてはならないという、歪んだ形での強迫観念が存在したのかもしれない。義康の物語は、この偉大かつ非情な父が築き上げた57万石という巨大な遺産を巡る、継承の悲劇そのものであった。
最上義康の悲劇性を際立たせているのは、彼が決して凡庸な人物ではなく、むしろ最上家の後継者として十分な資質と実績を兼ね備えていたという事実である。彼の排除が能力不足に起因するものではなく、より高度な政治的力学の産物であったことを理解するためには、まず彼の武将としての実像を正しく評価する必要がある。
最上義康は天正3年(1575年)、山形城主・最上義光の嫡男として生を受けた 1 。母は、義光の正室で陸奥の同族・大崎義直の娘である釈妙英(大崎御前)とされる 2 。官位は修理大夫を称し、その人柄は「心優しく、英邁の資質」を備えていたと伝わっている 1 。
彼の資質は武辺一辺倒ではなかった。慶長2年(1597年)正月には、父・義光と共に連歌会に参加し、当代一流の連歌師であった里村玄仍らと歌を詠み交わしている。その時の作品「最上義康連歌懐紙」は現存しており、彼の教養の高さを示している 2 。
一夜とは霞や隔て今日の春 義康
雪残りつつしののめの空 玄仍
— 慶長2年正月 連歌会にて 10
武将としても早くから頭角を現していた。天正14年(1586年)、小野寺義道が出羽に侵攻した際には父と共に迎え撃ち、その後、義光が庄内方面へ転戦すると、義康は対小野寺戦線の総大将を任され、これを撃退に追い込んでいる(有野峠の戦い) 2 。また、文禄年間には父から旧寒河江氏の所領を与えられ、その統治を担った 2 。これは彼が単なる将帥としてだけでなく、領国経営の実務経験も積んでいたことを意味する。さらに、文禄4年(1595年)に父・義光が豊臣秀次事件への関与を疑われた際には、父の赦免を祈願して義光を感激させたという逸話も残る 2 。これらの事実は、義康が次期当主として着実に成長を遂げていたことを物語っている。
義康の武将としての器量が最も発揮されたのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに連動して勃発した慶長出羽合戦、いわゆる「北の関ヶ原」においてであった。この戦いは、東軍の徳川家康に与した最上家に対し、西軍の会津・上杉景勝がその大軍をもって侵攻したもので、最上家にとってはまさに存亡の危機であった 3 。
上杉軍の猛攻により、長谷堂城などが包囲され山形城に危機が迫る中、義康は父・義光の命を受け、援軍を求める使者として従兄弟である伊達政宗のもとへ赴いた。当時、最上家と伊達家は必ずしも良好な関係ではなかったが、義康はこの困難な交渉を成功させ、留守政景を総大将とする伊達家の援軍派遣を取り付けた 2 。この外交的成功は、戦局を好転させる上で極めて重要な意味を持った。
戦場においても、彼の武勇は際立っていた。関ヶ原における西軍敗戦の報を受けて上杉軍が撤退を開始すると、最上軍は追撃に転じた。この追撃戦の最中、陣頭指揮を執っていた父・義光が上杉軍の鉄砲隊による射撃を受け、兜に被弾するなど窮地に陥る。この危機を察知した義康は、別働隊を率いて上杉軍に猛然と横槍を入れ、父の危急を救ったのである 2 。『奥羽永慶軍記』などの軍記物には、我が子の武勇を目の当たりにした義光が感涙したと記されており、この時点では父子の間に深い信頼関係が存在したことが窺える 3 。
上杉本隊が米沢へ撤退した後、義康は庄内地方攻略戦の総大将に任命される。彼はその期待に応え、慶長6年(1601年)3月までに庄内全域を平定するという大功を成し遂げた 2 。さらにこの時期、彼は父・義光に代わって、家臣である清水氏や延沢氏に対し、自身の名(康)の一字を与える「偏諱」を行っている 2 。家臣への偏諱授与は、主君あるいは次期当主としての権威の象徴であり、義康が名実ともに最上家の後継者として家中に認知されていたことを示す、動かぬ証拠と言えよう。
慶長出羽合戦において赫々たる武功を立て、後継者としての地位を不動のものとしたかに見えた義康であったが、その後の父子関係は急速に悪化し、悲劇的な結末へと突き進んでいく。この対立は、単なる親子の感情的なもつれではなく、「中央政権との関係」「家臣団の内部対立」「義光個人の思惑」という三つの要因が複雑に絡み合った、構造的な問題であった。
豊臣秀吉の死後、天下の趨勢は徳川家康へと大きく傾斜していた。地方の大名である最上家にとって、新たな時代の覇者である徳川氏との関係をいかに構築するかは、家の存続を賭けた最重要課題であった 15 。この政治状況の変化が、最上家の後継者問題に決定的な影響を及ぼすことになる。
義康には、家親という弟がいた。彼は早くから徳川家の人質(近侍)として江戸に送られ、家康の近習として仕えていた。その忠勤ぶりは家康に高く評価され、家康自身の名から一字を与えられ「家親」と名乗ることを許されるほど、その覚えはめでたかった 5 。
父・義光にとって、この家親の存在は極めて大きな政治的価値を持っていた。かつて娘の駒姫を豊臣秀次事件という中央政権の政争で理不尽に失った義光は、中央との繋がりがいかに重要かつ危ういものであるかを痛感していた 3 。徳川の世が到来し、幕藩体制が確立されつつある中で、徳川将軍家と直接的なパイプを持つ家親を後継者とすることこそが、最上家の安泰を保証する最善の策であると判断したとしても不思議ではない。
ここに、義康と家親の対立構造の本質が見て取れる。この問題は、単に個人の資質の優劣ではなく、その政治的立ち位置の決定的な差異に起因していた。義康は、出羽の地で戦功を重ね、在地家臣団との強い結びつきを持つ、いわば「地方の論理」を体現する存在であった。彼の功績はすべて領国内での軍事行動に集中しており、中央政権との関わりは希薄であった 2 。一方、家親は江戸で家康に仕え、中央政権との関係を基盤とする「中央の論理」を体現する存在であった。戦国の世を生き抜き、新たな時代に適応しようとする義光にとって、後者の価値が前者を上回ると映ったのである。義康の排除は、最上家を戦国大名から近世大名へと脱皮させるための、父・義光による冷徹な政治的選択であった。義康の悲劇は、この時代の大きな転換期に生きた大名家の苦悩そのものを象徴している。
父子の対立を決定的にしたのは、家臣による讒言であった。当初は良好であった関係が、特定の家臣の暗躍によって修復不可能なまでにこじれていったことが、複数の史料から窺える 14 。
その中心人物として名が挙がるのが、家老の里見民部である 18 。彼は義康の補佐役でありながら、義康の近臣であった原八右衛門(元上杉家臣)らと共に、義光と義康の間を往来し、双方に虚偽の報告を吹き込むことで相互不信を煽ったとされる 14 。具体的な逸話として、義康が寺社に参詣した際に誤って股を傷つけた事故を、里見民部が「若殿(義康)は父君を深く恨み、自害しようとされました」と義光に虚偽の報告をした一件が伝わっている。この讒言が、父子の亀裂を決定的なものにしたという 14 。
里見民部の動機は、家康と繋がりが深い家親を後継者に擁立することで、自らの家中における地位を高めようとする野心にあったと推測される 18 。この事実は、最上家臣団の内部にも、義康を支持する勢力と家親を支持する勢力との間で、後継者を巡る深刻な派閥対立が存在したことを示唆している。義光の決断は、こうした家臣団の動向にも影響された可能性が高い。
家臣の讒言により義康への不信感を募らせた義光は、慶長7年(1602年)頃、駿府城において徳川家康にこの父子問題を相談したとされる 5 。この時、家康が発したとされる言葉が、義康の運命を最終的に決定づけた。
家康は義光に対し、「修理大夫(義康)は総領であろうとも、親の言い付けに背くは親不孝であり、国の乱れの元ともなろう。可愛い子供でも、国には替えられまい。帰国のうえ生害させるが良かろう」と述べ、続けて「とはいえ、それは親が自分で考えるべきこと」と付け加えたと伝わっている 9 。
この家康の言葉は、直接的な命令ではなかったかもしれない。しかし、天下人からのこの「示唆」は、義光にとって絶大な重みを持った。これにより、義光は嫡男を殺害するという常軌を逸した決断を正当化するための、抗いがたい「大義名分」を得たことになる。幕藩体制が確立しつつあるこの時代、大名の家督問題はもはや一家の私事ではなく、幕府の意向が大きく作用する高度な政治問題へと変質していた。家康の言葉は、義康を排除する最後の引き金となったのである。
徳川家康という最高権力者の「お墨付き」を得た義光の決断は早かった。帰国した義光は、嫡男・義康に対して非情な命令を下す。ここから、義康の最期に至るまでの悲劇的な道程が始まる。
義康の暗殺事件に関わった主要な人物の関係性を以下に整理する。
人物名 |
続柄・役職 |
義康との関係 |
事件における役割 |
最上義康 |
最上家嫡男、修理大夫 |
本人 |
暗殺の標的 2 |
最上義光 |
父、出羽山形藩主 |
父 |
追放・暗殺の命令者とされる 5 |
最上家親 |
弟 |
弟、後継者 |
義康排除による受益者 5 |
徳川家康 |
江戸幕府将軍 |
- |
義康排除を事実上容認 9 |
里見民部 |
最上家家老 |
義康の補佐役 |
父子を離反させた讒言者 14 |
土肥半左衛門 |
最上家家臣 |
- |
暗殺の実行犯とされる 11 |
伊達政宗 |
従兄弟、仙台藩主 |
従兄弟 |
慶長出羽合戦で義康の要請に応じ援軍派遣 13 |
大崎夫人 |
母 |
母 |
義康の母、駒姫の死後、後を追うように死去 2 |
江戸から帰国した義光は、息子である義康との対面すら許さず、弁明の機会も与えないまま、直ちに高野山へ赴き出家するよう厳命した 5 。これは事実上の追放宣告であった。義康は妻との今生の別れも許されず、わずか十数名の供回りと共に、失意のうちに山形城を出立した 9 。
しかし、この旅には極めて不可解な点が存在する。目的地は紀伊国(現在の和歌山県)の高野山である。山形からであれば、南下して関東や東海道を経由するのが自然な経路である。にもかかわらず、義康一行が実際に進んだのは、正反対の西、庄内地方へと抜ける険しい六十里越街道であった 9 。
この地理的に非論理的な行程は、一つの可能性を強く示唆している。すなわち、「高野山への追放」はあくまで表向きの口実であり、初めから計画的に義康を特定の場所へ誘導し、そこで暗殺することが目的であったという可能性である。庄内へ向かうという不自然な旅程そのものが、この追放劇が周到に計画された殺害計画であったことの、動かぬ証拠と言えるかもしれない。
慶長8年(1603年)8月16日、義康一行は六十里越街道を越え、出羽国櫛引(現在の山形県鶴岡市)の一里塚付近に差し掛かった 2 。その時、松林に潜んでいた伏兵が一斉に鉄砲を放ち、一行に襲いかかった。凄まじい銃声が響き渡り、義康は腹部に二発の銃弾を受けて落馬。もはやこれまでと覚悟したのか、無念の自害を遂げたとされる。同行していた忠臣たちも奮戦したが多勢に無勢、主君の後を追い全員がその場で惨殺された 9 。享年29歳であった 1 。
この襲撃を実行したのは、土肥半左衛門(戸井半左衛門とも記される)らの一団であったと伝わる 11 。土肥氏は元々越中の武士であり、上杉家臣を経て最上家に仕えた、いわゆる外様の家臣であった 23 。譜代の重臣ではなく、このような「汚れ役」を請け負いやすい立場の人物が実行犯として選ばれたことからも、事件の計画性が窺える。
義康が最期を遂げた鶴岡市下山添には、現在もその胴体を葬ったとされる「修理塚」や、村人が供養のために建てたものの、何度建てても首が落ちたという逸話から「首なし地蔵堂」と呼ばれるようになった史跡が残り、悲劇の記憶を今に伝えている 25 。
嫡男・義康の暗殺という非情な手段によって、義光は後継者問題を「解決」したかに見えた。しかし、この事件は最上家の内部に修復不可能な亀裂を生じさせ、結果として、栄華を誇った一族をわずか数年のうちに崩壊へと導く、破滅の序曲となった。
義康の死後、義光は彼の遺品を調査させた。その中から見つかったのは、父子の不和を嘆き、父との和解と今後の武運を神仏に切々と祈る祈願文や日記であった 2 。息子の偽らざる本心を知った義光は、自らの行いを深く悔い、その死を大いに悲しんだと伝えられる 9 。
後悔の念に苛まれた義光は、義康の追善供養に努めた。山形城下に常念寺を建立(あるいは菩提寺として指定)し、寺領百石を手厚く寄進して、非業の死を遂げた息子の冥福を祈った 5 。この常念寺は山号を「義光山」と称し、現在も義康の菩提寺として、その悲劇の物語を伝えている 26 。
義光の後悔は、単なる追善供養に留まらなかった。事件に関わった者たちへの厳しい処断が実行される。
父子離反の元凶となった里見民部は、身の危険を察知して最上家を出奔し、加賀の前田家に庇護を求めた。しかし、義光は前田家に対して民部の引き渡しを強く要求。これが受け入れられ、山形へ護送される途中、里見民部は殺害された。公式には山賊に襲われたとされているが、義光の命を受けた斎藤光則の手による謀殺であったとも考えられている 2 。さらに義光は、死に際して後継者である家親に対し、「自分の死後、直ちに里見一族を根絶やしにせよ」と遺言した。この遺言に基づき、家親の代に里見一族の多くが粛清された 2 。
一方、暗殺の実行犯であった土肥半左衛門も、後に「成敗」されたと最上家の記録に残されている 11 。これは、口封じのために処断されたか、あるいは義光の意に反する部分があったために罰せられた可能性を示唆しており、事件の真相にさらなる謎を投げかけている。
義康の死によって、最上家の後継者は徳川家に近い家親に一本化された。しかし、この強引な継承が、最上家の未来に暗い影を落とす。義光の死後、家督を継いだ家親は、わずか3年後の元和3年(1617年)に江戸屋敷にて急死する。『徳川実紀』に「人みなこれをあやしむ」と記されるほどの突然の死であり、毒殺説も根強く囁かれている 17 。
家親の跡を継いだのは、その嫡子・義俊であったが、彼はまだ若年であった 32 。若き当主のもとで、家臣団の統制は完全に失われた。重臣たちの間では、義光の四男で人望のあった山野辺義忠を新たな当主に擁立しようとする動きが起こり、家中は義俊派と義忠派に分裂。激しい権力闘争、いわゆる「最上騒動」が勃発した 20 。
この内紛は幕府の仲介をもってしても収まらず、ついに幕府は「家中統制不届き」を理由に、元和8年(1622年)、最上家に対して57万石の領地を全て没収するという、改易の厳命を下した 5 。義光の死から、わずか8年後のことであった。
最上家の改易は、表面的には幼君・義俊の器量不足や家臣の権力争いが直接の原因とされている。しかし、その根本的な要因は、慶長8年(1603年)の義康暗殺事件に遡ることができる。正統な後継者であり、戦功も人望も厚かった義康を、非道な手段で排除したという事実は、最上家臣団の内部に、決して癒えることのない亀裂と深刻な不信感を生み出した。この亀裂は、絶対的な権力者であった義光の存命中はかろうじて抑えられていたが、彼の死、そして家親の早すぎる死によって、堰を切ったように噴出し、家を内部から崩壊させたのである。義康の死は、最上家の栄光の絶頂期に埋め込まれた、破滅への「時限爆弾」であった。その死は、単なる一つの事件ではなく、最上家没落の全過程を開始させた、最初のドミノだったのである。
最上義康の生涯を詳細に検証すると、彼が単なる「悲劇の嫡男」という言葉で片付けられるべき人物ではないことが明らかになる。彼は武勇に優れ、政務能力を磨き、さらには文化的素養をも兼ね備えた、戦国末期における理想的な後継者の一人であった 2 。彼の悲劇は、個人の無能さや欠点によるものではなく、戦国から近世へと移行する時代の大きなうねりの中で、父・義光が下した冷徹な政治判断と、家臣団の権力闘争という思惑が複雑に絡み合った結果であった。
義康の存在と、その非業の死が持つ歴史的意義は極めて大きい。それは、出羽の地に57万石という巨大な版図を築き上げた最上家の栄華と、その後のあまりにも早い没落とを繋ぐ、決定的な転換点であった。もし彼が家督を継いでいれば、在地家臣団との強い絆を基盤に、最上家の歴史は大きく異なる道を歩んだであろう。
最上義康の物語は、戦国大名が近世大名へと自己変革を迫られる過程で生じた矛盾と、一つの巨大な「家」がその存続のために払った犠牲を、鮮烈に映し出している。彼は、時代の論理によって淘汰された悲運の将であり、その死は、奥羽の地に覇を唱えた一族の終焉を静かに告げる、悲しい鐘の音だったのである。