最終更新日 2025-05-20

木曾義昌

木曾義昌:戦国乱世を駆け抜けた信濃の武将、その実像と評価

I. 序論

木曾義昌という武将の概要と本報告の目的

木曾義昌は、戦国時代の信濃国にその名を刻んだ武将である。源平合戦で勇名を馳せた木曾義仲の末裔を称し、山深い木曾谷を本拠とした木曾氏の当主として、甲斐の武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という当代の覇者たちが勢力を争う激動の時代を生きた。彼の生涯は、武田氏からの離反という劇的な行動によって、しばしば「裏切り者」という一面的な評価で語られることが多い。しかし、その一方で、小領主として自領と一族の存亡をかけて巧みに立ち回った戦略家として、あるいは移封先の地で善政を敷いた為政者として、多角的に捉え直す視点も存在する。

本報告は、現存する史料や近年の研究成果に基づき、木曾義昌の出自から家督相続、武田氏への従属と離反、織田・豊臣政権下での動向、そして下総網戸への移封と最期に至るまでの生涯を詳細に追う。さらに、彼が木曾谷および網戸で行った統治の業績、史料や逸話から垣間見える人物像、そして同時代および後世における歴史的評価を包括的に検討し、木曾義昌という武将の実像に迫ることを目的とする。彼の行動原理や、それが当時の政治状況の中でどのような意味を持ったのかを深く考察することで、戦国時代を生きた一人の武将の多面的な姿を浮き彫りにしたい。

研究の意義と課題

木曾義昌の研究は、戦国時代における中小規模の国衆(国人領主)が、巨大勢力の狭間でいかにして自領と一族の存続を図ろうとしたかという、当時の社会構造や武士の行動原理を理解する上で重要な示唆を与える。彼の選択は、単なる個人的な裏切りや野心として片付けられるものではなく、当時の厳しい国際関係(大名間の関係)における生存戦略の現れとして捉える必要がある。

しかしながら、木曾義昌に関する史料は、彼の立場や行動の変遷を反映してか、特定の勢力の視点から記述されたものが多く、その解釈には慎重を期す必要がある。また、木曾谷における具体的な統治政策に関する史料が乏しいなど、史料の偏在性も課題として挙げられる。本報告では、これらの課題を認識しつつ、利用可能な史料を多角的に分析し、客観的かつ実証的な記述を心がける。

本報告における「木曾」の表記について

本報告では、木曾義昌自身や彼が本拠とした木曾谷、そして彼が属した木曾氏に関連する記述においては、歴史的文脈と史料における使用例を尊重し、「木曾」の表記を主として用いることとする。ただし、引用する史料や現代の地名、研究論文等において「木曽」の表記が用いられている場合には、混乱を避けるため、その表記に従うこととする。

II. 木曾義昌の生涯

A. 出自と家督相続

木曾氏の系譜と木曾谷の地理的重要性

木曾義昌が属した木曾氏は、平安時代末期に源平合戦で活躍し、「旭将軍」とも称された源義仲(木曾義仲)の末裔を称する清和源氏の一族とされている 1 。この輝かしい祖先を持つという出自は、木曾谷という山々に囲まれた閉鎖的ながらも戦略的に重要な地域を支配する上で、在地領主としての権威と正統性を強化する上で大きな意味を持っていたと考えられる。

木曾谷は、信濃国(現在の長野県)の南西部に位置し、美濃国(岐阜県南部)、飛騨国(岐阜県北部)との国境に接する交通の要衝であった 4 。また、伊勢神宮の式年遷宮の御用材としても知られる木曾檜をはじめとする豊富な森林資源を抱えており 5 、経済的にも軍事的にも極めて重要な地域であった。この地理的条件は、木曾氏にある程度の独立性を維持させる要因となった一方で、常に周辺の有力大名による介入や侵攻の危険に晒されるという、いわば諸刃の剣であった。義昌の生涯は、このような「境目」と呼ばれる国境地帯の国衆が、いかにして自立と従属の狭間で巧みな舵取りを行い、生き残りを図ったかを示す典型的な事例と言えるだろう。

誕生と成長、家督相続の経緯

木曾義昌は、天文9年(1540年)、木曾谷の領主であった木曾義康の嫡男として誕生した 7 。幼名は宗太郎と伝えられている 4 。彼が青年期を迎えた頃、甲斐国(山梨県)の武田信玄が信濃への侵攻を本格化させていた。父・義康の代、弘治元年(1555年)頃、木曾氏は武田信玄の攻撃を受け、これに降伏した 1 。この時、義昌は16歳であったとされ 4 、武田氏への従属という経験は、その後の彼の行動原理を形成する上で、多大な影響を与えたと考えられる。義昌が正式に家督を相続したのは、永禄2年(1559年)、19歳の時であったとされる 10 。若くして木曾氏の当主となった義昌は、以後、戦国乱世の荒波の中へと漕ぎ出して行くことになる。

B. 武田氏への従属と信玄・勝頼との関係

武田信玄との関係:婚姻と同盟

武田氏に降伏した後、木曾義昌は信玄の娘である真理姫(真竜院とも。一説に三女、四女あるいは五女とされる)を正室として迎え入れた 1 。この婚姻により、木曾氏は武田氏の親族衆(一門衆に準じる待遇)としての地位を与えられ、武田家との結びつきを強固なものとした 4 。これは、信玄が木曾谷を美濃・飛騨方面への進出、あるいはそれらの国々からの侵攻に対する戦略的要衝として重視し、木曾氏を確実に味方に取り込んでおくための巧みな懐柔策であったと言える 4

信玄配下において、義昌は騎馬200騎持の侍大将として遇され 1 、その軍事力を高く評価されていたことが窺える。主に美濃・飛騨方面の国境警備や軍事行動の最前線を担い 9 、永禄12年(1569年)の武田信玄による駿河今川氏侵攻や 10 、元亀3年(1572年)の西上作戦にも従軍したとされ、信玄の軍略や統治の才を間近で学ぶ機会を得たと考えられる 10

武田勝頼との確執と離反への道

しかし、天正元年(1573年)に武田信玄が病没し、その子・勝頼が家督を継ぐと、木曾義昌と武田氏との関係には次第に亀裂が生じ始める 10 。義昌自身が後に語ったとされるところによれば、勝頼は父・信玄とは異なり、深謀遠慮に欠け、時に短慮に走る傾向があったと見なしていた 10

具体的な確執の原因としては、天正7年(1579年)頃から勝頼が進めた新府城(山梨県韮崎市)築城における過大な普請役負担が挙げられる 4 。これは、木曾氏のような国衆にとって大きな経済的圧迫となり、勝頼への不満を増大させる一因となった 10 。さらに、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける武田軍の大敗は、武田家の威信を大きく揺るがし、勝頼の求心力低下を招いた。このような状況下で、義昌もまた勝頼から疑念の目で見られるようになったとされ、妻・真理姫が勝頼の義理の姉妹(信玄の娘)であることが、かえって勝頼の不信感を増幅させる要因となった可能性も指摘されている 10

天正9年(1581年)頃から武田家内部の不和は表面化し、勝頼の軍事方針や家中統制に不満を持つ国衆が増え、離反の動きも見られるようになった 10 。このような状況の中で、義昌は木曾谷の将来を案じ、新たな活路を模索し始める。そして天正10年(1582年)2月、美濃国苗木城主の遠山友忠からの誘いを受け、織田信長に内通し、武田氏に対して叛旗を翻すという重大な決断を下すに至る 4 。この際、弟の上松義豊(上松蔵人とも)を人質として織田方に送り、その意思を明確に示した 14 。この離反は、単なる感情的なものではなく、織田氏の急速な勢力拡大という当時の国際情勢を冷静に分析した上で、木曾氏の存続を図るための戦略的判断であった可能性が高い 10

離反の代償:家族の悲劇

木曾義昌の離反は、武田勝頼を激怒させた。勝頼は、報復として、当時甲府に人質として留め置かれていた義昌の家族に対して非情な処断を下した。義昌の70歳になる母、13歳の嫡男・千太郎、そして17歳の長女・岩姫が、新府城で処刑されたのである 12 。この悲劇は、義昌にとって計り知れない衝撃と悲しみをもたらし、武田氏との関係を完全に断ち切らせ、織田方への加担をより強固なものにする心理的動因となったと考えられる。

一方、義昌の妻であり信玄の娘であった真理姫の立場は極めて苦しいものであった。夫の裏切りと実家の滅亡という二重の悲劇に直面した彼女は、一説によれば、義昌と離別し、三男の義一(よしかづ)と共に木曾の山中に隠遁したとも伝えられている 12 。彼女の苦悩は、政略結婚が常であった戦国時代の女性が背負わされた過酷な運命を象徴していると言えよう。

C. 織田信長への帰順と武田氏滅亡

鳥居峠の戦いと武田軍撃退

天正10年(1582年)2月、木曾義昌の離反を知った武田勝頼は、自ら1万5千とも言われる大軍を率いて木曾谷討伐へと向かった 13 。これに対し、義昌は本拠である木曾福島城(長野県木曽町)に籠城し、織田信長に急使を送り援軍を要請した。

勝頼軍が木曾谷へと迫る中、義昌は地の利を最大限に活かした迎撃策を講じた。木曾谷の入り口にあたる鳥居峠(長野県塩尻市と木祖村の境)に兵を伏せ、進軍してくる武田軍を奇襲したのである。この鳥居峠の戦いにおいて、義昌軍は数に劣りながらも武田軍を撃退することに成功した 7 。この勝利は、義昌の軍事的才覚と、自領の地理を熟知した上での巧みな戦術眼を示すものであった。太田牛一の『信長公記』にも、木曾義昌の離反(「木曽義政忠節の事」として記述)と、それに続く織田信長の武田征伐開始の様子が記されており 14 、義昌の行動が武田氏滅亡の大きな引き金の一つとなったことがわかる。この戦いは、織田軍主力の信濃侵攻を容易にし、武田氏の組織的抵抗力を急速に削ぐ決定的な意味を持った。

信長からの処遇と旧武田領の分割

鳥居峠での敗北と時を同じくして、織田信忠を総大将とする織田軍本隊が伊那方面から、徳川家康軍が駿河方面から、北条氏政軍が関東方面から、そして金森長近軍が飛騨方面から武田領へと一斉に侵攻を開始した 13 。武田方の諸城は次々と陥落または降伏し、勝頼は天目山で自刃、ここに名門武田氏は滅亡した。

武田氏滅亡後、木曾義昌は織田信長に謁見し、その早期の内応と武田軍撃退の功を賞された。信長は義昌に対し、本領である木曾谷の所領安堵を認めるとともに、新たに信濃国の筑摩郡と安曇郡を与えた 23 。これにより、義昌の所領は大幅に拡大し、信濃府中(現在の松本市)の深志城(後の松本城)もその支配下に置くことになった 3 。この厚遇は、義昌の功績を認めたものであると同時に、織田政権下における新たな秩序への組み込みを意味するものであった。しかし、これは同時に、信長という強大な庇護者の存在を前提としたものであり、その後の本能寺の変によって、義昌は再び不安定な状況に直面することになる。

D. 本能寺の変後の動乱(天正壬午の乱)

織田信長の横死と旧武田領の混乱

天正10年(1582年)6月2日、京都本能寺において織田信長が家臣の明智光秀に討たれるという衝撃的な事件(本能寺の変)が発生した。これにより、織田政権が支配下に置いていた旧武田領(甲斐、信濃、上野など)は再び主無き地となり、これを巡って徳川家康、北条氏直、上杉景勝といった周辺の有力大名たちが熾烈な争奪戦を繰り広げることになった。この一連の動乱は、干支にちなんで「天正壬午の乱」と呼ばれる 26

義昌の動向:勢力間の揺れ動き

本能寺の変の報は、旧武田領の諸将にも大きな動揺を与えた。木曾義昌は、信長から与えられた安曇郡・筑摩郡の拠点として深志城(松本城)に入っていたが、信濃の混乱に乗じて勢力拡大を図る上杉景勝の支援を受けた小笠原氏の旧臣・小笠原洞雪斎(小笠原貞慶の叔父)によって攻撃され、深志城を追われる事態となった 27

この混乱期において、義昌は自領の保全と木曾氏の存続を最優先に、巧みな外交戦略を展開する。当初、北条氏直に使者を送り、その傘下に入る意向を示したと伝えられている 27 。しかし、甲斐・南信濃方面で徳川家康が急速に勢力を拡大し、北条氏と対峙するようになると、義昌は再び立場を変える。最終的には、織田信長の三男・織田信孝を中心とする織田政権(実質的には徳川家康が後援)の承認を得る形で、徳川家康に与することになった 27 。この際、義昌は織田政権(信孝政権)から木曾谷の領地安堵と、必要に応じた派兵の承認を得ている 27

天正壬午の乱における義昌の一連の行動は、彼が信長から与えられた広大な安曇・筑摩郡を自力で維持することの困難さを示している。結局、中央政権(この場合は信長の後継を巡る織田家中の勢力)の権威と、徳川家康という有力な軍事勢力との結びつきによって、ようやく木曾谷という本拠地の支配権を再確認できたのである。これは、戦国時代末期において、国衆がいかに中央の統一権力との関係性なしには存立し得なかったかという現実を如実に反映している。

E. 豊臣政権下での動向

羽柴秀吉への臣従

本能寺の変後、明智光秀を討ち、織田信長の後継者としての地位を急速に固めたのは羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)であった。秀吉は、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、その勢力を確固たるものとした。このような状況下で、木曾義昌もまた、他の多くの国衆と同様に秀吉に臣従し、その支配体制下に組み込まれていった 1 。秀吉は、義昌に対し木曾谷の支配を認めつつも、関東の北条氏への備えなど、その戦略の一翼を担うことを期待していたとされる 10

小牧・長久手の戦い(天正12年・1584年)

天正12年(1584年)、織田信雄と徳川家康が同盟を結び、秀吉と対立すると、小牧・長久手の戦いが勃発した。この戦いにおいて、木曾義昌は秀吉方に与し、徳川方の将であった保科正直(当時、高遠城主)らと信濃で戦った 1 。これは、天正壬午の乱において徳川家康と協調関係にあった立場からの大きな転換であり、義昌の時勢を読む能力と、生き残りのための外交的柔軟性、あるいは秀吉の強大な圧力に対する現実的な対応を示している。翌天正13年(1585年)には、徳川家から秀吉のもとへ出奔した石川数正に同行したという記録もあり 1 、この時期には完全に秀吉方へと立場を移していたことが窺える。

小田原征伐(天正18年・1590年)と下総網戸への移封

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、関東の雄・北条氏政・氏直親子を討伐するため、小田原征伐を開始した。木曾義昌も木曾衆を率いてこの戦役に参陣し、秀吉軍の一翼を担った 10

小田原北条氏が降伏し、秀吉による天下統一が完成すると、戦後処理として大規模な領地替えが行われた。この際、木曾義昌は先祖伝来の地である信濃国木曾谷から、下総国網戸(阿知戸とも書く。現在の千葉県旭市)へ1万石で移封されることとなった 1 。この移封の理由については諸説あり、小田原征伐の際に嫡男・義利を代理として参陣させたことが秀吉の不興を買ったためとも 3 、あるいは徳川家康が関東へ移封されたことに伴い、家康の与力大名として戦略的に配置換えされたためとも言われている。いずれにせよ、木曾谷という木曾氏のアイデンティティそのものであった土地からの離郷は、義昌にとって大きな失意と無念をもたらしたと推測される。この出来事は、戦国時代を通じて一定の自律性を保ってきた国衆が、豊臣政権という強大な中央集権体制の下で完全にその支配下に組み込まれ、時には故地から切り離されて勢力を削がれていくという、国衆の時代の終焉を象徴するものであった。

F. 晩年と最期

下総網戸での統治

天正18年(1590年)に下総国網戸へ移封された木曾義昌は、新たな領地で統治を開始した。故郷木曾谷から遠く離れたこの地での生活は、彼にとって失意の日々であったかもしれないが、それでも領主としての責務を果たそうとした様子が伝えられている。網戸では、既存の網戸城を改修して居城とし、城下町の整備、新田開発、そして街道の整備などに尽力したとされる 8 。特に、桜の木を愛し、領内に植樹を奨励したという逸話は 11 、武人としての側面だけでなく、文化的な素養や自然を愛でる心を持っていたことを示唆している。

網戸での在世はわずか5年ほどの短い期間であったが、その善政により領民からは「当地興隆の祖」として慕われたという伝承が残っている 33 。これは、新領地においても領地経営に真摯に取り組み、民心の安定に努めた彼の為政者としての一面を物語っている。

逝去と墓所

文禄4年(1595年)3月13日(一説には3月17日とも 33 )、木曾義昌は下総網戸の地で病のため没した。享年56歳(あるいは55歳とも 1 )であった。法名は「東漸院殿玉山徹公大居士」と諡された 11

義昌は死に臨み、特異な遺言を残したと伝えられている。それは、自らの遺体を、当時網戸の北西に広がっていた広大な内海である「椿の海(つばきのうみ)」に水葬せよ、というものであった 8 。一説には、かつての主君であり、また義理の父でもあった武田信玄が諏訪湖に水葬された故事に倣ったものとも言われている 11 。故郷木曾の山々ではなく、遠い異郷の海を最後の眠りの地として選んだ彼の心境は、察するに余りあるものがある。この椿の海は江戸時代に入り元禄年間に干拓され陸地となったが、義昌が水葬されたと伝わる場所には後に供養塔が建てられ、現在は「木曽義昌公史跡公園」として整備されている 8

木曾義昌の菩提寺は、千葉県旭市網戸(旧網戸城跡の一角と伝わる)にある真言宗智山派の寺院、東漸寺である 11 。同寺には、義昌とその夫人・真理姫(万里姫とも記される)の供養塔が並んで建てられており 8 、現在も毎年3月17日の命日には法要が営まれ、その遺徳が偲ばれている 33

表1:木曾義昌 年表

年代(西暦/和暦)

年齢

主要出来事

関連人物

場所

典拠資料ID

1540年(天文9年)

0歳

信濃国木曾谷にて、木曾義康の嫡男として誕生。幼名・宗太郎。

木曾義康

信濃国木曾谷

4

1555年頃(弘治元年頃)

16歳頃

父・義康と共に武田信玄に降伏。

木曾義康、武田信玄

信濃国木曾谷

1

1559年(永禄2年)

19歳

家督を相続し、木曾氏当主となる。武田信玄の娘・真理姫と結婚。

武田信玄、真理姫

信濃国木曾谷

4

1560年(永禄3年)

20歳

武運長久を祈願し御嶽山に登拝。

木曾御嶽山

38

1569年(永禄12年)

29歳

武田信玄の駿河侵攻に従軍。

武田信玄

駿河国

10

1572年(元亀3年)

32歳

武田信玄の西上作戦に従軍か。

武田信玄

遠江・三河方面

10

1573年(天正元年)

33歳

武田信玄死去、武田勝頼が家督相続。

武田勝頼

甲斐国

10

1582年(天正10年)2月

42歳

織田信長に内通し、武田勝頼に離反。弟・上松義豊を人質に送る。鳥居峠で武田軍を撃退。

織田信長、武田勝頼、遠山友忠、上松義豊

信濃国鳥居峠

7

1582年(天正10年)3月

42歳

武田氏滅亡。信長より木曾谷安堵、筑摩・安曇二郡を加増される。深志城主となる。

織田信長

信濃国

3

1582年(天正10年)6月

42歳

本能寺の変。深志城を小笠原氏に奪われる。天正壬午の乱で北条氏、後に徳川家康に与す。

上杉景勝、小笠原洞雪斎、北条氏直、徳川家康

信濃国

27

1584年(天正12年)

44歳

小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉方に与し、徳川方の保科正直と戦う。

羽柴秀吉、徳川家康、保科正直

信濃国

1

1585年(天正13年)

45歳

石川数正と共に秀吉のもとへ出奔か。

石川数正、羽柴秀吉

大坂

1

1590年(天正18年)

50歳

小田原征伐に参陣。戦後、下総国網戸(阿知戸)へ1万石で移封。

豊臣秀吉

小田原、下総国網戸

3

1590年~1595年

50~55歳

下総網戸にて城下町整備、新田開発、街道整備に尽力。

下総国網戸

11

1595年(文禄4年)3月13日

55歳

下総網戸にて病死。遺言により椿の海に水葬。

木曾義利

下総国網戸

1

III. 木曾義昌の業績

A. 木曾谷における統治政策

木曾義昌が本拠地とした木曾谷における具体的な統治政策、例えば検地の実施や税制の整備、あるいは木材以外の産業振興策などに関する直接的かつ詳細な史料は、現在のところ提示されている範囲では極めて乏しい。これは、戦国時代の地方領主の記録が散逸しやすいという一般的な傾向に加え、後世の関心が主に彼の軍事行動や主君の変遷といった劇的な出来事に集中しがちであったためとも考えられる。

しかしながら、木曾谷が持つ戦略的重要性(国境防衛)や経済的価値(豊富な森林資源)を考慮すれば、義昌がこれらの維持・活用、そしてそれを支える領民の統治に関心を払わなかったとは考えにくい。いくつかの間接的な情報から、その統治の一端を推測することは可能である。

まず、防衛体制の整備に関しては、室町時代に木曾氏が木曾谷南方の抑えとして妻籠城(長野県南木曽町)を整備し、その麓に妻籠宿が形成されたという記録があり、義昌の時代にもこの城が機能していた可能性が示唆されている 39 。木曾谷は常に周辺勢力からの圧力を受けていたため、領内の防衛体制の維持・強化は統治の根幹であったはずである。

次に、木曾谷の最大の資源であった木材(特に木曾檜)の管理と活用である。木曾檜は古くから神社仏閣の用材として珍重され、豊臣秀吉も戦国期の軍需物資供給源として木曾谷に注目していた 5 。義昌の統治下においても、この重要な木材資源の伐採管理、そしてそれを中央権力への貢納や交易に用いることで、自らの政治的立場を強化する手段としていた可能性は高い。江戸時代に入ると尾張藩によって「木一本、首一つ」と恐れられる厳しい森林保護政策が敷かれるが 5 、義昌の時代にどのような具体的な森林管理策が採られていたかについては、さらなる史料の発見が待たれる。

また、義昌は「木曾衆」と呼ばれる家臣団および兵力を組織し、これを率いて各地の戦いに参陣している 10 。この木曾衆を維持し、有事に際して効果的に動員するためには、何らかの知行制度や軍役制度が存在したはずである。史料 40 には、武田氏配下時代における木曾衆の一部が美濃国恵那郡に所領(落合村480石余、中津川村1,334石余など、合計16,200石余)を有していたことが記されているが、これが義昌による直接的な知行宛行なのか、あるいは武田氏の支配体制下でのものなのか、詳細な分析が必要となる。

総じて、木曾谷における義昌の統治は、武田氏、次いで織田氏、豊臣氏といった上位権力の影響を強く受けながら行われたと考えられる。独自の検地や大規模な開発事業よりも、上位権力からの軍役動員の要請に応じること、国境地帯の防衛、そして木材資源の供給といった役割が中心であった可能性が高い。彼の統治の詳細は、中央集権化が進む過渡期における国衆の限定的ながらも重要な支配権の実態を反映していると言えるかもしれない。

B. 下総網戸における町づくりと新田開発

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の命により、木曾義昌は先祖伝来の地である信濃国木曾谷から下総国網戸(現在の千葉県旭市)へ1万石で移封された。故郷を遠く離れた新天地での統治は、義昌にとって大きな失意の中での再出発であったと想像される。しかし、彼はその短い統治期間においても、領主としての責任感を失わず、精力的に領内経営に取り組んだ様子が伝えられている。

義昌が網戸で統治にあたったのは、文禄4年(1595年)に亡くなるまでのわずか5年間ほどであった 11 。この短期間にも関わらず、彼は網戸城(または阿知戸城)を改修して居城とし、その周辺に城下町を建設した 11 。さらに、領内の生産力向上を目指して新田開発を推進し、交通網の整備のために街道の整備にも力を注いだとされる 11 。特に「桜木を愛し、植樹にも関心を持って木々を植えることに努力した」という伝承は 11 、彼が単に武力や政治力だけでなく、文化的な素養や自然を愛でる心を持ち合わせていたことを示唆している。

これらの施策の結果、義昌は領民から善政を敷いた領主として慕われ、「当地興隆の祖」とまで称されたという 33 。わずか5年という期間でこのような評価を得た背景には、集中的な投資と領民の生活向上に直結する具体的な成果があったからであろう。戦国武将としての側面だけでなく、近世における地方巧者(地域開発に長けた領主)の萌芽とも見ることができる彼の網戸での活動は、戦乱が収束に向かい、武力だけでなく統治能力や開発手腕が領主にとってより重要になる時代への過渡期的な姿を反映していると言えるかもしれない。

義昌が統治した網戸周辺には、当時「椿の海」と呼ばれる広大な内海(潟湖)が存在していた 11 。この椿の海は、江戸時代に入り元禄年間(1688年~1704年)に大規模な干拓事業が行われ、広大な新田へと姿を変えた 11 。義昌が行った新田開発が、この大規模干拓の直接的な先駆けとなったか、あるいはその初期段階に何らかの形で関与した可能性も考えられるが、現時点ではそれを裏付ける直接的な史料は確認されていない。しかし、彼が水辺の土地利用や生産基盤の整備に関心を持っていたことは、その後の地域の発展に少なからず影響を与えた可能性がある。

C. 軍事指揮官としての側面

木曾義昌は、その生涯を通じて数多くの合戦に参加しており、単なる地方領主としてだけでなく、経験豊富な実戦指揮官としての一面も持っていた。彼の軍事的なキャリアは、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉という当代一流の武将たちの下で形成され、磨かれていったと考えられる。

武田氏配下時代には、騎馬200騎持の侍大将として遇され 1 、これは当時の信濃国衆としてはかなりの規模の兵力を動員・指揮し得たことを示している。具体的には、信玄による駿河侵攻などに従軍し、武田軍の強大な軍事力を目の当たりにするとともに、主に美濃・飛騨方面の国境地帯における最前線部隊として活動し、実戦経験を積んだ 9

義昌の軍事的才覚が最も顕著に示されたのは、天正10年(1582年)の武田氏離反後に発生した鳥居峠の戦いである。この戦いで義昌は、数で優勢な武田勝頼軍を、地の利を活かした巧みな戦術で撃退し、武田氏滅亡の大きな要因の一つを作った 7 。自領の地理を熟知し、それを防衛戦術に最大限に活用する能力は、独立した領主としての彼の強みであった。

織田信長の配下に入った後は、本能寺の変後の混乱期(天正壬午の乱)において、一時的に深志城を追われるなど苦境に立たされる場面もあったが、最終的には徳川家康と結びつき、自領の保全に努めた。

豊臣政権下では、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに秀吉方として参陣し、信濃で徳川方の保科正直と交戦している 1 。さらに、天正18年(1590年)の小田原征伐においては、木曾衆を率いて秀吉軍の一員として参陣し、北条氏の攻略に貢献した 10

これらの戦歴を通じて、義昌は「木曾衆」と呼ばれる、木曾谷の武士たちからなる独自の軍団を組織し、これを効果的に指揮していたことがわかる 10 。しかしながら、木曾衆の兵力は、大大名の直属軍団と比較すれば限定的であり、彼の軍事行動は常に上位権力の戦略の一部として組み込まれる形を取らざるを得なかった。彼の軍事的成功や存在感は、個人の指揮能力に加え、その時々でどの勢力に与し、どのような役割を担うかという高度な戦略的判断と不可分であったと言える。これは、戦国時代における多くの国衆が果たした軍事的役割の典型例とも言えよう。

IV. 木曾義昌の人物像

A. 史料から読み解く性格、能力、及び戦略思想

木曾義昌の人物像を史料から読み解くと、まず第一に挙げられるのは、戦国乱世を生き抜くための現実主義的な生存戦略家としての一面である。彼の行動原理の根底には、「木曾(自領と一族)を守るため」という強い意識があったとされ 9 、そのためには主君を変えることも厭わない、ある種の冷徹さを持っていたことが窺える。史料 10 に見られる「時に従い、己を知れ。…時に「義」を捨て「利」を取る冷徹さも必要であった」という言葉は、彼自身のものか、あるいは彼を評したものかは定かでないが、その行動原理を的確に表していると言えよう。

武田氏からの離反という彼の生涯で最も大きな決断も、単なる背信行為としてではなく、美濃国境に位置し織田信長の勢力拡大の脅威に直接晒される中で、木曾氏が生き残りを図るためには信長に服属する以外に道はなかった、という極めて合理的な判断に基づくものであったとする見方が有力である 18 。その後の天正壬午の乱における北条氏や徳川氏への接近、小牧・長久手の戦いでの羽柴秀吉への加担といった一連の行動も、常に時勢を冷静に読み、その時点で最も有利と思われる勢力に付こうとする、したたかさの表れと解釈できる。

このような主君を次々と変えた行動から、同時代あるいは後世において、同じく信濃の武将である真田昌幸と並び称されるように「表裏比興の者(心の内と外で考えが異なり、油断ならない人物)」という評価も受けている 37 。これは、近世以降に確立された儒教的な忠君思想や、特定の主家への絶対的な忠誠を重んじる立場からの否定的な見方である可能性が高い。しかし、戦国乱世においては、主家の滅亡が自身の滅亡に直結する厳しい現実があり、生き残りのためには主君を変えることも、特に中小規模の国衆にとっては現実的な選択肢の一つであった。義昌の行動は、そのような時代のリアリズムを体現しており、単純に「裏切り者」として断罪するのは一面的に過ぎるであろう。

一方で、武勇や戦略眼だけでなく、為政者としての能力や文化的な素養も持ち合わせていた側面も伝えられている。下総網戸への移封後、わずか5年という短期間で城下町の整備や新田開発を進め、領民から慕われたという事実は 11 、彼が統治能力にも長けていたことを示している。また、桜木を愛したという伝承は 11 、彼が風雅を解する心を持っていた可能性を示唆し、「文武両道にすぐれ」た人物であったという評価につながっている 11

彼の戦略思想の核は、終始一貫して「木曾の保全」という一点にあったと考えられる。しかし、その理想を実現するためには、常に強大な外部勢力への依存が不可欠であり、結果として主君を次々と変えざるを得なかった。これは、強い地域アイデンティティを持ちながらも、それを単独で貫徹するための絶対的な力を持たない地方領主が抱えるジレンマを如実に示している。

B. 信仰と文化活動

木曾義昌の人物像を語る上で、彼の信仰心や文化的な側面にも触れる必要がある。史料は断片的ではあるものの、彼が地域の伝統的な信仰を重んじ、一定の教養を身につけていた可能性を示唆している。

最も特筆すべきは、木曾谷の霊峰である御嶽山(おんたけさん)に対する信仰である。木曾氏は代々、この御嶽信仰と深い関わりがあったと考えられており、義昌自身も永禄3年(1560年)、20歳の時に武運長久を祈願して100日間に及ぶ精進潔斎を行った後、従者と共に御嶽山に登拝したという記録が残っている 38 。御嶽信仰は古くからの山岳信仰であり、修験道とも密接に関連している 38 。義昌の登拝は、彼個人の敬虔な信仰心の発露であると同時に、木曾谷の領主として、地域の精神的支柱である御嶽山との結びつきを内外に示し、領民の求心力を高めるという政治的な意味合いも持っていた可能性がある。

また、仏教への帰依も篤かったことが伝えられている。移封先の下総網戸にある菩提寺・東漸寺の記録には、義昌が「頗る奉佛祟祖の念篤く」、すなわち仏を奉じ祖先を崇る念が非常に篤かったと記されており 33 、彼の信仰深い一面を裏付けている。

文化活動に関しては、義昌自身が和歌を詠んだり、茶の湯を嗜んだりしたという直接的な記録は、提示された史料の中には見当たらない。しかし、彼が「桜木を愛し」 11 、また「文武両道にすぐれ」 11 た人物であったと伝えられていることから、武芸一辺倒ではなく、一定の教養や風雅を解する感性を持っていた可能性は十分に考えられる。戦国武将の人物像は、軍記物などでは武勇や智謀に偏って描かれがちであるが、義昌に関するこれらの断片的な情報は、厳しい戦乱の世にあっても、心の安らぎや美意識を求める人間的な側面があったことを垣間見せる。

義昌の直接的な文化活動ではないが、彼の存在が後世の文化人に影響を与えた事例として、千葉県旭市の地名由来にまつわる話がある。義昌の死後250年忌にあたる弘化元年(1844年)、京都の国学者であり歌人でもあった野々口隆正(後の大国隆正)が、義昌の菩提寺である東漸寺を訪れ、「信濃より いづる旭をしたひ来て 東のくにに跡とどめけむ」という追悼の和歌を詠んだ。この和歌に詠まれた「旭」の字と、義昌の祖先とされる木曾義仲が「旭将軍」と称された故事にちなんで、明治22年(1889年)に周辺の村々が合併して新しい町が誕生した際に「旭町」(現在の旭市)と名付けられたという説がある 12 。これは、義昌の人となりやその波乱に満ちた生涯が、時代を超えて人々の記憶に残り、地域の文化形成にまで影響を及ぼしたことを示す興味深い事例である。

C. 関連する逸話と伝承

木曾義昌の生涯には、歴史的事実とは別に、彼の人物像を彩るいくつかの印象的な逸話や伝承が残されている。これらは、彼が後世の人々にどのように記憶され、語り継がれてきたかを示すものであり、その人間的な側面や運命の悲劇性を際立たせている。

最もよく知られているのは、妻・真理姫(真竜院)との関係にまつわる伝承であろう。義昌が武田氏から離反し織田氏に付いた際、武田信玄の娘であった真理姫は、夫の行動と実家の滅亡という板挟みの中で苦悩し、最終的に義昌と袂を分かち、三男の義一(義通)を連れて木曾の山中に隠遁生活を送ったと伝えられている 12 。この話は、政略結婚の犠牲となった戦国女性の悲哀と、困難な状況下での主体的な生き様の一端を示す逸話として、人々の同情と関心を呼んできた。

また、義昌の最期に関する伝承も特異である。彼は下総網戸で亡くなる際、自らの遺体を当時網戸の北西に広がっていた内海「椿の海」に水葬するよう遺言したとされ、その通りに葬られたと伝えられている 8 。一説には、かつての主君であり義父でもあった武田信玄が諏訪湖に水葬された故事に倣ったものとも言われる 11 。故郷木曾の山々から遠く離れた異郷の海を永遠の眠りの地として選んだというこの逸話は、彼の複雑な心境や波乱に満ちた生涯を象徴するかのようであり、後世の人々に強い印象を与えてきた。

さらに、前述の通り、現在の千葉県旭市の地名の由来が、木曾義昌の祖先とされる木曾義仲の異名「旭将軍」と、義昌の250年忌に詠まれた野々口隆正の和歌にある「旭」の字にちなむという説がある 12 。この伝承は、木曾義昌という一人の武将の存在が、時代や場所を超えて地域社会のアイデンティティ形成にまで影響を与えた可能性を示しており、歴史が単なる過去の記録ではなく、現代に生きる人々との関わりの中で常に再解釈され、新たな意味を付与され続けるダイナミックなものであることを物語っている。

これらの逸話や伝承は、史実そのものとは異なる脚色が含まれている可能性も否定できないが、木曾義昌という人物が持つドラマ性や人間的魅力を浮き彫りにし、彼に対する人々のイメージを豊かに形成してきたと言えるだろう。

V. 木曾義昌の歴史的評価

A. 同時代及び後世からの評価

木曾義昌に対する歴史的評価は、彼の複雑な生涯と、その行動が関わった各勢力に与えた影響の大きさから、一様ではない。むしろ、どの立場から彼を見るかによって、その評価は大きく分かれると言える。これは歴史上の人物評価における相対性を示す好例であり、彼の多面性を理解する上で重要な視点となる。

まず、最も厳しい評価は「裏切り者」というものである。特に、彼が長年従属し、信玄の娘婿という厚遇まで受けていた武田氏の視点から見れば、天正10年(1582年)の離反は紛れもない背信行為であり、結果として武田家滅亡の直接的な引き金の一つとなったと見なされる 4 。この評価は、武田氏の旧臣やその系譜を重んじる立場から、今日に至るまで根強く残っている。また、主君を武田氏から織田氏、そして豊臣氏(一時は徳川氏とも協調)へと次々に変えたことから、「表裏比興の者」という、信用ならない人物としての評価も存在する 37

一方で、義昌の行動を、戦国乱世という厳しい現実の中で、弱小領主が自領と一族の存続をかけて下した戦略的判断であったと評価する見方もある。彼が「木曾を守るため」という大義名分を掲げていた可能性も指摘されており 9 、強大な勢力に囲まれた中で、時勢を読み、より有利な側に付くことは、生き残りのための現実的な選択肢であったとするものである 10 。この視点に立てば、彼は単なる裏切り者ではなく、困難な状況下で最善の道を模索し続けた現実主義的な戦略家として捉えることができる。

さらに、彼が晩年を過ごした下総国網戸(現在の千葉県旭市)においては、全く異なる評価がなされている。移封後のわずか5年という短期間にも関わらず、城下町の整備や新田開発に尽力し、善政を敷いた領主として記憶されているのである 11 。地元では「当地興隆の祖」とまで称えられ、その菩提寺である東漸寺では現在も命日に供養が行われるなど 33 、地域に貢献した名君として敬愛されている。

このように、木曾義昌の評価は、彼が関わった主体(武田家、木曾家、織田家、網戸の領民など)がそれぞれ異なる利害関係や価値観を持っていたために、多岐にわたっている。また、時代ごとの倫理観や歴史観の変動によっても、彼の評価は影響を受けてきた可能性がある。例えば、近世的な忠君愛国の思想が支配的であった時代には「裏切り者」としての側面が強調されやすかったのに対し、現代のように多様な価値観が認められる時代においては、彼の置かれた複雑な状況や苦渋の選択に対して、より同情的な理解が示される傾向にあると言えるかもしれない。彼の生涯は、絶対的な「善悪」の二元論では割り切れない歴史の複雑性と、状況に応じた判断の重要性を我々に問いかけている。

表2:木曾義昌 主君変遷と背景

時期

主君(または協力関係にあった勢力)

臣従/離反/協力の理由・経緯

主な結果(義昌にとっての)

典拠資料ID

弘治元年頃~天正10年

武田信玄・勝頼

父・義康の代に信玄に降伏。信玄の娘・真理姫を娶り親族衆となる。勝頼の代に新府城築城負担等への不満、武田家の将来への不安から離反を決意。

当初の安定、後の武田家との決裂、家族の処刑。

1

天正10年2月~6月

織田信長

武田氏離反後、信長に内通し帰順。鳥居峠で武田軍を破る。

木曾谷安堵、筑摩・安曇二郡の加増、深志城主となる。一時的な勢力拡大。

7

天正10年6月~

(本能寺の変後)北条氏直

信長死後の混乱期。当初、深志城を失い、北条氏に従属の意向を示す。

旧武田領を巡る争奪戦(天正壬午の乱)の中で、一時的な保護を求める。

27

天正10年8月頃~

(本能寺の変後)徳川家康

織田信孝政権の承認のもと、徳川家康に与力。上杉景勝や北条氏直と対抗。

木曾谷の領地安堵の再確認。家康との協調関係構築。

27

天正12年~

羽柴(豊臣)秀吉

小牧・長久手の戦いで秀吉方に与する。家康と敵対。その後、秀吉の天下統一が進む中で正式に臣従。

豊臣政権下での国衆としての地位確保。

1

天正18年~文禄4年

豊臣秀吉(実質的には徳川家康の与力か)

小田原征伐後、下総国網戸へ移封。

先祖伝来の地・木曾谷を失う。1万石の領主として晩年を過ごす。

1

B. 木曾氏の存続と改易への影響

木曾義昌の生涯を通じた一連の戦略的判断は、常に自領木曾谷と木曾一族の存続を第一の目的としていたと考えられる。しかし、その結果は必ずしも彼の意図通りになったとは言えない。

武田氏からの離反と織田信長への帰順によって、義昌は一時的に所領を信濃国筑摩・安曇二郡にまで拡大し、木曾氏の勢力を高めることに成功した 23 。これは、彼の戦略が一応の成果を上げたことを示している。

しかし、その後の豊臣政権下で行われた天正18年(1590年)の下総国網戸への移封は、木曾氏にとって先祖代々受け継いできた本拠地である木曾谷を失うことを意味した 1 。これは、木曾氏のアイデンティティの根幹を揺るがす大きな出来事であり、義昌の存続戦略の限界を示すものであった。

さらに、義昌の死後、家督を継いだ嫡男の木曾義利は、慶長5年(1600年)、叔父である上松義豊を殺害したことなどが原因で、徳川家康によって改易処分とされた 3 。これにより、大名としての木曾氏はここに終焉を迎えることになった。義利はその後、伊予国松山(愛媛県)に流浪したと伝えられている 31

義昌の存続戦略は、皮肉なことに、彼が生き残りのために頼った織田、豊臣、徳川といった中央の強大な権力が、最終的に木曾氏の自立性を奪い、大名としての命脈を絶つ結果につながったと言える。これは、戦国時代末期から近世初期にかけて、多くの中小国衆が辿った運命の厳しさを象徴している。個人の戦略や才覚だけでは、時代の大きなうねりに抗うことが困難であったことを示唆している。

ただし、大名としての木曾宗家は途絶えたものの、木曾氏の血脈が完全に絶えたわけではない。義昌の三男・義春は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において豊臣方として参戦し戦死したと記録されている 21 。また、四男の義一(義通)は、母である真理姫と共に木曾谷で隠遁生活を送ったという伝承がある 21 。さらに、改易された義利の子・木曾義辰(よしとき)は、一時は伊予松山藩主松平家に仕えたが、後に故あって浪人となり、その子孫たちは、かつて木曾氏の一族であり尾張藩の重臣となっていた千村氏や山村氏を頼り、尾張藩などに召し抱えられたとされている 21

このように、木曾氏の血筋は、庶流や家臣筋を通じて形を変えながらも後世に伝えられた。これは、戦国時代から近世にかけての武家社会において、「家」の存続が単に大名としての地位を維持することだけを意味するのではなく、血統や家名を何らかの形で後世に伝えていくこともまた、一つの重要な存続のあり方であったことを示している。

C. 現代における木曾義昌像と関連研究

木曾義昌という戦国武将は、その劇的な生涯と複雑な評価から、現代においても歴史愛好家や研究者の関心を引きつけている。彼の人物像は、歴史小説などの創作物や、地域史における顕彰、そして学術的な研究を通じて、常に再構築され続けている。

歴史小説の世界では、例えば作家・伊東潤氏の短編集『戦国鬼譚 惨』に所収されている「木曾谷の証人」という作品で、木曾義昌が主要な登場人物として描かれている 44 。このような創作物では、史実を踏まえつつも、彼の内面の葛藤や、厳しい状況下での苦渋の決断に光を当て、人間ドラマとして彼の生涯を捉え直す試みがなされている。

また、木曾義昌が晩年を過ごし、その地で没した千葉県旭市(旧下総国網戸)では、彼は郷土の歴史に足跡を残した重要な人物として記憶され、顕彰されている。菩提寺である東漸寺や、水葬されたと伝わる椿の海跡に設けられた木曽義昌公史跡公園などは、地域住民によって大切に保存・管理されており、彼の遺徳を偲ぶ場となっている 11 。これは、歴史上の人物が特定の地域社会において独自の意味づけを与えられ、地域のアイデンティティや文化の一部として受け継がれていく好例と言える。

学術的な分野においても、木曾義昌および彼が属した木曾氏に関する研究は進展を見せている。平山優氏 26 、笹本正治氏 48 、柴辻俊六氏 52 といった戦国史を専門とする研究者たちによって、関連史料の丹念な分析が行われている。特に、同時代史料である『信長公記』 14 や、成立に議論があるものの武田氏研究の基本史料の一つである『甲陽軍鑑』 54 などの記述の再検討、そして各地に残る古文書 48 の発掘・解釈を通じて、より実証的で客観的な木曾義昌像の構築が試みられている。

これらの研究の深化には、木曾古文書館(岐阜県可児市。木曾氏庶流で尾張藩重臣であった千村家に伝わる文書を収蔵) 31 や、山梨県立博物館 55 、スペインのインディアス古文書館 57 (直接義昌関連ではないが、戦国期の外交文書の例として)など、国内外の資料保存機関による史料の収集、整理、公開が大きく貢献している。

現代における木曾義昌像は、決して固定されたものではなく、新たな史料の発見や多様な研究視点の導入、あるいは大衆文化における新たな解釈を通じて、常に問い直され、再構築され続ける対象であると言える。学術研究が客観的な歴史的事実を追求する一方で、歴史小説は人物の内面や人間ドラマに焦点を当て、地域史は郷土との具体的な繋がりを重視するなど、多様なアプローチが存在する。これらの活動は、歴史学が専門家だけの閉じた世界に留まるのではなく、広く社会と関わり、地域の文化振興や歴史教育、さらには現代を生きる我々の自己理解にも貢献し得る可能性を示している。

VI. 結論

木曾義昌の生涯と歴史的意義の総括

木曾義昌の生涯は、戦国時代から安土桃山時代という日本史上屈指の激動期を、信濃国木曾谷の国衆として、そして武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下の覇者たちの配下として、まさに縦横無尽に駆け抜けた一人の武将の軌跡であった。彼の名は、特に武田氏からの離反という劇的な行動によって記憶されることが多いが、その背景には、常に自領「木曾」と木曾一族の存続をかけた、切実かつ現実的な選択があった。

源平の英雄・木曾義仲の末裔という名誉ある出自を持ちながらも、彼の置かれた状況は決して安泰ではなかった。強大な隣国・武田氏の圧力下で家督を継ぎ、婚姻を通じてその親族衆となりながらも、主家の代替わりと共に生じた軋轢と、時代の大きな変化の中で、彼は大きな決断を迫られる。武田氏滅亡の一翼を担った後、織田信長の下で一時的な勢力拡大を見るも、本能寺の変後の混乱期(天正壬午の乱)では再び存亡の危機に立たされ、巧みな外交と状況判断でこれを乗り切ろうとした。最終的には豊臣秀吉の天下統一事業に組み込まれ、小田原征伐後に先祖伝来の地である木曾谷を離れ、下総国網戸へと移封される。この故郷喪失は、彼にとって大きな痛手であったろうが、それでも新領地において短期間ながら善政を敷いたという伝承は、彼が最後まで領主としての矜持と責任感を失わなかったことを示唆している。

木曾義昌の生涯は、戦国乱世における中小規模の国衆(国人領主)が、巨大勢力の狭間でいかにして自らのアイデンティティを保ちつつ、生き残りを図ろうとしたかという、当時の武士社会の典型的な姿を色濃く反映している。彼の選択は、時に「裏切り」と非難され、時に「戦略」と評価されるが、そのいずれもが、彼が生きた時代の過酷な現実と、彼が背負った領主としての重責から切り離して考えることはできない。

多面的な評価の必要性

木曾義昌に対する評価は、どの立場から、どの時代の価値観で彼を見るかによって大きく異なる。武田氏の視点から見れば許し難い裏切り者であり、木曾氏の存続という観点から見れば苦渋の決断を下した当主であり、移封先の領民から見れば慈悲深い為政者であった。彼を単に「裏切り者」として断罪したり、あるいは単純に「悲劇の英雄」として美化したりするのではなく、彼が生きた時代の複雑な状況、彼が置かれた特有の立場、そして彼が下した一つ一つの決断が持つ多義性を理解しようと努めることが、歴史上の人物を公正に評価する上で不可欠である。

現代への示唆

木曾義昌の生涯は、現代社会を生きる我々に対しても、多くの示唆を与えてくれる。それは、組織や個人が、予測不可能な変化が続く厳しい環境の中で、いかにして自らの存立基盤を確保し、アイデンティティを保ちながらも変革に対応していくかという、時代を超えた普遍的な課題である。彼の成功と失敗、栄光と悲劇は、戦略的意思決定の重要性、倫理観と現実主義の相克、そして何よりも困難な状況下における人間の強さと脆さについて、深く考えさせられる材料を提供してくれる。木曾義昌という一人の武将の生き様は、過去の出来事としてだけでなく、現代を生きる我々が自らの進むべき道を見出す上での、一つの歴史的教訓として受け継がれていくべきであろう。

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  45. Amazon.co.jp: 戦国鬼譚 惨 (講談社文庫 い 124-3) : 伊東 潤 https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E9%AC%BC%E8%AD%9A-%E6%83%A8-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%BC%8A%E6%9D%B1-%E6%BD%A4/dp/4062773945
  46. 『戦国鬼譚 惨』|感想・レビュー・試し読み - 読書メーター https://bookmeter.com/books/18877019
  47. 【木曽義昌公の供養塔】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_12215af2170020316/
  48. 木曽義昌とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E7%BE%A9%E6%98%8C
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  50. 武田家家臣惣人数(永禄12年~元亀4年頃) https://shiryobeya.com/sengoku/takedakashin.html
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  53. 『信長公記』にみる信長像⑥ 本能寺編|Sakura - note https://note.com/sakura_c_blossom/n/na7d93f6b90c1
  54. 山梨県韮崎市 - 史跡 新府城跡 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/9/9155/7091_1_%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E6%96%B0%E5%BA%9C%E5%9F%8E%E8%B7%A1.pdf
  55. 展示案内 鑑賞・学習型展示 かいじあむ おすすめの展示資料: 山梨県立博物館 http://www.museum.pref.yamanashi.jp/3nd_tenjiannai_03kansyo_02osusume18.html
  56. 国文学研究資料館特別コレクション・山鹿文庫蔵『武教全書』 - 一橋大学 https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/74333/shomotsu0002901610.pdf
  57. 両国の交流に関する文書を求めて|外務省 - Ministry of Foreign Affairs of Japan https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/page5_000241.html