朝倉景隆
朝倉景隆は越前朝倉氏の一門で安居城主。加賀一向一揆討伐で宗滴の軍権を継承。晩年に3人の子を失い、自身も間もなく死去した。

朝倉景隆に関する調査報告
1. はじめに
本報告書の主題である朝倉景隆(あさくら かげたか)は、戦国時代の越前朝倉氏における重要な一族であり、特に軍事面での活躍が伝えられる武将である。朝倉氏は越前国(現在の福井県北部)に勢力を誇った戦国大名であり、景隆はその一門として、また安居城主として、朝倉家の浮沈に深く関わった。本報告書は、現存する史料や研究成果に基づき、朝倉景隆の出自、生涯、業績、人物像、そしてその晩年に至るまでを詳細に明らかにし、彼の実像に迫ることを目的とする。
利用者の方が既にご存知の「朝倉家臣。朝倉敏景の弟・経景の孫。朝倉宗滴が病で帰国したあと、一向一揆討伐の大将として加賀に出陣した。のち3人の子を相次いで失い、間もなく死去」という概要は、景隆の生涯における重要な側面を捉えている。本報告書では、これらの情報を基点としつつ、より深く多角的な情報を提供することを目指す。
まず、朝倉景隆の生涯における主要な出来事を概観するために、以下の略年表を提示する。
表1:朝倉景隆 略年表
年代(西暦) |
和暦 |
主な出来事 |
典拠例 |
1508年頃 |
永正5年頃 |
生誕(推定) |
1 |
1555年 |
天文24年(弘治元年)9月 |
加賀一向一揆攻めの最中、総大将・朝倉宗滴が病没。景隆が軍権を継承し、戦闘を継続。 |
2 |
1556年 |
弘治2年4月 |
加賀一向一揆と和睦し、一乗谷へ帰還。 |
2 |
1564年 |
永禄7年9月 |
朝倉景鏡と共に総大将として加賀へ出陣。この際、朝倉景垙が自害する事件が発生。 |
2 |
1570年頃 |
元亀元年頃 |
嫡男や舎弟など(景隆の子とされる)3人が相次いで死去したと伝えられる。 |
2 |
1570年頃 |
元亀元年頃 |
死去(推定) |
1 |
この年表からもわかるように、景隆の生涯は戦乱の中にあり、その生没年や一部の事績については推定に頼らざるを得ない部分も存在する。しかし、断片的な記録を繋ぎ合わせることで、その輪郭を浮かび上がらせることは可能である。
2. 出自と家系
朝倉景隆の人物像を理解する上で、その出自と朝倉一族における位置づけを把握することは不可欠である。
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朝倉氏における景隆の位置づけ
景隆は、日下部姓を称する朝倉氏の一族である 2 。朝倉氏は、室町時代後期から戦国時代にかけて越前国に勢力を張り、一乗谷を本拠地として繁栄した大名家であった。景隆は、その朝倉一門の中でも「同名衆(どうみょうしゅう)」と呼ばれる有力な家々の一員であり、一族内での序列も高かったと記録されている 2 。同名衆は、朝倉宗家の当主と血縁関係が近く、軍事・政治の両面で宗家を支える重要な役割を担っていた。 -
両親
景隆の父は朝倉景職(あさくら かげもと)である 1。景職は文明16年(1484年)に生まれ、天文4年(1535年)4月13日に52歳で没したと伝えられる 5。
景隆の母は、朝倉氏の第9代当主である朝倉貞景(あさくら さだかげ)の長女、北殿(きたどの)であった 1。この、宗家当主の娘との婚姻は、父・景職の朝倉一門内における地位を大いに高めた要因の一つと考えられる 5。景隆が朝倉本家の血を母方から色濃く受け継いでいた事実は、彼自身が一門内で高い序列を保持し、重要な役割を担う背景として見逃せない。戦国時代において、特に主家との姻戚関係は、一族内での発言力や影響力を左右する重要な要素であり、景職の代からの本家との強い結びつきは、景隆の代における政治的・軍事的立場にも有利に作用した可能性が高い。 -
祖父・朝倉経景と大叔父・朝倉敏景(初代孝景)
景隆の祖父は朝倉経景(あさくら つねかげ)である(利用者提供情報5)。この経景は、越前朝倉氏の初代当主として、また「朝倉敏景十七箇条」などの家訓を残したことでも知られる朝倉孝景(一般に敏景(としかげ)の名で知られる。朝倉氏第7代当主、法名・英林宗雄)の弟にあたる人物である 6。
経景は、越前国内の日野川と足羽川が合流する地点に位置し、軍事的にも物流上も要衝であった安居城(あごじょう、現在の福井市安波賀町周辺)の城主であった 7。景隆の父・景職もこの安居城を継承し 5、そして景隆自身も安居城主として記録されており 1、「安居殿(あごどの)」とも称された 8。
景隆の家系、すなわち安居朝倉家は、朝倉氏が越前で守護代としての地位を固め、戦国大名として台頭していく初期の段階から、分家として重要な役割を担ってきた。特に、軍事上の要衝である安居城を代々領してきたという事実は、この家系が単に血縁が近いというだけでなく、軍事的な能力や信頼性においても宗家から重んじられていたことを示唆している。景隆が後年、軍事的に重要な局面でしばしば起用されたのは、彼個人の武勇や能力に加え、こうした家柄に由来する期待と、代々培われてきた軍事的な家風があったためと推察される。 -
朝倉義景との関係
景隆は、朝倉氏最後の当主となった朝倉義景(あさくら よしかげ)とは従兄弟の関係にあたる 1 。これは、義景の父である朝倉孝景(第10代当主、法名・宗淳孝景)と、景隆の母である北殿が兄妹であったためである。この血縁的な近さも、景隆が一門内で高い地位を占める一因であったと考えられる。
以下に、朝倉景隆の家系と本家との関係を簡略に示した系図を掲げる。
表2:朝倉景隆関連略系図
Mermaidによる家系図
graph TD A[朝倉孝景 (初代・敏景)] --- B(朝倉経景 (孝景の弟)) B --- C(朝倉景職) D[朝倉貞景 (9代当主)] --- E(北殿 (貞景の長女)) C --- F((朝倉景隆)) E --- F F --- G(朝倉景健) A --- H(朝倉氏景 (8代当主)) H --- D D --- I(朝倉孝景 (10代当主・宗淳孝景)) I --- J(朝倉義景 (11代当主)) subgraph 安居朝倉家 B C F G end subgraph 朝倉宗家 A H D I J end
この系図からも、景隆が朝倉宗家と密接な血縁関係にあり、かつ朝倉氏の初期からの有力な分家の当主であったことが理解できる。
3. 朝倉景隆の生涯と事績
朝倉景隆は、戦国時代の武将として、主に軍事面でその名を知られている。
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生没年と通称・戒名
景隆の生年は、永正5年(1508年)と推定されている 1。没年は元亀元年(1570年)頃とされ 1、織田信長との本格的な抗争が始まる時期と重なる。
通称は右兵衛尉(うひょうえのじょう)であった 1。これは武官が称する官職名の一つである。なお、朝倉一族には同名の人物や類似した官職名を持つ人物も存在するため、史料の読解には注意が必要である。例えば、朝倉景高という人物も右兵衛尉や右衛門大夫を称している記録があるが 9、景隆とは別人である。景隆自身が右兵衛尉であったことは複数の史料で確認できる。
戒名は雲叟宗瑞(うんそうそうずい)と伝えられている 2。 -
安居城主としての活動
景隆は、祖父・経景、父・景職の跡を継ぎ、越前国安居城主となった 1。安居城は前述の通り、軍事・交通の要衝に位置していた。
景隆の安居城主としての活動は、単に軍事拠点としての城の維持管理に留まらなかったようである。『福井県史』には、戦国期に朝倉経景とその孫である景隆が、坂井郡春近郷内の末平名(みょう)という在地を知行し、京都の大徳寺如意庵へ年貢として毎年金銭10貫文と綿2把を納めていたという記録が見える 10。この事実は、景隆が安居城周辺の所領を直接支配・経営し、年貢の徴収や寺社との関係維持といった、当時の領主としての実務も担っていたことを示している。戦国武将は軍事指揮官であると同時に、自らの所領を統治する行政官としての側面も持っており、景隆もその例に漏れなかったのである。 -
主要な軍事活動:加賀一向一揆との戦い
朝倉景隆の軍事指揮官としての活動で最も顕著なのは、隣国・加賀国(現在の石川県南部)の一向一揆勢力との長年にわたる戦いである。
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天文24年(1555年)~翌弘治2年(1556年):朝倉宗滴の病没後の軍権継承
天文24年(弘治元年、1555年)9月、朝倉氏は加賀一向一揆に対する大規模な攻勢を開始した。この時の総大将は、朝倉一門の長老であり、軍事の天才と称された朝倉宗滴(そうてき、教景)であった。しかし、宗滴は出陣先の加賀で病に倒れ、一乗谷に帰還したものの、まもなく死去してしまう 2。
宗滴は病床にあって、当時40代後半であった朝倉景隆に総大将の任と朝倉軍の指揮権を委ねたとされる 2。景隆は、同じく一門の山崎吉家らと協力して軍を動かしたが、史料によれば、両名ともに宗滴ほどの軍事的才能や統率力には及ばなかったと評価されている 2。
それでも景隆は、宗滴の遺志を継いで戦闘継続の意欲を示し 12、同年9月から10月にかけて、加賀南部の粟津(あわづ)や安宅(あたか、現在の石川県小松市周辺)などを攻撃した。しかし、これらの攻撃は一揆勢の強固な抵抗に遭い、失敗に終わった 2。
翌弘治2年(1556年)3月には、逆に加賀の一揆勢が越前国内に侵攻し、各地を焼き払うなど、朝倉方は苦戦を強いられた 2。
最終的に、この年の4月21日、室町幕府の仲介によって朝倉氏と加賀一向一揆との間で和睦が成立し、景隆は軍勢を率いて一乗谷へ帰還した 2。
この一連の戦いにおいて、朝倉宗滴という絶対的な軍事指導者を失った直後の困難な状況下で、景隆は軍の全権を託された。経験不足や力量の差から戦果を挙げることは難しく、苦戦を強いられたものの、約7ヶ月間にわたり大将として軍を維持し、戦闘を継続した事実は、彼が一定の統率力と強い責任感を持っていたことを示唆している。もし彼に最低限の能力がなければ、より早期に戦線が崩壊し、朝倉氏にとってさらに不利な状況を招いていた可能性も否定できない。 -
永禄7年(1564年):朝倉景鏡と共に総大将として加賀へ出陣
その後も朝倉氏と加賀一向一揆の緊張関係は続き、永禄7年(1564年)9月1日、当主である朝倉義景は再び加賀への出兵を命じた。この時、景隆は同じく一門の重鎮である朝倉景鏡(かげあきら、大野郡司)と共に総大将に任じられ、加賀へ出陣した 2。この出兵の経緯は、『当国御陣之次第(とうごくごじんのしだい)』という史料に比較的詳細に記録されている 4。
しかし、この出陣では予期せぬ悲劇が起こる。朝倉宗滴の孫であり、景紀(かげただ)の子である敦賀郡司・朝倉景垙(かげみつ、景垙とも書かれる)もこの軍勢に加わっていた。景垙は、これまで大将の経験がなかったとされる大野郡司の景鏡が自身を差し置いて総大将の一人に任じられたこと(特に敦賀郡司家は宗滴以来、代々総大将を務める家柄であるという自負があったとされる 4)に強い不満を抱き、出陣の翌日である9月2日に抗議の意味を込めて陣中で自害するという衝撃的な事件が発生したのである 4。この景垙の自害については、史料 14 でも言及されているが、4 がより具体的な背景を伝えている。
この一族内の深刻な事態を受け、当主の朝倉義景自身が急遽、総大将として出陣することを決意。9月12日には自ら軍を率いて加賀に入り、本折(もとおり)城や小松城を攻略、その後も御幸塚(ごこうづか)城などを陥落させ、9月25日に一乗谷へ帰陣したと記録されている 4。
この永禄7年の出兵における景隆個人の具体的な戦功や役割に関する詳細な記述は、現存する史料からは多くを見いだせない。しかし、彼が再び総大将の一人として起用されたという事実は、天文24年の経験がある程度評価されていた可能性を示唆すると同時に、朝倉氏における彼の軍事的な立場が依然として重要であったことを物語っている。一方で、この人選が結果として一族内の深刻な軋轢(あつれき)を引き起こしたことは、義景政権下における家臣団統制の難しさや、一門衆内部の複雑な序列意識、家格を巡るプライドの強さを浮き彫りにしている。景隆自身も、この複雑な人間関係の中で、非常に難しい立場に置かれたであろうことは想像に難くない。この事件は、朝倉氏内部に潜在していた亀裂を示唆するものであり、後の織田信長との全面戦争における結束力の弱さの一因となった可能性も考えられる。
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その他の軍事・政治的活動
軍記物である『越州軍記(えっしゅうぐんき)』にも、「景隆両大将ニテ、加州ヘ御出陳」との記述が見られ 16、景隆が加賀への出陣において大将を務めたことが、同時代に近い記録として残されている。
また、別の史料には「景隆...義景の命令次第...を攻め...覚悟を示し」といった断片的な記述も存在する 17。これは景隆が主君・義景の命令を受けて何らかの軍事行動に関与し、その際に強い決意を示していたことをうかがわせるが、具体的な内容については現在のところ不明である。 -
官位
前述の通り、景隆は右兵衛尉の官位に任じられていた 1 。これは朝廷から与えられる武官の官職であり、当時の武士にとっては社会的地位を示す重要な指標の一つであった。
4. 人物像と評価
朝倉景隆の人物像や評価については、断片的な記述からいくつかの側面をうかがい知ることができる。
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武勇について
景隆は「武勇に長けていたといわれる」との評価が複数の史料や研究で見られる 2。これは、彼が軍事指揮官として度々起用された事実とも符合する。
しかしながら、天文24年(1555年)の加賀一向一揆攻めにおいては、偉大な先達であった朝倉宗滴と比較して「宗滴ほどの力量はなかった」とも評されている 2。この評価は、必ずしも景隆が無能であったことを意味するものではない。宗滴は朝倉氏の中でも群を抜いた軍才の持ち主であり 18、彼と比較されること自体が、景隆がある程度の期待を寄せられる立場にあったことの証左とも言える。実際に、宗滴死後の困難な状況で軍権を委ねられ、また永禄7年にも再び総大将の一人として出陣している事実は、単なる血縁関係だけでなく、一定の軍事的能力が宗家から認められていたことを示唆している。景隆の武勇評価は、比較対象によって見え方が変わるものの、大将を任されるだけの信頼と武勇は備えていたと考えるのが妥当であろう。 -
朝倉家支配の正当性に関する意識
景隆は、単なる武人としてだけでなく、自家の歴史やその支配の正統性といった理念的な側面にも関心を持っていたことを示す興味深い記録が残っている。
彼が文明3年(1471年)の出来事として、朝倉氏の祖である朝倉孝景(初代・敏景)が室町幕府の将軍・足利義政(慈照院殿)から守護検断権の付与を示す御判(ごはん)を拝領し、それに基づいて越前国を支配するようになった、という内容を京都の『大徳寺文書』の中に書き残しているのである 2, [37 (8.2)]2。
この記述は、朝倉氏の越前支配が幕府公認の正当なものであることを強調する意図があったと考えられる。戦国時代において、武力による実効支配だけでなく、こうした家格の高さや由緒の正しさを主張することは、領国支配を安定させ、内外に示す上で非常に重要であった。景隆がこのような記録を残した主体であるという事実は、彼が朝倉一門の有力者として、自家の「記憶」や「正当性」を後世に伝え、確立する役割を自任していた可能性を示唆している。これは、彼が単なる前線指揮官以上の、一族の歴史編纂やイデオロギー形成にも関与するほどの立場と意識を持っていたことを物語っており、戦国武将の多面的な姿を垣間見せる。 -
史料における記述
景隆の活動を伝える同時代の史料としては、軍記物が挙げられる。
『朝倉始末記(あさくらしまつき)』は、越前朝倉氏の興亡を詳細に記した軍記物語であり、その記述は比較的信頼性が高いと評価されている 20。ただし、20 によれば、同書の解説部分には景隆に関する具体的な記述は見られないものの、本文中に含まれる可能性が示唆されている。一方で、4 は、永禄7年の加賀出兵について『朝倉始末記』は一切触れていないと指摘しており、景隆の全ての活動が網羅されているわけではない点に留意が必要である。
『越州軍記』は、『朝倉始末記』の後半部分の元になったとされる軍記物である 22。この史料には、景隆が朝倉景鏡と共に加賀へ出陣した際に「景隆両大将ニテ、加州ヘ御出陳」と、具体的に景隆の名前が大将の一人として挙げられている箇所が存在する 16。これは景隆の軍事活動を裏付ける重要な記述と言える。
これらの軍記物は、景隆の具体的な行動や当時の状況を知る上で貴重な情報源であるが、軍記物という性格上、その記述の全てが史実を正確に反映しているとは限らないため、他の一次史料との比較検討を通じて慎重に扱う必要がある 23。
5. 家族と晩年
朝倉景隆の晩年は、相次ぐ不幸に見舞われた悲劇的なものであったと伝えられている。
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子供たちについて
景隆には複数の子がいたと考えられるが、確実に名前と事績が伝わっているのは、末子とされる朝倉景健(あさくら かげたけ)である 2, [2 (2.1)], [2 (2.2)]2。景健は通称を孫三郎といい、父・景隆の死後、その跡を継いで安居城主となった 25。
景健は、元亀元年(1570年)6月に勃発した織田・徳川連合軍との姉川の戦いにおいて、朝倉勢の総大将として参陣したが、寡兵の徳川軍の猛攻の前に朝倉軍は総崩れとなり、大敗を喫した 24。天正元年(1573年)に朝倉氏が織田信長によって滅ぼされた後は、信長に降伏し、姓を安居と改めて所領を安堵された。しかし、翌天正2年(1574年)に越前で一向一揆が蜂起すると、景健は一揆方に降伏。さらに天正3年(1575年)、織田軍による越前再侵攻の際には、再び織田方へ寝返ろうと画策し、一揆の指揮官であった下間頼照・下間頼俊らの首を持参して信長に許しを乞うたが、その変節を許されず、自害させられたと伝えられている 28。 -
元亀元年(1570年)頃の悲劇:子供たちの相次ぐ死
利用者の方がご存知の「3人の子を相次いで失い」という逸話は、複数の史料で確認することができる。
元亀元年(1570年)頃、景隆の「嫡男や舎弟などが1年のうちに3人死去した」と伝えられている 2。
この記述にある「嫡男」は景隆の跡継ぎであった長男を指すと考えられるが、「舎弟など」という表現が具体的に誰を指すのかは判然としない。これが景隆自身の弟たちを指すのか、あるいは景隆の嫡男以外の息子たち(嫡男から見て弟にあたる息子たち)を指すのか、解釈が分かれる可能性がある。しかし、景健が「末子」として記録されていること 25 から、彼には複数の兄がいたことが強く示唆されるため、ここでいう「舎弟など」が景隆の他の息子たちであった可能性は十分に考えられる。いずれにせよ、景隆にとって極めて近しい血縁の男子3人が、わずか1年の間に相次いで亡くなったという悲劇があったことは確かであろう。
これらの亡くなった子供たちの具体的な名前、年齢、死因、あるいはどのような状況で亡くなったのかといった詳細な情報については、残念ながら現存する史料の中からは見いだすことができない 2。
元亀元年(1570年)という年は、織田信長による越前侵攻が本格的に開始され、姉川の戦いなど激しい戦闘が繰り広げられた年である。このような緊迫した情勢の中で、朝倉一門の有力な家であった景隆の家(安居朝倉家)が、後継者である嫡男を含む複数の成人男子を短期間のうちに失ったことは、同家にとってまさに壊滅的な打撃であったと言える。この損失は、単に一個人の家の不幸に留まらず、朝倉氏全体の軍事力や士気にも少なからぬ影響を与えた可能性が考えられる。 -
景隆の死没と死因
相次いで子供たちを失った後、間もなく景隆自身も元亀元年(1570年)頃に死去したと伝えられている(利用者提供情報2)。
しかし、その正確な死没年月日や具体的な死因については、現存する史料には明確な記載がない 2。相次ぐ子供たちの死による心労が彼の死期を早めた可能性も推測されるが、史料的な裏付けを伴うものではない。
景隆の死は、朝倉氏が織田信長という強大な敵との全面戦争に突入していく、まさにその渦中のできごとであった。過去に何度も大将を務め、武勇にも長けていたとされる 2 景隆のような軍事経験豊富な一門の重鎮がまた一人失われたことは、朝倉氏の軍事指導体制にさらなる空白を生み、その後の戦局に影響を与えた可能性も否定できない。特に朝倉氏は、宗滴の死後、軍事面での指導力不足が指摘されることもあり、景隆の死はそれを一層深刻化させたとも考えられる。
6. 墓所と伝承
朝倉景隆の死後、彼がどのように葬られ、またどのような伝承が残されているのだろうか。
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景隆個人の墓所
提供された史料や一般的な歴史記録の中には、朝倉景隆個人の墓所の所在地を明確に特定できる情報は、残念ながら見当たらない。
いくつかの史料では、朝倉義景の墓所(福井県大野市泉町など 29)や、朝倉景紀(かげただ、景隆の叔父にあたる人物。史料 33 では景忠とも)の墓所と伝えられる場所(福井県鯖江市川島町の専立寺 33)についての言及があるが、これらは景隆本人のものではない。
景隆は安居城主であったことから 1、もし彼の墓所が現存するとすれば、その居城であった安居城跡(現在の福井市金屋町周辺 8)や、その麓にあったとされ、朝倉氏とも縁の深い安居弘祥寺(こうしょうじ)跡 34 など、彼にゆかりの深い土地に存在する可能性が考えられる。実際に弘祥寺跡にはいくつかの墓跡が残っているとされているが 34、それが景隆のものであるという具体的な記述や伝承は確認できない。
朝倉一門の有力な武将であったにもかかわらず、景隆個人の墓所やそれに関する詳細な伝承が明確でない背景には、いくつかの要因が考えられる。彼の死が元亀元年頃であり、その直前に嫡男をはじめとする近親者を失っていること 2。そして、残された末子の景健も天正3年(1575年)に織田信長によって自害に追い込まれ 28、景隆の直系が途絶えたか、少なくとも歴史の表舞台から姿を消してしまった可能性が高いことである。戦国時代において、家が断絶したり著しく衰退したりすると、その家の当主や先祖の墓所が十分に管理・維持されず、関連する伝承も時間と共に失われてしまうことは珍しくない。他の朝倉一族の墓(例えば義景や景紀)が今日まで伝えられていることと比較すると、景隆に関する情報が相対的に少ないのは、彼自身の家である安居朝倉家のその後の運命が大きく影響していると推測される。 -
関連する伝承
景隆個人に直接結びつく特筆すべき具体的な伝承は、提供された史料からは多くを見いだすことができない。
しかし、彼の晩年における、相次いで子供たちを失い、その後まもなく自身も世を去ったという悲劇的な出来事そのものが、景隆に関する最も顕著な伝承として語り継がれていると言えるだろう 2。
景隆の居城であった安居城や、関連寺院である弘祥寺跡の周辺には、朝倉氏全体や南北朝時代の戦乱に関する伝承がいくつか存在するようであるが 8、景隆個人に焦点を当てたものは少ない。
7. 関連史料について
朝倉景隆の生涯や事績を再構築する上で参照される主要な史料には、以下のようなものがある。
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『朝倉始末記』
越前朝倉氏の興隆から滅亡までを記した軍記物語であり、同時代史料や後の研究においても比較的信頼性が高いものとして扱われることが多い 20 。 20 によれば、同書の解説文には景隆に関する具体的な記述は見当たらないが、本文中に景隆の活動に関する記述が含まれている可能性が示唆されている。ただし、 4 は、永禄7年(1564年)の加賀出兵について『朝倉始末記』は触れていないと指摘しており、景隆の全ての活動がこの史料で網羅されているわけではない点に注意が必要である。 -
『越州軍記』
『朝倉始末記』の後半部分の元になったともいわれる軍記物である 22 。この史料には、景隆が朝倉景鏡と共に加賀へ出陣した際の記述として「景隆両大将ニテ、加州ヘ御出陳」と具体的に名前が挙げられている箇所があり 16 、これは景隆の軍事活動を裏付ける重要な記述の一つである。 -
『大徳寺文書』
京都の大徳寺に関連する古文書群であり、この中には朝倉景隆に関する注目すべき記録が含まれている。一つは、景隆が朝倉家の越前支配の正当性について、先祖の朝倉孝景(初代)が室町幕府の将軍から公認された旨を記したとされる文書である 2 , [ 37 (8.2)] 2 。もう一つは、景隆が祖父・経景と共に在地を知行し、大徳寺の塔頭である如意庵へ年貢を納めていたことを示す記録である 10 。これらの記述は、景隆の領主としての一面や、一族の歴史認識を示す上で貴重である。 -
『当国御陣之次第』
永禄7年(1564年)に朝倉義景が行った加賀出兵の経緯を詳細に記した史料であり、この中で朝倉景隆が朝倉景鏡と共に総大将に任じられたことや、それに伴って発生した朝倉景垙の自害事件などが記録されている 4 。この史料は、景隆の軍歴を具体的に知る上で非常に価値の高いものである。 -
その他
上記のほかにも、『福井県史 通史編2 中世』をはじめとする福井県関連の郷土史料 10 などにも、景隆に関する断片的な記述や、彼が活動した時代の背景情報、関連する人物についての情報が含まれている。これらの史料を総合的に検討することで、景隆の実像に迫ることが可能となる。
8. おわりに
朝倉景隆は、戦国時代の越前朝倉氏において、一門の有力な武将として、その生涯を通じて重要な役割を果たした人物であった。朝倉宗滴という偉大な軍事指導者の後継者として困難な戦局の指揮を執り、また、一門内の複雑な力学の中で総大将の一翼を担うなど、その活動は多岐にわたる。彼の軍事指揮官としての経験は、朝倉氏の軍事力を維持する上で欠かせないものであったと言えるだろう。
一方で、景隆の活動は軍事面に留まらなかった。安居城主として領地の知行を行い、寺社への年貢納入といった領国経営の実務にも関与していた。さらに、自家の歴史的正当性を『大徳寺文書』に記録するなど、朝倉氏のイデオロギー形成にも意識的であった側面が見られ、単なる武人ではない多面的な人物像が浮かび上がる。
しかし、その晩年は悲劇に彩られていた。元亀元年(1570年)頃、嫡男をはじめとする近親者を相次いで失い、自身もまた、朝倉氏が織田信長との存亡をかけた戦いに突入していくまさにその時期に世を去った。彼の死と、その家(安居朝倉家)の急速な衰退は、戦国末期の朝倉氏が直面した内部的な脆弱性や、外部からの強大な圧力といった困難な状況を象徴しているかのようである。
本報告書は、提供された断片的な史料情報を繋ぎ合わせ、時に行間を読むことで、朝倉景隆という一人の武将の生涯と、彼が生きた時代の一端を明らかにしようと試みた。しかしながら、特に彼の子供たちの詳細や、景隆自身の正確な死没年月日、死因、そして墓所の所在地など、未だ不明な点も多く残されている。これらの謎を解き明かすためには、今後の更なる史料の発見と、より深い研究の進展が待たれるところである。朝倉景隆という人物を通じて、戦国という時代の複雑さと、そこに生きた人々の多様な姿を垣間見ることができる。
引用文献
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- 加賀一向一揆との抗争・朝倉宗滴の奮闘と義景の戦い(3) http://fukuihis.web.fc2.com/war/war052.html
- 朝倉景職 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%99%AF%E8%81%B7
- 朝倉孝景(朝倉敏景)|国史大辞典・日本大百科全書 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1589
- 戦国大名朝倉氏(同名衆・朝倉景健) http://fukuihis.web.fc2.com/main/itizoku09.html
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