戦国期の秋田湊は日本海交易の要衝で、安東氏が支配。幻の商人「本間作右衛門」は、当時の国際的な商人たちの集合的肖像だった。
日本の戦国時代、秋田の港町で活躍した商人「本間作右衛門」という人物についての探求は、一つの歴史的な謎から始まる。ご依頼者が持つ「安東氏支配下の秋田港(三津七湊)の商人」という人物像は、戦国期における秋田湊の歴史的役割を的確に捉えた、鋭い着眼点である。しかし、この「本間作右衛門」という具体的な名を持つ商人について、同時代の史料を徹底的に調査した結果、その存在を直接的に証明する記録は見出すことができなかった。
この事実は、我々を別の問いへと導く。「本間作右衛門」という人物像は、いかにして形成されたのか。その答えは、歴史的な記憶の混同と伝承の形成過程にあると推測される。特に、後世において絶大な富と名声を誇った出羽国酒田(現在の山形県酒田市)の豪商・本間家、あるいは戦国期に佐渡国(現在の新潟県佐渡市)を支配した武士・本間氏のイメージが、秋田湊の歴史と結びつき、一人の商人の物語として結晶化した可能性が極めて高い 1 。江戸時代中期以降、酒田の本間家はその財力から「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われるほどの存在であった 1 。この強烈なイメージが、「東北の日本海沿岸で活躍した豪商」の代名詞となり、時代や場所を超えて、秋田の商人の物語に投影されたとしても不思議ではない。
したがって、本報告書は、史料に存在しない一個人の伝記を追うことを目的としない。そうではなく、「本間作右衛門」という名に託された人々の歴史的想像力の源泉、すなわち、彼が生きたであろう「戦国期秋田の商人」という存在そのものの実像を、多角的に解明することを主眼とする。彼らを取り巻く経済、社会、そして政治のダイナミズムを、日本海交易という大きな枠組みの中で再構築することにより、一個人の物語を超えた、より立体的で歴史的に正確な商人たちの肖像を描き出すことを試みる。
戦国時代の商人の活動を理解するためには、まずその舞台となった秋田湊、すなわち土崎湊の歴史的・地理的重要性を把握する必要がある。この港は、単なる地方の船着場ではなく、日本列島の経済を動かす広域な交易ネットワークに組み込まれた、戦略的な拠点であった。
土崎湊の歴史は古く、古代にまで遡る。近隣に置かれた出羽国府・秋田城の外港として機能し、古くから海上交通の拠点であったことが、考古学的調査からも裏付けられている。湊の近郊に位置する後城遺跡からは、能登、越前、美濃、瀬戸など、日本各地で生産された中世の陶器類に加え、中国大陸の唐銭、宋銭、明銭、さらには中国産の磁器が多数出土している 3 。これらの出土品は、土崎湊が古代・中世を通じて、すでに遠隔地との広域な交流ネットワークの中にあったことを雄弁に物語っている。
室町時代に入ると、土崎湊の重要性はさらに高まる。当時、日本海航路の秩序を定めた日本最古の船法度とされる「廻船式目」(または廻船大法之巻)には、全国の主要な港湾として「三津七湊」が挙げられている。三津とは伊勢の安濃津、筑前の博多津、和泉の堺津を指し、七湊には越前の三国湊、加賀の本吉湊、能登の輪島湊、越中の岩瀬湊、越後の今町湊(直江津)、そして津軽の十三湊と並んで「出羽の秋田湊」が数えられているのである 4 。この記述は、土崎湊が単なる地方港湾ではなく、日本海航路全体を統括する基幹港湾の一つとして、中央からも公式に認識されていたことを示している。畿内や北陸の経済圏と、東北、さらにはその先の北方世界とを結ぶ、まさに結節点としての役割を担っていた。
土崎湊のもう一つの重要な特徴は、和人社会の北端に位置し、異文化との交流の最前線であったことである。16世紀半ば、日本で布教活動を行っていたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、その書簡の中で注目すべき記録を残している。彼は、日本の北方に住むアイヌの人々について、「ゲワの国(出羽国)の大なる町アキタと称する日本の地に来たり交易をなす者多し」と記した 3 。この「大なる町アキタ」とは、まさしく当時の土崎湊とその周辺地域を指す。
この記録は、土崎湊が国内の交易ネットワークのみならず、和人文化圏とアイヌ文化圏という、まったく異なる二つの世界を結ぶ「ゲートウェイ」として機能していたことを示している。アイヌの人々は、毛皮や干魚、鷹の羽といった北方の産物を携えて来航し、和人社会からは鉄製品、漆器、米、酒、布製品などがもたらされたと考えられる。このような交易の場では、単に物資を交換するだけでなく、異なる言語、習慣、価値観を持つ人々との交渉が不可欠であった。
したがって、この湊で活躍した商人たちは、単なる商品の仲介者にとどまらなかった。彼らは異文化間の通訳者であり、交渉人でもあった。多様な価値観が交錯する中で利益を生み出すためには、高度なコミュニケーション能力と、相手の文化に対する深い理解が求められたであろう。戦国時代の土崎湊は、国内経済の動脈であると同時に、国際色豊かな、ダイナミックな交流の舞台だったのである。
港の繁栄は、それを支配する権力者の盛衰と不可分である。戦国時代の秋田湊は、海洋豪族・安東氏の支配下にあり、その経済的・政治的動向は、湊で活動する商人たちの運命を大きく左右した。
安東氏は、その出自を前九年の役で滅んだ安倍貞任の子孫と称し、古くは津軽地方を拠点としていた 6 。彼らは津軽半島の十三湊を本拠地とし、蝦夷地(現在の北海道)との交易権を掌握することで勢力を拡大した海洋豪族であった 6 。十三湊は、発掘調査によって国際貿易港としての繁栄ぶりが明らかになっており、安東氏の権力が土地支配のみならず、港湾と海上交易の掌握に大きく依存していたことを示している 7 。
しかし室町時代、安東氏は南方から勢力を伸ばしてきた南部氏との抗争に敗れ、津軽の地を追われることとなる 8 。この時、一族の一部は蝦夷地へ逃れたが、別の一派は南下して出羽国秋田郡に入った。こうして、能代周辺を拠点とする「檜山安東氏」と、土崎湊を拠点とする「湊安東氏」の二つの系統に分かれて、それぞれが勢力を築くことになったのである 6 。湊安東氏は、かつての一族の拠点であった十三湊と同様のモデルを、この土崎湊で再現し、日本海交易を基盤とした権力の再興を目指したと考えられる。
長く分裂状態にあった安東氏であったが、戦国時代中期、檜山安東氏に安東愛季(ちかすえ)という傑出した当主が登場する。彼は湊安東家の血も引いており、巧みな婚姻政策や養子縁組を駆使して、弟の茂季を湊安東氏の養子に送り込むなど、両家を事実上吸収する形で再統一を成し遂げた 10 。これにより、安東氏は出羽北部における有力な戦国大名として飛躍する基盤を固めた。
この安東氏の再興と権力強化の過程で、その経済的基盤である土崎湊を巡って、深刻な対立と騒乱が発生する。これが「湊騒動」と呼ばれる一連の事件である。従来、元亀元年(1570年)と天正17年(1589年)の二度の騒動が知られているが、近年の研究では、複数回にわたる騒乱が起きていた可能性が指摘されている 12 。
この湊騒動は、単なる安東氏一族の内紛として片付けることはできない。その深層には、湊の経済的利権を巡る構造的な対立があった。戦国大名として領国の一元的な支配を目指す愛季にとって、最大の財源である土崎湊の交易利益を確実に掌握することは、至上命題であった。そのために彼は、湊に出入りする船舶や商人から徴収する津料(通行税や関税)の制度を強化し、交易を自らの統制下に置こうとした 11 。
この政策は、安東氏の財政基盤を固め、中央集権的な大名権力を確立するためには不可欠な措置であった。しかし、それは同時に、これまで比較的自由な交易活動によって利益を得てきた湊周辺の国人領主や、独立性の高い商人たちの既得権益を著しく侵害するものであった。彼らは、愛季による経済システム改革に強く反発し、抵抗した。これが、湊騒動の本質である。つまり、安東愛季の「戦国大名化」という政治的目標が、秋田湊の「経済システム改革」の直接的な引き金となり、その改革が引き起こした在地勢力との深刻な利害対立が、血を伴う武力衝突へと発展したのである。最終的に愛季はこの騒乱を鎮圧し、湊の交易に対する一円支配を確立した 9 。これは、戦国時代において、新たな政治権力が経済支配を確立していく典型的なプロセスであった。
安東愛季は、領国内の支配を固める一方で、中央政権との結びつきを積極的に模索した。天正元年(1573年)以降、当時天下人への道を歩んでいた織田信長に使者を送り、鷹などの貢物を献上している。その結果、天正8年(1580年)には従五位上・侍従に任官されるに至った 11 。これは、当時の東北地方の武将としては異例のことであり、安東氏の政治的地位を大いに高めるものであった。
愛季の後を継いだ安東(秋田)実季の時代になると、中央政権との関係はさらに緊密になる。天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼして天下を統一すると、実季はその配下の大名として組み込まれた。この関係は、秋田の経済に直接的かつ巨大な影響を及ぼすことになる。秀吉は、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に用いる軍船の建造や、京都に築城中であった伏見城の資材として、実季に対して大量の秋田杉を上納するよう命じたのである 3 。これは「太閤御用板」あるいは「伏見作事板」と呼ばれ、秋田の経済史における一大事業となった。
この中央政権との結びつきは、安東氏に豊臣大名としての政治的権威をもたらす一方、領国経済を天下人の巨大な需要に直結させることを意味した。「太閤御用板」の調達と輸送は、秋田の林業、製材業、そして海運業に、前例のない規模の活況(あるいは過酷な負担)をもたらしたであろう。この国家的なプロジェクトを現場で取り仕切ったであろう御用商人たちにとっては、それは莫大な富を築くまたとない機会となったに違いない。この出来事は、戦国時代の末期において、地方の経済がいかに中央政権の政策によって大きく左右されるようになったかを示す、象徴的な事例と言える。
支配者である安東氏の動向と湊の歴史的役割を理解した上で、次に我々の探求の核心である、商人たちの具体的な経済活動に焦点を当てる。彼らは何を売り、何を買うことで、富を築いていたのであろうか。
戦国期の秋田湊における交易は、地域の特産品を移出し、他地域で生産された生活必需品を移入するという、典型的な交易構造を持っていた。この需給の格差こそが、商人たちの利益の源泉であった。
主要な輸出品は、何よりもまず秋田杉であった。安東氏の時代から、その良質な材木は船材として高く評価され、日本海交易の中心である北陸の廻船業者も、わざわざ野代(能代)まで船を建造しに来たという記録がある 13 。前述の「太閤御用板」は、その価値を全国に示す最大の出来事であった 3 。もう一つの重要な輸出品は、秋田平野で生産される米である。これらは、上方や北陸地方へ向けて船積みされ、秋田にもたらされる様々な商品との交換財となった。
一方、輸入品は多岐にわたった。最も重要な輸入品の一つは、木綿や古着といった衣料品であった 14 。寒冷な東北地方では綿花の栽培が困難であり、衣料品の多くを西国からの移入に頼っていた。また、塩、砂糖、茶、そして身欠きニシンなどの加工魚といった食料品も、人々の生活に欠かせない重要な輸入品であった 14 。さらに、紙や蝋燭、畳表といった日用品も、上方や北陸から大量に持ち込まれていた 14 。これらの商品は、秋田では生産が困難か、あるいは生産量が少ないものであり、商人たちが介在することで初めて、地域の人々の手に渡ったのである。
戦国時代の史料には、商人一人ひとりの具体的な名前が記されることは稀である。しかし、断片的な情報から、当時の秋田湊で活動していた商人たちをいくつかの類型に分けて推測することは可能である。
第一に、「在地商人」である。彼らは土崎の湊町に居を構え、代々交易に従事してきた人々であった。安東氏の家臣(被官)として、その保護と統制を受けながら活動する者もいれば、より独立した立場で商いを行う者もいたであろう。彼らは地域の事情に精通し、地元の生産者と来航する商人との間を仲介する役割を担っていたと考えられる。
第二に、「来訪商人」である。若狭(福井県)や越前、近江(滋賀県)といった、当時、商業活動が活発であった地域から、自らの船で来航する商人たちである 16 。彼らは、全国的な交易ネットワークを体現する存在であり、最新の商品や中央の情報を秋田にもたらした。彼らとの競争と協調の中で、在地商人たちもまた、その商才を磨いていったに違いない。
第三に、「御用商人」である。これは、支配者である安東氏と特別な結びつきを持ち、その特権的な庇護のもとで活動した商人たちである。彼らは、安東氏が必要とする武具や物資の調達、年貢として徴収された米の換金(販売)、そして「太閤御用板」のような大規模な領国事業の執行を請け負った。こうした活動を通じて、彼らは他の商人とは比較にならないほどの富と影響力を手にする機会があった。ご依頼の「本間作右衛門」のような豪商のイメージが形成されるとすれば、その原型は、この御用商人たちの姿にあった可能性が高い。
ここで、序章で提示した「本間」姓を巡る歴史的混同の問題に立ち返り、その謎を解き明かしたい。後世に絶大な名声を誇った酒田の本間家と、本報告書で再構築してきた戦国期秋田の商人像とを比較対照することで、両者の違いと、なぜ混同が生じたのかが明らかになる。
酒田本間家の名は、特に江戸時代中期以降、庄内藩の財政を支え、米の売買や金融業(大名貸)で巨万の富を築き、農地解放前には日本最大の地主と称されるほどの栄華を誇ったことで知られる 1 。この圧倒的な存在感が、時代や場所を超えて人々の記憶に刻まれた。
この酒田本間家の実像と、戦国期秋田の商人の活動実態との間には、明確な相違点が存在する。以下の表は、その比較をまとめたものである。
項目 |
酒田本間家 |
戦国期秋田の商人 |
本拠地 |
出羽国庄内地方・酒田湊 |
出羽国秋田郡・土崎湊 |
主な活躍時代 |
江戸時代中期~明治時代 |
戦国時代 |
事業の中核 |
米の売買、金融業(大名貸)、土地経営 1 |
秋田杉・米の移出、生活必需品の移入、港湾交易 3 |
権力との関係 |
庄内藩の財政を支えるパートナーとしての豪商 17 |
領主・安東氏の交易政策に依存し、時には対立する関係 9 |
史料上の根拠 |
豊富な古文書、家伝が現存 |
個別の商人名は乏しく、安東氏の記録や交易状況から活動を推測 |
この比較から明らかなように、両者は活躍した時代、本拠地、事業内容、そして権力との関係性において、大きく異なっている。では、なぜ混同が生じたのか。その要因として、①同じ出羽国の日本海沿岸に位置する港町であるという地理的な近接性、②共に「北前船交易で栄えた豪商」という共通の(ただし時代はずれる)イメージ、そして何よりも③江戸時代を通じて形成された酒田本間家の圧倒的な知名度が、時代や場所の具体的な差異を曖昧にし、一つの漠然とした「東北の豪商」の物語へと収斂させてしまった可能性が考えられる。
戦国時代の終わりは、秋田の地にも大きな変化をもたらした。支配者の交代は、湊町の経済構造、そして商人たちの運命を根底から揺るがす出来事であった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦は、日本の政治情勢を一変させた。この合戦後、徳川家康による全国的な領地再編(論功行賞)が行われ、秋田を支配していた安東(秋田)実季は、常陸国宍戸(現在の茨城県笠間市)へ5万石で転封(領地替え)を命じられた 8 。数百年もの間、この地を治めてきた安東氏が、秋田を去ることになったのである。
この支配者の退去は、湊の商人たちにとって、計り知れない衝撃であった。彼らがこれまで築き上げてきた安東氏との庇護関係や、様々な利権構造が、一夜にして白紙に戻ることを意味したからである。
そして、安東氏に代わって秋田の新たな支配者として入部してきたのが、常陸国水戸から移されてきた佐竹義宣であった。彼は20万石余という、安東氏をはるかに上回る石高で秋田に入り、新たな藩体制の構築に着手する 18 。この支配者の交代は、単に領主の顔ぶれが変わっただけでなく、領国経営の理念そのものが大きく転換する契機となった。
佐竹義宣は、秋田に入部した当初、安東氏の居城であった土崎の湊城に入った 18 。しかし、彼はすぐさま、より内陸の神明の地に新たな城(久保田城)と城下町の建設を開始する 18 。この政治の中心地の移動は、極めて象徴的な意味を持っていた。
それは、安東氏が拠り所としてきた「港湾交易立国」ともいうべき海洋的な国家経営から、佐竹氏が目指す「米を中心とした内陸農本主義」への、領国経営理念の根本的なパラダイムシフトであった。安東氏にとって、湊は政治・経済・軍事の中心であり、権力そのものであった。一方、佐竹氏にとって、土崎湊はあくまで領国の産物(主に米)を運び出すための物流拠点、すなわち「藩の玄関口」という機能的な位置づけへと変化した 8 。政治と経済の中心地が分離したことで、商人たちのあり方もまた、大きく変わらざるを得なかったのである。彼らはもはや、領主と日々顔を合わせる湊町の住人ではなく、内陸の城下に置かれた藩庁と交渉し、藩の厳格な経済政策に組み込まれていく存在へと変質していった。
この新たな佐竹藩政下では、新しいタイプの商人たちが台頭してくる。藩が積極的に開発を進めた院内銀山などでは、伊勢商人をはじめとする畿内や西国出身の商人や技術者が活躍した 19 。特に、鉱山開発で名をなした伊多波武助や 20 、土崎港の改修や大坂への米輸送で巨万の富を築いたとされる伊勢国出身の西村三郎右衛門といった人物の活動が記録されている 19 。彼らは、戦国時代の動乱を生き抜いてきた在地商人とは異なり、より広域な商業ネットワークと土木などの専門技術を武器に、藩の政策と深く結びつきながら活動する、近世的な「政商」の先駆けであった。戦国時代の終わりと共に、秋田の商人の世界もまた、新たな時代へと移行していったのである。
本報告書は、戦国時代の秋田の商人「本間作右衛門」という人物の探求から始まった。徹底的な史料調査の結果、その名を直接的に記した記録は見出すことができず、その人物像は後世の酒田本間家のイメージなどが混同されて形成された、歴史的伝承である可能性が高いという結論に至った。
しかし、この探求の過程で我々は、一個人の物語を超えた、より大きく、よりダイナミックな歴史像に到達した。それは、戦国期における秋田湊の重要性、すなわち、日本海交易の要衝「三津七湊」の一角として栄え、北方のアイヌ文化圏との交流の窓口でもあったという二重の役割である。そして、その湊を支配し、交易の利権を巡って在地勢力と激しく争いながら戦国大名へと成長していった海洋豪族・安東氏の興亡。さらには、天下統一という中央の巨大な政治・経済の波が、秋田杉の大量上納という形で地方経済を揺るがした実態。最後に、支配者が安東氏から佐竹氏へと交代し、政治の中心が港から内陸の城下へと移る中で、商人のあり方そのものが変質していった激動の時代の転換期。これら全ての歴史的文脈が明らかになった。
これらの事実を踏まえるとき、我々が追い求めた「本間作右衛門」の実像は、新たな形で再構築することができる。史料にその名はなくとも、ご依頼者がその名に託して追い求めた人物像は、決して空虚なものではない。それは、以下の要素を兼ね備えた、**「戦国時代という激動の時代を生きた、秋田湊の野心的な商人たちの集合的肖像」**そのものである。
一個人の物語の探求は、結果として、その人物が生きた時代と社会の構造そのものを解明する旅となった。幻の商人「本間作右衛門」の背後には、名もなき幾多の商人たちの野心と知恵、そして苦闘の歴史が横たわっている。本報告書が、そのダイナミックな歴史像への理解の一助となれば幸いである。