本願寺実如は蓮如の跡を継ぎ、山科本願寺を拠点に教団を統治。細川政元との連携や朝廷への献金で寺格を向上させ、一門一家の制や三法令で教団を制度的に改革。後継者円如の早世後、孫の証如に法主を譲り死去。
戦国乱世の日本において、武家や公家といった既存の権力構造と並び、第三の勢力として異彩を放ったのが、浄土真宗本願寺教団であった。室町時代中期まで一介の寺院に過ぎなかった本願寺を、全国的な巨大教団へと飛躍させたのが、第八世法主・蓮如である。彼は「御文(おふみ)」と呼ばれる平易な言葉で書かれた手紙を用いて、阿弥陀如来の救いを説き、身分を問わず多くの民衆の心を掴んだ 1 。その教えは爆発的に広まり、門徒の数は急増。比叡山延暦寺との対立により京都大谷の本願寺を破却されるも、越前吉崎、そして山城国山科へと拠点を移し、教団の物理的基盤を再興・拡大した 3 。
しかし、この「中興の祖」と称されるカリスマ的指導者が遺したものは、輝かしい光だけではなかった。急激に膨張した組織は未整備なままであり、各地で頻発する門徒による一向一揆は、時に教団の統制を離れて暴走し、守護大名や荘園領主との深刻な対立を引き起こしていた 5 。さらに、蓮如が生涯に儲けた二十七人もの子息たちは、それぞれが各地で独自の勢力を形成し、教団の発展に貢献する一方で、その結束がひとたび揺らげば、教団分裂の火種となりかねない潜在的な危険性を孕んでいた。
この巨大にして未分化な、いわば光と影の双方を内包する遺産を継承したのが、第九世法主・実如(じつにょ)である。彼の生涯は、単に偉大な父の跡を継ぐという「継承」の物語に留まらない。それは、一個人のカリスマに依存した組織を、いかにして個人の資質に左右されない永続的な「制度」へと転換させるかという、あらゆる巨大組織が直面する普遍的な課題への挑戦であった。蓮如の成功が彼の卓越した個人的資質に大きく依拠していたからこそ 3 、実如の歴史的使命は、その宗教的エネルギーを制度の器に収め、次代へと繋がる強固な礎を築くことにあった。
本報告書は、従来「守成の人」として語られがちであった実如を、巨大教団を制度的に再構築した「組織の構築者」として捉え直し、その生涯における苦悩と葛藤、そして卓越した手腕を、同時代の政治的・社会的文脈の中に位置づけ、多角的に解き明かすことを目的とする。
西暦(和暦) |
実如の動向 |
本願寺教団の動向 |
日本国内の主要動向 |
1458年(長禄2年) |
8月10日、蓮如の第五子として誕生 6 。 |
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1478年(文明10年) |
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山科本願寺の造営開始。 |
細川政元、元服 7 。 |
1483年(文明15年) |
長兄・順如の死去により、法嗣に指名される 6 。 |
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1488年(長享2年) |
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加賀一向一揆により、守護・富樫政親が自害。 |
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1489年(延徳元年) |
蓮如の隠居に伴い、第九世法主を継承 6 。 |
蓮如、山科南殿に隠居 3 。 |
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1493年(明応2年) |
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明応の政変。細川政元が将軍・足利義材を追放。 |
1496年(明応5年) |
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蓮如、摂津国大坂に坊舎(後の石山本願寺)を建立 8 。 |
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1499年(明応8年) |
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3月25日、蓮如、山科にて85歳で示寂 1 。 |
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1500年(明応9年) |
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後柏原天皇、践祚 10 。 |
1506年(永正3年) |
細川政元の要請で畠山氏攻撃に出兵。弟・実賢らの反発を招く(河内国錯乱) 11 。 |
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1518年(永正15年) |
門徒に対し「三法令」を発布 13 。 |
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1519年(永正16年) |
「一門一家の制」を定める 12 。 |
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1521年(大永元年) |
後柏原天皇の即位礼に献金。准門跡の格を得る 11 。法嗣・円如が急死 15 。 |
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後柏原天皇、即位の礼を挙行 10 。 |
1525年(大永5年) |
2月2日、山科本願寺にて68歳で示寂 6 。 |
孫の証如(10歳)が第十世法主を継承 16 。 |
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1531年(享禄4年) |
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享禄の錯乱(大小一揆)勃発 13 。 |
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1532年(天文元年) |
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山科本願寺、六角定頼・法華宗徒らにより焼失。拠点を大坂石山へ移す 3 。 |
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実如は、長禄2年(1458年)8月10日、本願寺第八世法主・蓮如の第八子、男子としては第五子として生を受けた 6 。幼名を光養、諱を光兼という 6 。
彼の出自で特筆すべきは、その母方の血筋である。実如の母・蓮祐尼は、蓮如の第二夫人であり、室町幕府の政所執事(財政・訴訟を司る最高責任者)を輩出した名門・伊勢氏の出身、伊勢貞房の娘であった 6 。伊勢氏は幕府の中枢を担う家柄であり、その血を引くことは、当時の社会において極めて大きな意味を持っていた。
戦国時代において、血縁は個人の能力と並ぶ、あるいはそれ以上に重要な政治的資産であった。蓮如自身も、畠山氏から妻を迎えるなど 13 、有力武家との姻戚関係を巧みに利用して教団の安寧を図っていた。そのような中で、実如が幕府の中枢に近い伊勢氏の血を引いていたことは、他の多くの兄弟たちに対して明確な優位性をもたらしたと考えられる。それは単に格式の問題に留まらず、将来、本願寺が幕府や有力守護大名といった世俗権力と交渉を重ねていく上で、計り知れない価値を持つ背景であった。この母方の出自が、後の後継者選定において、単なる長幼の序以上に重視された可能性は十分に考えられる。
本願寺における法主の継承は、必ずしも厳格な長子相続制ではなかった。法主が生前に後継者を指名し、「譲状(ゆずりじょう)」を渡すことによって継承が決定されるのが慣例であった 18 。この制度は、能力や器量に優れた人物を後継者に据えることができるという利点を持つ一方で、法主の指名を巡って一族内に深刻な対立を生む危険性も常に内包していた。
事実、実如の父・蓮如自身が、その苦い経験の当事者であった。蓮如は父・存如の死後、異母弟の応玄を推す勢力との間で激しい後継者争いを繰り広げ、叔父・如乗らの強力な後押しを得て、ようやく法主の座に就いた経緯がある 1 。自らが経験したこの危機は、血族間の争いが教団の存立基盤そのものをいかに揺るがすかを、蓮如に痛感させたに違いない。
当初、蓮如の後継者と目されていたのは、長男の順如であった。しかし、順如は文明15年(1483年)に父より先に世を去ってしまう 6 。この不慮の事態を受け、蓮如は第五子である実如を改めて法嗣(法主後継者)として指名した。このため、実如には二通の譲状が存在するという、本願寺の歴史上でも異例の記録が残ることとなった 6 。この事実は、彼の継承過程が一筋縄ではいかなかったことを雄弁に物語っている。
蓮如が数多いる子息の中から実如を選んだのは、単に長兄の死によって順番が回ってきたという偶然だけではなかったであろう。そこには、自らの苦い経験を踏まえ、教団の将来を託すに足る人物を見極めようとする、蓮如の厳しい選択があった。実如の持つ器量や資質はもとより、その母方が幕府政所執事を輩出した伊勢氏であるという安定した背景もまた、教団の永続性を願う蓮如にとって、魅力的な要素であった可能性が高い。この複雑な継承プロセスは、実如自身に「教団の安定と永続性」という課題を、誰よりも強く意識させる原体験となった。父が直面した危機を、息子が制度改革によって未然に防ごうとする、世代を超えた因果の連鎖がここから始まっていくのである。
延徳元年(1489年)、父・蓮如の隠居に伴い、実如は32歳で本願寺第九世法主の座を継承した 6 。蓮如は隠居後も、山科本願寺の境内に造営された南殿(なんでん)と呼ばれる隠居所から、依然として教団に強い影響力を及ぼしており 3 、実如の治世は、この偉大な父の監督下で幕を開けた。
実如が継承した本願寺の拠点・山科は、もはや単なる寺院ではなかった。その周囲は堅固な土塁と深い濠によって幾重にも囲まれ、あたかも城塞のごとき様相を呈していた 21 。この広大な寺内(じない)には「八町の町」と呼ばれる商業区画が形成され、絵師や、餅、塩、酒、魚などを商う多くの商工業者が集住し、活気に満ちた経済活動が繰り広げられていた 24 。
つまり、実如が継承したのは「教団」であると同時に、一つの「都市国家」であったと言える。彼の役割は、単に信仰を導く宗教指導者に留まらなかった。それは、都市の秩序を維持する統治者であり、外敵から寺内を防衛する軍事指揮官であり、そして教団の活動を支える経済の管理者という、極めて複合的なものであった。山科本願寺の城塞都市としての性格は、当時の本願寺が延暦寺をはじめとする外部勢力から敵視され、常に自衛の必要に迫られていた現実を物語っている 22 。そして、寺内町の経済的繁栄は、教団の強大な財政力の源泉となった 24 。後に実如が、細川氏や朝廷といった世俗権力と渡り合っていく上で、この「山科」という物理的・経済的基盤が持つ軍事力と財政力は、最強の交渉カードとなった。彼の政治活動は、この拠点なくしてはあり得なかったのである。
実如の治世は、戦国時代の政治情勢と密接不可分であった。特に、彼の統治戦略を理解する上で欠かせないのが、当時の畿内における最大権力者、管領・細川政元との関係である。
蓮如の時代から、本願寺は比叡山延暦寺などの伝統的な仏教勢力と激しく対立しており、その圧力を排するためには、有力な世俗権力との連携が不可欠であった。中でも、明応の政変(1493年)によって将軍・足利義材を追放し、幕政の実権を掌握した細川政元は、本願寺にとって最も頼りになる庇護者であった 7 。実如はこの父の代からの関係を継承し、さらに強化することで、教団の安全保障を図ろうとした 6 。
しかし、この同盟関係は、本願寺に安寧をもたらす一方で、教団を戦国の政争の渦へと深く引きずり込む「諸刃の剣」でもあった。永正3年(1506年)、政元は対立する河内の畠山義英を攻撃するため、実如に対し、本願寺門徒を動員して出兵するよう強く要請した 11 。この要請は、教団内に深刻な亀裂を生じさせる。畠山氏と縁戚関係にあった蓮如の妻・蓮能と、その子である実如の異母弟・実賢が、この出兵に猛烈に反対したのである。彼らは河内や摂津の門徒を扇動し、ついには実賢を新たな宗主に擁立しようとする内部反乱へと発展した 12 。これは「河内国錯乱」と呼ばれる事件である。
教団分裂の危機に直面した実如の対応は、迅速かつ断固たるものであった。彼はこの内部反乱を力で鎮圧し、首謀者である蓮能と実賢らを教団から追放した 13 。これは、教団の統一を維持するためには、たとえ血族であっても容赦なく切り捨てるという、彼の統治者としての厳しい姿勢を示す最初の事例となった。
この「河内国錯乱」は、実如の治世における最初の大きな試練であった。そしてこの事件は、蓮如の遺した多数の子息たちが、それぞれ独自の地盤と利害を持つ独立した勢力となり、法主の命令にさえ公然と異を唱えうる危険な存在であることを白日の下に晒した。実如がこの後、血族を厳格に統制する「一門一家の制」の制定を急ぐのは、この危機的状況への痛切な反省と対策に他ならなかった。政治への関与が、内部統制の必要性を生み出したという、重要な因果関係がここに見出せるのである。
実如は、武家権力との現実的な関係構築を進める一方で、もう一つの重要な権力、すなわち朝廷へのアプローチにも並々ならぬ力を注いだ。応仁の乱以降、朝廷の政治的実権は失墜していたが、日本の最高権威としての象徴的価値は、戦国大名たちにとっても決して無視できないものであった。実如は、この「権威」の持つ力を正確に見抜き、本願寺の社会的地位を飛躍的に向上させるための切り札として活用した。
その象徴的な出来事が、後柏原天皇の即位の礼への献金である。明応9年(1500年)に父・後土御門天皇の崩御を受けて践祚した後柏原天皇は、応仁の乱以来の朝廷の深刻な財政難により、即位の礼を挙げられないまま20年以上の歳月が経過していた 26 。この国家的儀式の停滞に対し、大永元年(1521年)、実如は室町幕府と歩調を合わせ、一万貫にも上るとされる莫大な献金を行った。これにより、天皇は践祚から22年目にして、ようやく即位の礼を盛大に執り行うことができたのである 10 。
この功績に対し、朝廷からの見返りは絶大なものであった。同年、本願寺は皇族や摂関家の子弟が入寺する「門跡(もんぜき)」寺院に準じる「准門跡(じゅんもんぜき)」の格を与えられた 11 。これは、本願寺が国家的に公認された、極めて高い格式を持つ寺院となったことを意味する。さらに実如自身も、本願寺法主として初めて、朝廷から直接「法印権大僧都(ほういんごんだいそうず)」という高位の僧官に任じられた 6 。それまで本願寺の法主が僧官を得るには、形式的に延暦寺などを介する必要があったが、この直接任官によって、本願寺は他の有力寺院と対等、あるいはそれ以上の地位を公的に認められたことになる 11 。僧位における「法印」は僧正に与えられる最高位の称号であり、「権大僧都」は僧都の中でも上位に位置する高官であった 30 。
実如の朝廷政策は、単なる名誉欲から出たものではない。それは、本願寺の持つ強大な「財力」を、社会的な「権威」へと転換させる、極めて高度な政治戦略であった。この戦略により、本願寺は「一向一揆」に代表される反体制的なイメージを払拭し、既存の秩序の中に確固たる地位を占める権威ある存在へと、見事な自己改革を遂げた。この「准門跡」や「法印権大僧都」という公的な肩書は、他の守護大名や寺社勢力と対峙する際に、本願寺の正統性と格の高さを保証する強力な武器となった。武力や財力といったハードパワーだけでなく、「権威」というソフトパワーをも動員して教団を守ろうとする、実如の多角的で周到な安全保障戦略の一環であったと評価できる。
実如が断行した改革の中でも、その後の本願寺のあり方を決定づけた最重要のものが、永正16年(1519年)に定められた「一門一家の制(いちもんいっけのせい)」である 11 。
この制度が制定された背景には、蓮如が遺した「多数の有力な子息たち」という、光と影を併せ持つ遺産があった。蓮如には生涯で27人もの子があり、その多くが成人して北陸や東海、畿内など各地の有力寺院の住持となっていた 13 。彼らはそれぞれの地域で門徒を教化し、教団の発展に大きく貢献した。しかしその一方で、彼らは独自の勢力基盤を築き、時には本山の意向に反する動きを見せることもあった。先に述べた「河内国錯乱」は、その危険性が現実化した最たる例である。
この潜在的な分裂要因を根本から断ち切り、教団の永続的な統一を確保するために実如が導入したのが、この「一門一家の制」であった。その内容は、本願寺の血族を、法主との血縁の近さに応じて厳格に階層化するものであった 13 。
この制度の目的は、第一に、法主を絶対的な頂点とするピラミッド型の支配構造を確立し、各地に分散していた一族の力を本山のもとに一元的に統制することにあった(権力の中央集権化)。第二に、家格を明確に序列化することで、法主の継承や寺院の住持職などを巡る一族内の無用な争いを未然に防ぐことにあった(紛争の予防)。そして第三に、このように階層化された一族を、本山を守る「藩屏(はんぺい)」、すなわち強固な防衛網として組織的に活用することにあった 13 。
「一門一家の制」は、宗教的な血統の神聖性を、近世的な官僚制・身分制にも通じる統治システムへと転換させる、画期的な試みであった。これにより本願寺は、単なる信仰共同体から、戦国大名家にも匹敵する強固な中央集権的統治機構を持つ政治実体へと、その姿を大きく変貌させたのである。
しかし、この改革は意図せざる副作用ももたらした。法主への権力集中は、法主が幼少あるいは病弱である場合に、その後見人(こうけんにん)の権力を絶大なものにする素地を作った。皮肉にも、実如の死後、幼くして法主となった孫・証如の後見人・蓮淳が、まさにこの制度を利用して権力を掌握し、対立する一族(加賀三箇寺など)を「法主への反逆者」として粛清する「享禄・天文の乱」を引き起こすことになる 13 。実如が教団の安定のために築いたシステムが、次代には内部抗争を激化させる道具として利用されてしまうという歴史の皮肉が、ここにはっきりと見て取れる。
階層 |
定義 |
主な役割 |
該当する人物例 |
連枝 |
法主の兄弟・子 |
教団運営の中枢、最高幹部 |
蓮淳(実如の弟)、蓮悟(実如の弟)、円如(実如の子) |
一門衆 |
連枝の嫡男 |
次世代の幹部、有力寺院の住持 |
(円如の子である証如は法主を継承) |
一家衆 |
連枝の次男以下、蓮如以前に分かれた一族 |
地方拠点の住持、教団の藩屏 |
顕誓(蓮如の子・蓮誓の子)、実悟(蓮如の十男) |
実如は、統治機構という外面的な改革と並行して、教団の内面的な統一を図るための改革にも着手した。それは「教学の標準化」と「門徒の規律化」という二つの柱からなっていた。
第一の「教学の標準化」を象徴するのが、蓮如の『御文』の編纂事業である。蓮如は生涯に二百五十通を超える膨大な数の手紙(御文)を各地の門徒に書き送ったが、その内容は多岐にわたっていた 35 。実如は、息子の円如らと共にこの膨大な文書の中から、特に重要と思われる八十通を選び出し、『五帖御文(ごじょうのおふみ)』として編纂した 15 。この事業の意図は、蓮如の教えの核心部分を「正典」として定めることにあった。これにより、教義の解釈が地域や指導者によって多様化したり、異端的な解釈が生まれたりすることを防ぎ、全国の門徒が共有する信仰のスタンダードを確立しようとしたのである 37 。これは、爆発的に拡大した教団の「信仰の質」を統一しようとする、極めて重要な試みであった。
第二の「門徒の規律化」として断行されたのが、永正15年(1518年)に発布された、いわゆる「三法令」である 13 。
蓮如の時代、一向一揆は教団を守る力であると同時に、時に制御不能な破壊的エネルギーともなった 5 。特に加賀国では、門徒が守護を打倒し一国を支配するに至ったが 13 、このような状況は本願寺が「反体制勢力」として幕府や諸大名から敵視され、いずれ討伐されるという深刻な危機感を実如に抱かせた。
「三法令」、とりわけ年貢の支払いを命じたことは、門徒の経済的利益に反する可能性があり、彼らの支持を失いかねない危険な政策であった。しかし実如は、目先の利益よりも教団全体の長期的な存続を優先した。これらの法令は、本願寺を「社会秩序の破壊者」から「社会秩序との共存者」へと転換させるための、現実的かつ戦略的な路線変更を示すものであった。実如は、父・蓮如が解き放った巨大な宗教的エネルギーを、自らが創り上げた「制度」と「規律」という器の中に、着実に収めようとしていたのである。
実如は、冷徹な組織改革者・政治家という顔を持つ一方で、当代一流の文化人でもあった。彼の文化活動は、本願寺の権威と影響力を、武力や財力とは異なる「ソフトパワー」として高めるための、重要な戦略の一環であった。
その交流の中心にいたのが、内大臣まで務めた公卿であり、和歌や古典学の大家であった三条西実隆である 38 。実隆が記した詳細な日記『実隆公記』には実如が頻繁に登場し、二人が和歌の贈答や古典籍の貸借などを通じて、深い親交を結んでいたことが記録されている。後柏原天皇の即位礼への献金も、実如が実隆に相談を持ちかけたことがきっかけであった可能性が指摘されており 14 、この交流が公家社会と本願寺を結ぶ重要なパイプとなっていたことがうかがえる。
実如の名声は国内に留まらなかった。明国杭州の画人から、彼の徳を讃える墨竹画と讃が贈られたという記録も残っている 11 。これは、山科本願寺が堺の商人などを通じて日明貿易にも関わり、国際的な情報や文化が集まるハブとして機能していた可能性を示唆している。
山科本願寺の寺内町そのものが、一大文化センターでもあった。多くの文化人や職人が集い、活気あふれる文化的空間を形成していた 24 。近年の発掘調査では、蒸気浴を楽しむための石風呂の遺構なども発見されており 40 、当時の山科における文化的で洗練された生活の一端を垣間見ることができる。
実如のこうした文化活動や文化人との交流は、単なる趣味や教養の披露ではなかった。それは、三条西実隆のような公家社会のトップとの交流を通じて本願寺に「洗練された文化」のイメージを付与し、武家や他の寺社勢力に対する文化的優位性を確保する意味合いを持っていた。第五章で見た「准門跡」の地位獲得といった寺格の向上も、こうした地道な文化的交流の積み重ねの上に成り立っていた側面がある。実如は、ハードパワー(軍事力・財力)とソフトパワー(文化・権威)の両面から、本願寺の基盤を盤石なものにしようと努めていたのである。
盤石な統治体制を築き上げ、教団を栄華の頂点へと導いた実如であったが、その晩年には最大の不運に見舞われる。後継者として期待をかけていた息子の早世である。
実如には照如と円如という二人の息子がいたが、長男の照如が早くに亡くなったため、次男の円如が法嗣として定められ、高齢の父に代わって教団の実務を取り仕切っていた 36 。しかし、その円如もまた、永正18年(1521年)、父に先立って31歳という若さで急死してしまう 15 。
信頼する後継者を失った実如の苦衷は察するに余りある。彼はやむなく、円如の遺児であり、自らにとっては孫にあたる、わずか10歳の証如を次期法主とせざるを得なくなった 6 。
自らの死期を悟った実如は、幼い証如の将来を案じ、その後見を、同母弟であり、かつ証如の母方の祖父でもある蓮淳に託した 6 。蓮淳は近江の大津顕証寺や伊勢の長島願証寺に拠点を持ち、一門の中でも特に政治力と野心に富んだ有力な人物であった 44 。
そして大永5年(1525年)2月2日、実如は激動の生涯を閉じた。山科本願寺にて68歳での示寂であった 6 。その葬儀には、彼の徳を慕って諸国から数十万人の門徒が参列したと伝えられており、その絶大な権威と影響力の大きさを物語っている 11 。
実如の生涯は、制度による教団の安定化を目指したものであった。しかし、その彼の努力は、最終的に「後継者の夭折」という個人的な不運によって、次代に大きな揺らぎをもたらすという皮肉な結末を迎えた。彼が築き上げた「一門一家の制」という権力集中システムは、有能で成熟した法主が頂点に立つことを前提としていた。しかし、法主が幼少となると、その後見人がその絶大な権限を代行することになる。実如の死は、彼が構築した強固な権力システムと、野心的な後見人(蓮淳)、そして幼い法主(証如)という、極めて不安定な権力構造を遺すことになった。それは、彼が生前に懸命に抑え込んできた一族間の潜在的な対立を一気に表面化させる引き金となった。実如の死からわずか6年後、本願寺は「享禄・天文の乱」という史上最大の内紛に突入し、彼が心血を注いで築き上げた山科本願寺も、その戦火の中で灰燼に帰すのである 3 。実如の治世は、本願寺の礎を築いた輝かしい時代であると同時に、次なる大乱の「助走期間」でもあったという、二重の歴史的意味を持つのである。
本願寺実如は、しばしば「拡大の蓮如」に対する「守成の実如」として、偉大な父が築いたものを守り固めた人物と評価されてきた。しかし、この評価は彼の一側面を捉えたに過ぎない。本報告書で詳述してきたように、実如は単なる管理者ではなく、父・蓮如の遺したカリスマ的エネルギーを、永続可能な「制度」へと昇華させた、創造的な「改革者」であり「構築者」であったと再評価されるべきである。
彼が確立した「一門一家の制」による中央集権的な統治機構、「御文」編纂による教学の標準化、そして「三法令」や世俗権力との関係構築に見られる現実的な共存路線は、その後の本願寺の基本構造を決定づけた。後に織田信長と十年以上にわたって互角の戦いを繰り広げた石山本願寺の強大な政治力、軍事力、そして財力は、まさしく実如の時代にその礎が築かれたものである。彼の統治なくして、近世における本願寺の繁栄はあり得なかったであろう。
一方で、彼の改革がもたらした負の側面も看過することはできない。法主への極端な権力集中は、結果として次代の「享禄・天文の乱」という深刻な内紛の遠因となった。彼が教団の安定のために設計したシステムが、後継者の不運という偶然と相まって、逆に教団を分裂の危機に陥れたという事実は、制度設計の意図とその運用結果の乖離という、歴史の持つ多面性と皮肉を示している。
結論として、本願寺実如は、戦国時代という激動の時代において、一つの宗教団体を、大名権力にも匹敵する巨大な政治・経済・軍事複合体へと組織的に変貌させ、近世へと続く本願寺教団の原型を創り上げた、日本宗教史上、そして戦国時代史上、極めて重要な人物として位置づけられる。彼の功績は、偉大な父・蓮如の影に隠れがちであるが、その冷静な現状分析能力と卓越した組織構築の手腕は、現代に生きる我々にも多くの示唆を与えてくれる。