最終更新日 2025-07-17

最上義時

最上義時は最上義光の弟とされるが、その実在は疑わしい。天正最上の乱で反義光勢力の旗頭として戦い、自害したとされるが、これは後世の軍記物語で創られた物語の可能性が高い。

最上義時 ― 創られた悲劇の英雄か、戦国出羽の構造的対立の象徴か

序論:最上義時という「物語」への問い

戦国時代の出羽国にその名を刻む武将、最上義光。彼の生涯は、大大名へと駆け上がった栄光と共に、骨肉の争いという暗い影に彩られています。その影の象徴として語り継がれてきたのが、弟「最上義時」の存在です。

広く知られる物語によれば、義時は最上家第10代当主・最上義守の次男として生を受けました。父・義守は、野心的で強硬な嫡男・義光を疎み、温和な次男・義時を偏愛したとされます。この父の寵愛が、兄弟の間に埋めがたい亀裂を生み、やがて家督を巡る争いへと発展します。義光の集権的な政策に反発する天童頼貞ら出羽の国人衆は、義時を旗頭として担ぎ上げ、ここに最上家を二分する内乱が勃発。しかし、兄・義光の前に劣勢に立たされた義時は、居城である中野城で自害に追い込まれるという悲劇的な最期を遂げたとされています 1 。この物語は、義光の非情さと義時の悲運を際立たせ、長年にわたり最上家の内紛を説明する定説として受け入れられてきました。

しかし、この分かりやすい悲劇の裏側で、近年の歴史研究は重大な問いを投げかけています。それは、「最上義時という人物は、果たして本当に実在したのか?」という根源的な疑問です 3 。本報告書は、この通説と学術的見解の間に横たわる溝を埋めるべく、まず伝統的に語られてきた「最上義時」の物語を深く掘り下げ、次いでその実在性を一次史料に基づいて徹底的に検証します。そして最後に、彼が巻き込まれたとされる「天正最上の乱」の真相を、個人の感情論ではなく、戦国末期の出羽国が抱えていた構造的な対立として再解釈することを目的とします。


第一部:天正最上の乱と「悲劇の弟」― 伝統的解釈の深層

この部では、まず通説として語られる物語を詳細に再構築し、その内部論理と登場人物の動機を深く掘り下げます。この物語は、史実の是非は別として、なぜ人々が「最上義時」という悲劇の英雄を必要としたのかを理解する上で不可欠な前提となります。

第一章:父子の相克と兄弟の亀裂

天正最上の乱の根源は、最上家の当主であった義守と、その嫡男・義光の間にあった深刻な対立に求められます。

当主・最上義守の苦悩

最上家第10代当主・最上義守(1521-1590)は、室町時代以来の名門としての権威を背景に、出羽国を治めていました 5 。しかし、その支配は盤石なものではありませんでした。周辺には南の伊達氏、西の庄内大宝寺氏、越後の上杉氏といった強豪がひしめき、領内には天童氏をはじめとする独立性の高い国人領主たちが割拠していました。このような状況下で義守が選択したのは、国人衆との緩やかな連合体を維持し、婚姻政策などを通じて周辺勢力とのバランスをとるという、伝統的かつ慎重な統治スタイルでした 7 。彼の目標は、急進的な領土拡大よりも、既存の秩序の中で最上家の盟主としての地位を保つことにあったと考えられます。

嫡男・義光の野心と確執

一方、嫡男の義光(1546-1614)は、父とは全く異なる価値観を持つ人物でした 8 。彼は、国人衆がそれぞれに自立している状態を許さず、武力や謀略を用いてでも彼らを完全に支配下に置き、領国を一元的に統治する「戦国大名」となることを目指していました 7 。この中央集権化への渇望は、父・義守の連合体構想とは真っ向から対立するものでした。義光から見れば父の政策は弱腰に映り、義守から見れば義光のやり方は家中を無用の混乱に陥れる危険なものに見えたことでしょう。この統治方針を巡る根本的な思想の違いが、父子の間に深刻な確執を生み出す土壌となりました。

次男・義時への偏愛

この父子の対立という文脈の中で、「悲劇の弟」義時の存在が浮かび上がります。通説によれば、義守は強引な義光を嫌い、性格が温和であったとされる次男の義時を溺愛するようになりました 10 。そして、ついに義光を廃嫡し、義時に家督を譲ろうと画策したとされています 1 。この物語において義時は、父・義守が理想とした、国人衆と協調できる穏健な統治者の姿を体現する存在として描かれます。父の偏愛は、単なる感情的な問題ではなく、最上家の将来の方向性を巡る政治的な選択の表れであったと解釈されるのです。この義時への家督継承計画が、兄弟間の対立を決定的なものにしたと物語は語ります。

第二章:反義光連合の形成 ― 義時の下に集う者たち

元亀元年(1570年)、一度は父子の和解が成立し、義光は家督を継いで山形城主となります 4 。しかし、家督を継いだ義光が、かねてからの構想通り強引な家中統制を開始すると、それに反発する勢力が再び結集し始めます。

旗頭としての義時

義光の政策に不満を抱く一族や国人衆にとって、隠居の身であった前当主・義守と、その寵愛を受ける義時は、反旗を翻すための格好の大義名分となりました 3 。彼らは義時を旗頭として擁立し、反義光連合を形成していきます。この構図において義時は、単なる家督争いの当事者ではなく、義光の「非道」なやり方に抵抗する正義の象徴としての役割を担わされることになります。

最上八楯の動向

反義光連合の中核を成したのが、天童頼貞を盟主とする国人連合「最上八楯(もがみはっしゃく)」でした 13 。天童氏をはじめとする八楯の構成員は、最上宗家に従属する家臣というよりは、それぞれが独立した領地と権力を持つ領主でした 12 。彼らにとって、義光による領国の一元支配は、自らの独立性を奪われ、完全に家臣として組み込まれることを意味しました。自分たちの既得権益と地位を守るため、彼らが義光の集権化政策に激しく抵抗し、旧来の秩序を代表する義守・義時方に味方したのは、必然的な選択であったと言えます。

伊達輝宗の介入

この内乱をさらに複雑にしたのが、隣国・伊達家当主である伊達輝宗の介入でした。輝宗は義光の妹・義姫を正室に迎えており、義光とは義理の兄弟にあたります。しかし、彼は義光方ではなく、義父である義守方に加担し、大軍を最上領内へと派遣しました 4 。その背景には、最上家の内乱に介入することで同家を弱体化させ、可能であれば傀儡政権を樹立することで、出羽国における伊達家の影響力を一気に拡大しようという冷徹な政治的計算がありました。輝宗の参戦により、最上家の内紛は、出羽の覇権を巡る伊達・最上間の代理戦争の様相を呈することになったのです。

第三章:内乱の結末と義時の最期

天正2年(1574年)、義守からの援軍要請を受けた伊達輝宗が軍事行動を開始したことで、天正最上の乱の火蓋が切られました 4

中野城の攻防

通説によれば、義時は中野城(山形市中野)を居城としていました 3 。この城は、反義光勢力の拠点となり、内乱における象徴的な戦場の一つとなります。義光は、伊達軍や最上八楯の攻撃に苦しめられながらも、中野城に拠る弟との直接対決に臨んだとされています。

悲劇の終焉

外部の伊達軍と内部の国人衆に四方を囲まれ、一時は窮地に陥った義光でしたが、戦況は次第に彼に有利に傾いていきます。そして物語は、兄の猛攻の前に中野城で追い詰められた義時が、もはやこれまでと自害して果てた、という結末を迎えます 1 。この結末は、義光の「非情さ」と、父の愛に翻弄された義時の「悲劇性」を決定的に印象づけるものとなりました。また、義時の子とされる備中丸は家臣に連れられて伊達家のもとへ落ち延びたと伝えられており、物語にさらなる余韻を残しています 2 。こうして、義光は最大の政敵であった弟を排除し、出羽統一への道を突き進んでいくのです。


第二部:歴史の法廷に立つ義時 ― 実在性の学術的検証

第一部で詳述した「悲劇の弟・義時」の物語は、非常にドラマチックで分かりやすく、長年にわたって人々の心を捉えてきました。しかし、歴史学の観点からこの物語を検証すると、その根幹を揺るがす重大な問題に突き当たります。

第一章:一次史料の沈黙

歴史研究において、ある人物や事件の実在性を証明する上で最も重要視されるのが、その出来事と同時代に書かれた記録、すなわち「一次史料」です。書状や公的な日記、土地の売買記録などがこれにあたります。

決定的な証拠の不在

本報告書の核心的な論点となりますが、天正最上の乱が起きた天正年間、およびその前後の時代の信頼できる一次史料の中に、「最上義時」という名前は一切見出すことができません 3 。これは極めて重大な事実です。最上家の家督を巡り、伊達家という大国まで介入するほどの大規模な内乱が起きたにもかかわらず、その中心人物の一人、反乱軍の旗頭であったはずの人物の名前が、同時代のあらゆる記録から完全に抜け落ちているのです。

この事実は、単なる記録の散逸や欠落というレベルの問題ではありません。戦国時代の家督争いのような重大事件において、主要な当事者の名前が、特に敵対勢力(この場合は義光や伊達輝宗)の書状などから完全に消えることは、通常では考えられません。敵方の総大将の名前を知らずに戦うことはあり得ず、むしろその名前は非難や交渉の文面で頻繁に登場するはずです。この「名前の不在」こそが、「最上義時」という人物の実在性に、根本的な疑問符を投げかける最大の根拠となっています。

「中野殿」という記述の分析

一方で、天正最上の乱に関する史料の中には、「中野殿」や「中野氏」が義守方として義光と戦ったことを示唆する断片的な記述が存在します 4 。これを義時の存在の証拠と見る向きもありますが、これもまた慎重な解釈が必要です。そもそも中野氏は、最上氏の庶流一族として古くから存在しており、義光の弟とは別に、中野の地に拠る一族がいたことは確かです 12 。したがって、史料に見える「中野殿」が、必ずしも「義光の弟」個人を指すとは断定できず、中野一族そのものを指している可能性も十分に考えられます。この「中野殿」という曖昧な呼称と、「最上義時」という具体的な個人名を直接結びつける確固たる証拠は、現在のところ存在しないのです。

つまり、史実として確認できるのは、「天正最上の乱において、中野に拠点を置く何らかの勢力(中野氏一族、あるいはそこにいたかもしれない義光の弟)が、義守方に与して義光と戦った」という事実までです。そこに「義時」という名前と、父に偏愛された悲劇の弟という人格が与えられるのは、もっと後の時代のことになります。

第二章:「最上義時」像の誕生と機能

では、実在が疑わしい「最上義時」という人物像は、いつ、なぜ、どのようにして創り出されたのでしょうか。その答えは、江戸時代以降に成立した軍記物語の中に求めることができます。

軍記物語の役割

天正最上の乱から時代が下った江戸時代に、『奥羽永慶軍記』などの軍記物語が編纂されました。これらの物語は、歴史的事実を元にしながらも、読者の興味を引くために多くの脚色が加えられています。天正最上の乱という出来事を物語として描く上で、その原因は非常に複雑でした。それは、大名の集権化政策、国人領主の独立志向、周辺大名の思惑といった、政治的・構造的な要因が絡み合ったものでした。

しかし、このような複雑な背景は、物語として語るには難解です。そこで物語の作者たちは、この複雑な対立構造を、「父子の情愛」や「兄弟の確執」といった、より普遍的で分かりやすい人間ドラマに落とし込むことを考えました 3 。その際に、対立の象徴として創り出されたのが「最上義時」というキャラクターだったのです。「父に愛された温和な弟」と「父に疎まれた野心的な兄」という対立軸を設定することで、読者は複雑な政治状況を、善悪二元論的な人間関係の物語として容易に理解し、感情移入することが可能になります。「最上義時」は、歴史の複雑さを物語へと翻訳するための、極めて効果的な「装置」として機能したのです。

義光像の固定化

「悲劇の弟・義時」という存在は、対比的に兄・義光の人物像を固定化する上でも重要な役割を果たしました。弟を死に追いやった非情な兄というイメージは、義光を「目的のためには手段を選ばない梟雄(きょうゆう)」として描く上で、これ以上ないほど効果的でした。

最上家は江戸時代初期に改易されており、その歴史は、ライバルであった伊達氏や上杉氏といった、存続した大名の視点から語られる側面が強くなりました 15 。彼らにとって、最上義光は手強い敵であり、その評価が必ずしも好意的でなかったことは想像に難くありません。「最上義時」の悲劇の物語は、こうした反義光的な歴史観を補強し、後世における義光の「悪役」としてのイメージを決定づける一因となった可能性も指摘できるでしょう。


第三部:天正最上の乱の真相 ― 構造的対立としての再解釈

「最上義時」という物語のフィルターを取り払い、歴史の現実に目を向けるとき、天正最上の乱は全く異なる様相を呈してきます。それは個人の感情が引き起こした悲劇ではなく、戦国時代から近世へと移行する出羽国が経験した、体制変革の必然的な痛みでした。

第一章:戦国大名・最上義光の領国経営構想

乱の真の主役は、義時ではなく、兄・義光の抱いた壮大な構想そのものでした。

集権化への渇望

義光が目指したのは、父・義守のような国人領主たちの盟主(いわば「社長会の会長」)ではなく、領内のあらゆる権力を宗家に集中させ、家臣団を完全に統制下に置く「戦国大名」(いわば「絶対的な権力を持つCEO」)としての地位確立でした 7 。これは、最上家だけの特殊な動きではありません。南では伊達家が天文の乱(1542-1548)という大規模な内訌を経て父・稙宗の拡大連合路線を否定し、嫡男・晴宗の下で集権化を進めていました 16 。全国的に、中世的な分権体制から近世的な集権体制へと移行する大きな潮流の中に、義光もまた身を置いていたのです。

政策の具体例

家督を継承した義光は、この構想を実現すべく、矢継ぎ早に改革を実行しました。領内の実態を把握するための検地の実施、家臣団の知行(所領)を再編成して大名への依存度を高めること、そして「最上家家法」といった分国法を整備して大名の権力で領国を統治しようと試みることなどです 15 。これらの政策は、近代的・合理的な領国経営を目指すものでしたが、同時に、旧来の秩序の中で独立性を保ってきた国人領主たちの権益を根本から脅かすものでした。義光の急進的な改革こそが、国人衆の激しい反発を招き、天正最上の乱を引き起こした根本的な原因であったと結論付けられます。

この観点から見れば、天正最上の乱は、最上家内部の個人的な対立などではなく、「中世的国人連合体制」を維持しようとする旧守派(義守・国人衆)と、「近世的集権大名体制」を創り出そうとする改革派(義光)との間で行われた、体制選択を巡る構造的な闘争であったと理解できます。そして、その闘争の象徴として、後世に「最上義時」という人物が物語の中に配置されたのです。

第二章:独立領主たちの抵抗 ― 反義光連合の実像

反義光連合に加わった国人衆は、単に義光が憎いから、あるいは義守に同情したから戦ったのではありません。彼らは、自らの存亡をかけた合理的な政治判断として、義光に抵抗しました。以下に、主要な関係者の動向をまとめます。

表1:天正最上の乱 主要関係者一覧

人物

立場

概要と乱における動向

乱後の結末

最上義光

当主(義光方)

領国集権化を推進。父・義守や国人衆と対立し、伊達軍とも交戦 4

勝利。反対勢力を一掃し、出羽統一の礎を築く 4

最上義守

隠居(義守方)

義光の政策に不満を持つ国人衆に擁立される。伊達輝宗に援軍を要請 4

敗北。和睦後、菩提寺である龍門寺に隠居。天正18年(1590年)死去 6

(中野)義時

義光の弟(義守方)

【通説】父に偏愛され、兄と対立。反義光勢力の旗頭となる 2 。【学説】実在性に疑問 3

【通説】義光に攻められ自害 1 。実在しない可能性が高い。

伊達輝宗

伊達家当主(義守方)

義守の要請に応じ、最上領に大規模な軍事介入を行う 4

同盟者の蘆名盛興の急死により撤兵。乱は和睦で終結 4

天童頼貞

最上八楯盟主(義守方)

反義光勢力の中核。義光と激しく戦うが、後に和睦 12

娘を義光の側室に出し和睦。義光による切り崩しで八楯は崩壊 22

白鳥長久

谷地城主(義守方)

独立志向が強く、織田信長とも接触。乱では義守方に付く 4

乱後も義光と対立。天正12年(1584年)、義光の謀略により山形城で暗殺される 24

延沢満延

野辺沢城主(義守方)

最上八楯随一の猛将。当初は義光を苦しめる 27

天正12年(1584年)、娘と義光の子の婚姻により義光方に寝返る。八楯崩壊の決定打となる 27

各論:国人たちの思惑

  • 天童氏: 最上氏の庶流でありながら、村山地方北部に独自の勢力圏を築き、最上八楯の盟主として君臨していました 12 。義光の台頭は、自らの盟主としての地位を脅かし、最上宗家の下に完全に従属させられることを意味したため、激しく抵抗しました 23
  • 白鳥氏: 谷地城を拠点に最上川舟運を押さえて経済力を蓄え、中央の織田信長と直接誼を通じようとするなど、極めて強い独立志向を持っていました 12 。彼らにとって、義光の支配下に入ることは到底受け入れられる選択肢ではありませんでした 29
  • 延沢氏: 最上八楯の中でも随一の武勇を誇り、義光を大いに苦しめました 27 。しかし義光は、この猛将に対し、武力で屈服させるだけでなく、自らの娘(松尾姫)を満延の息子に嫁がせるという婚姻政策を用い、巧みに味方に引き入れました 28 。延沢氏の離反は、最上八楯の結束を内部から崩壊させる決定打となり、義光の優れた調略手腕を示す好例と言えます。

第三章:乱の戦史的経過と政治的帰結

戦いの推移

天正2年(1574年)1月、伊達輝宗の家臣が上山城を攻略したのを皮切りに、戦火は山形盆地全域に拡大しました 4 。伊達方についた国人衆は義光方の寒河江城を攻め、義光自身も山形城近郊の江俣などで義守・中野氏の軍勢と直接戦闘を交えています 4 。義光は四面楚歌の状況に陥り、一時は和議を模索するほど追い詰められました 4

伊達軍撤退のインパクト

この義光の窮地を救ったのは、軍事的な勝利ではなく、領外からもたらされた一つの情報でした。同年6月、伊達輝宗の重要な同盟者であった会津の蘆名盛興が急死したのです 4 。蘆名家の家督問題への対応を迫られた輝宗は、最上領から主力を引き上げざるを得なくなりました。最大の脅威であった伊達軍の撤退は、乱の帰趨に決定的な影響を与えました。これにより義光は息を吹き返し、戦いの主導権を握り返すことができたのです。

乱の政治的帰結

伊達軍撤退後、戦線は膠着し、同年9月10日、最上家臣の氏家氏と伊達家臣の亘理氏の交渉により、和睦が成立しました 4 。しかし、これは一時的な休戦に過ぎませんでした。義光にとってこの乱は、自らの領国統一事業における敵と味方を明確に識別する絶好の機会となりました。乱が終結した後、彼はかつて敵対した勢力に対し、周到な報復を開始します。天童氏は調略によって切り崩され、白鳥長久は謀殺され、寒河江氏も滅ぼされるなど、数年をかけて反対勢力は計画的に一掃されていきました 4 。天正最上の乱は、義光にとって出羽統一事業の苦い序章であると同時に、その後の領国平定に向けた具体的なロードマップを確定させる、極めて重要な戦いであったと結論付けられます。


結論:悲劇の弟から、歴史を読み解く鍵へ

本報告書で詳述してきたように、戦国武将「最上義時」は、同時代の信頼できる一次史料からはその存在を確認できない、実在が極めて疑わしい人物です。彼は、史実の人物というよりも、戦国時代における大名権力の確立過程で必然的に生じた、旧来の勢力との深刻な構造的対立を、後世の人々が理解しやすくするために創り上げた「物語装置」であった可能性が濃厚です。

複雑な政治的・経済的対立を、「父の偏愛を巡る兄弟の確執」という分かりやすい人間ドラマに置き換えることで、物語は魅力を増し、広く流布しました。そしてその過程で、兄・義光は「非情な梟雄」、弟・義時は「悲劇の英雄」という、固定化されたイメージを付与されることになったのです。

しかし、「最上義時」が実在しなかったからといって、彼の物語が無価値になるわけではありません。むしろ、「なぜそのような物語が求められ、語り継がれてきたのか」を問うことこそが、歴史を深く理解する上で重要です。彼の物語は、出羽国における中世から近世への移行期に起こった社会の激しい軋轢と、最上義光という稀代の戦略家による新たな秩序形成のダイナミズムを、私たちに教えてくれます。

「最上義時」という存在は、史実そのものではないかもしれません。しかし、彼の悲劇の物語は、歴史の深層を読み解くための貴重な「鍵」として、今なお我々に多くのことを語りかけているのです。

引用文献

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