本報告書は、安土桃山時代から江戸時代初期という日本の歴史上、最も劇的な転換期を生きた一人の武将、木下延俊(きのした のぶとし、1577-1642)の生涯を、現存する史料に基づき包括的かつ詳細に解明することを目的とする。豊臣秀吉の正室・高台院の甥という、豊臣一門の中核に連なる出自でありながら、天下分け目の関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に与し、戦後は豊後国日出(ひじ)藩の初代藩主として家名を後世に伝えた 1 。
延俊の生涯は、豊臣から徳川へと政権が移行する時代の荒波の中で、一個人が、そして一つの武家がいかにして存続を図ったかを示す貴重な事例である。彼は、豊臣一門としての血縁と、徳川政権下の大名という二つの異なる立場を生涯にわたって両立させた稀有な存在であった。その軌跡を追うことは、当時の複雑な政治力学、武将たちの人間関係、そして歴史を動かす個人の決断の重要性を理解する上で、極めて有益な視座を提供する。
本報告書では、延俊の出自と豊臣政権下での活動、関ヶ原における運命的な決断、日出藩祖としての藩政の礎、彼自身が残した貴重な史料『慶長日記』の分析、そして後世に与えた影響に至るまで、時系列的かつ主題的な構成を採る。これにより、単なる年代記に留まらず、木下延俊という人物の姿を多角的かつ立体的に描き出し、彼が生きた時代の深層に迫ることを目指すものである。
木下延俊の生涯を理解する上で、彼が生まれ持った特異な血縁関係と、それによって形成された強力な人的ネットワークを把握することは不可欠である。彼は、豊臣家、実家の木下家、そして婚姻によって結ばれた細川家という三つの強力な縁に支えられていた。
延俊の父・家定(1543-1608)は、もともと尾張国の杉原定利の子として生まれた 2 。杉原氏は桓武平氏の流れを汲むとされる土豪であった 6 。家定の運命が大きく変わるのは、妹のおね(後の高台院、北政所)が、当時まだ木下藤吉郎と名乗っていた豊臣秀吉と結婚したことによる 8 。血縁の少なかった秀吉は、妻の一族を自らの勢力基盤を固めるための一門衆として重用した。家定も秀吉に近侍し、木下姓を名乗ることを許され、豊臣政権下で播磨姫路城主(2万5千石)にまで出世した 5 。
延俊は天正5年(1577年)、木下家定の三男として尾張国で生まれた 2 。彼の母は杉原家次の娘・雲照院(おあこ)であり、同母弟に関ヶ原の戦いで歴史の鍵を握ることになる小早川秀秋(辰之助、秀俊)がいた 2 。一方で、歌人として名を馳せた木下長嘯子(勝俊)は異母兄にあたるなど、その兄弟関係は複雑であった 2 。
延俊を取り巻く人間関係の中で、特に重要な役割を果たしたのは、叔母である高台院と、妻の実家である細川家であった。子のいなかった高台院は、兄・家定の子どもたちを我が子のように可愛がり、中でも延俊は最も寵愛された甥であったと伝えられている 2 。この寵愛は、延俊が豊臣家中で確固たる地位を築く上での大きな後ろ盾となった。後年、延俊が病に倒れた際には、高台院自ら薬や滋養のある鴈(がん)を贈るなど、その気遣いは晩年まで続いたことが記録されている 2 。
延俊の父・家定は、秀吉子飼いの武将として重きをなしたが、関ヶ原の戦いでは明確な態度を示さず、中立を保って京都で高台院の警護に徹した 9 。この父の慎重な姿勢は、後に見る延俊の果断な行動とは対照的であり、豊臣恩顧の大名が置かれた苦悩と、世代間の戦略の違いを浮き彫りにしている。
表1:木下延俊の主要な家族と姻戚関係
関係 |
氏名 |
生没年 |
略歴と延俊との関係 |
父 |
木下家定 |
1543-1608 |
杉原氏出身。秀吉の義兄として木下姓を名乗る。姫路城主、後備中足守藩主。関ヶ原では中立を維持 5 。 |
母 |
雲照院(おあこ) |
?-1628 |
杉原家次の娘。延俊、利房、小早川秀秋の生母 2 。 |
叔母 |
高台院(おね) |
1549-1624 |
豊臣秀吉の正室。子のない彼女にとって延俊は最も寵愛した甥であり、生涯にわたり後援者となった 2 。 |
異母兄 |
木下勝俊(長嘯子) |
1569-1649 |
歌人として著名。関ヶ原後、父の遺領相続問題で高台院が介入し家康の怒りを買い、所領を没収された 2 。 |
同母弟 |
小早川秀秋 |
1582-1602 |
秀吉、次いで小早川隆景の養子。関ヶ原の戦いで東軍に寝返り、戦局を決定づけた 2 。 |
正室 |
加賀 |
?-1604 |
細川藤孝の娘。細川忠興の妹(または姪)。文禄3年(1594年)に延俊と結婚。慶長9年に22歳で早逝 2 。 |
義父 |
細川藤孝(幽斎) |
1534-1610 |
室町幕府の幕臣から戦国大名へ。当代随一の文化人。延俊の舅 2 。 |
義兄 |
細川忠興 |
1563-1646 |
豊前小倉藩初代藩主。千利休門下の茶人としても知られる。延俊の政治的決断に大きな影響を与えた 2 。 |
嫡男 |
木下俊治 |
1614-1661 |
日出藩2代藩主。母は継室の雲奥院 2 。 |
四男 |
木下延次(延由) |
1614-1658 |
立石領初代領主。豊臣国松の生存説と結びつけて語られる。母は側室の恵昌院 2 。 |
延俊が築いた人間関係は、彼の生涯における一種の安全保障として機能した。高台院からの寵愛という「豊臣家内部の保護」と、当代きっての実力者であり、後に徳川家康から深く信頼される細川家との姻戚関係という「外部の有力者との連携」は、彼に二重のセーフティネットを提供した。この二つの強力なコネクションが、他の多くの豊臣系大名とは一線を画す独自の政治的地位を延俊に与え、豊臣家滅亡後も彼の一族が存続する上で決定的な要因となったのである。
豊臣一門の貴公子として、木下延俊は若くしてそのキャリアを順調に歩み始めた。彼の初期の経歴は、秀吉からの信頼と、要衝の管理を任されるほどの能力を示している。
天正16年(1588年)、延俊は12歳にして摂津国駒林(現在の神戸市)において500石の知行を与えられ、正式に秀吉に仕え始めた 2 。文禄元年(1592年)には従五位下・右衛門大夫に叙任され、武将としての地位を確立する 2 。さらに文禄3年(1594年)、秀吉が天下の威信をかけて築城した伏見城の普請を分担し、その功績により播磨国三木郡内で2万石を与えられた 2 。これは、単なる縁故による登用ではなく、実務能力も評価されていたことを示唆している。
延俊の初期のキャリアで特筆すべきは、父・家定の居城であった姫路城の城代を度々務めたことである 1 。家定が大坂城の留守居役として中央の政務に携わる間、延俊は西国街道の交通と軍事の要衝である姫路城の管理を任された 2 。この役割は、単なる留守番ではなく、西国大名の動向、物資や人の流れ、そして軍事的な防衛の要諦を肌で感じる最前線での実務経験であった。中央の理想論とは異なる、地方の現実と向き合うこの経験は、延俊の中に、情実や旧恩に流されず、現実的なパワーバランスを見極める冷徹な政治的リアリズムを育んだ可能性がある。後に彼が関ヶ原で見せる迅速かつ現実的な判断は、この姫路城代時代の経験にその源流を見出すことができる。
そして、延俊の将来を決定づけるもう一つの重要な出来事が、文禄3年(1594年)の細川家との婚姻である。彼は、細川藤孝(幽斎)の娘であり、細川忠興の妹(または姪)にあたる加賀を正室に迎えた 2 。この婚姻は、単なる家と家の結びつきを超え、延俊個人と忠興という、後の時代を動かす二人の武将の間に強固な信頼関係を築く礎となった。加賀自身は慶長9年(1604年)に22歳の若さでこの世を去るが 8 、この縁組によって確立された細川家との絆は、延俊の生涯を通じて最も重要な政治的資産として機能し続けることになる。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死からわずか2年後、天下は徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍に二分され、関ヶ原の戦いへと突入する。豊臣一門である木下延俊にとって、それは自らの家と運命を賭けた、まさに乾坤一擲の決断を迫られる瞬間であった。
石田三成らが挙兵した際、延俊は姫路城にあった 2 。豊臣家への恩義を考えれば西軍に与するのが自然な流れであったが、彼は異なる道を選択した。その決断の背後には、義兄・細川忠興の存在があった。
忠興は三成と深く対立しており、早くから家康への接近を図っていた。その忠興からの強い助言を受け、延俊は迷うことなく東軍への加担を決意する 2 。彼は即座に家臣を家康の本拠地である駿府へ派遣し、徳川に二心なきことを誓った。さらに、言葉だけでなく行動でその忠誠を示すため、西国における交通・軍事の要衝である姫路城を家康に献上する意思を表明した 2 。これは、家康にとって西国大名の動向を牽制し、兵站線を確保する上で計り知れない価値を持つ申し出であり、延俊が戦後、豊臣恩顧の大名でありながら加増移封という破格の待遇を受ける大きな要因となった 4 。
延俊のこの行動は、単純な「豊臣家への裏切り」という言葉では片付けられない。秀吉死後の豊臣家は、高台院を中心とする武断派と、淀殿・三成らを中心とする文治派との間に対立が先鋭化しており、もはや一枚岩ではなかった。延俊は叔母・高台院に近く、また姻戚関係にある細川家は武断派の筆頭格であった。彼の決断は、分裂した豊臣家の内部力学と、徳川の台頭という現実を冷静に見据えた上での、自らの家と派閥の利害に基づく合理的な「選択」であったと評価すべきである。
延俊の東軍への加担を象徴する出来事が、実の弟である小早川秀秋との訣別である。当初、西軍の主力として伏見城攻めなどに参加していた秀秋は、その去就に迷い、徳川方との内通を画策しつつ、一旦戦線を離脱して姫路城に入り情勢を見極めようとした 2 。
しかし、兄である延俊は、この弟の入城を断固として拒否する。彼は「一旦西軍に与した者とは縁を切る」と宣言し、小早川勢の受け入れを許さなかった 2 。これは、自らの東軍への立場を内外に明確に示すための、非情ともいえる政治的パフォーマンスであった。肉親の情よりも政治的立場を優先したこの決断は、延俊の揺るぎない覚悟と、彼が生き残りを賭けていた徳川の世への強い意志を物語っている。
延俊自身は関ヶ原の本戦には参加していないが、戦後の残党処理においては、義兄・忠興と歩調を合わせ、積極的に軍事行動を展開した。慶長5年(1600年)10月18日、彼は忠興と共に、西軍の将・小野木重勝が籠城する丹波福知山城を攻撃し、これを降伏に追い込んだ 1 。この戦いは、関ヶ原の前哨戦である田辺城の戦いで、忠興の父・細川幽斎が小野木らの軍勢に包囲されたことへの報復戦であり、延俊が細川家と運命を共にすることを改めて示した行動であった。
この一連の行動は、父・家定の姿勢とは実に対照的である。家定は、秀吉子飼いの第一世代として、どちらにも与し難いという立場から「中立」を保ち、高台院の警護に徹した 9 。これは過去(秀吉との関係)を重んじた受動的な姿勢であった。対照的に、息子の延俊は、次世代の武将として来るべき「徳川の世」という未来を見据え、能動的に東軍への加担という選択を行った。この世代間の戦略差が、戦後の両者の処遇に明確な差となって現れた。家定は所領を安堵されたものの、要衝の姫路から備中足守へと事実上左遷されたのに対し、延俊は加増の上で豊後日出という新たな領地を与えられ、大名としての道を切り拓いたのである 5 。
関ヶ原の戦いにおける的確な判断と戦功により、木下延俊は徳川の世で大名として生き残る権利を勝ち取った。彼は豊後国日出の地で新たな藩を興し、その初代藩主として、270年以上にわたる木下家支配の礎を築いた。
慶長6年(1601年)、延俊は徳川家康から5千石を加増され、豊後国速見郡日出に3万石の領地を与えられた 2 。この所領は、奇しくも義兄・細川忠興が新たに拝領した豊前小倉藩の領地から割譲される形で行われ、ここにも両家の深い関係が窺える 18 。
日出に入封した延俊が最初に着手した大事業が、居城の建設であった。慶長7年(1602年)、彼は別府湾を望む風光明媚な地に日出城(別名・暘谷城)の築城を開始した 22 。この築城にあたっては、義兄・忠興が設計に深く関与し、その家臣で石垣普請の名手として知られた穴太理右衛門(あのうりえもん)が指揮を執ったと伝えられる 24 。完成した城は、3万石という小藩の居城としては規模、完成度ともに高く、新たな領主の権威を内外に示す象徴となった。
城の建設と並行して、延俊は領国統治の基盤固めにも着手した。
日出藩を立藩した延俊は、豊臣の縁者という出自を抱えながらも、徳川政権下で大名としての公務を忠実に果たし、新時代の支配体制への順応を示した。彼の行動は、徳川への恭順の意を明確にすることで、家の安泰を図るという現実的な戦略に基づいていた。
表2:木下延俊の江戸時代における主要な公務一覧
年代 |
公務内容 |
政治的意義 |
慶長11年 (1606) |
江戸城普請(虎ノ門石垣工事)に参加 2 |
幕府の威信を示す天下普請への参加義務を果たす。 |
慶長19年 (1614) |
大坂冬の陣に徳川方として参陣 2 |
旧主家である豊臣家と敵対し、徳川への忠誠を明確に示す。 |
慶長20年 (1615) |
大坂夏の陣に徳川方として参陣 2 |
豊臣家の滅亡に立ち会い、徳川の天下が確定したことを受容。 |
元和5年 (1619) |
将軍・徳川秀忠の上洛に供奉 2 |
将軍の権威を高める儀礼に参加し、臣従の意を示す。 |
元和6年 (1620) |
大坂城普請の助役を務める 2 |
豊臣の象徴であった大坂城を徳川の城として再建する事業に参加。 |
寛永3年 (1626) |
後水尾天皇の二条城行幸に参列 2 |
幕府が主催する朝廷との重要な儀式に参加し、体制の一員であることを示す。 |
寛永9年 (1632) |
加藤忠広改易に伴い八代城に在番 2 |
幕府による大名改易という権力行使の実務を担当し、信頼を得る。 |
寛永14年 (1637) |
島原の乱に出兵 2 |
幕藩体制を揺るがす大規模な反乱の鎮圧に参加し、軍役を果たす。 |
この一覧が示すように、延俊は徳川幕府がその権威を確立していく上で重要となる数々の公務に動員され、その役割を忠実に果たした。豊臣恩顧の大名が、旧主家の象徴であった大坂城の再建普請に参加し、豊臣家を滅ぼした大坂の陣に参陣するという行為は、彼にとって複雑な心境を伴うものであったに違いない。しかし、彼は感情を抑え、新時代の支配者である徳川家への奉公を全うした。それは、彼が単に豊臣の縁故によって存続を許されたのではなく、大名としての義務と負担を果たすことで、自らの手で家の未来を切り拓いていったことを雄弁に物語っている。
木下延俊という人物を深く理解する上で、彼自身が残した『慶長日記』(正式名称『慶長十八年日次記』)は比類なき価値を持つ一級史料である。この日記は、彼の公的な顔だけでなく、私的な側面や人間性、そして彼が生きた時代の空気を鮮やかに伝えている 2 。
『慶長日記』は、慶長18年(1613年)の元旦から大晦日までの一年間を、一日も欠かすことなく記録した日記である 2 。記録自体は延俊本人ではなく、家臣の祐筆である中澤清介と神田甚吉が5日交代で記述したとされるが 31 、その内容は延俊の行動を中心に詳細に記されており、当時の大名の生活実態を知る上で極めて貴重である。
この日記が持つ最大の史料的価値は、その記録された時期にある。慶長18年とは、翌年に大坂冬の陣が勃発する、まさに徳川と豊臣の緊張関係が頂点に達しようとしていた時期である 29 。そのような緊迫した状況を、豊臣家に深く連なる大名である延俊の視点から記録している点に、この日記の独自性と重要性がある。この貴重な史料は、歴史学者の二木謙一氏、荘美知子氏らによって詳細な校訂が加えられ、現代にその全容が伝えられている 30 。
日記が描く延俊の姿は、まさに二つの巨大な権力の間で巧みに立ち回る、優れた政治家のそれである。日記には、延俊が江戸城で将軍・徳川秀忠から茶を振る舞われ、駿府では大御所・徳川家康に拝謁するなど、幕府への忠実な奉公ぶりが記録されている 29 。その一方で、京都では叔母・高台院を見舞い、さらにはお忍びで大坂城を訪問し、豊臣秀頼にも御目通りしている様子が記されているのである 2 。
この一連の行動は、徳川への忠誠を尽くしながらも、旧主家であり親族でもある豊臣家への義理も欠かさないという、絶妙なバランス感覚に基づいている。一歩間違えれば「二股膏薬」と疑われかねない危険な綱渡りであるが、延俊はそれを冷静に実行していた。この日記は、単なる日々の記録に留まらず、自らの行動の正当性を後世に示すための、周到な「生存戦略の記録」という側面を持っていた可能性も否定できない。一つ一つの行動を「公務」や「義理」の文脈で記録することで、彼は自らの政治的立場を正当化し、あらゆる方面からの疑念を払拭しようとしていたのかもしれない。
『慶長日記』は、政治家としての延俊だけでなく、一人の文化人としての彼の素顔も生き生きと描き出している。
このように『慶長日記』は、徳川と豊臣という二大権力の間で揺れ動く大名の政治的苦悩と、茶の湯や鷹狩に興じる文化人としての日常を同時に描き出すことで、木下延俊という人物の多面的な実像を我々に伝えてくれるのである。
日出藩の礎を築き、徳川の世を巧みに生き抜いた木下延俊は、その生涯を江戸で閉じた。しかし、彼が残した家と血脈、そして彼にまつわる伝説は、その後も長く日出の地に記憶されることとなる。
寛永19年(1642年)正月7日、木下延俊は参勤交代で滞在中の江戸藩邸にて、66年の生涯を閉じた 2 。その遺骸は、主君であった浅野家や赤穂浪士の墓所としても知られる江戸高輪の泉岳寺に葬られた。しかし、彼の魂は故郷である日出にも帰るべく、分骨されて菩提寺である松屋寺にも墓が建てられた 2 。松屋寺の墓所には、主君に殉じた4名の家臣の墓も並んでおり、当時の主従関係の篤さを今に伝えている 2 。
延俊の死後、彼が築いた日出藩は、その遺言に従って分割相続された。遺領3万石のうち、2万5千石は継室・雲奥院の子である嫡男(三男)の木下俊治が継承し、日出藩二代藩主となった 2 。そして残りの5千石は、側室・恵昌院の子である四男の木下延次(延由)に分与され、大名に準ずる格式を持つ旗本(交代寄合)である立石領が成立した 2 。これにより、日出藩は表高2万5千石の藩として、江戸時代を通じて一度の移封もなく、16代にわたって木下家が統治し、明治維新を迎えることになる 22 。
表3:木下延俊の主要な子女と婚姻関係一覧
子女 |
生母 |
婚姻・養子先 |
備考 |
長男:長左衛門 |
正室:加賀 |
- |
7歳で夭折 2 。 |
次男:小右衛門 |
正室:加賀 |
- |
14歳で夭折 2 。 |
長女:於岩 |
正室:加賀 |
桜井松平忠重 正室 |
徳川譜代の松平家との婚姻 2 。 |
三女:於栗 |
正室:加賀 |
木下利当 正室 |
従兄弟にあたる足守藩木下家との婚姻 2 。 |
三男:木下俊治 |
継室:雲奥院 |
- |
日出藩2代藩主 2 。 |
四男:木下延次(延由) |
側室:恵昌院 |
- |
旗本立石領初代領主。「国松伝説」の人物 2 。 |
五男:木下俊之 |
側室:お松殿 |
細川忠興 家臣 |
義兄である細川忠興の家臣となる 2 。 |
六女:於鶴 |
側室:恵昌院 |
吉田元智 室 |
2 |
九女:於春 |
側室:恵昌院 |
古澤九郎右衛門 室 |
2 |
この子女の婚姻関係を見ると、延俊が家の安泰のために周到な戦略を巡らせていたことがわかる。親族である足守藩木下家との関係を強化する一方で、徳川譜代の桜井松平家とも姻戚関係を結び、幕府との繋がりを深めている。また、息子の一人を義兄・細川忠興の家臣とすることで、細川家との強固な絆を次世代にも継承させようとした。これらは、彼が築いた家を未来永劫存続させるための、巧みな布石であった。
木下延俊と日出藩を語る上で、豊臣秀頼の遺児・国松にまつわる伝説は避けて通れない。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した際、公式には捕らえられ処刑されたとされる秀頼の嫡男・国松が、実は生き延びていたという生存説がある 38 。そして、その国松こそが、木下延俊の四男・延次(延由)その人であるというのである 2 。
この伝説によれば、大坂城落城の際に真田大助らによって薩摩へ逃れた国松は、島津氏に匿われた後、豊臣家と縁の深い日出藩に託された。そして、延俊の子・延由として密かに入れ替わり、立石5千石の領主として生涯を終えたという 20 。この話は、荒唐無稽な噂話ではなく、日出藩木下家に「一子相伝」の秘密として、藩主から世子へと代々口伝で受け継がれてきたとされている 20 。
この伝説を補強する状況証拠として、延俊が臨終の際、遺領3万石のうち、3分の1にあたる1万石という破格の領地を延由に与えようとしたという逸話が残っている 24 。この遺言は、家老の諫言によって5千石に減じられたが、延俊の延由に対する並々ならぬ思いを窺わせる。この伝説の真偽を証明することは困難であるが、徳川の治世下にあっても、木下家が豊臣家への忠誠心と特別な繋がりを内心で持ち続けていたことの証左として、極めて興味深い物語である。
木下家が豊臣一族としての矜持を保ち続けた痕跡は、他にも見られる。日出藩と、延俊の兄・利房が継いだ備中足守藩は、江戸時代を通じて「豊臣」の姓を公式に称することを許された数少ない大名家であった 13 。また、家紋として幕府から下賜された「沢瀉紋(おもだかもん)」とは別に、秀吉から拝領したとされる「独楽紋(こまもん)」を代々使用し続けた 28 。これらは、徳川への恭順という現実を受け入れつつも、自らのルーツである豊臣への思いを静かに、しかし確かに後世へと伝えていこうとした木下家の姿を象徴している。
木下延俊の生涯を俯瞰するとき、我々は彼が単なる「幸運な武将」ではなかったことを知る。彼の人生は、豊臣一族という血縁、叔母・高台院の寵愛、そして義兄・細川忠興との強固な同盟という、与えられた好機を最大限に活かしつつ、自らの冷静な判断力と周到な戦略によって未来を切り拓いた、一人の優れた政治家の軌跡であった。
関ヶ原の戦いにおける彼の東軍への加担は、豊臣家が分裂し、もはや一つの勢力として機能し得ないという現実を直視した上での、生き残りを賭けた果断な決断であった。弟・秀秋の入城を拒否した非情さは、その決断の揺るぎなさを内外に示すための、計算された政治的行動であったと評価できる。徳川の世が始まると、彼は幕府からの公務を忠実にこなし、新時代の支配体制に順応する現実主義者としての顔を見せる。一方で、日出藩の藩祖として神社仏閣を再興し、産業の礎を築くなど、領主としての責務も着実に果たした。
彼が残した『慶長日記』は、その人物像をさらに深く我々に伝えてくれる。徳川と豊臣という二大権力の間を巧みに行き来する外交手腕、茶の湯や能楽を愛する洗練された文化人としての一面、そして自らの行動を記録することで立場を正当化しようとする周到さ。これらはすべて、延俊が激動の時代を生き抜くために駆使した、知的な生存戦略の一環であった。
木下延俊という人物の研究は、歴史を勝者(徳川)と敗者(豊臣)という単純な二元論で語ることの危うさを教える。彼の生涯は、二つの時代の狭間にあって、血縁、恩義、そして現実的な利害が複雑に絡み合う中で、一人の武将がいかにして自らの家とアイデンティティを守り抜いたかという、普遍的な問いに対する一つの力強い答えを示している。豊臣の血を継ぎながら徳川の世を生き抜いた彼の生涯を深く理解することは、戦国末期から江戸初期にかけての日本史を、より複眼的かつ人間的に捉え直す上で、大きな意義を持つと言えよう。