最上義淳は羽州探題最上氏8代当主。戦国初期の不安定な時代に家督を継ぎ、中野氏を次男に継承させることで、後の最上義光の登場に繋がる血脈を残した。
本報告書は、戦国時代の出羽国(現在の山形県および秋田県)にその名を轟かせた最上義光の曾祖父でありながら、歴史的記録に乏しい最上氏第八代当主・最上義淳(もがみ よしあつ)の生涯と、彼が生きた時代の意味を、現存する史料から多角的に再構築することを目的とする。
調査を進めるにあたり、まず留意すべきは人物の同定である。江戸時代前期に最上家の改易という悲運に見舞われた当主「最上義俊(よしとし)」 1 と、本報告書の主題である戦国時代初期の「最上義淳(よしあつ)」は、しばしば混同されることがある。しかし、義俊が慶長11年(1606年)生まれであるのに対し 1 、本稿で扱う義淳は永正元年(1504年)に没した人物であり 3 、両者は時代も生涯も全く異なる別人である。
最上義淳の治世は、最上氏が室町幕府の権威を背景とした守護大名、すなわち「羽州探題」としての性格から、自らの実力でのみ領国を維持する「戦国大名」へと、その性格を大きく変質させていく過渡期に位置する。彼の生涯、そして特にその死は、一族の運命を激動の渦中へと投じ、後の飛躍と衰退に繋がる重要な転換点となった。本報告書では、義淳を単に「名将・義光の先祖」という一面的な見方から脱し、時代の転換をその身で体現した人物として、その実像に迫るものである。
最上義淳という一個人に焦点を当てる前に、彼が家督を継承した15世紀末の出羽国が、いかなる政治的・軍事的環境にあったのかを概観する。彼が直面した課題は、先代から引き継がれた構造的な脆弱性に根差していた。
最上氏の出自は、清和源氏足利氏の支流であり、室町幕府において三管領家の一つに数えられた名門・斯波氏に遡る 4 。南北朝時代の延文年間(1356年-1360年)、奥州管領であった斯波家兼の子・兼頼が、出羽国最上郡山形(現在の山形県山形市)に入部し、山形城を拠点としたのがその始まりである 4 。
兼頼とその子孫は、室町幕府より出羽国の統治を担う「羽州探題」に任じられ、「最上屋形」と称することを許された 4 。この幕府公認の役職は、最上氏が出羽国内の他の国人領主に対して優位に立つための、正統性と権威の源泉であった 3 。
しかし、応仁・文明の乱(1467年-1477年)を経て室町幕府の権威が全国的に失墜すると、羽州探題職もまた、その実効的な支配力を次第に失っていった 8 。最上義淳が当主となる15世紀末には、この名目上の権威と、実力で領国を維持しなければならないという戦国期特有の現実との間に、深刻な乖離が生じつつあった。
当時の出羽国は、最上氏による統一された支配下にあったわけではない。村山郡には長年の宿敵である寒河江氏 10 、庄内地方には大宝寺氏、北部に安東氏、仙北に小野寺氏といった有力な国人領主が割拠し、それぞれが独立した勢力として存在していた 11 。彼らは時に最上氏に従い、時に反抗するなど、出羽の政治情勢は複雑な権力バランスの上に成り立っていたのである。
中でも、最上氏にとって最大の脅威は、隣国・陸奥国から着実に出羽への勢力拡大を進める伊達氏であった。伊達氏は早くから置賜地方に進出し、出羽国内に確固たる足がかりを築いており、その北進政策は最上氏の存立そのものを脅かす恒常的な圧力となっていた 14 。
これらの事実を総合すると、最上義淳が父・満氏から家督を継承した時点で、最上氏が置かれた状況は極めて不安定であったことが浮かび上がる。彼が受け継いだものは、輝かしい家名と権威の残滓であったと同時に、深刻な構造的脆弱性、いわば「負の遺産」であった。
第一に、権威の源泉であった「羽州探題」という職は、もはや領国支配を保証する絶対的な力を持たない「名ばかりの権威」と化していた 4 。第二に、領内には独立性の高い国人領主が割拠しており、最上宗家の支配力は盤石とは程遠い状態にあった。そして第三に、外部からは強大な伊達氏が虎視眈眈と領国を窺い、常に軍事的な緊張に晒されていた 14 。義淳の治世は、この脆弱性が顕在化する直前の、いわば嵐の前の静けさの時期にあたる。彼の統治能力の如何に関わらず、彼が継いだ家督は、すでに内外に深刻な課題を抱え込んでいたのである。
この部では、断片的に残された史料を繋ぎ合わせ、最上義淳本人の人物像と、その短い治世の実態に迫る。
最上義淳の父は、最上氏第七代当主の最上満氏である 3 。満氏はもともと最上氏の有力な分家である中野氏の出身であったが、宗家の第六代当主・最上義秋に嗣子がいなかったため、養子として迎えられ宗家を継いだという経緯を持つ 16 。この事実は、最上宗家と中野氏との間に特別な関係があったことを示しており、後の義淳の采配、ひいては最上家全体の運命を理解する上で極めて重要な背景となる。
父・満氏が明応三年(1494年)8月14日に死去したことに伴い 16 、嫡男であった義淳が家督を相続し、最上氏第八代当主となった 3 。
なお、系図上には異説も存在する。多くの史料が義淳を満氏の「子」とする中で 3 、一部には満氏の「弟」であるとする説も見られる 4 。本報告書では、嫡男として家督を継いだとする通説を主軸に論を進めるが、このような系図上の錯綜は、この時代の記録が必ずしも一様でないことを示す好例として特筆に値する。
義淳は官途名として「左衛門佐(さえもんのすけ)」を、通称として「四郎五郎」を称したと伝わっている 9 。
彼の当主在位期間は約10年(1494年-1504年)に及ぶが、その治世における具体的な内政や大規模な軍事行動を詳細に伝える史料は、驚くほど乏しい。これは、彼の治世が比較的平穏であった可能性を示唆する一方で、彼の死後に続く息子・義定の時代の激動があまりに劇的であったため、相対的に義淳の事績が歴史の中に埋もれてしまった可能性も考えられる。この「記録の不在」そのものが、義淳という人物を特徴づける一つの要素と言えよう。
しかし、記録の沈黙の中にも、彼の深慮を窺わせる重要な一手が存在する。それは、一族、特に中野氏との関係に見ることができる。義淳は、父・満氏の出自である中野氏の当主を兼任し、その拠点である中野城を直轄下に置いていた 3 。そして、自身の嫡男である義定に最上宗家を継がせる一方、次男の義建(よしたつ)には中野氏を継がせ、中野城を与えたのである 3 。
この次男・義建への「中野氏継承」は、単なる分家の創設や領地の分与といった単純な行為ではない。ここには、最上宗家の将来を見据えた、極めて戦略的な意図があったと分析できる。
まず、中野氏は単なる分家ではなく、宗家に当主を輩出するほどの家格と実力を持っていた 16 。これは裏を返せば、宗家にとって最も頼りになる血族であると同時に、内紛の際には宗家を脅かしうる潜在的なライバルにもなり得る存在であったことを意味する。そのような重要かつ危険性をはらむ有力分家を、他家から養子を迎えるのではなく、自らの直系血族である次男に継がせることで、宗家への忠誠心を確固たるものにし、内部からの脅威を未然に防ぐ狙いがあったと考えられる。
この一見地味な采配が、数十年後に最上家の断絶という最大の危機を救う、決定的な役割を果たすことになる。義淳の死後、嫡男・義定の代で宗家の血筋は途絶えてしまう 23 。その際、伊達氏の強力な介入があったものの、最終的に最上家の家督を継いだのは、義淳が中野氏を継がせた次男・義建の孫にあたる義守であった 23 。もし義淳がこの時、中野氏を他家に継がせていたり、あるいはその存在を軽んじていたりすれば、この血脈は途絶え、最上氏は後継者不在のまま伊達氏に完全に吸収されていた可能性が極めて高い。したがって、義淳のこの一手は、彼自身がそこまで意図したか否かは定かではないにせよ、結果的に後の最上義光の登場へと繋がる「命綱」を準備した、先見性のある布石であったと高く評価できるのである。
最上義淳は、永正元年(1504年)にその生涯を閉じた 3 。死因や最期の具体的な状況に関する記録は見当たらない。しかし、この「永正元年」という年号は、彼の生涯、そして最上氏の歴史を語る上で、極めて重要な画期となる。
後の当主である最上義光が開創した光禅寺 26 や、その父・義守が隠居した龍門寺 24 など、子孫の菩提寺は明確に伝わっている。しかし、義淳個人の菩提寺や墓所の所在を直接的に特定できる史料は現存しておらず、彼の記録が歴史の中に埋もれていることを象徴している。
最上義淳の死は、単に一人の当主が世を去ったというだけでは終わらなかった。それは、最上氏が保っていた束の間の安定を崩壊させ、一族を本格的な戦国の荒波へと投げ込む引き金となった。
義淳の死後、家督は嫡男の最上義定が継承し、第九代当主となった 18 。義定の治世は、父の死の直後から波乱に満ちていた。
家督相続と同年(永正元年)、長年の宿敵であった寒河江氏で当主・宗広の死に伴う後継者争いが勃発した 10 。この内紛を好機と見た義定は、ただちに寒河江領への軍事侵攻を敢行した 18 。この迅速な行動は、新当主としての求心力を高め、父の代には見られなかった積極的な領土拡大の意志を示すものであった。しかし、この侵攻の際に発生した兵火により、寒河江の大寺であり、地域の信仰の中心であった慈恩寺の壮大な伽藍が焼失するという大きな代償を払った 18 。これは、戦国の争乱が宗教的権威をも容赦なく巻き込む、より苛烈な時代への突入を象徴する事件であった。
義定の積極策も、強大な伊達氏の前には及ばなかった。永正十一年(1514年)、山形に侵攻してきた伊達稙宗の大軍と長谷堂で激突。義定は天童氏や寒河江氏といった一族・傘下勢力を結集してこれに対抗したが、結果は最上連合軍の決定的敗北に終わった。この戦いで岳父の山野辺直広や寒河江一族の吉川政周らが戦死し、最上氏は甚大な被害を被った 23 。
この長谷堂合戦の敗北により、最上氏の独立性は事実上失われた。翌年、義定は稙宗の妹を正室に迎えるという形で和議を結ぶが、これは実質的な従属を意味する屈辱的なものであった 4 。最上義淳の死からわずか10年で、羽州探題の名門は、伊達氏の支配下に組み込まれることとなったのである。
義定の苦難は、彼個人の悲劇に留まらなかった。永正十七年(1520年)、義定は嗣子を成さないまま死去 18 。これにより、最上宗家は当主不在という断絶の危機に瀕する。この機を逃さず、義定の未亡人(伊達稙宗の妹)を介して伊達氏が後継者問題に強力に介入し、最上家を完全に傀儡化しようと図った 4 。
最上家中の国人たちは伊達氏の思惑に抵抗を示したが、最終的に、かつて最上義淳が中野氏を継がせた次男・義建の孫にあたる中野義清の子・義守が、わずか2歳で義定の養子として迎えられ、第十代当主となることで決着した 18 。
この時、最上家の家督を継いだ幼い義守こそが、後に伊達氏からの独立を回復し、最上氏の最大版図57万石を築き上げる名将・最上義光の父である 15 。すなわち、本報告書の主題である最上義淳は、歴史にその名を轟かせた最上義光の曾祖父にあたるのである 9 。
義淳から義光に至る複雑な家督継承の流れは、最上氏の存亡がいかに危うい状況にあったか、そして義淳の一手が如何に重要な意味を持ったかを如実に示している。
代 |
当主名 |
備考 |
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第7代 |
最上満氏 |
中野氏より入嗣し宗家を継承 16 。 |
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第8代 |
最上義淳 |
満氏の子。本報告書の主題 3 。 |
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├── |
(長男)最上義定 |
第9代当主。伊達氏に敗北し従属 23 。嗣子なく死去し、 |
宗家の直系は断絶 18 。 |
└── |
(次男)中野義建 |
義淳の采配により分家・中野氏を継承 3 。 |
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↓ |
(義建の子:中野義清) |
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↓ |
(義清の子) |
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第10代 |
最上義守 |
中野氏から義定の養子に入り、宗家を継承 23 。最上義光の父。 |
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第11代 |
最上義光 |
義守の子。最上氏の最大版図を築く 15 。 |
この系図が示す通り、義定の死によって最上宗家の直系は断絶した。しかし、義淳が次男・義建の血脈を中野氏という形で残していたために、最上氏は断絶を免れ、その血を次代に繋ぐことができたのである。
最上義淳の生涯を振り返ると、彼自身の特筆すべき治績や華々しい武功によってではなく、彼が生きた時代背景と、彼の死がもたらした劇的な影響によって、その歴史的重要性が浮かび上がってくる。彼は、室町幕府の権威が残照としてかろうじて機能していた最後の時代に最上氏を率い、その死は、一族を否応なく本格的な戦国の荒波へと投げ込む号砲となった。
義淳は、意図せずして最上氏の歴史における一つの分水嶺に立つ人物となった。彼の死は、羽州探題という旧来の権威の完全な終焉と、実力本位の戦国大名化(当初は伊達氏への従属という屈辱的な形であったが)への移行を決定づけた。彼の治世は、最上氏が中世的な権威に依存した時代から、近世的な領国支配へと向かう、まさにその転換点に位置していたのである。
同時に、彼の深慮ともいえる分家政策は、一度は途絶えかけた宗家の血脈を繋ぎとめ、後の最上義光の飛躍へと繋がる遠い、しかし決定的な伏線となった。もし彼が中野氏を掌握していなければ、最上義光という歴史上の傑物が登場する舞台そのものが、伊達氏によって取り払われていた可能性が高い。
結論として、最上義淳は派手な逸話を持つ英雄ではない。しかし、彼の存在と、そしてその不在が、東北地方の勢力図を塗り替え、最上家の運命を根底から左右したという点で、彼は戦国史において決して看過できない重要人物である。彼の生涯を丹念に追うことは、戦国時代という巨大な社会変革期を、一地方権力の興亡というミクロな視点から深く理解する上で、不可欠な作業と言えるだろう。