最終更新日 2025-07-13

本庄実乃

本庄実乃の生涯と上杉政権における役割 ― 軍神・上杉謙信の傅役、その実像に迫る

序論:軍神を育てた傅役、本庄実乃

戦国時代の越後国にその名を刻む武将、本庄実乃(ほんじょう さねより)。彼の名は、後世「軍神」「越後の龍」と畏怖された上杉謙信、若き日の長尾景虎の傅役(もりやく)として、歴史に記憶されている 1 。景虎がまだ何者でもなかった少年期からその非凡な器量を見抜き、栃尾城に迎えて薫陶を授け、初陣を輝かしい勝利に導いた側近中の側近。これが、本庄実乃に与えられた一般的な評価である。

しかし、その評価は彼の生涯の一側面に過ぎない。彼の功績は、単なる後見人という属人的な役割に留まらず、黎明期の上杉政権の基盤を築き、その安定に不可欠な役割を果たした政治家としての一面をも併せ持つ。にもかかわらず、その具体的な実像は、主君である謙信の圧倒的な光芒の影に隠れ、多くの謎に包まれているのが現状である。

本報告書は、現存する断片的な史料や伝承を統合的かつ批判的に分析し、本庄実乃という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げ、その多角的な人物像を再構築することを目的とする。特に、以下の四つの論点、すなわち①出自の曖昧さと、同姓の有力国人・本庄繁長との関係、②景虎の初陣「栃尾城の戦い」における真の役割、③上杉家臣団内部の深刻な政争における彼の立場、そして④彼の死後に一族が辿った悲劇的な末路、これらを解明することを通じて、本庄実乃の実像に迫る。彼の生涯を解き明かすことは、軍神・上杉謙信という英雄の誕生の背景を理解し、ひいては戦国期越後の政治構造を深く知るための不可欠な鍵となるであろう。


表1:本庄実乃 略年譜

西暦(和暦)

実乃の年齢(推定)

主要な出来事

典拠・備考

1507年(永正4)?

0歳?

生誕(諸説あり)

4

1511年(永正8)?

0歳?

生誕(有力説の一つ)

5

1543年(天文12)

33歳?

長尾景虎(後の上杉謙信、当時14歳)が栃尾城に入城。実乃がその傅役(後見人)となる。

1

1544年(天文13)

34歳?

栃尾城の戦い。実乃の補佐のもと、景虎が反乱国人衆を破り初陣を飾る。

1

1548年(天文17)

38歳?

景虎が兄・晴景から家督を相続。実乃は政権の中枢に参画し、奉行職に就く。

1

1556年(弘治2)

46歳?

家臣間の領地争いが激化。実乃は上野家成方に、大熊朝秀は下平吉長方に加担し対立。これが原因で謙信が出家騒動を起こす。最終的に大熊朝秀は敗れ、武田信玄のもとへ出奔。

2

1561年(永禄4)

51歳?

第四次川中島の戦いに参陣。

2

1575年(天正3)?

65歳?

死去(諸説あり)

5

1578年(天正6)?

68歳?

謙信の死に際し殉死したとする説がある。

10

1578年(天正6)

-

御館の乱が勃発。実乃の子・本庄秀綱は上杉景虎方に与する。

8

1580年(天正8)

-

栃尾城が上杉景勝軍の攻撃により落城。秀綱は敗走し、実乃の家系は事実上滅亡する。

10


第一章:本庄氏の系譜と実乃の出自

本庄実乃という人物を理解する上で、まず解決すべきは、彼が越後国の複雑な勢力図の中で、どのような出自を持つ一族であったかを特定することである。特に、戦国史においてより著名な同姓の武将、本庄繁長との関係性を明確に区別することは、彼の政治的立場を定義する上で極めて重要となる。

1.1 越後における二つの「本庄氏」

戦国期の越後には、本庄姓を名乗る有力な一族が少なくとも二つ存在した。これらを混同することは、当時の越後の政治力学を根本的に誤解する原因となるため、両者の違いを明確にする必要がある。

第一の系統は、本報告書の主題である 本庄実乃 が属した、古志郡栃尾城(現在の新潟県長岡市栃尾)を本拠とする一族である 1 。この系統は、謙信の父である長尾為景の代から越後守護代・長尾氏に仕える譜代の家臣であり、長尾政権の中枢を担う存在であった 1 。彼らの立場は、主君の権力と一体化し、その統治機構を支える「中央官僚」的な武士団であったと評価できる。

第二の系統は、 本庄繁長 に代表される、岩船郡本庄城(後の村上城、現在の新潟県村上市)を本拠とした一族である 19 。彼らは「揚北衆(あがきたしゅう)」と総称される、阿賀野川以北に割拠した国人領主の一角であった 21 。揚北衆は、鎌倉時代に地頭として入国した秩父氏の流れを汲み、自らの所領に対する強い独立性を保持していた 23 。事実、本庄繁長は恩賞への不満などから武田信玄と結び、主君である謙信に対して大規模な反乱を起こした経歴を持つ 22 。これは、長尾氏(上杉氏)との関係が、絶対的な主従というよりは、利害によって変動する同盟に近いものであったことを示している。

このように、本庄実乃と本庄繁長は、同じ「本庄」の姓を名乗りながらも、その出自、本拠地、そして上杉氏に対する政治的立場において全く異なる存在であった。実乃の生涯にわたる忠誠心と政治的行動は、彼が独立領主的な揚北衆ではなく、長尾政権の内部に深く組み込まれた譜代の家臣であったという事実に根差している。この根本的な違いを認識することが、本庄実乃の実像を正確に捉えるための第一歩となる。


表2:越後本庄氏の主要系統比較

項目

古志本庄氏(実乃の系統)

揚北本庄氏(繁長の系統)

代表的人物

本庄実乃、本庄秀綱

本庄繁長、本庄充長

本拠地

越後国古志郡 栃尾城(現・長岡市)

越後国岩船郡 本庄城(村上城、現・村上市)

出自(伝承)

不明瞭。長尾氏の譜代家臣として活動。

桓武平氏秩父氏流。鎌倉時代に地頭として入国。

政治的立場

長尾氏(上杉氏)の譜代家臣。政権中枢を担う。

揚北衆。独立性の高い国人領主。

上杉氏との関係

謙信の傅役を務めるなど、一貫して忠誠を尽くす。

時に従い、時に反乱するなど、自立的な行動が目立つ。


1.2 生没年と登場時期の考証

本庄実乃の具体的な生涯を追う上で、まず直面するのが生没年が確定していないという問題である。彼の生年については、永正四年(1507年)説 4 、永正八年(1511年)説 5 、さらには1526年説 7 まで存在し、研究者の間でも見解が分かれている。同様に没年についても、天正三年(1575年)に病死したとする説 5 、天正六年(1578年)に主君・謙信の死を追って殉死したとする説 10 、あるいは天正八年(1580年)頃まで存命であったとする説 4 など、複数の伝承が残されている。

この基礎情報の不確かさは、重要な事実を示唆している。それは、本庄実乃という人物が、彼自身の独立した記録としてではなく、常に「上杉謙信の傅役・側近」という属人的な役割の中で後世に記憶されたことの裏返しである。彼の事績は、謙信の行動に付随する形で語られることがほとんどであり、彼個人の伝記的史料が乏しいがゆえに、生没年といった基本的な情報が散逸してしまったと考えられる。

特に興味深いのは「殉死説」の存在である。史実としての確証は薄いものの 15 、このような逸話が生まれること自体が、彼の謙信に対する忠誠心の篤さが、後世の人々に強く印象付けられていたことの証左と言える。それは、彼の人物像を物語る上で重要な要素であるが、史実と伝説は慎重に切り分けて考察する必要がある。確かなことは、彼が謙信の父・長尾為景の代から長尾家に仕えていた古参の重臣であったという点である 19

第二章:「越後の龍」の揺り籠 ― 栃尾城時代

本庄実乃の功績の中で最も広く知られ、かつ最も重要なのが、少年期の長尾景虎を預かり、その後の「軍神」への飛躍の礎を築いた栃尾城時代である。この時期の実乃の役割は、単なる教育係の枠を遥かに超えるものであった。

2.1 傅役(もりやく)という重責 ― 戦国期における後見人の役割

天文十二年(1543年)、兄・長尾晴景の命により、当時14歳の景虎は古志郡の拠点である栃尾城に入った。そこで彼を迎え、後見人となったのが城主の本庄実乃である 1 。この「傅役」という役職は、戦国時代において極めて重い意味を持っていた。それは、単に学問や武芸を教える家庭教師ではなく、主君の嫡男の人格形成から政治・軍事思想に至るまでを指導し、次代の当主を育成する、一門の将来を左右する後見役であった 33

その役割は、織田信長にとっての平手政秀 34 や、武田信玄にとっての板垣信方 36 といった、主家の重臣が務めた例に見ることができる。彼らは主君の分身として、後継者の教育に全責任を負う政治的な重職であった。本庄実乃もまた、その一人であった。諸資料は、実乃が景虎の「軍学の師」であり、その成長に大きく貢献したと一致して伝えている 1 。七歳で父を亡くした景虎にとって、実乃は師であると同時に「おやじ」のような存在であったとも言われ、その人間形成に与えた影響の大きさが窺える 39 。後年の謙信が示した「義」を重んじる精神や、比類なき軍事的才能の源流を考えるとき、禅僧・天室光育の教えと共に、この栃尾城時代における本庄実乃の薫陶が決定的な役割を果たしたことは想像に難くない。彼は、まだ何者でもなかった「虎千代」という少年を、戦国の覇者「上杉謙信」へと変貌させるための、思想的・技術的基盤を築いた設計者であったと言えよう。

2.2 栃尾城の戦い ― 「軍神」誕生の演出

景虎が栃尾城に入った翌年の天文十三年(1544年)、彼の初陣として知られる「栃尾城の戦い」が起こる。後世の軍記物などが描く伝承によれば、若輩の景虎を侮った周辺の国人衆が栃尾城に攻め寄せた際、景虎はわずか15歳にして卓越した采配を振るい、少数の兵を二手に分けて敵本陣を奇襲、見事に大勝利を収めたとされる 11 。これは「軍神」謙信の天才性を示す、最初の輝かしい武勇伝として広く知られている。

しかし、より信頼性の高い一次史料に近い記録を検討すると、その様相は大きく異なって見えてくる。特に重要なのが、『越佐史料』に収録されている、景虎の兄で当時の越後国主であった長尾晴景が、本庄実乃に宛てた書状である 8 。この書状からは、晴景が栃尾周辺の情勢を深刻に捉えておらず、むしろ実乃に対して「景虎も近々出陣するとのことなので、万事よろしく頼む」といった、後事を託すニュアンスが読み取れる。これは、栃尾城が存亡の危機にあったという伝承とは明らかに矛盾する。

この史料と、景虎が当時、栖吉長尾家の養子候補として栃尾に送られていたという背景 8 を踏まえると、この戦いの真相は、景虎の天才的な軍才が自然に発露した戦闘というよりも、兄・晴景と傅役・実乃によって周到に準備された、次期当主候補の「お披露目」の戦であった可能性が極めて高い。つまり、実乃の役割は、単に若き主君を戦場で補佐することに留まらず、彼の政治的キャリアの第一歩を、安全かつ効果的に演出し、その名声を高めるための「舞台監督」であったと考えられる。

この計画的な初陣によって、景虎は「若くして武勇に優れた大将」という極めて価値の高い政治的資本を獲得した。この成功の裏には、実戦の指揮を熟知した実乃の緻密な差配があったことは間違いない。しかし、後世、「軍神」謙信の英雄譚が形成されていく過程で、この実乃の功績は謙信個人の武勇伝の中に吸収され、彼の存在は希薄化していった 8 。これが、実乃の功績が過小評価されがちな一つの大きな要因である。

第三章:上杉政権の中枢にて

栃尾城での役割を終え、長尾景虎が兄・晴景に代わって越後の国主となると、本庄実乃の立場もまた、一人の若者の後見人から、国家の運営を担う中枢の臣へと大きく変化した。彼は、上杉政権の黎明期において、軍事・政治の両面で不可欠な存在として権勢を振るった。

3.1 奉行としての権勢と役割

天文十七年(1548年)、景虎が家督を相続し春日山城に入ると、本庄実乃は直江景綱や大熊朝秀といった重臣たちと共に奉行職に任じられ、名実ともに政権の中枢に参画した 1 。奉行とは、主君の意思決定を実務レベルで執行し、領国統治の細部にわたる行政を担う、極めて重要な役職である 44 。特に、家督を継いだばかりで政治経験の乏しい景虎にとって、傅役時代から信頼を置く実乃は、政治の師としても機能したと考えられる 12

さらに彼は、上杉軍の精鋭部隊である「七手組」の大将の一人にも名を連ねており 1 、軍事面においても重きをなしていたことがわかる。謙信の個人的な信頼を背景とした「傅役」から、制度化された権力を持つ「奉行」「大将」へと円滑に移行した事実は、彼が単なる武辺者ではなく、統治能力に長けた能吏であったことを雄弁に物語っている。上杉政権初期の統治機構の安定は、実乃のような実務に長けた官僚の存在なくしては成し得なかったであろう。

3.2 弘治二年の政変 ― 謙信出奔の真相

本庄実乃が上杉政権内で果たした政治的役割の頂点を示すのが、弘治二年(1556年)に起こった、いわゆる「謙信出家騒動」である。この年、謙信は突如として家臣間の領地争いに嫌気がさしたとして、全てを放棄して高野山へ出奔しようとするという、前代未聞の行動に出た 10

一見すると、これは義を重んじる謙信の潔癖な性格が引き起こした個人的な感情の発露のように見える。しかし、その背景には、上杉家臣団を二分する深刻な権力闘争が存在した。発端となったのは、上野家成と下平吉長という二人の家臣による領地争いであったが、これに家中の二大派閥が介入し、代理戦争の様相を呈したのである。一方は、上野家成を支持する本庄実乃と直江景綱のグループ。もう一方は、下平吉長を支持する大熊朝秀のグループであった 2

この対立の根は深い。実乃や直江景綱が謙信と共に台頭した、いわば「新興勢力」の代表であったのに対し、大熊朝秀は守護上杉家時代からの旧臣の家柄であり、財政を司るなど伝統的な権力を保持する「旧勢力」の筆頭であった 45 。謙信の統治下で進む権力構造の変化が、両派の対立を不可避なものとしていた。

この文脈で謙信の「出奔」という行動を再解釈すると、新たな意味が浮かび上がってくる。これは単なる職務放棄ではなく、家中に潜む反対勢力を炙り出し、一掃するための高度な政治的ジェスチャーであった可能性が高い。事実、謙信不在の好機と見た大熊朝秀は、武田信玄に内通して反旗を翻した 45 。しかし、これは謙信と実乃らの思惑通りであったのかもしれない。反乱は速やかに鎮圧され、大熊朝秀は越後を追われて武田家に出奔、旧勢力は完全に排除された 10

この一連の政変の結果、本庄実乃を中心とする謙信側近グループは、上杉政権の主導権を完全に掌握した。これは、実乃が軍事面だけでなく、権力闘争を勝ち抜く政治家としても卓越した能力を持っていたことを示す、何よりの証拠である。

第四章:晩年と死、そして一族の行方

上杉政権の基盤を固め、その中枢で活躍した本庄実乃であったが、彼の晩年と死、そして彼が築いた一族のその後の運命は、戦国の世の無常を色濃く反映している。

4.1 戦陣での役割と最期の謎

政権が安定期に入って以降も、実乃は謙信の主要な軍事行動に参加している。特に永禄四年(1561年)の第四次川中島の戦いでは、上杉軍の主要な武将としてその名が記録されている 2 。しかし、その役割は、壮年期に入った彼の立場を反映し、最前線で武功を競う猛将というよりは、謙信の傍らで軍議に加わり、あるいは兵站(へいたん)を管理するなど、後方支援や参謀としての側面が強かったと推測される 4

彼の最期については、前述の通り複数の説が存在し、判然としない。天正三年(1575年)に病没したというのが一つの説であるが、謙信が没した天正六年(1578年)に後を追って殉死したという、彼の忠誠心を象徴するような伝承も根強く残っている 10 。この記録の曖昧さは、謙信政権が成熟し、彼のような創業の功臣が歴史の表舞台から徐々に退いていった過程を反映しているとも考えられる。いずれにせよ、彼は主君である謙信の死、あるいはその直前まで、上杉家に尽くした生涯であった。

4.2 御館の乱と本庄一族の悲劇

本庄実乃の生涯とは対照的に、彼の一族は悲劇的な末路を辿ることになる。天正六年(1578年)、謙信が後継者を指名しないまま急死すると、二人の養子、上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(北条氏康の子)の間で、家督を巡る凄惨な内乱「御館の乱」が勃発した。

この時、実乃の家督を継いでいた息子・ 本庄秀綱 は、父とは全く異なる政治的決断を下す。彼は景勝ではなく、景虎の側に与したのである 8 。これは単なる個人的な選択ではなく、当時の上杉家臣団を二分した路線対立を反映したものであった。景虎の背後には、関東の覇者・北条氏、そして甲斐の武田氏という巨大勢力が控えており、客観的に見れば景虎方が有利と判断する国人も少なくなかった 50 。秀綱は、父が築いた安泰な地位に留まることなく、次代の権力構造を見据え、自らの判断で勝利する側に賭けたのであろう。

しかし、この賭けは裏目に出た。景勝は巧みな外交と粘り強い戦いで徐々に戦局を覆し、景虎方を追い詰めていく。秀綱は父の居城であった栃尾城に籠もり、景勝方に激しく抵抗したが、衆寡敵せず、天正八年(1580年)4月、ついに城は落城。秀綱は会津方面へ落ち延びたとされ、実乃が築き上げた古志本庄氏は、事実上滅亡の道を辿った 10

謙信への絶対的な忠誠を貫いた父・実乃。その父が育て上げた主君の後継者争いにおいて、息子・秀綱が敗者側に与して家を滅ぼす。この皮肉な結末は、一人の武将の判断が家の存亡を左右する戦国時代の過酷な現実を象ARWする。そして、この一族の末路は、勝者となった景勝政権下において、その父である実乃の功績が、上杉家の公式な歴史からさらに遠ざけられる一因となった可能性も否定できない。

結論:歴史における本庄実乃の再評価

本庄実乃の生涯を多角的に検証した結果、彼は単に「上杉謙信の有能な側近の一人」という評価に留まるべき人物ではないことが明らかになった。彼の歴史的役割は、より積極的かつ決定的なものとして再評価されるべきである。

第一に、彼は若き日の長尾景虎の才能を見出し、そのキャリアの離陸を成功させた**「プロデューサー」**であった。周到に準備された初陣の勝利は、景虎に「武勇に優れた若き指導者」という不可欠な政治的権威を与えた。

第二に、彼は上杉政権黎明期における卓越した**「政治家」**であった。家督相続後の不安定な家臣団をまとめ、弘治二年の政変では反対勢力を巧みに排除して権力基盤を盤石なものにした。彼の政治手腕なくして、謙信が越後統一と対外戦争に専念することは困難であっただろう。

第三に、彼は生涯を通じて謙信への忠誠を貫いた**「忠臣」**であった。その姿勢は、独立志向の強い国人が多かった越後において、謙信の求心力を支える重要な柱の一つとなった。

にもかかわらず、彼の功績が今日、過小評価されがちな理由は複合的である。最大の要因は、主君である 上杉謙信の「軍神」としての神格化 である。後世、謙信の超人的な武勇伝が強調される過程で、彼を支えた実乃のような補佐役の功績は、全て謙信個人の才能として吸収され、矮小化されてしまった 8 。また、彼の事績が常に謙信に付随する形でしか記録されなかったという

史料の性質 も、独立した人物像の構築を困難にしている。そして決定的なのは、 御館の乱における息子・秀綱の敗北 である。これにより一族が滅亡したことで、勝者である景勝政権下において、その父である実乃の功績が積極的に語り継がれることはなかったと推察される。

結論として、本庄実乃なくして「軍神・上杉謙信」の誕生はなかった、あるいは少なくともその道のりは遥かに困難なものであったと言っても過言ではない。彼は、越後の歴史、ひいては戦国史において、英雄の影に隠れた真の功労者として、その功績を正当に評価されるべき人物である。彼の生涯を追うことは、英雄伝説の裏に存在する、より人間的で複雑な政治の力学を解き明かすための、貴重な鍵を提供してくれる。

引用文献

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