戦国時代の日向国(現在の宮崎県)は、伊東氏と島津氏という二大勢力がその覇権を巡り、長年にわたり熾烈な抗争を繰り広げた地である。この激動の歴史の中に、一人の忠臣の名が刻まれている。その名は木脇祐守(きわき すけもり)。彼の生涯は、伊東氏が「伊東四十八城」と称される広大な版図を築き上げた栄光の時代と、木崎原の戦いを境に没落していく悲劇の時代の、その双方を色濃く映し出している 1 。
一般に木脇祐守は、「伊東家臣。鬼ヶ城主。島津軍を奇襲で破るなど活躍し、執事となる。主家の豊後退去に従えず、櫛間に隠れるが島津軍に発見され、弟とともに自害させられた」と要約されることが多い 2 。しかし、この断片的な情報だけでは、彼の人物像の全貌を捉えることはできない。本報告書は、この概要を出発点としつつ、現存する史料を丹念に読み解き、より立体的で深みのある人物像を構築することを目的とする。
特に、伊東一門としての彼の出自、対島津氏の最前線である鬼ヶ城主として過ごした二十年間の真の功績、そして伊東家随一の忠臣とされながら、なぜ主君の最も困難な局面であった「豊後落ち」に同行しなかったのかという、彼の生涯における最大の謎に迫る。その探求は、『日向記』や『三国名勝図会』といった近世の編纂史料をはじめ、各種系図、古文書、そして近年の城郭調査報告書などを横断的に分析することによって行われる 3 。これらの史料を統合し、木脇祐守という一人の武将の実像を徹底的に解明することで、日向伊東氏の興亡史に新たな光を当てることを目指すものである。
木脇祐守の生涯と決断を理解するためには、まず彼が属した木脇氏の出自と、伊東一族内におけるその位置づけを正確に把握する必要がある。木脇氏は伊東宗家の庶流であり、その歴史は伊東氏の日向国への進出と深く結びついている。
木脇氏の祖は、鎌倉時代にまで遡る。伊豆国を本貫とする工藤氏の一族であり、日向伊東氏の祖でもある伊東祐時の八男・祐頼が、日向国諸県郡木脇(現在の宮崎県東諸県郡国富町木脇)を領し、その地名から木脇氏を称したことに始まる 6 。これにより、木脇氏は伊東氏の庶流として日向国に根を下ろした。
南北朝時代には、祐頼の孫にあたる木脇祐広が、都於郡城(現在の宮崎県西都市)に入った伊東本家の伊東祐持と対立するなど、在地領主としての自立性を強める動きも見せた 6 。しかし、最終的にはその所領は伊東宗家に継承され、木脇氏は伊東氏の勢力基盤を構成する一族として組み込まれていった 2 。
その後、木脇氏の嫡流は一度断絶したとみられるが、伊東氏が日向国でその勢力を最大に広げた伊東祐堯(1410-1485)の時代に、伊東宗家から養子が入り家名を再興した 2 。本報告の主題である木脇祐守は、この再興された木脇氏の直系の子孫であり、伊東宗家との強い血縁的・主従的関係のもとに生まれた武将であった。
木脇祐守の生涯を考察する上で、極めて重要かつ複雑な要素となるのが、敵対する島津氏の家臣団にも「木脇氏」が存在したという事実である。薩摩国には、島津氏に仕え、後に藩の要職を歴任する木脇氏がいた 12 。この薩摩木脇氏は、永正9年(1512年)頃、日向伊東氏の当主・伊東尹祐の娘が薩摩の島津忠昌に嫁いだ際、その供として薩摩国へ赴いた木脇氏の一族が、そのまま島津氏の被官となったことに端を発する 2 。
この歴史的経緯は、伊東氏と島津氏の間に繰り広げられた約180年にも及ぶ抗争に、深い人間的悲劇の側面を加えていたことを示唆している。すなわち、元をたどれば同じ伊東一門の血を引く者たちが、主家の違いによって敵味方に分かれ、日向の戦場で戈を交えるという状況が生まれていたのである。伊東家の将として最前線で戦い続けた木脇祐守が、戦場で同じ「木脇」の名を持つ島津方の武将と対峙した可能性は極めて高い。これは、封建社会における忠誠が、血族の絆さえも断ち切るという戦国時代の過酷な現実を物語っている。本報告では、この二つの木脇氏を明確に区別し、あくまで伊東家臣としての木脇祐守の生涯を追うものであるが、この背景は彼の置かれた状況を理解する上で看過できない。
木脇祐守の名が歴史の表舞台に明確に現れるのは、彼が鬼ヶ城の城主に任命されてからである。この城で過ごした約二十年間は、彼の武将としての評価を決定づける重要な期間であり、伊東氏の南方戦略における彼の役割の重大さを物語っている。
天文20年(1551年)、木脇祐守は26歳の若さで鬼ヶ城の城主に抜擢された 2 。鬼ヶ城(現在の宮崎県日南市大字東弁分字城ヶ平に所在)は、島津豊州家が支配する飫肥城を眼前に望む、文字通り対島津氏の最前線拠点であった 2 。
この城の戦略的価値は極めて高かったが、同時にその維持は至難の業であった。伊東氏の本拠地である都於郡城や佐土原城といった内陸の拠点から、鬼ヶ城へ至る経路は日南海岸沿いの細長い一本道に限られていた 2 。これは、兵站線が極度に伸びきっており、わずかな反撃で容易に寸断され、城が孤立する危険性を常に孕んでいたことを意味する。このような地勢的に脆弱な拠点を守ることは、単なる城の防衛任務を超えた、高度な戦略眼と忍耐力が要求されるものであった。
祐守がこの困難な任務を約二十年間にわたって全うしたという事実は、彼の非凡な能力を証明している。それは単なる武勇だけでなく、兵站の維持、孤立した状況下での兵の士気管理、そして絶え間ない敵の動向への警戒といった、総合的な指揮官としての卓越した手腕を示すものであった。彼は事実上、主家から半ば独立した方面軍司令官として、危険な突出部を維持し続けたのである。この長きにわたる粘り強い防衛こそが、後に伊東氏が宿願であった飫肥城を攻略するための絶対的な土台となった。それは受動的な籠城ではなく、二十年にも及ぶ積極的な圧力と消耗戦の継続であったと評価できる。
祐守が鬼ヶ城主であった期間、日向南部では伊東・島津両軍による小競り合いが絶えなかった。特に永禄年間に入ると、伊東軍は鬼ヶ城を橋頭堡として、飫肥城やその支城である酒谷城への攻撃を繰り返している 17 。例えば、永禄7年(1564年)には伊東軍が鬼ヶ城に大挙して布陣し、酒谷城を攻めるなど、祐守の城は常に軍事行動の中心にあった 17 。
このような緊張状態の中で、永禄11年(1569年)に第九次飫肥役で飫肥城が陥落するまでの約二十年間、一度も鬼ヶ城を失うことなく守り抜いた祐守の功績は計り知れない。その功を称え、主君・伊東義祐が自らの手記で祐守の「忠節」を賞賛したと記録されている 2 。ここで言う「忠節」とは、抽象的な忠誠心のみを指すのではない。孤立無援になりかねない最前線で、主家の戦略目標達成のために長年にわたり具体的な成果を上げ続けた、彼の軍事的・政治的な功績そのものに対する最高の評価であったと解釈すべきである。
木脇祐守の武将としてのキャリアは、永禄11年(1568年)に始まった伊東氏の総力を挙げた飫肥城攻略戦、「第九次飫肥役」において頂点を迎える。この戦いでの彼の活躍は、伊東家における彼の地位を不動のものとし、一介の城主から家中最高の重臣へと押し上げる決定的な要因となった。
永禄11年1月、伊東義祐は宿願であった飫肥城の完全攻略を目指し、総勢2万1千と号する大軍を動員した 17 。これは伊東氏の歴史においても最大規模の軍事行動であり、その成否は一族の命運を左右するものであった。この決戦において、木脇祐守は伊東家中で最も重要な役割を担うことになる。
伊東軍の布陣において、祐守は重臣の落合兼置と共に、全軍の半数以上にあたる1万1千の兵を率いて小越の南に陣を構えた 19 。この兵力は他のどの部隊をも圧倒しており、彼が伊東義祐から絶大な信頼を寄せられていた最高位の指揮官の一人であったことを明確に示している。以下の表は、この時の伊東軍の編成をまとめたものである。
部隊 |
指揮官 |
兵数 |
布陣地 |
典拠 |
総大将 |
伊東祐基 |
- |
篠ヶ嶺 |
19 |
新山方面隊 |
伊東祐梁 |
3,800 |
新山 |
19 |
小越方面隊 |
木脇祐守 , 落合兼置 |
11,000 |
小越の南 |
19 |
乱橛ヵ尾方面隊 |
長倉祐並, 川崎主税助 |
3,200 |
乱橛ヵ尾 |
19 |
遊軍 |
- |
2,600 |
太腹鳶嶺等 |
19 |
本陣守備 |
- |
400 |
篠ヶ嶺 |
19 |
総計 |
伊東義祐 |
約21,000 |
- |
17 |
この布陣が完了して約1ヶ月後の2月21日、飫肥城救援のために進軍してきた島津軍との間で「小越の戦い」が勃発した。この戦いで、木脇祐守の部隊は伊東軍の主力として島津軍と激突。祐守は巧みな用兵で敵勢を自軍の有利な地点へ引きつけ、その隊列を分断・混乱させることに成功した。これにより伊東軍は戦局の主導権を握り、島津軍に壊滅的な打撃を与えて大勝を収めた。この勝利は第九次飫肥役の帰趨を決するものであり、祐守の武功は際立っていた。
長年の宿願であった飫肥城の攻略後、伊東義祐は論功行賞を行った。城主には義祐の次男で嫡子の伊東祐兵が入り、南日向の支配拠点とされた。そして、この攻略戦における最大の功労者の一人である木脇祐守は、飫肥城内の松尾丸に二十町の知行を与えられると共に、新城主・祐兵の「執事」に任命された 17 。
「執事」とは、単なる家臣ではなく、主家の家政全般を統括する家宰(かさい)に相当する最高位の役職である 20 。さらに、祐守は祐兵の「家老」も務めたと記録されており、これは軍事・政務の両面における最高幹部であったことを意味する 2 。一介の城主から、伊東家の次代を担う祐兵を直接補佐する最高位の重臣へと昇進したことは、彼の二十年にわたる鬼ヶ城での忠節と、第九次飫肥役での卓越した武功が最大限に評価された結果に他ならない。
木脇祐守が執事・家老として伊東家の中枢を担うようになった矢先、一族の運命は暗転する。木崎原での大敗をきっかけに、伊東氏の栄光は急速に色褪せ、ついには故郷・日向を追われるという最大の危機に直面する。この時、忠臣中の忠臣と目された祐守は、主家と運命を共にしないという、不可解とも思える決断を下した。
元亀3年(1572年)5月、伊東義祐は島津義弘が守る加久藤城を攻めるも、木崎原において寡兵の島津軍にまさかの大敗を喫した。この「木崎原の戦い」は、伊東氏の命運を決定的に変える歴史的な転換点となった 2 。この一戦で、伊東祐安、伊東祐信といった多くの重臣を失った伊東家は、家臣団の動揺を抑えきれなくなり、離反者が続出。かつて日向国に威光を放った「伊東四十八城」の支配体制は、内側から急速に崩壊していった。この一連の家臣団の離反と領地の喪失は「伊東崩れ」として知られている 23 。
島津氏の攻勢は日増しに激しくなり、天正5年(1577年)12月、ついに伊東義祐・祐兵親子は本拠地である佐土原城を放棄。わずか150名ほどの供回りを連れ、姻戚関係にあった豊後国(現在の大分県)の大友宗麟を頼って落ち延びるという、苦渋の決断を下した 2 。この「豊後落ち」は、伊東氏にとって最大の屈辱であり、その道中は極めて過酷なものであったと伝えられる。
数々の史料は、この絶望的な「豊後落ち」に、家老であるはずの木脇祐守が同行しなかったことを一致して伝えている 2 。主君・伊東義祐からその忠節を絶賛され、次代の祐兵を託された最高幹部が、なぜ主家の最大の苦難に付き従わなかったのか。その理由を直接記した史料は存在しない。しかし、彼のこれまでの経歴と、その後の行動から、その決断の背景を推察することは可能である。
彼の決断は、決して主家を見限った裏切りや、困難から逃れるための個人的な保身ではなかったと考えられる。むしろそれは、彼なりの忠義の形であり、高度に戦略的な判断に基づくものであった可能性が高い。祐守にとって、飫肥を中心とする日向南部は、彼が二十年もの歳月をかけて守り、そして勝ち取った土地であった。彼の権力基盤、人脈、そして武将としての誇りの全てが、その地に根ざしていた。全てを捨てて豊後へ逃れることは、彼自身の生涯を否定することに等しかったであろう。
彼は豊後へ向かう北の道ではなく、南の櫛間へと向かった 2 。この行動は、彼が日向国内に留まり、伊東家再興のための抵抗拠点を維持しようとしたことを示唆している。主君一行が安全な場所へ退避する一方で、自身は敵地となった故国に潜伏し、残存する伊東方勢力を結集し、反撃の機会を窺う。それは、主家が再び日向へ帰還するための布石を打つという、極めて危険で困難な役割を自ら引き受けたことを意味する。彼の決断は、主君を見捨てる行為ではなく、異なる戦場で戦い続けるという、もう一つの忠節の形であったと評価できる。それは、成功すれば伊東家再興の英雄となり、失敗すれば死を意味する、まさに乾坤一擲の賭けであった。
主家一行と袂を分かち、日向の地に留まることを選んだ木脇祐守の行く末は、過酷なものであった。彼の最後の数年間は、伊東家再興の望みを繋ぐための潜伏生活と、その夢が潰えた非業の死によって締めくくられる。
伊東義祐・祐兵親子が豊後へと去った後、祐守は弟の八郎左衛門と共に、日向南部の櫛間(現在の宮崎県串間市)に潜伏した 2 。史料には、彼らが身を寄せた場所が「道場」であったと記されている 2 。
この「道場」が具体的にどのような施設であったかは定かではないが、単なる武芸の稽古場とは考えにくい。当時の九州、特に日向国は、山岳信仰と仏教が融合した修験道の拠点が多く存在した地域であった 27 。修験道の寺院や行者の集落は、世俗の権力からある程度の独立性を保ち、独自のネットワークを有していた。祐守のような重要指名手配犯が、3年もの長きにわたり潜伏を続けられたという事実は 2 、この「道場」が単なる建物ではなく、彼に同情的な在地勢力によって守られた一種の聖域(サンクチュアリ)として機能していたことを強く示唆している。それは、祐守が日向南部に築き上げた人脈と影響力の深さ、そして伊東氏の支配が終わった後もなお根強く残っていた旧臣たちの忠誠心の表れであったと言えよう。
また、潜伏地として櫛間を選んだことにも戦略的な意図が窺える。櫛間は、伊東氏、島津氏、そして在地領主の肝付氏が領有を巡って激しく争った地政学的な要衝であった 30 。この地に潜むことは、島津氏の支配に対する不満を持つ在地勢力との連携や、将来の反攻に向けた情報収集を意図したものであった可能性が高い。
祐守の潜伏生活は、天正8年(1580年)に終わりを告げる。密告者の情報によって、祐守と弟の八郎左衛門の潜伏先が島津方の知るところとなり、ついに捕縛されてしまう 2 。
『日向記』などの記録によれば、彼らは島津氏の手によって辱めを受けることを潔しとせず、同年3月22日(西暦1580年4月6日)、兄弟そろって自害して果てた 2 。木脇祐守、享年54。伊東家再興の夢は、ここに潰えた。
祐守自身の辞世の句は伝わっていない。しかし、奇しくも同じ木脇の名を持ち、島津家臣として戦った木脇祐昌が遺した辞世の句「打人も 打るる人も 戯の 浮世の夢は 今ぞ覚ける」(討つ者も討たれる者も、しょせんは戯れのようなものだ。この浮世の夢も、今こそ覚める時が来た)は、敵味方に分かれて散っていった武将たちの無常観を象徴しており、祐守の最期に重なるものがある 34 。
木脇祐守と弟・八郎左衛門の墓所の正確な所在地は、現在のところ史料で確認することはできない。彼らが自害した串間市、あるいは木脇氏の本拠地であった国富町周辺に、彼らを弔う供養碑や伝承が残されている可能性は否定できないが、特定には至っていないのが現状である 35 。彼らの存在は、公式の歴史記録の狭間に埋もれ、地域の記憶の中に微かにその痕跡をとどめるのみとなっている。
木脇祐守の生涯を総括すると、それは戦国という激動の時代において、一人の武将が忠義と戦略的判断の間で下した苦渋の決断と、その悲劇的な結末の物語であったと言える。彼は、主家の栄光と没落の双方を身をもって体験し、その運命に殉じた武将であった。
祐守の歴史的評価は、単なる一城の主にとどまるものではない。第一に、彼は対島津戦略の要として、二十年近くにわたり孤立した最前線を守り抜いた類稀なる指揮官であった。この地道かつ困難な任務の完遂が、伊東氏の南方における版図拡大に決定的な貢献をしたことは疑いようがない。第二に、第九次飫肥役においては、伊東軍の最大兵力を率いて主力部隊を打ち破り、合戦を勝利に導いた名将であった。そして第三に、伊東祐兵の執事・家老として、次代の伊東家を担うことを期待された最高位の重臣であった。
彼の生涯における最大の謎、すなわち「豊後落ち」に同行しなかった決断は、近年の研究視点からは、主家への裏切りや忠誠心の欠如としてではなく、むしろ彼なりの最後の忠節の形であったと再評価することができる。全てを失い、遠い他国へ流浪する主家一行とは別に、彼はあえて敵地となった故国に残り、伊東家再興の一縷の望みを繋ごうとした。それは、潜伏という名の、絶望的な状況下での抵抗戦であった。彼の試みは密告によって潰え、非業の最期を遂げることとなったが、その選択は、故郷の土に生き、故郷の土に殉じた在地武将としての矜持を示すものであった。
木脇祐守の存在なくして、日向伊東氏と島津氏の飫肥を巡る攻防史を深く理解することはできない。彼は歴史の勝者ではなかったかもしれないが、その忠勇と悲劇的な生涯は、日向の戦国史に確かな足跡を遺した、記憶されるべき武将である。