木造具康(木造俊茂の子)に関する調査報告
序論
本報告書は、日本の戦国時代に活動した武将であり公家でもあった木造具康(こづくり ともやす)について、現存する史料に基づき、その出自、生涯、事績、そして特に注目される父・木造俊茂による殺害説や縁戚関係を詳細に検討し、その実像に迫ることを目的とする。木造具康は、伊勢国司北畠氏の一族、木造俊茂の子として歴史に名を残している 1 。
本報告書を作成するにあたり、特に留意すべきは、木造具康としばしば混同される木造長政(木造具政の子)とは明確に別人格として扱う点である。この混同は一部の系図史料に見られる記述や、両者を取り巻く人物関係の複雑さに起因すると考えられるが 1 、本報告書では両者の活動時期、親子関係、事績等の相違点を明確に示し、木造具康(俊茂の子)個人の軌跡を丹念に追うこととする。
木造具康に関する史料は、必ずしも豊富とは言えない。しかし、断片的な記述や関連史料を総合的に分析することで、彼の生きた時代背景や木造氏の置かれた立場、そして彼自身の人生の一端を浮かび上がらせることが可能である。本報告書は、史料に基づいた客観的な記述を旨とし、推測が含まれる場合はその根拠を明示しつつ、木造具康という人物の多角的な理解を目指すものである。
第一章:木造具康の出自と木造氏
第一節:木造氏の系譜と北畠氏との関係
木造具康の理解には、彼が属した木造氏の歴史的背景と、伊勢国における名門・北畠氏との関係性を把握することが不可欠である。木造氏は、村上源氏中院流を汲む北畠家の庶流にあたる氏族である 2 。その本拠は伊勢国一志郡木造庄にあり、木造城を拠点として「木造御所(こづくりごしょ)」と称された。また、京都においては油小路に邸宅を構えていたことから、「油小路殿(あぶらのこうじどの)」とも呼ばれた記録が残る 2 。
木造氏の起源は南北朝時代に遡る。南朝に仕えて伊勢国司として勢力を築いた北畠顕能の三男・顕俊が木造庄に居住したことが始まりとされる 2 。顕俊の子・俊通が早世したため、一時は北畠顕泰の養子となっていた顕俊の別の子・俊泰(後に俊康と改名)が木造家に戻り、木造御所の家号を継承した 2 。
室町時代を通じて、木造氏は北畠宗家の庶家という立場にありながらも、室町幕府や朝廷から宗家とほぼ同格の待遇を受けることもあった 2 。これは、木造氏が単なる地方武士団の一分家ではなく、中央政界においても一定の認知と格式を有していたことを示唆する。しかし、その関係は常に平穏無事だったわけではなく、例えば応仁の乱(1467年~1477年)の際には、木造氏が北畠宗家と武力衝突に至ったことも記録されている 2 。戦国時代に入ると、木造氏は北畠宗家と協調し、中勢地方の有力国人であった長野工藤氏との間で繰り広げられた抗争に加わっている 2 。
木造氏が「木造御所」という称号を用いた事実は、彼らが北畠一門の中でも特別な地位を占めていたことを物語る。通常「御所」号は皇族や将軍家、あるいはそれに準ずる極めて高い家格の者に許されるものであり、北畠氏自体が公家大名としての性格を色濃く持つ中で、その庶流である木造氏がこの称号を許されたことは、幕府や朝廷から一定の権威を認められていた証左と言えよう。このような家格の高さは、後の木造俊茂や具康が公家として高い官位に昇る素地となったと考えられる。
一方で、宗家との同格待遇や対立の歴史は、木造氏が持つ一定の自立性を示している。戦国時代においては、有力な庶家が宗家の統制から離れて独自の勢力を形成しようとしたり、逆に宗家が庶家の力を削ごうとしたりする動きが各地で見られた。木造氏と北畠宗家の関係も、このような時代の力学の中で揺れ動いたのであり、この複雑な関係性が、後に詳述する木造具康の悲劇や、その後の木造家の家督相続問題に影響を与えた可能性は否定できない。
第二節:父・木造俊茂について
木造具康の父である木造俊茂(こづくり とししげ)は、木造家六代当主・木造政宗の子として明応4年(1495年)に生を受けた 6 。彼は室町時代後期から戦国時代初期にかけて活動した武将であり、同時に公卿としての側面も持つ重要な人物であった。
俊茂の官歴は、明応9年(1500年)に従五位下に叙爵されたことに始まる。永正2年(1505年)には侍従に任ぜられ、その後、左近衛少将、左近衛中将といった武官系の官職を歴任した。そして大永6年(1526年)、参議兼左近衛中将として公卿の仲間入りを果たし、享禄3年(1530年)には従三位にまで昇進している 6 。従三位という位階は、当時の伊勢国の国人領主としては破格の待遇であり、北畠一門における木造家の地位の高さ、そして俊茂自身の政治的手腕を物語るものである。彼が中央政界(朝廷や室町幕府)と深いつながりを有していたことは、木造家の運営や外交において大きな影響力を持ったと考えられる。
俊茂の具体的な事績としては、まず享禄元年(1528年)から3年の歳月をかけて居城である木造城を大規模に改修したことが挙げられる 6 。この改修は、一説には北畠顕俊がかつて木造村字稲垣に築いた旧木造城の地が防御に適さないとして、同村字城の新たな地に城を移転・拡張したとも伝えられる 6 。戦国時代の動乱期にあって、居城の強化は防衛力の向上のみならず、領主の権威を示す象徴的な意味合いも持っていた。俊茂による木造城改修は、木造氏が自立的な勢力として、周辺の諸勢力との緊張関係の中で生き残りを図ろうとしていたことの現れと解釈できよう。
その後、天文2年(1533年)に俊茂は出家したと記録されている 6 。出家の理由は定かではないが、この時期の武家当主の出家は、家督を子に譲る準備や、政治的な意図が隠されている場合も少なくない。そして、この出家後の時期に、実子である具康を殺害したという衝撃的な伝承が残されているのである(詳細は第三章にて後述)。
第三節:木造具康の生母、兄弟姉妹に関する考察
木造具康の直接の家族関係については、史料が乏しく不明な点が多い。
まず、具康の生母に関しては、多くの史料において「不詳」と記されており 1 、現時点ではその出自や名前を特定する有力な手がかりは見当たらない。
兄弟姉妹についても情報は限られている。木造具康自身のWikipediaの項目( 1 )では、兄弟として「具康」とのみ記されているが、これは具康本人を指している可能性が高く、他に明確な実兄弟がいたかどうかは不明である。一方、父・木造俊茂のWikipediaの項目( 6 )では、俊茂の子として「具康、滝川雄親?」、そして養子として「具政(北畠晴具の三男)」の名が挙げられている。
ここで特に注目されるのが、「滝川雄親?」と疑問符付きで記されている人物、すなわち後の滝川雄利(かつとし/ゆうり、初名は源浄院主玄(げんじょういん しゅげん))との関係である。滝川雄利の出自については諸説が紛然としており、木造氏の系図研究における大きな課題の一つとなっている。主な説としては、
具康の兄弟姉妹に関する情報の少なさ、とりわけ滝川雄利のような人物の出自に関する記述の混乱は、戦国期の武家の系譜を辿る上での史料的制約と解釈の難しさを如実に示している。
第二章:木造具康の生涯と事績
第一節:生年と没年
木造具康の正確な生年は、現存する史料からは「不詳」とされている 1 。父である木造俊茂が明応4年(1495年)生まれであることから 6 、具康の生誕はそれ以降であることは確実であるが、具体的な年を推定するまでには至っていない。
没年についても同様に「不詳」とされるが 1 、多くの史料が「父・木造俊茂により殺害された」と伝えている点は極めて重要である 1 。この殺害が事実であれば、その時期が具康の没年となる。具康の確実な官歴として最後に記録されているのは、天文6年(1537年)に従四位下・左近衛中将に叙任された記事である 1 。このため、彼の没年は天文6年以降と考えられる。また、父・俊茂は天文2年(1533年)に出家しており 6 、史料には俊茂が出家後に具康を殺害したと示唆するものもあることから 6 、殺害は天文2年以降となる。さらに、後に木造家の家督を継ぐことになる養子・木造具政(北畠晴具の子)が、天文13年(1544年)に従五位下侍従として初めて官位を得ている記録がある 12 。具康が殺害され、その後を具政が継いだと仮定するならば、具康の死と具政の家督継承は、天文6年(1537年)から天文13年(1544年)の間に起こったと推定するのが妥当であろう。
なお、「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」には木造具康の項目が存在するが( 27 )、その記述内容は活動時期を「織豊-江戸時代前期」とし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける動向に言及している。これは明らかに木造長政(木造具政の子)の事績であり、本報告書の対象である木造俊茂の子・具康とは別人である。このような混同は、両者を区別して理解する上で特に注意を要する点であり、後ほど第五章で詳述する。
第二節:官歴
木造具康は、武将としての側面と同時に、公家としての官歴も有していた。その昇進の過程は、『諸家伝』などの史料によって比較的詳細に辿ることができる 1 。
以下に、具康の官歴をまとめる。
表1:木造具康 官歴
年月日 |
官職・位階 |
典拠 |
永正11年(1514年)2月23日 |
従五位下(叙爵) |
『諸家伝』 |
永正13年(1516年)9月10日 |
侍従 |
『諸家伝』 |
大永2年(1522年)8月11日 |
従五位上 |
『諸家伝』 |
大永4年(1524年)4月 |
正五位下 |
『諸家伝』 |
時期不詳 |
左近衛少将 |
『諸家伝』 |
天文6年(1537年)8月9日 |
従四位下、左近衛中将 |
『諸家伝』 |
この官歴を見ると、具康は永正11年(1514年)に20代前半(推定)で従五位下に叙爵されて以降、約23年の間に従四位下・左近衛中将へと昇進しており、比較的順調な官途を歩んだことがうかがえる。この昇進の背景には、本人の資質に加え、父・木造俊茂が従三位・参議という公卿の高位にあったこと 6 、そして木造家自体が有していた家格の高さが大きく影響したと考えられる。木造家が武家であると同時に、朝廷にも出仕する公家としての性格を強く保持していたことが、このような昇進を可能にしたのであろう。
特に、最終官職である左近衛中将は、宮中の警護などを担う近衛府の武官であり、武家の出身者が任じられることも多い役職である。これは、伊勢国の武家領主でありながら京都の朝廷にも通じるという、具康の立場を象徴する官職と言える。
第三節:主君・北畠晴具との関係
史料によれば、木造具康の主君は伊勢国司であった北畠晴具(きたばたけ はるとも)とされている 1 。北畠晴具は、伊勢国司北畠家の第七代当主であり、具康の活動した時期における宗家の当主である。
具康と北畠宗家との関係を考える上で重要なのは、姻戚関係である。具康の妻は、北畠晴具の父にあたる北畠材親(きたばたけ きちか、具方とも)の娘であった 1 。つまり、具康は主君・晴具の義兄弟(姉妹の夫)という立場にあったことになり、これは木造家と北畠宗家との間に密接な血縁関係が存在したことを示している。このような婚姻関係は、戦国時代において同盟関係を強化し、一族の結束を固めるための常套手段であった。
さらに、具康は北畠晴具の三男である木造具政を養子として迎えている 1 。この養子縁組も両家の関係の深さを示すものだが、後述するように、これは具康が父・俊茂によって殺害された後に、木造家の家督を継承させるための措置であった可能性が高い。
ただし、具康が形式上は北畠晴具を主君としていたとしても、その関係性の実態については考察の余地がある。具康の活動期間中、父である木造俊茂は存命であり、木造家の当主として、あるいは隠居後も依然として強い影響力を保持していたと考えられる。そのため、具康の北畠晴具に対する奉公は、多分に父・俊茂の政治的意向や戦略に沿ったものであった可能性も考慮すべきであろう。妻が晴具の姉妹であるという事実は、むしろ俊茂の代から続く北畠宗家との強固な結びつきを示すものと解釈することもできる。
第四節:具体的な活動の記録
木造具康の具体的な活動を伝える史料は限られているが、いくつかの重要な手がかりが存在する。
その一つが、奈良県立図書情報館に所蔵されている『沢氏古文書』の中に含まれる書状である。この古文書群には、木造具康が正月五日付で、沢兵部大輔(さわ ひょうぶのたいふ)と秋山新介(あきやま しんすけ)という人物に宛てて発給した書状が一点、確認されている 15 。この書状(史料番号226)の具体的な内容の翻刻は現時点では不明であるが、正月という時期から推測すると、年賀の挨拶や何らかの儀礼的な連絡、あるいは年始における政治的・軍事的な協議や指示を含んでいた可能性が考えられる。
宛先である沢氏と秋山氏は、大和国宇陀郡を本拠とした国人であり、伊勢国司北畠氏とは古くから関連の深い一族であった 11 。例えば、応永21年(1414年)に北畠満雅(北畠宗家)が室町幕府に対して挙兵した際には、大和宇陀郡の沢氏や秋山氏がこれに味方したという記録がある 11 。木造具康がこれらの大和国人に書状を送っているという事実は、木造氏が北畠宗家の外交・軍事活動の一翼を担っていた可能性、あるいは木造氏自身が伊勢国外の勢力と独自の連絡ルートを保持していた可能性を示唆する。この書状が具康の活動年代である永正年間(1504年~1521年)から天文年間初期(1532年~)の間に発給されたものとすれば、当時の伊勢と大和の間の政治情勢や、木造氏の対外的な影響力を考察する上で貴重な史料となる。もし具康自身の筆跡や花押が確認できれば、彼の実在と活動を裏付ける一級史料としての価値はさらに高まる。
また、木造氏全体の活動として、木造政宗、俊茂、そして具康の時代に、戸木城(ときじょう)や川北城(かわぎたじょう)といった城郭を築城し、北畠宗家と共に長野工藤氏と抗争したという記述が『木造氏伝』などに見られる 2 。これが具康の具体的な軍事活動の一端を示していると考えられる。戸木城や川北城の築城は、木造氏の勢力範囲の維持・拡大や、領国の防衛体制の強化を目的としたものであろう。そして、長野工藤氏との抗争は、当時の伊勢国内における主要な地域紛争であり、北畠氏とその一門である木造氏にとって避けては通れない課題であった。具康がこれらの軍事活動にどの程度、どのように関与したのかは詳らかではないが、彼が単なる公家ではなく、武将としても活動していたことを裏付けるものと言える。
第三章:父・木造俊茂による殺害説の検討
木造具康の生涯を語る上で避けて通れないのが、実の父である木造俊茂によって殺害されたという衝撃的な伝承である。この説は複数の史料に見られ、具康の最期を巡る謎として、また戦国時代の武家の非情さを示す事例として注目される。
第一節:各史料に見る記述
木造具康が父・俊茂に殺害されたとする記述は、以下のような史料で確認できる。
これらの記述は、表現に多少の濃淡はあるものの、具康が父・俊茂によって命を奪われたという点では概ね一致しており、この伝承が単なる憶測ではなく、ある程度広範囲に認識されていた可能性を示唆している。
第二節:殺害の時期、背景、動機に関する考察
具康殺害の具体的な時期については、第二章第一節で考察した通り、具康の最後の官歴である天文6年(1537年)以降、そして養子である木造具政が木造家の家督を継いで活動を本格化させる天文13年(1544年)以前の範囲に絞り込まれる可能性が高い。父・俊茂が天文2年(1533年)に出家していることから 6 、殺害は俊茂の出家後であったとも考えられる。
殺害の背景や動機について、史料は多くを語らない。しかし、前述の 16 の記述、「俊茂は実子の具康を殺害して、宗家の具政を養子にとっています。そしてその具政が滅亡の一因となった勢州動乱を引き起こしたのはご存知のとおり。」という一節は、具康殺害と、北畠宗家(当時の当主は北畠晴具)の子である具政の養子縁組を直接的に結びつけており、これが最も具体的な背景と動機を示唆する手がかりと言える。
この記述を踏まえて考えられる動機としては、主に以下の点が挙げられる。
実の子を殺害してまで他家から養子を迎えるという俊茂の行為は、戦国時代の過酷な現実と、個人の情愛よりも家門の存続と繁栄を最優先する武家の冷徹な論理を色濃く反映していると言える。俊茂のこの非情とも映る決断の背後には、木造家が当時置かれていたであろう複雑な政治的状況や、宗家との関係における微妙な力学、そして将来への深い洞察(あるいは誤算)があったと推測される。具政を養子に迎えることで、木造家は北畠宗家との結びつきを一層強固なものとし、一門内での発言力を増す、あるいは宗家からの潜在的な圧力を回避するといった戦略的な意図があった可能性も考慮すべきであろう。
16 が示唆するように、この養子・具政が後に織田信長の伊勢侵攻に際して信長に内通し、北畠宗家滅亡の一翼を担うことになる「勢州動乱」の一因となったとすれば 2 、俊茂による具康殺害と具政養子縁組という一連の決断は、長期的に見て木造家、ひいては北畠家全体の運命に皮肉な影響を及ぼしたことになる。もし具康が生きていれば、伊勢の戦国史が異なる様相を呈していたかもしれないという歴史の可能性を考えさせる事件である。
第四章:木造具康の子女と養子
木造具康の家族関係、特に彼の子女と養子については、史料によって情報が錯綜する部分もあり、慎重な検討が必要となる。
第一節:実子・木造具次について
木造具康には、実子として木造具次(こづくり ともつぐ)という名の男子がいたことが史料で確認されている 1 。一部の資料では、具次の生没年を天文2年(1533年)~慶長10年(1605年)としているものもあるが 17 、その典拠は必ずしも明確ではない。
父である具康が祖父・俊茂によって殺害され、家督も従兄弟にあたる木造具政(北畠晴具の子)に奪われた後、この具次がどのような生涯を送ったのかについては、提示された資料からは判然としない。父を非業の死で失い、自らは家督を継ぐことができなかった具次が、その後も木造家や北畠一門の中でどのような立場に置かれたのかは、非常に重要な問題である。戦国時代の常として、後難を恐れて彼もまた命を狙われたり、あるいは権力の中枢から完全に排除されて不遇な生活を強いられたりした可能性も考えられる。 17 に示された没年(1605年)が正しければ、彼は比較的長命であり、何らかの形でその時代を生き抜いたことになるが、その具体的な足跡については今後の研究課題と言えよう。木造氏の末裔に関する言及はいくつか見られるものの 18 、具次との直接的な系譜関係は不明である。
第二節:養子・木造具政(北畠晴具の三男)について
木造具康の養子として最も名が知られているのは、伊勢国司・北畠晴具の三男である木造具政(こづくり ともまさ)である。具康が具政を養子としたことは、複数の史料で確認することができる 1 。
具政は享禄3年(1530年)の生まれであり 12 、天文13年(1544年)には従五位下・侍従に任官している記録がある 12 。
この養子縁組の経緯については、いくつかの説が存在する。前章で詳述したように、最も有力視されるのは、具康の父・木造俊茂が実子・具康を殺害した後、俊茂自身の強い意向によって、北畠宗家との関係強化と木造家の後継者確保のために、晴具の子である具政を木造家の養子として迎えたというものである 16 。この場合、具康が名目上の養父となった可能性はあるが、実質的な決定権は俊茂にあったと考えられる。
一方で、史料によっては具政の養父を具康ではなく、俊茂自身とする説も見られる。例えば、『系図纂要』では、具政を俊茂の養子とし、具康の養弟(義理の弟)にあたるとしている 2 。また、『寛政重修諸家譜』では、具康の養子として記載されている 2 。
これらの諸説を以下の表に整理する。
表2:木造具政の養父に関する諸説
説(具政の養父) |
主な典拠史料 |
具康との関係 |
木造具康 |
『寛政重修諸家譜』 2 、他多数史料 1 |
養子 |
木造俊茂 |
『系図纂要』 2 |
養弟 |
いずれの説を採るにしても、北畠宗家の当主の子である具政を木造家の後継者として迎えたという事実は、木造家と北畠宗家との関係を一層緊密なものにするという政治的な意図があったことは間違いないであろう。これは、当時の伊勢国内の複雑な政治情勢や、木造家が抱えていたであろう何らかの課題(例えば、具康以外に有力な後継者がいなかった、あるいは宗家との関係を改善する必要に迫られていたなど)に対応するための戦略的な判断であった可能性が高い。宗家からの養子受け入れは、庶家が宗家との一体感を強め、その庇護や支援を得やすくする一方で、宗家からの影響力や干渉が増大するという側面も持ち合わせていた。
第三節:滝川雄利(源城院主玄)の出自について
木造具康の子女に関連して、もう一人、その出自が複雑に語られる重要人物がいる。それが、後に織田信長や豊臣秀吉に仕え、常陸国片野藩主にまでなった滝川雄利(たきがわ かつとし/ゆうり)、初名を源浄院主玄(げんじょういん しゅげん)である。彼の出自については、史料によって記述が大きく異なり、木造氏の系図研究における難解な点の一つとなっている。
主な説を以下に列挙し、表に整理する。
表3:滝川雄利(源城院主玄)の出自に関する諸説
主張される父 |
主張される母 |
主な典拠史料 |
木造具康 |
不詳 |
『寛永諸家系図伝』滝川氏系図 2 、amigo2.ne.jp/~fuchisai/home/ichimon.htm 7 |
木造俊茂 |
不詳 |
『系図纂要』 2 、Wikipedia 木造俊茂の項 6 |
柘植三郎兵衛 |
木造具康の娘 |
『寛永諸家系図伝』木造氏系図 2 |
柘植三郎兵衛 |
木造俊茂の娘 |
星合氏系図 2 |
木造具政(北畠晴具三男、木造具康養子) |
木造俊茂の娘 |
滝川家提出家譜(『寛政重修諸家譜』編纂時) 2 、weblio.jp 木造具政の項(戦国武将辞典) 14 |
このように滝川雄利の出自に関する記述が錯綜している背景には、各家(木造家、滝川家、星合家など)がそれぞれの立場から系図を作成・伝承してきた結果、情報に食い違いが生じた可能性や、後世の編纂過程で自家の権威を高めるため、あるいは特定の家系との繋がりを強調するために記述が調整された可能性などが考えられる。
もし、 7 の記述にあるように滝川雄利(源城院主玄)が木造具康の子であり、「父の失脚後、木造家菩提寺源城院に入る」という経緯が事実であるとすれば、「父の失脚」とは具康が父・俊茂によって殺害された事件を指す可能性が極めて高い。父が非業の死を遂げた後に幼くして出家し、後に還俗して武将として身を立てるという彼の生涯は、まさに戦国乱世の厳しさと複雑さを象徴していると言えるだろう。
第五章:「木造長政」との明確な区別
本報告書において、木造具康(俊茂の子)を考察する上で最も重要な前提の一つが、木造長政(具政の子)と明確に区別することである。両者はしばしば混同されてきた歴史があり、その背景と、両者が別人である論拠を以下に詳述する。
第一節:混同される背景と各史料における記述の差異
木造具康と木造長政が混同される背景には、いくつかの要因が考えられる。
第一に、一部の系図史料、特に『木造氏系図』において、具康と長政が同一人物として扱われている点が挙げられる 1 。このような記述が、後世の研究や編纂物に影響を与え、混同を助長した可能性がある。
第二に、官位、特に「中将」の称号を持つ人物が木造家に複数存在したことも、混乱の一因となったかもしれない。木造具康は最終的に左近衛中将に任じられているが 1 、木造長政の父である木造具政(具康の養子)もまた、従四位下・左近衛中将の官位を有していた 12 。長政自身の最終官位は明確ではないものの、父や祖父(養祖父)と名前や官職の響きが似ていることが、識別の困難さを生んだ可能性は否定できない。
第三に、実際に現代のデータベースにおいても混同が見られる例が存在する。例えば、第二章第一節でも触れた「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の木造具康の項目( 27 )では、明らかに木造長政の事績である関ヶ原の戦いに関する記述が掲載されている。これは、辞書の編纂過程で参照された史料に、前述の『木造氏系図』のような混同した情報源が含まれていた可能性を示唆している。
一方で、多くの信頼性の高い史料、特に江戸幕府によって編纂された『寛政重修諸家譜』などは、木造具康と木造長政を明確に別人として扱っている 2 。このことは、当時から両者の区別は認識されていたものの、一部の系図では異なる伝承が採用されていたことを示している。
第二節:別人である論拠の提示
木造具康と木造長政が別人であることは、両者の父、活動した時代、仕えた主君、そして具体的な事績を比較検討することによって明白となる。以下にその比較を表形式で示す。
表4:木造具康と木造長政の比較
比較項目 |
木造具康(こづくり ともやす) |
木造長政(こづくり ながまさ) |
父 |
木造俊茂 1 |
木造具政(北畠晴具の子、具康の養子) 3 |
母 |
不詳 1 |
不詳(木造具政の妻) |
活動時代 |
室町時代後期(16世紀前半) |
戦国時代~江戸時代前期(16世紀後半~17世紀初頭) |
生年 |
不詳 1 |
不詳 3 |
没年 |
不詳(天文6年(1537年)以降、天文13年(1544年)以前に父・俊茂により殺害されたと伝わる) 1 |
慶長9年(1604年) 3 |
主な主君 |
北畠晴具 1 |
織田信雄、織田秀信、福島正則 3 |
最終官位(推定含む) |
従四位下・左近衛中将 1 |
史料により異なるが、父・具政(左近衛中将)や祖父・具康(左近衛中将)と混同されることがある。長政自身の明確な最終官位は特定が難しいが、父や祖父の官位が誤って長政のものとされる場合がある。 7 では具梁(長政か?)を従五位下左少将としている。 |
主な事績 |
公家としての昇進、戸木城・川北城の築城、長野工藤氏との抗争 1 、沢氏・秋山氏への書状発給 15 |
伊勢長島攻め(天正2年)、松ヶ島城攻め(天正12年)、小牧・長久手の戦い(織田信雄家臣として)、関ヶ原の戦い(米野の戦い、岐阜城籠城戦、織田秀信家臣として) 3 |
養子 |
木造具政(北畠晴具の三男) 1 |
記録なし |
子 |
木造具次 1 、滝川雄利(諸説あり) |
木造長雄(右京) 3 |
この表から明らかなように、木造具康と木造長政は、まず親子関係において明確に異なる。具康の父は俊茂、長政の父は具康の養子である具政である。活動した時代も、具康が16世紀前半であるのに対し、長政は16世紀後半から17世紀初頭であり、約半世紀のずれがある。没年についても、具康は父に殺害されたとされ、その時期は天文年間(1532年~1555年)と推定されるのに対し、長政は慶長9年(1604年)に没しており、全く異なる。
仕えた主君や具体的な事績も、両者では大きく異なっている。具康は北畠晴具に仕え、公家としての昇進や伊勢国内での活動が主であるのに対し、長政は織田信雄、秀信、そして福島正則といった戦国大名に仕え、伊勢長島攻めや関ヶ原の戦いといった著名な合戦に参加している。
これらの相違点は、木造具康と木造長政が別人であることを疑いなく示している。では、なぜ『木造氏系図』のような史料が両者を同一人物として扱ったのか。その理由を正確に特定することは困難であるが、いくつかの可能性が考えられる。一つは、後世における系図編纂の過程で情報が混線し、誤りが生じた可能性である。また、あるいは特定の意図、例えば木造長政の家系をより古い時代の具康に繋げることで、家の権威を高めようとした可能性も皆無ではない。木造氏の系図自体が複雑で諸説が存在すること 2 を考慮すると、編纂時の誤りや何らかの作為が働いた結果、このような混同が生じたとも推測される。しかし、他の多くの史料や、活動時期・事績における客観的なずれを考慮すれば、同一人物説を支持することは極めて困難である。
結論
本報告書では、日本の戦国時代に活動した木造具康(木造俊茂の子)について、現存する史料に基づいてその実像に迫ることを試みた。
木造具康は、伊勢国の名門である北畠氏の庶流・木造氏に、木造家六代当主・俊茂の子として生を受けた。彼は村上源氏の流れを汲む木造家の嫡子として、公家としての道を歩み、永正11年(1514年)に従五位下に叙爵されて以降、昇進を重ね、天文6年(1537年)には従四位下・左近衛中将という高位に至った。これは、父・俊茂が従三位・参議という公卿であったことや、木造家が「木造御所」と称されるほどの格式を有していたことと無縁ではない。武将としては、父祖と共に戸木城や川北城の築城に関わり、北畠宗家と共に長野工藤氏との抗争にも加わったとされ、また大和国の国人である沢氏や秋山氏に書状を発給するなど、伊勢国内外での活動の痕跡がうかがえる。
しかし、その生涯は悲劇的な結末を迎えたとされる。多くの史料が、具康は実の父である俊茂によって殺害されたと伝えている。その正確な時期や動機は不明な点が多いものの、俊茂が具康を排除し、北畠宗家当主・北畠晴具の三男である具政を養子として木造家の家督を継がせたという説が有力である。この背景には、木造家と北畠宗家との関係強化や、木造家内部の後継者問題など、戦国時代特有の複雑な事情があったと推測される。具康の死は、戦国初期の伊勢における木造家の動向、特に宗家北畠氏との緊張と協調の入り混じった関係性、そして家門存続のための非情な決断を象徴する出来事と言えよう。
本報告書で一貫して強調してきた点は、この木造具康(俊茂の子)と、しばしば混同される木造長政(具政の子)とが、活動時期、親子関係、そして具体的な事績において明確に異なる別人格であるということである。史料的根拠に基づけば、この区別は疑いのないものであり、今後の木造氏研究においてもこの点を踏まえることが肝要である。
木造具康に関する研究は、史料の制約から未だ多くの謎を残している。特に、父・俊茂による殺害の具体的な経緯や動機、実子である木造具次のその後の消息、そして『沢氏古文書』中に残る具康の書状の全文解読と詳細な分析は、今後の研究によって解明が期待される課題である。また、木造氏に関連する各種系図の編纂意図や史料としての信頼性をより深く批判的に検討することも、木造具康を含む一族の実像を明らかにする上で不可欠であろう。
参考文献