木下頼継は、大谷吉継の次男で豊臣秀吉から木下姓を賜る。関ヶ原で西軍として戦い敗走後、病死。父吉継の政治戦略の要であり、その死は豊臣家の崩壊と連動。子孫は津軽藩に仕え、家名を存続させた。
日本の戦国史を彩る数多の武将の中で、木下頼継(きのした よりつぐ)という名は、決して広く知られているものではない。彼は、関ヶ原の戦いにおいて西軍の主要武将として悲劇的な最期を遂げたことで知られる大谷吉継の次男であり、その生涯は父や兄・大谷吉治(吉勝)の劇的な物語の影に隠れ、歴史の表舞台に登場する機会は極めて限定的であった。
一般的に、木下頼継について語られる事績は「大谷吉継の次男として生まれ、豊臣秀吉に仕えて木下姓を賜る。関ヶ原の戦いでは父兄と共に西軍に属して戦うも敗北。戦場から離脱し、本拠地である敦賀に帰還した後、間もなく病死した」という数行に集約される。この簡潔な記述は、彼の人生の輪郭をなぞるものではあるが、その内実に宿る豊臣政権末期の複雑な人間関係や、大谷家が置かれた政治的力学の深層を解き明かすには、あまりにも不十分である。彼の存在は、歴史の大きな物語の中では、あまりにも小さく、断片的な記録として散逸しているのが現状である。
本報告書は、こうした歴史の片隅に埋もれた木下頼継という一人の武将に焦点を当て、現存する史料の断片を丹念に拾い集め、それらを繋ぎ合わせることで、その実像に可能な限り迫ることを目的とする。頼継の生涯を追うことは、単に一個人の伝記を編むに留まらない。それは、豊臣恩顧の大名一族が、政権の崩壊という時代の激流の中でいかにして生き、そして滅びていったのか、その悲劇の軌跡を、より微視的かつ人間的な視点から理解する試みでもある。父祖の栄光と、それに伴う宿命を背負った一人の若者の生涯を通して、関ヶ原という時代の転換点を新たな角度から照射することを目指す。
木下頼継に関する一次史料が極めて乏しい背景には、彼の置かれた立場そのものが深く関わっている。歴史に名を残すためには、多くの場合、父祖から受け継いだ家を大名として後世に存続させるか、あるいは父・吉継のように戦場での壮絶な最期が語り継がれるといった、何らかの「物語性」が必要とされる。しかし、頼継はこれらの条件をいずれも満たしていなかった。彼は家督を継ぐ立場にはなく、関ヶ原の戦いでは敗軍の将となり、さらに戦後まもなく若くしてこの世を去った。大谷家そのものが改易によって歴史の表舞台から姿を消したことも、彼に関する記録が散逸する決定的な要因となった。敗軍の将、それも家を継ぐことのなかった次男坊という立場が、彼を歴史の記録から遠ざけたのである。本報告書は、この困難な史料的制約の中で、可能な限りの考証を試みるものである。
木下頼継の生涯を理解する上で、その父である大谷吉継(おおたに よしつぐ)の存在は不可欠である。通称を刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)と称した吉継は、豊臣秀吉がまだ低い身分であった頃から仕えた最古参の家臣の一人であった。彼はその卓越した才覚と揺るぎない忠誠心によって秀吉の厚い信任を得、越前国敦賀に五万石の所領を与えられる大名にまで昇り詰めた。
吉継は、石田三成との深い友情で知られるが、その実像は単なる情誼に厚い武将に留まらない。彼は優れた吏僚(官僚)として政務をこなし、検地や外交交渉においてもその手腕を発揮した。同時に、戦場においては冷静沈着な指揮官として兵を率い、九州平定や小田原征伐、文禄・慶長の役といった豊臣政権の主要な合戦において数々の武功を挙げている。このように、吉継は文武両道に秀でた、豊臣政権の中核を担う紛れもない重臣であった。頼継は、この栄光に満ちた父の血を受け継いで生を受けたのである。
頼継の母、すなわち大谷吉継の正室が誰であったかについては、複数の史料が重要な示唆を与えている。江戸時代に編纂された武家系譜『諸家系図纂』や、その他の記録において、吉継の妻は石田三成の姉(あるいは妹とも)であったとする説が有力視されている。特に、三成の姉は「東殿」と呼ばれ、彼女が吉継に嫁ぎ、吉治や頼継らの母となった可能性が指摘されている。
この姻戚関係が事実であったとすれば、大谷吉継と石田三成の関係は、後世に語られるような単なる「友情」や「政治的盟友」といった精神的な繋がりを遥かに超えるものとなる。それは「血縁」という、戦国時代において最も強固で裏切りのない絆で結ばれていたことを意味する。この視点に立つと、木下頼継は、豊臣政権の重鎮である大谷吉継の子であると同時に、政権の実務を掌握する石田三成の甥という、極めて重要な血統的背景を持つ人物であった可能性が浮かび上がる。この血縁の存在は、後に関ヶ原の戦いにおいて大谷家が西軍に与する決断を下す上で、単なる義理や友情を越えた、一族の存亡をかけた必然的な選択であったことを強く示唆している。吉継の苦渋の決断の背後には、この切っても切れない血の繋がりがあったと考えるのが自然であろう。
頼継には、大谷吉治(おおたに よしはる)という兄がいた。史料によっては吉勝(よしかつ)とも記される彼は、大谷家の嫡男であった。父・吉継が関ヶ原で自刃した後、吉治は家督を継いだとされるが、その後の動向は諸説ある。関ヶ原の戦場で父と共に戦死したとも、大坂の陣まで生き延びて豊臣方として戦い、そこで討ち死にしたとも伝えられている。いずれにせよ、彼は父の遺志を継ぎ、豊臣家への忠義を貫いて戦場で散った人物として記憶されている。
この兄・吉治の運命は、弟である頼継のそれと極めて対照的である。父と共に戦場で死ぬことを選んだ(あるいは余儀なくされた)兄と、戦場を離脱して生き延びたものの、程なくして病に倒れた弟。この二人の兄弟が辿った異なる末路は、大谷一族を襲った悲劇の多面性を物語っている。
人物名 |
頼継との関係 |
備考 |
豊臣秀吉 |
主君 |
父・吉継の主君であり、頼継に木下姓を与えた。 |
高台院(北政所) |
主君の正室 |
頼継の養父・木下家定の妹。頼継の後見人的存在。 |
大谷吉継 |
父 |
豊臣政権の重臣。敦賀城主。 |
東殿(通称) |
母(推定) |
石田三成の姉とされ、事実であれば頼継は三成の甥となる。 |
石田三成 |
伯父(推定) |
豊臣政権の五奉行。西軍の事実上の指導者。 |
大谷吉治(吉勝) |
兄 |
大谷家の嫡男。父と共に西軍として戦う。 |
木下家定 |
養父(猶父) |
高台院の兄。頼継は家定の猶子(養子分)となった。 |
小早川秀秋 |
敵将 |
関ヶ原の戦いで裏切り、大谷隊を壊滅させた。 |
木下頼継の生涯における最も特筆すべき点の一つは、彼が大谷姓ではなく「木下」姓を名乗っていたことである。複数の史料が、彼が豊臣秀吉から直々にこの姓を賜ったと記録している。この「木下」という姓は、単なる褒賞以上の極めて重要な意味を持っていた。なぜなら、「木下」は豊臣秀吉が織田信長に仕える以前に名乗っていた旧姓であり、さらに重要なことに、秀吉の正室である高台院(北政所、おね)の実家の姓でもあったからである。
したがって、木下姓を名乗ることを許されるというのは、豊臣家、特に高台院に連なる一門衆、あるいはそれに準ずる特別な存在として公に認められたことを意味した。これは、頼継個人、そして大谷家全体が、秀吉と高台院から格別の信頼と寵愛を受けていたことの動かぬ証拠と言える。
頼継が木下姓を名乗るに至った具体的な経緯は、彼が高台院の実兄である木下家定(きのした いえさだ)の「猶子(ゆうし)」となったことによる。猶子とは、正式な家督相続を前提としない養子縁組の一形態であり、有力者の後見を受けることでその権威と人脈を引き継ぐことを目的とした制度である。この縁組により、頼継は形式上、高台院の甥という立場となり、豊臣家との結びつきは血縁に等しいレベルまで強化された。
この措置は、頼継がまだ若年であった頃に行われたと考えられ、彼の将来が豊臣家の中枢で期待されていたことを示唆している。彼は大谷家の一員であると同時に、高台院の実家である木下家の一員という、二重のアイデンティティを持つことになったのである。
この一連の出来事は、単に秀吉の気まぐれや寵愛の結果として片付けるべきではない。その背後には、父・大谷吉継の極めて高度で深謀遠慮に満ちた政治戦略を読み取ることができる。
第一章で述べたように、大谷家は吉継の正室を通じて石田三成を中心とする「文治派(官僚派)」と強固な血縁関係にあった。当時の豊臣政権は、この三成ら文治派と、加藤清正や福島正則に代表され、高台院を精神的支柱とする「武断派(尾張派)」との対立が年々深刻化していた。この二大派閥の角逐は、秀吉の死後、政権を二分するほどの危険性をはらんでいた。
このような政権内の不安定な状況を冷静に分析した吉継は、次男・頼継を木下家定の猶子とすることで、高台院を中心とする武断派とも強固なパイプを築き上げた。これは、嫡男・吉治を石田三成との繋がりの中に置き、次男・頼継を高台院との繋がりの中に置くという、見事な二股戦略であった。どちらの派閥が政権の主導権を握ったとしても、大谷家が安泰であるように、いわば保険をかけていたのである。これは、三成との友情や秀吉への忠誠心といった情念だけでは説明できない、一族の生存をかけた冷徹な政治的判断であった。木下頼継の存在そのものが、この大谷家の生存戦略を体現する、極めて重要な「駒」であったと言えるだろう。
以上の考察から、頼継には、父・吉継や兄・吉治とは異なる役割が期待されていたと推察される。彼は、大谷家と高台院およびその周辺に連なる武断派諸将とを結ぶ重要な連絡役であり、大谷家の政治的立場を多角化させるための象徴的存在であった。彼の存在は、大谷家が特定の派閥に偏ることなく、豊臣政権全体に対して影響力を保持し続けるための鍵だったのである。
関ヶ原の戦いが勃発する慶長五年(1600年)以前における、木下頼継個人の具体的な活動を記した史料は極めて乏しい。彼がどのような知行地を与えられていたか、あるいはどのような役職に就いていたかについての明確な記録は見当たらない。しかし、彼が木下家定の猶子であったという事実から、養父である家定のもと、あるいは直接豊臣家の小姓や近習として、大坂城や伏見城に出仕していた可能性は十分に考えられる。若年の彼は、父や養父の膝下で、来るべき時代に備えて武将としての経験を積んでいたと推測される。
慶長五年、徳川家康が会津の上杉景勝討伐のために大軍を率いて東国へ向かうと、その隙を突いて石田三成が家康打倒の兵を挙げた。この報に接した大谷吉継の動向は、関ヶ原の戦いにおける最大のドラマの一つとして知られている。通説によれば、吉継は当初、家康方に与して会津へ向かうつもりであり、その途上で三成の居城である佐和山城に立ち寄ったとされる。そこで三成から挙兵の計画を打ち明けられ、無謀な計画であると諌めたが、親友の固い決意を知り、敗北を予見しつつも西軍への参加を決意したと言われている。
この決断の背景には、三成との長年の友情に加え、第一章で論じた血縁関係が決定的な要因として作用したことは想像に難くない。妻が三成の姉である以上、吉継にとって三成は単なる友人ではなく、義理の兄弟であった。一族の存亡をかけたこの局面において、彼が三成を見捨てるという選択肢は、事実上存在しなかったのかもしれない。吉継の苦渋の決断は、大谷一族全員を西軍という運命共同体へと導くことになった。
西軍への参加を決めた大谷家は、一族の総力を挙げてこの決戦に臨んだ。その軍勢は、父・吉継を総大将とし、嫡男である大谷吉治(大学助)、そして次男である木下頼継(主馬首)が、それぞれ一部隊を率いる将として編成に加えられた。この事実は、江戸幕府が編纂した公式の系譜集である『寛政重修諸家譜』に「大谷刑部少輔吉継、同子息大学助吉勝、同弟主馬首頼継」と明確に記されており、頼継が単なる父の供としてではなく、独立した指揮官として認識されていたことを示している。
彼が称していた「主馬首(しゅめのかみ)」という官途名は、朝廷の官職の一つであり、彼が豊臣政権下で一定の地位と格式を与えられていた武将であったことの証左でもある。父と兄、そして弟である頼継。大谷家の親子三人は、それぞれの部隊を率いて、一族の命運を賭けた決戦の地、関ヶ原へと向かったのである。
慶長五年九月十五日、関ヶ原。西軍の布陣において、大谷吉継率いる一隊は、戦場の趨勢を左右する極めて重要な位置に配置された。それは、西軍の南翼、松尾山の麓であった。この松尾山には、西軍に属しながらもその動向が不透明であった小早川秀秋の大軍一万五千が陣取っていた。吉継に与えられた任務は、この小早川隊の動向を正面から監視し、万が一の裏切りに備え、これを牽制することであった。この配置自体が、西軍首脳部、特に石田三成が吉継の軍事的能力と忠誠心に絶大な信頼を寄せていたことの表れである。しかし、それは同時に、敵の裏切りを真っ先に受ける「死地」に身を置くことを意味していた。
決戦の火蓋が切られると、大谷隊の正面では東軍の藤堂高虎、京極高知の部隊との間で激しい戦闘が開始された。大谷隊は数に劣りながらも奮戦し、巧みな指揮によって一時は藤堂・京極隊を押し返すほどの戦いぶりを見せた。この激戦の最中、木下頼継もまた、父・吉継や兄・吉治と共に自らの部隊を率いて戦っていたことが史料から確認できる。彼は後方に控える予備兵力ではなく、関ヶ原の主戦場において、敵と直接槍を交える戦闘指揮官の一人として、その責務を果たしていたのである。この時、大谷隊が見せた勇猛果敢な戦いぶりは、東軍の諸将にも強い印象を与えたと伝えられている。
戦況が膠着し始めた正午過ぎ、西軍にとって悪夢の瞬間が訪れる。再三の催促に応じ、松尾山の小早川秀秋がついに動いた。しかし、その矛先は東軍ではなく、味方であるはずの大谷隊に向けられた。山から駆け下りた小早川の大軍勢が、大谷隊の側面に雪崩れ込んできたのである。
吉継はこの裏切りを予見しており、備えの部隊を差し向けて一時的にこれを食い止めた。しかし、悲劇は連鎖した。小早川の裏切りに呼応するように、大谷隊の側背に布陣していた西軍の脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保といった諸将までもが次々と東軍に寝返り、大谷隊に襲いかかった。これにより、大谷隊は完全に包囲され、四方から集中攻撃を受ける絶望的な状況に陥った。奮戦も虚しく、精強を誇った大谷隊は瞬く間に崩壊し、壊滅に至った。
四面楚歌の中、自らの死を悟った大谷吉継は、もはやこれまでと覚悟を決め、家臣の介錯によって壮絶な自刃を遂げた。兄・吉治もまた、父と共に戦場で討ち死にしたか、あるいは父に殉じたと伝えられている。大谷家の主力がことごとく討ち取られ、戦場が阿鼻叫喚の地獄と化す中、木下頼継は辛うじてその場からの離脱に成功する。
この離脱が、父・吉継による「家の血を絶やすな」という意図的な退却命令によるものであったのか、あるいは混乱の中で生き残った者たちが必死に活路を見出した結果であったのか、今となっては知る由もない。しかし、結果として彼は、父と兄が命を散らした関ヶ原の戦場を後にし、敗走の途につくことになった。大谷一族の栄光は、この日、関ヶ原の露と消えたのである。
関ヶ原の戦場で壊滅的な打撃を受け、父と兄を失った木下頼継は、残存兵を率いて戦場から離脱した。彼の目指す先は、大谷家の本拠地である越前国敦賀であった。関ヶ原から敦賀までの道のりは、美濃・近江・越前の国境を越える険しい山道であり、しかも東軍の追手が迫る中での敗走は困難を極めたはずである。彼が単独ではなく、少なからぬ供回りと共に帰還を果たしたとすれば、それは混乱の中でもある程度の組織的な撤退行動がとれたことを示唆している。しかし、彼がたどり着いた敦賀城に、もはや安住の地はなかった。
木下頼継の最期については、複数の信頼性の高い史料が、驚くほど一致した記述を残している。合戦の様子を記した『慶長記』、江戸幕府が編纂した公式の武家系譜である『寛永諸家系図伝』 およびその改訂版である『寛政重修諸家譜』 のいずれもが、「(敦賀に)帰国後、間もなく病死した」と記しているのである。
敗軍の将の末路としては、追討軍に討ち取られる「討死」、捕縛されて処刑される「斬首」、あるいは自ら命を絶つ「自刃」が一般的である。しかし、頼継に関しては、公的性格を帯びた複数の史料が、まるで申し合わせたかのように「病死」という記録で統一している。これは単なる偶然とは考えにくい。この「病死」という記録の裏には、当時の政治的・社会的な背景が隠されている可能性が高い。
考えられる可能性は複数ある。第一に、文字通り何らかの病を発症して亡くなった可能性。第二に、関ヶ原での戦傷が悪化して死に至った、いわゆる「戦傷死」の可能性。そして第三に、追手を逃れるため、あるいは一族にこれ以上の累が及ぶのを避けるために自刃したものの、その事実が伏せられた可能性である。
「病死」という記録は、これら全ての可能性を内包しうる、極めて曖昧で「無難な」表現である。勝利者である徳川方からすれば、もはや脅威ではない頼継のような若者をわざわざ追い詰めて殺害したという記録を残すよりも、穏便に処理された形にする方が都合が良かった。一方、敗者である旧大谷家臣団や縁者にとっても、主君の子が自刃や討ち死にしたという悲劇的な死に様よりも、「病気で亡くなった」とする方が、体裁が保たれ、後世への聞こえも良かった。
つまり、頼継の「病死」という記録は、勝者と敗者の双方にとって都合の良い「公式見解」として定着した可能性が極めて高い。これは、戦国時代の終焉期における戦後処理の現実、すなわち、全ての事柄を白黒つけるのではなく、「曖昧さによる幕引き」という社会的な知恵が働いた結果と解釈することができる。頼継の死は、一つの歴史的産物であったと言えるだろう。
史料が「関ヶ原合戦後、間もなく」と記していることから、頼継が亡くなったのは慶長五年(1600年)の末頃と推定される。場所は、父祖の地である敦賀城、あるいはその近辺の潜伏先であったと考えられる。享年は不明だが、兄・吉治より年下であったことから、まだ二十歳にも満たない若さであった可能性が高い。
木下頼継の物語は、慶長五年の敦賀における彼の死をもって終わったかのように見える。しかし、『寛政重修諸家譜』には、彼の生涯を再評価する上で極めて重要な記述が残されている。それは、頼継には子息がおり、その子孫が後に弘前藩主・津軽家に仕官し、武士として家名を存続させていたという記録である。
この事実は、いくつかの重要な点を示唆している。第一に、頼継自身は若くして亡くなったものの、彼には関ヶ原以前に儲けた子、あるいは彼の死後に生まれた遺児がおり、その血脈が途絶えなかったこと。第二に、大谷家は改易となり一族は離散したものの、その子孫は新たな主君を見出し、武士としての家を再興することに成功したことである。これは、関ヶ原で西軍に与して敗北した武家の多くが辿った運命の一つの典型例である。彼らは、縁故(例えば、津軽家もまた豊臣恩顧の大名であった)を頼り、あるいは自らの武芸を売り込むなどして、新たな仕官先を見つけ、江戸時代という新たな秩序の中で生き延びていった。
頼継の物語は、彼の死という悲劇だけで完結するのではない。その血脈が近世を通じて密かに受け継がれていたという事実にまで目を向けることで、単なる滅びの物語から、逆境を乗り越える武家の強靭な生命力の物語へと昇華されるのである。
父・大谷吉継の英雄的な最期や、兄・大谷吉治の忠義の死とは対照的に、木下頼継の死は静かで、その記録も乏しい。しかし、彼の短い生涯は、豊臣政権という巨大な政治構造の中で、一族の生存戦略の駒として翻弄され、時代の激流に飲み込まれていった数多の若き武将たちの運命を象徴している。
彼が拝領した「木下」の名は、かつての栄光の証であった。しかし皮肉にも、その栄光の源泉であった豊臣家の崩壊と共に、彼の運命もまた尽きることになった。彼は、父・吉継の深謀遠慮によって、大谷家の未来を託された存在であったが、その戦略そのものが、関ヶ原の敗戦によって根底から覆されてしまったのである。
木下頼継の生涯を、断片的な史料から徹底的に追跡することで見えてきたのは、華々しい戦功や劇的な死だけが歴史ではないという、自明でありながら見過ごされがちな事実である。彼の静かな退場と、それでもなお密かに受け継がれた血脈の物語は、歴史の表舞台から消えていった無数の人々の生きた証の存在を我々に想起させる。
彼の存在を丹念に掘り起こす作業は、歴史の勝者によって描かれた大きな物語の隙間に埋もれた、敗者たちの声なき声に耳を傾ける行為に他ならない。木下頼継という一人の武将の軌跡を辿ることは、豊臣から徳川へと時代が移り変わる中で、個人や一族がどのように生き、そして死んでいったのか、その実相をより深く、豊かなものとして理解するために不可欠な作業であると結論付けることができる。