本山親茂は土佐の名門本山氏最後の当主。宿敵長宗我部元親に降伏後、その嫡男信親の家老となり、戸次川の戦いで信親と共に討死した。
本山親茂(もとやま ちかしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて土佐国(現在の高知県)にその名を刻んだ武将である。彼の生涯は、二つの相克する側面によって定義される。一つは、かつて土佐国で最大級の勢力を誇った名門「本山氏」の最後の当主としての矜持。そしてもう一つは、その本山氏を滅亡寸前に追い込んだ宿敵・長宗我部元親の甥であり、降伏後はその嫡男・信親の腹心の家老となったという、極めて複雑な立場である。
天文14年(1545年)頃に生を受け、天正14年(1586年)にその生涯を閉じるまで、親茂の人生は土佐国が最も激しく揺れ動いた時代と完全に重なっている 1 。当初は「貞茂(さだしげ)」と名乗った彼が、長宗我部氏への臣従を機に元親から一字を与えられ「親茂」と改名した事実は、その生涯が個人の意志を超えた大きな力のうねりの中で、劇的な転換を遂げたことを象徴している 1 。
本報告書は、本山親茂という一人の武将の伝記にとどまらず、彼が背負った本山氏の栄光と没落の歴史、長宗我部氏による土佐統一という地域的変動、そして豊臣政権による全国統一というマクロな歴史的文脈の中に彼を位置づけることで、その生涯の軌跡と歴史的意味を多角的に解明することを目的とする。彼の人生は、地方の覇権争いがやがて中央の巨大な権力構造に飲み込まれていく戦国時代の縮図そのものであった。
西暦(和暦) |
本山親茂(貞茂)の動向 |
本山氏の動向 |
長宗我部氏の動向 |
中央(日本全体)の情勢 |
1545年(天文14年)頃 |
誕生。初名は貞茂 1 。 |
父は本山茂辰、母は長宗我部国親の娘 1 。 |
長宗我部元親の姉が茂辰に嫁ぐ 4 。 |
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1555年(弘治元年) |
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祖父・本山茂宗が病死。本山氏の勢いに陰りが見え始める 6 。 |
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1560年(永禄3年) |
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長浜の戦いで長宗我部軍に大敗。勢力図が逆転する 9 。 |
長宗我部元親、長浜の戦いで初陣を飾り、「鬼若子」と称される 9 。父・国親が病死し、元親が家督を継ぐ 11 。 |
桶狭間の戦い。 |
1562年(永禄5年) |
朝倉城攻防戦で初陣。元親の本陣を脅かす奮戦を見せ、長宗我部軍を撃退する 1 。 |
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元親、朝倉城を攻めるも貞茂の活躍により敗退 1 。 |
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1563年(永禄6年) |
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長宗我部氏の攻勢と家臣の離反により、朝倉城を放棄し本山城へ撤退 6 。 |
元親、弟の親貞に吉良氏を継がせる 11 。 |
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1564年(永禄7年) |
父・茂辰が病死し、家督を継承。瓜生野城で抵抗を続ける 15 。 |
本山城を放棄。瓜生野城へ後退 6 。 |
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1571年(元亀2年)頃 |
長宗我部氏に降伏。元親から「親」の字を与えられ「親茂」と改名。一門衆に加えられる 1 。 |
戦国大名としての本山氏は実質的に滅亡 19 。 |
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織田信長、比叡山を焼き討ち。 |
1575年(天正3年) |
長宗我部信親の家老として仕える 19 。 |
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元親、四万十川の戦いで一条氏を破り、土佐を完全に統一 11 。 |
長篠の戦い。 |
1585年(天正13年) |
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豊臣秀吉の四国征伐により降伏。土佐一国を安堵される 17 。 |
豊臣秀吉、関白に就任。 |
1586年(天正14年) |
豊臣秀吉の九州征伐に従軍。12月、戸次川の戦いで主君・信親と共に討死(享年42) 1 。 |
親茂の死により嫡流は断絶 24 。 |
元親、嫡男・信親を失い、長宗我部家衰退の端緒となる 25 。 |
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本山親茂の生涯を理解する上で、彼が背負った「名門・本山氏」の歴史的背景は不可欠である。彼の祖父の代に築かれた栄光と、父の代に始まった衰退の兆しは、親茂自身の運命を大きく規定することになる。
本山氏の出自については諸説あるが、『土佐物語』などによれば、清和源氏吉良氏の庶流である八木氏が土佐国長岡郡本山郷に土着し、地名をとって本山を称したのが始まりとされる 24 。その本拠地である本山郷は、四国山脈の懐深くに位置し、吉野川が流れるものの、農耕に適した平野は少なく、経済的には恵まれた土地ではなかった 6 。この地理的条件こそが、のちに本山氏が平野部への進出、すなわち「南進政策」を推し進める大きな動機となった。彼らの拠点であった本山城は、この嶺北の地に築かれた、まさに山間の要害であった 18 。
本山氏がその名を土佐全土に轟かせたのは、親茂の祖父にあたる本山茂宗(梅慶とも号す)の時代である 6 。茂宗は、山間部の本拠から、経済的に豊かで交通の要衝でもある土佐中央部の高知平野へと積極的に勢力を拡大した 4 。その南進政策の拠点として、天文年間(1532年頃)に朝倉城を築城し、本拠を移す 14 。
武勇に優れた茂宗は、吉良氏を滅ぼし、当時台頭しつつあった長宗我部氏や、公家大名として別格の存在であった土佐一条氏をも圧倒するほどの力を持った 6 。1550年頃には、土佐国の有力豪族「土佐七雄」の中で、一条氏を除けば最大の勢力を誇るに至り、その所領は5000貫に達したと記録されている 4 。この時代が、本山氏の歴史における絶頂期であった。
しかし、その栄光は長くは続かなかった。弘治元年(1555年)、知勇兼備の名将であった茂宗が病死すると、その子で親茂の父にあたる本山茂辰が家督を継いだが、偉大な当主の死は本山氏の勢いに陰りをもたらした 6 。
時を同じくして、かつて本山氏らによって滅ぼされた長宗我部氏では、当主・国親が土佐一条氏の庇護を受けて旧領の岡豊城に復帰し、着実に力を蓄えていた 5 。当初、両家の緊張緩和を図る一条氏の仲介により、国親の娘、すなわち長宗我部元親の姉が茂辰に嫁ぎ、その間に貞茂(後の親茂)が誕生するという婚姻同盟が結ばれた 1 。しかし、これは一時的な融和に過ぎなかった。勢力を拡大する長宗我部氏と、それを警戒する本山氏との衝突は避けられず、茂辰の配下が長宗我部方の兵糧米を積んだ輸送船を略奪する事件が発生すると、両者の関係は決定的に悪化し、全面的な抗争へと突入していく 9 。
本山氏の発展と衰退は、その領国経営の根幹をなす地政学的戦略に起因する。祖父・茂宗による嶺北から高知平野への「南進政策」は、経済的利益を追求する上で合理的であったが、同時に致命的な戦略的脆弱性を生み出した。
この南進により、一族の伝統的な本拠地である山間の「本山城」と、経済・軍事の最前線である平野部の「朝倉城」という、二つの中心が地理的に分断された。これは、有事の際に長い補給線と広大な防衛線を維持しなければならないことを意味した。この弱点を的確に突いたのが、高知平野の東部、岡豊城を拠点とする長宗我部氏であった。長宗我部氏が台頭し、平野部で直接的な軍事圧力を強めると、本山氏は最前線の朝倉城と、後方の本拠地である本山城との連携を断たれる危険に晒された。山間部の本拠からの効果的な支援は困難となり、平野部の領地は蚕食されていった。
結果として、本山氏は長宗我部氏によって平野部と山間部の双方から圧迫される「挟撃」の形に陥ったのである。親茂が歴史の表舞台に登場する頃には、本山氏は祖父の代の栄光とは裏腹に、戦略的に極めて不利な状況に追い込まれていた。彼の前半生は、この地政学的な失敗の帰結と向き合う、苦しく勝ち目の薄い防衛戦の連続であったと言える。
コード スニペット
graph TD
subgraph 本山家
M_Shigemune[本山茂宗<br>(祖父)] --> M_Shigetoki[本山茂辰<br>(父)];
M_Shigetoki --> M_Chikashige[本山親茂/貞茂<br>(本人)];
M_Shigetoki --> M_Shigeyoshi[弟: 茂慶];
M_Shigetoki --> M_Shigenao[弟: 茂直];
end
subgraph 長宗我部家
C_Kunichika[長宗我部国親] --> C_Motochika[長宗我部元親<br>(叔父)];
C_Kunichika --> C_Ane[元親の姉<br>(母)];
C_Motochika --> C_Nobuchika[長宗我部信親<br>(従兄弟/主君)];
end
C_Ane -- 婚姻 --> M_Shigetoki;
注:本図は主要な人物関係を簡略化して示している。
親茂(当時は貞茂)が歴史の表舞台に登場するのは、本山氏がまさに落日の時を迎えつつある時期であった。彼は父祖伝来の領地を守るため、叔父である長宗我部元親を相手に激しく、そして悲壮な戦いを繰り広げることになる。
本山氏と長宗我部氏の力関係を決定的に変えたのが、永禄3年(1560年)5月の長浜の戦いである 9 。この戦いで、本山軍は2,500の兵力を擁しながらも、長宗我部国親・元親率いる1,000の兵に敗北を喫した 9 。この戦いは、長宗我部元親が「姫若子」という不名誉な渾名を返上し、「鬼若子」と畏怖されるきっかけとなった伝説的な初陣として知られる 9 。この一戦を境に、本山氏は完全に守勢に立たされ、長宗我部氏による土佐中央部平定が加速していく 9 。
長浜での敗戦から2年後の永禄5年(1562年)9月、元親は3,000の兵を率いて本山氏の平野部における拠点・朝倉城に大攻勢をかけた 11 。この戦いが、当時まだ若かった貞茂(親茂)の初陣であったとされ、彼の武将としての器量が初めて示された戦いであった 13 。
軍記物『土佐物語』には、この時の貞茂の勇猛果敢な姿が生き生きと描かれている。彼は城兵の士気を鼓舞するため、ただ一騎で城の大門を開いて長宗我部軍の前に進み出ると、堂々と名乗りを上げ、敵の総大将である元親本人に向かって矢を放った。その矢は元親が着用していた鎧の草摺(くさずり)の裏まで深く突き通したという 3 。
この貞茂の奮戦もあり、本山軍は長宗我部軍を撃退することに成功した。この鴨部の宮前での決戦で、本山方は敵兵511人を討ち取るという戦果を挙げた 1 。しかし、この勝利は大きな犠牲の上に成り立っていた。本山方も郎党85人、兵士235名が戦死しており、まさに痛み分けの激戦であった 1 。この戦いぶりから、親茂は「父の茂辰に勝る勇将だった」と後世に伝えられている 1 。
朝倉城での戦術的勝利も、本山氏の戦略的な劣勢を覆すには至らなかった。長宗我部元親は武力だけでなく調略を駆使し、本山氏の家臣団を切り崩していった。主家の先行きを不安視した家臣たちが次々と元親に寝返り、本山氏の組織は内側から崩壊し始めた 6 。
永禄6年(1563年)1月、ついに朝倉城の維持を断念した茂辰と貞茂は、城に火を放ち、一族本来の本拠地である嶺北の本山城へと撤退した 6 。同年5月、本山方は起死回生を狙い、長宗我部氏の本拠・岡豊城への奇襲攻撃を敢行する。しかし、この決死の反撃も元親配下の秦泉寺大和守らの奮戦によって阻まれ、失敗に終わった 16 。この時、攻撃の陽動のために放った火が、土佐国一宮である土佐神社に燃え移り、社殿が焼失したと記録されている 16 。
永禄7年(1564年)4月、長宗我部軍の執拗な追撃の前に、本山城をも放棄せざるを得なくなった本山一族は、さらに山深い最後の拠点・瓜生野城に籠もり、徹底抗戦の構えを見せた 6 。この絶望的な籠城戦の最中、当主であった父・茂辰が病によりこの世を去る(降伏後に生存していたとの異説もある 1 )。これにより、貞茂が名実ともに本山氏の当主として、一族の命運をその双肩に担うことになった 16 。
その後も数年にわたり抵抗を続けたが、衆寡敵せず、ついに降伏を決意する。その時期については、永禄11年(1568年)冬とする説 1 と、元亀2年(1571年)とする説 1 が存在する。近年の研究では、貞茂が当主として発給した文書が元亀2年(1571年)正月まで存在することが確認されており、後者の説が有力視されている 1 。いずれにせよ、この降伏によって、戦国大名としての本山氏の歴史は、事実上ここで幕を閉じたのである。
本山親茂の武将としてのキャリアは、朝倉城での輝かしい活躍で幕を開けながらも、その後の彼の戦いは一貫して組織の衰退と敗北の歴史の中にあった。彼は「父に勝る勇将」 1 、「骨格は逞しく心は剛直、弓の名手」 3 と評されるほどの個人的武勇の持ち主であった。
しかし、彼が奮戦した時点で、本山氏という組織はすでに末期的な状況にあった。長宗我部氏の巧みな調略によって有力家臣は次々と引き抜かれ 6 、平野部の経済基盤と戦略的拠点を失い、内部崩壊の兆しは誰の目にも明らかであった 24 。
親茂個人の奮戦は、局地的な戦闘で一時的に敵を退けることはできても、組織全体の衰退という大きな流れを押しとどめることはできなかった。彼の戦いは、あたかも沈みゆく巨大な船の上で、たった一人奮闘する英雄の姿を彷彿とさせる。彼の降伏は、個人の能力の限界を示すものではなく、組織としての戦略的敗北がもたらした必然的な結末であった。その奮戦が華々しいほど、本山氏の落日という結末の悲劇性はより一層際立つのである。
滅亡の淵に立たされた本山親茂であったが、彼の人生はここで終わらなかった。かつての宿敵・長宗我部元親の下で、彼は意外な形で再生を遂げる。この異例の処遇は、元親の政治家としての器の大きさと、冷徹な計算の両面を物語っている。
降伏した親茂に対し、元親は驚くべき寛容さを示した。その武勇と、旧本山勢力に対する影響力を高く評価した元親は、親茂を厚遇をもって迎えたのである 6 。
その証として、元親は自らの名前から「親」の一字を偏諱として与え、貞茂は「親茂」と改名した 1 。これは単に家臣になることを超え、主君との特別な関係性に入ることを意味する。さらに親茂は、長宗我部家の血族や最有力家臣で構成される中枢組織「一門衆」に加えられた 1 。旧敵対勢力の当主がこのような待遇を受けるのは極めて稀であり、元親の人物評価の確かさと、領国を安定させるための高度な政治判断がうかがえる。
親茂は、長宗我部家臣として一族を養うための知行地として「73町余」を与えられたと伝わる 3 。戦国時代の土佐における検地では、土地の等級にもよるが、おおむね1町あたり10石前後の石高(米の収穫量)に換算されるのが一般的であった 44 。
これを基に計算すると、親茂に与えられた知行は約730石余に相当する。これは長宗我部家臣団の中でも上級武士に与えられる知行高であり、彼の武将としての能力と、旧本山領の国人衆を掌握する上での重要性が、経済的な処遇の面からも高く評価されていたことを示している 47 。
親茂に与えられた最も重要な役割は、元親の嫡男であり、長宗我部家の未来を担うと期待された長宗我部信親の家老に任命されたことであった 1 。家老とは、主君を補佐し、家中を取り仕切る家臣の最高職位である 50 。親茂は信親の側近として、軍事・政治の両面で若き主君を支える重責を担うことになった。
実際に、長宗我部氏が土佐統一後に四国制覇を目指して伊予国へ侵攻した際には、親茂は信親の配下としてその軍事能力を遺憾なく発揮し、活躍したと記録されている 1 。
元親が親茂を厚遇し、あまつさえ自らの後継者の傅役(もりやく)ともいえる家老に抜擢したのは、単なる血縁(親茂は元親の甥にあたる)を重視した温情主義からではない。それは、長宗我部氏の支配体制を盤石にするための、高度な政治的計算に基づいた領国経営戦略の一環であった。
第一に、親茂は滅ぼされたとはいえ、旧本山領である嶺北地方の国人や、長宗我部氏の軍事力の根幹をなす「一領具足」と呼ばれる半農半兵の兵士たちに対して、依然として強い影響力を持っていた。彼を処断すれば、この地域に拭い去れない禍根を残し、長宗我部氏の支配は常に不安定なものになったであろう 4 。
第二に、その親茂を、自らの後継者である信親の家老に据えることには、複数の狙いがあった。これは、旧土佐最大勢力であった本山氏の権威が、正式に長宗我部氏の次代(信親)へと引き継がれたことを内外に知らしめる、強力な政治的パフォーマンスであった。武力による征服だけでなく、権威の継承という形で支配の正統性を構築する狙いがあった。また、元親自身がその武勇を認めた親茂を、将来を託す嫡男の側近とすることで、その軍事経験を後継者教育に活かすという、極めて合理的な人材活用でもあった。
最後に、親茂に破格の待遇と重要な役割を与えることで、彼の忠誠心を引き出し、旧本山勢力を完全に長宗我部体制へと組み込むことができる。親茂の後半生は、元親の巧みな「敵将活用術」と領国統治術を体現する存在となった。彼は単なる一武将ではなく、本山氏から長宗我部氏への権力移行を円滑に進め、新体制を安定させるための重要な「楔(くさび)」としての役割を担わされたのである。
土佐を統一し、一時は四国の覇者となった長宗我部氏も、天下統一を進める豊臣秀吉の圧倒的な力の前に臣従を余儀なくされる。これにより、本山親茂の運命もまた、土佐一国にとどまらない、日本全体の大きな戦いの渦へと巻き込まれていく。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐の結果、長宗我部氏は伊予・讃岐・阿波の三国を没収され、土佐一国のみを安堵される形で豊臣政権に臣従した 17 。
その翌年である天正14年(1586年)、秀吉は九州統一を目指す島津氏の討伐を決定(九州征伐)。長宗我部元親・信親父子は、豊臣軍の先遣隊として九州・豊後国へ渡海するよう命じられた。本山親茂も、主君である信親の家老としてこの軍に従った 1 。しかし、この先遣隊は、総大将格の軍監に仙石秀久、そしてかつて元親に四国から追われた十河存保なども加わっており、指揮系統や人間関係に大きな問題を抱えた寄せ集めの部隊であった 54 。
豊後国に上陸後、島津家久率いる大軍に包囲された味方の大友氏の居城・鶴賀城を救援するか否かをめぐり、軍議は紛糾した 54 。
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豊臣方先遣隊 |
島津軍 |
総兵力 |
約6,000 |
約18,000 |
総大将(軍監) |
仙石秀久 |
島津家久 |
主要武将 |
長宗我部元親 長宗我部信親 本山親茂 十河存保 |
新納忠元 伊集院忠棟 ほか |
長宗我部元親は、上表の通り敵との圧倒的な兵力差を冷静に分析し、味方の増援部隊が到着するまで待つべきだと慎重論を強く主張した 54 。しかし、軍監である仙石秀久は手柄を焦るあまり、この意見を「臆病者の沙汰」と一蹴。かつて四国で元親に煮え湯を飲まされた経験のある十河存保も秀久に同調したため、元親の現実的な進言は退けられ、戸次川(現在の大分県大分市を流れる大野川)を渡って即時攻撃するという無謀な作戦が強行されることとなった 25 。
軍議の決定に従い、豊臣軍が戸次川を渡り始めると、事態は元親の危惧した通りに進んだ。川を渡りきったところで、待ち構えていた島津軍の術中にはまる。偽の退却で敵を深追いさせて包囲殲滅する、島津氏伝統の得意戦術「釣り野伏せ」であった 57 。
伏兵に三方から一斉に襲いかかられた豊臣軍は大混乱に陥り、組織的な抵抗もできないまま壊滅的な打撃を受けた。仙石秀久は早々に戦場から逃亡し、元親も辛うじて離脱したが、多くの将兵がこの地に散った。
この乱戦の中、本山親茂は主君である長宗我部信親の側を離れず、最後まで奮戦を続けた。信親は、文武に優れ、織田信長からもその器量を高く評価されたほどの、長宗我部家の未来を一身に背負う若き当主であった 57 。
しかし、島津軍の猛攻は凄まじく、衆寡敵せず、信親はついに力尽き討死。その主君を守り続けた親茂もまた、信親と運命を共にし、この戸次川の露と消えた 1 。享年42であった 1 。
この戦いでの最愛の嫡男・信親の死は、元親に計り知れない衝撃を与え、その後の彼の判断力を狂わせた。これが長宗我部家の後継者問題の迷走と家中の混乱を招き、ひいては関ヶ原の戦いでの改易へと繋がる、長い衰退の始まりとなったのである 25 。
本山親茂の死は、一人の武将の忠義の証であると同時に、彼の生涯を貫く「歴史の皮肉」を最も象徴的に示している。
第一に、彼が命を捧げた相手は、かつて自らの一族を滅ぼした宿敵・長宗我部元親の最愛の息子であった。これは、彼が降伏後、完全に長宗我部家の一員として再生し、信親の家老としての職務を命がけで全うしたことの何よりの証明である。
第二に、彼が死なねばならなかった直接の原因は、軍監・仙石秀久の功名心に駆られた無謀な作戦決定にある。秀久が元親の的確な進言を退けた背景には、かつて四国で元親にしてやられた個人的な恨みや対抗心があったと指摘されている 54 。
ここに、歴史の皮肉が浮かび上がる。親茂は、「元親の息子」である信親に忠義を尽くした結果、その「元親を個人的に憎む男」の誤った判断によって、主君と共に死地に追いやられたのである。彼の運命は、長宗我部家を取り巻く過去と現在の複雑な人間関係が交錯する一点で、悲劇的な結末を迎えた。その最期は、単なる忠臣の美談にとどまらず、戦国時代の人間関係の複雑さと、個人の力では抗うことのできない大きな政治的力学の非情さを示す、極めて示唆に富んだ出来事であったと言えよう。
本山親茂の生涯は、戦国乱世の激動と非情さを凝縮したものであった。彼の人生と死が、土佐の歴史、そして彼が仕えた長宗我部家に何を残したのかを考察することで、本報告を締めくくる。
本山親茂は、土佐最大の名門の最後の当主として、一族の存亡をかけて戦い、そして敗れた。しかし、彼の物語はそこで終わらなかった。降伏後は宿敵の家臣として再生し、新たな主君となった若き嫡男に忠義を尽くし、その命を守って戦場で散った。栄光、没落、再生、そして忠死という、まさに激動の時代を体現した武将であった。彼の人生は、個人の武勇だけでは覆せない組織の衰退という現実と、敵味方の関係を超えて生まれる主従の絆という、戦国時代の二つの側面を我々に示している。
戸次川における親茂の死は、長宗我部家にとって、単に有能な武将を一人失った以上の意味を持っていた。この敗戦で、長宗我部家は未来の後継者である信親と、その信親を軍事・政治の両面で支えるはずだった経験豊富な家老・親茂を同時に失ったのである。これは元親にとって二重の打撃であり、彼の精神的な支柱を根底から揺るがした。信親の死後、元親が後継者問題で迷走し、家中に深刻な対立を生んだことはよく知られているが、もし親茂が生きていれば、その知見と旧本山勢力への影響力をもって、この混乱を抑える役割を果たせた可能性は否定できない。親茂の死は、長宗我部家が衰退へと向かう坂道を、さらに大きく転がり落とす一因となったのである 25 。
親茂の戦死により、本山氏の嫡流は断絶したとされる 24 。ただし、親茂の弟である本山内記茂慶が家督を継いだとする説も存在する 1 。いずれにせよ、戦国大名としての本山氏は完全に終焉を迎えたが、一族が根絶やしにされたわけではなかった。
親茂の弟やその一族など、本山氏の血を引く人々は、関ヶ原の戦いの後に土佐の新領主となった山内家に仕え、土佐藩士として武士の家名を後世に伝えた 19 。時代は下り、近代になると、この本山氏の支族から一人の著名な芸術家が生まれる。高知・桂浜に立つ坂本龍馬像や、高知城の板垣退助像などを制作した彫刻家・本山白雲である 19 。かつて土佐の覇権を争った驍将の血脈は、形を変えながらも故郷の地に受け継がれ、新たな形で歴史にその名を刻んだのである。