朝倉一玄は大友家臣。豊薩合戦で駄原城を守り、「留守の火縄」で島津軍を撃退。実在はするが、活躍は軍記物語で脚色された。
本報告書は、日本の戦国時代、特に天正年間(1573年~1592年)の豊薩合戦において、大友氏の家臣として特異な戦術を用いたとされる武将、朝倉一玄(あさくら いちげん)について、現存する諸史料や研究成果に基づき、その実像に迫ることを目的とする。調査範囲は、軍記物語『大友興廃記』をはじめとする近世の編纂物、地方史料、島津側の記録、そして現代の歴史研究や創作物における扱いにまで及ぶ。
朝倉一玄という人物は、その生涯や出自に不明な点が多く、歴史の表舞台に大きく名を残した武将ではない。しかし近年、彼の用いたとされる奇策「留守の火縄(るすのひなわ)」が、歴史シミュレーションゲームなどで取り上げられることにより、一部の歴史愛好家の間でその名が知られるようになった 1 。これは、大規模な合戦の陰に隠れた個々の武将の機知や奮闘に光を当てようとする現代的な歴史観の反映とも考えられる。
本報告書では、以下の中心的な問いを追求する。
朝倉一玄は実在の人物であったのか、それとも軍記物語が生んだ創作なのであろうか。
「留守の火縄」とは具体的にどのような計略であり、その戦術的意義は何だったのか。
彼の活躍は、豊薩合戦という大きな戦局の中で、どのような意味を持ったのであろうか。
本調査の出発点として、利用者より提供された「大友家臣。島津軍の豊後侵攻で駄原城を攻められた際、「留守の火縄」を城に仕掛けて放棄。燃え上がる城を占拠する島津軍に逆襲を仕掛け、大損害を与えた」という概要情報は、後述する軍記物語等で語られる朝倉一玄の最も著名な事績と合致するものである 1 。また、併せて提供された朝倉一玄に関する詳細な資料(以下、参考文献 1 として参照)は、その基本情報、主要なエピソード、史料状況、研究の現状などを網羅的にまとめたものであり、本報告書の根幹をなす情報源として全文を取り込み、活用する。
朝倉一玄の出自や家系を特定する試みは、史料の制約から困難を極める。一般に「朝倉」姓は、上野国那波郡、伊予国越智郡、土佐国土佐郡などに古くから見られる地名姓であり、筑前国にも朝倉郡が存在した 4 。しかし、これらの広範な分布が、豊後大友氏の家臣団における朝倉姓の人物、とりわけ一玄に直接結びつくわけではない。
大友氏の庶流である志賀氏の系図に関連して、「朝倉朝親」や「朝郷」といった名が見受けられるものの 5 、これらが朝倉一玄と直接的な血縁関係にあるか、あるいは何らかの主従関係を示唆するのかは不明である。大友家臣団における「朝倉」姓の人物の記録が限定的であることは、一玄が歴史的に無名の武将であった可能性、あるいは特定の著名な家系に属さない人物であった可能性を示唆している。彼の名が後世に伝わったのは、特異な戦術「留守の火縄」によるものであり、その出自の曖昧さが、かえって彼の伝説性を高めている側面も否定できない。
朝倉一玄は、生没年不詳の人物である 1 。これは、彼の生涯や人物像を具体的に把握する上での大きな制約となっている。史料上の記録が乏しい人物の場合、その実像は後世の創作や伝承によって大きく左右されることが少なくない。
生没年が不明であるという事実は、彼が中央の歴史記録に名を残すほどの高位の武将ではなかった可能性を示唆する。彼の名が後世に伝わったのは、ひとえに駄原城での「留守の火縄」という鮮烈なエピソードによるものであり、この一点突破型の知名度が、彼の出自の曖昧さと対照をなし、その実在性に関する議論の一因となっている。
朝倉一玄に関する数少ない伝承の中で、彼が大友家の重臣・志賀親次(しが ちかつぐ)の配下であったという点は比較的広く知られている 1 。江戸時代初期に成立した軍記物語『大友興廃記』によれば、一玄は豊後国岡城(現在の大分県竹田市)を守る志賀親次の部将の一員であったとされる 1 。
志賀親次は、天正14年(1586年)の島津氏による豊後侵攻(豊薩合戦)において、寡兵ながら岡城を堅守し、島津軍を撃退した名将として知られている 1 。島津義弘からも「天正の楠木(楠木正成の再来)」と称賛されたと伝えられるほどの武将であり 6 、朝倉一玄の活躍も、この志賀親次の武功を語る上で、しばしば言及される。
一玄が志賀親次の配下とされることは、彼の活動範囲が岡城を中心とした防衛戦に限定されることを意味する。一方で、主君である親次の名声があまりにも高いため、その輝かしい武功譚の中に一玄個人の具体的な姿が埋没し、かえってその実像が見えにくくなっている可能性も考慮する必要がある。軍記物語の性質上、主将の英雄性を際立たせるために、配下武将の逸話が利用されたり、脚色されたりすることも少なくないからである。
天正14年(1586年)、九州統一の野望に燃える薩摩国の島津氏は、豊後国の大友領へと大軍を侵攻させた。これが豊薩合戦の勃発である 1 。当時、大友氏は耳川の戦いでの大敗以降、その勢力に陰りが見えており、島津軍の圧倒的な兵力の前に、大友方の諸城は次々と攻略されるか、あるいは戦わずして降伏する状況にあった 11 。
このような大友氏にとって極めて不利な戦況の中、豊後岡城主であった志賀親次は、弱冠20歳(数え年)ながら、徹底抗戦の意志を固め、巧みな防衛戦術とゲリラ戦を展開し、島津の大軍を翻弄した 1 。親次は肥後国から豊後へ至る複数の侵入路に配下の武将を配置し、支城との連携を図りつつ、奇計やゲリラ戦法で島津軍を攪乱し、豊臣秀吉の中央軍の援軍到着まで持ちこたえようとした 1 。
大友氏の劣勢という絶望的な状況こそが、朝倉一玄のような一武将による型破りな奇策やゲリラ戦法を必要とした背景にあると考えられる。正攻法では到底太刀打ちできない戦力差が、結果として常識にとらわれない戦術を生み出す土壌となったのである。
朝倉一玄が城代(守将)を務めたとされる駄原城(だはらじょう/だばるじょう)は、岡城の西方に位置する支城であったと伝えられるが、その正確な所在地や性格については諸説が存在する 1 。
『大友興廃記』などの記述から、岡城の約8km西方、直入郡柏原郷戸上村付近(現在の竹田市戸上地区)に存在したとする説が有力視されている 1 。現地の伝承では、七ツ森古墳群の南東の丘陵上に位置する「下駄原」や「杉山」と呼ばれる地名付近に、その痕跡らしき地形が残るとも言われている 1 。『日本歴史地名大系』においても、駄原城跡は大分県竹田市大字戸上と記載され、具体的な緯度経度(32.954442, 131.309712)も示されている 16 。竹田市の市史関連資料では、竹田市大字戸上、あるいは荻町南河内とし、滝水川北岸の丘陵に立地した岡城の支城であるとされている 19 。
一方で、大分市中心部にも「だのはる(駄原)」と呼ばれる地名が存在するが、これは岡城から遠く離れており、合戦の経緯から見ても別地点と考えられる 1 。むしろ、駄原城は島津軍の侵攻に備えて志賀親次が急造した物見やぐら程度の小規模な砦であったとの見方も存在する 1 。また、江戸時代初期に熊本藩主加藤忠広の家臣であった大塚氏が築城したという説も郷土史料には見られるが、これは豊薩合戦の時期とは異なる 17 。
駄原城の正確な位置や規模が未だ確定していないことは、朝倉一玄の戦いを具体的に検証する上での一つの障害となっている。しかしながら、もし駄原城が「急造の砦」程度の小規模なものであったとすれば、それを囮として大胆に放棄し炎上させるという「留守の火縄」の奇策は、より現実味を帯びてくる。堅固な城郭であれば、その放棄は戦略的に大きな損失となるが、一時的に構築された砦であれば、それを犠牲にする心理的な抵抗も少なく、敵も油断しやすい状況が生まれるからである。
表1:駄原城に関する情報
項目 |
詳細情報 |
主な典拠 |
推定所在地 |
大分県竹田市大字戸上(岡城の西方約8km、七ツ森古墳群南東の丘陵上、「下駄原」「杉山」付近に伝承地)。<br>緯度経度:32.954442, 131.309712。<br>竹田市大字戸上、荻町南河内、滝水川北岸の丘陵。 |
1 |
城の性格・規模 |
岡城の支城。島津軍の侵攻に備えた急造の物見やぐら程度の砦であったとの説あり。 |
1 |
築城に関する説 |
豊薩合戦時、志賀親次が築いたとされる。江戸初期に加藤忠利家臣・大塚氏が築城したとの説もあるが、豊薩合戦とは時期が異なる。 |
1 |
関連史料・伝承 |
『大友興廃記』、『豊後国志』、『大友家文書録』、地元伝承(七ツ森古墳群周辺)。 |
1 |
現状 |
明確な遺構の確認は困難とされるが、痕跡らしき地形が残るとの伝承あり。考古学的な詳細調査は今後の課題。 |
1 |
天正14年(1586年)冬、九州制覇を目指す島津氏の軍勢が豊後国に侵攻し、豊薩合戦が勃発した。この戦役において、同年12月頃、島津方の将・坂瀬豊前守(さかせ ぶぜんのかみ、逆瀬豊前守とも記される)が率いる一隊が、朝倉一玄の守る駄原城へと迫った 1 。
駄原城の城代であった朝倉一玄は、自軍の兵力が寡兵であるのに対し、攻め寄せる島津軍が多勢である状況を冷静に分析した。彼は、正面から籠城して戦っても利はなく、いたずらに兵を損なうだけだと判断し、敢えて奇策をもって敵を陥れる計略を立てた 1 。その計略とは、城内の建物や塀などの防御施設をことごとく破壊・切断し、あたかも内部からの失火に見せかけて城を炎上させ、敵を油断させて誘い込むというものであった 1 。この決断は、単に拠点を放棄するのではなく、それを能動的に罠として利用するという、攻撃的な発想の転換を示すものであった。
朝倉一玄は計画通り、城内の主要な建造物や防御柵を事前に破壊し、あるいは容易に燃え広がるように細工を施した。そして真夜中を期して、それらの残骸に一斉に火を放ち、駄原城を炎上させたのである 1 。さらに、後に「留守の火縄」と称されることになる仕掛け――人のいない城で火縄などを用いて時間差で発火させるような装置――を城内に残し、自軍の兵を率いて密かに城を脱出した。そして、近隣に位置する菅ノ迫(すがのさこ)砦へと退却したと伝えられる 1 。
『大友興廃記』には、この時の様子が劇的に描かれている。駄原城から突如として大きな火の手が上がるのを見た島津方の将・坂瀬豊前守は、「是は定めて手過(てあやま)ち(失火)にてぞ有らん。此騒ぎにいざ乗取らん」(これはきっと城内の手違いによる失火であろう。この混乱に乗じて攻め取ってしまえ)と喜び勇んで城内へなだれ込み、難なく駄原城を占拠した 1 。しかし、それこそが朝倉一玄の狙いであった。島津軍が攻め入った時、場内には人影はなく、激しく燃え盛る炎だけが島津勢を嘲笑うかのように照らし出していたとも伝えられる 1 。
「留守の火縄」の具体的な仕組みについては、史料に詳細な記述が残されておらず、正確なところは不明である 1 。後世の解釈では、「まるで時限式の地雷のようだ」あるいは「三国志で諸葛孔明が用いた火薬地雷を連想させる」などと評されることもあるが 1 、実際には、城兵が脱出する直前に周到に準備された複数の箇所から放火し、あたかも内部からの失火や、何らかの仕掛けによって時間差で発火したかのように見せかけた巧妙な演出であったと推測される 1 。この「見せかけ」こそが計略の核心であり、敵の心理を読み、油断を誘う偽装工作だったのである。
菅ノ迫砦へと無事に退いた朝倉一玄は、間髪を入れずに岡城の主君・志賀親次のもとへ急使を送り、援軍を要請した 1 。この報を受けた志賀親次は迅速に対応し、自らの実兄で副将格の志賀掃部助(しが かもんのすけ)を筆頭に、大森弾正、後藤遠江守(ごとう とおとうみのかみ)といった手勢約1500人を救援として差し向けた 1 。
一方、朝倉一玄も菅ノ迫砦で自軍を再結集させ、志賀親次からの援軍と合流すると、あたかも奪われたかのように見せかけていた駄原城へと反撃を開始した 1 。この時、駄原城は既に炎上し、建物という建物は灰燼に帰しており、城内外の柵や土塁も朝倉一玄の手によって事前に徹底的に破壊されていた 1 。そのため、城内に立てこもっていた島津勢は、炎と煙に巻かれ、身を隠す場所も防御の盾となるものもない、いわば丸裸同然の状態で防戦の術を失っていた 1 。
そこへ三方向から押し寄せた朝倉・志賀連合軍の猛攻により、島津軍は逃げ場を断たれて大混乱に陥った 1 。逆襲に転じた朝倉一玄自身も先陣に立って勇猛に戦い、侵入していた敵兵を次々と討ち取ったと伝えられる 1 。ついに島津軍の将・坂瀬豊前守は、配下の騎馬武者わずか8騎ほどと共に辛うじて駄原城から落ち延びようとしたが、逃走する途中で深い田圃にはまり動きが鈍ったところを、志賀勢の猛将・後藤大学(後藤遠江守と同一人物とされる)および後藤市助に追いつかれ、討ち取られてしまった 1 。
こうして島津軍は大敗を喫し、いったんは占拠された駄原城も朝倉一玄らの手によって奪還された 1 。この一連の勝利は、朝倉一玄個人の奇策の成功に留まらず、主君である志賀親次との迅速かつ的確な連携、そして岡城からの適切な援軍派遣があって初めて成り立ったものであり、計画的な共同作戦であったと言える。
表2:駄原城攻防戦の時系列(推定)
時間軸(推定) |
島津軍の行動(指揮官:坂瀬豊前守) |
朝倉一玄軍の行動 |
志賀親次(岡城)の対応 |
結果・備考 |
天正14年12月某日夜 |
駄原城へ進軍、攻撃を開始。 |
籠城不利と判断。城内の防御施設を破壊し、放火の準備。 |
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同日深夜~未明 |
駄原城から火の手が上がるのを確認。「失火」と誤認し、城内へ突入、占拠。 |
「留守の火縄」を実行。城を炎上させ、密かに菅ノ迫砦へ退却。 |
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駄原城炎上。島津軍、無人の城を占拠するも、防御施設は破壊済み。 |
同日未明~早朝 |
占拠した駄原城内で消火活動や状況把握を試みるが、炎上と事前の破壊により混乱。 |
菅ノ迫砦より岡城の志賀親次に急使を派遣し、援軍を要請。自軍を再編。 |
一玄からの要請を受け、志賀掃部助、大森弾正、後藤遠江守ら約1500の兵を駄原城へ派遣。 |
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同日日中 |
岡城からの援軍と合流した朝倉・志賀連合軍の反撃を受ける。城内は炎上し、防御施設もないため防戦不能。大混乱に陥り、敗走を開始。 |
志賀親次からの援軍と合流。駄原城へ反撃を開始。先陣を切って奮戦。 |
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朝倉・志賀連合軍が駄原城を奪還。島津軍は大敗。 |
同日 |
坂瀬豊前守、騎馬8騎で辛うじて脱出するも、追撃を受け深田にはまり討死。 |
追撃戦を展開。 |
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島津軍の将・坂瀬豊前守が戦死。後藤大学(遠江守)・市助らが討ち取る。 |
朝倉一玄が用いたとされる「留守の火縄」は、敵を欺き油断させ、無防備な状態に陥れた上で強襲するという点で、偽計を巧みに用いた優れた戦術と言える。燃え盛る城という強烈な視覚的・心理的効果を利用し、敵の判断を誤らせた点が特徴的である 1 。これは単なる火攻めではなく、敵の心理を操る「計略」としての側面が強い。火を放つこと自体が最終目的ではなく、火によって敵を誘引し、油断させ、そして反撃によって殲滅することが真の狙いであった。
戦国時代の合戦においては、様々な火計や偽計が用いられた。「留守の火縄」も、そうした戦術の系譜に位置づけられる。例えば、織田信長は火攻めを多用したことで知られるが、その多くは敵城の攻略や敵兵の殺傷を直接的な目的とするものであった 26 。一方、「留守の火縄」のように、火を囮として敵を誘引する計略は、より心理戦の要素が濃い。
中国の兵法に見られる「空城の計」は、城門を開け放ち、敵にあえて無防備な姿を見せることで、伏兵を警戒させ撤退させるというものである 28 。徳川家康が三方ヶ原の戦いの後に浜松城で用いたとされる策もこれに近い。敵の疑心暗鬼を利用する点で、「留守の火縄」と共通する心理操作が見られる。
また、島津氏が得意とした「釣り野伏せ」は、一部隊が偽って敗走し、追撃してきた敵を伏兵によって包囲殲滅する戦術である 30 。偽装退却によって敵を誘い込むという点で「留守の火縄」と共通するが、「留守の火縄」はさらに「炎上する城」という具体的な目標物を囮として提示し、敵の油断をより確実に誘う点で独創性があると言えよう。
「留守の火縄」は、これらの要素を複合的に組み合わせ、さらに「燃える城」という強烈な視覚効果で敵の判断を誤らせる点で、戦国時代の数ある奇策の中でも特筆すべき事例の一つと評価できる。
朝倉一玄の事績、特に「留守の火縄」の奇策を最も詳細に伝える史料は、江戸時代初期に成立した軍記物語『大友興廃記』である 1 。この書は、旧大友家臣であった杉谷宗重によって寛永12年(1635年)頃に著されたとされ、大友宗麟からその子・義統に至る大友氏二代の栄枯盛衰を全23巻にわたり活写した作品である 1 。年月の誤りも散見されるものの、九州における大友氏関連の逸話を豊富に収録し、後世の史書や物語にも大きな影響を与えた 1 。
『大友興廃記』における朝倉一玄の駄原城での活躍は、以下のように描かれている。島津方の坂瀬豊前守が駄原城に攻め寄せた際、城代の朝倉一玄は籠城の不利を悟り、城内の建物をことごとく破壊・切断させ、夜中に火を放って城を炎上させた。そして「留守の火縄」という仕掛けを残し、兵を率いて菅ノ迫砦へ退いた。火の手を見た坂瀬豊前守は「是は定めて手過ちにてぞ有らん。此騒ぎにいざ乗取らん」と喜び勇んで城に突入し、難なく占拠した。しかし、それは一玄の計略であり、城内は炎上し、防御施設は皆無であった。一玄は岡城の志賀親次に援軍を要請し、救援に来た志賀掃部助らの兵と共に駄原城を逆襲。不意を突かれた島津軍は総崩れとなり、坂瀬豊前守も後藤大学らに討ち取られた 1 。
『大友興廃記』は、その成立の経緯から大友氏を顕彰する意図が含まれている可能性が高く、そのため家臣の活躍が誇張されたり、英雄的に描かれたりする傾向が見られる 1 。朝倉一玄の活躍も、主君である志賀親次の輝かしい武勇伝を彩るための一挿話として、あるいは劣勢にあった大友方の士気を鼓舞するための物語として、劇的に脚色された可能性を考慮する必要がある。特に、坂瀬豊前守の台詞などは、物語を盛り上げるための創作的要素が強いと考えられる。
朝倉一玄の逸話は、軍記物語のみならず、江戸時代後期に編纂された豊後岡藩の公式な史料である『豊後国志』にも収録されている。享和3年(1803年)に成立したこの地誌には、「朝倉一玄が駄原の砦に自ら火を放って退去し、敵をおびき寄せて菅迫の砦で反撃し、岡城を堅守した」という趣旨の記述が見られる 1 。この内容は『大友興廃記』の記述とほぼ同じであり、同書を踏襲したものと考えられる 1 。
『豊後国志』のような藩撰の地誌に採用されたという事実は、朝倉一玄の奮戦の物語が、単なる軍記物語の一節としてではなく、地域社会においてある程度「公認された伝承」として受け入れられ、語り継がれていたことを示している 1 。軍記物語に描かれたエピソードが、時間を経て地域の歴史の一部として認識され、定着していく過程をここに見ることができる。ただし、『大友興廃記』の記述を基にしている点から、新たな史実が発見されたというよりは、既存の伝承が再生産され、公式な記録として追認された形であると理解すべきであろう。
朝倉一玄の活躍を直接記したものではないものの、豊薩合戦期の島津方の史料からも、駄原城の戦いに関連する状況をうかがい知ることができる。島津義弘の家老であった上井覚兼(うわい かくけん)が記した『上井覚兼日記』の天正14年(1586年)2月16日の条には、「志賀道益(しが どうえき、志賀親次の兄・親守のことか)が大友義統の勘気を蒙り菅迫という所に籠もっている」という趣旨の記述が見られる 1 。これは、朝倉一玄が退いたとされる菅ノ迫砦が実在し、その周辺で志賀一族が何らかの軍事活動を行っていた可能性を示唆するものであり、間接的に『大友興廃記』の記述の背景を補強する。
また、島津側の軍記である『豊薩軍記』などにも、志賀親次らのゲリラ戦術や攪乱戦法によって島津軍が苦しめられたことが記録されており 1 、岡城周辺での激しい抵抗戦の様子が伝えられている。さらに重要なのは、駄原城攻防戦における島津方の将・坂瀬豊前守の戦死について、島津側の記録においても、天正14年に菅迫城を攻めた際に志賀勢との合戦で後藤遠江守(後藤大学)に討たれた、との記述が見られることである 1 。
これらの島津方の史料は、朝倉一玄の名や「留守の火縄」という奇策の詳細に直接言及してはいないものの、戦いの舞台となった場所(菅ノ迫)、関連する大友方の人物(志賀一族)、そして戦いの結果(坂瀬豊前守の敗死)について、大友方の記録(主に『大友興廃記』)と符合する点が見られる。敵方の記録であるため、一定の客観性が期待でき、駄原城周辺で実際に激しい戦闘があり、島津方が敗北を喫したという事実そのものの信憑性を高めるものと言える。
朝倉一玄の実在性を考察する上で、最も重要な史料の一つが『大友家文書録』の記述である。平凡社刊『日本歴史地名大系』によれば、「大友家文書録」の天正14年(1586年)12月条に、「島津義弘隊ノ将・坂瀬豊前守、駄原畑の塁を攻む。志賀親次の子城にして朝倉一玄これを守る」といった趣旨の記録が残されていると指摘されている 1 。より具体的には、コトバンクに掲載されている『日本歴史地名大系』からの引用として、「島津義弘隊長坂瀬豊前守、攻駄原畑塁、志賀親善子城而、朝倉一玄所守也」という文言が確認できる 24 。
この記録は、大友氏側の一次史料に近い公的な記録の中に、朝倉一玄の名と、彼が駄原(駄原畑)の砦(塁)を守っていたという事実が明確に記されていたことを意味する。軍記物語とは異なり、同時代に近い史料にその名が見えることは、朝倉一玄が全くの架空の人物ではなく、歴史上実在した武将であることを強く示唆するものである 1 。
ここで注目すべきは、「志賀親次」が「志賀親善」と表記されている点である 24 。志賀親次の別名として「親善(ちかよし)」も伝えられており 9 、これは同一人物を指す可能性が極めて高いと考えられる。
『大友家文書録』のこの記述は、朝倉一玄の「実在性」と「駄原城での戦闘への関与」を裏付ける上で非常に価値が高い。しかしながら、この記録も「留守の火縄」という奇策の具体的な内容や詳細までは触れていない。したがって、一玄が駄原城の守将であったことは史実として認められるものの、その戦術の具体的な様相については、依然として『大友興廃記』などの軍記物語に依拠する部分が大きいと言わざるを得ない。
『大友興廃記』をはじめとする軍記物語は、歴史的事実を伝えるという側面を持つ一方で、物語としての面白さや教訓性、あるいは特定の勢力や人物を顕彰する意図から、記述に脚色が加えられることが少なくない 1 。朝倉一玄の「留守の火縄」のような奇抜で劇的な計略は、物語を盛り上げる格好の題材であり、その詳細が生き生きと描かれることによって、一玄の知略に優れた武将としてのイメージが形成されていったと考えられる。
実際に、『大友興廃記』では志賀親次の奮戦に特に焦点が当てられており、朝倉一玄という人物も、志賀家の武功を彩る英雄の一人として創作された、あるいはその活躍が大幅に誇張された可能性は否定できないと指摘されている 1 。例えば、川中島の戦いにおける武田方の「啄木鳥(きつつき)戦法」や、賤ヶ岳の戦いにおける羽柴方の「余呉湖の退き口偽装」のように、史実に基づくとされる戦術に後世の軍記作者が印象的な名称を与え、その内容をドラマチックに仕立て上げる例は数多く見られる。「留守の火縄」もまた、実際にあった計画的な放火と偽装退却戦術を基に、後世にその名が付けられ、奇計としての側面が強調された可能性が高い 1 。
英雄像の形成は、特に敗者側や劣勢に立たされた側にとって、記憶の継承やアイデンティティの維持という点で重要な意味を持つことがある。豊薩合戦において九州の覇権を失いつつあった大友氏にとって、家臣の目覚ましい奮戦を語り継ぐことは、家名の誇りを保ち、あるいは失われた栄光を追憶する上で必要だったのかもしれない。「留守の火縄」の逸話は、寡兵が大軍を打ち破るという痛快な物語であり、そのような役割を担うのに適していたと言えるだろう。
朝倉一玄に関しては、その生没年や出自に関する確かな記録が乏しいこと、そしてその活躍の具体的な内容が主に江戸時代の軍記物語『大友興廃記』に依拠していることから、彼が完全に架空の人物であるという可能性も一部では指摘されてきた 1 。
しかしながら、前述の通り、『大友家文書録』という大友氏側の一次史料に近い記録に「朝倉一玄」の名と彼が「駄原畑の塁」を守っていたという記述が確認されることは、彼の実在を強く支持するものである 1 。また、駄原城および菅ノ迫砦周辺での戦闘の発生や、島津方の将・坂瀬豊前守の敗死といった結果についても、島津側の記録とある程度符合する点が見られる 1 。これらのことから、朝倉一玄という武将が全くの虚構の存在であったとは考えにくい。
したがって、朝倉一玄については、「実在はしたが、その具体的な活躍ぶりについては軍記物語による脚色や誇張が加えられ、史実と創作が融合した『半ば伝説的人物』」 1 と評価するのが現状では最も妥当であると言えるだろう。「実在か創作か」という単純な二元論で割り切るのではなく、「どの部分が史実に基づいており、どの部分が後世の脚色や物語的要請によって付加されたのか」という、より nuanced な視点で捉える必要がある。彼の名前や駄原城での基本的な戦闘への関与は史実であった可能性が高いが、計略の具体的な仕組みやその劇的な展開については、後世の創作が大きく影響していると考えられる。
「留守の火縄」という印象的な名称自体が、後世、おそらくは『大友興廃記』などの軍記物語が成立する過程で名付けられたものである可能性が高い 1 。この名称は、人のいない城に残された火縄という具体的なイメージを喚起させ、何か巧妙な時限装置や罠を連想させる。
この伝説が成立し、広く語り継がれるようになった背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、大友氏が島津氏の猛攻により衰勢著しい中で、一矢を報いた数少ない痛快なエピソードとして、人々に受け入れられやすかったという事情があるだろう。特に、主君である志賀親次の武功を称揚する物語の一部として、その効果を高める役割を果たした可能性がある。
第二に、奇計・奇策に対する人々の普遍的な関心や、そうした物語が持つエンターテイメント性も、伝説の流布を助けたと考えられる。「留守の火縄」というキャッチーな名称が、その伝説の定着と伝播に大きく貢献したことは想像に難くない。具体的な仕掛けが不明であるからこそ、かえって聞く者の想像力を刺激し、「時限式の地雷のようだ」あるいは「三国志の火薬地雷を連想させる」といった様々な解釈や憶測を生み 1 、語り継がれやすくなったとも考えられる。
長らく一部の郷土史家や専門家以外にはほとんど知られていなかった朝倉一玄であるが、近年、その特異な戦術が歴史研究家や愛好家の間で注目を集め始めている。例えば、歴史研究家・鈴木眞哉氏の著書『戦国時代の計略大全』(PHP研究所、2011年)では、「戦国武将たちの奇計・奇略」の一つとして、朝倉一玄の「留守の火縄」が紹介されている 1 。同書では、山本勘助の「啄木鳥の計」、真田幸村の「埋火の計」、酒井忠次の「空城の計」といった名高い策略と並べて挙げられており、無名に近い武将の戦術としては異例の扱いと言える 1 。
このような再評価の動きは、従来の著名な大名や大規模な合戦を中心とした歴史叙述から、より多様な人物、局地的な戦闘、そして個々の戦術に光を当てようとする近年の研究動向の現れと見ることができる。また、インターネットの普及により、地方の埋もれた史料や伝承に関する情報がアクセスしやすくなったことや、歴史ファンの嗜好が多様化し、知られざる武将やエピソードに対する関心が高まっていることも、こうした再評価を後押ししている要因と考えられる。
朝倉一玄の知名度向上に大きく貢献しているのが、歴史シミュレーションゲームをはじめとする創作物における彼の登場である。特に、株式会社コーエーテクモゲームスの人気歴史シミュレーションゲーム『信長の野望・創造 戦国立志伝』(2016年発売)では、ダウンロードコンテンツによって「朝倉一玄」がプレイ可能な武将として追加された 1 。ゲーム内では、彼は「大友家の軍師」と位置づけられ、豊後侵攻に際して奇計を発揮し、駄原城に攻め入る島津軍に大打撃を与えた武将として設定されている 1 。
このようなゲームにおけるキャラクター化は、彼の名を若い世代を含む幅広い層に浸透させる効果があった。ソーシャルメディア上でも、「大友家の爆破師・朝倉一玄の出番!」といったような、彼の奇策を「爆破戦法」の先駆けとして捉えるユニークな言及が見られる 1 。
ただし、こうした創作物における描写は、朝倉一玄の知名度を高める一方で、史実とは異なるイメージを固定化させる可能性も孕んでいる。例えば、「軍師」や「爆破師」といった属性は、史料的な根拠が薄いながらもキャラクターとしては魅力的であり、大衆的な理解に強い影響を与えやすい。エンターテイメント性を重視するがゆえの脚色や単純化は、歴史上の人物に対する多面的な理解を妨げる場合もあるため、史実との区別を意識することが重要である。
朝倉一玄の活躍の舞台となった大分県、特に竹田市周辺の地域では、彼の奮闘が郷土の歴史の一部として語り継がれている 1 。地元の歴史愛好家や研究者によって、駄原城の推定地とされる竹田市戸上地区や荻町周辺の調査・探訪が行われており、その成果がウェブサイトなどで公開されている例も見られる 17 。
これらの活動は、地域の埋もれた歴史を発掘し、後世に伝えようとする貴重な試みである。郷土史における伝承は、地域のアイデンティティ形成や文化振興、さらには観光資源としての活用といった側面とも結びつくことがある。「知られざる英雄」としての朝倉一玄の物語は、地域史に新たな魅力と深みを加える可能性を秘めていると言えよう。史実性の厳密な検証と並行して、これらの伝承が地域社会でどのように受け継がれ、どのような意味を持っているのかを理解する視点もまた重要である。
朝倉一玄は、現存する史料の制約からその生涯や出自の全てを明らかにすることは困難な人物である。しかしながら、『大友家文書録』にその名が見えることなどから、天正年間の豊後国に実在した大友氏配下の武将であった可能性は極めて高いと言える。
彼の最大の功績として伝えられるのは、豊薩合戦という大友氏にとって存亡の危機とも言える厳しい戦局の中で、岡城の支城である駄原城において「留守の火縄」と称される奇策を用い、攻め寄せた島津軍の一部隊に損害を与え、その将である坂瀬豊前守を討ち取ったとされる一点に尽きる。この戦果は、豊薩合戦全体の趨勢を左右するほど大規模なものではなかったかもしれないが、圧倒的劣勢の中で見せた抵抗の一例として、また、絶望的な状況下における人間の知恵と勇気を示すエピソードとして記憶されるべきであろう。
さらに、朝倉一玄のこの戦いは、主君である志賀親次が指揮した岡城防衛戦全体の一環として捉えることができる。志賀親次とその配下の武将たちによる粘り強い抵抗は、島津義弘率いる島津軍主力を豊後国に釘付けにし、その進撃を遅滞させる効果があったと評価されている 1 。結果として、豊臣秀吉の中央軍が九州に到着するまでの貴重な時間を稼ぐことに、間接的ながらも貢献した可能性が指摘できる。
朝倉一玄の人物像、特に「留守の火縄」という奇策の具体的な内容やその実行に至る経緯については、依然として江戸時代初期の軍記物語『大友興廃記』の記述に大きく依拠している。そのため、どこまでが史実で、どこからが物語的脚色なのかを明確に線引きすることは難しい。
現状では、朝倉一玄を「実在はしたが、その活躍の詳細は軍記物語によって劇的に脚色され、史実と創作的要素が融合した『半ば伝説的人物』」 1 と評価するのが最も妥当であろう。彼の名は、その奇抜な戦術と結びつくことによって、本来であれば歴史の片隅に埋もれてしまったかもしれない一介の武将でありながらも、後世にまで記憶されることとなった稀有な例と言える。
朝倉一玄に関する研究は、未だ多くの謎と今後の課題を残している。
第一に、駄原城の正確な位置と構造の特定である。伝承地は存在するものの、確固たる遺構の発見には至っておらず、考古学的な発掘調査による検証が待たれる 1 。もし城の具体的な構造が明らかになれば、「留守の火縄」という戦術の実行可能性や効果について、より具体的な考察が可能となるだろう。
第二に、大友氏関連の未発見史料からの朝倉一玄に関する新たな記述の探索である。『大友家文書録』に名が見える以上、他の古文書や記録類に断片的にでも情報が残されている可能性は否定できない。
第三に、「留守の火縄」のような特殊な戦術が、当時の技術水準や一般的な戦術思想の中でどのように位置づけられるのか、他の類似事例との比較研究を深める必要がある。
最後に、軍記物語が史実をどのように受容し、変容させ、特定の英雄像を創り上げていくのか、そのメカニズムを解明する上で、朝倉一玄の事例は興味深い研究対象となり得る。
朝倉一玄の研究は、単に一個人の事績を追うだけでなく、戦国時代の史料論、軍記物語研究、地域史研究、さらには歴史と大衆文化の関係といった、より広範な歴史学のテーマに繋がる可能性を秘めている。彼の物語が、断片的な記録と豊かな伝承の中で現代にまで伝わっていること自体が、歴史のダイナミズムの一端を示していると言えるだろう。