服部友貞は尾張の土豪で、水運と一向宗門徒を背景に織田信長に抵抗。桶狭間では今川方として参戦。信長の謀略で蟹江城を失い、伊勢米野で自害。彼の死後、服部党は長島一向一揆の中核となり信長と戦った。
戦国時代の風雲児、織田信長の尾張統一事業は、しばしば清洲の織田大和守家や犬山の織田伊勢守家といった同族間の抗争に焦点が当てられる。しかし、その過程において、尾張国内には信長の覇権に容易に屈しない、強固な独立性を維持した勢力が存在した。その筆頭格こそ、本報告書で詳述する服部友貞(はっとり ともさだ)と、彼が率いた「服部党」である。
信長の生涯と事業を記録した第一級史料『信長公記』は、その首巻において、当時の尾張の情勢を記す中で、特筆すべき一文を残している。「河内一郡は二の江の坊主服部左京進横領して御手に属さず」 1 。これは、尾張の河内郡(かいさいぐん、現在の愛知県弥富市周辺)が、服部左京進(友貞)なる人物によって支配され、信長の支配下に入っていなかったことを明確に認める記述である。天下統一を目指す信長自身が、その公式記録の冒頭で言及せざるを得なかったほどの存在、それが服部友貞であった。
彼の物語の舞台となる尾張国河内郡から伊勢国長島(現在の三重県桑名市)にかけての地域は、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が伊勢湾に注ぐ広大なデルタ地帯である。無数の川と中洲が織りなすこの「輪中地帯」は、陸上からの軍事行動を著しく困難にする一方、水運を掌握する者にとっては天然の要害であり、経済的利益の源泉でもあった 1 。服部友貞と服部党は、この水辺の世界に根を張り、信長の陸の論理とは異なる原理で行動する、まさに「尾張の独立峰」と呼ぶべき存在だったのである。本報告書では、この服部友貞という人物の生涯を、その出自から最期、そして彼が率いた一族の驚くべきその後の軌跡に至るまで、多角的な視点から徹底的に解明していく。
服部友貞の抵抗の根源を理解するためには、まず彼が率いた「服部党」の実態と、その活動拠点であった伊勢長島周辺の地政学的な重要性を把握する必要がある。彼らは単なる土豪ではなく、地理的、経済的、そして宗教的な要因が複雑に絡み合った、独自の権力基盤を築き上げていた。
一般に「服部」と聞くと、徳川家康に仕えた忍者・服部半蔵正成を想起するが、服部友貞が率いた服部氏は、その系統とは異なる 3 。友貞の服部氏は伊勢国奄芸郡(あんげぐん)を発祥とする一族とされ、伊賀国をルーツとする半蔵の家系とは明確に区別される 4 。
友貞が党首を務めた「服部党」は、彼を盟主として、地域の地侍や土豪、さらには戦乱で所領を失った落ち武者などを糾合した、一種の武装連合体(国人一揆)であったと見られる 3 。彼らの本拠地は、尾張国荷之上(のこのうえ、現在の愛知県弥富市荷之上町)や、その近隣の鯏浦(うぐいうら、同市鯏浦町)に置かれていた 1 。この地域は、尾張と伊勢の国境地帯に位置し、いずれの大国の支配も及びにくい、独立性を保つには好都合な場所であった。
服部党が勢力圏とした伊勢長島および尾張河内郡は、単なる農村地帯ではなかった。木曽三川が合流し伊勢湾へと抜けるこの地は、中世後期から近世にかけて、日本の東西を結ぶ水上交通の最重要拠点の一つであった。特に、当時尾張最大の商業都市として繁栄した津島湊の南方に位置し、その経済圏と密接に結びついていた 1 。
信長の父・信秀や祖父・信定が、津島湊を支配下に置くことで莫大な経済力を蓄え、尾張統一の礎を築いたことはよく知られている 2 。服部党は、この経済の大動脈である水運ルートを物理的に押さえることで、通行料の徴収や水先案内、あるいは警護などを通じて大きな富を得ていた可能性が高い。この経済的基盤こそが、彼らが大勢力である織田氏に伍して独立を維持できた力の源泉であった。
服部党の独立性を支えたもう一つの柱が、宗教、すなわち浄土真宗本願寺派(一向宗)との強固な結びつきである。伊勢長島には、本願寺法主の子弟が住持を務める「院家」の格式を持つ願証寺(がんしょうじ)が存在した。願証寺は東海地方における本願寺教団の拠点として、門徒衆に対して絶大な宗教的権威と指導力を有していた 1 。
服部党はこの願証寺と緊密な協調関係を築いていた 1 。彼らは自らも熱心な門徒であったと考えられ、その関係は単なる政治的同盟を超えた、信仰に基づく固い結束であった。この結びつきは、服部党に数万ともいわれる門徒の組織力と軍事力をもたらし、彼らの力を飛躍的に高めた。友貞の死後、服部党が即座に長島一向一揆の中核勢力へと変貌し得たのも、この長年にわたる土壌があったからに他ならない。
これらの要素を総合すると、服部友貞は単なる一地域の土豪ではなく、水運を基盤とした物流、商業、そして宗教が一体となった「水辺の複合経営体」の長であったと評価できる。陸上からの支配を基本とする信長が、この「水辺の共和国」とも言うべき勢力を容易に屈服させられなかったのは、その権力構造の特異性と強靭さにこそ原因があったのである。
表1:服部友貞をめぐる主要人物・勢力相関図
人物・勢力 |
服部友貞との関係 |
主要な関連事項 |
典拠資料(抜粋) |
服部友貞 |
当事者 |
尾張国河内郡の土豪。服部党党首。一向宗と結び信長に抵抗。 |
1 |
織田信長 |
敵対 |
尾張統一を進める過程で友貞と対立。謀略と武力で友貞を追い詰める。 |
1 |
滝川一益 |
敵対(直接的実行者) |
信長の家臣。謀略を用いて友貞から蟹江城を奪取。 |
19 |
今川義元 |
同盟(一時的) |
桶狭間の戦いにおいて、友貞が味方する。友貞は水軍で支援。 |
1 |
斯波義銀 |
共謀 |
尾張守護。今川と通じ、友貞らと共に信長への謀反を企てるが失敗。 |
14 |
斎藤龍興 |
被庇護者 |
美濃を追われ、友貞を頼って伊勢長島に亡命。 |
11 |
北畠具教 |
関係性あり(諸説) |
伊勢国司。友貞が年賀挨拶に向かう途中で自害。友貞が従属していた説も。 |
1 |
願証寺/一向宗 |
強固な同盟 |
長島を拠点とする浄土真宗の寺院。友貞および服部党の精神的・軍事的支柱。 |
1 |
服部正友 |
後継者(子息説あり) |
一揆壊滅後、信長の許可を得て帰参。服部家を再興し大庄屋となる。 |
4 |
服部友貞の反信長姿勢は、信長が尾張をほぼ手中に収めた後、元亀年間(1570年以降)に顕在化したものではない。その抵抗は、信長の運命を決定づけた桶狭間の戦いの時点ですでに始まっていた。彼の行動は、後に形成される広域的な「信長包囲網」の先駆けともいえる構造を持っていたのである。
永禄3年(1560年)5月、駿河の大大名・今川義元が数万の大軍を率いて尾張に侵攻した際、服部友貞は明確に今川方として軍事行動を起こした 1 。『信長公記』や尾張藩の地誌『張州府志』によれば、友貞は「軍船を千艘ばかり」動員し、伊勢湾から海上を進み、今川方の前線拠点であった大高城(現在の名古屋市緑区)方面へと迫った 14 。
この行動は、清洲城から出撃しようとする信長軍の背後を脅かし、その兵力を分散させる狙いがあったと考えられる。今川軍本体と呼応した、極めて効果的な牽制・陽動攻撃であった。しかし、周知の通り、今川義元自身が田楽狭間で織田信長の奇襲を受けて討死したため、この作戦は根底から覆る。義元敗死の報を受けた友貞は、作戦を中断し、本拠地の荷之上へと引き返した 1 。この一連の動きは、友貞が単なる在地領主ではなく、大規模な水軍を動員し、大名間の戦争に積極的に関与するだけの力と意志を持っていたことを証明している。
友貞の桶狭間での行動は、単独のものではなかった可能性が高い。『信長公記』首巻は、この時期に友貞が、尾張守護の斯波義銀(しば よしかね)、三河の吉良義昭、そして石橋某といった尾張国内外の有力者と共謀し、信長への謀反を企てていたと記している 14 。
斯波義銀は、守護代の織田信友を信長の助力を得て討った後、信長によって名目上の尾張国主として擁立されていた人物である 16 。しかし、実権を握る信長への不満と、強大な今川軍の侵攻に対する恐怖から、信長を裏切って今川氏に内通しようと画策した。この計画において、服部友貞の水軍力は、今川軍を海上から安全に尾張中心部へと引き入れるための、不可欠な要素と見なされていた 16 。彼らは信長を今川義元への「贄」とするつもりであったとさえ言われる 14 。
しかし、この謀反計画は事前に信長の知るところとなり、激怒した信長によって斯波義銀は尾張から追放された 14 。この事件は、服部友貞が単なる一匹狼の反乱者ではなく、尾張の旧来の権威である守護家や、隣国の有力者と連携する、広範な反信長ネットワークの一員であったことを示している。
一般的に「信長包囲網」といえば、足利義昭や朝倉・浅井氏、武田信玄らが主導した元亀年間のものを指すことが多い 11 。しかし、その構造、すなわち「外部の強大な勢力(今川氏)」と「内部の反主流派(斯波氏ら)」が連携して信長を打倒しようとする構図は、この桶狭間の時点で既に見られる。その意味で、服部友貞の行動は、信長がその生涯で幾度となく直面することになる包囲網の、まさに原型であり、その伊勢湾岸地域における中心人物であったと位置づけることができる。
桶狭間の戦いで今川義元を破り、尾張統一を盤石のものとした織田信長にとって、国内にありながら服従しない服部友貞の存在は、看過できない「目の上の瘤」であった。信長とその家臣団は、単なる武力だけではなく、権謀術数を駆使して、この水辺の独立勢力の切り崩しにかかる。そして、その圧力に呼応するように、伊勢長島は反信長勢力にとっての最後の聖域(アジール)としての性格を強めていく。
信長の重臣の中でも、特に謀略に長けた武将として知られる滝川一益は、服部友貞に対して巧妙な罠を仕掛けた。一益は、織田家の家臣であることを隠したまま友貞に接近し、「長島城の防備を固めるため」と称して、尾張蟹江(かにえ)に新たな城を築くことを提案した 19 。
この提案を信じた友貞は、協力関係にあった本願寺から資金を借り入れ、一益に築城を任せた。しかし、城が完成するや否や、一益はこれを乗っ取り、信長から正式に城主として任命されてしまう 19 。騙されたことに気づいた友貞は激怒し、蟹江城に攻め寄せたが、待ち構えていた一益の軍に撃退された 20 。この一件で、服部党は多額の資金を失っただけでなく、本拠地である荷之上の目と鼻の先に、織田方の拠点を自らの手で築かせるという屈辱的な敗北を喫した。
蟹江城の奪取に続き、信長は服部党への軍事的圧力を一層強化する。永禄8年(1565年)、信長は友貞の所領である市江島(いちえじま、現在の弥富市付近の輪中地帯)に鯏浦城(うぐいうらじょう)を、そして立田輪中には小木江城(こきえじょう)を新たに築かせた 1 。
これらの城は、服部党の本拠地である荷之上城を南北から挟み込む位置にあり、まさしく友貞を封じ込めるための「付け城」であった 21 。さらに信長は、これらの城の城主として、実の弟である織田信興(のぶおき)を配置した 5 。これにより、服部党は陸路を完全に押さえられ、その行動範囲は著しく制限されることになった。
織田方の圧力が強まる一方で、伊勢長島は、信長に追われた者たちの格好の亡命先となっていた。永禄10年(1567年)、稲葉山城の戦いで信長に敗れた美濃国主・斎藤龍興は、城を脱出して木曽川を舟で下り、伊勢長島へと逃げ込んだ 22 。
服部友貞と願証寺は、この信長の宿敵を匿った。これは、長島が信長の権力が直接には及ばない、一種の治外法権的な領域、すなわち聖域(アジール)として機能していたことを雄弁に物語っている 11 。信長も龍興を追って北伊勢に軍を進めたが、一向宗との全面対決を避けて周辺地域の平定に留めており、長島に直接手を出すことはできなかった 25 。この出来事を契機に、長島は単なる一向宗の拠点というだけでなく、斎藤龍興をはじめ、信長に敗れた多くの武将たちが再起を期して集う、広域的な反信長ネットワークの結集地としての色彩を帯びていく [ユーザー提供情報]。
信長が服部友貞に対して用いた一連の戦略、すなわち謀略による経済的打撃(蟹江城乗っ取り)、付け城による物理的封じ込め(鯏浦・小木江城)、そして敵対勢力の孤立化は、後の大規模な対一向一揆戦の予行演習であったと見ることができる。水郷地帯に拠点を置く強固な宗教・武装勢力をいかに攻略するか。信長と滝川一益は、服部友貞との戦いを通じて、そのための戦略的ノウハウを着実に蓄積していたのである。この戦いは、信長にとって、やがて来る長島一向一揆や石山合戦という総力戦に向けた、重要な「学習の機会」であったと言えよう。
織田信長による執拗な圧力と包囲網によって、服部友貞は次第に追い詰められていく。そして永禄11年(1568年)、彼の生涯は悲劇的な結末を迎える。しかし、友貞個人の死は、服部党の抵抗の終わりを意味しなかった。むしろそれは、残された者たちの戦いを、より根深く、より過激なものへと変質させる転換点となったのである。
永禄11年(1568年)正月、服部友貞は、伊勢国の国司であった北畠具教(きたばたけ とものり)に新年の挨拶をするため、その居城である霧山城(多気城)へと向かっていた 1 。その道中、友貞一行は織田軍が放った刺客に襲撃され、包囲される。多勢に無勢の中、逃れられないと悟った友貞は、伊勢国米野(こめの、現在の三重県いなべ市藤原町米野)にあった陰涼庵(いんりょうあん)という庵に追い込まれ、そこで自害して果てた 1 。
彼の墓所は、この自害の地である三重県いなべ市藤原町米野に現存すると伝えられている 1 。その戒名は道円(どうえん)と記録されている 1 。
友貞が最期に目指していた相手が伊勢国司・北畠具教であったという事実は、両者の間に何らかの連携関係があった可能性を示唆する。江戸時代後期の伊勢の地誌『勢陽五鈴遺響』には、友貞は永禄4年(1561年)以降、北畠氏に属し、その命で長島城に在城していた、という記述が見られる 28 。もしこれが事実であれば、友貞の行動は伊勢の最大勢力である北畠氏の戦略の一環であったことになる。
しかし、この説には注意が必要である。第一に、同時代の一次史料による裏付けが乏しい。第二に、『寛政重修諸家譜』などの系図資料を見ると、友貞と同一人物ではないかと推測される「服部政光」という人物は、永禄3年(1560年)以降、徳川家康に仕えていたとされ、北畠氏に属したという記録とは矛盾する 28 。友貞と北畠氏の具体的な関係については、後世の軍記物などによる創作が加わっている可能性も否定できず、確定的な結論を出すのは難しいのが現状である。
指導者である友貞の死は、服部党にとって計り知れない打撃であったに違いない。しかし、彼らは降伏の道を選ばなかった。むしろ、その死は服部党の抵抗を一層激化させる燃料となった 1 。
友貞が存命中の抵抗は、自らの領地と権益を守るための、戦国武将としてのある意味で政治的、軍事的な闘争であった。今川氏や斯波氏と結んだように、その行動原理はあくまで戦国時代の力学に基づいていた 14 。しかし、彼が信長の謀略によって非業の死を遂げたことで、この戦いの意味合いは劇的に変化する。
残された服部党の一族や門徒にとって、この戦いは単なる領土紛争ではなく、信長という「仏敵」によって殺された「殉教者・友貞」の仇討ちという、極めて情念的で宗教的な意味合いを帯びることになった。この強い復讐心が一向宗の強固な信仰と結びついた時、彼らの抵抗は「仏法を守るための聖戦」へと昇華されたのである。事実、友貞の死後、服部党は長島願証寺の指導的立場となり 5 、最初の復讐として、信長の弟・織田信興を討ち滅ぼすという具体的な行動に出る。友貞の死は、長島一向一揆の抵抗の質を、より妥協のない、徹底的なものへと変える触媒となったのであった。
服部友貞の死によって、服部党の抵抗は新たな段階へと移行した。彼らはもはや一地域の独立勢力ではなく、反信長を掲げる巨大な宗教勢力・長島一向一揆の中核となり、友貞の仇である織田信長との全面戦争へと突入していく。その戦いは、日本戦国史上でも類を見ない、凄惨な殲滅戦へと発展した。
元亀元年(1570年)9月、大坂の石山本願寺法主・顕如が、信長との対決姿勢を明確にし、全国の門徒に対して蜂起を促す檄文を発した 12 。これに真っ先に呼応したのが、長島の願証寺と、友貞の遺志を継ぐ服部党であった。
彼らは指導者・下間頼旦(しもつま らいたん)らのもと、数万の一揆勢を組織すると、同年11月、積年の恨みの標的であった小木江城に攻め寄せた 29 。この城は、かつて信長が服部党を監視するために築き、弟の織田信興を守将として置いていた因縁の城である。服部党を中心とする一揆勢の猛攻の前に城は持ちこたえられず、信興は自害に追い込まれた 5 。友貞の死から2年、服部党は信長の肉親を討ち取るという形で、見事に本懐を遂げた。この事件は信長を激怒させ、長島への憎悪を決定的なものにした。
信興の死をきっかけに、信長による長島への本格的な攻撃が開始される。その戦いは三度にわたって繰り広げられた。
水陸からの完全包囲により、長島城内の兵糧は数ヶ月で尽き、一揆勢は飢餓地獄に苦しんだ。同年9月、ついに一揆勢は指導者の下間頼旦らが、城兵の助命を条件に降伏を申し出る 29 。信長はこれを了承したかのように見せかけたが、それは謀略であった。城から出てきた頼旦ら指導者たちを鉄砲で一斉に射殺してだまし討ちにすると、信長は残る屋長島・中江の二つの城に籠る者たちを幾重にも柵で囲み、四方から火を放った 29 。この時、城内にいた門徒衆は、男、女、子供の区別なく2万人余りが焼き殺されたと伝えられる。世に言う「長島の根切り(皆殺し)」である。
この凄惨な殲滅戦において、服部友貞の遺志を継ぎ、最後まで抵抗を続けた服部党の主だった者たちも、その多くが命を落としたと推察される。一揆に与した武将の一覧には「服部政光(尾張服部党)」という名が見えるが 30 、これが友貞の一族とどのような関係にある人物かは定かではない。いずれにせよ、服部友貞が築き上げた武装集団「服部党」は、この戦いをもって組織的には完全に壊滅したのである。
長島一向一揆の殲滅という悲劇的な結末により、服部友貞から始まった物語は、一族の滅亡という形で幕を閉じたかに見えた。しかし、驚くべきことに、服部家の歴史はそこで途絶えなかった。彼らは灰燼の中から再生を遂げ、近世から近代にかけて地域の有力者として存続していく。その軌跡は、信長という武将の二面性と、服部一族が持つ類稀な能力の価値を物語っている。
長島が焦土と化してからわずか2年後の天正4年(1576年)、信長に徹底的に抵抗した服部一族の中から、服部弥右衛門尉正友(はっとり やえもんのじょう まさとも)という人物が、信長自身の許可を得て、かつての所領であった荷之上への帰参を果たすという、にわかには信じがたい出来事が起こる 4 。この正友は、服部友貞の子であったとも伝えられている 39 。
帰参した正友は、戦乱によって離散していた百姓や遺民を呼び寄せ、荒れ果てた土地の開墾や干拓事業に尽力し、荷之上村を見事に再興させた 39 。これは、信長による徹底的な「破壊」の後に行われた、驚くべき「創造」の始まりであった。
江戸時代に入り、世が安定すると、服部家は尾張藩の支配体制下で、周辺の村々を束ねる大庄屋(おおじょうや)の役職を代々世襲するようになった 4 。大庄屋は、単なる村役人ではなく、藩の地方支配の末端を担う重要な役職であり、服部家は名字帯刀を許されるなど、地域の支配者層として確固たる地位を築き上げた。
さらに、彼らは経済・文化の面でも地域の中心的な担い手となった。特に、古くからの経済的基盤であった津島との関係は続き、尾張津島神社の壮麗な夏祭り「天王祭」において、祭礼の主役である巻藁舟(まきわらぶね)の一つ「市江車(いちえぐるま)」の車屋(くるまや)、すなわち祭りの主催者・責任者を務める名誉ある役目を担った 40 。
服部正友が、かつての居城・荷之上城の跡地に構えた屋敷は、幾多の改修を経ながらも、現代にその姿を伝えている。愛知県弥富市に現存する「服部家住宅」がそれである 40 。
この屋敷の主屋は、家伝や構造調査から天正4年(1576年)頃の建築と推定されており、愛知県内でも最古級の民家建築として極めて高い価値を持つ 41 。屋敷全体が、木曽川の氾濫に備えて母屋や蔵の地盤を一段高くする「水屋」と呼ばれる、この地方特有の屋敷構えを非常によく残している。その歴史的・建築的価値から、主屋、離れ座敷、表門、土塀、文庫蔵、さらには屋敷地全体が国の重要文化財に指定されている 39 。これは、服部友貞の抵抗から始まった一族の歴史が、形を変えて現代にまで続く、何より雄弁な物理的証左と言えるだろう。
時代は下り、明治・大正・昭和期。武家社会が終わりを告げた後も、この大庄屋・服部家の血筋は続いた。そして、かつて信長に武力で抗った一族から、近代日本を代表する漢詩人・書家の一人である服部擔風(はっとり たんぷう、1867-1964)が輩出される 4 。戦国の世に「武」をもって独立を貫こうとした一族が、数世紀の時を経て、「文」の世界で頂点を極める文化人を世に送り出したという事実は、一族の劇的な変遷と、時代を生き抜く強靭さを象徴している。
服部一族の奇跡的な再生は、単なる偶然や信長の温情によるものではないだろう。そこには、信長が持つ「徹底的な破壊者」と「合理的な統治者」という二面性と、服部一族が持つ卓越した「地域統治能力」の価値が交差した結果であると分析できる。信長にとって、服部党の宗教的・軍事的側面は根絶すべき脅威であったが、一方で、木曽三川下流域の複雑な地理を熟知し、治水や新田開発を指揮できる彼らの統治能力は、戦後の地域安定化と経済復興に不可欠な「資源」であった。信長は、抵抗の牙を抜いた上で、その能力を再利用する道を選んだ。この極めて合理的な判断こそが、服部家の物語を滅亡で終わらせず、近世・近代へと続く新たな道を開いたのである。服部友貞の激しい生涯は、一族の滅亡と再生、そして武から文への華麗なる転身という、壮大な歴史物語の序章だったのである。