本多政朝(ほんだ まさとも)。その名は、祖父である徳川四天王・本多忠勝や、悲劇の姫・千姫を妻とした兄・忠刻の華々しい名声の影に隠れがちである。しかし、彼の生涯は、戦国の動乱が終焉を迎え、徳川による泰平の世が盤石なものへと移行していく時代の転換点を象徴している。政朝は、武勇によって家名を轟かせる「戦国武将」ではなく、巨大な名跡を継承し、一族の安寧を維持する責務を負った「近世大名」としての役割を担った人物であった。彼の人生は、個人の武功や野心によって切り拓かれたものではなく、血の宿命と一族に降りかかる予期せぬ出来事の連続によって形作られた。
本稿では、本多政朝の生涯を、その出自から予期せぬ家督相続、姫路藩主としての治世、そして彼の早すぎる死が本多宗家に投じた長い影に至るまで、徹底的に詳述する。彼の人生を通じて、徳川譜代の名門が直面した栄光と苦悩、そして時代の変化を浮き彫りにすることを目的とする。政朝の物語は、個人の英雄譚ではなく、「継承」と「管理」を主題とするものであり、徳川幕藩体制下における譜代大名の役割の変化を体現する格好の事例と言えるだろう。
本多政朝の人物像を理解する上で、彼が背負った血と家名の重みをまず解き明かす必要がある。慶長4年(1599年)、関ヶ原の戦いの前年に生を受けた政朝は、徳川家が天下取りへと突き進む激動の時代に誕生した 1 。彼のアイデンティティは、武門の威光、徳川家の血脈、そして将軍家との姻戚関係という三つの強力な要素によって形成されていた。
政朝の祖父は、言わずと知れた徳川四天王筆頭、本多平八郎忠勝である。忠勝は生涯において五十七度の合戦に臨みながら、かすり傷一つ負わなかったと伝えられる伝説的な武将であった 3 。その武勇は敵将からも「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と称賛されるほどであり、本多家は徳川家臣団の中でも別格の武門としての地位を確立していた 4 。忠勝が遺したとされる「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」という家訓は、本多家が重んじる価値観の根幹をなしており、政朝もこの精神的支柱の下で育ったことは想像に難くない 5 。この祖父の絶大な威光は、政朝にとって誇りであると同時に、常に比較される重圧でもあった。
父は忠勝の嫡男である本多忠政、母は徳川家康の長男・松平信康の次女である熊姫(妙高院)であった 6 。父・忠政もまた、小田原征伐での初陣以来、父と共に数々の戦功を挙げ、関ヶ原の戦いや大坂の陣でも活躍した武将である 7 。後に伊勢桑名藩十万石、次いで播磨姫路藩十五万石を領する大名となり、本多宗家の礎を固めた 9 。忠政は武辺一辺倒ではなく、刀剣の目利きとしても知られ、名物「桑名江」を見出した逸話も残っている 11 。
そして、母・熊姫を通じて、政朝は家康の曾孫という極めて高貴な血筋を引くことになった 6 。これは単なる名誉ではない。徳川将軍家との直接的な血縁関係は、本多家の政治的地位を磐石にするものであり、他の譜代大名とは一線を画す権威の源泉であった。政朝の生涯における重要な決断は、常にこの徳川家の血を引く者としての立場を意識したものであったと考えられる。
政朝の青年期、本多家は栄華の頂点を迎える。その象徴が、兄・本多忠刻と、二代将軍・徳川秀忠の長女である千姫との婚姻である 13 。豊臣秀頼の元妻であった千姫を忠刻が娶ったことにより、本多家と徳川将軍家の結びつきは、血縁から姻戚関係へとさらに強化された。
この婚姻に際し、幕府は千姫に十万石という破格の化粧料を与え、忠刻も父・忠政の十五万石とは別に、姫路新田藩として十万石を領した 13 。さらに、この時期に政朝自身も播磨龍野に五万石を与えられ、姉婿の小笠原忠真も明石に十万石を領するなど、本多一族は事実上四十万石に匹敵する、国持大名級の絶大な権勢を誇るに至った 15 。この一族の隆盛を肌で感じながら、政朝は若き日を過ごした。それは輝かしい栄光であると同時に、その巨大な地位と財産を維持し、管理していくことの重圧を早くから認識させる経験でもあっただろう。
以下の表は、本多政朝の生涯における主要な出来事をまとめたものである。
西暦(和暦) |
年齢 |
出来事 |
関連する石高・役職 |
典拠 |
1599年(慶長4年) |
1歳 |
本多忠政の次男として誕生。幼名は鍋之助。 |
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1 |
1615年(元和元年) |
17歳 |
叔父・本多忠朝の大坂夏の陣での戦死に伴い、上総大多喜藩を相続。 |
上総大多喜藩主 5万石 |
1 |
1617年(元和3年) |
19歳 |
本多宗家の姫路移封に伴い、播磨龍野藩へ移封。 |
播磨龍野藩主 5万石 |
6 |
1626年(寛永3年) |
28歳 |
兄・本多忠刻の死去により、本多宗家の嫡子となる。 |
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6 |
1631年(寛永8年) |
33歳 |
父・本多忠政の死去に伴い、家督を相続。 |
播磨姫路藩主 15万石 |
6 |
1638年(寛永15年) |
40歳 |
11月20日、姫路にて死去。 |
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1 |
次男として生まれた政朝が、本多家の巨大な遺産を継承する立場に至ったのは、自らの武功や才覚によるものではなく、彼の意思を超えた運命の連続であった。二人の近親者の「死」が、彼の人生の航路を大きく変えることになる。
最初の転機は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で訪れた。政朝の叔父であり、上総大多喜藩五万石の藩主であった本多忠朝は、勇猛果敢な武将として知られていた。しかし、5月7日の天王寺・岡山の戦いにおいて、豊臣方の毛利勝永隊と激戦を繰り広げた末、三十四歳の若さで討死を遂げた 22 。父・忠勝譲りの武勇を誇った忠朝であったが、その死はあまりにも早かった。
忠朝には嫡男・政勝(後の「鬼内記」)がいたが、この時まだ2歳という幼児であった 20 。戦国の気風が色濃く残る当時、幼君による家督相続は、家臣団の統制や藩の運営に大きな不安をもたらすものと考えられていた。そのため、一族としての判断により、宗家当主・本多忠政の次男であった政朝が、17歳で急遽、叔父の家督を継ぎ、大多喜藩主となることが決まった 1 。これは、政朝にとって最初の、そして予期せぬ大名への就任であった。
大多喜藩主となってわずか2年後の元和3年(1617年)、本多宗家に大きな動きがあった。父・忠政が伊勢桑名藩から、西国の要衝である播磨姫路藩十五万石へと加増移封されたのである 10 。これは、大坂の陣を経てなお西国に睨みを利かせる必要があった徳川幕府の戦略的配置であった。
これに連動し、政朝もまた上総大多喜から播磨龍野五万石へと移された 6 。龍野城は姫路城の西に位置する支城であり、この配置は、宗家である姫路本家を間近で支え、播磨一国の支配を盤石にするという、幕府と本多家の明確な意図に基づいていた。龍野藩主として過ごした約十年間(1617年-1627年頃)、政朝は藩主としての実務経験を積んだ。この時期の具体的な治績に関する詳細な記録は乏しいものの、若き大名として統治の基礎を学び、一藩の経営を担う重責を体得した重要な期間であったことは間違いない 6 。
政朝の運命を決定的に変えた二度目の転機は、寛永3年(1626年)に訪れた。本多家の栄華を一身に体現していた兄・忠刻が、結核のため三十一歳という若さでこの世を去ったのである 6 。忠刻は眉目秀麗な美男子として知られ、千姫との仲も睦まじかったと伝えられるが、その命はあまりにも儚かった。
忠刻と千姫の間には、元和5年(1619年)に嫡男・幸千代が生まれていたが、この子も元和7年(1621年)にわずか3歳で早世していた 28 。これにより、本多宗家の家督を継ぐべき直系の男子が完全に不在となった。この事態を受け、次男であり龍野藩主であった政朝が、突如として姫路十五万石を擁する本多宗家の後継者(嫡子)として指名されることになったのである 1 。彼の人生は、再び近親者の死によって、より重い宿命を背負う方向へと導かれたのであった。
寛永8年(1631年)、父・忠政が五十七歳で死去すると 7 、政朝は三十三歳で正式に本多宗家の家督を相続し、姫路藩十五万石の第二代藩主となった 6 。彼の藩主としての治世は、武功を誇示するものではなく、巨大な一族をまとめ、安定した統治を維持することに主眼が置かれていた。
姫路藩を相続するにあたり、政朝は自身がそれまで領有していた龍野藩五万石の扱いについて、極めて巧みな采配を振るった。彼はこの領地を分割し、近親者に分与したのである。
この措置は、単なる財産分与以上の、高度な政治的判断を含んでいた。弟・忠義への分与は、宗家内の結束を固めるための配慮である。そして、より重要なのが従兄弟・政勝への分与であった。政勝は、かつて政朝が家督を代行した本多忠朝の嫡男である。彼に四万石という破格の領地を与えることは、忠朝家に対する義理を完全に果たし、将来にわたって宗家を支える強力な分家を創設するという深謀遠慮であった。この決断は、本多宗家という巨大な組織の頂点に立つ者として、各方面への配慮を怠らず、一族全体の調和と安定を維持しようとする政朝の「統率者」としての能力を如実に示している。
政朝の姫路藩主としての治世は約7年間と短く、池田輝政が行ったような大規模な城郭改修や、後代の藩主が直面したような深刻な財政難に対する藩政改革といった、歴史に名を刻むような顕著な記録は少ない 31 。しかし、これは彼の無能を意味するものではない。父・忠政の時代に確立された藩の統治体制を堅実に引き継ぎ、安定した運営を行うことこそが、泰平の世に入った当時の大名に最も求められた役割であった。
父・忠政は、剣豪・宮本武蔵を姫路藩の客分として二百石で召し抱え、嫡男・忠刻に剣術を指南させるなど、武芸への関心が非常に高かったと伝えられている 12 。しかし、政朝に関して同様の逸話は見当たらない。これは、彼の関心が個人の武勇よりも、一族の調和や藩の安定運営といった、より実務的な統治にあったことを示唆している。
また、彼の後継者となった本多政勝が、父・忠朝の通称「内記」を受け継ぎ、「鬼内記」あるいは「大内記」と称されるほどの豪勇の士であったと伝えられるのとは、極めて対照的である 20 。この比較からも、政朝が武勇よりも、むしろ統治者としての実務能力や調整能力に長けた、いわば「調整型」のリーダーであった可能性が浮かび上がってくる。彼の最大の功績は、戦ではなく、家中の安寧を守ったことにあったと言えるだろう。
藩主として本多宗家を率いた政朝であったが、その治世はあまりにも短かった。寛永15年(1638年)11月20日、政朝は四十歳でこの世を去る 1 。彼の早すぎる死は、家族、そして本多家の未来に、極めて複雑で困難な問題を突きつけることになった。
政朝の正室は、彼がかつて家督を代行した叔父・本多忠朝の長女である千代であった 17 。これは従兄妹同士の婚姻にあたる。この縁組は、忠朝家と宗家との関係を考えれば、両家の結びつきを強化し、一体化させるための政略的な意味合いが極めて強かったと見られる。政朝が忠朝家の当主であった期間がある以上、その正統な血を引く女子を娶ることは、一族内の融和を図る上で自然な流れであった。
正室・千代との間には、寛永10年(1633年)に嫡男の政長が、続いて次男の政信が生まれていた 34 。本多宗家の血脈は、こうして次代へと受け継がれるはずであった。しかし、政朝が病に倒れ、死期を悟った時、希望の光であったはずの嫡男・政長は、わずか六歳というあまりにも幼い年齢であった 20 。
ここに、本多家の存続を揺るがす大問題が持ち上がった。おそらくは戦国の遺風として、本多家には「幼君に家督を継がせてはならぬ」という不文律、あるいは家訓が存在したとされている 35 。幼い当主では、歴戦の家臣団をまとめ上げ、幕府からの軍役や普請といった様々な要求に応えるという、大名としての重責を到底果たすことはできない。家が取り潰される危険さえあった。
このため、政朝は死の床で、一族の未来を左右する重大な決断を下す。自らの嫡男・政長ではなく、従兄弟であり、かつて自身の旧領四万石を与えた本多政勝を養子として迎え、宗家の家督を継がせるという遺言を残したのである 6 。この時、政勝は二十五歳。武勇にも定評があり、何より徳川四天王・忠勝の血を引く直系の孫である 25 。宗家の家督を継ぐにふさわしい人物と見なされたのは当然であった。
これは、我が子に家を継がせたいという親としての私情を抑え、一族の安泰と存続という大義を選んだ、政朝の苦渋の決断であった。彼の生涯を貫く「一族の安寧を最優先する」という姿勢の、まさに集大成とも言える選択であった。しかし、この決断は同時に、極めて複雑で危険な継承の構図を生み出した。「本来の正統な相続人(政長)」と、「中継ぎの相続人(政勝)」という二つの正統性が、一つの家の中に並立することになったからである。政朝は、政長が成人した暁には家督を返還するよう遺言したとも伝えられるが 34 、その口約束は、次世代に深刻な対立の火種を残すことになったのである。
本多政朝の死と、彼が遺した複雑な相続問題は、彼の死後、次世代において「九・六騒動」と呼ばれる深刻なお家騒動へと発展する。この騒動の根源は、すべて政朝の死に際に遡ることができる。彼の善意の決断は、皮肉にも一族を二分する悲劇の引き金となった。
寛永15年(1638年)、政朝の遺言通り、本多政勝が姫路藩十五万石の家督を相続した 10 。しかし、そのわずか1年後の寛永16年(1639年)、幕府は突如として国替えを命じる。政勝は大和郡山藩十五万石へ移封され、姫路には親藩の松平忠明が入った 10 。これは、西国の要衝である姫路から、強大な譜代大名である本多家を移すことで、その勢力を牽制しようとする幕府の政策の一環であった可能性が指摘されている。政勝は、政朝の遺児である政長・政信兄弟を養子として引き取り、新たな領地である大和郡山へと伴った 25 。
当初、政勝はあくまで「中継ぎ」の当主であり、政朝の遺言通り、養子である政長が成人すれば家督は返還されるはずであった 34 。しかし、時が経ち、政勝が郡山藩主としての地位を固めるにつれて、その心中に変化が生じ始める。彼は、自らの実子である本多政利に家督を継がせたいと画策し始めたのである 34 。
ここに、家中を二分する深刻な対立の構図が生まれた。「本来の正統な後継者」であり、政朝の遺言を盾に家督返還を求める政長派と、「現当主の実子」であり、父の権力を背景に家督を狙う政利を推す政勝派である。政朝が政勝に分与した四万石の領地は、政勝家の発言力を強め、結果として宗家の家督に介入する力を与えることになっていた。
寛文11年(1671年)、本多政勝が五十八歳で死去すると、水面下で燻っていた家督相続問題が一気に表面化した 25 。政利は、時の幕府大老であった酒井忠清に働きかけるなど、幕政の中枢を巻き込んだ裏工作を展開した 35 。
数年にわたる混乱の末、幕府の裁定が下った。大和郡山藩十五万石は、政長が九万石、政利が六万石を相続するという形で、前代未聞の分割相続となったのである 10 。これが、世に言う「九・六騒動」の名の由来である。政長は以前から相続していた新田三万石と合わせて十二万石の大名となったが、徳川四天王筆頭の名跡である本多宗家の石高は実質的に減少し、その権威は大きく損なわれた。この騒動の経緯は『九六騒動記』として記録されている 39 。
騒動はこれで終わらなかった。延宝7年(1679年)、藩主・本多政長が四十七歳で急死する。これは、分割相続に強い恨みを抱いた政利一派による毒殺であったと伝えられている 20 。その後、当主となった政利も、領内での悪政や不行状を咎められ、最終的には改易処分となり、大名としての地位を失った 41 。
一族の安泰を願い、苦渋の決断で政勝に家督を譲った本多政朝の遺志は、皮肉にも次世代における深刻な対立と宗家の弱体化という、彼が最も望まない結果を招いてしまった。彼の物語は、個人の意図を超えて歴史が動いていく非情さと、一つの決断が後世に及ぼす影響の大きさを我々に教えてくれる。
本多政朝の四十年の生涯は、戦国の英雄たちのそれとは明確に趣を異にする。彼は自ら槍を振るって領地を切り拓くのではなく、徳川四天王の孫、将軍家の縁戚という、生まれながらに与えられた重責を全うすることにその人生を捧げた。叔父と兄の相次ぐ死によって予期せずして宗家の当主となり、一族の結束を維持するために細心の注意を払ったその統治は、まさに泰平の世における「守りの統治者」の姿であった。
しかし、彼の最大の功績であり、同時に最大の悲劇の源泉となったのは、その死に際しての決断であった。嫡男・政長の幼さゆえに、一族の安泰を願って従兄弟の政勝を後継者としたその選択は、短期的には本多家を存続の危機から救った。だが、それは結果として「九・六騒動」という深刻な内紛の火種を次世代に残し、本多宗家の勢力を削ぐ遠因となったのである。
本多政朝の物語は、個人の意図や善意が、時として歴史の大きな潮流の中でいかに皮肉な結果を生むかを示す一例である。彼は、戦国の遺風と近世の秩序が交錯する過渡期にあって、名門の継承者としての責務を誠実に果たそうとした。その静かなる生涯と、彼の死後に巻き起こった激しい騒動は、徳川の世を支えた譜代大名家の栄光と、その内に潜む危うさを、今に伝えている。