戦国時代の肥前国(現在の長崎県)にその名が見える大村藩士、朝長純利。彼は大村家の筆頭家老を務め、その名は宣教師ルイス・フロイスの書簡にも記されていると伝えられる一方で、その具体的な生涯や人物像は厚い歴史のヴェールに覆われている。本報告書は、この朝長純利という一人の武将について、現存する史料を徹底的に調査・分析し、その実像に迫ることを目的とする。
純利本人に関する直接的な記録は極めて限定的である 1 。そのため、本報告書では彼個人の事績のみを追うのではなく、より広範な視点を採用する。具体的には、彼の父・純時、キリシタンとして殉教した弟・純安、そして「三城七騎籠り」で武功を立てた子・純基や甥・純盛といった一族の動向を丹念に追跡する。さらに、一族の後身である浅田家の成立と発展の過程を解明することで、純利が生きた時代の文脈の中に彼を位置づけ、その歴史的役割を立体的に再構築する。
主要な典拠として、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが残した貴重な記録『日本史』 3 、大村藩が編纂した公式地誌『大村郷村記』 4 、藩の歴史書である『大村家記』 5 、そして近代以降の郷土史研究の成果である『大村史談』 5 などを活用する。これらの史料を批判的に検討し、伝承と史実を慎重に峻別しながら、謎多き武将・朝長純利の姿を明らかにしていく。
朝長氏は、肥前大村氏に仕えた譜代の家臣であり、その歴史は古くまで遡る。一族の伝承によれば、その家系は平安時代後期にまで及ぶとされ、戦国時代に至る頃には大村家中で重臣としての確固たる地位を築いていた 4 。
その存在を物語る具体的な痕跡として、現在の大村市沖田町には「てぼ屋敷」と呼ばれる朝長家の屋敷跡の伝承が残っている 4 。この屋敷の名は、後述する「三城七騎籠り」の際の武功に由来するとされ、一族が地域に深く根を張り、軍事の中核を担う有力な武士であったことを示唆している 4 。
戦国期の朝長一族を率いたのは、純利の父である朝長純時であった。彼は「右衛門大夫」の官途名を名乗っており、これは一族が相応の家格を有していたことの証左である 2 。純時は純利と純安という二人の息子をもうけた。
長男である 朝長純利 が家督を継ぎ、一族の長となった。そして、弟の 朝長純安 (通称:新介、官位:伊勢守)は、兄を支える立場にあった 2 。さらに、純利の子として
朝長純基 、純安の子として 朝長純盛 (官途:大学頭)の名が史料に見え、彼らは次世代を担う存在として、大村家の歴史の重要な局面で活躍することになる 11 。
この一族の構成からは、戦国期の武家における巧みな生存戦略を読み取ることができる。長男である純利が伝統的な武門の棟梁として国内の武士社会における家の地盤を固める一方、次男の純安は、当時最先端でありながら未知数でもあったキリスト教と南蛮貿易という、いわば「新規事業」に進出した。これは、家を存続させるために、異なる分野へ人材を配置してリスクを分散させる一種のポートフォリオ戦略であったと考えられる。純利が「守り」を固め、純安が「攻め」として新たな富と権力の源泉を確保しようとしたこの役割分担は、当初は成功を収めたものの、やがて純安の殉教という悲劇を招き、朝長一族は大きな戦略転換を迫られることとなる。
表1:朝長一族 主要人物関係図
世代 |
人物名 |
続柄・役職・備考 |
親世代 |
朝長 純時 |
右衛門大夫。純利・純安の父。 |
純利の世代 |
朝長 純利 |
本報告書の中心人物。純時の長男。朝長家家長。 |
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朝長 純安 |
純時の次男、純利の弟。通称は新介。官位は伊勢守。洗礼名ドン・ルイス。横瀬浦奉行。永禄6年(1563年)に殉教 2 。 |
子世代 |
朝長 純基 |
純利の子。「三城七騎籠り」で活躍 11 。 |
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朝長 純盛 |
純安の子、純利の甥。官途は大学頭。「三城七騎籠り」で活躍。大村純忠の娘マリナ・伊奈を娶る 11 。 |
孫世代 |
浅田 久助 |
純盛の子。文禄の役での武功により「浅田」姓を賜る。後の浅田左門前安。浅田家初代 13 。 |
16世紀半ば、大村領にキリスト教が伝来すると、朝長兄弟の運命は大きく動き出す。特に弟・純安の生涯は、この時代の光と影を象徴するものであった。
大村純忠がポルトガルとの南蛮貿易の拠点として横瀬浦を開港すると、純安はその初代奉行という重責を任された 2 。これは、純安が主君・純忠から絶大な信頼を寄せられていたことを物語る。彼は単なる行政官に留まらず、自らも深くキリスト教に帰依し、「ドン・ルイス」という洗礼名を受けた熱心なキリシタンでもあった 2 。
『大村市史』に引用されるルイス・フロイスの記録によれば、純安はイエズス会修道士のルイス・デ・アルメイダが大村を初めて訪れた際、最初に教理を聴いた人物の一人であり、主君・純忠が洗礼を受ける際にも同行した重臣であった 3 。フロイスの書簡において、純安(ドン・ルイス)は、純忠と宣教師たちの間を取り持つ不可欠な仲介者として、その名が繰り返し登場する。純忠の受洗の決意を神父に伝え、宣教師たちを自らの屋敷に手厚くもてなすなど、その活動は具体的かつ詳細に記録されている 3 。
しかし、その栄光は長くは続かなかった。永禄6年(1563年)、純忠の急進的なキリスト教化政策に反発する後藤貴明や針尾貞治といった在地領主たちが反乱を起こし、横瀬浦を焼き討ちにした。この動乱の最中、純安は待ち伏せに遭い、非業の死を遂げた 2 。フロイスはこの事件を「ドン・ルイスの殺害」として詳細に報告しており、その死が純忠や宣教師たちに与えた衝撃の大きさを生々しく伝えている 3 。
弟・純安がキリシタンとして華々しく、そして悲劇的な生涯を送ったのとは対照的に、この時期の兄・純利に関する直接的な記録は、驚くほど少ない。当初の認識とは異なり、フロイスの書簡を精査しても、そこに純利の名を直接見出すことは困難である。記録の中心はあくまでドン・ルイス、すなわち弟の純安なのである 3 。
純利が「筆頭家老」であったという伝承も、同時代の史料によって裏付けることはできない [User Query]。この伝承は、後代に家老職を世襲することになる子孫(浅田家)の権威を、その祖先である純利に投影する形で形成された可能性が高いと考えられる。
では、史料上の「沈黙」は何を意味するのか。弟がキリスト教の最前線で活動する中、一族の長である純利が何の役割も果たしていなかったとは考えにくい。この沈黙は、むしろ純利の意図的な、そして極めて慎重な政治的スタンスの現れであったと解釈すべきであろう。キリスト教に傾倒する主君・純忠と、それに強く反発する伝統的な国人勢力との間で、純利は一族の存続を最優先に考え、あえて表立った行動を控えていたのではないか。彼は、伝統的な武士としての立場を堅持し、どちらの勢力とも決定的な対立を避けることで、激動の時代を乗り切ろうとした。
弟・純安の殉教という悲劇は、純利のこの慎重な姿勢をさらに強固なものにしたに違いない。キリスト教への傾倒がもたらすリスクを目の当たりにした彼は、一族の舵を、より確実な「武功による奉公」という道へと切ることを決意した。純利の沈黙は、無為無策ではなく、来るべき試練の時代を見据えた、家長としての深慮遠謀だったのである。この戦略転換が、次章で詳述する「三城七騎籠り」における一族の目覚ましい活躍、そして最終的に近世大名家臣としての確固たる地位の確立へと繋がっていく。
弟・純安の死から約9年後の元亀3年(1572年)、大村藩は再び存亡の危機に瀕する。大村純忠に長年敵対してきた武雄の後藤貴明が、諫早の西郷純堯、平戸の松浦氏らと連合し、1500人ともいわれる大軍で純忠の居城・三城城に攻め寄せたのである 18 。
城兵の大半が出払っている中、城内に残っていたのはわずか七人の武将と、その妻や子供たち、合わせて70人余りであった。絶体絶命の状況下で、この「七騎」が中心となって城を死守し、ついに大軍を退けた。この戦いは「三城七騎籠り(さんじょうななきごもり)」として、大村藩史に燦然と輝く武勇伝として語り継がれている 18 。
この藩の危機を救った七騎の中に、朝長一族の若き武者たちの名があった。一人は、家長である朝長純利の子・ 朝長純基 。もう一人は、殉教した純安の子、すなわち純利の甥にあたる 朝長純盛 (大学)である 11 。この事実は、純安の死後も朝長一族が純忠の側近として、藩の中核的な軍事力を担い続けていたことを示す動かぬ証拠である。
特に甥の純盛の活躍は目覚ましかった。彼は同じく七騎の一人であった富永忠重と共に、敵の油断をついて城から打って出ると、偽って降伏するふりをして敵陣に接近。そのまま西郷軍の総大将・尾和谷軍兵衛の陣を奇襲し、敵軍を大混乱に陥れた 11 。この大胆な作戦が戦いの帰趨を決し、連合軍を撤退へと追い込んだのである。
この三城七騎籠りの武勇伝は、さらに別の形の伝説として地域に根付いている。大村藩の地誌『大村郷村記』によれば、この戦いの際に、ある武士が「てぼ(竹製の籠)」に脇差を隠して敵の包囲を潜り抜け、城内に入って窮地を救ったという逸話が伝えられている 4 。
この武功を立てたとされるのが 朝長壱岐守常進 という人物であり、彼の屋敷があった場所が、その功績にちなんで「てぼ屋敷」と呼ばれるようになったという 8 。この「壱岐守常進」が、純利や純基、純盛とどのような関係にあるのか、あるいは同一人物なのかは、現存の史料からは断定できない。
しかし、ここで重要なのは、個々の伝説の史実性を確定すること以上に、「朝長」の名を持つ武将が、藩の最大の危機を救った英雄として、複数の物語の形で記憶され、語り継がれているという事実である。これは、朝長一族の武功が、大村藩士たちの間でいかに大きな存在感を放っていたかを如実に物語っている。純基や純盛といった実在の武将の活躍が、壱岐守常進という象徴的な英雄像を生み出し、一族は「藩の守護者」という確固たるアイデンティティを確立していった。純利の世代が直面したキリスト教を巡る苦悩と危機の記憶は、その子や甥の世代の輝かしい武功によって、誇り高き伝説へと昇華されたのである。
三城七騎籠りでの目覚ましい武功は、朝長一族の運命を新たなステージへと導いた。一族は戦国乱世を生き抜くだけでなく、近世大名・大村藩の家臣団の筆頭として、確固たる地位を築いていくことになる。
三城七騎籠りの英雄となった甥の 朝長純盛 は、その功績を認められ、主君・大村純忠の長女である マリナ・伊奈 を妻として迎えることになった 12 。これは単なる恩賞としての婚姻ではない。殉教者(純安)を出し、藩の危機を救う武功を立てた朝長一族を、大村家の姻戚として取り込むことで、その忠誠を絶対的なものにしようとする、純忠の高度な政治的判断が働いていた。これにより、朝長一族は大村家と血縁で結ばれた、名実ともに特別な存在となったのである。
一族の歴史における次なる大きな転機は、豊臣秀吉による天下統一事業の中で訪れた。純盛の子、すなわち純利の大甥にあたる 朝長久助 が、文禄の役(朝鮮出兵)において抜群の武功を立てたのである。この功を賞され、久助は当時の主君・大村喜前から「 浅田 」という新たな姓を賜った 13 。
この改姓には、単なる栄誉以上の、極めて戦略的な意図が込められていたと考えられる。それは一族の「リブランディング」であった。「朝長」という姓は、良くも悪くもキリシタン時代の殉教者・純安を強く想起させる。秀吉によるバテレン追放令が発布され、続く徳川幕府の下で禁教政策が国家の基本方針となる中で、キリシタンとの繋がりは、一族の存続にとって計り知れないリスクとなり得た。武功によって得た「浅田」という新たな姓は、キリシタンであった過去と巧みに距離を置き、純粋な武門の家としてのアイデンティティを再構築するための、深慮遠謀に基づく戦略的な選択だったのである。これにより、一族は近世大名・大村藩の家臣団として、より安全かつ安定した地位を確保する道を開いた。
改姓後、 浅田左門前安 と名乗った久助を初代として、浅田家は大村藩の家老職を世襲する名門へと発展していく 13 。慶長4年(1599年)には屋敷を現在の場所に移し、その後の浅田家は家老を5人、城代を5人輩出するなど、藩政の中枢を担い続けた 13 。知行も600石に達し、藩内で特別な格式を誇る家柄となった。
現在、大村市片町に残る 浅田家家老屋敷跡 は、往時の繁栄を今に伝えている 13 。『大村郷村記』によれば、その敷地は約4,440平方メートルにも及ぶ広大なものであった 13 。石垣や塀が往時の面影を留めるこの屋敷跡の庭には、築山の陰に「マリア観音」と呼ばれる祠がひっそりと残されているという 13 。これは、近世家老家として繁栄する一方で、キリシタンであった祖先の記憶を密かに、そして大切に伝えていたことの証左かもしれない。
本報告書は、直接的な史料に乏しい戦国武将・朝長純利の人物像を、彼の一族、特に弟・純安、子・純基、甥・純盛、そして後身である浅田家の歴史を多角的に分析することを通じて再評価を試みた。その結果、純利は単なる「大村家臣」の一人ではなく、より複雑で重要な歴史的役割を担った人物であったことが明らかになった。
彼は、**「キリシタン殉教者の兄」 であり、 「近世家老家の祖先」 を繋ぐ存在であり、そしてその両者の間で苦悩し、決断した 「激動の時代を生きた一族の家長」**であった。純利の生涯は、大村藩がキリスト教と南蛮貿易に沸いた時代から、近隣諸侯との存亡を懸けた戦乱の時代を経て、徳川幕府の厳格な統制下にある近世藩体制へと移行していく、まさに歴史の巨大な転換点に位置している。
弟・純安の殉教という悲劇を乗り越え、彼は一族の舵を武功による奉公へと切り替えた。その結果、子・純基や甥・純盛が「三城七騎籠り」で立てた武勲は、一族の名誉を回復し、藩内での地位を不動のものとした。そして、その功績を礎として、子孫は「浅田」という新たな姓を得て近世家老家として存続する道筋がつけられたのである。
史料における純利の「沈黙」は、この困難な時代を乗り切り、一族を未来へ繋ぐための、家長としての重い責任と深慮遠謀の現れであったと結論付けられる。朝長純利という一個人の記録の向こう側には、戦国末期から近世初期にかけて、一つの武家一族が信仰、戦争、そして政治という荒波の中で、いかにしてアイデンティティを再構築し、生き残りを図ったかという、ダイナミックで示唆に富んだ歴史の物語が広がっているのである。
表2:朝長一族関連 年表
西暦 |
和暦 |
出来事 |
関連人物 |
典拠 |
1562年 |
永禄5年 |
大村純忠、横瀬浦を開港。朝長純安が奉行に就任。 |
朝長純安 |
2 |
1563年 |
永禄6年 |
大村純忠、受洗。朝長純安(ドン・ルイス)も受洗に同行。 |
朝長純安 |
3 |
1563年 |
永禄6年 |
後藤貴明らの反乱により横瀬浦が炎上。朝長純安が殺害され、殉教。 |
朝長純安 |
2 |
1572年 |
元亀3年 |
「三城七騎籠り」発生。後藤・西郷・松浦連合軍が三城城を攻撃。 |
朝長純基、朝長純盛 |
18 |
|
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城内にいた朝長純基、朝長純盛らが奮戦し、敵軍を撃退。 |
朝長純基、朝長純盛 |
11 |
1592-98年 |
文禄・慶長年間 |
文禄の役(朝鮮出兵)。 |
浅田久助(朝長久助) |
13 |
|
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朝長純盛の子・久助が抜群の武功を立て、主君・大村喜前から「浅田」の姓を賜る。 |
浅田久助(朝長久助) |
13 |
1599年 |
慶長4年 |
浅田左門前安(久助)、乾馬場から片町へ屋敷を移転。浅田家家老屋敷の基礎を築く。 |
浅田左門前安 |
13 |