本間高統は佐渡の独立を守ろうとした最後の領主。上杉景勝の侵攻と島内の内乱により、河原田城で自刃。佐渡本間氏は滅亡したが、一部の血脈は生き延びた。
本報告書は、戦国時代の佐渡国にその名を刻んだ武将、本間高統(ほんま たかつな)の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。高統は、一般に「1589年に上杉景勝の佐渡侵攻によって滅ぼされた地方豪族」として知られるが、その実像はより複雑で多岐にわたる。本報告書では、単に一個人の伝記に留まらず、彼が生きた時代の佐渡本間氏一族の内部力学、対岸の越後上杉氏との緊張と交渉、そして豊臣秀吉による天下統一事業という、より広範な歴史的文脈の中に彼を位置づける。本報告書は、第一部で高統が登場するまでの佐渡本間氏の歴史的背景を、第二部で彼の治世と佐渡統一への苦闘を、そして第三部で滅亡に至る「天正十七年の佐渡征伐」の過程を詳述し、最後に終章として彼の遺産と後世への影響を考察する構成をとる。
本間高統は、歴史の敗者としてその名を残すが、決して無力な存在ではなかった。彼は佐渡国内の大部分を実質的に支配し、巧みな外交手腕と確かな軍事力をもって、隣国の大大名である上杉氏と渡り合った。天正12年(1584年)には、上杉景勝が派遣した軍勢を一度は撃退するほどの力量を示している 1 。彼は、戦国乱世の最終局面において、佐渡という一島国の独立を最後まで守ろうとした、事実上最後の領主であった。彼の栄光と悲劇に満ちた生涯は、中央の巨大な権力が地方の独立勢力を飲み込んでいく時代の大きなうねりを象徴しており、戦国乱世の終焉期における地方の「独立」がいかに価値あるものであり、また同時にもろいものであったかを我々に物語っている。
佐渡本間氏の起源は、遠く相模国に遡る。彼らは武蔵七党の一つ、横山党に連なる武士団であり、その姓は相模国愛甲郡依知郷本間(現在の神奈川県厚木市周辺)という地名に由来する 4 。本間氏が佐渡と直接的な関わりを持つに至った契機は、承久3年(1221年)の「承久の乱」であった。この乱で幕府方が勝利を収めると、佐渡国は北条氏一門である大仏(おさらぎ)氏が守護として支配することとなった。本間氏は大仏氏の被官(家臣)であり、その守護代として本間能久が佐渡へ赴任したのが、佐渡本間氏の歴史の始まりとされる 4 。こうして本間氏は、佐渡における支配の確固たる足がかりを築いたのである。
佐渡に入った本間氏は、国府が置かれた国仲平野の中心地、雑太(さわた)に雑太城(壇風城)を構え、ここを本拠とする一族が惣領家となった 4 。その後、一族は島内各地に地頭代として配置され、それぞれの土地に根付いていく過程で、多数の分家が形成された。その中でも特に有力化したのが、佐渡北部の国府川流域を拠点とした河原田(かわはらだ)本間氏と、南部の豊かな羽茂(はもち)の地を支配した羽茂本間氏であった 4 。これら分家は、時代が下るにつれて惣領家を凌ぐ力を蓄え、佐渡の歴史を動かす主要な担い手となっていく。
戦国時代に入ると、日本各地で見られた「下剋上」の風潮は、佐渡とて例外ではなかった。鎌倉時代以来の名目的な権威を保持していた惣領家の雑太本間氏は次第にその力を失い、実力を持つ河原田本間氏と羽茂本間氏が島の覇権をめぐって激しく争うようになる 4 。この両家の対立は、戦国期の佐渡における最も重要な政治的対立軸となり、島は事実上、両勢力によって二分される状態となった。
本間一族の勢力争いをさらに熾烈にしたのが、佐渡の経済的価値であった。天文11年(1542年)に発見されたとされる鶴子銀山をはじめとする鉱物資源は、一族にとって重要な財源であり、その利権を巡る争いは絶えなかった 11 。特に、沢根城を拠点とする沢根本間氏のような新興勢力は、この鶴子銀山の支配を通じて力をつけ、既存の勢力構造に変化をもたらした 6 。また、日本海の交易拠点となる沢根、羽茂、小木といった港湾の支配も、各分家が経済力を維持し、軍事力を養う上で不可欠な要素であった 13 。
佐渡本間氏は、対岸の越後国の情勢とも密接に結びついていた。永正6年(1509年)、越後守護代であった長尾為景(後の上杉謙信の父)が内乱に敗れて佐渡へ逃れてきた際、羽茂本間氏と雑太本間氏は彼を庇護し、兵を与えて越後への反攻を助けた 4 。この功績により、本間氏は為景から越後国内に所領を与えられるなど、上杉氏との間には当初、協力的な関係が築かれた。為景の子・上杉謙信の時代になると、彼の権威のもとで河原田・羽茂両家の争いは一時的に沈静化し、佐渡は比較的安定した時期を迎えた 4 。しかし、この均衡は謙信の死と共に崩れ去ることになる。
本間高統が歴史の表舞台に登場する以前の佐渡の状況を俯瞰すると、この島がまさしく「戦国時代の日本の縮図」であったことが理解できる。中央の室町幕府の権威が失墜し、守護代であった本間氏が事実上の国主として振る舞うようになる過程は、守護が守護代に、そして守護代がその家臣に実権を奪われていく全国的な流れと軌を一にする。惣領家である雑太本間家の権威が形骸化し、経済的・軍事的に実力を持つ分家の河原田氏と羽茂氏が台頭して覇を競う様は、まさしく「下剋上」の典型例である。さらに、鶴子銀山などの鉱山利権や、交易の拠点となる港湾支配が勢力争いの重要な要因となっていた点も、戦国大名の経済政策と領土拡大の動機を考える上で普遍的なテーマと言える。このように、佐渡は日本本土から海を隔てた独立した小世界でありながら、戦国時代の政治的、社会的、経済的な動乱の主要な要素が凝縮された舞台であった。本間高統の物語は、この凝縮された動乱の最終局面において、佐渡の独立を一身に背負った人物の闘争の記録なのである。
本間高統は、天文20年(1551年)、佐渡北方を支配する河原田本間氏の当主・本間貞兼の子として生を受けた 1 。通称として佐渡守や山城守を名乗り、史料によっては高綱、高続といった名で記されることもある 1 。彼はやがて家督を継承し、宿敵・羽茂本間氏と並ぶ佐渡最大級の勢力を率いる当主となった。
高統の拠点であった河原田城は、別名を「獅子ヶ城(ししがじょう)」とも呼ばれた 4 。この勇壮な別名は、本間氏の家紋である「十六目結(じゅうろくめゆい)」の「十六」を「四×四(しし)」と解釈したことに由来するという説が有力である 20 。城は東に石田川、西に蓮池などの沼沢地を天然の要害とし、複数の郭で構成された佐渡最大級の規模を誇る平山城であった 18 。高統はこの堅城を拠点として城下町を整備し、北佐渡における支配体制を盤石なものとしていた 19 。
高統の治世は、常に対岸の越後の大勢力、上杉氏との緊張関係の中にあった。彼は上杉氏に対して時に従順な姿勢を見せ、時に反発するという硬軟織り交ぜた外交を展開し、巧みに佐渡の独立を維持しようと試みた 1 。これは、強大な中央勢力と国境を接する地方領主が、自らの存続をかけて繰り広げた典型的な生存戦略であった。しかし、上杉謙信の死後、家督を継いだ上杉景勝が越後国内の統一を進めるにつれて、その圧力は次第に増していくことになる。
高統の武将としての力量が示されたのが、天正12年(1584年)の戦いであった。佐渡への影響力強化を狙う上杉景勝は、家臣の藤田信吉を大将とする軍勢を佐渡に派遣した。高統はこれを居城・河原田城に迎え撃ち、見事に撃退するという大きな武功を挙げたのである 1 。この勝利は、高統の軍事指揮能力の高さと、河原田本間氏の兵力が決して侮れないものであることを内外に証明する出来事となった。
しかし、外部の敵を退けた高統であったが、内部の敵との争いはますます泥沼化していった。同年、長年にわたる宿敵であった佐渡南部の羽茂本間氏との対立が再燃・激化する 1 。この時、上杉景勝は家臣の後藤勝元を仲介役として派遣し、両者は一度和睦する。だが、この和睦は長続きせず、間もなく決裂。佐渡は再び、島を二分する大規模な内乱状態へと突入した 1 。この終わりの見えない内乱こそが、虎視眈々と機会を窺う上杉景勝に、佐渡介入の絶好の口実を与えてしまう最大の失策となった。
上杉氏との関係が決定的に悪化する中で、高統は新たな活路を求めて外交戦略を転換する。彼は、景勝と敵対関係にあった会津の蘆名氏や出羽の最上義光といった反上杉勢力との連携を模索し始めた 4 。これは、日に日に強まる景勝の脅威に対抗するための、独立領主としては当然の外交的選択であった。しかし、この動きは景勝の猜疑心を煽り、高統を「討伐すべき敵」と見なすことを決定づける結果を招いた。
本間高統の生涯を貫くのは、悲劇的なジレンマであった。彼の行動は、二つの大きな目標に基づいていたと考えられる。一つは、上杉氏という外部の強大な圧力から佐渡の独立を維持すること。もう一つは、羽茂本間氏という内部のライバルを打倒し、自らの手で佐渡を統一することである。しかし、この二つの目標は、皮肉にも互いに矛盾し、彼を破滅へと導く悪循環を生み出した。
まず、天正12年に上杉軍を撃退した成功体験は 1 、高統に自信を与え、上杉氏からの完全な独立志向を一層強めさせたであろう。その力を背景に、彼は長年の悲願である佐渡統一、すなわち羽茂氏の打倒へと乗り出す。だが、その結果として生じたのは、島全体を巻き込む激しい内乱であった 1 。この混乱は、上杉景勝にとって「佐渡の静謐を回復する」という、介入のためのこの上ない「大義名分」となった 1 。景勝の介入を現実の脅威として感じた高統は、対抗策として反上杉勢力である蘆名氏や最上氏との連携を深める 4 。しかし、この行動こそが、景勝にとって高統を単なる不従順な国人から、豊臣政権の秩序に刃向かう「討伐すべき敵」へと位置づける決定的な理由を与えてしまった。
このように、高統が独立を維持しようとすればするほど、また佐渡を統一しようとすればするほど、結果的に上杉氏の介入を招き、自らを滅亡へと追い込んでいく。彼の行動の一つ一つは、その時点においては合理的であったかもしれないが、全体として見れば、自らの首を絞める悲劇的な連鎖を形成していたのである。
天正15年(1587年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、関東・奥羽地方の大名に対し、大名間の私的な戦闘を禁じる「惣無事令」を発令した 24 。本間高統と羽茂本間氏による佐渡島内での終わりのない内乱は、この豊臣政権が構築しようとしていた新秩序への明確な違反行為と見なされた。天正16年(1588年)、最後まで抵抗していた新発田重家を滅ぼし、越後を完全に掌握した上杉景勝は、この「惣無事令」を大義名分として、秀吉から佐渡侵攻の正式な許可を得ることに成功する 4 。これにより、景勝の佐渡征伐は、単なる領土的野心による侵略ではなく、「天下の秩序を回復するための正義の戦い」という体裁を整えることになった。
上杉軍の軍奉行を務めた直江兼続は、武力侵攻に先立ち、周到な調略を進めていた。彼は佐渡島内の本間一族に使者を送り、降伏を勧告した 28 。長年にわたり、河原田・羽茂という二大勢力の狭間で苦しんできた沢根城主の本間左馬助(高秀、永州とも呼ばれる)や、早くから上杉氏と誼を通じていた潟上城主の本間秀高(帰本斎)らが、この勧告に応じた 2 。彼らが上杉方への内通を約束したことは、来るべき戦いの帰趨を事実上、決定づける極めて重要な要素となった。
天正17年(1589年)5月28日、直江兼続が率いる300艘以上の船団からなる先発隊が、越後の出雲崎港を出帆した 28 。そして同年6月12日、上杉景勝自らが1000艘を超える大船団を率いて佐渡へと向かい、内通者である沢根本間氏の手引きによって、佐渡西部の沢根湊に抵抗を受けることなく上陸を果たした 23 。
沢根に上陸した上杉軍は、ただちに目と鼻の先にある本間高統の居城・河原田城へと殺到した 28 。高統は、圧倒的な兵力差にも臆することなく城に籠もり、配下の将兵と共に徹底抗戦の構えを見せた 1 。激しい戦闘が繰り広げられたが、大軍の前に衆寡敵せず、城の防備は次々と破られていった。もはやこれまでと覚悟を決めた高統は、同日(6月12日)、自ら城に火を放つと、嫡男である統之(むねゆき)と共に燃え盛る炎の中で自刃して果てた 1 。享年39。佐渡の独立を守ろうとした武将の、あまりにも短い生涯であった。
表1:天正十七年 佐渡征伐の時系列
この表は、上杉景勝による佐渡侵攻が、周到な事前準備のもと、わずか数日のうちに主要な敵対勢力を排除した、極めて計画的かつ迅速な電撃作戦であったことを示している。これは、本間高統の抵抗がいかに絶望的な状況下で行われたかを物語るものである。
日付 (天正17年) |
出来事 |
関係者 |
出典 |
5月28日 |
上杉軍先発隊(300艘以上)、越後出雲崎を出港。 |
上杉景勝、直江兼続 |
28 |
6月12日 |
上杉軍本隊(1000艘以上)、沢根に上陸。 |
上杉景勝、本間左馬助 |
23 |
6月12日 |
河原田城の戦い。城は落城。 |
本間高統、本間統之、上杉景勝 |
1 |
6月12日 |
本間高統、嫡男・統之と共に自刃。 |
本間高統、本間統之 |
1 |
6月16日 |
羽茂城の戦い。城は落城。 |
本間高茂、上杉景勝 |
23 |
6月16日以降 |
本間高茂・高頼、逃亡するも越後で捕縛、処刑。 |
本間高茂、本間高頼 |
5 |
高統を討ち取った上杉軍は、その勢いのまま、もう一方の雄である羽茂本間氏の討伐に向かった。6月16日、景勝軍は佐渡南部の羽茂城を攻撃 28 。城主の本間高茂(高貞とも)もまた頑強に抵抗したが、河原田城を失った今、もはや抗する術はなかった。城はわずか一日で攻め落とされた 23 。高茂は弟の赤泊城主・高頼らと共に小舟で海上へ逃亡し、再起を図ろうとしたが、追撃を受けて越後で捕縛される。そして佐渡へと送還された後、国府川の河原で斬首に処された 5 。これにより、佐渡本間氏は完全に滅亡した。
佐渡一国は上杉氏の所領となり、景勝は直ちに支配体制の構築に着手した。直江兼続配下の与板衆などが代官として派遣され、佐渡の統治にあたった 21 。また、文禄元年(1592年)には佐渡全域で検地(太閤検地)を実施し、石高を確定させ、近世的な支配体制を確立した 15 。一方、上杉軍に協力した沢根・潟上らの本間一族の処遇は、彼らの期待とは異なるものであった。彼らは佐渡の故地に所領を安堵されることはなく、上杉家の家臣として越後へ、さらに後の会津、米沢への転封に従うことを余儀なくされた 4 。これは、景勝が佐渡に旧来の勢力を残すことを望まなかったことを示しており、協力者でさえも佐渡から切り離すという、冷徹な戦後処理であった。
本間高統の滅亡は、単なる一地方領主の軍事的敗北として片付けることはできない。それは、内部要因と外部要因が最悪の形で結びついた、いわば歴史の必然であった。
内部要因としては、何よりもまず一族の分裂と内訌が挙げられる。高統と羽茂氏との長年にわたる抗争は 1 、他の分家、特に沢根氏などを疲弊させ、不満を募らせる結果となった。この内部の亀裂が、上杉氏の調略を容易にし、内通者を生み出す土壌を形成した 17 。自らの力で島を統一し、一枚岩の体制を築けなかったことこそが、外部勢力の介入を招く最大の弱点となったのである。
一方の外部要因は、もはや一個人の力では抗うことのできない時代の大きな潮流であった。豊臣秀吉による「惣無事令」は 24 、上杉景勝に「天下の秩序」という、逆らうことのできない「正義の旗」を与えた。この文脈において、高統の抵抗は、もはや「地域の独立を守る戦い」ではなく、「天下人への反逆」と見なされる状況にあった。
天正17年、この二つの要因は完全に合致した。沢根本間氏の手引きによる上杉軍の無血上陸は 20 、内部の崩壊が外部からの侵攻をいかに容易にしたかを象徴する出来事であった。本間高統がたとえいかに優れた武将であったとしても、この内と外からの二重の圧力の前には、なすすべもなかったのである。彼の悲劇は、戦国乱世の終焉期において、地方の論理が中央の論理に飲み込まれていく過程を冷徹に示している。
河原田城が炎に包まれる中、本間高統の血脈は奇跡的に生き延びていた。忠臣であった磯田徳兵衛という武士の働きにより、高統の次男・高応(たかまさ)は城から脱出することに成功する 1 。徳兵衛に守られた高応は、父が誼を通じていた会津の蘆名氏のもとへ落ち延びた 1 。この高応の子孫は、後に上野国(現在の群馬県)赤堀に移り住み、江戸時代には関東有数の富豪として、また馬庭念流の剣術で名を馳せる家系(赤堀本間氏)になったという伝承が残っている 29 。主家の血を絶やすまいとする家臣の忠義と、武士の身分を捨ててでも家名を後世に繋いだその後の流転は、戦国の世の厳しさと多様な生き方を象徴する逸話である。
一方、高統に敵対し、上杉方に味方した沢根・潟上といった本間一族は、佐渡の地を追われる形で上杉家の家臣団に組み込まれた 4 。彼らは故郷を失った代わりに、武士としての家名を保ち、主君・上杉景勝の会津120万石への加増転封、そして関ヶ原の戦いを経ての米沢30万石への減封という激動の運命を共にした 17 。米沢藩の分限帳(家臣の名簿)や関連文書には、彼ら佐渡出身の本間氏の名が散見され、新たな土地で上杉家臣として存続していったことが確認できる 17 。
佐渡市佐和田地区に佇む曹洞宗の古刹・本田寺は、河原田本間氏代々の菩提寺である 29 。その境内には、今も本間高統と、彼と共に散った一族の墓所が静かに眠っている 1 。現在の寺の山門は、天正17年の兵火で焼け落ちた河原田城の裏門を移築したものと伝えられており、高統が生きた時代の息吹を今に伝える貴重な遺構となっている 29 。
高統が拠点とした河原田城(獅子ヶ城)は、その跡地に新潟県立佐渡高等学校が建設されたため、往時の城郭遺構の多くは失われてしまった 18 。しかし、校内には「獅子ヶ城跡」と刻まれた石碑が建てられ、城の南側にあった外堀の一部は中原蓮池公園として整備されるなど、わずかながらその面影を留めている 18 。かつて佐渡一の勢力を誇った武将の居城は、今では生徒たちの声が響く学び舎へと姿を変え、歴史の移ろいを物語っている。
本間高統は、天下統一の大きな流れの中で滅び去った一地方領主として、長く歴史の片隅に追いやられてきた。しかし、彼の生涯を詳細に追うとき、その評価は単なる「悲劇の敗者」に留まらない。彼は、中央から押し寄せる巨大な権力の波に抗い、一島国の独立と地域の秩序を最後まで守ろうとした抵抗者であった。彼の敗北は、多様な価値観が並立した戦国乱世が終わりを告げ、均質的な近世封建体制へと日本社会が移行していく、時代の大きな転換点を象徴する出来事として再評価されるべきであろう。
本間氏の滅亡は、一族の完全な終わりを意味したわけではなかった。その後の彼らの運命は、対照的な「二つの道」に分かれた。高統の直系の子孫は、武士の身分を捨ててでも血脈を繋ぐ「帰農・再興」の道を歩んだ。一方で、高統に敵対し上杉に味方した一族は、故郷を失う代償として、新たな支配体制の中で武士として生き残る「主家への随従」の道を選んだ。一つの歴史的事件が、関わった人々にいかに多様な運命をもたらしたか。本間高統の物語は、戦国乱世の終焉が持つ、複雑で人間的な側面を我々に深く示唆している。