最終更新日 2025-07-13

本庄房長

越後揚北の風雲児、本庄房長 ―その生涯と時代、悲劇が遺した遺産―

序章:忘れられた枢要人物、本庄房長

戦国時代の越後国(現在の新潟県)を語る上で、上杉謙信の威光はあまりにも大きい。しかし、その謙信が越後を統一し、「軍神」としてその名を轟かせる以前、同国は数多の国人領主が割拠し、複雑な権力闘争を繰り広げる動乱の時代にあった。本庄房長(ほんじょう ふさなが)は、まさしくその過渡期、すなわち守護代・長尾為景の台頭から、その子・晴景の時代にかけて活躍した、越後北部の有力な国人領主連合「揚北衆(あがきたしゅう)」の枢要人物である 1

彼の生涯は、守護や守護代といった既存の権威が揺らぐ中で、一人の国人領主がいかにして自家の存続と勢力拡大を図ったか、そしてその過程でいかなる決断を下し、いかなる悲劇に見舞われたかを示す、戦国期日本の縮図と言える。弟・小川長資や同族・鮎川清長に裏切られ、陣中で憤死したという彼の最期は広く知られているが [ユーザー提供情報]、その背景にある政治的力学や、彼の死が次代に及ぼした深刻な影響については、十分に解明されているとは言い難い。

本報告書は、この本庄房長という一人の武将に焦点を当て、その出自から、彼が生きた時代の政治情勢、彼が下した重要な政治的決断の背景、そして彼の悲劇的な死が、如何にして次代の「鬼神」本庄繁長という傑物を生み出し、上杉家中に長く続く遺恨の種を蒔くことになったのかを、現存する史料や研究成果を多角的に分析し、徹底的に解明することを目的とする。房長の生涯を追うことは、単に一武将の伝記を知るに留まらない。それは、戦国越後の複雑な政治力学、特に独立性の高い国人衆が、いかにして戦国大名の統制下へと組み込まれていったかの過程を理解する上で、不可欠な鍵となるのである。

第一章:権力の源泉 ― 揚北衆と本庄一族

1.1. 鎌倉以来の名門、秩父党本庄氏の系譜

本庄氏の出自は、遠く鎌倉時代初期にまで遡る。彼らは桓武平氏の流れを汲む武蔵国の武士団、秩父氏の一族であった 4 。建永元年(1206年)頃、平(秩父)季長の長子・行長が越後国小泉庄(現在の新潟県村上市一帯)の本庄の地頭職を得て「本庄氏」を、次子・為長が同庄の加納色部条の地頭となって「色部氏」を称したのが、越後における両氏の始まりとされる 4 。この出自により、本庄氏は庶家である色部氏に対して、長らく宗家としての権威を保持し続けた 4 。この鎌倉以来の名門という出自こそが、後に揚北衆と呼ばれる国人領主連合の中で、本庄氏が重きをなす根拠となったのである。

彼らの本拠地は、村上市の臥牛山に築かれた本庄城(後の村上城)であった 9 。この天然の要害を拠点として、本庄氏は越後北部に確固たる勢力を築き上げた。築城者については、房長の父・時長、あるいは房長自身とする説がある 3

1.2. 独立の気風 ― 揚北衆の成り立ちと特性

本庄氏が属した「揚北衆」(阿賀北衆とも記す)とは、越後を南北に分ける阿賀野川の北岸地域に割拠した国人豪族の総称である 13 。彼らは、本庄氏のように鎌倉時代に地頭として入部して以来、その土地に根を下ろしてきた一族であり、中央から派遣される守護・上杉氏や、その代官である守護代・長尾氏に対して、常に強い独立性を志向した 13 。この独立の気風は、戦国中期に至るまで越後の政情を不安定にさせる一因であり続けた。

揚北衆は、単一の集団ではなく、その出自によっていくつかの党派に大別される 13

  • 秩父党: 小泉庄を本拠とし、本庄氏を宗家に、色部氏、鮎川氏などが含まれる。
  • 三浦党: 奥山庄(現在の胎内市一帯)を本拠とし、中条氏を宗家に、黒川氏などが含まれる。
  • 佐々木党: 加地庄(現在の新発田市一帯)を本拠とし、加地氏を宗家に、新発田氏、竹俣氏などが含まれる。
  • 大見党: 白河庄(現在の阿賀野市一帯)を本拠とし、安田氏を宗家に、水原氏などが含まれる。

彼らは、時には利害を一つにして連携する一方、時には互いの領地や権益を巡って激しく争うという、極めて複雑な関係にあった 13

1.3. 父・時長の抵抗と挫折 ― 長尾為景台頭前夜

本庄房長の父は本庄時長である 12 。時長の時代、越後は大きな転換期を迎えていた。守護代であった長尾為景が、主君である守護・上杉房能を討ち、越後の実権を掌握するという下剋上を成し遂げたのである。この為景の台頭に対し、多くの国人領主は反発したが、時長もその一人であった。彼は旧来の守護の権威を重んじ、為景の支配に強く抵抗した 18

しかし、為景の軍事力は強大であり、時長の抵抗は失敗に終わる。永正年間、為景の攻撃によって本庄城は攻め落とされ、時長は降伏を余儀なくされた 18 。この一連の戦いの中で、房長の兄であった弥次郎が戦死したと伝えられる 3 。このため、本来は嫡男ではなかった房長が、本庄家の後継者としての地位を得ることになった。父・時長は永正6年(1509年)に失意のうちに没し、房長が家督を継承した 3

父の敗北と死、そして兄の戦死。若き房長が家督を継いだ時、本庄氏は存亡の危機に立たされていた。父が選んだ旧権威への固執という道が、一族を危うくしたという厳しい現実を、彼は目の当たりにしたのである。この経験こそが、後の房長の政治的選択に決定的な影響を与えることになった。戦国期の国人領主にとって、最も優先すべきはイデオロギーや旧来の秩序ではなく、自家の存続と勢力の回復である。父の失敗という教訓は、房長に、滅びゆく権威に殉じるのではなく、新たな実力者と結ぶことで活路を見出すという、より現実的でプラグマティックな戦略を選ばせる土壌となった。この視点を持つことで、次章で詳述する「上条定憲の乱」における彼の行動が、単なる変節ではなく、一族の命運を賭けた戦略的転換であったことが理解できるであろう。

第二章:激動の越後と房長の決断 ― 長尾為景との共闘

2.1. 「上条定憲の乱」の勃発

長尾為景は下剋上によって越後の実権を握ったが、その統治は決して平穏ではなかった。彼の強権的な支配は、守護・上杉家の権威回復を目指す勢力や、為景によって伝統的な自治権を侵害された国人衆の強い反発を招いた 20 。その不満の受け皿となったのが、上杉一門の有力者である上条城主・上条定憲であった。

定憲は、為景が傀儡として擁立した守護・上杉定実を担ぎ上げ、反為景の旗頭となった 22 。天文2年(1533年)頃から、越後は為景派と、上条・守護方を中核とする反為景派に二分され、大規模な内乱状態へと突入した。これが「上条定憲の乱」である。この乱には会津の蘆名氏なども介入し、越後全土を巻き込む騒乱へと発展した 20

2.2. 房長の選択 ― 為景方への加担

この越後の命運を左右する重大な局面において、本庄房長は驚くべき決断を下す。父・時長が命を賭して抵抗した長尾為景の側に付いたのである 1 。当時、揚北衆の多くは、為景の支配に反発し、上条方に加担していた 4 。その中で房長が為景支持を明確にしたことは、他の揚北衆とは一線を画す行動であり、前章で考察した通り、父の失敗を教訓とした、極めて戦略的な判断であったと考えられる。旧守護勢力の衰退と、為景という新たな実力者の台頭という現実を直視し、勝者となる可能性が高い側に付くことで、本庄家の安泰と、新体制下での発言力確保を狙ったのであろう。

2.3. 為景政権下での地位

乱は数年にわたって続いたが、天文5年(1536年)の三分一原の戦いで為景方が大勝を収めたことで、大勢は決した 20 。その直後、為景は家督を嫡男の晴景に譲って隠居し、同年のうちに病死する 22 。最大の敵対者であった為景の死により、反為景派は戦う大義を失い、乱は終息へと向かった。

この内乱を「勝者」の側で乗り切った本庄房長は、長尾晴景が継いだ新体制下においても、揚北衆の雄としての地位を維持、あるいは一層強化することに成功したと推測される。彼はこの時期、自らの地位を盤石にするため、揚北衆内部での連携強化に動いた。天文4年(1535年)、彼は同族である色部勝長や鮎川清長との間に同盟関係を結んでいる 3 。これは、内乱という共通の脅威に対し、揚北衆内部のパワーバランスを安定させるための動きであった。

しかし、この同盟は決して強固なものではなかった。特に本庄氏と、その庶家でありながら独立性の高い鮎川氏との間には、境界に位置する下渡島城の支配を巡るなど、長年にわたる対立の歴史があった 3 。この時に結ばれた盟約は、あくまでも内乱という非常事態に対応するための時限的な協力体制に過ぎず、その水面下では互いの利害が複雑に絡み合っていた。戦国期の国人領主が結ぶ同盟の脆弱性と流動性を象徴するこの関係は、新たな政治的変動が起きた時、容易に崩壊する危険性を内包していた。そして、その時は間もなく訪れることになる。

第三章:新たな火種 ― 伊達氏介入と「越後天文の乱」

3.1. 上杉定実の養子問題と伊達稙宗の野心

上条定憲の乱が終息し、しばしの平穏が訪れた越後に、新たな火種が持ち込まれた。それは、守護・上杉定実に実子がおらず、その後継者問題が深刻化したことに端を発する 24 。この越後の権力の空白に目を付けたのが、奥州(現在の東北地方)に巨大な勢力圏を築きつつあった伊達氏の当主・伊達稙宗であった。稙宗は、自身の子である時宗丸(後の上杉実元)を定実の養子として送り込み、越後国を事実上、伊達家の影響下に置こうと画策したのである 24

この養子縁組計画は、越後国内でも支持者を得た。特に揚北衆の雄である中条藤資らは、伊達氏との連携によって自らの地位を強化しようと目論み、積極的にこの計画を推進した 24

3.2. 房長の反旗 ― 越後の自主性を巡る戦い

この動きに対し、敢然と反旗を翻したのが本庄房長であった。彼は、同族の色部氏と共に、外部勢力である伊達氏の介入に強く反発し、養子縁組に異を唱えて挙兵した 3 。これは「越後天文の乱」とも呼ばれる、越後の自主性を巡る戦いの始まりであった。房長の動機は、越後が伊達氏という強大な隣国の支配下に組み込まれることを防ぎ、揚北衆、そして本庄氏としての独立性を守ることにあった。彼は、北で隣接する出羽国の大宝寺氏と連携し、養子推進派の中条藤資や、彼らを支援するために越後へ侵攻してきた伊達の軍勢と激しく戦った 3

3.3. 揚北衆の分裂と伊達氏の内部事情

この養子問題を巡り、かつて長尾為景のもとで結束したはずの越後国人衆は、再び分裂した。揚北衆も例外ではなく、養子を推進する中条氏らと、それに反対する本庄氏・色部氏らとの間で、深刻な対立が生じた 13 。越後はまたしても内乱状態に陥ったのである。

奇しくもこの時期、伊達家内部でも、当主・稙宗とその嫡男・晴宗との間で家督や領国経営の方針を巡る対立が先鋭化し、大規模な内乱「伊達天文の乱」が勃発していた 29 。この伊達家の内紛により、稙宗の越後への軍事介入は結果的に限定的なものとなったが、越後国内の混乱と対立は、むしろこれを機に一層深刻化し、泥沼化していくことになった。

伊達氏の介入は、越後国内の権力闘争を、奥州や出羽の諸大名を巻き込む、いわば「国際紛争」へと発展させた。この大きな政治的対立の構図は、それまで水面下にあった個人的な対立関係を先鋭化させる触媒として機能した。特に、本庄房長と、彼の弟である小川長資、そして宿年のライバルであった鮎川清長との関係は、この大きな政治的うねりの中で決定的に破壊され、一族を破滅へと導く内紛へと直結していく。房長の悲劇は、単なる身内の裏切りという個人的な事件ではない。それは、地域大名の介入によって国内が分裂した際に、既存の個人的な対立が増幅され、最も脆弱な環であったはずの家族関係から崩壊していくという、戦国時代の権力闘争の典型的な力学の表れだったのである。

本庄房長の生涯における主要な政治的対立軸の変遷

時代 / 主要事件

時期(目安)

本庄房長の立場

主要な同盟・協力者

主要な敵対勢力

備考

長尾為景の台頭

永正年間

(父・時長は)反為景

上杉房能(守護)

長尾為景

父・時長は為景に敗北。

上条定憲の乱

天文2年~

親為景

長尾為景

上条定憲、上杉定実、多くの揚北衆

父の代からの方針を転換。

越後天文の乱

天文8年~

反伊達・反養子

色部氏、大宝寺氏

中条藤資、伊達稙宗、上杉定実

越後の独立性を巡る戦い。この対立が内紛の直接的引き金となる。

本庄家内紛

天文8年

(被害者)

(なし)

小川長資(弟)、鮎川清長

出羽遠征中に本拠地を奪われ憤死。

第四章:一族内の相克 ― 破滅への序曲

4.1. 弟・小川長資の野心

本庄房長を破滅へと追いやった主犯は、彼の実弟である小川長資(おがわ ながすけ)であった。長資は、同族である小川長基の養子となり、小川家を継いでいた人物である 32 。史料には、彼が兄・房長に対してかねてから不満を抱いていたこと、そして政治的立場として守護・上杉定実を支持する「定実派」であったことが記されている 3

「越後天文の乱」において、守護・定実が伊達氏からの養子受け入れを推進していた以上、長資の「定実派」という立場は、事実上「養子推進派」であったことを意味する。これにより、房長と長資は、単なる兄弟間の不和を超え、越後の将来を左右する大きな政治的対立において、明確に敵味方として分かたれることになった。兄が反旗を翻したこの状況は、長資にとって、積年の不満を晴らし、本庄宗家の家督を奪取する千載一遇の好機と映ったのである。彼は、養子推進派の中心人物であった中条藤資らと裏で通じていた可能性も指摘されている 13

4.2. 宿年の対立 ― 鮎川氏の動向

長資の陰謀に加担したもう一人の重要人物が、鮎川清長(あゆかわ きよなが)である。鮎川氏は本庄氏の庶家筋にあたるが、その所領が本庄氏と入り組んでいたこともあり、領地の境界などを巡って宗家とたびたび争ってきた、いわば宿年のライバルであった 17

鮎川清長(後の鮎川盛長の父 17 )は、この越後国内の混乱に乗じて、長年の宿敵である本庄宗家の勢力を削ぎ、自家の勢力拡大を図ろうと画策した。そのために、彼は兄に不満を持つ小川長資に接近し、その野心を利用して共謀関係を結んだのである 3 。かつて「上条定憲の乱」に際して房長と同盟を結んだはずの清長であったが、その盟約は、より大きな利益の前には反故にされる運命にあった。

4.3. 陰謀の形成

天文8年(1539年)、房長が同盟者である出羽国の大宝寺氏を救援するため、庄内地方へ遠征するという情報が、長資と清長に陰謀実行の絶好の機会を与えた 3 。房長という最大の障害が本拠地を離れる隙を突けば、本庄城を容易に奪取できると考えたのである。

計画は周到に練られた。鮎川清長は、房長との間で共同出兵の約束を交わしていたにもかかわらず、これを反故にして出陣せず、房長が城を空けるのを待った 32 。そして、房長の軍勢が国境を越え、出羽へと向かったのを見計らい、小川長資と共に本庄城を急襲する手筈を整えたのであった。

第五章:出羽遠征と最期の時

5.1. 最後の出陣と裏切り

天文8年(1539年)、本庄房長は、かねてからの同盟に基づき、出羽の大宝寺氏を救援するため、手勢を率いて庄内へと出陣した 3 。これが、彼の最後の出陣となった。

房長の軍勢が本拠地である本庄城を離れ、遠征の途上にあることを確認した弟・小川長資と鮎川清長は、かねてからの計画を実行に移した。彼らは共謀して本庄城を急襲し、留守を預かる兵を打ち破って、城を占拠したのである 2

5.2. 陣中での憤死

出羽の陣中にあった房長のもとに、この衝撃的な知らせが届いた。信頼していた実の弟と、かつては同盟を結んだ同族の鮎川氏に裏切られ、本拠地を奪われたという事実は、彼に計り知れない衝撃を与えた。この精神的打撃により、房長は陣中で病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった 2 。まさに憤死であった。

房長の没年については、天文8年(西暦1539年、旧暦のため翌年初頭の1540年1月7日とする史料もある)とする記述が 3 、一連の「越後天文の乱」の文脈と符合し、最も信憑性が高い。一方で、1544年に51歳で死去したとする資料も存在するが 1 、内紛の状況証拠からは天文8年説が有力視される。

房長の死は、単に「憤死」という情緒的な言葉で片付けられるべきではない。これは、越後の国人社会の内部矛盾が、伊達氏という外部勢力の介入を触媒として爆発し、その結果として指導的な立場にあった人物が排除された、極めて政治的な事件であった。房長は、揚北衆の独立性を代表し、伊達氏の介入に抵抗する勢力の中心人物であった。彼の排除は、養子推進派(中条氏や、その背後にいる伊達氏)にとって、計画の最大の障害を取り除くことを意味した。小川長資と鮎川清長は、この大きな政治的利害と、自らの個人的な野心や宿年の遺恨とを合致させ、いわば「実行部隊」として行動したのである。結果として、反伊達勢力は指導者を失い、越後は新たな権力構造へと移行していく。房長の死は、その過程で払われた、象徴的な犠牲であったと言える。彼の悲劇は、血縁という強固なはずの絆すらもが、政治的対立の前には無力であり、個人の運命がより大きな歴史の変動の一部として組み込まれていく戦国時代の非情さを、鮮烈に物語っている。

第六章:悲劇の遺産 ― 鬼神・本庄繁長の誕生

6.1. 房長の死と繁長の誕生 ― 眉目の傷の伝承

本庄房長の死は、一つの時代の終わりであると同時に、新たな時代の始まりを告げるものであった。房長の嫡男、後の「鬼神」本庄繁長(ほんじょう しげなが)は、父・房長が非業の死を遂げた直後、天文8年(1540年)に、この世に生を受けた 24 。幼名は千代猪丸と名付けられた。

繁長の誕生には、彼の波乱に満ちた生涯を象徴する、壮絶な伝承が残されている。父の死を巡る内紛のさなか、母である房長夫人が敵兵に襲われた。夫人は腹部に刀傷を負うという重傷を負いながらも、奇跡的に一命を取り留めた。しかし、その時の傷は胎内にいた繁長にまで達し、彼は生まれながらにして眉間に傷を負っていたと伝えられる 24 。この伝承は、繁長が生まれながらにして父の無念と一族の悲劇をその身に刻みつけていたことを物語っている。

6.2. 遺児の雌伏と復讐

父を殺され、叔父である小川長資に本庄城を奪われた幼い繁長は、忠義心の厚い家臣たちによって領内の耕雲寺などに匿われ、雌伏の時を過ごした 25 。彼は、父の仇である叔父の支配下で、復讐の機会を窺いながら成長したのである。

そして天文20年(1551年)、13歳に成長した繁長は、ついに決起する。父・房長の13回忌の法要の場を利用し、叔父・小川長資を急襲して討ち果たし(あるいは切腹に追い込み)、本庄家の実権を奪還したのである 36 。この劇的な復讐劇により、小川家は滅亡したとされ 39 、繁長は名実ともに本庄家の当主となった。

6.3. 永続する遺恨 ― 本庄・鮎川の対立が後世に与えた影響

本庄房長の死という悲劇は、繁長の復讐によっても完全には清算されなかった。それは、次世代に「遺恨」という名の負の遺産として引き継がれ、上杉家中の不安定要因として、その後数十年にわたって燻り続けることになる。

繁長は叔父を討ったが、父の死のもう一人の共犯者である鮎川氏への憎しみは、その心に深く刻まれたままであった。この遺恨は、鮎川清長の子・鮎川盛長の代になっても解消されることはなく、両家の対立は、上杉謙信が越後を統一した後も続いた 13

この根深い対立が、上杉家全体を揺るがす大事件へと発展する。永禄11年(1568年)に発生した「本庄繁長の乱」である。繁長は武田信玄と通じて謙信に反旗を翻すが、この乱の根本的な原因の一つが、繁長と鮎川盛長との間の長年の確執であったとされている 13 。この乱は、上杉家の主力を動員するほどの激戦となり、謙信麾下の勇将・色部勝長が戦死するなど、上杉軍に多大な損害を与えた 40

乱後も両家の対立は終わらない。謙信死後の後継者争いである「御館の乱」では、繁長が上杉景勝方に、盛長が上杉景虎方に分かれて戦い 17 、乱後も繁長が盛長を攻撃するなど、その確執は続いた 13 。この揚北衆内部の根深い対立は、やがて「新発田重家の乱」へと繋がる遠因の一つになったとも考えられている 13

このように、本庄房長の死は、単発の事件ではなかった。それは、息子・繁長の壮絶な人生の序章となり、本庄・鮎川両家の数十年にわたる骨肉の争いを生み出し、上杉家中の安定を長期にわたって揺るがす「原罪」となったのである。この視点を持つことで、後の上杉謙信・景勝の時代における揚北衆の複雑な動向、特に本庄繁長の時に不可解にも見える行動が、父の非業の死に端を発する個人的な復讐心と、一族の宿怨という、極めて根深い動機に根差していることが理解できる。

結論:本庄房長の生涯が語るもの

本庄房長という一人の国人領主の生涯を丹念に追うことで、戦国時代中期の越後国が抱えていた複雑な力学と、そこに生きた武将たちの非情な現実が浮かび上がってくる。

第一に、房長の生涯は、戦国期国人領主の典型的な生き様を示している。守護・守護代といった旧来の権威が揺らぎ、長尾為景のような新たな実力者が台頭する過渡期において、彼は父・時長の失敗を教訓とし、旧来の秩序への固執を捨てて新興勢力に与するという、現実的な選択を下した。さらに、伊達氏の介入という外部からの脅威に対しては、越後の自主性を守るために断固として戦った。彼の行動は、忠誠や信義といった理念よりも、自家の存続と勢力拡大という、より現実的なパワーバランスを重視する戦国時代の非情な論理に貫かれている。

第二に、彼の悲劇的な最期は、単なる一個人の死に留まらなかった。それは、息子・繁長の「鬼神」としての壮絶な人生の幕開けとなり、本庄・鮎川両家の間に数十年にわたる血で血を洗う確執を生み出した。この遺恨は、上杉謙信・景勝の時代に至るまで越後北部の不安定要因として機能し、上杉家中の結束を揺るがす深刻な火種を遺したのである。彼の死は、悲劇の連鎖の起点であった。

最後に、本庄房長は、長尾為景の時代と上杉謙信の時代を繋ぐ、歴史の重要な結節点に位置する人物であると言える。彼の生きた時代の混乱、彼自身の政治的選択、そして彼の死がもたらした深刻な影響を理解することなくして、後の「軍神」上杉謙信による越後統一がいかに困難な事業であったか、そしてその歴史的意義を完全に把握することはできない。歴史の表舞台で華々しい活躍を見せることはなかったかもしれないが、本庄房長は、戦国越後の歴史を深く、そして正確に読み解く上で、決して看過することのできない枢要な存在なのである。

引用文献

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  36. 本庄繁長『一度は上杉に背くも越後の鬼神と称された武将』 - 草の実堂 https://kusanomido.com/study/history/japan/heian/31153/
  37. KENSHIN 家臣 - ご隠居だよ黒鱒城!! https://kuromasujyo.com/sengoku/kenshin/kenshin-kashin/
  38. 本庄繁長(ほんじょうしげなが)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E7%B9%81%E9%95%B7-1108654
  39. 小川長資 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E9%95%B7%E8%B3%87
  40. 本庄繁長の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E7%B9%81%E9%95%B7%E3%81%AE%E4%B9%B1