末次興善は博多出身のキリシタン商人。長崎に移住し「興善町」を建設。息子政直は長崎代官となり朱印船貿易で栄華を極めたが、密貿易事件で一族は没落した。
末次興善(すえつぐ こうぜん)は、戦国時代の終焉から江戸時代初期にかけての日本の大変革期を生きた、特異な存在である。彼の名は、単に成功した一商人の物語として語られるにとどまらない。その生涯は、国際貿易、キリスト教という新たな信仰、そして中央集権化を進める国家権力という、三つの巨大な力が激しく交錯する舞台で演じられた、一族の壮大なドラマの序章であった。
博多の商人としてキャリアをスタートさせ、熱心なキリシタンとして洗礼名「コスメ」を授かり、やがて新興の国際港・長崎へと拠点を移してその礎を築く。興善が築いた富と人脈は、息子・政直(まさなお、初代平蔵)の代で長崎代官という公的な権力と結びつき、末次家を栄華の頂点へと押し上げた。しかし、その栄華は永続せず、一族はわずか三代、約60年で密貿易事件により断絶と闕所(財産没収)という悲劇的な終焉を迎える。
本報告書は、末次興善という人物の生涯を徹底的に調査し、その出自、信仰、事業、そして彼が遺したものを多角的に分析する。末次一族の栄枯盛衰の物語は、近世初期という時代において、商人の才覚や信仰といった「個」の力が、いかにして幕府による統制という「公」の力に飲み込まれていくかの縮図であり、この時代のダイナミズムと厳しさを理解するための貴重な事例といえるだろう。
末次興善の行動原理と野心を理解するためには、彼が生まれ育った国際貿易都市・博多の社会構造と、末次家そのものの出自を深く掘り下げる必要がある。
中世後期の博多は、日明貿易や日朝貿易の拠点として繁栄し、大名権力から一定の自立性を保った商人たちの自治組織によって運営されていた 1 。戦国時代には、神屋宗湛(かみや そうたん)や島井宗室(しまい そうしつ)に代表される「博多三傑」と呼ばれる豪商たちが登場する 3 。彼らは単なる商人ではなく、茶人として文化的な影響力を持ち、大友氏や豊臣秀吉、黒田氏といった時の権力者と直接結びつくことで、政治的にも経済的にも大きな力を行使していた 1 。このような環境は、商人が自らの才覚と戦略で大きな富と名声を得ることが可能な、実力主義的な社会であったことを示している。
興善の家系は、こうした伝統的な博多商人とは一線を画す背景を持っていた。彼の父は、周防(現在の山口県)を本拠とした戦国大名・大内氏に仕える武士であったが、主家の滅亡によってその地位を失い、商人へと転身した、いわゆる「武士崩れ」であったとされる 6 。この出自は、末次家に二つの重要な特性を刻印したと考えられる。一つは、旧来の商家の枠にとらわれない、大胆で野心的な気風。もう一つは、失われた武士としての地位を取り戻そうとするかのような、権力への強い志向である。
さらに、末次家のルーツを遡ると、平安時代末期、鎮西八郎為朝の監視役として九州へ派遣された藤原秀郷の子孫に連なるという伝承が存在する 7 。その一族である季次(すえつぐ)が「末次」を名乗ったのが始まりとされるが、この伝承の歴史的信憑性はともかく、自らの家系を権威ある武家と結びつけようとする意識が、末次家の中に存在したことを示唆している。
これらの背景を総合すると、興善の長崎移住という重大な決断の背後にある深層的な動機が浮かび上がってくる。当時の博多は、神屋氏や島井氏といった巨大な既得権益層がすでに確立されており、新興の「武士崩れ」商人にすぎない末次家が、その中で頂点に立つことは極めて困難であっただろう 1 。一方、開港間もない長崎は、特定の権力構造が固まっていないフロンティアであった。そこでは、キリシタンという新しい価値観を共有する者たちが、旧来の身分やしがらみを超えて新たなコミュニティを形成しつつあった。したがって、興善の長崎移住は、単に信仰上の理由や新たな貿易機会の追求に留まるものではなく、博多の旧弊な権力構造から脱却し、新天地で創業者利益を得て一気にトップへ躍り出ようとする、極めて戦略的な「事業移転」であったと解釈できる。この野心的な行動は、彼の「武士崩れ」としてのアイデンティティと深く響き合っている。
末次興善の人物像を語る上で欠かせないのが、商人としての顔の裏にある、熱心なキリシタン「コスメ」としての側面である。彼の信仰は、単なる内面的な精神活動に留まらず、事業や社会活動と不可分に結びついていた。
興善は、フランシスコ・ザビエルの来訪(1549年)とほぼ時を同じくしてキリスト教に触れ、洗礼を受けて「コスメ」という洗礼名を授かったとされる 6 。彼の信仰は非常に篤く、単なる名目上の信者ではなかった。日本側のイエズス会の会計や雑務を引き受け、ルイス・デ・アルメイダのような宣教師の布教活動に同行するなど、教会の活動を物心両面から支えるパトロンとしての役割を担っていた 6 。1561年には、戦乱で焼失した博多の教会を私財で再建したとも記録されており、その貢献の大きさが窺える 8 。
イエズス会士ルイス・フロイスが著した『日本史』には、興善の篤信ぶりを示す逸話が記されている。それによれば、70歳を超えてなお、神父たちを迎えるためだけに、わざわざ本拠地の博多から秋月(現在の福岡県朝倉市)まで旅をしたという 9 。これは、彼の信仰が商売上のポーズや駆け引きではなく、人生の根幹をなす真摯なものであったことを示す強力な証拠である。
一方で、当時の長崎において、信仰と実利は密接に結びついていた。ポルトガルとの南蛮貿易を円滑に進めるためには、キリシタンになることが最も有効な手段であった 6 。貿易の相手であるポルトガル商人は、布教と通商を一体のものとして捉えており、日本の商人にとってキリシタンになることは、彼らとの信頼関係を築き、有利な取引を行うための「第一歩」であった。したがって、長崎に集まった商人の中には、興善のように教えに深く帰依した者だけでなく、純粋に商業的な目的で入信する者も少なくなかったと考えられる。興善自身も、その信仰心によってポルトガル商人との間に強固なネットワークを築き、貿易で莫大な富を得ることができたのは事実であろう。
この時代の興善とその息子・政直の生き方を比較すると、時代の大きな転換点が鮮明に浮かび上がる。父・興善が生きた16世紀後半は、キリスト教が南蛮貿易という実利と結びつき、ある種の「先進文化」として受容され得る余地があった。彼は迫害のリスクを負いながらも、信仰を貫き通した 8 。対照的に、息子・政直が権力を握った17世紀初頭は、徳川幕府が全国支配を確立し、キリスト教を国家の安定を脅かす危険思想と見なして禁教政策を本格化させていく時代であった。洗礼名「ジョアン」を持つキリシタンであった政直が、権力を得るためにあっさりと棄教し、長崎代官としてかつての同胞を弾圧する側に回ったのは 10 、この時代の価値観が「神」から「幕府(公儀)」へと大きく転換したことを象徴する行動に他ならない。政直は、父が築いた「信仰と富」という二つの遺産のうち、「信仰」を切り捨てるという冷徹な判断を下すことで、「富」とそれに付随する「権力」を最大化しようとしたのである。この父子の対照的な生き様は、近世初期日本の精神史的、そして政治的な断層を映し出す鏡といえる。
博多での活動に見切りをつけた興善は、その視線を新たな貿易港・長崎へと向けた。彼の移住は、単なる一個人の転居ではなく、長崎という都市の形成そのものに深く関与する、歴史的な事業であった。
元亀2年(1571年)、興善は息子・政直らを伴い、開港間もない長崎へと移住する 10 。このタイミングは、彼の先見の明と行動力を如実に示している。彼は新天地でただ商売を始めるだけでなく、私財を投じて一から町を切り開き、都市インフラの整備に貢献した。その功績を称え、彼が開発した区画は「興善町(こうぜんまち)」と名付けられた 6 。人名が町名になるのは当時としては珍しく、彼が長崎の創設期における最有力者の一人であったことを物語っている。この行動は、単なる居住地の確保や不動産投資ではなく、自らとその一族が未来にわたって影響力を行使するための、社会資本への戦略的投資であった。
この時代の商人による「まちづくり」は、興善の事例だけではない。例えば、堺では会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる豪商たちが主導して町を囲む環濠を整備し、自治都市としての防御力を高めた 14 。また、平戸では領主の松浦氏と商人が一体となって港町を形成した 16 。これらの事例と比較すると、長崎の都市形成の特異性が際立つ。博多や堺が商人たちの「自治」を基盤としていたのに対し、長崎はイエズス会と結びついたキリシタン大名・大村氏、そして興善のような外部からやってきた有力商人たちの主導によって開発が進められた。興善の「興善町」建設は、商人が単なる経済活動の主体に留まらず、都市空間の創造者、ひいては新たな社会秩序の形成者として機能し得た、戦国末期のダイナミズムを体現している。
興善が礎を築いた興善町は、その後も長崎の歴史において重要な役割を果たしていく。江戸時代には儒学者・向井元升(むかい げんしょう)の屋敷が置かれ、その息子で松尾芭蕉の高弟である向井去来(きょらい)がこの地で誕生した 18 。また、長崎聖堂・孔子廟も創建されるなど 19 、長崎における文教地区の一つとして発展した。
しかし、一族の繁栄の礎を築いた興善自身の最期は、多くの謎に包まれている。彼の墓は、長崎ではなく、故郷である博多の妙楽寺に、神屋宗湛ら博多の豪商たちと共に現存している 6 。長崎で絶大な影響力を持ちながら、なぜ終焉の地が博多であったのか。一族の未来を長崎に託しながらも、自らの魂の拠り所は故郷・博多にあったのか、あるいは息子・政直の棄教と権力志向の路線に対立し、晩年は博多へ戻っていたのか、その真相は定かではない。この事実は、彼の人生の複雑さと、一族の未来に対する彼の思いについて、深い問いを投げかけている。
父・興善が築いた基盤を受け継いだ息子・政直(初代平蔵)の時代、末次家は貿易商人の枠を超え、長崎の支配者として権勢の頂点へと駆け上がることになる。その飛躍の原動力は、朱印船貿易による莫大な富と、長崎代官という公的な権力の掌握であった。
政直は、徳川幕府から海外渡航許可証である朱印状を得て、大規模な国際貿易を展開した 21 。その船は「末次船」と呼ばれ、安南(ベトナム)、シャム(タイ)、台湾など東南アジア各地へ派遣された 10 。この朱印船貿易を通じて、政直は巨万の富を築き上げた。
表1:末次家の朱印船貿易の概要
項目 |
詳細 |
典拠 |
経営基盤 |
徳川幕府発行の朱印状 |
21 |
主要航路 |
安南(ベトナム)、シャム(タイ)、台湾、ルソン(フィリピン)など |
10 |
主要輸出品 |
銀、銅、硫黄、刀剣、漆器などの工芸品 |
23 |
主要輸入品 |
生糸、絹織物、綿織物、鹿皮、鮫皮、砂糖、香料、薬品 |
23 |
この表が示すように、末次家の事業は、日本の銀を輸出し、中国産の生糸などを輸入するという、当時の最も利益率の高い貿易構造を中核としていた。彼らは単なる国内商人ではなく、東南アジアの交易ネットワークに深く組み込まれた国際的なプレイヤーであったことがわかる。
政直の野心は、経済的な成功だけに留まらなかった。彼は長崎の統治権力そのものを目指す。その標的となったのが、当時の長崎代官・村山等安(むらやま とうあん)であった。興味深いことに、等安はかつて興善の庇護を受けていた人物とされる 26 。しかし、世代が代わり、政直は等安を自身の権力拡大の障害と見なした。
元和4年(1618年)、政直は等安を幕府に告発する。その罪状は、キリシタン信仰を続けていること、大坂の陣で豊臣方に内通したという嫌疑、そして代官としての不正行為など、多岐にわたった 12 。この訴えは幕府に認められ、翌元和5年(1619年)、等安は処刑され失脚する 10 。そして、政直はその地位を継承し、長崎代官に就任したのである。
この権力掌握のプロセスは、同時代の他の豪商と比較すると、その特異性が際立つ。京都の角倉了以は、河川開発といった大規模な土木事業への貢献を通じて幕府との関係を築いた 28 。同じく京都の茶屋四郎次郎は、徳川家康が三河の小大名であった時代からの御用商人として、諜報活動や兵站支援といった「忠勤」によって特権的な地位を得た 30 。これに対し、政直の手法は、政敵を宗教的・政治的な罪状で告発し、社会的に抹殺してその地位を奪うという、より直接的で権謀術数に長けたものであった。これは、長崎という、幕府直轄領(天領)でありながら多様な勢力がせめぎ合う特殊な統治空間が生んだ、特有の権力闘争の形態であったといえるだろう。
代官就任後、政直は自らのキリシタン信仰を捨て、長崎奉行と協力して、かつての同胞であるキリシタンを厳しく弾圧する側に回った 10 。これは、幕府の禁教政策に積極的に協力することで、自らの権力基盤を盤石なものにしようとする、極めて計算された政治的行動であった。
長崎代官の地位を手にした末次政直は、その権勢を背景に、一商人の枠を大きく超えた活動を展開する。その頂点を示すのが、国家間の外交問題にまで発展した「タイオワン事件(ノイツ事件)」であり、その影には彼の謎に満ちた最期が待っていた。
17世紀初頭、オランダ東インド会社は台湾南部にゼーランディア城を築き、アジア貿易の拠点としていた。寛永3年(1626年)頃、オランダは台湾に寄港する外国船に対し10%の関税を課す政策を打ち出す 32 。これに対し、政直配下の朱印船船長・浜田弥兵衛(はまだ やひょうえ)らは、古くからの交易権を主張して支払いを拒否した。
対立が激化する中、寛永5年(1628年)、浜田弥兵衛は部下を率いて台湾のオランダ商館に乗り込み、台湾長官であったピーテル・ノイツを人質に取るという大胆な実力行使に出た 33 。この事件は、一介の代官とその配下の行動が、オランダとの外交問題に発展した瞬間であった。結果として日蘭間の公式な貿易は一時中断に追い込まれ、幕府の対外政策にも大きな影響を与えた 33 。政直は、一地方の代官でありながら、幕府の外交を左右するほどの影響力を行使したのである。これは彼の権勢が絶頂に達していたことを示している。
しかし、その栄華は長くは続かなかった。タイオワン事件からわずか2年後の寛永7年(1630年)、政直は江戸で突如捕縛され、牢獄の中で幕臣によって斬殺されるという非業の死を遂げる 10 。
その死の理由は公式には明らかにされていないが、有力な説として、幕府の重臣たちが禁じられていた海外貿易に、政直を通じて秘密裏に関与していたことが挙げられる 10 。この説によれば、何らかの理由で政直がその事実を暴露し始めたため、口封じのために殺害されたというのである。
この説を裏付ける有力な傍証が、オランダ商館員の記録に残されている。その記録には、政直が晩年に精神に異常をきたし、「自らの罪を懺悔し、幕閣の高官たちこそが悪事の原因である」と告発し始めたため、幕府は彼を発狂したことにして幽閉し、殺害したと記されている 13 。
この一連の出来事は、近世初期における「公」と「私」の境界の曖昧さと、それに伴う危険性を浮き彫りにしている。タイオワン事件において、政直は「長崎代官」という公的な立場と、「朱印船貿易家」という私的な利益追求者の立場を巧みに使い分けた。彼はオランダとの私的な商業紛争を、日本の国益を守るための公的な問題へと昇華させることに成功した。しかし、この「公私混同」は諸刃の剣であった。彼の巨大な事業が、幕府重臣の私的な投資、すなわち幕府の法度を犯す行為と深く結びついたとき、彼はもはや幕府にとって有用な代官ではなく、幕府の権威そのものを揺るがしかねない危険人物へと変貌した。彼の死は、商人が国家権力と結びついて巨大化する過程で、その「公」と「私」の境界線を見失ったとき、いかに容易に権力そのものによって排除されるかという、時代の冷徹な現実を物語っている。
初代平蔵・政直の衝撃的な死の後も、末次家はすぐには没落しなかった。代官職と「平蔵」の名跡は世襲され、長崎における権勢は維持されたかに見えた。しかし、その繁栄は砂上の楼閣であり、やがて一族は破滅的な結末を迎える。
政直の死後、代官職は息子の茂貞(しげさだ、二代平蔵)、孫の茂房(しげふさ、三代平蔵)、そして曾孫の茂朝(しげとも、四代平蔵)へと引き継がれた 10 。末次家は初代の死から約半世紀、都合約60年間にわたって長崎代官職を世襲し、長崎の政治と経済に君臨し続けた 22 。二代目の茂貞は、父の築いた財産を背景に、隠元隆琦(いんげんりゅうき)や小堀遠州(こぼりえんしゅう)、金森宗和(かなもりそうわ)といった当代一流の文化人とも交流があったとされ、その富と権威は揺るぎないものに見えた 34 。
しかし、延宝4年(1676年)、四代目・茂朝の代に、一族の運命を根底から覆す事件が発覚する。茂朝の配下の者たちが、幕府の禁制を破ってカンボジアとの密貿易を企てたことが露見したのである 13 。この「末次事件」は、幕府による徹底的な調査を招き、末次一族は破滅へと追い込まれた。
主君である茂朝は監督不行き届きの責任を問われ、隠岐(現在の島根県)へと流罪に処された。その家族も壱岐(現在の長崎県)へ流され、一族は事実上離散・断絶した 13 。そして、末次家は「闕所(けっしょ)」、すなわち全財産没収という最も重い処分を受けたのである 38 。
表2:末次家没収資産の推定規模
資産種別 |
数量・品目 |
典拠 |
通貨・貴金属 |
銀8,700貫目、金90,000両、黄金100枚 |
37 |
金融資産 |
貸付銀10,000貫 |
37 |
美術工芸品・奢侈品 |
伽羅(きゃら)、珊瑚珠、青貝大箪笥、堆朱料紙箱、芦屋釜、天河肩衝茶壺、瀬戸丸茶入など |
37 |
武具・船舶 |
鉄砲31挺、弓10張、召し上げられた船 |
37 |
総資産価値(推定) |
60万両(60万石の大名に匹敵) |
38 |
この表は、末次家の富がいかに凄まじいものであったかを具体的に示している。その没収資産の総額は、60万石の大名家の財産に匹敵するとも言われた 38 。これは単なる一商家の凋落ではなく、一大名の改易に等しい、国家的な大事件であった。また、没収品目に多数の茶器や美術工芸品が含まれていることは、彼らが単なる金融資本家ではなく、高度な文化的蓄積を持つ豪商であったことを物語っている。
末次家の没落は、単に四代目の失策や犯罪の結果と見るべきではない。これは、徳川幕府による貿易管理体制の転換点を示す、象徴的な事件であった。初代・政直の時代、幕府はまだ末次家のような有力商人の個人的な才覚やネットワークを利用して貿易を管理していた。しかし、17世紀後半になると、幕府は長崎会所(ながさきかいしょ)を設立し、貿易をより直接的かつ官僚的に管理するシステムを構築していく 40 。この新しい体制において、末次家のような「大きすぎる個人」は、もはや有用な存在ではなく、むしろ幕府の統制を妨げる邪魔な存在となっていた。密貿易事件は、この旧来の権力者を排除し、幕府による貿易利権の完全な独占と、より中央集権的な統制システムを完成させるための、格好の口実として利用された可能性が高い。末次家の断絶は、商人の個性が輝いた朱印船貿易の時代の終わりを告げる、鐘の音だったのである。
末次一族の栄枯盛衰の物語を振り返るとき、その全ての始まりであった始祖・興善の生涯は、改めて深い感慨を抱かせる。権力と富を追い求め、非情な決断も辞さなかった息子・政直とは対照的に、興善は信仰に生き、新時代の扉を開いた商人として、その姿は際立っている。彼は一族の富の礎を築きながらも、その繁栄の頂点と悲劇的な結末を見ることなく、歴史の舞台から静かに姿を消した。彼の人生は、近世初期の商人が持ち得た多様な生き方の可能性を示している。
一族は歴史の闇に消えたが、末次興善が遺したものは、今なお長崎の地に、そして日本の歴史の中に確かに息づいている。
第一に、**地名「興善町」**である。長崎市の中心部に今も残るこの地名は、彼が私財を投じて町を拓いた創設者の一人であったことを示す、最も直接的で永続的な証拠である 43 。
第二に、**「末次船絵馬」**である。長崎の清水寺に奉納され、現在は長崎歴史文化博物館に所蔵されるこの絵馬は 10 、朱印船の具体的な姿を今に伝える、日本船舶史上、第一級の歴史資料である。そこに描かれた船は、日本の伝統的な造船技術を基盤としながら、ポルトガルのガレオン船の船体構造や中国のジャンク船の帆装を取り入れた「和洋唐折衷」の様式を持つ 45 。これは、当時の日本が、多様な海外文化を主体的に受容し、融合させていた技術交流の実態を物語る貴重な物証といえる。
末次一族の物語は、富と権力がいかに儚いものであるかという普遍的な教訓を我々に突きつける。それと同時に、一個人の才覚、信仰、そして野心が、国家体制の確立という時代の大きなうねりの中でいかに翻弄され、そして利用され、最後には淘汰されていくかを示す、日本近世史における類稀なケーススタディとして、後世に多くの示唆を与え続けている。始祖・興善の信仰と先見性、二代目・政直の権謀術数と野心、そして四代目・茂朝の代での突然の没落。この一族のドラマは、戦国から江戸へと移行する時代の光と影そのものを凝縮しているのである。