本願寺准如は、激動の時代に本願寺の法主となり、兄・教如との対立と豊臣・徳川の介入で本願寺が東西に分裂する中で、西本願寺を再興。壮麗な伽藍を整備し、近世教団の礎を築いた。
本願寺准如(1577-1630)は、日本の歴史が中世から近世へと大きく舵を切る、激動の時代に生きた宗教指導者である。彼の生涯は、天正5年(1577年)の誕生から寛永7年(1630年)の示寂に至るまで、織田信長による天下布武の最終局面、豊臣政権の確立と崩壊、そして徳川幕藩体制の成立期という、権力構造の劇的な変動と完全に重なっている。この時代の荒波の中で、かつては戦国大名に匹敵する勢力を誇った巨大宗教勢力・本願寺の舵取りを担ったのが、第12世宗主たる准如であった。
准如の生涯を理解する上で、二つの相反するキーワードが浮かび上がる。一つは、実兄・教如との法主継承をめぐる骨肉の争いに端を発し、本願寺を二つに引き裂いた「東西分裂」という悲劇である。もう一つは、分裂後の本願寺(後の西本願寺)を率い、壮麗な伽藍を整え、近世教団としての盤石な礎を築き上げた「再興」という偉業である。この「分裂」と「再興」という、いわば光と影の双方を一身に体現した存在、それが本願寺准如という人物の複雑さであり、歴史的魅力の源泉でもある。
本報告書は、准如が兄との争いを経て権力の座に就いた単なる受動的な人物であったのか、あるいは時代の激流を巧みに乗りこなし、教団の未来を能動的に切り拓いた卓越した指導者であったのか、という問いに迫るものである。彼の誕生から法主継承の劇的な経緯、本願寺の分裂、そして西本願寺の創建と教団統治に至るまでを多角的に検証し、近世巨大教団の礎を築いた指導者としての歴史的意義を解き明かすことを目的とする。
准如、諱を光昭は、天正5年(1577年)7月9日、本願寺第11世宗主・顕如の三男として誕生した 1 。彼の生を受けた場所は、織田信長との10年にも及ぶ「石山合戦」の渦中にあった大坂石山本願寺であった。この戦いは、本願寺が信長の天下統一事業における最大の障壁の一つとして、その宗教的・軍事的影響力のすべてを懸けて戦った一大攻防戦である 3 。しかし、准如が3歳となった天正8年(1580年)、顕如は朝廷の仲介を受け入れて信長と和睦し、本願寺は本拠地であった大坂石山からの退去を余儀なくされる 4 。准如の幼少期は、本願寺がかつての独立した勢力としての地位を失い、世俗の権力に従属せざるを得なくなった、まさに教団史上最大の転換期と重なっていた。
この信長との和睦をめぐる判断が、本願寺内部に深刻な亀裂を生じさせた。父・顕如が朝廷の勅命を重んじ、教団の存続を第一に考えて和睦を受け入れたのに対し、長男であり後継者であった教如は、徹底抗戦を主張して父と激しく対立した 5 。顕如が紀州鷺森御坊へと退去した後も、教如は一部の強硬派門徒と共に石山本願寺に籠城を続けたのである。この行動は父・顕如の逆鱗に触れ、教如は義絶(勘当)という最も重い処分を受けることとなった 5 。この父子の対立は、単なる戦術上の意見の相違に留まらず、本願寺の将来の路線を決定づけるものであり、後の法主継承問題、ひいては東西分裂の直接的な根源となった。
このような激動の時代にありながら、准如の幼少期から青年期にかけての記録は極めて乏しい。天正19年(1591年)に父・顕如のもとで得度するまでの動向は、ほとんど歴史の表舞台に現れない 1 。これは、本願寺の家督が長子相続を原則としていた当時、すべての期待と注目が長兄・教如に注がれており、三男である准如は法主後継者として全く意識されていなかったことを如実に物語っている。彼の人生の歯車が大きく動き出すのは、彼自身の意志や資質によるものではなく、本願寺内部に生じた深刻な亀裂と、それを好機と捉えた外部の政治権力の介入という、いわば「偶然の産物」であった。教如の義絶という異常事態がなければ、准如が歴史の表舞台に登場することはなかったであろう。彼の運命は、誕生の瞬間から、自らがコントロールできない大きな時代の力学によって規定されていたのである。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉が天下を統一すると、本願寺を取り巻く環境も大きく変化した。顕如は秀吉に従い、天正19年(1591年)には京都七条堀川に寺地の寄進を受け、本願寺を移転させた 5 。そして天正20年(文禄元年、1592年)11月24日、顕如は波乱の生涯を閉じる。父の死に際し、かつて義絶されていた教如は赦免されており、長男として本願寺の法主の座を継承した 5 。この継承は、天下人である秀吉からも朱印状によって正式に承認され、この時点では教如の地位は安泰であるかのように見えた 1 。
しかし、事態は教如の継職からわずか11ヶ月後に急転する。文禄2年(1593年)閏9月、教如の母であり顕如の正室であった如春尼が、有馬温泉で療養中の秀吉のもとを自ら訪れ、驚くべきものを提示した。それは、顕如が天正15年(1587年)に記したとされる「譲状」であった 5 。その譲状には、法主の後継者として長男・教如ではなく、三男である准如を指名するという衝撃的な内容が記されていたのである 7 。如春尼がこのタイミングで譲状を持ち出した背景には、法主となった教如が石山合戦以来の強硬派を重用し、父・顕如と共に和睦路線を歩んだ穏健派を遠ざけたことへの反発があったとされる。教団内の穏健派が、如春尼を頼った結果の行動であった 7 。
この訴えを受けた秀吉の対応は迅速かつ断固たるものであった。彼は如春尼の提出した譲状を正当なものとして受理し、教如を大坂城に呼び出して隠居を厳命。そして、弱冠17歳の准如を本願寺第12世宗主の座に据えたのである 2 。この法主交代は、教如派の門徒代表二名が前田利長によって処刑されるなど、極めて強権的に断行された 5 。
この一連の出来事は、単なる本願寺内部の相続争いとして片付けることはできない。むしろ、天下人・豊臣秀吉が、かつて信長すら手こずらせた巨大宗教勢力を完全に自らの支配下に置くための、周到に計算された政治的介入であったと見るべきである。本願寺の内紛が、石田三成ら豊臣政権中枢の画策と連動していたとの説も存在する 5 。自身の裁定一つで本願寺のトップを交代させることは、秀吉の絶対的な権威を天下に示す絶好の機会であった 8 。また、千利休の茶会などを通じて独自の政治ネットワークを築きつつあった教如よりも 7 、若年で恩を着せられる准如の方が、秀吉にとって統治しやすい駒であったことは想像に難くない。この法主交代劇は、戦国時代まで大名に比肩する独立勢力であった本願寺が、近世的な幕藩体制のもとで「統制されるべき宗教団体」へと変質していく、画期的な出来事であった。准如の法主就任は、その象徴的な瞬間だったのである。
秀吉の裁定によって法主の座を追われた教如であったが、彼は完全に屈服したわけではなかった。本願寺の寺内に「裏方」と呼ばれる一画を構え、そこを拠点として独自の教化活動を活発に継続した 7 。これにより、本願寺教団は准如を法主と仰ぐ一派と、依然として教如を支持する一派とに事実上分裂し、深刻な内部対立は継続された 5 。豊臣政権下で不遇をかこった教如は、秀吉亡き後の次なる天下人として急速に台頭しつつあった徳川家康に接近し、親密な関係を築いていく。関ヶ原の戦い以前から、教如は家康のもとを頻繁に訪れており、両者の間には強固な信頼関係が醸成されていた 7 。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで家康が勝利を収めると、教如と准如の立場は完全に逆転した。教如は家康の勝利をいち早く祝い、その関係をさらに強固なものとした 5 。そして慶長7年(1602年)、ついに歴史が動く。家康は、教如のこれまでの忠誠と協力を賞し、准如が率いる本願寺のすぐ東、京都七条烏丸に四町四方という広大な寺地を寄進したのである 2 。
この寺領寄進により、教如を門主とする新たな本願寺が公式に成立。これが現在の東本願寺(真宗大谷派)の始まりである。その結果、准如が継承した七条堀川の本願寺は、相対的に「西本願寺」(浄土真宗本願寺派)と通称されるようになり、ここに本願寺の東西分立は決定的かつ不可逆的なものとなった 1 。
本願寺の東西分立は、しばしば家康が本願寺の強大な勢力を削ぐために仕掛けた「分断統治」政策の典型例として語られる 8 。これは一面の真実であろう。しかし、より本質的な視点に立てば、この分裂は家康がゼロから作り出したものではなく、石山合戦以来燻り続けてきた本願寺内部の深刻な対立が、天下人の交代という政治的触媒によって不可逆的に制度化された結果であると理解すべきである。
東本願寺側の見解では、教団は家康の介入以前から事実上分裂状態にあり、寺領寄進は単にその現状を追認したに過ぎない、とされている 7 。この見方を統合すると、家康は、既に存在した穏健派(准如方)と強硬派(教如方)の亀裂を巧みに利用し、それを公式な制度として固定化することで、最小限の労力で本願寺の弱体化という政治目的を達成した、と分析できる。准如にとって、この分裂は教団の規模縮小を意味する痛手であったに違いない。しかし同時に、長年の対立要因であった教如派を教団から切り離すことで、ようやく内部の意思統一を図り、西本願寺の教団運営を安定化させる契機ともなったのである。分裂は悲劇であったが、それはまた、新たな時代の始まりでもあった。
兄・教如との分裂が確定的となった後、准如は西本願寺の教団基盤を固めることに全力を注いだ。その第一歩は、秀吉から寄進された京都七条堀川の地に、新時代の本山たるにふさわしい拠点を確立することであった 5 。この地が、今日に至る西本願寺の始まりである。
さらに准如は、その視野を京都だけに留めなかった。全国の門徒を統括し、教線を拡大していくために、戦略的に重要な拠点を選んで別院を創建していく。特に重要なのが、商業の中心地である大坂に津村御坊(現在の浄土真宗本願寺派本願寺津村別院、通称「北御堂」)を、そして徳川幕府が置かれた新たな政治の中心地・江戸に浜町御坊(後の築地本願寺)を建立したことである 2 。これは、分裂後の教団の求心力を高めるとともに、近世社会の二大都市である大坂と江戸に確固たる足場を築く、極めて戦略的な布石であった。
石山合戦のような武装蜂起の時代は完全に終わりを告げ、准如は徳川幕府の厳格な統制下で教団を運営していくことを余儀なくされた。彼は、坊官制度などを整備・活用して中央集権的な教団組織を構築し、寺務や宗務を効率的に管掌する体制を整えていった 12 。また、全国の門徒からの懇志(寄付)を安定的に集める仕組みを確立し、教団の財政基盤を強化した。
分裂後の門徒たちの動揺を鎮め、西本願寺を中心とする新たな信仰共同体を再構築することは、准如の統治における最大の課題であった。彼は、武力や政治闘争ではなく、壮麗な伽藍を造営し、法要を厳修することを通じて、西本願寺の権威と法灯の正統性を視覚的に示そうとした。それは、戦国の世が終わり、宗教が「統治」される時代へと移行したことを象徴する、新たな教団運営の姿であった。
准如が率いた時代の西本願寺は、単なる宗教施設にとどまらず、安土桃山時代の絢爛豪華な文化を今に伝える、まさに文化遺産の宝庫として整備された。特に、豊臣秀吉が築いた伏見城や聚楽第からの移築と伝わる建造物が数多く残されていることは、西本願寺が当時の支配者と密接な関係にあったことを示している 13 。
国宝に指定されている「唐門」は、一日中見ていても飽きないことから「日暮門」とも呼ばれ、その精緻かつ豪華な彫刻は桃山美術の粋を集めた傑作である。また、同じく国宝の「飛雲閣」は、金閣、銀閣と並び「京都三名閣」と称される三層の楼閣建築であり、秀吉の聚楽第の遺構と伝えられている 13 。これらの建造物は、准如が単なる宗教指導者ではなく、当代一流の文化の継承者であり、パトロンとしての役割も果たしていたことを雄弁に物語っている。
本願寺の伽藍の中心をなすのは、宗祖・親鸞聖人の木像を安置する「御影堂」と、本尊である阿弥陀如来像を安置する「阿弥陀堂」の二つの御堂、いわゆる「両堂」である 15 。この両堂が並び立つ形式は、真宗寺院の伽藍配置の大きな特徴となっている。准如が七条堀川に本願寺を移した当初の伽藍配置は、北(向かって右)に御影堂、南(向かって左)に阿弥陀堂が建っていたと記録されている 15 。
しかし、元和3年(1617年)、西本願寺は不運な火災に見舞われ、両堂をはじめとする主要伽藍のほとんどが焼失してしまう 15 。この大規模な再建事業は、准如の晩年から、その跡を継いだ第13世・良如の代にかけて行われた。そしてこの再建に際し、伽藍配置に重大な変更が加えられた。焼失前とは逆に、南(向かって右)に御影堂、北(向かって左)に阿弥陀堂が建てられ、現在の西本願寺に見られる配置が定まったのである 15 。
この火災と再建は、単なる災害からの復旧作業ではなかった。それは、西本願寺の信仰空間そのものを再定義し、その後の真宗寺院における伽藍配置の規範を確立する、画期的な出来事であった。火災による全焼という悲劇は、逆説的に、白紙の状態から理想的な信仰空間を構築するまたとない機会をもたらした。両堂の配置転換の明確な理由は史料に残されていないが、宗祖である親鸞聖人を参拝の中心に据え、より多くの門徒を収容して法話を行うために、より大きく作られた御影堂を、参拝者の正面にあたる南側に配置するという、実践的な意図があったと推測される 18 。准如の時代に決定されたこの伽藍の基本構造が、その後の西本願寺の発展の礎となり、近世真宗寺院の建築様式のモデルとして、後世に大きな影響を与えていくことになる 21 。
以下の表は、准如とその子・良如の時代における西本願寺主要伽藍の変遷をまとめたものである。
建造物名 |
建立/移築年 |
関連出来事(焼失・再建など) |
備考(由来、文化財指定など) |
御影堂 |
寛永13年 (1636) 再建 |
元和3年 (1617) の火災で焼失。准如の没後、子・良如の代に完成 13 。 |
国宝。現在の建物。焼失前の伽藍とは南北の位置が逆転している 15 。 |
阿弥陀堂 |
宝暦10年 (1760) 再建 |
元和3年 (1617) の火災で焼失後、仮堂が再建されたが、現在の建物は江戸中期の再建 14 。 |
国宝。本堂にあたる。准如の時代に再建の基礎が築かれた。 |
唐門 |
慶長年間 (1596-1615) 頃に移築か |
元和3年の火災を免れたとされる。 |
国宝。伏見城の遺構と伝わる。豪華な彫刻で知られる 13 。 |
飛雲閣 |
慶長年間 (1596-1615) 頃に移築か |
元和3年の火災を免れたとされる。 |
国宝。豊臣秀吉の聚楽第の遺構と伝わる京都三名閣の一つ 13 。 |
書院(対面所) |
寛永年間 (1624-1644) 頃に整備 |
元和3年の火災後、再建・整備された。 |
国宝。伏見城の遺構と伝わる部分を含む。桃山様式の豪華な障壁画で飾られる 13 。 |
准如の生涯は、教団の分裂という未曾有の危機への対応、寺地の移転、そして壮大な伽藍の造営といった、極めて実務的かつ政治的な課題への対処に終始した。彼自身が学問の第一人者として名を残すことはなかったが、彼が築き上げた安定した教団基盤があったからこそ、次代における教学の振興が可能となったのである。
その象徴的な事業が、寛永16年(1639年)、准如の没後9年にして、その子である第13世宗主・良如によって創設された「学寮」である 22 。これは、本願寺派の僧侶を育成するための本格的な教育機関であり、宗学研究の中心地として、その後の教団の知的伝統を支える重要な役割を果たした。そして、この西本願寺の学寮こそが、現在の龍谷大学の直接の淵源なのである 23 。
准如の最大の功績は、自らが学問の頂点に立つことではなく、後世の者たちが安心して学問に専念できる「盤石な組織と環境」を創り上げたことにあった。彼の生涯をかけた教団の再建事業がなければ、学寮の創設という長期的・文化的な事業に着手することは不可能であった。いわば、准如が「守成と再建の法主」として組織の礎を固め、その上で息子の良如が「発展と教学の法主」として文化の花を咲かせたのである。この見事な役割分担によって、西本願寺は近世を通じて繁栄を続けることができた。准如が後世に残した遺産は、壮麗な伽藍という有形の財産だけでなく、学問が花開く豊かな土壌という無形の財産でもあったのだ。
数々の苦難を乗り越え、分裂した教団の再建という大事業に道筋をつけた准如は、寛永7年(1630年)11月30日、54歳でその生涯を閉じた 2 。彼の人生は、自らの意図とは関わりなく、兄との対立と天下人の思惑によって法主の座に就くことから始まった。しかし彼は、その運命を受け入れ、時代の変化を冷静に見極めながら、教団の存続と発展のためにその生涯を捧げたのである。
本願寺准如の生涯を俯瞰するとき、彼は、兄・教如のような徹底抗戦を貫くカリスマ的な指導者像とは対照的な、現実主義的な「統治者」としての姿が浮かび上がってくる。彼は、戦国時代の終焉と近世の到来という時代の大きな転換点を冷静に読み、徳川幕府という新たな巨大権力と巧みに協調しながら、教団の存続と発展を図った。その姿は、まさに中世から近世へと移行する時代の宗教指導者の典型であった。
兄・教如が、不屈の精神で自らの信じる道を貫き、新たな権力者である家康と結びついて東本願寺という新天地を切り拓いた「動」の生涯であったとすれば、准如の生涯は、与えられた枠組みの中で法灯を堅守し、内部固めと組織の再構築に心血を注いだ「静」の生涯であったと対比できよう。しかし、この両者の存在なくして、現在の本願寺の姿はあり得ない。二人は対立しながらも、結果として、それぞれが異なる方法で親鸞聖人の教えを次代へと繋いだのである。
結論として、本願寺准如は、教団の歴史において「東西分裂」という負の側面を背負った人物でありながら、その未曾有の危機を乗り越え、西本願寺を日本有数の巨大教団へと導く盤石な礎を築き上げた「再興の祖」として、極めて重要な歴史的役割を果たしたと評価できる。彼が築いた物理的、そして組織的な基盤の上に、今日の浄土真宗本願寺派の繁栄がある。彼の生涯は、激動の時代にあって、変革の波に抗うのではなく、それを受け入れ、適応し、新たな秩序を構築することの重要性を、我々に静かに語りかけている。