本報告は、日本の戦国時代後期、とりわけ東海地方を拠点とした今川家の重臣としてその名を歴史に刻む武将、朝比奈泰朝(あさひなやすとも)について、詳細かつ徹底的な調査に基づき、その実像に迫ることを目的とする。朝比奈泰朝は、主家である今川家が急速に衰退していく激動の時代にあって、最後まで主君への忠義を貫いた武将として知られている 1 。その生涯は、戦国乱世における武士の倫理観や生き様を体現するものとして、後世に多くの関心を呼んできた。
泰朝の評価を考える上で特筆すべきは、彼が仕えた今川氏真が、父・義元と比較して必ずしも名君とは見なされてこなかったという歴史的背景である。多くの家臣が離反していく中で、なおも氏真に忠節を尽くした泰朝の姿は、その忠誠心の純粋さを際立たせる要因となったと考えられる 3 。本報告では、泰朝の出自と家系、今川家臣としての活動、桶狭間の戦いや掛川城籠城戦といった主要な合戦への関与、そして今川家没落後の動静から人物像、後世の評価、さらには子孫や関連史跡に至るまで、多角的な視点から検証を行う。
表1:朝比奈泰朝 略年譜
年代 |
出来事 |
典拠 |
天文7年(1538年)頃 |
遠江国掛川にて誕生(推定)。幼名・鶴千代。 |
5 |
弘治3年(1557年)以前 |
父・泰能の死により家督を継承、掛川城主となる。 |
4 |
弘治2年(1556年) |
山科言継より「梶井宮之御筆百人一首」を与えられる。 |
4 |
永禄元年(1558年) |
駿東郡霊山寺を再興。 |
4 |
永禄3年(1560年) |
桶狭間の戦いに従軍。鷲津砦を攻略、大高城を救援するも、義元戦死により撤退。 |
1 |
永禄5年(1562年) |
今川氏真の命により井伊直親を誅殺。 |
4 |
永禄年間 |
三浦氏満と共に上杉氏との交渉に当たる。 |
4 |
永禄11年(1568年)12月 |
武田信玄の駿河侵攻。氏真、掛川城へ逃れる。徳川家康、遠江へ侵攻し掛川城を包囲。 |
4 |
永禄12年(1569年)5月 |
約5ヶ月の籠城戦の末、掛川城を開城。氏真と共に伊豆へ退去。 |
1 |
伊豆退去後 |
氏真、北条氏の庇護下に入る。泰朝、上杉謙信家臣・山吉氏に援助を要請。 |
4 |
時期不明 |
氏真、徳川家康を頼り浜松へ。泰朝は同行せず。 |
6 |
以降 |
消息不明。 |
6 |
朝比奈泰朝の生年については、確実な史料は存在しないものの、天文7年(1538年)頃とする説が有力視されている 6 。その生涯の多くを過ごすことになる遠江国掛川の地で生を受けたとされる 5 。
泰朝が属する朝比奈氏は、駿河国益頭郡朝夷郷(現在の静岡県藤枝市岡部町周辺)を発祥の地とする武家であり 17 、その出自は藤原北家の流れを汲むと称している 17 。『寛永諸家系図伝』や『寛政重修諸家譜』といった江戸時代に編纂された系譜集には、堤中納言藤原兼輔を遠祖とする記述が見られる 17 。ただし、朝比奈氏の出自には桓武平氏三浦氏の一族である和田義盛の子、朝比奈義秀を祖とする説も存在し 20 、その系譜は必ずしも一様ではない。
戦国時代に至ると、朝比奈氏はいくつかの系統に分かれており、泰朝の家系は遠江国掛川城を拠点とした遠江朝比奈氏(備中守家)の嫡流にあたる 21 。この遠江朝比奈氏は、今川氏の遠江支配において中核的な役割を担う家柄であった。一方で、駿河国を拠点とする駿河朝比奈氏(丹波守家)なども存在し、両者は区別して理解する必要がある。特に、後に今川家を離反し武田信玄に属した朝比奈信置(駿河守)は、泰朝とは異なる系統の人物である点に留意が必要である 21 。この区別は、泰朝の忠誠心を正確に評価する上で極めて重要となる。
朝比奈泰朝の家系を遡ると、祖父は室町時代中期に今川義忠の命により掛川城を築いたとされる朝比奈弥次郎泰煕(やすひろ)、父はその子である左衛門尉泰能(やすよし)である 8 。この泰煕から泰能、そして泰朝へと続く流れが、掛川朝比奈氏の宗家と見なされている。
泰朝の母は、今川義元の実母であり、女戦国大名としても知られる寿桂尼の兄、中御門宣秀の娘であった 6 。この婚姻関係は、朝比奈家、とりわけ泰朝の代における今川宗家との結びつきを強固なものとし、今川家中における地位を高める一因となったと考えられる。また、この母方の血縁は、泰朝の後の行動原理、特に今川家への絶対的な忠誠心に少なからぬ影響を与えた可能性が推察される。
泰朝は幼名を鶴千代といい 5 、若くして父・泰能の跡を継ぎ、掛川城主となった 5 。官途としては備中守を称し、また左京亮とも名乗った記録が残る 3 。泰朝の子としては、泰基(やすもと)の名が史料に見えるが、その詳細は不明である 4 。
注目すべきは、泰朝が公家との交流を持っていた点である。弘治2年(1556年)には、公家の山科言継から「梶井宮之御筆百人一首」を贈られているが 6 、これは母方が中御門家という公家の出身であったことと無関係ではあるまい。この事実は、泰朝が単なる武辺一辺倒の武将ではなく、ある程度の教養や文化的素養も備えていた可能性を示唆しており、その人物像に深みを与えている。
父・泰能の死後、家督を継承した朝比奈泰朝は、今川義元の家臣としてそのキャリアを開始する 4 。泰朝が城主を務めた掛川城は、駿河と遠江を結ぶ交通の要衝であり、今川氏にとって遠江支配の戦略的拠点であった 1 。泰朝はこの重要な城の守りを固めるとともに、領国経営にも意を注いだ。ある記録によれば、泰朝は父・泰能から「城は石垣や堀だけで守るものではない。民の心を掴み、領内の安泰を図ることこそが真の城の守り方だ」と教えを受け、それを実践し、城下町を整備し商人を保護することで領地を豊かにしたと伝えられている 5 。これは、戦国武将が軍事面だけでなく、民政家としての能力も求められたことを示す好例と言えるだろう。
義元の尾張侵攻以前の泰朝の活動としては、前述の山科言継との交流に加え、永禄元年(1558年)に駿東郡の霊山寺(現在の沼津市)を再興したという記録が残っている 4 。これらの事績は、泰朝が軍事のみならず、文化的活動や領内の宗教的権威の維持にも関与していたことを示しており、彼の領主としての一面をうかがわせる。掛川城主としての泰朝は、単に軍事的な役割を担うだけでなく、領民の生活安定や文化振興にも配慮する為政者であった可能性が高い。
今川家の重臣としての朝比奈泰朝は、軍事や内政のみならず、外交交渉においても一定の役割を果たしていたと考えられる。史料によれば、永禄年間(1558年~1570年)には、同じく今川家重臣の三浦氏満と共に、越後国の上杉氏との交渉に当たったとされている 4 。当時、今川氏は甲斐の武田信玄との関係や関東情勢を睨み、越後の上杉氏との連携を模索していた可能性があり、泰朝はそのような重要な外交任務を託されるほどの信頼を得ていたことがうかがえる。この上杉氏との交渉経験は、後に今川家が窮地に陥った際、泰朝が上杉家臣に援助を求めるという行動 6 の伏線となったとも考えられ、彼の行動原理や人脈を理解する上で重要な視点となる。
今川家中における泰朝の立場は、代々今川氏に仕えた譜代の家臣であり、特に主君・義元の母である寿桂尼との縁戚関係(泰朝の母が寿桂尼の姪)もあって、今川宗家からの信頼は極めて厚かったと推察される 6 。この強固な主従関係と血縁的背景が、後の困難な状況下における泰朝の不動の忠誠心を支える基盤となったと言えるだろう。
永禄3年(1560年)5月、今川義元は数万と号する大軍を率いて尾張国への侵攻を開始した。この未曾有の大遠征に、朝比奈泰朝も一軍の将として従軍している。緒戦において、泰朝は同じく遠江の国人領主である井伊直盛らと共に、織田信長方の重要拠点であった鷲津砦を攻略したと記録されている 2 。さらに、織田軍の猛攻にさらされ窮地に陥っていた大高城の救援にも成功し、その武勇を示した 1 。
これらの戦功は、泰朝が単に後方で城を守るだけの武将ではなく、前線においても優れた指揮能力を発揮できる有能な将であったことを物語っている。もし、この後の本戦で今川義元が討死するという衝撃的な事態が発生しなければ、泰朝の武名はこれらの功績によってさらに高まっていた可能性は否定できない。しかし、歴史の歯車は無情にも回り、5月19日、田楽坪(または桶狭間山)に布陣していた義元本隊は、織田信長の奇襲攻撃を受けて壊滅し、義元自身も討ち取られるという悲劇に見舞われた 3 。総大将を失った今川軍は総崩れとなり、泰朝もまた、攻略した拠点を放棄し、遠江へと撤退を余儀なくされた 3 。
「海道一の弓取り」と称された今川義元の突然の死は、今川領国に計り知れない衝撃と混乱をもたらした。特に、長年にわたり今川氏の支配下にあった三河国では松平元康(後の徳川家康)が岡崎城で自立し、これを皮切りに遠江国でも今川氏から離反する国人領主が続出する事態となった 1 。
このような主家の危機的状況にあって、朝比奈泰朝は義元の嫡男・氏真を支え、今川家への忠誠を貫き通した 1 。多くの家臣が氏真を見限り、あるいは新たな勢力に鞍替えする中で、泰朝のこの態度は際立っていた。
その忠誠心を示す一つの出来事として、永禄5年(1562年)の井伊直親誅殺事件が挙げられる。遠江井伊谷の領主であった井伊直親に謀反の疑いがかかった際、泰朝は氏真の命を受け、直親を掛川城下で討ち取ったとされている 4 。これは主命に忠実であったことの証左であるが、一方で、この事件が遠江国衆の今川氏への不信感を増幅させ、さらなる離反を招いた可能性も否定できない。 10 の記述には「今川離叛の芽を摘むためにも直親殺害は避けられなかった」とあるが、結果として今川家の求心力低下を加速させた側面も持つ。この事件は、泰朝の「忠義」が持つ複雑な側面を浮き彫りにしており、彼の行動が必ずしも常に最善の結果をもたらしたわけではないことを示唆している。忠義という武士の徳目と、戦略的な判断との間で揺れ動く、戦国武将の苦悩を垣間見ることができる。
桶狭間の戦い以降、今川家の威勢は急速に衰え、領国の動揺は収まらなかった。そして永禄11年(1568年)12月、長年の同盟関係にあった甲斐の武田信玄が、突如として甲相駿三国同盟を破棄し、駿河国への侵攻を開始した 4 。不意を突かれた今川氏真は、本拠地である駿府館を支えきれず、わずかな供回りを連れて逃亡を余儀なくされる。
この絶体絶命の窮地に陥った氏真が頼ったのが、遠江国掛川城主の朝比奈泰朝であった。泰朝は主君の危機に際し、氏真一行を掛川城に迎え入れた 1 。当時の切迫した状況は、氏真の正室である早川殿(北条氏康の娘)が輿にも乗れず、裸足で逃避行を続けたという伝承からも窺い知ることができる 12 。多くの家臣が今川家を見限り、あるいは武田氏に降る中で、泰朝が氏真を受け入れ、最後まで運命を共にしようとした行動は、彼の忠誠心の極致を示すものであった。これにより、掛川城は事実上、戦国大名今川家にとって最後の拠点となったのである。
武田信玄の駿河侵攻と時を同じくして、三河国で自立し勢力を拡大していた徳川家康もまた、遠江国への本格的な侵攻を開始した。家康は遠江国内の今川方の諸城を次々と攻略し、永禄11年(1568年)12月には、氏真が籠る掛川城を包囲するに至る 4 。
家康は掛川城攻略のため、城の周囲、特に北方の天王山などに複数の付城(砦)を築き、兵糧攻めと城内への調略を併用するという周到な策を用いた 11 。これに対し、朝比奈泰朝は主君・氏真と共に掛川城に籠城し、約5ヶ月間(永禄11年12月から永禄12年5月)にわたって徳川軍の猛攻に耐え抜いた 4 。当時の兵力は、徳川軍が約7千であったのに対し、掛川城の籠城兵は約3千とされ、兵力において劣勢であったにもかかわらず、泰朝の巧みな指揮と城兵の奮戦により、徳川軍に多大な損害を与えたと伝えられる 11 。
この掛川城籠城戦は、泰朝の武将としての能力と、逆境にあっても揺るがない城兵の士気の高さを示すものであった。家康が最終的に力攻めによる攻略を断念し、和議による開城へと方針を転換したこと自体が 11 、泰朝らの抵抗がいかに激しく、また掛川城の守りが堅固であったかを物語っている。掛川城には「霧噴き井戸」という伝承が残っており、籠城戦の際にこの井戸から霧が噴き出して城を覆い隠し、徳川軍の攻撃を防いだと語り継がれている 13 。これは史実とは断定できないものの、籠城戦の困難さと、それを乗り越えようとした人々の強い思いが、後世にこのような形で伝承された結果と言えるだろう。
数ヶ月に及ぶ激しい攻防の末、援軍の当てもなく兵糧も尽きかけていた掛川城では、これ以上の籠城は困難な状況に陥っていた。永禄12年(1569年)5月、ついに徳川家康との間で和議が成立し、掛川城は開城されることとなった 1 。
この和議における開城の条件は、城主である朝比奈泰朝、そして何よりも主君である今川氏真とその一行の身の安全を保障するというものであった 11 。これにより、氏真は泰朝らに伴われ、正室・早川殿の実家である相模国の北条氏を頼って伊豆国へと退去することになった。掛川城が武力によって陥落するのではなく、和議によって明け渡されたという事実は、泰朝が最後まで主君の安全を最優先に考え、交渉によって最善の道を探った結果と評価できる。これは、泰朝が単なる武勇に優れた武将であっただけでなく、絶望的な状況下においても冷静な判断力を失わず、現実的な解決策を見出す能力をも持ち合わせていたことを示唆している。
表2:掛川城籠城戦 概要
項目 |
詳細 |
典拠 |
期間 |
永禄11年12月~永禄12年5月(1568年~1569年) |
4 |
攻城側 |
徳川家康軍(総大将:徳川家康、推定兵力:約7,000) |
11 |
守城側 |
今川氏真・朝比奈泰朝軍(城主:朝比奈泰朝、籠城兵力:約3,000) |
11 |
主要な経過 |
永禄11年12月:武田信玄の駿府侵攻を受け、今川氏真が掛川城へ入城。<br>同月:徳川家康が遠江へ侵攻、掛川城を包囲。家康は天王山などに付城を構築。<br>永禄12年1月~4月:徳川軍による攻撃と今川軍の防戦が続く。<br>永禄12年5月:和議成立。5月17日、掛川城開城。 |
4 |
結果 |
今川氏真は朝比奈泰朝らと共に北条氏を頼り伊豆へ退去。掛川城は徳川方の支配下に入る。 |
1 |
この掛川城籠城戦は、朝比奈泰朝の武将としての生涯における頂点であり、その忠義心と不屈の精神を象徴する出来事であった。兵力で劣りながらも数ヶ月にわたり持ちこたえ、最終的に主君の安全を確保しての開城という結果は、彼の指揮官としての能力と交渉力を示すものと言えよう。
掛川城の開城後、朝比奈泰朝は主君・今川氏真に付き従い、氏真の正室・早川殿の実家である相模国の北条氏政を頼って伊豆国へと退去した 4 。これにより、戦国大名としての今川氏は事実上滅亡し、氏真は亡命生活を送ることになる。
北条氏の庇護下にあった時期においても、泰朝は今川家の再興を諦めていなかったようである。史料によれば、泰朝は越後国の上杉謙信の家臣である山吉氏(山吉豊守か)に接触し、今川家再興のための援助を要請するなどの活動を行っていたと伝えられている 4 。この外交努力の具体的な内容や、それがどの程度の成果を上げたのかについては、残念ながら詳細な史料が乏しく、不明な点が多い。しかし、主家が没落し、寄食の身でありながらも再興の道を探ろうとした泰朝の執念は、彼の忠誠心の深さを改めて示すものと言えるだろう。
もっとも、当時の政治情勢を鑑みれば、この試みが成功する可能性は極めて低かったと言わざるを得ない。武田信玄、北条氏政、上杉謙信、そして徳川家康といった有力大名が複雑な同盟と敵対の関係を繰り返す中で、既に実質的な力を失った今川家の再興を上杉氏が積極的に支援するメリットは少なかったと考えられる。この行動は、泰朝の揺るぎない忠義の表れであると同時に、時代の大きな流れを読み切れなかった、あるいは読み切れていてもなお一縷の望みを捨てきれなかった、悲劇的な側面をも示唆しているのかもしれない。
伊豆での亡命生活の後、今川氏真は北条氏のもとを離れ、かつての敵であり、桶狭間の戦い以降に今川家から独立した徳川家康を頼って浜松城へと赴くことになる。しかし、この時、長年にわたり氏真に影のように付き従ってきた朝比奈泰朝は、氏真に同行しなかったとされている 6 。主君がかつての敵将の庇護下に入るという大きな転換点において、なぜ泰朝が氏真と袂を分かったのか、その明確な理由は史料からは判明していない。
考えられる理由としては、今川家再興の望みが完全に絶たれたことへの失意、あるいは武士としての矜持から徳川家康に仕えることへの強い抵抗感があったのかもしれない。また、北条氏との間に何らかの約束や義理があり、伊豆を離れることができなかった可能性も推測される。あるいは、単にその後の泰朝に関する記録が歴史の中に埋もれてしまっただけということもあり得る。
いずれにせよ、この氏真との別離を境に、朝比奈泰朝の確実な消息は歴史の表舞台から途絶え、「消息不明」というのが通説となっている 6 。一部の記述 5 では、泰朝が北条領内で隠棲し、静かに天寿を全うしたかのような物語が描かれているが、これは後世の創作的な要素が強い可能性が高く、学術的な定説とは言い難い。
この「消息不明」という結末は、朝比奈泰朝の生涯に一層の謎と哀愁を加え、彼の忠臣としてのイメージをより際立たせる効果をもたらしているとも言えるだろう。最後まで主君に尽くしながらも、その最期が明確でないという事実は、後世の人々の想像力をかき立て、様々な憶測を呼ぶ要因となっている。
朝比奈泰朝の人物像を語る上で、最も顕著な特徴として挙げられるのは、主家である今川家、とりわけ今川氏真に対する揺るぎない忠誠心である。これは、桶狭間の戦い後の混乱期から掛川城籠城戦、そして今川家没落後に至るまで、一貫して見られる泰朝の行動原理であり、多くの史料や研究がこの点を指摘している 1 。
また、泰朝は武勇にも優れた武将であったと考えられている。桶狭間の戦いにおける鷲津砦攻略や大高城救援 1 、そして徳川家康の大軍を相手に数ヶ月間持ちこたえた掛川城での奮戦ぶり 1 は、その軍事的能力を如実に示している。
一方で、ある史料(『センゴク外伝 桶狭間戦記』の人物評)では、泰朝は「策略面では実直な思考」の持ち主であり、奇策を好んだとされる今川義元や軍師・太原雪斎の意図にやや翻弄されがちであったとも評されている 24 。これは、泰朝の長所である実直さや誠実さが、時として権謀術数が渦巻く戦国乱世においては、柔軟性を欠く結果に繋がった可能性を示唆している。彼の忠誠心は、ある意味で愚直なまでのものであり、複雑な政治的駆け引きや奇抜な戦略よりも、正攻法を重んじる性格であったのかもしれない。この点は、同じ朝比奈一族でありながら今川家を見限り武田信玄に仕え、「用兵に長けた軍略家」と評された朝比奈信置(駿河守) 22 とは対照的な人物像を浮かび上がらせる。この対比によって、泰朝の個性、すなわち裏表のない実直な武人としての側面がより明確になる。
朝比奈泰朝は、掛川城主として長期間にわたり遠江国の重要拠点を守り抜いた実績から、優れた軍事指揮官であったと評価できる。特に、絶望的な状況下で行われた掛川城籠城戦において、兵力で勝る徳川軍を相手に約5ヶ月間も持ちこたえ、最終的には主君・氏真の安全な退去を条件とする和議開城に持ち込んだ手腕は、特筆に値する 1 。これは、単に勇猛であっただけでなく、城の防衛戦略、兵站の管理、そして何よりも城兵の士気を維持する統率力に長けていたことを示している。
さらに、領主としての能力についても注目すべき点がある。前述の通り、ある記録によれば、泰朝は父・泰能の教えを守り、領地経営にも意を払い、掛川の城下町を整備し、商人たちを保護することで領内を豊かにしたとされている 5 。もしこの記述が事実を反映しているのであれば、泰朝は軍事だけでなく民政にも通じた、バランスの取れた武将であった可能性が示唆される。籠城戦を戦い抜くためには、城内の結束と物資の確保が不可欠であり、平時からの善政や領民との良好な関係が、その基盤となっていたのかもしれない。このように、泰朝の軍事指揮官としての成功は、領主としての内政能力に支えられていた可能性があり、その多面的な能力が彼の評価をより豊かなものにする。
朝比奈泰朝の評価は、時代ごとの価値観や、彼が仕えた今川氏、特に今川氏真の評価と深く結びついてきたと考えられる。江戸時代に入り、儒教的な道徳観が社会に浸透するにつれて、主君への忠義を貫いた泰朝のような武士の生き様は、高く評価される傾向にあった。ある研究では、「主君に忠誠を誓う儒教的精神の普及に伴い、遠江朝比奈氏(泰朝の家系)と駿河朝比奈氏(武田に寝返った系統)の評価は逆転したに違いない」と推測されている 15 。
現代においても、朝比奈泰朝の忠誠心は肯定的に捉えられることが多い。特に、NHK大河ドラマなどで今川氏が取り上げられる際には、その忠臣として泰朝に焦点が当てられ、その義理堅い生き様が描かれることがある 2 。今川氏真がしばしば「暗君」あるいは「文弱な当主」として描かれる中で、彼に最後まで仕え続けた泰朝の忠義は、かえって私心のない純粋なものとして際立ち、人々の共感を呼ぶ要因となっている。
しかしながら、その知名度については、全国的に広く知られているとは言い難く、主に東海地方の郷土史や熱心な戦国時代ファンに記憶される存在であると言えるだろう。彼の生涯は、華々しい成功物語ではないかもしれないが、困難な状況下で自らの信念を貫いた人間の姿として、静かな感銘を与え続けている。
朝比奈泰朝自身の後半生、特に今川氏真と別れて以降の確実な消息は不明であるが、その子孫に関する伝承は残されている。複数の史料や記録によれば、泰朝の子孫は徳川家康の譜代の重臣である酒井忠次(左衛門尉)の家に仕えたと伝えられている 6 。
泰朝の子としては、「泰基(やすもと)」という名の人物が一部の系図資料に見えるが 4 、この泰基が酒井家に仕えたのか、あるいは別の子孫が仕えたのかなど、具体的な名前や酒井家における役職、詳細な系譜については、残念ながら現存する史料からは明らかになっていない。
泰朝本人の消息が不明であるにもかかわらず、その子孫が敵方であった徳川家の有力家臣である酒井家に仕えたという伝承は、いくつかの可能性を示唆している。一つには、泰朝の掛川城での忠義と武勇が、敵将であった徳川家康や酒井忠次にも認められ、その子孫が取り立てられたという可能性である。また、今川家旧臣の取り込み政策の一環として、あるいは何らかの個人的な縁故を通じて、泰朝の子孫が酒井家に仕える道が開かれたのかもしれない。この経緯がより詳細に判明すれば、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士の処世術や、旧敵対勢力に対する徳川方の姿勢について、より深い理解が得られる可能性があるが、現状では推測の域を出ない。
朝比奈泰朝に最もゆかりの深い史跡は、彼が生涯の多くを過ごし、城主として、そして今川家最後の忠臣として奮戦した 掛川城 (静岡県掛川市)である 1 。現在の天守閣は平成6年(1994年)に木造で再建されたものであるが、城跡には戦国時代の石垣や堀などの遺構が残り、往時を偲ぶことができる。特に、本丸跡に残る「霧噴き井戸」は、掛川城籠城戦の際に霧が噴き出して城を守ったという伝説と共に語り継がれており 13 、泰朝の奮戦と城の記憶を象徴する存在となっている。
また、朝比奈氏の発祥の地とされる静岡県藤枝市岡部町には、 朝比奈城跡 (殿山城跡)が存在する 19 。この城は、標高170メートルの山上に築かれた山城であり、曲輪や堀切などの遺構が確認できる。ただし、この朝比奈城は、泰朝の系統である遠江朝比奈氏ではなく、駿河朝比奈氏に関連する城であった可能性が高いと考えられている。
朝比奈泰朝自身の墓所や菩提寺については、彼の晩年の消息が不明であるため、確実なものは特定されていない。一部の資料で朝比奈姓の人物の墓所が言及されている場合もあるが 28 、それらが泰朝本人のものであるという確証はない。掛川城の「霧噴き井戸」のような伝承は、具体的な墓所が不明な忠臣の記憶を、別の形で地元に留めようとした人々の心情の表れとも解釈できるかもしれない。
朝比奈泰朝の生涯を概観すると、彼は戦国時代後期の激動の中で、今川家の譜代重臣として、とりわけ主家が衰亡していく困難な状況下において最後まで忠義を貫き通した武将であったと言える。その生き様は、滅びゆく主家と運命を共にすることを選んだ、ある種の武士道の典型を示している。
特に、徳川家康による掛川城包囲に対し、主君・今川氏真を奉じて数ヶ月にわたり奮戦した掛川城籠城戦は、泰朝の忠誠心と武将としての意地、そして指揮能力を如実に示す象徴的な出来事であった。圧倒的な兵力差と絶望的な状況にもかかわらず、容易に屈することなく抵抗を続けたその姿は、戦国乱世における武士の生き様の一つのあり方として、高く評価されるべきであろう。
今川氏真が徳川家康のもとへ赴く際に同行せず、その後の消息が不明となるという謎に包まれた晩年は、彼の生涯に一層の関心と哀愁を抱かせる。しかし、その忠臣としての評価は、この「空白」によって損なわれるものではなく、むしろその純粋性を際立たせているとも言える。
朝比奈泰朝の歴史的意義は、単に一個の武将の事績に留まるものではない。彼の生涯は、戦国時代という極限状況における「忠義」という倫理観が、個人の運命に如何なる影響を与えたかという、より普遍的なテーマを我々に提示する。彼の物語は、必ずしも勝利や栄達に彩られたものではない。しかし、だからこそ、困難な時代にあって自らの信念を貫こうとした人間の尊厳や、忠誠という価値の重さを問いかける力を持ち、現代においても組織への帰属意識や困難な状況における人間のあり方を考える上で、少なからぬ示唆を与え得る存在と言えるだろう。彼の生き様は、歴史の大きなうねりの中で翻弄されながらも、自らの信じる道を見失わなかった一人の武士の姿として、記憶されるべきである。