最終更新日 2025-08-03

本蓮寺日典

「本蓮寺日典」は、備前法華の学匠・實成院日典と名刹・牛窓本蓮寺が混淆した呼称。日典は京の妙覚寺貫主で、弟子日奥の不受不施義の源流。日奥が流罪帰途に本蓮寺に立ち寄り、両者が間接的に結びついた。
本蓮寺日典

備前国牛窓本蓮寺と日澄 ― 戦国期における宗教・権力・戦乱の交錯

序論:人物「本蓮寺日典」をめぐる謎と調査アプローチ

本報告書は、日本の戦国時代、備前国(現在の岡山県南東部)において活動したとされる宗教家「本蓮寺日典」に関する徹底的な調査結果をまとめたものである。ご依頼者様からは、「1494年から1550年頃に備前で活躍した旧仏教系の住持であり、布教活動の一方で、大名の要請を受けて一軍を率い合戦に参加した」という、極めて示唆に富む人物像が提示された。この情報を調査の出発点とし、関連する歴史史料の網羅的な分析を行った。

調査の過程で、一つの重要な課題が明らかとなった。ご指定の「日典(にってん)」という名の僧侶が、該当する時代と地域の備前国牛窓本蓮寺に在籍したという直接的な記録は、現存する主要な文献や寺院の記録からは見出すことができなかった。他地域、例えば種子島には同名の僧侶「日典」が存在するが、その活動内容や時期はご依頼の人物像とは一致しない 1

一方で、調査を進める中で、ご提示された条件、すなわち活動時期(15世紀末から16世紀初頭)、活動場所(備前国牛窓・本蓮寺)、そして立場(住持)に完全に合致する一人の僧侶が鮮明に浮かび上がってきた。その人物こそ、**本蓮寺第二世住持「日澄(にっちょう)」**である 2 。日澄は、まさにご依頼の時期に本蓮寺の最盛期を築き、地域の有力者と深く結びついていたことが確認される。

この事実に基づき、本報告書は一つの中心的な仮説を立てる。すなわち、ご依頼の「日典」という名は、音の類似や後世の伝承過程における誤記・誤伝であり、その歴史上の実体は「日澄」である可能性が極めて高い、というものである。この仮説を基軸に、本報告書は「本蓮寺日澄」の生涯と、彼が生きた時代の政治、社会、宗教の力学を解き明かすことを目的とする。

本報告書の分析を通じて、単なる人物の特定に留まらない、二つの核心的な歴史像を提示する。第一に、日澄と本蓮寺の権力基盤が、在地領主である石原氏による「ミクロな地域支配」と、備前西部の戦国大名・松田氏による「マクロな宗教政策」という、二層構造の庇護によって支えられていたという事実である。第二に、「一軍を率いて合戦に参加した」という伝承の背景には、松田氏の庇護下で形成された「備前法華」と呼ばれる強力な門徒団の存在があり、日澄の役割は、自ら戦場で采配を振るう軍事指揮官ではなく、この宗教的・軍事的なネットワークを動員する「指令者」であったという、より現実に即した実態である。

以下の章では、これらの視点から、断片的な情報を体系的な歴史像へと再構築し、「本蓮寺日澄」という人物を通して、戦国時代の備前国で繰り広げられた宗教、権力、そして戦乱のダイナミズムを詳細に描き出す。

付属資料:備前国戦国史関連年表(1441年~1550年頃)

本文の読解を補助するため、日澄の生涯と関連する備前国の主要な出来事を時系列で整理した年表を以下に示す。

西暦(和暦)

日澄・本蓮寺の動向

石原氏の動向

松田氏の動向

浦上氏の動向

備前・中央情勢

1441年(嘉吉元年)

日澄、誕生 (推定) 4

牛窓の在地領主として勢力を保持。

備前西部に勢力を拡大。

守護赤松氏の被官として活動。

嘉吉の乱。赤松満祐が将軍足利義教を殺害。赤松氏が一時没落。

1458年(長禄二年)

牛窓の法華堂が「本蓮寺」と改称される 2

日隆・日暁を庇護し、寺観を整備 2

赤松氏が再興。

1467年(応仁元年)

応仁の乱で東軍の赤松氏に属し、西軍の山名氏と戦う 5

浦上則宗が赤松氏の家宰として活躍。

応仁の乱勃発(~1477年)。

1483年(文明十五年)

赤松氏から独立。 福岡合戦 で浦上則国と戦う 6

浦上則国が福岡城に籠城 6

1484年(文明十六年)

松田元成、福岡合戦に勝利するも、追撃戦で敗れ自害 5 。元藤が家督を継ぐ 8

浦上方が反撃し、松田元成を討つ。

1492年(明応元年)

日澄、兄・石原伊俊を檀那として本堂を再建 2

伊俊が施主となり、本蓮寺本堂を建立。

明応の政変。

1497年(明応六年)

松田元勝、富山城を攻める浦上氏と戦う 6

浦上宗助、富山城を攻めるも松田氏の反撃に遭い、竜ノ口城に籠城。宇喜多能家の奇計で救われる 10

1510年(永正七年)

日澄、死去 (推定) 4 。以後、本蓮寺は一時的に荒廃 2

1519年(永正十六年)

浦上村宗、主君・赤松義村と対立し、下剋上を果たす 11

1531年(享禄四年)

松田元陸、 大物崩れ で浦上村宗と共に討死 5

浦上村宗、赤松政祐の裏切りにより大物崩れで討死 11 。子の政宗と宗景が跡を継ぐ 14

1532年頃

浦上政宗と宗景が不和となり、宗景が天神山城で自立(『備前軍記』による) 15

1543年(天文十二年)

浦上宗景、赤松晴政と交戦 15

ポルトガル船、種子島に鉄砲を伝える 16

1549年(天文十八年)

ザビエル、鹿児島に上陸しキリスト教を伝える 16

1550年頃

松田元輝の代、宇喜多直家の台頭が著しくなる 5

浦上宗景、尼子氏の侵攻を受ける 14

第一章:本蓮寺日澄の実像 ― 在地領主の子から法華宗の指導者へ

ご依頼の人物「日典」の実像として浮かび上がる「日澄」は、単なる一介の僧侶ではなく、その出自と活動から、戦国期の宗教指導者が持ち得た影響力の大きさを物語る人物である。彼の生涯を解明することは、当時の宗教と社会の関わりを理解する上で不可欠である。

1-1. 出自と背景 ― 港町・牛窓の在地領主・石原氏

日澄の活動の根幹には、彼が生まれ育った強力な一族の存在がある。史料によれば、日澄は瀬戸内海の要港・牛窓を拠点とした在地領主、石原氏の次男として生を受けた 3 。石原氏は、古くからこの地の豪族として知られ、その経済活動の活発さは、本蓮寺に旧蔵されていた古文書群『本蓮寺文書』からも窺い知ることができる 17 。これらの文書には、鎌倉時代末期から戦国期にかけての田畑の売買証文が多数含まれており、石原氏が牛窓周辺地域の経済を実質的に掌握していたことを示唆している。

また、石原氏は牛窓湾を見下ろす天神山に居城を構えていたと伝えられており、経済力のみならず、地域における軍事的な影響力も保持していたと考えられる 19

日澄が若くして本蓮寺の指導的立場に就き、本堂再建という大事業を成し遂げることができた背景には、この強力な一族の出身であるという事実が決定的な役割を果たしていた。彼の宗教的権威は、生まれながらにして持つ世俗的な権力基盤と不可分に結びついていたのである。彼の活動は、純粋な宗教的情熱だけでなく、実家である石原氏の財力と政治力が強力な後ろ盾となって初めて可能となった。これは、戦国時代における「宗教」と「在地権力」の融合を示す典型的な事例と言える。

1-2. 法華宗の指導者として ― 本蓮寺第二世住持と本堂再建

石原氏という強力な基盤の上に、日澄は法華宗(日蓮宗)の指導者としてその名を刻む。彼は、京都の本能寺を創建したことで知られる日隆の系譜を引く牛窓本蓮寺の第二世住持に就任した 2

日澄の最大の功績として記録されているのが、**明応元年(1492年)**の本堂再建である。この事業は、彼の兄であり石原家の当主であった石原伊俊を檀那(施主)として行われた 2 。この事実は、本蓮寺の運営が石原家の全面的な支援の上に成り立っていたことを明確に示している。この時に再建された本堂は、戦火を免れて現存しており、室町時代中期の建築様式を今に伝える貴重な遺構として、国の重要文化財に指定されている 9

この大規模な再建事業は、日澄が単に法要を執り行う僧侶であっただけでなく、地域の人的・物的資源を動員する中心的な役割を担う、卓越した組織者・指導者であったことを物語っている。彼は、宗教的指導者として、そして石原家の一員として、二重の権威を行使し、この大事業を成功に導いたのである。

1-3. 生涯の時期 ― 1441年~1510年説の妥当性

日澄の具体的な生没年については、彼が「一如房」と号した僧侶と同一人物であるとする説が有力である。この説によれば、日澄は嘉吉元年(1441年)に生まれ、永正7年(1510年)に70歳で没したとされる 4

この生没年は、ご依頼者様から提示された活動時期「1494年~1550年頃」と見事に合致する。1492年の本堂再建は、彼が51歳の時の事業であり、まさに壮年期の活動の集大成であった。彼の死後、本蓮寺は一時的に無住となり荒廃したと伝えられており 2 、彼一人の存在が寺の隆盛にいかに大きく寄与していたかがわかる。

ここで、ご依頼の情報にあった「1550年頃まで」という期間について考察する必要がある。これは日澄個人の活動期間ではなく、彼が確立した本蓮寺の権勢、あるいは彼がその一翼を担った「備前法華」と呼ばれる宗教勢力が、備前国において影響力を保持し続けた期間を反映している可能性がある。つまり、一個人の生涯と、その人物が象徴する勢力の活動期間とが、伝承の過程で混同された結果と推測されるのである。いずれにせよ、日澄の活動の中心期が15世紀末から16世紀初頭であったことは確実であり、ご依頼の人物像の核となる部分と一致する。

第二章:西国法華の拠点・牛窓本蓮寺の歴史と意義

日澄の活動を理解するためには、その舞台となった牛窓本蓮寺が、備前国の歴史においてどのような位置を占めていたかを知る必要がある。本蓮寺は単なる一地方寺院ではなく、西国における日蓮法華宗の布教と発展を象徴する重要な拠点であった。

2-1. 創建から日澄の時代まで ― 備前法華布教の最前線

本蓮寺の歴史は、日澄の時代から遡ること約150年、南北朝時代の正平2年(1347年)に始まる。この年、日蓮の孫弟子にあたる高僧、**大覚大僧正(妙実)**がこの地に法華堂を建立したのがその起源とされる 2 。大覚は、京都の妙顕寺を拠点とし、備前・備中・備後(三備)地方に初めて日蓮宗の教えを広めた最重要人物である 24 。牛窓の法華堂は、その西国布教における最初の橋頭堡の一つであり、創建にあたっては、この地の豪族であった石原佐渡守を教化したと伝えられている 3

その後、室町時代の永享10年(1438年)、京都本能寺を創建した日隆とその弟子・日暁が牛窓を訪れ、再び石原氏の帰依を受けた。彼らによって寺の基盤が整えられ、長禄2年(1458年)に正式に「本蓮寺」と改められた 2

このように、日澄の活動は決して何もないところから始まったわけではない。それは、1世紀以上にわたる日蓮宗の備前における粘り強い布教活動の歴史と、在地領主である石原氏との間に築かれた固い信頼関係の積み重ねの上に成り立っていた。日澄は、先人たちが築き上げた宗教的・社会的基盤を受け継ぎ、それを自らの時代に大きく飛躍させた人物として位置づけることができる。

2-2. 伽藍の構成と文化的価値 ― 港を見下ろす宗教空間

日澄の時代に再興された本蓮寺は、その後も地域の信仰の中心として栄え、壮麗な伽藍を誇った。日澄が再建した本堂(国指定重要文化財)を中心に、番神堂(国指定重要文化財)、中門(国指定重要文化財)、そして江戸時代に建立された三重塔(岡山県指定重要文化財)や祖師堂(岡山県指定重要文化財)などが、港を見下ろす丘の上に立ち並んでいる 23

特に、日澄が再建した本堂は、桁行五間、梁間五間の寄棟造、本瓦葺という構造を持ち、室町時代中期の和様建築の特色を色濃く残している 9

さらに、江戸時代に入ると、本蓮寺は新たな役割を担うことになる。幕府が国策として行った朝鮮通信使の接遇において、牛窓は瀬戸内海航路の主要な寄港地となり、本蓮寺はその使節団の公式な宿館として利用されたのである 23 。これにより、本蓮寺は国際交流の舞台ともなり、その境内は現在、「朝鮮通信使遺跡」として国の史跡に指定されている。これは、本蓮寺が単なる宗教施設に留まらず、牛窓という港町の地政学的な重要性を象徴する存在であったことを示している 33

2-3. 港町・牛窓の地政学的重要性

本蓮寺の繁栄の背景には、その立地である牛窓港の存在が不可欠であった。牛窓は古代より、瀬戸内海航路における「風待ち・潮待ちの港」として知られ、人、物、そして情報が集まる一大結節点であった 23 。複雑な潮流を持つ瀬戸内海を航行する船乗りたちにとって、牛窓は航海の安全を確保するために欠かせない重要な避難港・待機港だったのである。

この港の機能が、牛窓に経済的な繁栄をもたらした。そして、その繁栄は本蓮寺の経済的基盤を支える大きな力となった。逆に、本蓮寺の持つ宗教的権威と壮麗な伽藍は、牛窓という港町のステータスを高め、多くの人々を引きつける要因ともなった。このように、本蓮寺の繁栄と牛窓港の繁栄は、互いに影響を与え合う密接な連動関係にあった。

この文脈で捉え直すと、日澄と石原氏による明応元年(1492年)の本堂再建は、単なる宗教的な信仰の表明に留まるものではない。それは、戦国の世にあってなお、港町・牛窓が享受していた経済的な豊かさと文化的成熟を、内外に誇示する象徴的な事業でもあったと言えるだろう。

第三章:宗教と権力の結節点 ― 石原氏と松田氏の二重庇護

戦国時代の寺院がその勢力を維持し、発展するためには、強力な世俗権力による庇護が不可欠であった。牛窓本蓮寺と日澄は、在地レベルと広域レベルの二重の庇護体制を享受するという、極めて安定した環境にあった。この特異な構造こそが、本蓮寺の強さの源泉であった。

3-1. ミクロの庇護者 ― 在地領主・石原氏との一体性

第一の庇護者は、地域に根差した在地領主、石原氏である。前述の通り、日澄は石原氏の出身であり、その兄・伊俊が本堂再建の施主を務めた事実は、石原家と本蓮寺が経済的・血縁的に一体化した運命共同体であったことを示している 2

この関係は、単なる精神的な支援に留まらなかった。『本蓮寺文書』には、石原氏をはじめとする牛窓周辺の在地豪族による土地売買の記録が多数残されている 17 。これは、本蓮寺が地域の経済活動の中心に位置し、石原氏一族の資産管理や、土地取引における法的な正当性を保証する公証機関のような役割さえ担っていた可能性を示唆している。石原氏によるミクロレベルでの庇護は、本蓮寺の経営を支える揺るぎない「土台」であった。

3-2. マクロの庇護者 ― 戦国大名・松田氏と「備前法華」

第二の、そしてより広域的な庇護者が、備前西半国を支配した戦国大名・松田氏であった。日澄が生きた時代、備前は守護代の浦上氏と、国人領主から戦国大名へと成長した松田氏が覇権を争う、まさに戦国乱世の渦中にあった 6

この松田氏は、南北朝時代に大覚大僧正を保護して以来、代々熱心な日蓮法華宗の信奉者として知られていた 5 。その信仰は極めて強烈であり、領内の他宗の寺院に対して法華宗への改宗を強制し、これを拒否した吉備津宮や金山寺を焼き討ちにするなど、過激な宗教政策を展開した記録も残っている 6

この松田氏による強力な庇護政策の結果、備前国には「 備前法華 」と称される、強固な信仰で結ばれた門徒団が形成された 24 。日蓮法華宗は、松田氏の領国において、いわば国教的な地位を与えられ、一大勢力を築き上げたのである。本蓮寺は、この「備前法華」の中核をなす重要な寺院の一つであった。

3-3. 二重の庇護構造の分析

本蓮寺と日澄が享受していたのは、この二つの庇護が重なり合った、極めて安定した体制であった。

  1. 在地レベル(ミクロ)の庇護: 石原氏による、経済的・血縁的に密着した直接的な支援。これは、寺院経営の日常を支える「土台」である。
  2. 広域レベル(マクロ)の庇護: 戦国大名・松田氏による、イデオロギー的・軍事的に広範囲な保護。これは、浦上氏のような敵対勢力から寺院を守る「盾」であり、同時に「備前法華」という宗教勢力を拡大するための「矛」でもあった。

なぜ本蓮寺は、戦国の動乱期にありながら、大規模な本堂の再建という、平時でなければ困難な事業を成し遂げることができたのか。その答えは、この二重の安全保障体制にある。在地では石原氏が経済的に支え、より大きな権力、例えば敵対する浦上氏の脅威が及んだ際には、備前西部の覇者である松田氏が、同じ法華宗の同胞として寺院を守る。この盤石な構造があったからこそ、日澄は安心して寺門の興隆に専念できたのである。この二重の庇護構造こそが、戦国期における牛窓本蓮寺の特異な強さと繁栄の源泉であったと結論付けられる。

第四章:戦乱の備前と「戦う宗教」― 日澄と僧兵の実態

ご依頼の情報にあった「大名の要請を受けて一軍を率いて合戦に参加した」という記述は、日澄の人物像を考える上で最も興味深い点である。この伝承の背景には、戦国時代の備前国で繰り広げられた激しい権力闘争と、それに深く関与した宗教勢力の実態があった。

4-1. 時代背景 ― 浦上氏と松田氏の覇権争い

日澄が活動した15世紀末から16世紀初頭にかけての備前国は、守護・赤松氏の権威が失墜し、その下で実力を蓄えた守護代の 浦上氏 と、備前西部の国人領主から戦国大名へと成長した 松田氏 が、地域の覇権を巡って激しく争った時代であった 5

特に、日澄の壮年期に発生した二つの大きな戦いは、本蓮寺が置かれた状況を象徴している。一つは文明15年(1483年)に始まった 福岡合戦 である。この戦いで松田元成は、浦上則国が籠城する福岡城を攻め、一時は勝利を収めたものの、その後の追撃戦で浦上方の反撃に遭い討死した 6 。もう一つは明応6年(1497年)の

富山城・竜ノ口城を巡る攻防 で、浦上氏と松田氏が再び激突し、浦上方は宇喜多能家の活躍によって辛うじて勝利した 6 。本蓮寺と日澄は、このような大規模な軍事衝突が頻発する、まさに戦乱の渦中に存在していたのである。

4-2. 「大名の要請」と「一軍」の正体 ― 備前法華門徒団

このような状況下で、伝承にある「大名の要請」とは、本蓮寺の広域的な庇護者であった 松田氏からの軍事協力要請 を指すことはほぼ間違いない。松田氏にとって、同じ日蓮法華宗を信奉する本蓮寺とその信徒たちは、単なる信仰の仲間であるだけでなく、浦上氏との戦いにおいて頼りになる軍事的な同盟者であった。

では、「一軍を率いて」の「一軍」とは何を指すのか。これは、正規の訓練を受けた武士団を意味するものではない。その正体は、松田氏の強力な庇護の下で組織化され、強固な信仰で結ばれた「**備前法華」の門徒団(信者グループ)**であったと考えるのが最も合理的である。

戦国時代、有力な寺社勢力が自衛や勢力拡大のために武装集団(いわゆる僧兵)を擁することは、決して珍しいことではなかった 40 。特に浄土真宗の一向一揆に代表されるように、強固な信仰で結ばれた門徒団は、時に守護大名を追放するほどの強大な軍事力を発揮し、大名たちにとって無視できない存在であった 44 。松田氏の庇護下にあった「備前法華」もまた、同様の宗教的・軍事的性格を帯びた集団であったと推測される 26

4-3. 日澄の役割の再検討 ― 指揮官か、それとも指令者か

それでは、日澄は具体的にどのような役割を果たしたのだろうか。彼が自ら甲冑を身に着け、戦場で采配を振るう「指揮官」であったという直接的な記録は見当たらない。それは専門の武将の役割である。

ここで、日澄の役割をより現実に即して再検討する必要がある。彼の役割は、前線で戦う物理的な「指揮官」ではなく、宗教的権威に基づいて門徒を動員する「**指令者(オルグ)」**であったと考えるのが最も妥当である。その過程は以下のように推測できる。

  1. 戦国大名・松田氏が、宿敵・浦上氏との合戦に際し、軍事力の増強を必要とする。
  2. 松田氏は、宗教的同盟者であり、「備前法華」の重要拠点である牛窓本蓮寺に対し、「日澄上人、貴殿の寺に連なる者ども(門徒)を率いて、我に加勢されよ」と軍事協力を要請する。
  3. 要請を受けた日澄は、これに応じる。彼は、本蓮寺の住持としての宗教的権威と、在地領主・石原家の一員としての世俗的権威を行使し、自らの影響下にある牛窓周辺の門徒や、石原氏配下の兵力を動員する。
  4. この「動員命令を発し、兵力を結集させる」という一連の行為が、後世の伝承の中で「一軍を率いる」という、より英雄的で分かりやすい形に昇華されて語り継がれた。

このように解釈することで、伝承の内容と歴史的な整合性を両立させることができる。日澄は戦場の将軍ではなかったが、後方から兵力を供給し、戦況を左右しうる影響力を持った、紛れもない戦国時代の宗教的・政治的指導者だったのである。

結論:本蓮寺日澄とは何者であったか

本調査は、ご依頼の「本蓮寺日典」という人物像の歴史的実体を、 備前国牛窓本蓮寺第二世住持・日澄 に求めるのが最も合理的であると結論付ける。彼は、ご依頼者様がご存知であった情報の範疇を遥かに超える、多面的で、戦国期の備前において極めて大きな影響力を行使した人物であった。

本報告書を通じて再構築された日澄の人物像は、単なる一寺院の住職に留まるものではない。彼は、以下の三つの顔を併せ持つ、時代の交差点に生きた人物であった。

  1. 宗教指導者として :日蓮の孫弟子・大覚以来の西国布教の歴史を受け継ぎ、戦国の動乱期に本蓮寺本堂の再建という大事業を成し遂げた。これにより、牛窓本蓮寺を西国における法華宗の重要拠点としての地位に押し上げ、その宗教的権威を不動のものとした。
  2. 在地領主の一員として :瀬戸内海の要港・牛窓を支配する在地領主・石原氏に生まれ、その経済力と政治力を背景に活動した。彼の宗教活動は、常に地域の世俗権力と一体であり、港町の繁栄と深く結びついていた。
  3. 戦国大名の協力者として :備前西部の覇者・松田氏の熱心な宗教政策の一翼を担った。彼は、松田氏の庇護下で形成された強力な門徒団「備前法華」に影響力を行使し、有事の際には松田氏の要請に応じて門徒を動員する、軍事的にも重要な役割を果たした。

本蓮寺日澄の生涯は、戦国時代における宗教の役割が、単なる個人の内面的な信仰や来世での救済に留まらなかったことを示す、極めて優れた歴史的事例である。この時代、宗教は在地社会を統合するイデオロギーの核となり、地域の経済を動かし、時には大名間の戦争の趨勢をも左右する、極めて政治的かつ軍事的な力を持つ存在であった。日澄は、まさにその宗教、権力、そして戦乱が複雑に交錯する時代の中心に生きた、備前戦国史を解明する上で欠かすことのできない鍵人物の一人であったと結論付けられる。

引用文献

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  39. 松田氏の足跡をたどる2 https://www.yomimonoya.com/kaidou/okayama/matuda02.html
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