最終更新日 2025-06-04

朝倉景高

朝倉景高は越前朝倉氏の一門。兄孝景と対立し追放される。美濃出兵で活躍。没年は諸説あり不明。子孫は徳川家臣として存続。
朝倉景高

戦国武将 朝倉景高の実像 ―史料の錯綜と再評価の試み―

序章:朝倉景高という人物

朝倉景高は、戦国時代の越前国にその名を刻む朝倉氏一門の武将である。越前朝倉氏第10代当主・朝倉孝景(宗淳)の弟として、また、後に主君である甥の朝倉義景を裏切ったとされる朝倉景鏡の父として、歴史の交差点に立つ人物と言えよう。しかしながら、その生涯、とりわけ没年や最期に関しては史料間で情報が錯綜しており、確固たる人物像を構築することは容易ではない。

本報告は、現存する比較的限られた史料群を丹念に分析し、景高の出自、事績、宗家との相克、没落の経緯、そして後世に与えた影響を多角的に検証することで、その実像に可能な限り迫ることを目的とする。景高に関する研究は、兄・孝景や子・景鏡、あるいは朝倉氏滅亡という大きな歴史的文脈の中で、部分的に触れられることはあっても、景高自身を主題とした包括的な研究は未だ十分とは言えない状況にある。

研究を進める上での最大の課題は、彼の没年や最期に関する史料の著しい矛盾である 1 。『朝倉始末記』や『越州軍記』といった軍記物語の記述は存在するものの、これらの史料が持つ性格や成立背景を考慮した慎重な取り扱いが求められる 2 。史料間の矛盾は、単なる記録の誤りという可能性に加え、後世の編纂意図や、景高という人物が置かれた複雑な立場を反映している可能性も否定できない。例えば、宗家と対立し没落したという経緯が、朝倉氏側の公式な記録において意図的に曖昧にされたり、あるいは改変されたりした可能性も考えられる。また、敵対勢力の記録と朝倉側の記録とで、それぞれの立場による記述の差異が生じたことも十分にあり得る。これらの点を踏まえ、本報告では、断片的な情報を繋ぎ合わせることで、景高の行動原理や、戦国武将としての苦悩を浮き彫りにすることを目指す。

第一章:朝倉景高の出自と系譜

越前朝倉氏は、但馬国朝倉庄(現在の兵庫県養父市朝倉)を発祥の地とし、南北朝時代に足利氏の一族である斯波高経に従って越前に入国したとされる 3 。当初は越前守護斯波氏の被官であったが、応仁の乱などを経て次第に頭角を現し、戦国大名へと成長を遂げた一族である。朝倉氏の当主や主要な一族は、通字として「景」の字を用いることが多い 3

朝倉景高は、この越前朝倉氏の第9代当主・朝倉貞景の子として生を受けたとされる 6 。父・貞景は、一向一揆との戦いや同族間の争いを乗り越え、越前における朝倉氏の支配権を確固たるものにした人物として評価されている 7 。景高の母については、残念ながら史料にその名は見出せない 6

景高には、兄として第10代当主となった朝倉孝景(宗淳、法名は大岫宗淳)がいた 6 。孝景は父・貞景の跡を継ぎ、越前の統治にあたる一方で、中央政局にも積極的に関与し、一乗谷に華やかな文化をもたらしたことで知られる 8 。景高と孝景の関係は、景高の生涯に決定的な影響を与えることとなる。また、弟妹には景郡、景紀(敦賀郡司、朝倉宗滴の養子)、道郷、景延などがいた 6 。中でも弟の景紀は武勇に優れ、和歌や連歌など文芸にも通じた人物で、叔父にあたる名将・朝倉宗滴の養子となり敦賀郡司の職を継いだ 9 。景高とは異なる形で朝倉家を支えた存在であった。

景高の妻(あるいは側室)としては、権中納言・烏丸冬光の娘が伝えられている 6 。この女性との間に、後に朝倉義景を裏切ることになる朝倉景鏡が生まれたとされる 6 。この婚姻は、景高が京都の中央公家社会とも一定の繋がりを有していたことを示唆している。景高の子としては、景鏡の他に、景次、そして在重(「ありしげ」または「ながしげ」。存重とも表記される)の名が史料に見える 6 。景鏡については後述するが、景次の消息については史料が乏しく、詳細は不明である。一方、在重は徳川家に仕え、その系統は江戸時代に旗本として存続した 11

朝倉氏の系図は、「様々なものが伝わっている」とされ、その内容は必ずしも一様ではない 2 。特に軍記物語である『朝倉始末記』の末巻に収められた系図は、後世の編纂物であり、朝倉義景以前の記述や、景鏡、景健といった人物の系統に誤りが多いとの指摘がある 2 。景高と景鏡の親子関係についても、「諸説あり」とされる場合も見られるが 10 、多くの史料では景高は貞景の次男、孝景の弟として位置づけられている 6 。系図の混乱は、朝倉氏内部の権力構造の複雑さや、宗家から見て傍流にあたる系統の扱いの難しさを反映している可能性も考えられる。景高の母が誰であったか、正室の子か庶子であったかといった点は不明であるが、こうした出自の違いが、兄・孝景との関係や朝倉家中における彼の立場に影響を与えた可能性も否定できない。

表1:朝倉景高 関連年表

和暦

西暦

年齢(数え)

主要な出来事

主要史料

明応4年

1495年

1歳

生誕(異説あり)

6

永正16年

1519年

25歳

美濃国へ出兵。正木合戦・池戸合戦で勝利し、土岐頼武の守護職就任に貢献。

6

大永7年頃

1527年頃

33歳頃

大野郡司に就任。

6

天文5年

1536年

42歳

美濃の土岐頼武・頼芸兄弟の抗争に介入し、大野郡穴間城を攻略。

5

天文9年

1540年

46歳

8月、上洛し反孝景運動を画策するも失敗(楊弓会事件)。9月、京都を追放される。

6

天文9年以降

1540年以降

46歳以降

若狭武田氏のもとへ亡命。尾張斯波氏や本願寺と連携し、越前侵攻を画策。

6

天文10年

1541年

47歳

9月、本願寺に対し越前三郡進上などを条件に支援を要請するも拒否される。

1

天文12年

1543年

49歳

4月、本願寺との同盟交渉が最終的に失敗。若狭を退去し、和泉国堺湊を経て西国へ没落。

1

永禄7年

1564年

70歳

没年・最期について諸説あり(美濃にて戦死説、追放・出家説、あるいはこれ以前に没した可能性も)。

1

没年不明

不明

不明

西国没落後の消息は不明確で、正確な没年・場所は不明とする史料も多い。

6

表2:朝倉景高 関係人物略系図

Mermaidによる家系図

graph TD A["朝倉貞景 (9代当主)"] --> B["朝倉孝景 (宗淳・10代当主)"] A --> C["朝倉景高"] A --> D["朝倉景紀 (敦賀郡司・宗滴養子)"] C -- 室 --> E["烏丸冬光の娘"] C --> F["朝倉景鏡 (大野郡司)"] C --> G["朝倉景次"] C --> H["朝倉在重/存重 (旗本祖)"] B --> I["朝倉義景 (11代当主)"]

第二章:朝倉景高の事績

朝倉景高の具体的な事績として史料から確認できるのは、主に大野郡司としての活動と、いくつかの軍事行動である。

大野郡司としての景高は、大永7年(1527年)頃からその任にあったとされている 5 。大野郡は、加賀や美濃といった隣国との国境に接する戦略的要衝であり、その郡司職は朝倉一門の中でも重要な地位であった 4 。景高の子である景鏡も後に大野郡司を務め、亥山城(いのやまじょう、別名土橋城)を拠点とした記録があることから 10 、景高自身もこの城、あるいはその周辺地域を拠点として郡内の統治にあたっていた可能性が高い。しかしながら、景高が大野郡司としてどのような具体的な統治を行ったのか、例えば領民に対する政策や徴税、地域紛争の調停といった詳細な記録は、現存する史料からは乏しいのが現状である 16 。『福井県史』には、景高の嫡子とされる景鏡が大野郡司として足利義秋(後の義昭)から式部大輔に任ぜられたという記述が見られるが 15 、これは景高の時代よりも後のことであり、景高自身の統治内容を直接示すものではない。また、景高個人の家臣団構成についても、具体的な名簿や詳細な研究は確認されておらず 17 、わずかに後年の史料から、景高の子・景鏡の被官であった人物が元は景高の家臣であった可能性が示唆される程度である 20

軍事面における景高の活動で特筆すべきは、永正16年(1519年)の美濃国への出兵である。この時、景高は兵3千を率いて美濃国内に侵攻し、当時美濃守護・土岐頼武と対立していた斎藤彦四郎の勢力と交戦。9月14日の正木合戦、10月10日の池戸合戦において連戦連勝を収め、土岐頼武の守護職復帰に大きく貢献した 5 。この一連の戦功は、景高の武将としての能力を示すものであり、朝倉家が美濃の国内情勢に対して一定の影響力を行使し得たことを物語っている。

さらに、天文5年(1536年)には、美濃国内で再び起こった土岐頼武とその弟・頼芸(よりのり、または、よりよし)との間の守護職を巡る争いに介入し、朝倉景高が大野郡穴間城(あなまじょう)を攻略したと記録されている 5 。この軍事行動は、越前国内、あるいは美濃との国境付近における朝倉家の勢力拡大、または国境地帯の安定化を目的としたものと考えられ、大野郡司としての景高の職務とも深く関連していた可能性が高い。

これらの軍功にもかかわらず、景高のその後の立場は、宗家である兄・孝景との対立へと向かっていく。初期の軍事的な成功が、かえって宗家との間に緊張関係を生み出す一因となった可能性も否定できない。あるいは、大野郡司としての権限行使が、宗家の意向と衝突したことも考えられる。史料からは、これら以外に景高が大規模な軍事指揮を執った記録や、特筆すべき政治的活動は読み取りにくい。彼の活動は、兄・孝景の治世下における、朝倉一門の有力武将としての役割が中心であったと推察される。

第三章:朝倉孝景(宗淳)との確執

朝倉景高の生涯において、兄である越前朝倉氏第10代当主・朝倉孝景(宗淳)との確執は、決定的な転換点となった。この対立の原因については、いくつかの要因が考えられる。

まず、父・貞景の遺領をめぐる争いがあったと伝えられている 3 。戦国時代において、兄弟間での家督や所領を巡る争いは決して珍しいことではなく、朝倉氏においても同様の問題が潜在していた可能性は高い。また、ある史料によれば、景高と孝景(あるいは孝景の父・氏景の誤記か、文脈の確認が必要)とは個人的な不仲であり、景高が自身の戦功に奢って増長し、当主寄りの考えを持つ一族(発言者自身、おそらく弟の景紀)と激しく対立したことが示唆されている 22 。さらに、『福井県史』の記述や関連史料は、朝倉宗家におけるお家騒動の類型の一つとして「後継者問題での景高没落」を挙げており 23 、この対立が単なる兄弟間の感情的なもつれに留まらず、より構造的な権力闘争であった可能性を示している。

この確執が表面化したのが、天文9年(1540年)のいわゆる「楊弓会事件」である。この年8月、景高は京都へ上洛し、幕府の要人や公家衆との人脈を頼り、兄・孝景に対する謀反を画策した 5 。しかし、この動きを察知した孝景は、朝廷に御所の修理料として百貫文、室町幕府の将軍家にも五十貫文を献上した上で、幕府に対して景高の追放を正式に願い出た 8 。その結果、景高の謀反計画は失敗に終わり、同年9月、彼は京の都から追放されることとなった 6

この京都追放に前後して、景高は大野郡司の職も罷免されたと考えられる 4 。これにより、景高は越前国内における自身の政治的・経済的基盤を完全に失い、その後の流浪の生活へと繋がっていく。一方、孝景にとっては、弟という潜在的な競争相手を排除し、戦略的にも重要な大野郡を直接支配下に置くことで、自身の権力基盤を一層強化するという結果をもたらした 4

景高と孝景の対立は、単に個人的な確執に起因するものだけではなく、当時の朝倉家が抱えていた構造的な問題、例えば一門衆の勢力統制や、当主権力の強化過程といった戦国大名特有の課題を反映していた可能性が高い。景高が有していた武功や中央政界との繋がりが、逆に当主である孝景の警戒心を招き、最終的に排除へと繋がったと考えられる。

第四章:没落と流転の生涯

京都を追放され、大野郡司の地位も失った朝倉景高は、再起を期して流浪の身となる。まず彼が身を寄せたのは、隣国若狭国の守護であった武田氏(武田信豊か)のもとであった 6 。若狭武田氏は、朝倉氏とは婚姻関係を結ぶこともあれば、時には緊張関係にも立つなど、複雑な関係にあった。景高が亡命先として若狭を選んだ背景には、こうした地理的近接性と、両家のこれまでの政治的関係があったものと考えられる。

若狭に身を置いた景高は、尾張国の斯波氏や、当時大きな勢力を有していた本願寺と連携し、兄・孝景が支配する越前への侵攻、すなわち失地回復と復権の機会を虎視眈々と窺っていた 6 。特に本願寺に対しては、天文10年(1541年)9月、自らが本願寺門徒となること、そして越前国のうち三郡を本願寺に割譲することなどを条件として、その支援を取り付けようと画策した 1 。しかし、本願寺の指導者であった証如は、この景高の提案を拒否した 1 。本願寺が景高の申し出を退けた理由としては、当時の本願寺と朝倉宗家との関係(例えば、長年対立してきた加賀一向一揆と朝倉孝景との間で和睦が成立していたこと 8 )、景高の提案内容の実現可能性に対する疑問、そして何よりも景高に与することで強大な朝倉宗家を敵に回すことのリスクなどが総合的に判断された結果であろう。

若狭武田氏からの十分な支援も得られず、本願寺との連携も不首尾に終わった景高は、天文12年(1543年)4月、ついに若狭の地を離れることを余儀なくされる 1 。同月、景高は本願寺証如に対し、西国へ逃れるための通路の安全確保を依頼しており 14 、その後、和泉国の堺湊を経由して西国へと没落していったと伝えられている 4

この西国への逃亡以降、景高の具体的な消息を伝える確かな史料は極めて乏しくなる。この史料上の空白が、彼の没年や最期に関する情報が錯綜する大きな要因となっている。景高の再起に向けた画策がことごとく失敗に終わった背景には、支援を期待した各勢力の冷徹な利害計算と、兄・孝景が築き上げた朝倉宗家の支配体制の相対的な安定性があったと考えられる。一度政治的基盤を完全に失った武将が、戦国乱世の中で再び返り咲くことの困難さを、景高の流転の生涯は如実に物語っていると言えよう。

第五章:没年と最期をめぐる諸説

朝倉景高の没年と最期については、史料間で記述が一致せず、複数の説が存在する。この点は、景高の生涯を研究する上で最も不明瞭な部分の一つである。

永禄七年(1564年)戦死説

一つの説として、景高が永禄7年(1564年)に美濃国で戦死したというものがある。『福井県史』通史編2 中世には、この説が紹介されており、その典拠として軍記物語である『朝倉始末記』や『越州軍記』が挙げられている 1 。この説によれば、越前を追放された景高は美濃の斎藤氏を頼り、永禄7年に本格化した織田信長による美濃侵攻の過程で、斎藤方として戦い討死したとされる 1 。美濃の斎藤龍興は、朝倉氏と縁戚関係にあり、一時は朝倉義景を頼って越前に滞在していたこともあるため 24 、景高が斎藤氏と結びつく蓋然性は考えられる。

しかし、この戦死説にはいくつかの疑問点も存在する。『福井県史』の別の箇所では、『朝倉始末記』に「朝倉義景が景高の戦死を悼む和歌を詠んだ」という記述がある一方で、同書には「景高が永禄七年に義景に追放され出家した」という話も伝えられており、内容に矛盾が見られると指摘されている 1 。軍記物語である『朝倉始末記』や『越州軍記』の史料的価値については、その成立背景や編纂意図を考慮し、慎重な検討が必要である。

永禄七年(1564年)追放・出家説

もう一つの有力な説として、景高が永禄7年に兄の子である朝倉義景(孝景の子、第11代当主)によって再び追放され、出家したというものがある。『福井県史』通史編2 中世では、この説も紹介されており、景高が義景によって幽閉された後、越前を追放され、義景の意向に反して出家したため許されなかった、と記されている 1 。この説の典拠としては、『越州軍記』や『朝倉家記』が挙げられ、これらの史料には景高が義景に追放された後、越前を離れて近江国で出家したと記されているという 1 。『福井県史』は、史料的根拠の強さから、この追放・出家説の方をより信憑性が高いと評価している 1

その他の説・没年不明

上記二説の他にも、景高の没年を特定できないとする見解も根強い。多くの歴史事典や系図関連資料では、景高の没年は「不明」と記載されている 6 。生年については明応4年(1495年)とする資料もあるが 6 、天文12年(1543年)に西国へ没落した後の約20年間の消息が不明瞭であることが、没年不詳とされる大きな理由である。

諸説の比較検討と現時点での評価

永禄7年という年は、織田信長の美濃攻略が最終段階に入り、斎藤氏が滅亡へと向かう時期と重なる。景高がこの戦国時代の大きな転換点に何らかの形で関与し、その生涯を終えた可能性は否定できない。「追放・出家」と「戦死」は、必ずしも完全に両立しないわけではない。例えば、追放されて出家した後に、何らかの経緯で美濃の合戦に関与し戦死したというシナリオも論理的には考えられる。しかし、それを裏付ける明確な史料は現在のところ確認されていない。

『福井県史』の記述自体に揺れが見られることは、典拠とした史料群の記述が錯綜していることの現れであろう。現時点の資料に基づけば、朝倉景高の最期を確定することは極めて困難と言わざるを得ない。永禄7年に歴史の舞台から姿を消した可能性は高いものの、それが戦死であったのか、あるいは別の形での終焉であったのかは、依然として謎に包まれている。多くの事典類が「没年不明」としているのは、このような史料状況を反映した妥当な判断と言えるだろう。

表3:朝倉景高の没年・最期に関する諸説比較

時期

内容

主な典拠

備考

美濃戦死説

永禄7年

美濃斎藤氏と織田信長の合戦において、斎藤方として戦死。

『福井県史』 1 (『朝倉始末記』『越州軍記』を引用)

『朝倉始末記』内の記述に矛盾点の指摘あり 1

追放・出家説

永禄7年

朝倉義景により越前を追放され、近江等で出家。その後の消息は不明。

『福井県史』 1 (『越州軍記』『朝倉家記』を引用)

『福井県史』はこちらの説をより信憑性が高いと評価 1

没年不明説

不明

天文12年の西国没落以降、正確な没年・場所は不明。

『朝倉景高 - Wikipedia』 6 等の各種事典類、系図類

史料の錯綜と空白期間の存在による。

第六章:朝倉景高の子孫たち

朝倉景高には、史料によれば少なくとも三人の男子がいたとされ、それぞれが異なる道を歩んだ。

朝倉景鏡(かげあきら)

景高の子として最も名が知られているのが、朝倉景鏡である 10 。母は公家の烏丸冬光の娘と伝えられる 6 。景鏡は朝倉一門の中で大野郡司を務め、家中では筆頭格の地位にあったとされる 10 。しかし、天正元年(1573年)、織田信長による越前侵攻の際、主君であり従兄弟にあたる朝倉義景を裏切り、大野郡の六坊賢松寺において自害に追い込んだ 3 。その後、義景の首級を信長に差し出して降伏し、一時的に所領を安堵され土橋信鏡と改名したが、翌天正2年(1574年)、越前で蜂起した一向一揆によって滅ぼされた 10

景鏡のこの裏切り行為は、朝倉氏滅亡を決定づけた要因の一つとして語られることが多い。父である景高が宗家(孝景)との対立によって不遇な晩年を送ったことが、景鏡の宗家に対する複雑な感情や、土壇場での裏切りという決断に何らかの影響を与えた可能性は否定できない。しかし、これを直接的に裏付ける史料はなく、戦国武将としての現実的な生き残り戦略の結果と見るべきであろう。

朝倉景次(かげつぐ)

景高の次男とされるのが景次である 6 。景鏡の弟にあたるが、兄の景鏡や弟の在重(存重)と比較して、景次の具体的な活動やその後の消息に関する史料は極めて乏しい 5 。越前朝倉氏の滅亡後、その子孫を名乗る伝承が日本海側の各地に残されているが、その真偽は定かではない 5 。景次の系統がこれらの伝説の一つとして語られた可能性も考えられるが、確たる証拠は見当たらない。彼が早逝したのか、あるいは歴史の表舞台に出ることなく生涯を終えたのか、その詳細は不明のままである。

朝倉在重(ありしげ)/存重(ながしげ/ありしげ?)

景高の三男とされるのが在重(存重とも表記される)である 6 。史料によって「在重」と「存重」の表記が見られるが、同一人物を指すと考えられる。一説によれば、父・景高が越前から逃れた際に父と別れ、駿河国の今川氏を頼ったとされる 29 。今川氏の滅亡後は、中村一氏、次いで徳川家康に仕えたと称している 29

この在重の系統は、江戸時代に入ってからも存続した。在重の子である朝倉宣正(のぶまさ)は、徳川家康の孫であり三代将軍・家光の弟にあたる徳川忠長の附家老となり、遠江国掛川城主として2万6千石の所領を与えられた 3 。しかし、主君である忠長が不行跡などを理由に改易されると、宣正もこれに連座して所領を没収された 11 。しかし、宣正の弟の家系は江戸幕府の旗本として存続し、朝倉氏の血脈を後世に伝えた 5 。在重の系統が徳川家臣として存続できたのは、朝倉宗家が滅亡する以前に越前を離れ、有力大名である今川氏、そして最終的には天下人となった徳川氏に仕えることで新たな活路を見出し、江戸幕府の体制下で旗本という安定した地位を確保できたためと考えられる。これは、戦国時代から江戸時代への移行期における、多くの武家の処世術の一つの典型例と言えるだろう。

第七章:朝倉景高と文化活動

戦国時代の武将にとって、武芸百般に通じていることと同様に、和歌や連歌といった文化的素養もまた重要な教養の一つであった。朝倉景高に関しても、その文化活動の側面を完全に無視することはできない。

景高は、天文9年(1540年)に京都へ上洛した際、公家衆や幕府の要人に接近している 6 。これは主に政治的な目的によるものであったと考えられるが、同時に当時の武将が中央の洗練された文化と無縁ではなかったことを示している。また、景高の妻(あるいは側室)が権中納言という高位の公家である烏丸冬光の娘であったこと 6 も、彼が京都の公家社会と何らかの接点を有していたことを示唆している。

兄である朝倉孝景の治世下、朝倉氏の本拠地であった一乗谷には、京都から多くの文化人や貴族が招かれ、あるいは戦乱を避けて下向し、華やかな文化が花開いたとされている 8 。景高もまた、こうした文化的雰囲気の中で育ち、一定の教養を身につけていた可能性は十分に考えられる。事実、弟の朝倉景紀は連歌会を興行し、自らも作品を残すなど、文武両道に秀でた人物として知られている 9

『福井県史』には、朝倉景高が連歌師としても知られ、多くの連歌作品を残したとの記述が見られる 1 。しかしながら、現存する他の史料群からは、景高自身が詠んだ具体的な連歌作品や、彼が中心となって連歌会を催したといった直接的な記録を見出すことは困難である 6 。景高が連歌に関与した可能性は否定できないものの、その活動の実態や作品については、より専門的な史料調査、例えば古今の連歌集の奥書や、同時代の公家や僧侶の日記史料などを渉猟する必要があるだろう。提供された資料だけでは、彼を「連歌師」として評価するには証左が不足していると言わざるを得ない。

景高の文化活動に関する情報が乏しい理由としては、彼が主に武人としての側面で歴史に名を残し、文化面での顕著な事績が少なかったためか、あるいは宗家との対立とそれに続く没落によって、彼の記録が散逸したり、意図的に抹消されたりした可能性も考えられる。当時の大野郡司という立場から、領内の鎮護や社交儀礼の一環として連歌会などを催した可能性はあり得るが、それを裏付ける史料の発見が今後の課題となる。

終章:朝倉景高の歴史的評価

朝倉景高は、越前朝倉氏の歴史において、宗家の有力な一門でありながら、兄である当主・孝景との深刻な対立の末にその地位を失った、ある種の悲劇性を帯びた人物として捉えることができる。彼の存在と行動は、戦国時代の大名家内部にしばしば見られた権力闘争や、当主による領国支配体制強化の過程の一断面を照らし出している。また、その子である朝倉景鏡が後に主君・義景を裏切るという形で朝倉氏滅亡に深く関与したことを考えると、景高の生涯が間接的にではあれ、朝倉氏の終焉に影を落としていた可能性も否定できない。

一人の戦国武将としての景高の生涯を総括するならば、美濃出兵などで見られるように、武将としての一定の能力は有していたものの、政治的才覚や時勢を読む力には限界があったのかもしれない。中央政界に活路を見出そうとした試みも失敗に終わり、流浪の末にその後の消息が不明確となる生涯は、戦国乱世の厳しさ、そして武士の浮沈の激しさを示す一例と言えるだろう。彼の名は、兄・孝景や甥・義景、あるいは子・景鏡といった、より歴史の表舞台で大きな役割を果たした人物たちの陰に隠れがちではあるが、その波乱に満ちた生涯は、同時代に生きた多くの「名を残せなかった」武将たちの姿を象徴しているとも言えるかもしれない。

今後の朝倉景高研究においては、いくつかの課題が残されている。第一に、依然として錯綜する没年および最期に関する史料の再検証が不可欠である。特に『朝倉始末記』や『越州軍記』といった軍記物語については、異本の比較検討や成立過程の研究を通じて、その史料的価値をより厳密に評価する必要がある。第二に、大野郡司としての具体的な統治内容を示す一次史料の探索が望まれる。第三に、連歌作品の有無を含め、彼の文化活動に関する史料の発掘も期待される。そして最後に、景高の没落が、その後の大野郡の統治体制や朝倉家中の権力バランスにどのような影響を与えたのか、より詳細な分析が求められる。これらの研究を通じて、朝倉景高という一人の武将の実像が、より鮮明に浮かび上がってくることを期待したい。

引用文献

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  2. fukuihis.web.fc2.com http://fukuihis.web.fc2.com/main/kusakabe.pdf
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  6. 朝倉景高 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%99%AF%E9%AB%98
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  9. 朝倉景紀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%99%AF%E7%B4%80
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  11. 朝倉氏 http://kunioyagi.sakura.ne.jp/kazoku/yagi-ke/asakurasi.pdf
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  13. 朝倉孝景 (10代当主)とは - わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%AD%9D%E6%99%AF+%2810%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB%29
  14. 福井県史年表(1541年~1560年) https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/nenpyo/rekishi/chrn23.html
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  16. 大 野 市 文 化 財 保 存 活 用 地 域 計 画 https://www.city.ono.fukui.jp/shisei/seisaku-keikaku/bunka-sports/bunnkazaikeikaku.files/honpen.pdf
  17. 朝倉氏による敦賀郡支配の変遷(下) - 福井県立図書館 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/tosyo/file/614714.pdf
  18. 大野郡司 - 『福井県史』通史編2 中世 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-4-01-02-03-05.htm
  19. あさくら - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/asakura.html
  20. 中世越前の諸地域について - 福井県立図書館 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/file/615533.pdf
  21. 戦国!室町時代・国巡り(2)美濃編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/ndf88f88b33a5
  22. 戦国騒乱記 〜二度目の転生先は同姓同名の弱小大名でしたが、敵が多すぎます!〜 - 朝倉家② https://ncode.syosetu.com/n3394kj/48/
  23. 越前朝倉宗家をめぐるお家騒動 〜敦賀市民歴史講座(第2講)より https://yamamoto-takeshi.net/%E8%B6%8A%E5%89%8D%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%AE%97%E5%AE%B6%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E3%81%8A%E5%AE%B6%E9%A8%92%E5%8B%95-%E3%80%9C%E6%95%A6%E8%B3%80%E5%B8%82%E6%B0%91%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E8%AC%9B/
  24. 斎藤龍興 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%BE%8D%E8%88%88
  25. 1573年 – 74年 信玄没、信長は窮地を脱出 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1573/
  26. 朝倉義景- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%9C%9D%E5%80%89%E7%BE%A9%E6%99%AF
  27. 朝倉家の歴史と武具(刀剣・甲冑)/ホームメイト https://www.touken-world.jp/tips/30499/
  28. 明智光秀と帰蝶(濃姫)ーーあるいは歴史の陰の女 - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2020/02/02/210000
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  30. 朝倉景鏡と朝倉氏の末裔 - 日本実業出版社 https://www.njg.co.jp/column/column-33829/
  31. 戦国大名朝倉氏(同名衆・朝倉景紀) http://fukuihis.web.fc2.com/main/itizoku07.html
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