有原小六
有原小六は架空の人物。蜂須賀正勝の「小六」、在原業平・有馬晴信の「有原」、近代実業家原六郎の要素が混ざり、品川の豪商のイメージと結びついた伝承。
戦国時代の人物「有原小六」に関する総合的調査報告:歴史的実像の探求
序論:調査の端緒と「有原小六」という謎
本報告書は、ご依頼主様より提示された「日本の戦国時代に活躍した品川の商人、有原小六」という人物に関する、詳細かつ徹底的な調査の結果をまとめたものである。
調査の出発点として、まず戦国時代から江戸時代初期にかけての武家社会や商業史、ならびに品川地域の郷土史に関する広範な文献、古文書、歴史記録の精査を行った。しかし、その過程で極めて重要な事実が判明した。それは、ご依頼の「有原小六」という姓名を持つ単一の人物は、現存する信頼性の高い史料からはその存在を確認できない、ということである。
この発見は、本調査の方向性を大きく転換させるものであった。単一の人物の伝記を追うのではなく、「有原小六」という名が、なぜ、そしてどのようにして形成され得たのかという、より深く、より複合的な歴史の謎を探求する必要が生じたのである。
分析の結果、「有原小六」という人物像は、歴史上の実在した複数の著名な人物や、特定の時代・地域を象徴する概念が、後世の記憶や伝承の中で混同・結合されて生まれた「幻影」である可能性が極めて高い、との結論に至った。具体的には、以下の三つの要素がその核を成していると考えられる。
- 「小六」という通称 : 戦国武将・蜂須賀正勝の広く知られた通称。
- 「有原」という姓 : 平安の歌人・在原業平の「在原(ありわら)」、戦国大名・有馬晴信の「有馬(ありま)」、近代の実業家・原六郎の「原(はら)」といった、音の類似や文脈上の関連性を持つ複数の姓。
- 「品川の商人」という属性 : 戦国時代、実際に経済的中心地であった品川湊で活躍した豪商たちの歴史的事実。
したがって、本報告書は「有原小六」という幻影の人物を解体し、その構成要素である「小六」「有原」「品川の商人」がそれぞれ指し示す歴史的実像を徹底的に掘り下げ、それらが交錯する点と、歴史的記憶が形成される複雑な過程を解明することを目的とする。
報告全体の道標として、まず以下の比較分析表を提示する。この表は、一見無関係に見える複数の人物、時代、場所が、「有原小六」という一つのキーワードの下にどのように結びつきうるかを示しており、本報告書が展開する議論の全体像を把握するための一助となるであろう。
【表1:人物「有原小六」を構成する可能性のある歴史的要素の比較分析】
項目 |
蜂須賀正勝 |
在原業平 |
有馬晴信 |
原六郎 |
鈴木道胤・宇田川氏 |
時代 |
戦国~安土桃山 |
平安時代前期 |
戦国~江戸初期 |
明治時代 |
室町~戦国時代 |
称号・役割 |
武将、大名 |
貴族、歌人 |
キリシタン大名 |
実業家、銀行家 |
豪商、有徳人、在地武士 |
「有原小六」との関連 |
通称が「小六」 |
姓が「在原(ありわら)」 |
姓が「有馬(ありま)」 |
姓が「原」、名が「六郎」 |
「品川の商人」という属性 |
活動拠点 |
尾張、美濃、播磨、阿波 |
京、東国(伝説) |
肥前日野江 |
東京(品川御殿山) |
武蔵国品川湊 |
関連資料 |
1 |
8 |
12 |
15 |
17 |
この探求は、単に一人の人物の不在を証明するに留まらない。ご依頼主様の知的好奇心を起点として、我々は歴史的事実の断片が如何にして一つの「物語」や「イメージ」に収斂していくかという、歴史認識の力学そのものを解き明かしていく。
第一部:「小六」の記憶 ― 蜂須賀正勝の生涯と武功
「有原小六」という名の構成要素のうち、最も明瞭な実像を結ぶのが「小六」という通称である。これは、戦国時代から安土桃山時代にかけて、豊臣秀吉の腹心として天下統一に大きく貢献した武将、蜂須賀正勝(はちすか まさかつ)の通称「蜂須賀小六」に由来する。彼の波乱に満ちた生涯と、後世にまで語り継がれる武名は、「小六」という名が持つ武勇と機略に富んだイメージの源泉となっている。
1.1. 蜂須賀小六正勝の出自と台頭:尾張の土豪から秀吉の与力へ
蜂須賀正勝は、大永6年(1526年)、尾張国海東郡蜂須賀村(現在の愛知県あま市)に生まれた 1 。彼の家は、木曽川流域を支配する小豪族、いわゆる土豪の首領であり、父は蜂須賀城主であった蜂須賀正利であった 2 。後世の講談や小説では、しばしば野盗の頭領として描かれることがあるが、これは創作上の脚色であり、史実としては否定されている 3 。
蜂須賀氏は、正勝の曾祖父の代までは尾張守護の斯波氏に仕えていたが、斯波氏の衰退に伴い、父・正利の代には美濃国の斎藤氏に従属していた 4 。正勝の代になり、織田信長が尾張を統一し、美濃攻略へと乗り出す中で、歴史の表舞台に登場する。彼は当初、信長に仕え、やがて信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の与力(補佐役)としての地位を確立していく 5 。
1.2. 天下統一事業における役割:墨俣一夜城から播磨国主へ
蜂須賀小六の名を天下に知らしめた最初の大きな功績は、永禄9年(1566年)頃とされる、秀吉による美濃攻略の拠点「墨俣城」の築城である 1 。敵地である美濃の真っ只中に、短期間で城を築き上げるというこの困難な任務を、小六は川筋の地理に明るい土豪としての知識と人脈を駆使して成功に導いた。この「墨俣一夜城」の伝説は、秀吉の出世物語における重要な一場面として、小六の機知と実行力を象徴する逸話となった。
その後、小六は秀吉の快進撃と歩調を合わせるように、数々の戦で軍功を重ねていく。永禄11年(1568年)の近江六角攻め、元亀元年(1570年)の姉川の戦い、それに続く浅井氏の拠点・横山城の攻略など、常に秀吉の傍らで戦った 2 。天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡し、秀吉が近江長浜城主となると、小六も長浜領内に所領を与えられ、秀吉家臣団の中核を成す存在となった 1 。
彼の功績は戦場だけに留まらず、秀吉の中国方面軍司令官としての活躍を支え続けた。天正9年(1581年)、数々の戦功が認められ、ついに播磨国(現在の兵庫県南西部)の龍野城主に任じられ、一国一城の主、すなわち大名へと出世を遂げたのである 1 。
1.3. 軍事・行政・調略における手腕:秀吉の「黒子」としての実像
蜂須賀小六は、単なる勇猛な武将ではなかった。彼の真価は、軍事、行政、そして調略という多方面にわたる非凡な才能にあった。天正10年(1582年)、秀吉が毛利氏の高松城を水攻めにした際には、軍師・黒田官兵衛とともに敵将・清水宗治の説得にあたり、開城へと導いている 1 。また、天正9年(1581年)の因幡鳥取城攻めでは、力攻めが失敗するや、周囲の城を調略によって切り崩し、秀吉の得意戦術である兵糧攻めを成功に導くなど、柔軟な戦略眼も持ち合わせていた 5 。
行政官としての能力も高く評価されている。永禄12年(1569年)、秀吉が京都奉行を務めていた際には、その代官として京の警備を担当した。この時、二条城で火災が発生するが、小六は迅速な指揮でこれを鎮火させた。この功績により、時の将軍・足利義昭から桐の紋が入った羽織を褒美として下賜され、家紋としての使用を許されたという逸話も残っている 2 。
史料を紐解くと、秀吉の天下取りの重要な局面において、小六は常に黒田官兵衛と並び称されるほどの働きを見せている 5 。にもかかわらず、官兵衛ほど後世の評価が高くないのは、彼の生き方に起因すると考えられる。小六は、自らが前面に出て野心を示すよりも、11歳年下の主君・秀吉を支える「黒子」役に徹した。彼は秀吉がまだ低い身分であった頃からの盟友であり、その関係性を生涯にわたって維持し、秀吉の成功を第一に考え行動したのである。天正13年(1585年)の四国征伐後、息子の家政に阿波国が与えられると、自身は早々に家督を譲り、政治の第一線から退いた 5 。この謙虚で思慮深い姿勢が、彼を「忠実な補佐役」として歴史に記憶させる一方で、独立した英雄としての評価をある意味で抑制したのかもしれない。
1.4. なぜ「小六」の名が広く記憶されたのか:講談や小説における人物像の形成
蜂須賀正勝の劇的な生涯、特に秀吉との運命的な出会いや墨俣一夜城の逸話は、江戸時代以降の講談や立川文庫などの大衆向け読み物の格好の題材となった。これらの物語の中で、彼はしばしば荒々しいが義理人情に厚い、魅力的なキャラクターとして描かれた。
この大衆文化における繰り返し語られる過程が、「蜂須賀正勝」という正式な姓名から「小六」という通称を独立させ、一つの確立されたキャラクターとして民衆の記憶に深く刻み込む要因となった。この「キャラクター化」こそが、本来は何の接点もない「有原」という姓や「品川の商人」という属性と、後世において結びつくための素地を形成したと考えられる。人々は「蜂須賀正勝」という特定の歴史人物としてではなく、「小六」という、機知と武勇に富んだ英雄の典型として彼を記憶していったのである。
第二部:「有原」の残響 ― 複数の歴史的人物の影
「有原」という姓は、「小六」ほど明確な単一の源泉を持たない。しかし、その音の響きや文脈から、時代も背景も異なる複数の人物の影が浮かび上がってくる。平安時代の雅な歌人、戦国時代のキリシタン大名、そして近代品川の経済人。これらの人物たちが持つ要素が、記憶の中で交錯し、「有原」という名の多層的な響きを形成した可能性を探る。
2.1. 在原氏の系譜と文化的象徴性:平安の歌人・在原業平と『伊勢物語』
「有原(ありはら)」という音を聞いて、歴史に詳しい者がまず想起するのは、平安時代前期の貴族であり歌人の「在原業平(ありわらのなりひら)」であろう 6 。在原氏は、第51代平城天皇の皇子である阿保親王の子らが臣籍降下(皇族の身分を離れて臣下となること)して始まった皇別氏族であり、その血筋は極めて高貴であった 8 。
在原氏の中でも特に有名な業平(825-880)は、六歌仙および三十六歌仙の一人に数えられる当代随一の歌人である 7 。彼の生涯は、歌物語『伊勢物語』の主人公「昔男」のモデルとされ、容姿端麗で情熱的な恋多き人物として、後世に絶大な文化的影響を与えた 10 。『日本三代実録』には「体貌閑麗、放縦不拘(容姿は美しく、自由奔放であった)」と記されている 9 。
この在原氏の文化的権威は、後の時代、特に武士の世においても重視された。例えば、戦国時代に関東で勢力を誇った上杉氏の家臣・長野氏は、自らの家系を在原業平の子孫であると称していた 8 。これは、武家が自らの家格を高めるために、高貴な血筋や文化的な権威を借用した一例である。
「有原(ありはら)」と「在原(ありわら)」は、発音が酷似しており、口伝や筆記の過程で容易に混同されうる。このことから、一つの仮説が成り立つ。すなわち、戦国時代の「小六」という武勇のイメージに、対照的な「雅」のイメージを重ね合わせることで、人物像に深みと権威を与えようとする創作上の意図が働いた可能性である。武家でさえその権威を欲した在原氏の名を、後世の物語作者が借用し、それが「有原」として伝わった、あるいは、もし「品川の商人」が実在したとすれば、その人物が自らの箔付けのために在原氏を称し、それが転訛したという可能性も考えられる。
2.2. 戦国期における音の類似:キリシタン大名・有馬晴信
次に注目すべきは、戦国時代の九州で活躍した肥前日野江藩のキリシタン大名、有馬晴信(ありま はるのぶ、1567-1612)である 12 。彼の姓「有馬(ありま)」もまた、「有原」と音が近い。
晴信が生きた時代は、まさしく戦国末期から江戸初期にかけてであり、「戦国時代の人物」という条件に合致する。彼は、日本初のヨーロッパ公式訪問使節である天正遣欧使節を、従兄弟の千々石ミゲルを正使の一人として派遣したことで知られる 14 。また、南蛮貿易に極めて熱心で、その朱印船派遣回数は、九州の大名の中でも島津氏、松浦氏と並び最多であった 12 。
ここに、複数の接点による混同の可能性が浮かび上がる。第一に、「有馬」と「有原」という音の類似。第二に、彼が「戦国時代」の人物であること。そして第三に、彼が「南蛮貿易」という、広い意味での商業活動に深く関わっていたという事実である。
もし、ご依頼主様の記憶の源泉に「戦国時代」「ア行で始まる姓の人物」「貿易や商いに関わっていた」という断片的な情報があったとすれば、有馬晴信は非常に有力な候補となる。彼の「南蛮貿易」が、より一般的な「商人」というイメージに転化し、姓の「有馬」が記憶の中で「有原」へと変化し、そこに別の有名な通称である「小六」が結びついた、という混同のプロセスは十分に考えられるシナリオである。
2.3. 近代品川における名の類似:実業家・原六郎
時代は大きく下るが、「品川」という土地に焦点を当てた場合、もう一人、興味深い人物が浮上する。明治時代に日本の金融界を牽引した実業家、原六郎(はら ろくろう、1842-1933)である 15 。
彼は横浜正金銀行(後の東京銀行)の頭取などを歴任した大銀行家であり、明治25年(1892年)頃、品川の御殿山に三菱から広大な土地を取得し、壮麗な邸宅と庭園を構えた 15 。この場所は、後に原美術館(現在は閉館)が建てられたことでも知られている。
ここに、場所と名前による記憶の交錯という、新たな混同の可能性が見出せる。
- 場所の一致 : 彼は「品川」に居を構えた著名人である。
- 属性の類似 : 彼は「実業家・銀行家」であり、「商人」のイメージと直結する。
- 名前の類似 : 彼の名は「原 六郎(はら ろくろう)」であり、「有原」の「原」と、「小六(ころく)」に響きが近い「六郎」を併せ持つ。
歴史的記憶は、必ずしも年代順に整理されるわけではない。特に特定の土地にまつわる伝承は、異なる時代の著名人の逸話が混じり合い、一つの物語として再構築されることが少なくない。「品川の偉大な商人」という漠然とした記憶の中で、明治の実業家・原六郎の存在が、戦国時代の「小六」のイメージと時代を超えて融合し、「戦国時代の品川の商人、有原小六」という幻影を補強、あるいはその成立の一因となった可能性は否定できない。これは、歴史的記憶がいかに流動的で、複合的なものであるかを示す好例と言えるだろう。
第三部:「品川湊の商人」の実像 ― 戦国時代の経済拠点
「有原小六」を構成する三つの要素のうち、「品川の商人」は、幻影の中に埋め込まれた確固たる歴史的基盤を持つ。戦国時代の品川湊は、単なる宿場町ではなく、関東の経済を動かすダイナミックな物流拠点であり、そこには実際に強大な力を持つ商人たちが存在した。彼らの実像を追うことで、「品川の商人」という言葉が持つ歴史的な重みが明らかになる。
3.1. 中世・戦国期における品川湊の発展と重要性
品川湊(史料によっては品河湊とも記される)は、目黒川の河口付近に位置し、鎌倉時代から武蔵国の重要な港として機能していた 17 。室町時代に入るとその重要性はさらに増し、六浦湊(横浜市金沢区)に代わり、神奈川湊(横浜港)と並ぶ東京湾の二大港湾へと成長した 17 。
品川湊の繁栄を支えたのは、伊勢や熊野といった西国とを結ぶ太平洋の海上交易ルートであった 18 。西国から運ばれた大量の米、塩、小麦、酒、醤油などの物資は、一度品川湊に集積され、そこから江戸や武蔵国府(東京都府中市)、さらには関東一円へと流通していった 18 。このため、品川湊は大規模な米の集積地として、経済的にも軍事的にも極めて重要な拠点と見なされていた 17 。
その戦略的重要性の高さゆえに、戦国時代には、この地の支配権と、そこから上がる莫大な利権や兵糧米を巡って、扇谷上杉氏、後北条氏、そして房総半島の上総武田氏や安房里見氏といった戦国大名たちが激しい争奪戦を繰り広げた 17 。湊の寺社や町人たちは、各勢力から「制札(略奪や乱暴狼藉を禁じる立て札)」を購入することで、自らの安全を確保しようとしたという記録も残っている 17 。大永4年(1524年)、後北条氏の初代・北条氏綱が江戸城を攻略すると、品川湊の支配権も後北条氏の手に帰した 17 。
3.2. 品川を支配した豪商たち:鈴木道胤と榎本道琳
15世紀半ば、室町時代の品川湊でその発展の中核を担ったのが、鈴木道胤(すずき どういん)や榎本道琳(えのもと どうりん)といった商人たちであった 18 。彼らは「有徳人(うとくにん)」と呼ばれた中世の富裕層であり、その多くは紀伊国熊野の出身であったと伝えられている 19 。
特に鈴木道胤は、品川湊を拠点とする海上交易によって莫大な富を築いた豪商として知られる 23 。彼はその財力を背景に、品川の天妙国寺(現在の鳳凰山天妙国寺)に七堂伽藍を建立寄進するなど、地域の有力なパトロンでもあった 23 。
しかし、道胤は単なる商人ではなかった。彼は、江戸城を築城したことで有名な太田道灌や、当代随一の連歌師であった心敬(しんけい)とも深い交流を持つ文化人であり、地域の支配層にも影響力を行使する土豪的な存在であった 23 。文明元年(1469年)に道灌の父・道真が催した有名な連歌会「川越千句」には、道胤も息子と共に参加している 25 。後北条氏の遺臣・三浦浄心が著した『見聞集』にも、品川の長老が語る鈴木道胤の富と風流を好む姿が伝説として書き留められており、彼の存在がいかに大きく、後世まで語り継がれていたかがわかる 25 。
この鈴木道胤こそが、戦国期「品川の商人」の代表格と言える。彼の富と影響力、そして文化的な活動は、人々が「品川の豪商」に抱くイメージの源泉そのものである。しかし、彼の名は「鈴木」であり、「有原」でも「小六」でもない。この事実は、「品川の商人」という属性は歴史的事実に基づいているものの、それに付随する「有原小六」という姓名は、史実とは異なる要素が結合したものであることを明確に裏付けている。
3.3. 在地武士兼商人としての宇田川氏
品川湊には、鈴木道胤のような熊野出身の商人とは別に、もう一つの有力な一族が存在した。それが宇田川氏(うだがわし)である 22 。彼らは、在地に根を張った武士でありながら、同時に品川湊の交易に関わる商人でもあった 17 。
「宇田川氏系図」によれば、彼らの祖先は長禄元年(1457年)に太田道灌が江戸城を築城した際、江戸日比谷から北品川に移住を命じられたという 25 。当初は扇谷上杉氏に従っていたが、後北条氏が江戸を支配下に置くと、その配下に入り、地域の支配を担った 22 。
宇田川氏は、品川神社の神主職を兼任し、町衆の代表として後北条氏から直接書状を受け取るなど、地域の政治・経済・宗教のすべてに深く関与していた 22 。後北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入府すると、今度は徳川氏に従い、江戸時代には北品川宿の世襲名主を務める家系へと繋がっていく 25 。
宇田川氏の存在は、戦国時代において「武士」と「商人」の境界が、現代人が考えるほど明確ではなかったことを示す貴重な事例である。彼らは武力と経済力の双方を背景に地域社会に君臨した。この「武士でもある商人」というハイブリッドな姿は、武将である「小六」のイメージと、「品川の商人」という属性が、一人の人物像の中で矛盾なく結合し得た歴史的背景を説明するものである。
3.4. 戦国時代の品川における経済と信仰
品川湊の商人たちの活動を理解する上で、信仰、特に日蓮宗との深い関わりは欠かせない。鈴木道胤が日蓮宗の熱心な檀越であったことは既に述べたが 24 、それは彼一人に留まるものではなかった。
室町時代の僧侶の旅日記である『坂東導者日記』には、品川に日蓮宗の旦那(檀家、パトロン)が多数存在したことが記録されており、その総数は132人にものぼる。これは、同日記に記録されている江戸の26人、神奈川の12人といった他の地域を圧倒する数であり、品川湊がいかに日蓮宗信仰の篤い土地であったかを示している 31 。
商人たちは、寺社を経済活動の拠点や情報交換の場、そして精神的な支柱とし、一方で寺社は商人たちからの寄進によってその維持・発展を図るという、持ちつ持たれつの密接な関係が築かれていた。この経済と信仰が一体となったコミュニティこそが、戦乱の世にあって品川湊の繁栄を支えた原動力であった。
結論:幻影「有原小六」の再構築と歴史的意義
本報告書で展開してきた詳細な調査と分析の結果、戦国時代の「有原小六」という人物は、特定の単一の個人ではなく、複数の歴史的事実と人物像が、人々の記憶と伝承の中で長い時間をかけて融合し、結晶化した「幻影」であると結論付けられる。この幻影は、以下の核となる要素から再構築することができる。
- 武勇の象徴としての「小六」 : 豊臣秀吉の立身出世を支えた盟友、蜂須賀正勝の通称「小六」。彼の武勇伝や機知に富んだ逸話は、講談や小説を通じて大衆に広く浸透し、「小六」という名は理想的な英雄像の代名詞となった。
- 権威と混同の源泉としての「有原」 :
- 平安の歌人・在原業平の「在原」が持つ高貴な血筋と文化的な権威。その音の類似性から、「有原」という姓が物語に深みと格調を与えるために借用された。
- 戦国大名・有馬晴信の「有馬」という姓と、彼が関わった「南蛮貿易」という事実。「戦国時代」「ア行の姓」「商人(貿易)」というキーワードが、混同を誘発した。
- 近代品川の実業家・原六郎の「原」という姓と「六郎」という名。時代を超えて、「品川の商人」という記憶と結びついた。
- 歴史的実在性の土台としての「品川の商人」 : 戦国時代の品川湊が、実際に鈴木道胤や宇田川氏といった強力な豪商たちが活躍した経済の中心地であったという史実。彼らの存在が、「品川の商人」という属性に確固たるリアリティを与えた。
これらの別個の歴史的記憶の断片が、なぜ一つの人物像に収斂したのか。その背景には、人々が歴史に求める物語への希求があると考えられる。「有原小六」という人物像は、忠義と武勇に優れた英雄(小六)、高貴な血筋への憧れ(有原=在原)、そして地域に根差し富を築いた成功者(品川の商人)という、人々が魅力を感じる複数のアーキタイプ(典型)を一身に体現している。歴史は単なる過去の事実の記録ではなく、人々によって語り継がれ、再解釈され、時には誤解や混同を通じて新たな「物語」を生み出す、ダイナミックなプロセスである。「有原小六」の事例は、そのことを雄弁に物語っている。
ご依頼主様の探求心に端を発した本調査は、結果として、単一の人物の経歴を解明するという当初の目的を越え、日本の歴史の重層性や、歴史的記憶がいかにして形成され、変容していくかという、より普遍的で奥深いテーマを探る貴重な機会となった。ご依頼の問いは、歴史の表面的な事実の奥に潜む、人々の意識や文化の働きを解き明かすための、重要な鍵であったと言えよう。
引用文献
- 秀吉の右腕であり夜盗の親玉?蜂須賀正勝「戦国武将名鑑」 - Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/57734
- 蜂須賀小六正勝の生い立ちとその生涯 https://satoyama4.omiki.com/hatisukap.pdf
- 【戦国軍師入門】蜂須賀正勝――「野盗の親分」、実は外交折衝の達人 - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2022/06/05/100000
- 蜂須賀氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E6%B0%8F
- 「蜂須賀小六正勝」は秀吉のために黒子役に徹した名将だった! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/505
- 在原業平|世界大百科事典・日本架空伝承人名事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=431
- 在原業平(アリワラノナリヒラ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%9C%A8%E5%8E%9F%E6%A5%AD%E5%B9%B3-28111
- 在原氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E5%8E%9F%E6%B0%8F
- 在原業平 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E5%8E%9F%E6%A5%AD%E5%B9%B3
- 在原業平 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/ariwarano-narihira/
- 在原業平と長野氏の関係 - 箕輪城と上州戦国史 - FC2 https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E5%9C%A8%E5%8E%9F%E6%A5%AD%E5%B9%B3%E3%81%A8%E9%95%B7%E9%87%8E%E6%B0%8F%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82
- 有馬晴信 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%99%B4%E4%BF%A1
- 有馬晴信 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/arima-harunobu/
- キリシタン大名有馬氏の本拠地 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) https://oratio.jp/p_column/arimashinohonkyochi
- 品川・御殿山にみる温故知新 - 現代の理論 https://gendainoriron.jp/vol.14/column/col05.php
- 品川区の高級住宅街「御殿山」を歩いたら、家族で住みたくなる理由がわかりました https://precious.jp/articles/-/36544
- 品川湊 | 戦国の足跡を求めて...since2009 - FC2 http://pipinohoshi.blog51.fc2.com/blog-entry-243.html
- 品川湊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%81%E5%B7%9D%E6%B9%8A
- 品川湊 http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/sanngyou,seikatu/toukyouto/tyuseikaizyoukoueki/tyuseikaizyoukouekisinagawaminato.html
- 第30号 - 横浜開港資料館 - 横浜市 http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/images/kaikouno-hiroba_30.pdf
- 東海道(蒲田~品川)06-品川猟師町 - TEIONE BLOG - 平山 貞一 - エキサイトブログ https://teione.exblog.jp/25840234/
- 品川湊(東京都品川区)|産鉄族 - note https://note.com/santetsuzoku/n/n8a576ba645db
- 鈴木道胤 - 品川宿百科 https://hagure.jp/sina/view.cgi?mode=find&no=726
- 戦国の房総を訪れた連歌師宗長 https://www.jiu.ac.jp/japan/book/pdf/06_02.pdf
- 【鈴木道胤】 - ADEAC https://adeac.jp/shinagawa-city/text-list/d000030/ht000390
- 【鈴木道胤】 - ADEAC https://adeac.jp/shinagawa-city/text-list/d000010/ht001340
- 鈴木道胤屋敷 - 城郭図鑑 http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/012tokyo/176suzuki/suzuki.html
- 関東戦国史 第2部 戦国時代の争乱 - 歴史を旅しよう ~AI World https://www.takaobakufu.com/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E3%80%80%E7%AC%AC2%E9%83%A8%E3%80%80%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3/
- 宇田川氏とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%AE%87%E7%94%B0%E5%B7%9D%E6%B0%8F
- 宇田川氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E7%94%B0%E5%B7%9D%E6%B0%8F
- 【寺院と信仰】 - ADEAC https://adeac.jp/shinagawa-city/text-list/d000010/ht001350