最終更新日 2025-08-03

本福寺賢誓

本福寺賢誓(明誓)は戦国期の近江堅田の一向宗住持。本願寺からの破門や比叡山との対立を経験しつつも、門徒の交易・布教で教勢を拡大。子孫は織田信長と戦い、後に文化人となる。
本福寺賢誓

「湖上の王国」の興亡と記録:戦国期近江堅田・本福寺明誓(賢誓)の生涯に関する総合的考察

序論:本福寺賢誓という人物 ― 史料上の探求と特定

戦国時代の近江国、琵琶湖のほとりに位置する堅田(かたた)の地で活躍した一向宗の住持、「本福寺賢誓」。この人物に関する調査は、まずその名前の特定から始める必要がある。ユーザーが提示した「賢誓」という名は、同時代、同地域、同様の役割を果たした人物の記録と照合すると、近江堅田本福寺の第六世住持であった**明誓(みょうせい)**を指すものと結論付けられる 1 。法名における「賢」と「明」の字は時に混同されやすく、本報告書では、この「本福寺明誓」を主題とし、その生涯と時代背景を徹底的に掘り下げていく。

明誓は延徳3年(1491年)に生まれ、永禄3年(1560年)に没した 1 。彼の生涯は、戦国時代の最も激しい動乱期と重なる。本報告書の分析の中心となるのは、明誓自身と、その父である第五世住持・明宗(みょうそう)が遺した『

本福寺跡書(ほんぷくじあとがき) 』と総称される一連の記録群である 2 。これは単なる客観的な年代記ではない。本願寺教団内部の権力闘争によって三度にわたる破門を受け、寺院存亡の危機に瀕した当事者が、その悲憤と苦難を後世に伝えるために記した、極めて主観的かつ貴重な一次史料である 2 。この記録を丹念に読み解くことで、一人の僧侶の苦闘だけでなく、戦国期における宗教組織の内部力学や、地域社会と権力の関係性を浮き彫りにすることができる。

物語の舞台となる近江堅田は、琵琶湖の湖上交通と漁業権を掌握し、「堅田衆(かたたしゅう)」と呼ばれる自治共同体によって独自の勢力を築いた特異な場所であった 6 。本福寺は、この堅田衆の精神的・政治的な中核をなす存在であり、その歴史は堅田の歴史そのものであった。

本報告書は、まず本福寺が蓮如上人を庇護し、湖上の宗教王国として発展する第一部から筆を起こす。次に、本願寺内部の対立により明宗・明誓父子が経験した受難の時代を第二部で詳述する。第三部では、その苦境の最中にあっても続けられた門徒たちの交易と布教活動の拡大戦略を追う。そして第四部では、明誓の死後、息子・明順の時代に織田信長との石山合戦へと突入し、堅田衆の自治が終焉を迎えるまでを描く。最後に、これらを通して明誓という人物の歴史的意義を結論付ける。

本編に入るにあたり、物語の主要な登場人物である戦国期の本福寺歴代住職を以下に示しておく。

法名

生没年

主な活動・備考

第四世

明顕(みょうけん)

1445-1509

蓮如上人を庇護し、比叡山延暦寺との対立(堅田大責)を招く。寺院勢力の礎を築いた 2

第五世

明宗(みょうそう)

1469-1540

本願寺内部の蓮淳との対立により三度破門され、失意のうちに死去。『本福寺明宗跡書』を著す 2

第六世

明誓(みょうせい)

1491-1560

本報告書の中心人物。 危機的状況下で寺を継承。『本福寺由来記』『本福寺門徒記』を著す 1

第七世

明順(みょうじゅん)

1522-1582

石山合戦で活躍。本福寺の軍事的側面を担う。48歳で死去 1

第八世

明乗(みょうじょう)

1558-1621

織豊政権から江戸初期にかけて活動。新時代における寺院の地位を固める 1


第一部:湖上の王国 ― 近江堅田本福寺の成立と発展

蓮如の拠点としての本福寺

近江堅田本福寺が、単なる一地方寺院から歴史の表舞台へと躍り出る契機は、本願寺第八世宗主・蓮如(れんにょ)との出会いであった。寛正6年(1465年)、比叡山延暦寺の衆徒によって京都・大谷本願寺を破却された蓮如は、命からがら近江へと逃れる(寛正の法難) 2 。この窮地に陥った蓮如を庇護したのが、本福寺第三世住持・法住(ほうじゅう)と、その後を継いだ第四世・明顕(みょうけん)であった 2

本福寺は蓮如に活動拠点を提供し、蓮如はこの地から精力的に布教活動を展開した。これにより、本福寺は近江における浄土真宗本願寺派の教線拡大の中核拠点となり、その名声と影響力は飛躍的に高まった。しかし、この行為は、当時絶大な権勢を誇った延暦寺を公然と敵に回すことを意味していた。蓮如を匿うことは、延暦寺の権威に対する明白な挑戦であり、本福寺と堅田の町は、避けられない対立へと引きずり込まれていくことになる。

堅田大責 ― 比叡山延暦寺との死闘

蓮如を庇護したこと、そして堅田衆が琵琶湖の湖上交通を支配し、延暦寺の権益と衝突したことなどが積み重なり、ついに応仁2年(1468年)、延暦寺による大規模な軍事行動が開始される。これが「堅田大責(かたたおおぜめ)」と呼ばれる事件である 2

延暦寺の攻撃は熾烈を極め、堅田の町は焼き払われ、本福寺もまた灰燼に帰した 2 。『本福寺跡書』には、堅田の住民が味方する里もなく、湖中に逃げ惑う悲惨な様子が記録されている 5 。この壊滅的な打撃にもかかわらず、事件は予期せぬ結果をもたらした。共通の敵である延暦寺と戦い、共に苦難を乗り越えた経験は、堅田衆の内部結束を鉄のように固めることになったのである。彼らは本福寺を中心とした「同朋思想」を共有し、本願寺教団への帰属意識をより一層強固なものとした。破壊からの復興過程を通じて、本福寺と堅田衆は、宗教的・経済的・軍事的に一体化した、より強靭な共同体へと生まれ変わった。

堅田衆 ― 湖上交通を支配した自治共同体

本福寺の権勢を理解する上で不可欠なのが、その支持母体である「堅田衆」の存在である。堅田は琵琶湖が最も狭まる位置にあり、古くから湖上交通の要衝であった 12 。堅田衆は、この地理的優位性を最大限に活用し、湖上を航行する船から「上乗(うわのり)」と呼ばれる通行税を徴収する権利を保持していた 5 。彼らは卓越した操船技術を持ち、時には「湖賊」とも呼ばれるほどの強力な水上戦力として、湖の支配者として君臨した 6

この経済力と軍事力が、本福寺の強力な基盤となった。本福寺は堅田衆にとって単なる信仰の対象ではなかった。それは彼らの自治の象徴であり、政治的な意思決定を行う議場であり、そして経済的な富を蓄える金庫でもあった。蓮如を庇護し、延暦寺と対峙できたのも、背景にこの堅田衆の強力な支援があったからに他ならない。

しかし、この本福寺と堅田衆の強固な結びつきと、それによってもたらされた経済的・軍事的な自立性こそが、後の悲劇の遠因となる。まず、外部の敵である延暦寺の怒りを買い、「堅田大責」という形でその力を削がれた。そして、この後には、味方であるはずの本願寺教団内部の権力者から、その強大すぎる力を危険視され、抑圧の対象とされることになる。本福寺の力の源泉であった湖上の自治権力は、同時にその存立を脅かす最大の要因でもあった。この構造的矛盾こそが、戦国期の本福寺の歴史を貫く中心的なテーマとなるのである。


第二部:受難の記録 ― 第五世明宗と第六世明誓の苦闘

本願寺の内なる敵 ― 蓮淳の台頭と堅田への圧力

延暦寺という外部の敵との死闘を乗り越えた本福寺を次に襲ったのは、味方であるはずの本願寺教団内部からの圧力であった。蓮如の六男であり、後の第十世宗主・証如(しょうにょ)の外祖父として絶大な権力を握ることになる蓮淳(れんじゅん)が、大津の顕証寺(現在の本願寺近松別院)に入ると、事態は一変する 2

蓮淳は、近江一帯における本願寺の教線を自らの支配下に置き、一門による中央集権的な統制(一門統制)を確立しようと目論んだ。その野望にとって、堅田に強固な地盤を持ち、経済的にも自立している本福寺の存在は、看過できない障害物であった 2 。蓮如以来の功績を持ち、地域の門徒から絶大な信頼を得ている本福寺は、蓮淳の進める中央集権化に対する最大の抵抗勢力と見なされたのである。

三度の破門と明宗の死

蓮淳による本福寺への弾圧は、宗教的な権威を政治的な武器として利用する形で実行された。明顕の養子として第五世住持を継いだ明宗(みょうそう)は、永正15年(1518年)、大永7年(1527年)、そして天文元年(1532年)と、三度にわたって本願寺から破門(勘気)を宣告される 2

この破門処分は、本福寺にとって致命的な打撃となった。教団からの破門は、門徒に対する支配権の剥奪を意味する。蓮淳はこれを機に、本福寺が長年にわたって築き上げてきた所領や門徒組織を、自らが支配する慈敬寺(じきょうじ)へと次々に編入していった 2 。かつて湖上の王国とまで呼ばれた本福寺は、その勢力を根こそぎ奪われ、急速に没落していく。この一連の仕打ちに心身をすり減らした明宗は、天文9年(1540年)、失意と貧困のうちに餓死するという悲劇的な最期を遂げた 2

『本福寺跡書』に刻まれた悲憤

この絶望的な状況の中で、明宗と、その苦闘を間近で見ていた息子の明誓がペンを執った記録が、『本福寺跡書』である。これは、単なる歴史の記録ではない。それは、権力によって全てを奪われた者が、後世の審判を信じて遺した告発状であり、自らの正当性を訴えるための法的・道徳的な闘争の記録であった 2

『跡書』には、蓮淳ら本願寺一門衆による理不尽な弾圧の様相が、生々しい筆致で綴られている 2 。父・明宗の無念の死を看取った明誓は、この記録を書き継ぐことを自らの使命とした。それは、父の苦難の生涯と、本福寺が本来持つべき正当な地位と名誉を、歴史の中に永遠に刻みつけるための、執念の行為であった。

この一連の事件は、単なる寺院間の勢力争いにとどまらない、より大きな歴史的変動を映し出している。それは、蓮如というカリスマ的指導者の下で発展した、地方分権的で情熱的な宗教運動が、世代交代を経て、血縁と家系を重んじる中央集権的で官僚的な組織へと変質していく過程そのものであった。蓮如への忠誠と地域での功績を誇る本福寺は、この組織変革の波に抗った「旧守派」であり、中央の権力者である蓮淳は、新たな秩序を築こうとする「改革派」であった。両者の対立は、教義の差ではなく、権力と資源(門徒と所領)の配分を巡る闘争であった。蓮淳は「破門」という教団内の最終兵器を用いて抵抗勢力を粉砕し、権力基盤を固めた。対する明宗と明誓は、制度的な権力を奪われた後、唯一残された武器である「記録」に訴えた。『本福寺跡書』は、この制度的な潮流に対する、敗者の側からの必死の抵抗の証なのである。


第三部:交易と布教 ― 本福寺門徒の拡大戦略

『本福寺門徒記』に見る布教の最前線

中央の本福寺が蓮淳の弾圧によって存亡の危機に瀕していたまさにその時、驚くべきことに、その門徒たちは遠隔地で教勢を拡大し続けていた。明誓が記した『本福寺門徒記』(『跡書』の一部)には、その活発な布教活動の様子が記録されている 1

特に注目すべきは、因幡国(いなばのくに)と伯耆国(ほうきのくに)、すなわち現在の鳥取県への展開である。『門徒記』には、「イナバノミゾノクチニ五郎左衛門」や「ハウキノ国ハシヅノサトニ 八郎左衛門」といった具体的な人物名が登場する 13 。彼らは本福寺の熱心な門徒であり、移り住んだ先で「同行(どうぎょう)」と呼ばれる信者のネットワークを組織し、「道場(どうじょう)」を建立していった。例えば、五郎左衛門は因幡の溝口から伯耆の宇野、橋本へと進出し、それぞれ数百人規模の門徒集団を形成したと記されている 13 。これは、本福寺の教えが、堅田という本拠地から遠く離れた日本海沿岸地域にまで、深く浸透していたことを示している。

小浜経由の日本海交易ルート

この遠隔地への布教活動を可能にしたのは、堅田衆が持つ広範な商業ネットワークであった。『本福寺跡書』の記述によれば、彼らは陸路で若狭国の小浜(おばま)まで物資を運び、そこから船に乗り換えて山陰や北陸地方へと向かう交易ルートを確立していた 13 。小浜は古くから日本海側の重要な港であり、ここを拠点とすることで、堅田衆の活動範囲は琵琶湖周辺にとどまらず、日本海沿岸一帯へと広がっていたのである。

「商売をしつゝ浄土真宗を伝え」る

堅田衆にとって、商売と信仰は分かちがたく結びついていた。『本福寺跡書』は、彼らが「商売を行うとともに、真宗道場を建て門徒を育てていった」と明確に記している 13 。彼らの交易活動は、同時に布教活動でもあった。商船は商品を運ぶと同時に、僧侶や熱心な信者を運び、新たな土地に浄土真宗の教えをもたらした。この商売と布教が一体となった拡大モデルは、極めて現実的かつ効果的であった。商業活動によって経済的な基盤を確保しながら、自然な形で信仰の輪を広げていくことができたのである。

この事実は、本福寺という組織の二重構造と強靭さを示唆している。一方で、堅田にある中央寺院とその指導者(明宗・明誓)は、本願寺中央からの政治的圧力によって壊滅寸前に追い込まれていた。しかしその一方で、末端の門徒ネットワークは、自律的かつ精力的に活動を続け、教団の勢力を拡大していた。このトップダウンではない、ボトムアップ型の、自律分散的なネットワークの活力こそが、本福寺の真の強さであったのかもしれない。中央の苦境を知りながらも、遠い地で信仰を守り、広めようとする門徒たちの存在は、絶望の淵にいたであろう明誓にとって、一筋の希望の光であったに違いない。彼の記録を書き残すという執念の背景には、この生きて躍動する門徒たちの存在があったと考えることができる。


第四部:戦国乱世の渦中で ― 明順・明乗の時代

近江の覇権争いと本福寺

永禄3年(1560年)に明誓が世を去ると、本福寺は第七世住持・明順(みょうじゅん)の時代を迎える。この頃の近江国は、長年にわたり守護として君臨してきた六角氏の権勢が衰え、北近江から台頭した浅井長政が覇権を争う、まさに下剋上の戦乱の只中にあった 14 。本福寺は、この複雑で危険な政治情勢の中、巧みな舵取りを要求された。蓮淳による弾圧からやや立ち直り、寺勢を回復しつつあった本福寺は、再び近江の政治・軍事地図における重要なプレイヤーとして浮上していく。

第七世明順と石山合戦

ユーザーの当初の問いにあった「一軍を率いて合戦に参加した」という人物像に最も合致するのが、この第七世・明順(1522-1582)である。彼の時代、本願寺教団は天下布武を進める織田信長と全面戦争に突入する。これが元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)まで、10年にもわたって続いた石山合戦である。

かつての弾圧の歴史を乗り越え、本福寺は本願寺宗主・顕如(けんにょ)の呼びかけに応じ、反信長連合の一翼を担った 1 。この連合には、近江の浅井長政や越前の朝倉義景といった戦国大名も加わっており、本福寺と堅田衆は、その水軍力と動員力を以て、信長との戦いに身を投じた 16 。明順の活躍は、本福寺が単なる宗教施設ではなく、戦国大名とも渡り合える軍事力を持った武装集団であったことを明確に示している。

織田信長と堅田衆の解体

しかし、本福寺が加わった反信長連合の運命は、過酷なものであった。元亀元年(1570年)の姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が敗北し、天正元年(1573年)には両氏ともに信長によって滅ぼされる 16 。最大の同盟者を失った本願寺は苦境に陥る。

さらに、堅田衆の内部からも信長に内通する者が出るなど、一枚岩とは言えない状況も露呈した 17 。信長は、敵対勢力の拠点であった比叡山延暦寺を焼き討ちにしたように、独立性の高い宗教勢力や自治都市の存在を決して許さなかった。天正8年(1580年)に石山合戦が終結し、信長の勝利が確定的になると、堅田衆が長年にわたって享受してきた湖上交通の支配権や自治権は、信長によって解体されることとなる 18 。ここに、湖上の王国としての堅田の歴史は、事実上の終焉を迎えた。

豊臣政権から江戸時代へ

本能寺の変で信長が倒れた後、天下を統一した豊臣秀吉の政権下で、堅田衆は新たな秩序の中に組み込まれていく。彼らは湖上交通における特権を失ったものの、秀吉が整備した新たな水運システムの中で、船の運航を担う実務者として存続を許された 19

本福寺もまた、第八世・明乗(みょうじょう、1558-1621)の時代に、この激動の時代を乗り越えた 1 。かつてのような独立した政治・軍事勢力としての役割を終え、純粋な宗教施設としての道を歩み始める。その象徴的な姿が、江戸時代に入ってからの第十一世住持・明式(みょうしき)である。彼は千那(せんな)という俳号を持つ、俳聖・松尾芭蕉の高弟として知られる文化人であった 22 。芭蕉は幾度も堅田の本福寺を訪れ、多くの句を残している 18

この変遷は、戦国時代の終焉と天下統一という、より大きな歴史的文脈の中で理解されなければならない。明順が軍勢を率いて信長と戦うことができたのは、日本国内の権力が分裂し、各地に独立した勢力が割拠していたからこそ可能であった。信長と秀吉による天下統一事業は、まさにこうした地方の独立勢力を解体し、中央集権的な国家体制を構築する過程であった。その巨大な潮流の中で、本福寺のような地域権力が生き残るためには、政治的・軍事的な牙を抜き、新たな秩序の中に組み込まれる文化的な存在へと自己を変革させる以外に道はなかった。千那の詠む俳諧の静けさは、かつて明順が率いた軍船の喧騒が、歴史の彼方へと消え去ったことを物語っているのである。


結論:本福寺明誓(賢誓)とその時代の歴史的意義

本報告書で詳述してきた本福寺明誓(賢誓)の生涯は、一人の僧侶の個人的な物語にとどまらず、戦国という時代の本質を多角的に映し出す鏡であった。

第一に、 記録者としての明誓 の功績は計り知れない。彼は卓越した武将でも、偉大な建築家でもなかった。しかし、父・明宗と共に『本福寺跡書』を書き残したことで、歴史に比類なき貢献を果たした。この記録は、巨大な宗教組織が中央集権化していく過程で生じた内部の軋轢と、それに翻弄された地方寺院の苦悩を、当事者の視点から克明に伝える第一級の史料である。権力闘争の敗者が遺したこの悲憤の記録は、勝者の歴史だけでは決して見えてこない、戦国社会のもう一つの真実を我々に教えてくれる。

第二に、 戦国期における本福寺の多面性 が浮き彫りになった。本福寺は単なる寺院ではなかった。それは蓮如以来の由緒を持つ信仰の中心地であると同時に、堅田衆という自治共同体の経済的・軍事的な拠点であり、時には戦国大名と渡り合う政治勢力でもあった。そして、本願寺教団内部では、中央の統制に抵抗する地方の重鎮として、激しい権力闘争の渦中にあった。この宗教・経済・軍事・政治が渾然一体となった複合的な存在こそが、戦国時代の地域権力の実像であった。

最後に、本福寺の興亡の物語は、 地方の自立性と中央の統制 という、時代を超えたテーマを我々に提示する。堅田衆の経済力と自立性は本福寺の力の源泉であったが、それは同時に延暦寺や本願寺中央、そして織田信長といった外部の巨大な権力からの介入を招く要因ともなった。地方が独自の力を持つことの輝きと、それがゆえに中央の権力と衝突せざるを得ないという宿命。本福寺と明誓の物語は、この普遍的な歴史の力学を、戦国時代の近江という舞台で見事に体現している。彼らの苦闘と記録は、権力と信仰、そして共同体のあり方を考える上で、今なお多くの示唆を与えてくれるのである。

引用文献

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