本泉寺善従
本泉寺善従は史料未確認。加賀一向一揆の中心人物は本泉寺の蓮悟。彼は蓮如の七男で、加賀門徒国家の統治者として栄華を極めたが、本願寺中央との対立「享禄の錯乱」で失脚し、毒殺された。
本泉寺と加賀一向一揆の興亡 ― 幻の「善従」と実在の指導者「蓮悟」の軌跡
序章:本泉寺善従という問い
本報告書は、戦国時代の加賀能登地方に存在したとされる僧侶、「本泉寺善従」に関する徹底的な調査依頼を起点とする。依頼者が提示した「加賀能登の僧侶、一向宗本泉寺の所属、開基は蓮如の叔父・如乗」という情報は、調査の重要な指針となった。
しかしながら、本泉寺の歴代住職の系譜、および加賀一向一揆に関する主要な歴史資料を網羅的に調査した結果、この「善従」という名の僧侶の存在を確認することはできなかった 1 。本泉寺の歴史は、その創建から加賀一向一揆の終焉、そして現代に至るまで、比較的詳細な記録が残されているが、そのいずれにも「善従」の名は見出されないのである。
この結果は、一つの重要な問いを提起する。依頼者が追い求めていたのは、特定の固有名詞そのものではなく、むしろ「戦国時代の本泉寺を動かし、一向一揆の中核を担った傑出した指導者」という歴史的な役割を体現した人物像ではなかったか。この観点に立つならば、調査の対象は、幻の「善従」から、その役割を最も劇的に生きた実在の人物へと移行する。その人物こそ、本願寺第八世法主・蓮如の七男にして、本泉寺第三代住持、そして一国の統治者として君臨しながらも、教団内部の権力闘争の果てに悲劇的な最期を遂げた「蓮悟(れんご)」である。
したがって、本報告書は、この蓮悟の生涯を主軸に据える。彼の栄光と没落の軌跡を追うことを通じて、幻の「善従」の探求から見えてきた、本泉寺と加賀一向一揆の興亡の実像を、多角的かつ徹底的に解明することを目的とする。
第一部:本願寺教団の北陸進出と本泉寺の創建
第一章:本泉寺の黎明 ― 蓮如と叔父・如乗の連携
本泉寺の歴史は、単なる一寺院の建立に留まらず、室町時代中期における本願寺教団の全国展開戦略と密接に結びついている。その創建は、本願寺第八世法主・蓮如と、その叔父・如乗(にょじょう)との間の、極めて戦略的な連携の産物であった。
本泉寺が加賀国二俣(現在の金沢市二俣町)の地に創建されたのは、嘉吉二年(1442年)のことである 2 。開基は、本願寺第六世巧如の子であり、蓮如の叔父にあたる如乗であった 4 。この創建は、単独の事業ではなく、それより以前に越中井波(現在の富山県南砺市)に開かれていた綽如(蓮如の曽祖父)ゆかりの瑞泉寺を支援し、北陸地方における本願寺の勢力基盤を強化する意図を持っていた 2 。
この創建の背景には、如乗という人物の教団内における特異な立場があった。蓮如の父である第七世存如が没した際、本願寺では後継者を巡る問題が勃発した。教団関係者の多くが正妻の子である応玄を後継者として推す中で、ただ一人、如乗が蓮如の器量と正当性を強く主張し、その擁立に奔走したのである 5 。如乗の強力な後押しがなければ、蓮如が第八世法主の座に就くことは困難であったとされ、彼は蓮如にとって最大の功労者であった 7 。
この関係性は、単なる叔父と甥という血縁を超えた、政治的な共生関係を形成した。如乗は、自らが北陸に築いた勢力基盤を、カリスマ的指導者である蓮如が法主となることで、より強固なものにしようと図った。一方、蓮如は、法主の座を得るために如乗の支援を必要とし、法主となった後は、その権威をもって如乗の北陸での活動を公認し、教団の正式な事業として位置づけた。本泉寺の創建と発展は、この中央の権威(蓮如)と地方の勢力(如乗)の相互作用を象徴する出来事であった。
法主となった蓮如は、この戦略的パートナーシップをさらに確固たるものとするため、北陸を最重要拠点と位置づけ、生涯に三度にわたって布教の旅を敢行した 3 。その際、叔父・如乗が住持を務める本泉寺は、常に蓮如の活動の足掛かりとなった。本泉寺は、蓮如にとって単なる縁故の寺ではなく、北陸における教団勢力拡大の最前線基地としての役割を担っていたのである。
さらに蓮如は、この要衝の支配を盤石にするため、自らの血族を直接送り込むという手段を講じた。まず、次男の蓮乗(れんじょう)を如乗の養子(婿)として送り込み、瑞泉寺と本泉寺を継承させた 9 。蓮乗の死後は、その弟であり蓮如の七男にあたる蓮悟を後継に据えた 9 。この一連の人事は、単なる寺院の継承問題ではなく、北陸という広大な領域を本願寺宗家の直接管理下に置くための布石であった。血縁による支配の強化は、教団の結束を高める一方で、将来、中央の指導者が代替わりした際に、強大な権力を持つ現地の血族が新たな中央指導部と対立する可能性を内包していた。この構造こそが、後に加賀を揺るがす大内乱「享禄の錯乱」の遠因となるのである。
第二部:「百姓の持ちたる国」の支配構造と本泉寺
第二章:加賀一向一揆の成立と統治体制
蓮如による精力的な布教活動は、北陸、特に加賀国において爆発的な門徒の増加をもたらした。その強大な宗教的エネルギーは、やがて既存の政治権力と衝突し、日本史上類を見ない「百姓の持ちたる国」と呼ばれる門徒支配体制を現出させるに至る。
その直接的な契機となったのは、加賀国の守護大名であった富樫氏との対立である。当初、富樫政親は家督争いにおいて蓮如率いる本願寺門徒の力を借りて勝利したが、その後、門徒勢力の強大化を恐れ、一転して弾圧を開始した 12 。この裏切りに対し、門徒たちの怒りは頂点に達した。長享二年(1488年)、数万とも数十万ともいわれる門徒が一斉に蜂起し、富樫政親を高尾城に包囲、自害に追い込んだのである 12 。これにより、守護大名という領主権力は加賀から完全に排除され、以後約100年間にわたり、この地は本願寺門徒による実効支配下に置かれることとなった 14 。
蓮如自身は、門徒の過激な行動を手放しで認めていたわけではなかったが 12 、結果として加賀は本願寺の領国となった。その統治は、蓮如が各地に配置した息子たちによる寡頭制という形をとった。加賀においては、波佐谷松岡寺の蓮綱(れんこう)、山田光教寺の蓮誓(れんせい)、そして二俣本泉寺の蓮悟の三人がその中核を担った 11 。彼らが住持を務めた三つの寺院は「加賀三ヶ寺」と称され、加賀門徒国家における最高の政治・軍事機関として絶大な権勢を誇った 9 。
「百姓の持ちたる国」という言葉は、農民による完全な自治共同体を想起させるが、その実態はより複雑な二重構造を持っていた。確かに、村落レベルでは門徒たちの強固な自治組織が存在し、後の前田家による支配下でも、その自治システム(十村制度)が活用されたほど高度なものであった 15 。しかし、その上位には、蓮悟ら蓮如の子息たちという一種の「宗教貴族」が君臨し、その下に地域の有力門徒である国人層が控え、さらにその下に膨大な数の一般門徒(百姓)がいるという、明確な階層構造が存在したのである。つまり、この国は「百姓が持ちたる(支えたる)」国ではあったが、必ずしも「百姓が治めたる」国ではなかった。この神政政治的な支配構造の理解は、後の教団内乱を読み解く上で不可欠な視点となる。
第三章:本泉寺住持・蓮悟の権勢と栄華
加賀三ヶ寺による寡頭制の中にあって、本泉寺住持・蓮悟は、その中心人物として栄華を極めた。彼は、応仁二年(1468年)に蓮如の七男として生まれ、父の命により兄・蓮乗の跡を継いで本泉寺第三代住持となった 1 。彼は単なる宗教指導者ではなく、加賀門徒国家の政治・軍事の両面を指導する辣腕の統治者であった。
蓮悟の権勢を象徴するのが、本拠地の移転である。彼は、元々の創建の地であった山間の二俣から、加賀平野を一望できる平野部の若松へと寺基を移し、新たに「若松本泉寺」を建立した 9 。これは、守りの拠点から支配の拠点へ、すなわち山城から平城へと本拠を移すに等しい行為であり、彼の政治的・軍事的な野心と勢力拡大を明確に示すものであった。
彼の権威は加賀一国に留まらなかった。永正三年(1506年)、越後守護代・長尾能景が越中に侵攻した際、蓮悟は越中一向一揆を指揮してこれを迎撃し、般若野の戦いで能景を討ち取るという大勝利を収めている 17 。これにより、越中の大部分も本願寺門徒の勢力下に入り、蓮悟の名声は北陸一帯に轟いた。
以下の表は、本泉寺初期の住職系譜である。これは、蓮如一族による寺院の世襲支配の実態を明確に示しており、同時に、調査の起点となった「善従」という名がこの系譜上に存在しないことを視覚的に裏付けている。
表1:本泉寺 歴代住職(初期)
代 |
住持名 |
俗名・院号 |
続柄 |
在位期間・没年 |
備考 |
1 |
如乗 |
宣祐 |
本願寺六世巧如の子、蓮如の叔父 |
創立~1460年没 |
本泉寺開基。蓮如の法主継承の最大の後援者 1 。 |
2 |
蓮乗 |
兼鎮 |
本願寺八世蓮如の次男、如乗の養子 |
1460年~1504年没 |
瑞泉寺と兼帯 1 。 |
3 |
蓮悟 |
兼縁 |
本願寺八世蓮如の七男、蓮乗の弟 |
1504年~1531年(失脚) |
加賀統治の三頭の一人。若松本泉寺を建立 1 。 |
(後嗣候補) |
実悟 |
- |
本願寺八世蓮如の十男、蓮悟の弟 |
- |
蓮悟に実子・実教が生まれたため、清沢願得寺へ移る 9 。 |
4 |
実教 |
兼興 |
蓮悟の嫡男 |
1531年~1532年没 |
父の失脚後、毒殺される 1 。 |
蓮悟の治世は、本泉寺の、そして加賀一向一揆の最盛期であった。しかし、その栄光は、本願寺中央における権力構造の変化という、巨大なうねりによって、やがて脆くも崩れ去ることになる。
第三部:享禄の錯乱 ― 教団内乱と指導者の悲劇
第四章:内紛の勃発 ― 大一揆と小一揆の対立
栄華を極めた加賀門徒国家は、外部からの脅威ではなく、内部からの亀裂によって崩壊の危機に瀕する。享禄四年(1531年)に勃発した「享禄の錯乱」と呼ばれるこの内乱は、本願寺教団の歴史における最大の悲劇の一つであり、蓮悟の運命を根底から覆すものであった。
対立の根源は、本願寺中央の権力構造の変化にあった。蓮如、そしてその跡を継いだ第九世実如の時代が終わり、幼少の証如が第十世法主となると、その後見人となった蓮淳(れんじゅん、蓮如の六男)が教団の実権を掌握した 19 。蓮淳は、戦国乱世を乗り切るために、教団の権力を法主のもとに集中させる中央集権化を強力に推進した。この方針にとって、加賀で巨大な半独立勢力を築き、一国の統治者として君臨する蓮悟ら三ヶ寺の存在は、統制を阻む危険な存在と映ったのである。
この対立は、単なる寺同士の主導権争いではなかった。それは、本願寺という巨大教団国家が、創業期(蓮如)の「地方分権・勢力拡大」というフェーズから、成熟期(証如・蓮淳)の「中央集権・内部統制」というフェーズへと移行する際に必然的に発生した、体制変革の痛みであった。蓮悟は、父・蓮如が築いた「地方の有力な一門が現地を治める」という旧来のシステムの象徴であった。一方、蓮淳は、教団全体の統制を強化し、一枚岩の組織として外部の戦国大名と渡り合うために、蓮悟のような「地方の独立大名」の存在を許すことができなかったのである。
享禄四年(1531年)、この根深い対立はついに武力衝突へと発展する。本願寺中央(証如・蓮淳)の意向を受けた超勝寺実顕(蓮淳の婿)や本願寺坊官の下間頼秀・頼盛兄弟らを中心とする勢力は「大一揆」を形成した。これに対し、蓮悟ら加賀三ヶ寺を中心とする在地勢力は「小一揆」と呼ばれ、両者は加賀の支配権を巡って激突した 19 。この戦いは、新旧の統治思想の代理戦争であったと言える。
第五章:蓮悟の没落と加賀支配の変質
内乱の序盤、戦闘は小一揆方の優勢で進んだ。しかし、本願寺中央が「大一揆こそが法主の意に沿うものである」と公式に支持を表明すると、形勢は一気に逆転する。法主の権威を背景にした大一揆方の攻勢の前に小一揆方は次々と敗走し、蓮悟と弟の実悟が籠る石川郡の清沢願得寺も焼き払われた 19 。松岡寺の蓮綱らは捕らえられ、病死あるいは自害に追い込まれた。絶体絶命の窮地に陥った蓮悟は、わずかな供回りと共に能登の畠山氏のもとへ逃亡するしかなかった 19 。
加賀の支配者から一転して追われる身となった蓮悟に対し、本願寺中央の追及は非情を極めた。翌享禄五年(1532年)、潜伏先の越前において、蓮悟が最も愛した嫡男であり、その権力と血統の後継者であった実教が毒殺されるという悲劇が起こる 16 。これは、蓮悟の家系を完全に断絶させ、その権力の復活を未来永劫不可能にするという、冷徹な政治的決定であった。
蓮悟自身は、当時、いかなる権力も容易に手出しができない自治都市・和泉国堺に逃げ込むことで、辛うじて命を永らえた 16 。しかし、彼は本願寺から「破門」という、宗教者にとって死にも等しい宣告を受ける。かつて一国を動かした権力も、門徒からの信望も、その全てを失った。そして天文十二年(1543年)、破門が解かれることはなく、堺の地で零落したまま、76歳の波乱に満ちた生涯を閉じた 16 。
蓮悟の悲劇は、一個人の没落に留まらなかった。それは、加賀一向一揆という国家の「国制改革」を意味した。蓮悟ら三ヶ寺による寡頭制は終焉を迎え、代わって本願寺宗主を頂点とする直接統治体制、すなわち中央集権体制が確立されたのである 11 。この内部統制の強化は、皮肉にも加賀一向一揆を、より強固で一枚岩の戦闘集団へと変貌させた。蓮悟という犠牲の上に成し遂げられたこの変革こそが、後の織田信長との十年以上にわたる死闘を戦い抜くための組織的基盤となった。蓮悟の死は、教団が次なる時代へ進むための「生贄」であったのかもしれない。
第四部:加賀一向一揆の終焉と本泉寺の再興
第六章:織田信長との死闘と王国の崩壊
享禄の錯乱という内乱を乗り越え、中央集権的な戦闘集団として再編された加賀一向一揆は、その勢力をさらに拡大させた。内乱後、加賀の本願寺勢力は金沢の地に「尾山御坊(金沢御堂)」を建設し、ここを新たな拠点として北陸全体に影響力を及ぼした 12 。
彼らは周辺の戦国大名としのぎを削り、弘治元年(1555年)には越前の朝倉氏と、1570年代前半には越後の上杉謙信と激しい戦闘を繰り広げた 21 。特に上杉謙信との戦いは熾烈を極めたが、天正四年(1576年)には、共通の敵である織田信長に対抗するため、両者は和睦を結ぶという外交的柔軟性も見せている 21 。
しかし、天下布武を掲げて勢力を拡大する織田信長との対立は避けられなかった。元亀元年(1570年)に石山合戦が始まると、加賀一向一揆は石山本願寺を支援する主力部隊として、信長の北陸方面軍司令官・柴田勝家と十年にも及ぶ死闘を繰り広げることとなる。
天正八年(1580年)、顕如が信長に屈服し、石山本願寺が開城すると、加賀一向一揆の運命も尽きた。柴田勝家率いる織田軍は加賀に総攻撃をかけ、拠点であった尾山御坊は陥落した 12 。しかし、白山麓の門徒たち(山内衆)は降伏を拒み、鳥越城に籠もって最後の抵抗を試みた。その抵抗は頑強を極めたが、勝家の謀略によって城主・鈴木出羽守が討たれ、ついに鳥越城も陥落した 24 。その後、織田軍による情け容赦のない残党狩りが行われ、天正十年(1582年)までに抵抗は完全に鎮圧された 23 。これにより、長享二年から約一世紀にわたって続いた「百姓の持ちたる国」は、完全に崩壊したのである。
第七章:戦乱を越えて ― 本泉寺のその後
加賀一向一揆の崩壊と共に、本泉寺が担ってきた政治的・軍事的な役割は完全に終焉を迎えた。若松本泉寺は享禄の錯乱で焼失し、その主であった蓮悟は失意のうちに大坂で没した。しかし、本泉寺の法灯そのものが消え去ったわけではなかった。
戦乱の時代が終わり、世が泰平に向かう中で、本泉寺は二つの流れとなって再興された。一つは、蓮悟が亡くなった大坂の地に復興された「若松本泉寺」。もう一つは、如乗が最初に寺を開いた原初の地、加賀国二俣に再興された「二俣本泉寺」である 3 。一国の支配者として君臨した権勢は、内乱と天下統一の波の中で消え去ったが、寺院そのものは信仰の拠点として、人々の手によってたくましく再建されたのである。
特に、現在の金沢市二俣町に存続する二俣本泉寺(真宗大谷派)には、創建当初の宗教的理想を今に伝える貴重な文化遺産が残されている。それは、蓮如の作庭と伝えられる「九山八海の庭」である 8 。阿弥陀如来の浄土世界を象ったとされるこの静謐な庭園は、かつてこの地が経験した血塗られた戦いの歴史を超え、信仰が持つ強靭さと普遍性を静かに物語っている 25 。
本泉寺の歴史は、政治権力がいかに儚く、そして信仰がいかに強靭であるかを示す一つの証左と言えるだろう。蓮悟と共にあった権力者としての本泉寺の物語は戦国時代と共に終わったが、信仰の場としての本泉寺の物語は、その後も歴代住職によって受け継がれ 1 、数百年後の現代まで続いているのである。
結論
本報告書は、「本泉寺善従」という一人の人物に関する問いから始まった。徹底的な調査の結果、その名は歴史資料の中に発見することはできなかった。しかし、その幻の人物を追う探求の旅は、我々を歴史の深層へと導き、本泉寺の、ひいては加賀一向一揆の興亡の歴史を一身に体現した真の中心人物、本願寺第八世法主・蓮如の子「蓮悟」の劇的な生涯に巡り合わせた。
本泉寺の歴史は、戦国時代の一大叙事詩の縮図であった。それは、本願寺教団の拡大戦略の拠点として生まれ、一向一揆による「百姓の持ちたる国」という前代未聞の社会実験の中核を担い、教団内部の権力闘争による崩壊の悲劇を経験し、そして織田信長という時代の巨大な奔流に飲み込まれて終焉を迎えた。
その中心にいた蓮悟の生涯は、時代の大きなうねりの中で、一個人の運命がいかに翻弄されるかを見事に示している。彼は、父・蓮如が築き上げたシステムの最大の受益者として栄華を極めたが、同時に、そのシステムが中央集権化へと変質していく過程において、切り捨てられるべき旧体制の象徴として断罪された最大の犠牲者でもあった。彼の栄光と悲劇は、単なる個人の物語ではなく、本願寺教団という組織が、そして日本という国が、中世から近世へと移行する際の構造的な矛盾と痛みを内包していた。
最終的に、幻の「善従」を探すという当初の目的は、一人の忘れられた指導者の栄光と悲劇を通して、戦国という時代の光と闇、そしてそこに生きた人々の理想と絶望を鮮やかに描き出すという、より本質的な歴史探求へと昇華された。これこそが、歴史を問うことの醍醐味であると言えるだろう。
引用文献
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- 【今日は何の日?】11月17日 加賀一向一揆最後の拠点、鳥越城が陥落 - いいじ金沢 https://iijikanazawa.com/news/contributiondetail.php?cid=9785
- 二俣本泉寺 - FC2 http://kagaikkouikki.web.fc2.com/ij-honsenjif.html
- 本泉寺庭園“九山八海の庭” ― 蓮如作庭…石川県金沢市の庭園。 - おにわさん https://oniwa.garden/kanazawa-honsenji-temple/