本多忠勝は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、その武勇と徳川家康への揺るぎない忠誠心によって、歴史に名を刻んでいます。彼の生涯は、激動の時代を生き抜いた武士の鑑として、後世に多大な影響を与えました。
本多忠勝は、徳川家康に仕えた重臣の中でも、特に武勇に優れた人物として知られています。酒井忠次、榊原康政、井伊直政と共に「徳川四天王」の一人に数えられ 1 、また「徳川十六神将」の一人としてもその名を連ねています 2 。これらの呼称は、徳川家における彼の地位と重要性を示すものです。
忠勝を象徴する異名として最も有名なのが「東国無双」(または「東国一の勇士」)です 3 。これは、主に関東地方を指す「東国」において、彼に比肩する武勇を持つ者はいないという意味であり、しばしば「西国無双」と称された立花宗茂と対比されます。この異名は、彼の戦場での圧倒的な強さを端的に表しています。
さらに、忠勝の武勇を語る上で欠かせないのが、「生涯において57度の合戦に参加しながら、一度も大きな傷を負わなかった」という伝説です 4 。この驚異的な記録は、彼の卓越した武技と戦場での判断力、そして強運の証左として広く知られています。このような具体的な戦闘回数(57回)を伴う伝説の存在は、単なる誇張ではなく、忠勝自身あるいは徳川家が彼の無敵のイメージを意識的に広めた可能性を示唆しています。この種の武勇伝は、同時代の武将たちや後世の人々が忠勝をどのように認識していたかを理解する上で重要であり、彼の評価を不動のものとしました。味方の士気を高め、敵には畏怖の念を抱かせる効果があったことは想像に難くありません。そして、この武勇のイメージは、徳川家康の天下統一事業、さらには成立間もない徳川幕府の権威確立にも、間接的ながら貢献したと考えられます。忠勝の伝説は、徳川の治世を支える一つの物語として機能したのです。
本報告書は、本多忠勝の生涯、軍事的な功績、人物像、そして後世への影響について、現存する史料や研究に基づいて包括的に明らかにすることを目的とします。具体的には、彼の出自と徳川家康への奉公の始まり、主要な合戦における活躍、その武勇を支えた名槍「蜻蛉切」や特異な兜、家族関係、藩主としての治績、そして現代文化における描かれ方などを多角的に検証します。これにより、戦国時代を代表する武将の一人である本多忠勝の実像に迫ります。
本多忠勝の生涯を理解する上で、彼の出自と徳川家康との出会いは極めて重要です。譜代の家臣としての立場と、幼少期の経験が、後の彼の行動原理を形成したと考えられます。
本多忠勝は、天文17年(1548年)、三河国(現在の愛知県)に生まれました 1 。具体的な誕生地は岡崎市西蔵前町とされ、現在では岡崎市指定史跡「本多忠勝誕生地」として整備されています 8 。父は本多忠高、母は植村新六郎氏義の娘です 1 。
忠勝がわずか2歳の時、父・忠高は織田信広を安城城に攻めた際に戦死しました 1 。このため、忠勝は叔父である本多忠真のもとで育てられました 2 。忠真は勇猛な武将であり、忠勝の人格形成、特に武士としての心得や技能の習得に大きな影響を与えたと考えられます。
本多氏は、松平氏(後の徳川氏)が三河で勢力を拡大する以前からの譜代の家臣であり、代々松平家に仕える家柄でした 1 。この譜代という立場は、主君に対する強い忠誠心と奉公の精神を育む土壌となりました。幼くして父を戦で失い、譜代の家臣という家柄に生まれたことは、忠勝が徳川家康に対して生涯変わらぬ忠節を尽くす大きな要因となったと言えるでしょう。それは単なる主従関係を超えた、家としての責任と、戦国乱世の厳しさの中で培われた強い使命感に裏打ちされたものだったと考えられます。このような背景は、後の徳川幕府における譜代大名の役割や忠誠のあり方を示す象徴的な事例とも言えます。
忠勝の幼名は鍋之助(なべのすけ)といい、後に平八郎(へいはちろう)と称しました。平八郎は本多家の嫡男が代々名乗る通称であり、彼は中務大輔(なかつかさのたいふ)の官位も得ています 1 。
忠勝の初陣は、永禄3年(1560年)、13歳の時に参加した尾張国大高城の攻略戦でした 1 。一部の資料では12歳ともされています 2 。この戦いは桶狭間の戦いの前哨戦にあたり、若き忠勝が戦場の厳しさを初めて体験した機会となりました。
徳川家康(当時は松平元康)への本格的な奉公は、これに前後して始まったと考えられます。 9 の記述では17歳からとありますが、初陣の年齢を考慮すると、より早くから家康の側に仕えていた可能性が高いです。 2 によれば、桶狭間の戦いの頃、12歳の忠勝が家康に対して意見具申する場面もあったとされ、早くからその気骨を示していたことが窺えます。
その武勇と忠誠心は早くから家康に認められ、永禄9年(1566年)、19歳の時には家康直属の精鋭部隊である旗本衆(はたもとしゅう)に選抜され、54騎を率いる将となりました 9 。このように若くして重用されたことは、忠勝が並々ならぬ器量の持ち主であったことを示しています。彼の初陣の早さと、若年での旗本衆への抜擢は、単に譜代の家柄というだけでなく、実力によって家康の信頼を勝ち得た証左と言えるでしょう。家康が、忠勝のような若い才能を見出し、積極的に登用したことは、後の徳川家臣団の強固な結束力と軍事力の基盤を築く上で非常に重要な意味を持ちました。これは、世襲制が基本でありながらも、実力主義的な側面も併せ持っていた戦国時代の武家社会の一端を示すものです。
本多忠勝の武名は、数々の激戦における目覚ましい活躍によって築き上げられました。特に徳川家康の危機を救った戦いや、その勇猛果敢さが敵味方双方から称賛された逸話は数多く残されています。
永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆は、徳川家康にとって最初の大きな試練であり、本多忠勝にとっても忠誠心が試される出来事でした。当時、本多一族の多くは浄土真宗(一向宗)の門徒であり、一揆側に与しました 2 。しかし、忠勝は叔父の忠真と共に、家康への忠義を貫き、一向宗から浄土宗に改宗してまで家康方として戦いました 2 。
この決断は、当時の武士にとって極めて重いものでした。宗教的信条や一族の絆よりも主君への忠誠を優先した忠勝の姿勢は、家康に深い感銘を与え、両者の信頼関係をより強固なものにしたと考えられます。戦国時代において、血縁や地縁、宗教的結束は非常に強力なものであり、これを超越して主君への忠義を貫いた忠勝の行動は、彼の人物像を理解する上で特筆すべき点です。この一件は、家康が領国を統一し、強力な家臣団を形成していく過程で、いかに家臣の忠誠心が重要であったかを示しています。忠勝の行動は、他の家臣たちにとっても、主君への奉公のあり方を示す模範となったことでしょう。
元亀元年(1570年)、織田信長と徳川家康の連合軍が、浅井長政・朝倉義景の連合軍と激突した姉川の戦いにおいて、本多忠勝は目覚ましい武功を挙げました。この戦いで、忠勝は朝倉軍の猛将・真柄十郎左衛門(真柄直隆の子、または真柄直澄とも)と一騎討ちを演じたと伝えられています 7 。
また、徳川軍が苦戦を強いられる中、忠勝は単騎で敵陣に突入し、朝倉軍の陣形を切り崩したとされます 4 。この勇猛果敢な行動は、徳川軍の士気を大いに高め、戦況を好転させる一因となりました。姉川の戦いにおける忠勝の活躍は、彼の武名を全国に轟かせるきっかけの一つとなりました 12 。
元亀3年(1572年)から天正元年(1573年)にかけての武田信玄による西上作戦は、徳川家康にとって最大の危機の一つでした。この中で行われた一言坂の戦いと三方ヶ原の戦いは、本多忠勝の武勇伝を語る上で欠かせない合戦です。
一言坂の戦い では、徳川軍が武田軍の追撃を受ける中、忠勝は殿(しんがり)を務め、家康本隊を無事に撤退させるために奮戦しました。特に武田軍の猛将・馬場信春の部隊と激しく渡り合い、不利な地形ながらも敵の追撃を食い止めたとされています 5 。この時の忠勝の奮戦ぶりは敵方からも称賛され、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という狂歌が詠まれたとも言われます。
続く 三方ヶ原の戦い は、家康生涯最大の敗戦として知られています。この戦いで徳川軍は武田軍の巧妙な戦術の前に総崩れとなりましたが、その中で忠勝は獅子奮迅の働きを見せました。彼は武田軍の一部隊(山県昌景隊とも)を突破し、一時は信玄の本陣に迫る勢いであったと伝えられています 2 。また、敗走後には武田軍本陣への夜襲を敢行し、敵を混乱させたとも言われます 7 。この戦いで叔父の本多忠真が戦死するという悲劇に見舞われましたが 2 、忠勝の勇戦は敗戦の中にあって一際輝きを放っていました。
これらの戦いは、徳川軍にとっては苦しい戦いでしたが、忠勝にとっては自身の武勇と忠誠心を示す絶好の機会となりました。特に敗戦や困難な状況下でこそ、その真価が問われるものであり、忠勝がこうした局面で示した勇気と冷静な判断力は、彼の評価を不動のものとしました。味方の士気を鼓舞し、主君を守り抜くという彼の行動は、単なる武勇だけでなく、強い精神力と責任感の表れと言えるでしょう。このような経験が、徳川家臣団の結束力を高め、後の困難な時代を乗り越える力となったことは間違いありません。
天正3年(1575年)の 長篠の戦い は、織田・徳川連合軍が武田勝頼軍に決定的勝利を収めた戦いです。織田信長が導入した鉄砲の三段撃ち戦法が有名ですが、本多忠勝も徳川軍の一翼を担い、武田軍の猛攻を防ぎ、勝利に貢献しました 4 。
高天神城の戦い は、遠江国の戦略的要衝である高天神城を巡る、徳川氏と武田氏の間の長期にわたる攻防戦です。天正2年(1574年)に武田勝頼によって一度は落城しますが、天正9年(1581年)、徳川家康はこれを奪還します。忠勝もこの一連の戦いに参加し、武田軍の掃討などで活躍しました 7 。高天神城の奪還は、武田氏の勢力衰退を象徴する出来事の一つとなりました。
天正10年(1582年)、織田信長が本能寺の変で横死した際、徳川家康は少数の供回りと共に堺に滞在しており、絶体絶命の危機に陥りました。明智光秀の追討を恐れ、一時は自害をも考えた家康を諫め、本国三河への決死の帰還行である「伊賀越え」を敢行させたのが本多忠勝であったと言われています 2 。
この伊賀越えにおいて、忠勝は愛槍「蜻蛉切」を手に家康を護衛し、追手から逃れるために地元民を威嚇して道案内をさせたり、追手が使用できないように船を破壊したりするなど、知略と武勇をもってこの難局を乗り切りました 7 。この危機的状況における忠勝の冷静沈着な判断と行動力は、家康の命運を繋ぎ止め、後の天下取りへの道を切り開く上で極めて重要な役割を果たしました。「家康三大危機」の一つに数えられるこの事件は、忠勝の忠誠心と能力を改めて示すものとなりました。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いは、豊臣秀吉と徳川家康が直接対決した戦役です。この戦いにおいて、本多忠勝の武勇伝の中でも特に有名な逸話が生まれました。小牧山付近で、忠勝はわずか500余りの兵を率いて、数万とも言われる秀吉の大軍と対峙しました 4 。
この時、忠勝は龍泉寺川で悠然と馬に水を飲ませるという大胆な行動を見せ、敵陣にその存在を誇示しました 7 。この豪胆な振る舞いに感嘆した豊臣秀吉は、「東国一の勇士」(または「日本第一、古今独歩の勇士」)と忠勝を称賛したと伝えられています 2 。このエピソードは、忠勝の勇気と冷静さ、そして戦場における心理戦の巧みさを示すものとして、後世に語り継がれています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、天下分け目の決戦であり、本多忠勝も東軍の主要な武将として参陣しました。この戦いにおいて、忠勝は軍監(いくさかんさつ、戦場での軍紀の監督や戦況報告などを行う役職)としての役割も担ったとされています 7 。
しかし、忠勝は単に後方で指揮を執るだけでなく、自らも戦陣に立ち、奮戦しました。特に戦いの終盤には、少数の兵を率いて敵陣に突入し、90もの首級を挙げたと記録されています 7 。この功績により、戦後、家康から伊勢国桑名10万石を与えられました 1 。家康はさらに5万石の加増を申し出ましたが、忠勝はこれを固辞し、代わりにその分は次男の忠朝(資料によっては忠朝ではなく忠政の嫡男忠刻に与えられたとの記述もあるが、ここでは 2 の記述を優先)に与えられたと伝えられています 2 。この戦いは徳川家康による天下統一を決定づけるものであり 18 、忠勝の長年にわたる忠勤が報われた形となりました。
表1:本多忠勝の主要な参戦記録
合戦名 |
年代 |
忠勝の役割・主な活躍 |
結果(徳川/忠勝) |
関連史料 |
大高城の戦い |
1560年 |
初陣 |
勝利 |
1 |
三河一向一揆 |
1563-1564年 |
家康方に付き、一向宗から浄土宗へ改宗して参戦 |
鎮圧 |
2 |
姉川の戦い |
1570年 |
単騎で朝倉軍に突撃、真柄十郎左衛門と一騎討ち |
勝利 |
4 |
一言坂の戦い |
1572年 |
殿軍として奮戦、家康本隊の撤退を援護 |
敗走(任務達成) |
5 |
三方ヶ原の戦い |
1573年 |
武田軍山県隊を突破、武田本陣へ夜襲 |
敗戦(奮戦) |
2 |
長篠の戦い |
1575年 |
織田・徳川連合軍として武田軍と交戦、勝利に貢献 |
勝利 |
4 |
高天神城の戦い |
1581年 |
武田軍の守る高天神城を攻略 |
勝利 |
7 |
伊賀越え |
1582年 |
本能寺の変後、家康の堺からの脱出を護衛 |
成功 |
2 |
小牧・長久手の戦い |
1584年 |
少数で秀吉の大軍と対峙、龍泉寺川で馬に水飼い、秀吉から「東国一の勇士」と称賛される |
膠着(武名高揚) |
2 |
小田原征伐 |
1590年 |
岩槻城、鉢形城などを攻略 |
勝利 |
7 |
関ヶ原の戦い |
1600年 |
東軍の軍監として参陣、自らも戦い90の首級を挙げる |
勝利 |
7 |
本多忠勝の武勇伝は数多く語り継がれていますが、その伝説の裏には、一人の人間としての彼の性格や、主君・同僚・家族との深い絆がありました。
本多忠勝の生涯を貫く最も顕著な特徴は、主君・徳川家康への絶対的な忠誠心です。三河一向一揆の際に一族の多くが敵対する中で家康に従い 2 、本能寺の変後の伊賀越えでは身を挺して家康を守り抜いたことなど 2 、その忠節を示す逸話には枚挙にいとまがありません。
しかし、忠勝の忠誠は盲従ではありませんでした。彼は家康が誤った判断を下そうとした際には、主君であっても臆することなく諫言したと伝えられています 2 。特に家康の若い頃には、手厳しい意見を述べることもあったとされ 2 、これは両者の間に深い信頼関係があったからこそ可能だったと言えるでしょう。主君が絶対的な権力を持つ封建社会において、家臣が率直な意見を述べることは容易ではありません。家康がそのような忠勝の諫言を受け入れたことは、家康自身の器の大きさを示すと同時に、忠勝が家康にとって単なる武将ではなく、真に信頼できる腹心であったことを物語っています。このような主従関係は、徳川家が多くの困難を乗り越え、天下統一を成し遂げる上で不可欠な要素でした。
忠勝の辞世の句とされる「死にともな、嗚呼死にともな、死にともな、深きご恩の君を思えば」という言葉は 2 、家康への深い恩義と忠誠心を最後まで持ち続けた彼の心情を痛切に表しています。
また、本多家の家紋である「丸に立ち葵」は、徳川家の「三つ葉葵」の原型になったとも言われ、江戸幕府成立後に葵紋の使用が厳しく制限された中でも、本多家は特別に使用を許されました 10 。これは、徳川家康が本多家に寄せた絶大な信頼と、両家の特別な関係を示すものと言えるでしょう。
本多忠勝は、戦場では鬼神のごとき勇猛さを見せる一方で、普段は温厚で情に厚い人物であったと伝えられています。「井伊の赤鬼」と恐れられた井伊直政が部下に厳格であったのに対し、忠勝は部下に優しく接したため、直政の家臣の中には忠勝のもとで仕えたいと願う者もいたほどでした 5 。彼は手柄や戦果よりも忠義を重んじ、部下からも深く信頼されていました 5 。
一方で、忠勝は曲がったことや回りくどいことを嫌う実直な性格でもありました。同族でありながら知略に長けた本多正信とはそりが合わず、「腰抜け」と呼んで敬遠していたという逸話も残っています 7 。
その武勇と人柄は、同時代の他の武将たちからも高く評価されました。織田信長は忠勝を「花実兼備の武将」(外見の華やかさと実力を兼ね備えた武将)と評し 2 、また中国三国時代の勇将になぞらえて「日本の張飛」とも称したと言われています 19 。豊臣秀吉は、小牧・長久手の戦いでの忠勝の勇猛ぶりを見て、「日本第一、古今独歩の勇士」あるいは「東国一の勇士」と最大級の賛辞を送りました 2 。
意外な一面として、忠勝は手先が器用で、木彫りを趣味としていたと伝えられています 7 。戦場での勇ましい姿とは対照的なこの趣味は、彼の人間的な側面を垣間見せます。戦国武将というと、勇猛果敢なイメージが先行しがちですが、忠勝のように戦場では恐るべき強さを発揮しつつも、平時においては温情深く、さらには細やかな趣味を持つという多面性は、彼の魅力を一層深めています。このような二面性は、部下からの信頼を得る上でも重要であり、単に武力で従わせるのではなく、人間的な魅力によっても人々を引きつけたことを示唆しています。
本多忠勝は、徳川四天王の一人である榊原康政とは特に親しく、共に旗本先手役を務めるなど、戦場でも連携することが多かったとされています 7 。
家族に対しては深い愛情を注いでおり、特に娘の小松姫(稲姫)の結婚に際しては、その身を案じたと言われています。小松姫は真田信之に嫁ぎましたが、関ヶ原の戦いの後、忠勝は信之と共に、西軍に与した真田昌幸・幸村父子の助命を家康に嘆願し、これを実現させました 9 。これは、敵方となった者に対しても情けをかける忠勝の一面を示すエピソードです。
本多忠勝の武勇を語る上で欠かせないのが、彼が愛用した特異な武具です。特に名槍「蜻蛉切」と鹿の角をあしらった兜は、彼のトレードマークとして広く知られています。
本多忠勝の代名詞とも言える槍が「蜻蛉切(とんぼきり)」です。この槍は、御手杵(おてぎね)、日本号(にほんごう)と並び、「天下三名槍」の一つに数えられています 13 。その名の由来は、戦場で槍を立てていたところ、飛んできた蜻蛉(とんぼ)が穂先に触れただけで真っ二つに切れてしまったという逸話によります 10 。
蜻蛉切は非常に長大な槍で、全長は約二丈(約6メートル、あるいは6.5メートルとも)、穂(刃長)だけでも一尺四寸四分五厘(約43.7センチメートル)あったと伝えられています 7 。この長大なリーチは、敵の攻撃範囲外から攻撃することを可能にし、忠勝の戦いを有利に進める上で大きな役割を果たしました 7 。この槍は、一言坂の戦い、長篠の戦い、そして伊賀越えなど、忠勝が活躍した数々の重要な局面で彼と共にあり、徳川家康の「守護槍」とも称されました 4 。
この名槍を打ったのは、室町時代末期に三河国で活躍した刀工・正真(まさざね)であるとされています 14 。正真は伊勢国の村正の弟子であったという説もありますが、確かなことは分かっていません 14 。
忠勝は晩年、関ヶ原の戦いの翌年(1601年)、桑名藩主として着任した頃、体力的な衰えを自覚し、この蜻蛉切の柄を三尺(約90.9センチメートル)ほど切り詰めさせました。その理由を家臣に問われた際、「道具は自分の力に合った物でなければならない」と答えたと伝えられています 4 。この時、忠勝は54歳。生涯無傷を誇った猛将も、自らの老いを冷静に受け止め、それに合わせて愛用の武器を調整するという現実的な判断を下したのです。この逸話は、忠勝が単なる勇猛な武将ではなく、自らを客観視できる知恵と、道具に対する深い洞察力を持っていたことを示しています。伝説的な名槍であっても、実用性を失えば意味がないという彼の姿勢は、戦国武将のプラグマティズムを象徴していると言えるでしょう。
本多忠勝のもう一つの象徴的な武具が、鹿の角を模した大きな脇立(わきだて)を持つ兜です。この「鹿角脇立兜(しかつのわきだてかぶと)」は、獅噛(しかみ)の前立(まえだて)と共に、戦場で際立った存在感を放ちました 21 。鹿の角の脇立は和紙を幾重にも貼り合わせて漆で固めたものであったとされています 21 。
この兜に、黒糸で威した胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく)をまとい、肩からは大きな数珠を掛けて戦場に臨む忠勝の姿は、敵にとっては恐怖の対象であり、味方にとっては頼もしい存在でした 10 。肩に掛けた数珠は、自らが討ち取った敵兵を弔う意味が込められていたと言われ、忠勝が単に敵を殺戮するだけでなく、死者への敬意を払う人物であったことを示唆しています 10 。
その異様な出で立ちについては、「手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という川柳が残されており 13 、当時の人々が忠勝の姿に抱いた畏怖の念を伝えています。このような特異な装いは、戦場において敵を威圧し、自らの存在を強く印象づけるための意図的な演出であったと考えられます。個人の武勇が戦局を左右することもあった戦国時代において、このような「戦場でのブランディング」は、心理的な効果も含めて重要な戦術の一つでした。忠勝の鹿角の兜と蜻蛉切は、彼の武勇と相まって、彼を伝説的な存在へと押し上げる上で大きな役割を果たしたのです。
忠勝は晩年、「中務正宗(なかつかさまさむね)」と呼ばれる刀を入手しました。この刀は後に徳川家康に献上され、その茎(なかご)には「本多中務所持」という金象嵌銘が刻まれています 13 。これは、忠勝から家康への最後の忠誠の証と解釈することもできるでしょう 13 。
本多忠勝の武勇と忠誠は、彼の子孫たちにも受け継がれ、本多家は江戸時代を通じて徳川幕府の重臣として存続しました。
本多忠勝の正室は、三河国の武将・阿知和玄鉄(あちわげんてつ)の娘、於久の方(おひさのかた)です 9 。二人の間には、男子2人、女子2人が生まれたとされていますが 9 、別の史料では男子2人、女子5人とも伝えられています 22 。
主要な子女は以下の通りです。
長男の本多忠政は、天正3年(1575年)に生まれました 23 。父・忠勝と共に岩槻城攻めなどに参加し、武功を挙げています 23 。妻は徳川家康の長男・松平信康の次女である熊姫(ゆうひめ)であり、これにより本多家と徳川宗家との結びつきは一層強固なものとなりました 23 。
慶長14年(1609年)、父・忠勝の隠居に伴い家督を相続し、桑名藩2代藩主となりました 23 。忠政の子である本多忠刻(ほんだ ただとき)は、眉目秀麗で武勇にも優れた人物として知られ、家康の孫娘である千姫(せんひめ)を妻に迎えました 26 。
次男の本多忠朝は、父・忠勝が桑名へ移封された後、上総国大多喜藩を継ぎました 28 。しかし、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において、若くして戦死しました 28 。彼の菩提を弔うため、大多喜の良信寺は忠朝の戒名にちなんで良玄寺と改められました 29 。
長女の小松姫(稲姫)は、天正元年(1573年)に生まれ 24 、その気丈な性格と聡明さで知られています。徳川家康の養女となった後、上田藩主・真田信之(さなだのぶゆき、昌幸の長男、幸村の兄)に嫁ぎました 9 。これは、豊臣政権下で真田家を徳川方に取り込むための政略結婚としての側面が強いものでした。
小松姫の結婚に際しては、婿選びの逸話が伝えられています。家康が集めた婿候補者たちの前で、小松姫は一人一人の髷を掴んで顔を改めたところ、多くの者が困惑する中、真田信之だけが扇子でその手を払い、その気骨に小松姫が感銘を受けて結婚を決めたと言われています 9 。また、関ヶ原の戦いの前哨戦において、西軍に与した舅・真田昌幸が居城である沼田城を訪れた際、小松姫は武装して対峙し、入城を拒んだという逸話も有名で、彼女の徳川家への忠誠心と武家の妻としての覚悟を示しています。彼女は真田信政、信重らを産みました 25 。
本多忠勝の血筋は、嫡流である平八郎家を中心に、江戸時代を通じて大名家として存続し、幕府の要職を務める者も輩出しました 9 。特に孫の本多忠刻は、千姫との結婚や大坂の陣での活躍で知られています 26 。本多家の歴史は、徳川幕府の成立と安定に貢献した譜代大名の一つの典型と言えるでしょう。
表2:本多忠勝の家族構成
関係 |
氏名 |
生没年 (判明分) |
概要・特記事項 |
関連史料 |
正室 |
於久の方 (阿知和玄鉄の娘) |
不明 |
忠勝との間に忠政、忠朝、小松姫らを儲ける |
9 |
長男 |
本多忠政 |
1575年 - 1631年 |
桑名藩2代藩主。妻は徳川信康の娘・熊姫。子に忠刻。 |
9 |
次男 |
本多忠朝 |
1582年 - 1615年 |
大多喜藩主。大坂夏の陣で戦死。 |
9 |
長女 |
小松姫 (稲姫、於子亥) |
1573年 - 1620年 |
徳川家康養女。真田信之正室。信政、信重らの母。気丈な性格で知られる。 |
9 |
次女 |
もり姫 |
不明 |
奥平家昌室 |
22 |
三女 |
(名前不詳) |
不明 |
本多信之 (備中守) 室 |
22 |
四女 |
(名前不詳) |
不明 |
松下重綱室 |
22 |
五女 |
(名前不詳) |
不明 |
蒲生瀬兵衛某室 |
22 |
孫 (忠政の子) |
本多忠刻 |
1596年 - 1626年 |
播磨姫路藩主。妻は千姫 (徳川秀忠の娘)。武勇に優れ、眉目秀麗と伝わる。 |
26 |
本多忠勝は、戦場での武勇だけでなく、領国経営においてもその手腕を発揮しました。彼が藩主を務めた上総大多喜藩と伊勢桑名藩では、城郭の整備や城下町の発展に尽力し、後の藩政の基礎を築きました。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の後、徳川家康が関東に移封されると、本多忠勝は上総国夷隅郡大多喜(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)に10万石を与えられました 1 。
忠勝は大多喜城を近世城郭へと大改修し、防衛拠点としての機能を強化しました。これは、当時まだ房総半島に勢力を有していた里見氏への備えという意味合いが強かったと考えられます 28 。また、城下町の整備にも力を注ぎ、現在のJR久留里線「大多喜駅」周辺の市街地の原型を築きました 28 。忠勝によるこれらの施策は、大多喜地域の政治・経済の中心としての地位を確立する上で重要な役割を果たしました。
慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いでの功績により、本多忠勝は伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)へ10万石で移封されました 1 。
桑名においても、忠勝はまず桑名城の城郭建造と城下町の整備に着手しました 2 。東海道の宿場町としても重要な位置にあった桑名の発展のため、交通網の整備や商業の振興にも力を入れたと考えられます。中根忠実など有能な家臣を登用し、藩政の安定に努めた結果 5 、桑名の民からは名君として慕われたと伝えられています 2 。
忠勝が大多喜と桑名で見せた領国経営の手腕は、彼が単なる武勇一辺倒の武将ではなく、統治能力にも長けた人物であったことを示しています。戦国時代から江戸時代へと移行する中で、武士には戦場での活躍だけでなく、領地を治め、民政を安定させる能力も求められるようになりました。忠勝は、この両方の能力を兼ね備えていた武将の一人と言えるでしょう。彼の藩主としての治績は、徳川幕府初期における地方統治の安定化に貢献し、後の平和な時代の礎を築く一助となりました。これは、家康が譜代の重臣たちに期待した役割であり、忠勝はその期待に見事に応えたと言えます。
数々の武功を立て、徳川家康の天下統一に大きく貢献した本多忠勝も、やがて老いと病には勝てず、その輝かしい生涯を閉じました。しかし、彼の遺した武勇伝や忠誠の精神は、後世に大きな影響を与え続けています。
本多忠勝は晩年、病気がちになったと伝えられています 2 。慶長14年(1609年)、62歳の時に家督を長男の忠政に譲り、隠居しました 2 。
そして翌年の慶長15年10月18日(西暦1610年12月3日)、桑名において63歳(満62歳)でその生涯を終えました 1 。
忠勝の最期については、興味深い逸話が残されています。生涯57度の合戦でかすり傷一つ負わなかったと豪語していた忠勝が、ある日、小刀で木彫りをしている際に誤って指を切り、わずかな血を流してしまいました。その時、「本多忠勝も傷を負うようでは、もはやこれまでか」と嘆き、まもなく亡くなったというものです 7 。この逸話の真偽は定かではありませんが、生涯無傷を誇った勇将の最期を象徴する話として語り継がれています。戦乱の世が終わり、泰平の時代が訪れる中で、忠勝のような武勇を誇る武士の活躍の場が失われていく時代の変化を暗示しているようにも受け取れます。彼が生涯を通じて体現してきた武士としての価値観が、新しい時代においては異なる意味を持つようになる、その転換点に彼の死があったのかもしれません。
彼の辞世の句とされる「死にともな、嗚呼死にともな、死にともな、深きご恩の君を思えば」 2 は、主君・徳川家康への深い感謝と、なおも尽くし足りないという忠臣としての心情を吐露したものと解釈されています。
本多忠勝の本廟(ほんびょう、中心となる墓)は、三重県桑名市にある浄土寺(じょうどじ)にあります。浄土寺は本多家の菩提寺となり、忠勝の墓石には本多家の家紋である「丸に立ち葵」が刻まれています 30 。また、墓所の傍らには、忠勝の死に際して殉死した家臣、梶勝忠(かじかつただ)と中根忠実(なかねただざね)の墓も寄り添うように建てられています 30 。
忠勝の姿を伝えるものとして、有名な肖像画「紙本著色本多忠勝像(しほんちゃくしょくほんだただかつぞう)」があります。これは、関ヶ原の戦いの後、忠勝自身が描かせたとされるもので、甲冑を身に着けた勇壮な姿が描かれています 31 。一説には、泰平の世となり自らの武勇を振るう場がなくなったことを嘆いた忠勝が、その武威を後世に伝えるために描かせたとも言われ、完成までに7、8回も描き直しを命じたと伝えられています 31 。この肖像画の原本は本多家が所蔵し、国の重要文化財に指定されています。写しは、忠勝がかつて居城とした大多喜城に近い千葉県大多喜町の良玄寺(旧良信寺)などで見ることができます 29 。
本多忠勝は、徳川家康の天下取りに最も貢献した武将の一人として、その名を歴史に刻んでいます 2 。彼の卓越した武勇、主君への揺るぎない忠誠心、そして領民を思いやる為政者としての一面は、後世の武士たちの模範とされました。
「東国無双」と称えられたその強さと、「生涯無傷」の伝説は、今もなお多くの人々を魅了し、日本の歴史や文化の中で語り継がれています。彼の生き様は、戦国乱世という厳しい時代にあって、武士がいかに生き、いかに主君に仕えるべきかという一つの理想像を示したと言えるでしょう。
本多忠勝の勇猛果敢な姿と、主君への忠義を尽くした生涯は、現代においても多くの人々を魅了し、様々な形で語り継がれています。
本多忠勝は、歴史小説、テレビドラマ、映画、そしてビデオゲームなど、多様なメディアで人気の高いキャラクターとして登場します。特にNHK大河ドラマでは、「どうする家康」(2023年、演:山田裕貴)をはじめ 32 、数々の作品でその勇姿が描かれてきました。「どうする家康」では、忠勝が自身の肖像画を何度も描き直させたという逸話が取り上げられました 32 。また、同作では関ヶ原の戦いに実際に赴いた徳川の主要武将は忠勝と井伊直政だけであったという点が強調されました 33 。
ビデオゲームでは、「戦国BASARA」シリーズや「戦国無双」シリーズ、「仁王」、「信長の野望」シリーズなどで、多くの場合、愛槍「蜻蛉切」を手にし、鹿角の兜を被った猛将として描かれています 10 。その圧倒的な強さと忠誠心は、ゲームキャラクターとしての魅力を高めています。近年では、「モンスターハンターライズ:サンブレイク」のCMに起用されるなど 34 、その活躍の場は広がりを見せています。野中信二氏による歴史小説『本多忠勝 人物文庫』なども出版されています 35 。
これらの作品群における忠勝像は、多くの場合、勇猛さや忠義深さが強調されますが 10 、時には家族への情愛や領主としての一面が描かれることもあります。彼の象徴的な武具である蜻蛉切と鹿角の兜は、そのキャラクターを際立たせる重要なアイテムとして、多くの作品で忠実に再現されています。このように、本多忠勝は武勇と忠誠の象徴として、現代の創作物においても不変の魅力を放っています。彼の姿は、日本の戦国時代を代表する武将の一人として、広く一般に認識され、親しまれる要因となっています。ただし、ジェームズ・クラベルの小説『将軍』およびそのドラマ版に登場する戸田広松や戸田文太郎といったキャラクターは、細川藤孝や細川忠興がモデルであり、本多忠勝をモデルとしたものではない点には注意が必要です 4 。歴史的事実とフィクションの境界を認識することは、歴史理解において重要です。
本多忠勝ゆかりの地は、現在も史跡として大切に保存され、彼を顕彰する施設や催しが行われています。
これらの史跡は、本多忠勝の足跡を辿り、その功績を偲ぶことができる貴重な場所として、多くの歴史ファンが訪れています。
本多忠勝は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、武勇、忠誠、そして統治能力を兼ね備えた稀有な武将でした。彼の生涯は、徳川家康による天下統一事業と、その後の江戸幕府の成立・安定に不可欠な貢献を果たしたと言えます。
「東国無双」と称えられた圧倒的な武力、57度の合戦で傷一つ負わなかったという伝説、そして名槍「蜻蛉切」や鹿角の兜といった象徴的な武具は、彼の武勇を鮮烈に印象づけます。しかし、彼の価値は単なる武力に留まりません。三河一向一揆や伊賀越えといった絶体絶命の危機において示した家康への揺るぎない忠誠心は、主従関係の理想形として後世に語り継がれました。時に主君を諫めることも厭わない率直さは、家康との深い信頼関係の証左であり、徳川家臣団の強固な結束力を象徴しています。
さらに、大多喜藩や桑名藩の藩主として見せた領国経営の手腕は、彼が戦場だけでなく、平時においても優れた能力を発揮したことを示しています。城郭の整備や城下町の発展に尽力し、民政にも心を配ったことは、武士が新たな時代に適応していく姿を体現していました。
本多忠勝の生き様は、武士道の理想とされる勇気、忠義、誠実さ、そして仁愛の精神を体現したものでした。彼の功績と人格は、敵であった豊臣秀吉や織田信長からも称賛されるほどであり、その影響力は同時代に留まりません。彼の物語は、徳川幕府の正当性を補強する一つの要素となり、江戸時代の武士の規範形成にも影響を与えたと考えられます。現代においても、小説、ドラマ、ゲームなどを通じてその英雄譚が語り継がれ、多くの人々を魅了し続けていることは、本多忠勝が日本の歴史において不滅の輝きを放つ存在であることを証明しています。彼は、激動の時代を駆け抜けた真の武人として、そして徳川の平和を築いた功労者の一人として、永く記憶されるべき人物です。