最終更新日 2025-06-06

有馬義貞

「有馬義貞」の画像

戦国武将 有馬義貞の実像

序章:有馬義貞とその時代背景

  • 本報告書の目的と概要
    本報告書は、戦国時代の肥前国にその名を刻んだ武将、有馬義貞の生涯と事績について、現存する史料に基づき多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。特に、彼の出自、家督相続、南蛮貿易やキリスト教との関わり、龍造寺氏との関係、そして父による追放という特異な経験とその後の動向、さらには人物像に至るまで、詳細かつ徹底的に調査・分析を行う。
  • 有馬義貞が生きた戦国時代の肥前国の状況
    有馬義貞が生きた16世紀中頃から後半にかけての肥前国は、少弐氏、大友氏、龍造寺氏といった有力大名が覇を競い、国人領主たちが離合集散を繰り返す、まさに群雄割拠の時代であった。このような不安定な政治状況に加え、海外との窓口であった地理的条件から、南蛮貿易やキリスト教の伝播といった新たな時代の波が押し寄せていた。有馬氏は、島原半島を拠点とし、これらの内外の動きに深く関わっていくことになる。
    有馬氏は鎌倉時代に肥前国有馬荘の地頭職を得て以来、同地に勢力を扶植してきた一族である 1。15世紀中頃には、その勢力は島原半島のほぼ全域に及んでいたとされ、義貞の時代に至るまでの確固たる勢力基盤が形成されていたことがうかがえる 2。戦国期に入ると、義貞の子である有馬晴信はキリシタン大名として知られ、豊臣秀吉による九州平定後は肥前国高来郡に4万石の所領を安堵されるなど、有馬氏は肥前国における重要な地域権力として存在感を示した 1。

第一部:有馬義貞の出自と家督相続

  1. 生い立ちと家系
  • 生誕と死没
    有馬義貞は、大永元年(1521年)に生まれ、天正4年12月27日(西暦1577年1月15日)に56歳でその生涯を閉じた 3 。彼の活動期間は、戦国時代の中でも特に変動の激しい時期と重なっている。
  • 肥前有馬氏の概要と義貞の位置づけ
    肥前有馬氏は、肥前国高来郡有馬庄(現在の長崎県南島原市南有馬町・北有馬町一帯)を本拠とした武家である 5 。家系については、藤原純友の後裔を称したとされるが、より確実視されるのは肥前国藤津郡の荘官であった平清澄・直澄の子孫という説である 1 。鎌倉時代に有馬荘の地頭職を得て有馬氏を名乗り始め、南北朝時代には菊池氏や少弐氏といった南朝方の勢力に与して活動した記録が残る 1 。有馬義貞は、この歴史ある肥前有馬氏の第12代当主として、戦国乱世の荒波の中に身を投じることとなる 3
  • 父母兄弟
    義貞の父は、有馬氏の勢力を伸張させた有馬晴純である 3。母は、同じく肥前の有力国人であった大村純伊の娘であった 3。この婚姻は、有馬氏と大村氏との連携を意図したものであったと考えられる。
    義貞には複数の兄弟がいたことが確認されており、中でも特筆すべきは、日本初のキリシタン大名としてその名を馳せた大村純忠である 3。純忠は義貞の実弟にあたり、この兄弟関係は後の有馬氏の宗教政策や外交にも少なからぬ影響を与えた。父・晴純が義貞に対し、南蛮貿易の利益を求めて「大村純忠のように」キリシタンになるよう奨励したという記録は 3、この兄弟関係が単なる血縁を超えた政治的・経済的な文脈の中で意識されていたことを示している。純忠の先進的なキリスト教受容と南蛮貿易の推進は、有馬氏にとって魅力的なモデルケースとして映った可能性は高く、義貞の政策決定における一つの参照点となったであろう。その他、千々石直員、松浦盛、志岐諸経といった兄弟がいたと伝えられている 3。
  • (表1:有馬義貞 略年表)

和暦

西暦

主な出来事

典拠例

大永元年

1521年

誕生

3

天文21年

1552年

父・晴純より家督を相続

3

永禄5年頃

1562年頃

口之津を開港、南蛮貿易を開始

7

永禄6年

1563年

百合野の合戦で龍造寺氏に敗北。父・晴純により追放( 6 説)

6

永禄7年

1564年

父・晴純により追放( 3 説)

3

永禄9年以前

1566年以前

追放から復帰(父・晴純の死没は永禄9年2月末)

6

元亀元年

1570年

嫡男・義純に家督を譲り隠居

3

元亀2年

1571年

義純が死去。次男・晴信(鎮純)が家督を継承

3

天正4年

1576年

キリスト教の洗礼を受ける(洗礼名:ドン・アンドレス)

3

天正4年

1577年1月15日

死去(享年56)

3

この年表は、有馬義貞の生涯における主要な出来事を時系列で整理したものである。彼の人生が、家督相続、貿易の推進、宗教との関わり、そして追放と復帰、さらには度重なる家督の変動といった、まさに波乱に満ちたものであったことが一目で理解できる。

有馬氏が藤原純友の後裔を称したという伝承 [1] は、戦国時代における在地領主が自らの家系の権威を高め、周辺勢力との競争を有利に進めようとした意識の表れと解釈できる。これは、肥前守護職への就任(晴純の代)[2, 9] や、室町幕府の将軍からの偏諱(名前の一字)拝領といった行動にも繋がっている。義貞が12代将軍・足利義晴から「義」の字を賜り、「義貞」と名乗ったとされること [2, 3] は、まさにその一例である。地方の武家が中央の権威を利用して自らの地位を強化しようとするのは、戦国期に広く見られた傾向であり、有馬氏もまた、その潮流の中で自らの家の格を高めようと努めていたのである。

  1. 家督相続と初期の治世
  • 父・有馬晴純からの家督相続
    有馬義貞は、天文21年(1552年)、父・有馬晴純から家督を譲り受け、肥前有馬氏の当主となった 3 。この時、義貞は32歳であった。研究によれば、父・晴純が隠居して仙岩と号したのは天文20年(1551年)であり、その際に修理大夫の官途も義貞(当時の名は義直)に譲られた可能性が指摘されている 2 。このことから、実質的な家督相続はこの頃に行われたと考えられる。家督という実権と、幕府公認の官位という公的な権威がほぼ同時に継承されたことは、新当主としての義貞の権力基盤を固め、その正統性を内外に示す上で重要な意味を持っていた。
  • 室町幕府との関係と官位
    有馬氏は、義貞の父・晴純の代から室町幕府との関係構築を重視していた。義貞自身も、当初は晴直、後に義直と改名し、最終的には室町幕府12代将軍・足利義晴から偏諱を受け、「義貞」と名乗った 2。この偏諱拝領は、有馬氏が幕府との間に直接的な結びつきを持ち、その権威を背景に自らの家格を高めようとした戦略の一環であった。家督相続とほぼ時を同じくして、義貞は室町幕府の相伴衆にも列せられている 3。相伴衆とは、将軍の側近として幕政に関与し得る名誉ある地位であり、これもまた有馬氏の格式向上に寄与したであろう。義貞の官位は修理大夫であった 3。
    しかしながら、有馬氏が将軍から「晴」や「義」といった偏諱を拝領し、幕府から厚遇を受けたことは、九州における既存の勢力秩序に波紋を投げかけることにもなった。特に、九州探題を輩出するなど伝統的に高い家格を誇ってきた大友氏は、有馬氏のこうした動きを警戒し、幕府に対して抗議を行った記録が残っている 2。これは、中央の権威を背景とした有馬氏の地位向上策が、九州内の他の有力大名との間で新たな緊張関係を生じさせたことを示している。有馬氏の幕府への接近は、肥前国内での地位確立のみならず、九州全体の政治力学の中で自らを有利に位置づけようとする広範な戦略であったが、同時にそれは既存の秩序への挑戦とも受け取られ、新たな対立の火種を抱え込むことにも繋がったのである。

第二部:有馬義貞の政策と活動

  1. 南蛮貿易への傾倒
  • 口之津開港と貿易の推進
    有馬義貞の治世において特筆すべき政策の一つが、南蛮貿易への積極的な関与である。義貞は、実弟である大村純忠が永禄5年(1562年)に横瀬浦(現在の長崎県西海市)を開港したのとほぼ同時期に、自領内の口之津(現在の長崎県南島原市口之津町)をポルトガル船の来航地として開いた 4 。口之津は天然の良港であり、1582年頃までポルトガルとの交易が活発に行われた記録が残っている 7 。永禄10年(1567年)には3隻のポルトガル船が入港したとされ 7 、この港が南蛮貿易の重要な拠点として機能していたことがうかがえる。
  • 貿易がもたらした影響
    南蛮貿易は、有馬氏に多大な経済的利益をもたらしたと考えられる。義貞の子である有馬晴信の時代には、南蛮貿易によって得た莫大な富を背景に、多くの宣教師やキリシタンを保護し、また、龍造寺氏との重要な合戦であった沖田畷の戦いにおいては、大量の鉄砲や兵糧の援助を受けることができたと伝えられている 13。義貞の時代に築かれたこの貿易基盤が、後の有馬氏の隆盛、そして苦難の歴史に繋がる経済的・軍事的背景を形成したと言えるだろう。
    口之津の開港と南蛮貿易の推進は、必然的にキリスト教布教の許可と密接に結びついていた。当時のポルトガル商人は宣教師と一体となって来航することが多く、貿易の利益を享受するためにはキリスト教の布教をある程度容認する必要があった。この「貿易と宗教のパッケージディール」とも言うべき状況は、九州の多くの大名に見られた現象であり、有馬氏もその例外ではなかった。口之津は、貿易港であると同時にキリスト教宣教の拠点ともなり、イエズス会の巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノや、医師としても活動した宣教師ルイス・デ・アルメイダといった著名な人物も来航し、この地を拠点に布教活動を行った 7。その結果、有馬領内にはキリスト教文化が徐々に浸透し、教会や天主堂も建設された 7。
    南蛮貿易によってもたらされた鉄砲などの新兵器は、有馬氏の軍事力を強化し、周辺勢力との軍事バランスにも影響を与えた。また、貿易港の繁栄は、新たな商都の形成や商人層の台頭を促し、有馬氏の領国経済を潤す一方で、伝統的な国内交易ルートや地域経済構造にも変化をもたらした可能性が考えられる。
  1. キリスト教との邂逅と受容
  • キリスト教伝来と義貞の初期対応
    有馬義貞のキリスト教に対する態度は、単純なものではなく、時期によって複雑な変遷を辿った。当初、父・有馬晴純は、南蛮貿易による利益を期待し、義貞に対して、弟の大村純忠がそうであったようにキリシタンになるよう奨励していたとされる 3。しかし、キリスト教の布教が進むにつれて領内で内紛が生じると、晴純の態度は一変し、キリスト教に対して否定的な立場を取るようになったという 3。
    義貞自身は、永禄5年(1562年)には領内でのキリスト教布教を許可しているが 11、これは主に南蛮貿易の維持・拡大という経済的動機によるものであったと考えられる。彼自身がすぐに入信したわけではなく、むしろ自身の政治的立場や生命の危険、さらには領内の既存仏教勢力との摩擦などを考慮し、長らく逡巡していた様子がうかがえる 3。その葛藤は深く、天正元年(1573年)には、既にキリシタン大名となっていた弟の大村純忠に対し、身の危険が迫っているとして棄教を勧めるほどであった 3。この行動は、義貞がキリスト教の拡大がもたらすリスク、例えば他勢力からの攻撃の口実となったり、領内の一層の混乱を招いたりすることを現実的に認識していたことを示している。
  • 受洗とキリシタンとしての活動
    このような逡巡の期間を経て、有馬義貞は最終的にキリスト教の洗礼を受ける決断をする。天正4年(1576年)4月15日(一部史料では月のみの記載 3 )、イエズス会の日本布教長であったフランシスコ・カブラル神父の手によって洗礼を受け、正式にキリシタンとなった 3 。その洗礼名は、ドン・アンドレス(日本風には安天烈、安天連などと表記)であった 3 。義貞の受洗は、有馬家の家臣団にも大きな影響を与え、これを機に多くの家臣がキリスト教に改宗したと伝えられている 3
  • 領内におけるキリスト教の展開と影響
    義貞による布教許可、そして自身の受洗は、有馬領内、特に開港地であった口之津におけるキリスト教の飛躍的な発展を促した。口之津は南蛮貿易の拠点であると同時に、キリスト教布教の一大センターとなり 7、教会やセミナリヨ(小神学校)などが建設され、多くの宣教師が活発に活動を展開した。島原半島全体が有馬氏の保護のもとでキリスト教が栄えたと記録されており 14、発掘調査では教会堂の屋根に使用されたと考えられる「花十字紋瓦」が教会跡地から集中的に出土していることからも 11、当時のキリスト教施設の存在と繁栄ぶりをうかがい知ることができる。
    有馬氏によるキリスト教の受容と保護は、短期的には南蛮貿易による経済的利益や西洋の進んだ文化・技術の導入といった恩恵をもたらした。しかし、この決断は、後の豊臣政権、そして江戸幕府による禁教政策という大きな時代の転換の中で、有馬氏の運命を左右する極めて重大な要因となった。義貞の子・有馬晴信の代には、有馬領はキリシタンの一大拠点として知られ、多くの宣教師や信徒を保護したが 13、これが結果として岡本大八事件における晴信の失脚、さらには有馬氏の旧領における苛烈なキリシタン弾圧、そして日本史上最大規模の一揆である島原の乱(1637-1638年)へと繋がる遠因となったのである 13。義貞の時代の選択は、その時点では合理的な判断であったかもしれないが、数十年後には大きな悲劇の伏線となるという、歴史の皮肉を象徴している。

第三部:動乱の中の有馬義貞

  1. 龍造寺氏との攻防
  • 龍造寺隆信の台頭と有馬氏への圧力
    有馬義貞の治世は、隣国肥前で急速に勢力を拡大した「肥前の熊」龍造寺隆信の圧迫と常に対峙する苦難の時代であった。龍造寺氏は、少弐氏を滅ぼし、大友氏の勢力を後退させるなど破竹の勢いで版図を広げ、その強大な軍事力は有馬氏にとって深刻な脅威となった。龍造寺氏の執拗な南進策により、有馬氏はしばしば領内を侵略され、その勢力はじりじりと削られていった 4
  • 主要な合戦と外交
    有馬氏と龍造寺氏の対立は、義貞が家督を継ぐ以前からのものであった。天文14年(1545年)には、龍造寺隆信の父である龍造寺周家が、有馬義貞(当時はまだ若年であったと考えられる)の攻撃を防戦したという記録が、「多久崩れ」に関連する記述として残っている 15。これは、両家の間に長年にわたる因縁があったことを示唆している。
    義貞が当主となった後も、龍造寺氏との軍事的緊張は継続し、むしろ激化した。特に永禄6年(1563年)7月には、百合野の合戦において龍造寺軍に大敗を喫したとされ、この敗北は有馬氏の領国経営に大きな打撃を与えた 6。度重なる敗戦の結果、有馬氏は肥前国の藤津郡や杵島郡といった領地から撤退を余儀なくされ、その支配領域は島原半島の高来郡周辺に限定されるまでに衰退したと伝えられている 6。龍造寺氏の膨張が、有馬氏の勢力縮小に直接的に結びついていたことは明らかである。
    義貞の没後、その子・有馬晴信の代になると、天正6年(1578年)に龍造寺軍の攻撃によって有馬氏の重要拠点であった松岡城が陥落し、有馬氏は一時的に龍造寺氏への従属を余儀なくされる事態にまで追い込まれた 16。その後、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにおいて、有馬氏は薩摩の島津氏と連合し、龍造寺隆信本人を討ち取るという劇的な勝利を収めるが、これは義貞の死から7年後の出来事である。
    龍造寺氏という強大な外敵の存在は、有馬氏内部の結束を試すとともに、他の勢力との連携を模索させる外交的な動きを活発化させたと考えられる。義貞の父・晴純による義貞追放の一因として、この龍造寺氏との戦いにおける敗北が挙げられていること 3 は、外部からの圧力が内部の権力闘争や指導者の交代劇の引き金となり得ることを示している。晴信の代における島津氏との連合も、こうした危機的状況下での生き残りをかけた外交戦略の帰結であり、その萌芽は義貞の時代から模索されていた可能性も否定できない。
  1. 父・有馬晴純による追放
  • 追放の経緯と理由
    有馬義貞の生涯において最も特異な出来事の一つが、実の父である有馬晴純によって領外へ追放され、一時的に家督をも剥奪されたという事件である 3。この追放劇は、戦国時代の武家社会における権力移譲の複雑さと非情さを示す事例と言える。
    追放の時期については、史料によって若干のずれが見られ、永禄7年(1564年)とする説 3 と、永禄6年(1563年)とする説 6 が存在する。
    その理由についても、複数の要因が絡み合っていたと考えられている。一つは、キリスト教の布教を巡る領内での対立や混乱、そしてそれに対する父・晴純の態度の硬化である 3。晴純は当初、貿易の利益を期待してキリスト教に融和的であったが、布教が進むにつれて既存の仏教勢力との摩擦や家臣団内部の意見対立が顕在化し、これを問題視するようになったとされる。もう一つの有力な説は、宿敵である龍造寺氏との戦いにおける敗北、特に永禄6年(1563年)の百合野の合戦での大敗によって、義貞が家中の統制を失い求心力を低下させたことである 3。6の記述によれば、「龍造寺氏に大敗を喫して家中の統制を失い、隠居していた晴純によって領内から追放された」とあり、軍事的失敗が直接的な引き金となった可能性が高い。
    これらの要因は必ずしも排他的なものではなく、龍造寺氏に対する軍事的敗北が領内の不安定さを増幅させ、そこにキリスト教を巡る問題も絡んで、最終的に晴純による義貞追放という強硬手段に至ったと見るのが自然であろう。この事件は、義貞の指導力に対する深刻な不信任の表明であり、たとえ後に復帰を果たしたとしても、その権力基盤や家臣団統制能力に長期的な影響を与えたことは想像に難くない。
  • 追放中の動向と家督への復帰
    追放された後の義貞の具体的な動向については、残念ながら詳細な史料に乏しい。しかし、彼が完全に政治の舞台から姿を消したわけではなかった。
    家督への復帰の時期についても明確な記録はないものの、父・有馬晴純が永禄9年(1566年)2月末に没しており、その後に義貞が再び有馬氏当主の地位にあることから、晴純の死を契機として、あるいはそれ以前に何らかの形で復帰が認められていたと推測されている 6。この追放と復帰の経緯は、戦国時代における「隠居」や権力委譲の実態を考える上で興味深い。晴純による義貞の「追放」は、単なる親子間の権力闘争の結果という側面だけでなく、危機的状況において経験豊富な前当主が一時的に実権を掌握し、家中の混乱を収拾しようとする一種の危機管理であった可能性も指摘できる。戦国時代において「隠居」した大名が依然として家中に強い影響力を持ち続ける例は数多く、晴純が義貞を一時的に排除し、自らが事態の収拾にあたった後、状況が安定したと判断して義貞を復帰させたという見方も成り立つかもしれない。
  1. 家臣団の動向
  • 主要家臣、特に安富徳円の役割
    有馬義貞の治世における家臣団の動向は、必ずしも一枚岩ではなかった。領内には島原氏や西郷氏といった有力な国人領主が存在し、彼らは有馬氏の「老職」(家老に相当する重職)に就くことはなく、時には有馬宗家に対して反抗的な態度を取ることもあった 9。特に西郷氏は、有馬氏から半ば独立したような様相を呈しており、有馬氏の領国支配における不安定要素の一つとなっていた 9。このような有力家臣の自立的傾向は、有馬氏の中央集権化が十分に進んでいなかったことを示しており、龍造寺氏のような外部からの強大な圧力に対する脆弱性の一因となった可能性も否定できない。
    義貞の時代の老職としては、谷川弾正左衛門、久能武蔵守賢治、本田出雲守、堀斎宮純政、土黒淡路守といった名が挙げられている 9。しかし、これらの老職が十分に機能していたとは言い難く、むしろその権力基盤は脆弱であったと見られる。
    そのような中で、有馬氏の領国経営を実質的に支えたのが、安富徳円(洗礼名ジョアン)であった。徳円は、義貞の妻の兄弟(あるいは義貞の娘婿ともされるが、史料により記述に異同がある 9)という姻戚関係にあり、義貞、その子義純、そして晴信の三代にわたって有馬氏に仕えた重臣である。彼は賢明で博識な人物と評価され、特にキリスト教関連の政策においては、自身も受洗したキリシタンとして 9、宣教師との折衝や信徒の保護に重要な役割を果たした。また、島津氏との外交交渉においても手腕を発揮するなど、有馬氏の政治・外交を多方面から補佐した 9。老職が十分に機能せず、有力家臣が自立的傾向を示す中で、安富徳円のような当主の信頼厚く、かつ実務能力と忠誠心に優れた側近の存在は、有馬氏の領国経営にとってまさに生命線であったと言えるだろう。彼のキリスト教への深い理解や卓越した外交手腕は、有馬氏が南蛮貿易やキリスト教という新たな時代の要素を領国に取り込み、激動の戦国時代を乗り切る上で不可欠なものであった。

第四部:晩年と人物評価

  1. 家督の再譲渡と最期
  • 嫡男・義純への家督譲渡と義純の早世
    元亀元年(1570年)、有馬義貞は、生来病弱であったとも伝えられ、多病を理由として 6、嫡男である有馬義純に家督を譲り隠居した 3。この時、義貞は50歳であり、戦国武将としては必ずしも高齢ではなかったが、度重なる戦乱や政務による心労、そして自身の健康問題がこの決断を促したのかもしれない。
    しかし、後を継いだ義純は、その翌年の元亀2年(1571年)6月14日、未だ若くして、また嗣子を残すことなく急逝してしまった 3。義純の墓所は、有馬氏の本拠地であった日野江城下の台雲寺にあると伝えられている 10。
  • 次男・晴信(鎮純)の家督継承
    嫡男・義純の早世という不測の事態を受け、その実弟にあたる義貞の次男・鎮純(後の有馬晴信)が、義純の養嗣子という形で急遽家督を継承することとなった 3 。この時、晴信はまだ数えで5歳という幼少であり 17 、その治世の初期は困難を極めたであろうことは想像に難くない。義貞の隠居からわずか1年余りの間に当主が二度も代わり、しかも幼主が立つという事態は、有馬家中に大きな動揺をもたらし、龍造寺氏のような外部勢力にとっては介入の好機となり得た。この危機的な状況において、安富徳円のような経験豊富な重臣による補佐が不可欠であったと考えられる。
  • 義貞の死没
    家督を幼い晴信に託した後、有馬義貞は天正4年12月27日(西暦1577年1月15日)にその生涯を閉じた 3 。享年56であった。死因に関する具体的な記述は史料に見当たらないが 3 、前述の通り「生来の病弱であったらしく、保養のためにしばしば湯治を行ったことが知られる」との記録もあり 6 、晩年も健康に優れなかった可能性が示唆される。彼の「病弱」という側面は、比較的早い段階での隠居という政治的判断にも影響を与えたのかもしれない。
  1. 人物像と文化的側面
  • ルイス・フロイスによる評価
    有馬義貞の人物像を伝える同時代人の記録として最も重要なものは、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』における記述である。フロイスは、義貞について「詩歌に造詣深く、書道に巧みで、為政者としては老練慎重かつ賢明である」と高く評価している 3。また、義貞の死後には「その人柄は優しく、文化人であった」とも記しており 3、単なる武人としてだけでなく、一定の教養と文化的素養を備えた人物であったことをうかがわせる。
    しかしながら、フロイスの評価を鵜呑みにするには注意が必要である。宣教師の記録は、布教活動に協力的であった人物に対して好意的に記述される傾向があり、義貞が最終的にキリスト教を受洗し、宣教師の活動を保護したという事実が、その評価に影響を与えた可能性は否定できない。イエズス会の記録には、外国人としての当時の日本の社会情勢に対する知識の限界や、対立していた仏教諸宗派への偏見が見られるという指摘もある 18。したがって、フロイスの記述は貴重な証言であるものの、一定のバイアスを考慮して解釈する必要があるだろう。
  • 文化人としての逸話
    フロイスが詩歌や書道に言及していることから、義貞がこれらの分野で一定の技能を有していたことは推察されるが、残念ながらそれを裏付ける具体的な作品や逸話は、現在のところ史料からは確認されていない 4 。とはいえ、彼が文化的な素養を持っていたことは、単に武力に頼るだけでなく、教養や文化を通じて家臣や他勢力とのコミュニケーションを図り、また自身の権威を高めようとしていた可能性を示唆する。戦国時代において、文化的素養は、武将の人間的魅力や交渉能力を高める上で、決して無視できない要素であった。
  1. 家族
  • 正室・側室・子女
    有馬義貞の家族構成は以下の通りである。
    父は有馬晴純、母は大村純伊の娘であった 3。
    兄弟には、キリシタン大名として知られる大村純忠のほか、千々石直員、松浦盛、志岐諸経らがいた 3。
    正室は、重臣であった安富徳円の娘とされている 3。ただし、ルイス・フロイスの記録では安富徳円を義貞の「妻の兄弟」としており、『寛政重修諸家譜』の記述(徳円の娘が義貞の室)との間に相違が見られる点には留意が必要である 9。
    側室には、波多氏の出身で洗礼名をマリナという女性がいた 3。
    子女としては、嫡男で早世した有馬義純 3、後に家督を継ぎキリシタン大名として活躍する有馬晴信(初名・鎮純)3 の二人の息子のほか、娘たちがいたことが確認できる。娘の中には、西郷純堯に嫁いだマセンシア、大村純忠の子である大村喜前に嫁いだカタリーナなど、キリシタンとして洗礼を受けた者も含まれている 3。その他、波多親、千々石純友、掃部、純実、純忠といった名も子女として伝えられている 3。
    義貞自身が受洗しただけでなく、側室のマリナや娘のマセンシア、カタリーナといった家族にもキリシタンがいたことは、有馬家内部、特に奥向きにおいてキリスト教信仰が一定程度浸透していたことを示唆している。これは、当主の信仰が家族に影響を与える典型的な例であり、また、女性を通じて信仰が継承されたり、嫁ぎ先に伝播したりする可能性も示している。
    また、娘たちが西郷純堯や大村喜前といった周辺の有力国人のもとに嫁いでいることは、有馬氏が婚姻政策を通じて彼らとの関係を安定させ、連携を強化しようとした外交戦略の一端を示している。しかし、例えば西郷氏がしばしば有馬氏に対して反抗的な態度を取ったこと 9 や、大村氏とは比較的緊密な関係にありつつも、それぞれが独立した勢力として独自の判断で行動していたことを考慮すると、婚姻政策だけで必ずしも盤石な同盟関係を築き上げることができたわけではなかったことがうかがえる。これは、戦国時代の同盟関係の複雑さと流動性を物語っている。
  • (表2:有馬義貞 主要家族構成)

続柄

氏名(洗礼名など)

備考

典拠例

有馬晴純

3

大村純伊の娘

3

大村純忠

キリシタン大名

3

正室

安富徳円の娘

3

側室

波多盛の娘(マリナ)

キリシタン

3

嫡男

有馬義純

早世

3

次男

有馬晴信(初名:鎮純)

キリシタン大名、後の日野江藩主

3

西郷純堯室(マセンシア)

キリシタン

3

大村喜前室(カタリーナ)

キリシタン

3

波多親

3

千々石純友

天正遣欧少年使節の一人、千々石ミゲルの父(または近親)か(要追加調査)

3

終章:有馬義貞の歴史的意義

  • 有馬義貞の生涯の総括
    有馬義貞は、戦国時代の肥前国という、まさに群雄割拠の激動の舞台において、その生涯を駆け抜けた武将であった。彼は、南蛮貿易の導入やキリスト教の受容といった新たな時代の潮流に積極的に関与し、それによって領国の経済的発展と国際的な視野の獲得を図ろうとした。しかしその一方で、隣国である龍造寺氏の強大な軍事的圧力、実父・晴純による追放という屈辱的な経験、そして後継者である嫡男・義純の早世といった、数々の困難にも直面した。彼の生涯は、決して平坦なものではなく、常に内外の危機と対峙し続ける苦闘の連続であったと言える。それでもなお、彼が下した数々の決断と行動は、その後の有馬氏の歴史、さらには島原・天草地域全体の歴史の展開に、良くも悪くも大きな影響を与えたことは疑いようがない。
  • 戦国時代の肥前における彼の役割と後世への影響
    有馬義貞は、肥前有馬氏の当主として、南蛮貿易の新たな拠点として口之津を開港し、それによって得られる富を背景に領国の経済的基盤の強化を図った。また、キリスト教を保護し、最終的には自らも受洗したことは、島原半島におけるキリスト教文化の隆盛の礎を築いたと言えるだろう。彼がその治世に蒔いた種は、息子である有馬晴信の代に大きく花開くことになるが、それは同時に、後の豊臣政権や江戸幕府による禁教政策の下での過酷な弾圧と、島原の乱という悲劇の伏線ともなった。
    有馬義貞の生涯は、戦国時代の一地方領主が、国内の複雑な政治情勢と、海外からもたらされる新たな文化や価値観という、内外の大きなうねりの中で、いかにして自らの領国と家名を維持し、発展させようと苦闘したかを示す貴重な事例である。彼の苦悩に満ちた選択の連続は、現代に生きる我々に対しても、変革期におけるリーダーシップのあり方や、異文化受容がもたらす光と影について、多くの示唆を与えてくれると言えよう。彼の存在は、肥前国、そして日本の戦国時代史を語る上で、決して忘れてはならない一人である。

引用文献

  1. 有馬氏(ありまうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%B0%8F-28079
  2. 戦国期肥前有馬氏の勢力伸長と由緒主張 - 東京都市大学 https://www.tcu.ac.jp/tcucms/wp-content/uploads/2022/06/TCU_kiyo_Vol15_2022_04_marushima.pdf
  3. 有馬義貞 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E7%BE%A9%E8%B2%9E
  4. 有馬義貞(ありま よしさだ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E7%BE%A9%E8%B2%9E-1051481
  5. 肥前有馬氏とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%82%A5%E5%89%8D%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%B0%8F
  6. 有馬義貞 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/ArimaYoshisada.html
  7. かつての南蛮貿易港の今 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) https://oratio.jp/p_burari/katsutenonanbanbouekikou
  8. 有馬氏倫 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/arima.html
  9. 有馬氏の領国支配 https://nagasaki-u.repo.nii.ac.jp/record/6506/files/kyoikuSyK49_A001.pdf
  10. 有馬義純 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E7%BE%A9%E7%B4%94
  11. 長崎新キリシタン紀行-vol.1 キリスト教の伝来と繁栄 - ながさき旅ネット https://www.nagasaki-tabinet.com/feature/shin-kirishitan/1
  12. なんばん大橋|【公式】九州の今 https://www.welcomekyushu.jp/kyushu_now/nagasaki/113.html
  13. 有馬晴信とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%99%B4%E4%BF%A1
  14. 日野江城跡から有馬川殉教地へ | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) https://oratio.jp/p_burari/hinoejo-arimagawajunkyouchi
  15. 大町町の中世の歴史 - 鶴崎とは http://tsurusakiroots.g2.xrea.com/tusuru-oomachi-rekishi.htm
  16. 有馬晴信 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/arima-harunobu/
  17. 有馬晴信(アリマハルノブ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%99%B4%E4%BF%A1-28086
  18. 明智光秀に対してのイエズス会の評価と 歴史に記録されている明智光秀の姿 - note https://note.com/shigetaka_takada/n/nf97818913be1