最終更新日 2025-07-13

本堂忠親

報告書:出羽の戦国領主、本堂忠親の生涯と本堂氏の興亡

序章:出羽の小領主、本堂忠親—その研究の意義

本報告書の目的と対象

本報告書は、戦国時代末期から安土桃山時代にかけ、出羽国仙北郡(現在の秋田県仙北郡美郷町周辺)を治めた国人領主、本堂忠親(ほんどう ただちか)の生涯を、現存する関連史料を駆使して徹底的に解明することを目的とする。彼の個人的な事績の追求にとどまらず、その一族である本堂氏の出自から近世以降の変遷までを包括的な視野に入れ、激動の時代における地方小領主の生存戦略と、その歴史的役割を多角的に評価するものである。

本堂忠親研究の意義と現存史料概観

本堂忠親は、伊達政宗や最上義光といった著名な戦国大名の影に隠れ、全国的には無名に近い存在である。しかし、彼の生涯は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった中央の天下人の統一事業が、遠く東北地方の地方権力にいかなる影響を及ぼし、また地方の国人領主がそれにいかに対応したかを示す、極めて貴重な実例である。忠親の動向を詳細に追うことは、豊臣政権による「奥州仕置」の実態や、それに翻弄されつつも生き残りを図った地方小領主の巧みな生存戦略を理解する上で、重要な意義を持つ。

本報告書の作成にあたっては、江戸幕府が編纂した公式系譜である『寛永諸家系図伝』や『寛政重修諸家譜』 1 、秋田藩が収集・編纂した『秋田藩家蔵文書』 2 といった編纂史料を基礎とする。さらに、豊臣政権との直接的な関係を示す一次史料として、関白豊臣秀次が忠親に宛てた書状 3 を重視する。加えて、彼の本拠地であった本堂城跡の発掘調査報告書 4 や、江戸時代の紀行家・菅江真澄による『月の出羽路』などの記録 7 を総合的に分析し、文献史料だけでは見えない本堂氏の生活文化や経済基盤にも光を当てる。

第一部:本堂氏の出自と戦国出羽の情勢

第一章:一族の起源と伝承

和賀氏庶流説

本堂氏の出自に関する最も有力な説は、陸奥国和賀郡(現在の岩手県北上市周辺)を本拠とした名族・和賀氏の庶流(分家)とするものである 1 。南北朝時代の観応3年(1352年)、和賀薩摩守基義が、室町幕府初代将軍・足利尊氏から軍功の賞として出羽国山本郡(後の仙北郡)内の安本郷、阿条字郷、雲志賀里郷の三郷を与えられたという記録が『奥南落穂集』に見える 1 。これを契機として和賀氏の一族の一部が仙北地方へ進出し、土着して本堂氏を名乗るようになったと考えられている。当初は真昼山麓の元本堂城を拠点とし、次第に周辺地域に勢力を拡大していった 9

「源頼朝落胤」伝説の検討

本堂氏が江戸幕府に提出した家伝には、より壮大な起源が記されている。それは、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が伊豆に流されていた頃、伊東祐親の娘・八重姫との間に生まれた男子「千鶴丸」が、祐親による殺害を免れて密かに生き延び、奥州和賀郡に住んで「和賀の御所」と呼ばれたというものである。そして、その三男である忠朝が出羽本堂の地に入り、本堂氏の祖となったと伝えている 1

この伝説は『寛永諸家系図伝』や『寛政重修諸家譜』といった幕府の公式系譜集にも採録されているが、同時に「おぼつかなし(信憑性が低い)」との按文(評価)が付されている 1 。歴史的事実としてこの伝説を肯定することは困難であり、自家の権威を高めるために創出された「貴種流離譚」の一種と解釈するのが妥当である。戦国時代を生き抜き、江戸時代に旗本として存続する上で、家の由緒を将軍家の祖である源氏、それも嫡流の頼朝に結びつけることは、家の格式を維持するための極めて有効な戦略であった。事実、本堂氏はこの家伝によって、同じく頼朝落胤伝説を持つ大友氏や島津氏と並び、清和源氏為義流という高い家格を幕府から公認されている 1

家紋と本姓

本堂氏が使用した家紋としては、「八つ石畳(やついしだたみ)」あるいは「八つ石文(やついしぶみ)」と、「笹竜胆(ささりんどう)」が伝えられている 12 。笹竜胆は清和源氏ゆかりの紋として知られており、これもまた頼朝落胤伝説と結びついたものと考えられる。本姓は清和源氏を称するが、これは上記の伝説に基づくものであり、より直接的な系統としては、本家である和賀氏と同じく、武蔵七党の横山党に連なる小野朝臣横山氏流とする説もある 1

第二章:本堂氏を取り巻く環境

周辺勢力との角逐

戦国時代の本堂氏は、その勢力圏において常に緊張関係の中にあった。北には角館城を拠点とする戸沢氏、南には横手城を本拠とする小野寺氏、そして西には日本海沿岸を支配し、湊交易を掌握する安東(秋田)氏といった、本堂氏よりも大きな勢力に三方を囲まれていた 13 。これらの有力国人に完全に組み込まれることなく、巧みな外交によって独立を保ったものの 13 、その立場は常に脆弱であり、いついずれかの勢力に飲み込まれてもおかしくない状況にあった。この地政学的な脆弱性が、本堂氏の行動原理を理解する上で重要な鍵となる。

戦国期出羽国の政治・経済状況

本堂氏が勢力を張った仙北地方を含む出羽国は、戦国時代を通じて、山形の最上氏や米沢の伊達氏といった有力大名の覇権争いの舞台であった 18 。本堂氏のような小規模な国人領主たちは、これらの大勢力の間で合従連衡を繰り返し、生き残りを図っていた。

経済的には、日本海交易が重要な役割を果たしていた。特に安東氏は秋田湊を拠点に、蝦夷地(北海道)や上方(京・大坂)との交易を活発に行い、莫大な利益を上げていた 21 。これは後の時代の北前船交易の先駆けともいえるもので、日本海沿岸は古代から渤海国との交易ルートにもなっており、古くから開かれた経済圏であった 17 。一方、内陸部においては、雄物川水系の舟運が物流の大動脈として機能していた 25 。本堂氏の領地は、この雄物川流域に位置しており、日本海交易と内陸水運という二つの経済圏の結節点に近いという地理的条件を有していた。この立地は、領内の産物を広域流通網に乗せることで富を蓄積する可能性を秘めていた。

このような、自らの権威を「源頼朝の末裔」という壮大な物語によって構築しようとする志向と、周辺を強大な勢力に囲まれた地政学的な脆弱性という厳しい現実との間には、大きな乖離が存在した。このギャップこそが、本堂氏、特に本堂忠親の代における大胆な政治判断の根源をなしている。彼らは、血統という「ソフトパワー」を最大限に活用しつつ、現実の軍事力という「ハードパワー」の不足を補い、生き残りを図ろうとしたのである。この視点は、本堂氏の歴史を単なる地方豪族の興亡史としてではなく、自らの存在価値をいかに構築し、厳しい現実の中で存続するかという、普遍的な生存戦略のケーススタディとして捉えることを可能にする。

第二部:本堂忠親の時代

第三章:苦難の家督相続

相次ぐ当主の戦死

本堂忠親が家督を継承するまでの道のりは、苦難に満ちたものであった。『寛政重修諸家譜』などの系図史料によれば、本堂氏は三代にわたって当主が戦場で命を落とすという異常事態に見舞われている 1

忠親の曾祖父にあたる本堂義親は、北方の宿敵であった戸沢氏との戦いの末、鶯野(現在の秋田県大仙市)で討死。その子で忠親の祖父である頼親も、金沢城主(横手市・美郷町)との合戦で野口にて戦死した。この金沢城主は、当時仙北地方に大きな影響力を持っていた小野寺氏の一族、あるいはその配下の武将であった可能性が指摘されている 13 。そして、忠親の父・朝親もまた、姉婿であった成岡弾正に加勢し、三郡城主との戦いに臨んだ際に波岡で戦死したと記録されている 1

表1:本堂忠親 関連略系図

世代

氏名

備考

曾祖父

本堂義親

戸沢氏との戦いで戦死 1

祖父

本堂頼親

金沢城主との戦いで戦死 1

本堂朝親

三郡城主との戦いで戦死 1

当主

本堂忠親(伊勢守)

豊臣政権下で本領安堵。近世旗本本堂家の礎を築く。

本堂茂親

関ヶ原の戦後、常陸志筑へ移封。志筑本堂家初代 29

この系図が示すように、三代続けて当主が非業の死を遂げるという状況は、本堂氏がまさに存亡の危機に瀕していたことを物語っている。周辺勢力との絶え間ない抗争の中で、一族の勢力は著しく疲弊していたと推測される。

忠親の家督相続と当時の状況

忠親は、このような極めて不安定かつ危機的な状況下で家督を継承した。彼が名乗った官途名「伊勢守」は、室町幕府の政所執事(財政・政務長官)を世襲した名門・伊勢氏に由来する格式の高い名称である 15 。これを名乗ることで、周辺の国人領主に対して自家の権威を示そうという意図があったと考えられる。しかし、その権威とは裏腹に、現実の軍事力・政治力は脆弱であり、忠親は一族の未来をその双肩に担い、困難な舵取りを迫られることとなった。

第四章:豊臣政権下での躍進

忠親の生涯における最大の転機は、中央における豊臣秀吉の天下統一事業であった。彼はこの歴史の大きなうねりを的確に捉え、一族を存亡の機から救い出すことに成功する。

表2:本堂忠親 関連年表

年代(西暦)

本堂忠親および本堂氏の動向

国内外の主要な出来事

天文4年(1535)頃

平城である本堂城が築かれる 9

天正18年(1590)

豊臣秀吉の小田原征伐に参陣する 1

豊臣秀吉、小田原北条氏を滅ぼす。

奥州仕置に際し、上杉景勝配下の検地に協力する 1

秀吉、奥州仕置を実施。東北地方の勢力図を再編。

秀吉から8,983石余の所領を安堵する朱印状を得る 1

葛西大崎一揆が勃発。

天正19年(1591)

九戸政実の乱鎮圧のため、大谷吉継旗下で出陣する 37

九戸政実の乱。豊臣政権が鎮圧し、天下統一が完成。

文禄元年(1592)

朝鮮出兵のため、前田利長軍に属し肥前名護屋城に在城 35

文禄の役が始まる。

文禄2年(1593)

晋州城攻撃のため兵25人の軍役が割り当てられる 8

慶長5年(1600)

(忠親没後か)子・茂親が関ヶ原の戦いで東軍に与する 29

関ヶ原の戦い。

慶長7年(1602)

本堂氏、常陸国志筑8,500石に移封。本堂城は廃城となる 1

徳川家康、全国の諸大名を再配置。

天正18年(1590年)小田原征伐への参陣

天正18年、豊臣秀吉が関東の雄・北条氏を討伐するため、全国の大名に小田原への出兵を命じた際、多くの東北大名は参陣すべきか否か、日和見の態度をとっていた。そのような状況下で、本堂忠親はいち早く小田原の秀吉の陣中に馳せ参じた 1 。これは、三代にわたる当主の戦死という苦い経験から、もはや地域内での勢力争いには未来がないと判断し、中央の新たな覇者に直接服属することで、周辺の戸沢氏や小野寺氏といったライバルを飛び越え、家の安泰を確固たるものにしようという、極めて戦略的な政治判断であった。

奥州仕置と本領安堵

忠親のこの迅速な行動は、秀吉に高く評価された。小田原征伐後、秀吉は奥州の支配体制を再編する「奥州仕置」を実施するが、その一環として行われた上杉景勝の家臣・藤田信吉による検地に忠親は積極的に協力した 1 。これらの功績により、同年12月19日、忠親は秀吉から直々に朱印状を与えられ、元本堂、黒沢などの中郡(仙北郡南東部)11か村、計8,983石余の所領を安堵された 1 。これにより、本堂氏は旧来の在地領主から、豊臣政権に公認された近世的領主へと、その地位を大きく向上させることに成功したのである。

九戸政実の乱における軍功と豊臣政権との連携

翌天正19年(1591年)、奥州仕置に反発した南部氏一族の有力者・九戸政実が大規模な反乱を起こす(九戸政実の乱)。豊臣政権はこれを鎮圧するため、関白・豊臣秀次を総大将とする大軍を派遣した。本堂忠親もこの鎮圧軍に加わり、特に秀吉の信任が厚い重臣・大谷吉継の旗下で活躍したことが記録されている 37 。この戦功を通じて、忠親は豊臣政権の中枢、とりわけ吏僚派の重臣である大谷吉継との間に強固なパイプを築くことができた。

その関係を如実に示すのが、乱後に豊臣秀次から忠親に宛てて送られた一通の書状である 3 。その内容は、一揆の残党が忠親の領内に逃げ込んできた件について、その処遇の詳細は大谷吉継(書状内では官途名の「刑部少輔」)から指示があるので、それに従うように、というものであった。これは、忠親がもはや単なる出羽の一国人ではなく、豊臣政権の指揮命令系統に直接組み込まれ、中央から直接指示を受ける立場にあったことを示す一級の史料である。彼は、小田原参陣という政治的賭けによって、一躍「豊臣政権の東国における代理人」の一人という新たな地位を獲得したのである。

文禄・慶長の役への従軍

豊臣政権の一員としての役割は、国内の戦乱だけに留まらなかった。秀吉が開始した朝鮮出兵(文禄・慶長の役)においても、忠親は動員されている。文禄元年(1592年)には、加賀の前田利長軍に属して、出兵の拠点である肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に在城した 35 。さらに翌文禄2年(1593年)、晋州城への攻撃が計画された際には、秋田実季など他の東北大名らと共に名前が挙げられ、兵25人の軍役が割り当てられたことが『浅野家文書』に記録されている 8 。これは、本堂氏が豊臣政権による「天下普請」の一翼を担う、れっきとした構成員であったことを明確に示している。

第五章:本拠地・本堂城

元本堂城から本堂城へ

本堂氏の統治形態の変化は、その居城の変遷にも見て取れる。一族は当初、仙北郡東部の真昼山麓に位置する山城、元本堂城を拠点としていた 9 。これは防御を主眼とした中世的な城郭である。しかし、戦国時代後期の天文年間(1532年~1555年)、忠親の代(あるいは父・朝親の代)に、より平坦な六郷扇状地の扇端に平城である本堂城(現在の秋田県仙北郡美郷町本堂城回)を新たに築き、本拠を移した 9 。この移転は、単なる拠点の移動ではなく、有事の際の防御拠点としての「城」から、平時の領国経営や経済活動の中心としての「政庁」へと、その機能の重心が移行したことを象徴している。これは、本堂氏が戦闘に明け暮れる中世的武士団から、領域を安定的に支配する近世的領主へと意識を変革させていった現れと言えよう。

城郭の構造と規模

本堂城は、城の北西を流れる矢島川を天然の堀の一部として利用し、内堀と外堀で守られた二重構造の平城であった 8 。美郷町教育委員会による発掘調査によれば、内堀に囲まれた主郭部(内館)は、東西約170メートル、南北約190メートルという広大な規模を誇る 10 。その中心部からは、領主の居館であった主殿と考えられる大型の建物跡も確認されている 10 。小領主の居城としては破格の規模であり 13 、豊臣政権下で公認された領主としての威厳を示すに足るものであった。城跡は現在、秋田県の史跡に指定されており、特に北東隅には往時を偲ばせる高さ約4メートルの雄大な土塁が良好な状態で残存している 10

出土品から探る生活と文化

本堂城跡からの出土品は、本堂忠親の時代の領主の生活や文化水準の高さを雄弁に物語っている。

  • 魚藻文沈金手箱 : 特に注目されるのが、江戸時代後期に城跡から出土したと伝わる「魚藻文沈金手箱」である 8 。この手箱は、黒漆の表面に線刻で文様を彫り、その溝に金を埋め込む「沈金」という高度な技法で作られており、製作時期は室町時代末期、製作地は京都と推定されている 8 。さらに、この手箱を収めていた箱の蓋裏には「本堂伊勢守奥方御手箱」との墨書が残されており、忠親の妻が愛用したものである可能性が極めて高い 8 。遠く離れた出羽の国人領主が、中央の都で製作された最高級の工芸品を所有していたという事実は、本堂氏が経済的に豊かであり、高い文化水準を享受していたことを示す動かぬ物証である。
  • 陶磁器 : 城跡からは、中国(明代)で焼かれた染付や白磁といった舶来品や、日本の陶磁器生産の中心地であった瀬戸・美濃地方の大窯で生産された陶器が多数出土している 8 。これらの品々は、雄物川水系を利用した舟運や、安東氏が支配した日本海航路といった広域的な流通網を通じて本堂氏のもとへもたらされたと考えられる 22 。本堂氏は自領の産物(米や大豆など)をこれらの交易ルートに乗せて富を蓄積し、その富で中央の文化産品や海外の奢侈品を購入していた経済活動の実態が浮かび上がってくる。
  • その他の遺物 : その他にも、十二神将の名が墨書された檜扇の骨や、遊戯具である羽子板の破片なども見つかっており 8 、城内で行われていた儀礼や、領主一族の華やかな生活の一端を垣間見ることができる。

第三部:本堂氏のその後と遺産

第六章:関ヶ原の戦いと一族の転機

忠親の死と嫡男・茂親の時代

本堂忠親の正確な没年は不明だが、一部のゲーム関連資料などでは1599年とされている 37 。確実なのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの時点では、その嫡男である本堂茂親(天正13年・1585年生)が家督を継いでいたことである 29 。茂親は、父・忠親が築き上げた豊臣政権との関係性を引き継ぎつつも、時代の新たな転換点において、一族の存続を賭けた重大な決断を下すことになる。

東軍への参加

関ヶ原の戦いにおいて、父・忠親が深い関係を築いた大谷吉継は、石田三成の盟友として西軍の中核を担った。しかし、茂親はこの関係に縛られることなく、徳川家康率いる東軍に与するという決断を下した 1 。これは、出羽国内でいち早く東軍支持を表明した山形城主・最上義光と歩調を合わせることで、地域内での孤立を避け、新たな時代の覇者となるであろう徳川方につくことが最も確実な生き残り策であると判断した、冷徹なまでの政治的リアリズムの現れであった。

小野寺氏との戦闘

関ヶ原の戦いに連動して出羽国でも戦闘が勃発した(慶長出羽合戦)。茂親は父・忠親と共に(史料によっては茂親単独で)本堂城に在国して守りを固める一方、最上義光の指揮下に入り、西軍に与した隣国の小野寺義道領へ侵攻した 1 。この戦いにおいて、六郷政乗ら他の東軍方国人と協力し、小野寺領内の一揆を鎮圧するなど、具体的な戦功を挙げている 1

慶長7年(1602年)常陸国志筑への移封

関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、徳川家康による新たな天下が始まった。茂親の判断は正しかったが、戦後の論功行賞は、本堂氏にとって必ずしも満足のいくものではなかった。慶長7年(1602年)、徳川政権は全国的な大名の再配置を断行。その一環として、常陸水戸の大大名であった佐竹氏が秋田へ減転封されると、その玉突きのような形で、本堂氏も先祖代々の地である出羽国仙北郡を離れ、常陸国新治郡志筑(現在の茨城県かすみがうら市)へ8,500石で移封されることとなった 1 。この移封に伴い、本堂氏の栄華を象徴した本堂城は廃城となった。一説には、最上義光が幕府に対し、出羽の諸将が非協力的であったなどと讒言したため、正当な評価を得られなかったとも言われている 14

第七章:近世から近代へ

交代寄合旗本としての本堂家

常陸国志筑に移った本堂氏は、1万石未満であったため大名ではなく、江戸幕府の旗本として位置づけられた。しかし、その中でも「交代寄合」という特殊な家格を与えられた 1 。交代寄合は、旗本でありながら大名と同様に参勤交代の義務を負う格式の高い家であり、本堂氏が戦国時代からの由緒ある家柄として幕府から遇されていたことを示している。知行高は、初代領主となった茂親の子・栄親が、弟の親澄に500石を分与したため、以降8,000石となった 1 。江戸屋敷は芝の愛宕下に構え 50 、菩提寺は領地である志筑の長興寺と、江戸の青龍寺(港区芝)であった 14

明治維新と志筑藩立藩

江戸時代を通じて旗本として存続した本堂家は、幕末に再び歴史の表舞台に登場する。幕末期の当主であった本堂親久は、慶応4年(1868年)の戊辰戦争において、いち早く新政府軍に与して軍功を挙げた。この功績が認められ、同年7月、2,110石の加増を受けて所領は計10,110石となり、ついに大名に列して志筑藩を立藩した 14 。戦国時代に豊臣政権下で大名としての地位を確立しながらも、徳川の世では旗本に甘んじていた本堂氏が、約270年の時を経て再び大名の座に返り咲いた瞬間であった。

華族への道

明治維新後の版籍奉還により、親久は志筑藩知事となり、華族に列した 16 。明治17年(1884年)に華族令が施行されると、本堂家は男爵に叙せられ、近代日本の貴族の一員となった 16 。一族はその後も続き、現代に至るまでその家名を伝えている 16

現代に伝わる本堂氏の足跡

本堂氏が歴史に残した足跡は、今も各地で見ることができる。

  • 茨城県かすみがうら市 : 志筑本堂家の菩提寺となった長興寺には、初代・茂親から幕末の親久に至る歴代当主の墓所が整然と並び、市の史跡に指定されている 1 。江戸の菩提寺であった青龍寺の墓石も、明治時代の道路整備に伴い、この地に移されている 16
  • 秋田県美郷町 : かつての所領であった美郷町では、本堂城跡が県の史跡として大切に保存・整備されている 10 。また、旧城下町である本堂城回集落には、疫病を防ぎ安寧を祈る藁人形の神「ショウキ様」を道祖神として祀る風習が今なお受け継がれており、毎年新しい藁で作り替えられている 8 。江戸時代の紀行家・菅江真澄もその紀行文『月の出羽路』の中で、本堂城跡の様子や、城下にあった「星山清水」という名水について絵図を交えて記録しており 7 、本堂氏の記憶は地域の歴史と文化の中に深く根付いている。

本堂氏が戦国時代から明治維新に至るまで、一度も改易されることなく家名を存続し得た背景には、一貫した行動原理があった。それは、父・忠親が豊臣政権に迅速に服属し、子・茂親が関ヶ原で迷わず東軍についたことに象徴されるように、個人的な恩義や過去のしがらみよりも、その時々の「勝者」と結びつくことで家の存続を確実にするという、冷徹なまでのプラグマティズム(実利主義)である。先祖代々の土地を離れる常陸への移封も、東北の不安定な情勢から脱し、徳川政権の中枢に近い関東に新たな基盤を築くという、長期的な安定を見据えた実利的な選択であった。この、感傷を排し、常に一族の存続という一点を最優先する姿勢こそが、本堂氏を幾多の危機から救った最大の要因であったと言える。

終章:本堂忠親の歴史的評価

激動の時代を生き抜いた小領主としての再評価

本堂忠親は、戦国史を彩る英雄や豪傑ではない。しかし、彼の生涯は、それとは異なる価値を持つ。三代にわたる先代の非業の死という、一族滅亡の淵から、的確な政治情勢の分析と大胆な決断によって家を再興し、近世を通じて存続する旗本としての礎を築き上げた。彼の生涯は、武力のみが全てではない戦国乱世の終焉期において、地方の小領主がいかにして生き残ったかを示す、現実的かつ巧みな生存戦略の典型として、高く評価されるべきである。

中央と地方を結ぶ結節点として

本堂忠親の動向は、豊臣秀吉による天下統一事業が、遠く離れた出羽の一国人領主にまで、いかに直接的かつ劇的な影響を及ぼしたかを具体的に示している。彼は、中央政権の論理を地方に伝え、また地方の実情を(大谷吉継らを通じて)中央に知らせる、まさに中央と地方を結ぶ「結節点」としての役割を果たした。彼の生涯を研究することは、日本史の大きな転換点を、著名な大名だけでなく、ミクロな地方領主の視点から具体的に解明する上で、極めて貴重な示唆を与えてくれるのである。

引用文献

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  3. 豊臣秀次 消息 本堂忠親宛/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/search-calligraphy/art0006210/
  4. 本堂城跡 - 全国文化財総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/49405
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  8. 本堂城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A0%82%E5%9F%8E
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  10. 探訪アーカイブ 本堂城 - マスミログ https://www.akitanomasumi.com/hondoujou/
  11. 武家家伝_和賀氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/waga_k.html
  12. 武家家伝_本堂氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hondo_k.html
  13. 江戸時代は旗本として明治時代を迎えた本堂氏の戦国時代の頃の居城【本堂城跡】秋田県仙北郡のまち旅(旅行 https://z1.plala.jp/~hod/trip/home/05/1801.html
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  54. 【本堂城跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_05432af2170021076/
  55. 本堂城(秋田県仙北郡)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/s/792
  56. 本堂城 | 秋田県遺跡地図情報 https://common3.pref.akita.lg.jp/heritage-map/ruins/detail.html?ruins_id=3986
  57. 不滅の武神!本堂城跡のショウキサマ - 秋田人形道祖神 https://dosojin.jp/blog/16636/
  58. 観光シーズンを前に 清水の清掃 - 美郷町 https://www.town.misato.akita.jp/pdf/08911005p06-07.pdf