本多康紀(ほんだ やすのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて生きた武将であり、三河国岡崎藩の第二代藩主である 1 。彼の生涯は、戦国の動乱が終焉を迎え、徳川による泰平の世が確立されていく、まさに時代の「移行期」に位置づけられる。康紀の名は、徳川四天王に数えられる本多忠勝や、幕政の中枢で権勢を振るった本多正信ほど広く知られてはいない。しかし、彼の事績を深く掘り下げると、徳川幕藩体制の礎を築く上で極めて重要な役割を果たした、理想的な譜代大名の姿が浮かび上がってくる。
大坂の陣における軍功、特に戦後の堀埋め立て奉行という重責、そして徳川家康生誕の地である岡崎城の壮麗な天守再建。これらは単なる個人的な武功や土木事業に留まらない。豊臣家を完全に無力化し、徳川の威光を天下に示すという、高度に政治的な意味合いを帯びた国家事業であった。本多康紀は、その実行者として歴史の表舞台に立ったのである。本報告書は、本多康紀の出自からその生涯を丹念に追い、徳川治世の確立期という時代背景の中に彼を位置づけることで、その歴史的役割と意義を多角的に解明することを目的とする。
年(和暦/西暦) |
康紀の年齢 |
主要な出来事 |
天正7年(1579) |
1歳 |
徳川家臣・本多康重の長男として三河国田原にて誕生 1 。 |
天正19年(1591) |
13歳 |
元服し、徳川家康より「康」の字を賜り「康紀」と名乗る 1 。 |
慶長6年(1601) |
23歳 |
従五位下・伊勢守に叙位・任官される 1 。 |
慶長16年(1611) |
33歳 |
父・康重の死去に伴い家督を相続。三河国岡崎藩5万石の第2代藩主となる 1 。 |
慶長19年(1614) |
36歳 |
大坂冬の陣に参陣。和議成立後、大坂城の堀埋め立てと石垣破壊の奉行を務める 1 。 |
慶長20年(1615) |
37歳 |
大坂夏の陣に参陣。嫡男・忠利と共に豊臣方と戦い、武功を挙げる 1 。 |
元和3年(1617) |
39歳 |
岡崎城の天守閣を再建する 5 。 |
元和9年(1623) |
45歳 |
3代将軍・徳川家光の上洛に随行。帰途、病に倒れ、9月25日に死去 1 。 |
本多康紀の生涯を理解する上で、彼が属した「広孝系本多家」の歴史と、徳川家におけるその位置づけを把握することは不可欠である。本多一族は、江戸時代を通じて50家以上の大名・旗本を輩出した名門であるが、その中には複数の系統が存在する 8 。最も著名なのは、徳川四天王随一の猛将・本多忠勝を祖とする「平八郎家」や、家康の謀臣として幕政を主導した本多正信・正純父子の「弥八郎家」であろう 9 。康紀の家系はこれらとは異なり、彼の祖父・本多広孝の名を取って「広孝系本多家」または「豊後守家」と称される 1 。
この家系の徳川家における地位は、祖父・広孝の代に確立された。広孝は、徳川家康の父・松平広忠の代から仕えた古参の家臣であり、主家が今川氏の支配下で苦しんでいた時代から忠節を尽くした 10 。家康が独立して三河平定に乗り出すと、広孝はその先兵として三河一向一揆の鎮定や対武田氏との戦線で多大な功績を挙げた 11 。特に永禄7年(1564年)には、東三河の要衝・田原城を攻略し、家康からその城主に任じられている 11 。これは、譜代家臣の中では異例の早さでの城持ち大名への抜擢であり、家康からの絶大な信頼を物語るものである。
その信頼は、康紀の父・本多康重の代にも引き継がれた。康重もまた、姉川の戦いや長篠の戦いにおける鳶巣山砦攻略などで奮戦した歴戦の武将であった 13 。天正18年(1590年)の家康の関東移封に際しては上野国白井に2万石を与えられ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける功績により、慶長6年(1601年)、5万石に加増の上で三河国岡崎城主となった 2 。岡崎は言うまでもなく、主君・家康の生誕地であり、徳川家にとって神聖ともいえる場所である。その地を任されるということは、単なる軍事的能力だけでなく、領国経営の手腕、そして何よりも徳川家への絶対的な忠誠心が最高レベルで評価されたことを意味する。
このように、康紀のキャリアは、彼個人の資質のみならず、祖父・広孝と父・康重が二代にわたって築き上げた「徳川家に対する忠誠と実績」という無形の、しかし絶大な資産の上に築かれていた。彼らは単なる譜代家臣ではなく、家康が最も困難な時期から宗家を支え続けた中核的な家臣団であり、その信頼が康紀の代に岡崎藩主という形で結実したのである。
本多康紀は、天正7年(1579年)、父・康重が田原城主であった時代に、その長男として三河国田原で生を受けた 1 。彼の幼名は彦次郎と伝わる 1 。
康紀の将来が徳川家の中枢で期待されていたことは、その元服の儀式からも明らかである。天正19年(1591年)、13歳で元服した際、彼は主君である徳川家康から直々に諱の一字、すなわち「康」の字を授けられ、「康紀」と名乗ることになった 1 。主君の名前の一字を家臣に与える「偏諱」は、単なる命名行為ではない。これは、受けた者が主君の一門に準ずる特別な存在として公に認められ、将来の徳川体制の中核を担う人材として期待されていることを内外に示す、極めて重要な政治的儀式であった。この栄誉により、康紀は他の多くの大名とは一線を画す「徳川家の特別な家臣」というアイデンティティを付与されたのである。
このことは、彼の息子である忠利が、後に二代将軍・徳川秀忠から「忠」の字を授かって「忠利」と名乗った事実からも裏付けられる 9 。広孝系本多家が、徳川将軍家と代々密接な関係を維持し、その忠誠を認められていたことの証左に他ならない。
成人した康紀は、関ヶ原の戦いが終わり、江戸幕府の体制が固まりつつあった慶長6年(1601年)、23歳で従五位下・伊勢守に叙位・任官された 1 。これは、大名としての公的な地位を確立し、父の後継者として、また幕府の重臣として、本格的にそのキャリアを歩み始めたことを意味する。
慶長16年(1611年)3月22日、父・本多康重が58歳で死去した 2 。これに伴い、康紀は33歳で家督を相続し、三河国岡崎藩5万石の第二代藩主となった 1 。
彼が藩主となった時期は、徳川の天下が盤石とはまだ言えない、緊迫した情勢下にあった。大坂城には依然として豊臣秀頼が存在し、全国の不満分子や浪人たちが大坂に集結しつつあった。徳川家康と秀忠は、豊臣家との最終的な対決が不可避であることを見据え、着々とその準備を進めていた。このような状況下で、神君家康の生誕地であり、東海道の要衝でもある岡崎藩の藩主に就任した康紀には、平時の領主として領国経営に専念すること以上に、来るべき決戦に備える軍事司令官としての役割が強く期待されていた。彼の藩主としての最初の数年間は、まさに嵐の前の静けさの中、来るべき動乱に備えるための期間だったのである。
本多康紀の武将としてのキャリアは、徳川の天下を最終的に確定させた大坂の陣(慶長19年-20年、1614-1615年)において頂点を迎える。彼はこの二度にわたる合戦で、単なる一武将として戦うだけでなく、幕府の戦略上、極めて重要な役割を担った。
慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、康紀は徳川方として参陣した。彼の部隊は、島野川と淀川の中洲から大坂城の青屋口方面を攻撃する任にあたった 1 。激しい攻防の末、両軍は和議を結ぶに至るが、康紀の真の重要任務はこの和議の後に待っていた。
和議の条件として、大坂城の二の丸・三の丸を破壊し、外堀を埋めることが定められた。この作業を監督する普請奉行に、本多康紀は、家康の外孫である松平忠明、そして徳川四天王・本多忠勝の嫡男で桑名藩主の本多忠政と共に任命されたのである 1 。これは、康紀の家格と信頼が、幕府の中枢を担うこれらの人物に匹敵すると見なされていたことを明確に示している。
この堀の埋め立ては、単なる戦後処理の土木工事ではなかった。それは、豊臣家の軍事力を完全に無力化し、徳川方の圧倒的優位を確立するための、極めて戦略的な任務であった。徳川方は和議の条文を拡大解釈し、約束にはなかった内堀までも強引に埋め立て、難攻不落を誇った大坂城を、防御能力を著しく削がれた「裸城」へと変貌させた 4 。この非情ともいえる幕府の戦略を、寸分の狂いもなく実行する責任者に任命されたという事実は、康紀が武将としての能力のみならず、家康・秀忠の真意を深く理解し、確実に遂行する「政治的信頼性」をも最高レベルで評価されていたことの証左である。この大任は、彼のキャリアにおける一つの頂点であり、広孝系本多家の徳川家中における地位を象徴する出来事であった。
冬の陣の和議は長くは続かず、慶長20年(1615年)、再び戦端が開かれ大坂夏の陣が勃発した。康紀は再び出陣し、加賀藩主・前田利常の軍勢の右翼に布陣した 1 。彼は豊臣方の主将の一人である大野治房の軍勢と交戦し、これを打ち破る武功を挙げている 1 。
この夏の陣が康紀にとって重要であったのは、自身の武功を示すだけでなく、一族の武威を次代に継承させる場でもあったからだ。この時、康紀は嫡男の忠利を伴って参陣していた。忠利は当時16歳であったが、これが初陣となった 17 。彼は父と共に奮戦し、初陣ながら見事な戦功を挙げた。その働きは徳川家康の目にも留まり、家康は忠利を「祖父・康重に似たり」と直接賞賛したと伝えられている 17 。
この家康直々の賞賛は、極めて大きな意味を持っていた。それは単に忠利個人の武勇を褒めたたえる言葉ではない。「祖父・康重」に言及することで、広孝系本多家の三代にわたる忠勤と武勇を認め、その武門の血筋が確かに次代に受け継がれていることを、天下の支配者自らが公認したのである。大坂の陣は、徳川体制下で最後の大規模な合戦となる可能性が高かった。その「最後の機会」に、嫡男に戦場を経験させ、かつ最高の栄誉を得させることに成功したことは、大名家の当主として、一族の将来の安泰を確固たるものにする大きな成果であった。
大坂の陣が終結し、徳川の天下が名実ともに確立されると、本多康紀の役割は武将から領主へとその軸足を移す。彼の治世における最大の功績は、徳川家康の生誕地である岡崎城を、新たな時代の象徴として再興させたことであった。
大坂から帰国した康紀は、岡崎城の修築事業に着手した 1 。その集大成が、元和3年(1617年)に完成した天守閣の再建である 5 。もともと岡崎城にあった天守は、豊臣系の田中吉政によって築かれたものであったが、慶長9年(1604年)の大地震によって倒壊していた 6 。康紀が再建した二代目の天守は、三層三階地下一階の望楼型で、東に井戸櫓、南に附櫓(つけやぐら)を伴う複合式天守という、当時としては壮麗なものであった 6 。
この天守再建は、単なる地震からの復旧工事という文脈だけで語ることはできない。その時期と場所に、極めて重要な政治的意味が込められていた。再建が完成した元和3年(1617年)は、大坂の陣で豊臣家が滅亡した2年後、そして幕府の創始者である徳川家康が死去した翌年にあたる。この絶妙なタイミングで、徳川家康公の生誕地という「聖地」を、以前にも増して壮麗な姿で蘇らせる行為は、新しい時代の到来と、徳川の権威が盤石であることを天下に示す、計算された政治的パフォーマンスであった。
つまり、康紀は自らの居城を修築したというよりも、幕府の威光を天下に示すための国家的プロジェクトの実行者に選ばれたのである。大坂城の堀埋め立て奉行という、豊臣家解体の最終段階を担った功績に続き、今度は徳川の新たな世の始まりを象徴する事業を任されたことは、彼と広孝系本多家に対する幕府からの絶大な信頼を改めて示すものであった。
康紀の藩主としての治世(1611年-1623年)において、岡崎城天守再建以外の具体的な藩政、例えば大規模な検地や新田開発といった記録は、現在のところ多くは見出されていない 1 。これは、彼の治世が停滞していたことを意味するものではない。
岡崎藩の藩政の基礎は、前任者である田中吉政(城下町の整備、東海道の城下への引き入れ)や、父である本多康重(領内検地の実施)によって、すでにある程度築かれていた 9 。康紀の藩主としての役割は、新たな改革に着手する「創業者」ではなく、父祖や前任者が築いた基盤の上に、大坂の陣への動員という軍事的義務を果たし、岡崎城天守というシンボルを打ち立てることで、藩の体制を「完成」させることにあったと解釈できる。
彼の藩主としてのエネルギーは、藩内の細かな内政改革よりも、幕府が要請する国家的な軍事・土木事業に集中的に投下されていたのである。これらの大事業をこなしつつ、藩の安定を維持すること自体が、彼の藩主としての大きな功績であった。その安定した基盤があったからこそ、息子の忠利の代には、三代将軍・徳川家光の上洛の際に饗応役という名誉ある役目を務め上げ、その功により5千石の加増を受けることができたのである 3 。康紀の治世は、幕府の全体戦略の中で評価されるべき、安定と継承の時代であったと言えよう。
武将として、そして領主として、徳川幕府の黎明期に重要な役割を果たした本多康紀であったが、その生涯は志半ばで幕を閉じることとなる。
元和9年(1623年)、江戸幕府第三代将軍・徳川家光が、将軍宣下を受けるために上洛した。これは家光の権威を天下に示す重要な行事であり、全国の諸大名がこれに随行した。本多康紀も当然その列に加わり、主君の上洛を見届けた 1 。
しかし、この上洛の後に康紀は病に倒れ、同年9月25日、京都からの帰途か、あるいは京においてか、45歳という若さでその生涯を終えた 1 。大名の重要な務めである将軍への奉公を、最期の瞬間まで貫いた生涯であった。その亡骸は、静岡県掛川市の撰要寺に葬られ、その墓は父・康重と、後を継いだ子・忠利の墓塔と共に、現在も静岡県の史跡として静かに佇んでいる 1 。
康紀の死後、家督は嫡男の本多忠利が継いだ 1 。忠利は父の遺領5万石に加え、先の将軍家光上洛の際の饗応の功で加増された5千石を合わせた、5万5千石の岡崎藩主となった 3 。
しかし、広孝系本多家が徳川家生誕の地・岡崎を治めた期間は、長くは続かなかった。忠利の子・利長の代になった正保2年(1645年)、幕府の命により、一家は遠江国横須賀藩(現在の静岡県掛川市)へ転封となった 3 。これは家の格が下がったことを意味するものではなく、幕府の全国支配体制が安定する中で、譜代大名を戦略的に再配置する政策の一環であった。
その後、広孝系本多家は、出羽国村山藩、越後国糸魚川藩へと転封を重ね、最終的には信濃国飯山藩(現在の長野県飯山市)に定着し、幕末の廃藩置県まで存続した 2 。そして明治維新後、その由緒と実績を認められ、華族に列し子爵の爵位を授かっている 8 。徳川家康生誕の地という特別な場所を離れ、各地へ移りながらも家門を維持し続けた広孝系本多家の歩みは、幕府の支配体制の駒として、その時々の戦略的要請に応じて配置される譜代大名の典型的な姿を映し出している。彼らは特定の土地に根差す領主というよりも、幕府に仕える高級官僚としての性格を強めていったのである。康紀が築いた功績と信頼は、その後の転封の時代にあっても、一族の家門を維持する大きな礎となったに違いない。
代 |
藩主名 |
在任期間 |
石高 |
続柄 |
特記事項 |
初代 |
本多 康重 |
1601年~1611年 |
5万石 |
- |
関ヶ原の戦功により上野国白井藩より入封 3 。 |
2代 |
本多 康紀 |
1611年~1623年 |
5万石 |
康重の長男 |
大坂の陣で活躍。岡崎城天守を再建 1 。 |
3代 |
本多 忠利 |
1623年~1645年 |
5万5千石 |
康紀の長男 |
寛永11年(1634年)に5千石加増 3 。 |
4代 |
本多 利長 |
1645年 |
5万5千石 |
忠利の六男 |
家督相続後、遠江国横須賀藩へ転封 3 。 |
本多康紀の生涯は、戦国武将としての勇猛さと、近世大名としての行政・政治手腕を併せ持つ、まさに「移行期の人物」の典型であった。彼の功績は、二つの国家的な事業に集約される。第一に、大坂の陣における軍事的な貢献と、豊臣家解体の最終段階である堀の埋め立てを完遂した政治的役割。第二に、徳川の権威の象徴である神君生誕の城、岡崎城を壮麗に再建したことである。
彼の生涯には、本多忠勝のような華々しい武勇伝や、本多正信のような権謀術数の逸話は少ない。しかし、彼は徳川幕府の礎を築く上で、最も重要であり、時には非情な決断を要する「汚れ仕事」ともいえる役割を、一分の揺らぎもなく忠実に果たした。その姿は、主君への絶対的な忠誠を貫き、与えられた任務を確実に遂行する、理想的な譜代大名の姿そのものである。本多康紀の生涯は、個人の栄達という物語を超え、徳川による泰平の世を盤石にするという大きな歴史の流れの中でこそ、その真価が深く理解されるのである。