本願寺教如は、戦国時代から江戸時代初期にかけての激動期に、浄土真宗本願寺教団の指導者として、また一人の宗教者として、極めて重要な役割を果たした人物である。彼の生涯は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という当代一流の権力者との折衝、父・顕如との深刻な対立と和解、そして本願寺の東西分裂という、宗派の歴史における一大転換点の中心にあった。教如の行動と思想は、単に一個人の軌跡に留まらず、近世における宗教と国家の関係、教団のあり方、そして信仰の継承という普遍的な問いを我々に投げかける。
本報告書は、提供された研究資料に基づき、本願寺教如の生涯、事績、思想、関連人物、歴史的影響などを多角的に掘り下げ、その実像に迫ることを目的とする。特に、石山合戦における役割、父・顕如との関係、豊臣・徳川政権との関わり、東本願寺創立の経緯と意義、そして彼の宗教的理念について詳細に分析する。これにより、戦国期における宗教勢力の動態と、教如という人物の歴史的意義を明らかにすることを目指す。
教如は永禄元年(1558年)9月16日、本願寺第11世法主・顕如の長男として誕生した 1 。幼名は茶々麿と称した 1 。父・顕如が永禄2年(1559年)に勅許により門跡となり、永禄4年(1561年)に親鸞三百回忌が盛大に行われるなど、本願寺がその勢力を伸張させる時期に幼少期を過ごした 1 。
永禄10年(1567年)、足利義昭の仲介で越前の朝倉義景と本願寺が和睦した際、その条件として義景の娘である三位殿と婚約した 1 。実際に三位殿が大坂へ下るのは天正元年(1573年)のことである 1 。
永禄13年(元亀元年、1570年)2月、父・顕如のもと13歳で得度し、新門(新門主・新門跡、本願寺後継者)となった 1 。また、近衛前久の猶子になったとも伝えられている 1 。
得度した元亀元年(1570年)9月12日、織田信長との間で石山合戦が勃発すると、教如は父・顕如を助けて石山本願寺(大坂本願寺)に籠城し、信長と徹底抗戦した 1 。この戦いは10年以上に及んだ 2 。
成人する頃には、教如自ら諸国の門徒に檄文を発するまでになっていたと伝えられている 2 。しかし、石山合戦中に具体的に何をしていたかの詳細は不明な点も多く、味方門徒へ送った軍忠状も天正4年(1576年)に発給した3通しか確認されていない 1 。
天正8年(1580年)閏3月5日、父・顕如が正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れ、大坂本願寺から紀伊国鷺森御坊へ退去することを決定した際、教如はこの講和に強く反対し、徹底抗戦を主張した 1 。この時、教如は23歳であった 2 。
教如は一度は講和条件を受諾した3人の本願寺家老(下間頼廉・下間頼龍・下間仲孝)の起請文に顕如と共に請文を添えて勅使へ提出したが、すぐにこれを撤回した 1 。閏3月13日の雑賀衆宛ての手紙では、信長への不信感と仏法存続を掲げて抗戦続行を唱え、同じく講和に不満を持つ門徒らと共に大坂本願寺に籠城した(「大坂拘様」) 1 。
教如が13歳という多感な時期に始まった石山合戦は、彼の人間形成、特に宗教的信念と指導者としての姿勢に決定的な影響を与えたと考えられる。10年にも及ぶ織田信長との存亡をかけた戦いは、彼の中に妥協を許さない強硬な意志と、仏法護持への強い使命感を育んだのであろう。父・顕如が現実的な判断から和睦へと傾いたのに対し、青年期の教如が純粋な信仰心と危機感から徹底抗戦を主張したのは、この長期間の熾烈な戦いの経験が背景にあると推察される。本願寺にとって存亡の危機であったこの戦いを幼少期から青年期にかけて体験した教如が 1 、和睦に際して「徹底抗戦を主張」し 2 、「信長への不信感と仏法存続を掲げ」た 1 のは、戦いの中で培われた危機感と使命感の表れと解釈できよう。父・顕如との意見対立 2 は、単なる親子間の感情的な衝突ではなく、戦いに対する根本的な姿勢の違い、すなわち現実路線と理想追求(あるいは純粋な抵抗精神)の対立であった可能性が高い。この初期の経験と対立の構図が、後の教如の行動パターン、例えば豊臣秀吉への不服従や徳川家康との連携による勢力回復といった行動に、深く影響を与えたと考えられる。
教如の徹底抗戦の主張と大坂本願寺への籠城は、父・顕如との間に深刻な対立を生んだ。顕如は教如の行動に動揺し、門徒に教如に味方しないよう書状で伝え、結果として教如を義絶するに至った 1 。
教如が一度賛成した講和に反対して籠城した理由については、父子密計説、武力行使による訴訟説、下間仲孝謀略説、雑賀衆協力説など諸説が存在する 1 。
顕如が鷺森へ退去した後も、教如はしばらく大坂に留まったが、最終的には雑賀衆の仲介もあり、天正8年(1580年)8月に大坂本願寺を退去した 4 。この退去直後、石山本願寺は出火し、三日間燃え続けて灰燼に帰した 8 。この出火については、教如の最後の抵抗であったとする説や、時限発火説、自然火災説などがあるが、真相は不明である 14 。
大坂退去後、教如は父・顕如のいる紀州鷺森の坊舎を頼るが拒絶され、以後、各地の門徒衆の庇護を受けながら約1年10ヶ月にわたり流浪の生活を送ることになる 4 。この流浪の期間に、教如は越前、美濃など各地を転々としたとされる 13 。
西美濃地域の揖斐川流域の寺々からなる北山十日講(岐阜県)や美濃尾張五日講(岐阜県・愛知県)といった講組織の地域では、石山合戦後に教如を秘かに匿ったという伝承が残っており、現在も教如の遺徳を偲ぶ講行事が行われている 15 。
この流浪の期間は、教如にとって各地の門徒との直接的な結びつきを深める機会となり、後の東本願寺教団形成の基盤となったと考えられる 15 。父・顕如による義絶とそれに続く流浪生活は、教如にとって苦難の時期であったと同時に、独自の支持基盤を各地の門徒の中に築き上げる重要な期間であったと解釈できる。顕如の権威から離れた状況で、直接門徒と接し、その信仰心に触れることで、教如自身の宗教的信念もより強固なものとなり、また門徒たちも教如個人への帰依を深めたと考えられる。 15 には「これらの地域では、石山合戦後、秘かに訪れた教如上人をかくまったと伝承されてい」るとあり、強い支持があったことを示唆している。この直接的な交流を通じて、門徒は教如の人物や思想に触れ、教如もまた門徒の信仰の篤さを実感したはずである。ECHO-LAB掲載のPDF( 25 / 25 )では、教如の「諸国秘回」中に「教如方」と呼ばれる勢力が形成されたと指摘されている。この時に形成された門徒との絆が、後の東本願寺創立の際に大きな力となったことは想像に難くない。
天正10年(1582年)6月2日、織田信長が本能寺の変で死去すると、状況は一変する 4 。信長の死を知った教如は、顕如に「詫状」を入れ、許しを得た 4 。
この和解は容易ではなく、天正10年まで待たなければならなかった 11 。和解成立は朝廷の斡旋によるものといわれ、教如が父・顕如に宛てて提出した誓詞(史料5、下間刑部卿頼廉宛)により成立した 11 。この和解は「御両所御中なをりの事、任口叡慮之旨、六月廿七日御和平也、女房奉書ナサル」と記録されている 11 。
顕如と教如の和解は、本能寺の変という外部環境の激変が大きく作用した結果であり、朝廷の斡旋という形式を取っている点からも、単なる父子の情愛だけでなく、教団の統一と安定を求める内外の政治的判断が働いた可能性が高い。信長という共通の敵がいなくなり、教団の再編が急務となった時期のことであった 4 。和解に朝廷が関与していることは 11 、和解が本願寺内部の問題に留まらず、公的な意味合いを持っていたことを示している。教如が誓詞を下間頼廉に宛てて提出していることは 11 、教団内部の重臣を通じた正式な手続きであり、単なる口約束ではなかったことを物語る。しかし、それまでの対立は深刻であり(義絶に至るほど)、教如は独自の支持基盤を形成していた。顕如没後の法主継承問題 2 や、秀吉による教如退隠の背景にある教団内部の対立 4 は、この和解が根本的な亀裂を修復するには至らなかったことを示唆しており、後の東西分立へと繋がる火種として残ったのではないだろうか。
天正10年(1582年)の本能寺の変は、教如の運命を大きく転換させた。信長の死後、教如は紀伊鷺森に戻り、父・顕如と和解した 4 。この和解は、後陽成天皇の斡旋もあったとされている 2 。
顕如の没後(天正20年・文禄元年、1592年)、教如は一度本願寺法主を継承する 2 。この継承は豊臣秀吉からも認められていた 18 。
しかし、教如は法主継承後、石山合戦時に自身と共に籠城した者たちを重用し、父・顕如と共に退去した者たちと差をつけたため、教団内部に対立を招いた 2 。顕如派であった下間仲之を罷免し、自身の側近であった下間頼龍を登用するなどの人事が反発を呼んだ 18 。
この内部対立を背景に、顕如の正室であり教如の母である如春尼や、教如に反感を持つ顕如の側近衆が秀吉に働きかけ、継職の翌年である文禄2年(1593年)、秀吉は教如に10年後に弟の准如へ法主を譲るよう命じた 2 。教如を支持する坊官がこれに異議を唱えると、秀吉は激怒し、即刻退隠を命じた 2 。
この退隠の背景には、教如の側室である教寿院(おふく)と如春尼の対立 19 や、石田三成の画策(教如が徳川家康と結びつくことを警戒した三成が、准如方の如春尼を利用した)があったとも言われている 4 。秀吉は本願寺の強大な勢力を警戒し、懐柔策をとりつつも 20 、教団の分裂を画策していた可能性も指摘されている。
秀吉によって退隠させられた後も、教如は「裏方」や「北ノ御所」と称されながら本願寺の一角に住み、活動を続けた 1 。
秀吉の死後(慶長3年、1598年)、教如は徳川家康に接近する 8 。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの直前には関東の信徒を見舞う名目で江戸に赴き、家康に上方の石田三成らの動向を伝えたとされる 2 。家康はこれを喜び、教如に名馬を贈った 2 。
関ヶ原の戦いで家康が勝利すると、家康は教如に好意的になり、本願寺勢力の分割を狙う本多正信の献言もあり 2 、慶長7年(1602年)、京都七条烏丸に寺領を寄進した 2 。これが東本願寺の始まりとなる。
教如の生涯は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という当代の最高権力者たちの宗教政策に大きく左右された。信長との徹底抗戦、秀吉による法主退隠、そして家康による東本願寺建立支援という一連の出来事は、単に教如個人の資質や行動だけでなく、各権力者が本願寺の持つ強大な社会的・経済的影響力をいかに制御しようとしたか、あるいは利用しようとしたかの現れである。信長は本願寺と長期間敵対し、その武力を削ごうとした 5 。秀吉は天下統一後、諸勢力の統制を強化し、本願寺に対しても介入して教如を退隠させ准如を法主とした 7 。これは、 4 が指摘するように石田三成ら反教如派の画策や、秀吉自身が教如の家康への接近を警戒した可能性を示唆する。 20 は秀吉の懐柔策に言及するが、それは教団を掌握し、潜在的な脅威を管理する一環であった。家康は関ヶ原の戦いを経て天下を掌握し、教如は家康に接近して情報提供などで協力した 2 。家康は本願寺勢力を二分する意図から教如を支援し、東本願寺の寺地を寄進した 10 。これらの権力者の行動は、本願寺の持つ「大名に匹敵する権力」 8 を無視できなかったことの証左である。教如は、これらの権力者の動向に対し、単に受動的に対応したのではなく、義絶中や退隠後も門徒組織を維持・拡大し 15 、上杉景勝と連携するなど 16 、主体的に行動し続けた。家康への接近も、その戦略の一環と見ることができる。
また、本願寺内部には、石山合戦の講和路線を巡る顕如派と教如派の対立が根深く存在し、これが法主継承問題や東西分立に際して、外部の権力者(秀吉や家康)に利用される素地となったと考えられる。石山合戦時の講和派(顕如)と主戦派(教如)の対立が最初の大きな亀裂であり 2 、教如の法主継承後には旧顕如派との人事対立が再燃した 2 。如春尼(顕如の妻、教如の母)が秀吉に教如の解任を訴え出た背景には 7 、顕如が准如に宛てた譲り状の存在も理由とされた 18 。 4 は、この如春尼の訴えの背景に「石田三成の画策」があり、「准如方につく三成と教如方につく徳川家康の対立の構図」があったと指摘している。秀吉はこの内部対立を利用して教如を退隠させ、准如を法主とし 7 、家康もまた、この対立構造を利用して教如を支援し、本願寺を東西に分立させることで勢力を削いだ 2 。したがって、本願寺の東西分立は、外部権力者の介入だけでなく、それに先立つ深刻な内部対立が不可欠な要因であった。
年代(西暦) |
教如の動向 |
主要な歴史的事件 |
主要関連人物の動向 |
永禄元年(1558) |
9月16日、顕如の長男として誕生。幼名・茶々麿 1 |
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顕如:本願寺第11世法主 |
永禄10年(1567) |
朝倉義景の娘・三位殿と婚約 1 |
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足利義昭:婚約を仲介 |
元亀元年(1570) |
2月、13歳で得度、新門となる 1 。9月、石山合戦始まる。父と共に籠城 1 |
石山合戦勃発 |
織田信長:本願寺と敵対 |
天正8年(1580) |
閏3月、顕如の講和に反対、徹底抗戦を主張。8月、大坂退去、流浪生活へ 4 。顕如より義絶される 6 |
石山本願寺講和、開城 |
顕如:信長と講和、紀伊鷺森へ退去 |
天正10年(1582) |
6月、本能寺の変後、顕如と和解 2 |
本能寺の変、織田信長死去 |
顕如:教如の義絶を解く |
天正19年(1591) |
顕如、秀吉より京都堀川六条の地を寄進され本願寺(現西本願寺)を建立 8 |
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豊臣秀吉:本願寺に寺地寄進 |
文禄元年(1592) |
11月、顕如死去。教如、法主を継承 2 |
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顕如:死去 |
文禄2年(1593) |
秀吉の命により法主を退隠、弟の准如が継承 2 |
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豊臣秀吉:教如に退隠を命じる。准如:本願寺法主を継承 |
慶長3年(1598) |
豊臣秀吉死去。教如、徳川家康に接近 2 |
豊臣秀吉死去 |
徳川家康:台頭 |
慶長5年(1600) |
関ヶ原の戦い直前、家康に情報提供 2 |
関ヶ原の戦い |
徳川家康:関ヶ原で勝利 |
慶長7年(1602) |
家康より京都七条烏丸に寺領を寄進される 2 |
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徳川家康:教如に寺領寄進 |
慶長8年(1603) |
上野国妙安寺より親鸞聖人御真影を迎え、阿弥陀堂建立 27 |
江戸幕府開府 |
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慶長9年(1604) |
御影堂建立、東本願寺創立 27 |
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慶長19年(1614) |
10月5日、死去。享年57 2 |
大坂冬の陣 |
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本願寺の東西分立は、単一の出来事ではなく、長年にわたる複数の要因が複雑に絡み合った結果である。顕如と教如の間の石山合戦における路線対立 2 、教如の義絶と復帰 11 、顕如没後の法主継承問題における教如と准如の対立 7 、そして豊臣秀吉や徳川家康といった天下人の政治的介入 2 が主な要因として挙げられる。
特に、秀吉による教如の法主退隠と准如の擁立は、教団内部の亀裂を決定的なものにした 7 。その後、教如が家康と結びつき、家康が本願寺勢力の二分化を意図して教如を支援したことが、東本願寺の成立に直結した 2 。
慶長7年(1602年)、徳川家康は教如に京都の烏丸六条・七条間の地を寄進した 2 。
教如はこれを機に、慶長8年(1603年)に上野国妙安寺から宗祖親鸞聖人の自作と伝えられる御真影を迎え入れ、同年に阿弥陀堂を、翌慶長9年(1604年)には御影堂を建立し、新たな本願寺(東本願寺)を創立した 27 。これにより、教如は「東本願寺創立の上人」と仰がれることになった 27 。
東本願寺を創立した教如は、教団強化のため各地に御坊を積極的に建立し、末寺門徒の地域的結集の拠点とするとともに、教化の拠点とした 4 。これらは東本願寺直結(門主が御坊住職を兼務)の御坊(後の別院)として設立され、教団の教化体制確立に寄与した 4 。例えば、長浜では石山合戦の加勢を協議する場として設けられた「総会所」が後の長浜別院・大通寺となる 33 。
東本願寺の組織運営や財政基盤の確立についても、教如のリーダーシップが発揮されたと考えられるが、具体的な初期の制度に関する詳細な史料は限定的である。しかし、 51 、 52 、 51 は後の時代の東本願寺の行財政改革に関する資料であり、そこから初期の教団運営の課題や方向性を類推することは可能である。教如は家臣団を組織し 30 、門徒からの寄進などを通じて財政基盤を固めていったと推察される。
東本願寺の創立は、徳川家康の政治的意図だけではなく、教如自身の強い意志と、彼を支持する門徒たちのエネルギーの結集によるものであったと評価できる。家康の寺地寄進が東本願寺創立の直接的な契機であることは事実であるが 10 、教如は秀吉に退隠させられた後も、「裏方」として本願寺境内に居住し、本尊下付など門主としての活動を継続していた 1 。これは、彼が法主としての自覚と意志を持ち続けていたことを示している。同朋大学仏教文化研究所編『教如と東西本願寺』の紹介文 30 では、「徳川幕府による政治的意図ではなく、教如教団の主体的独立とする歴史観が示された論集」とある。また、 4 は、教如が「東本願寺教団を設立した教如は、各地に御坊を建立し末寺門徒の地域的結集の寺院とするとともに、教化の拠点とした」と記し、教団形成における教如の積極的な役割を強調している。これらの点から、家康の支援は重要な外部要因ではあるものの、教如自身の不屈の精神と、彼を支持する門徒たちの存在がなければ、東本願寺の創立は成し得なかったと考えられる。
教如は、父・顕如から「御本尊の御うら書・御名号・御文の御判」の免許権を与えられており、門跡代理ともいうべき地位にあった 35 。これは、彼が早くから宗教的権威と指導力を期待されていたことを示している。
大桑斉氏の研究によれば、教如はいかにして門末を把握し、本願寺教団を編成したのか、その宗教的理念と教団構造の形成過程が、彼が発給した大量の消息類から明らかになるとされている 36 。
教如は「下付御影」 36 を積極的に活用し、門徒との結びつきを強化した。ECHO-LAB掲載のPDF( 25 / 25 / 34 / 25 / 25 / 25 / 25 )では、教如が「郡中御影」や「真向御影」といった特徴的な御影を下付し、地域信仰共同体の核としたことが論じられている。これは、門徒にとって教如との直接的な繋がりを象徴し、信仰心を高める役割を果たしたと考えられる。
大桑斉氏の研究では、教如教団形成における戦乱と開拓の重要性が指摘されている 36 。石山合戦後の流浪生活 4 や、越後蒲原平野での教団形成 36 など、困難な状況下で門徒組織を維持・拡大した教如の指導力がうかがえる。ECHO-LAB掲載のPDF( 25 / 25 / 34 / 25 / 25 / 25 / 25 )では、教如の「諸国秘回」が、僧俗一体の地域信仰共同体(道場)との結びつきを深め、教如派形成の原点となったと論じられている。
大桑斉氏の研究は、教如の消息・証判御文・掛幅の思想史的検討を通じて、その救済論を明らかにしようとしている 36 。ECHO-LAB掲載のPDF( 25 / 25 / 34 / 25 / 25 / 25 / 25 )では、教如が『浄土文類聚鈔』の「浄信」の語に着目し、煩悩にまみれた衆生が弥陀の光明によって浄信を得て救われるという思想を持っていたこと、また「和讃書き添え十字名号」という独自の形式でその救済観を表現したことが詳述されている。
教如は多くの聖教を書写したとされ、『経釈要文』、『大般涅槃経要文』、『見聞集』などが挙げられている 37 。これらは彼の学識と信仰の深さを示している。
教如が発給した大量の消息類は、彼の宗教的理念や門徒との関係性を知る上で極めて重要な史料である 36 。和歌山県立博物館所蔵の「教如書状写」 38 は、天正8年の大坂退去時のもので、近江北三郡の門徒中に宛てられ、信長との和睦成立と自身の本願寺残留の意思、仏法再興への協力を呼びかける内容である。ECHO-LAB掲載のPDF( 25 / 25 / 34 / 25 / 25 / 25 / 25 )では、教如が発給した「和讃書き添え十字名号」や「浄土文類聚鈔文」の掛幅が、彼の独自の救済観を反映していると分析されている。
教如の側近であった宇野新蔵の覚書 25 には、教如の言行や思想を伝える貴重な記述が含まれている。特に、明智光秀の旧臣の出家を巡る逸話の中で語られた「本願寺の家は慈悲をもって本とす」という言葉は、教如の本願寺観や親鸞聖人の教えの継承意識を示すものとして重要である 25 。
教如の思想と行動には、門徒との「直接的な繋がり」を重視し、困難な状況下でも信仰を「実践」し続けるという特徴が見られる。彼が「下付御影」を多用したこと 25 や、「大量の消息類」を発給したこと 36 は、門主と門徒の間の階層性を超えた直接的な関係構築を目指したものであった。石山合戦での徹底抗戦 2 や流浪中の教化活動 4 は、信仰の実践的側面を強調する。ECHO-LAB掲載のPDF( 25 / 25 )で論じられる「和讃書き添え十字名号」や「浄土文類聚鈔文」は、難解な教義をより具体的に、門徒に分かりやすく伝えようとする工夫と見ることができる。「本願寺の家は慈悲をもって本とす」という言葉 25 も、観念論ではなく、具体的な行動規範としての慈悲の実践を重視する姿勢を示す。これらの要素は、教如が抽象的な教義よりも、門徒一人ひとりの信仰と救済に直接的に関わろうとした姿勢、そして信仰を具体的な行動として示そうとした実践性を強く持っていたことを示唆している。
教如は、織田信長との石山合戦で徹底抗戦を主張し、父・顕如と対立した硬骨漢として知られる 2 。この行動は、信長に屈しない強い意志の表れと肯定的に評価される一方、教団の分裂を招いた一因として批判的に見られることもある。
豊臣秀吉に法主の座を追われた後も、徳川家康と結びつき東本願寺を創立した点は、不屈の精神と行動力を示すものであるが 2 、権力闘争に巧みに乗じたという見方も可能である。
53 (高山別院の逸話)では、金森長近が秀吉に「浄土真宗の門徒たちが飛騨を守っております」と述べた際、その背景に教如(新門跡様)との相談があったことが示唆されており、教如が地域統治にも影響力を持っていた可能性がうかがえる。
一方で、法主継承後の人事において、自身に近い者を重用し、教団内に対立を生んだという側面も指摘されている 2 。また、側室おふく(教寿院如祐尼)を寵愛し、その子供や孫を巡る後継者問題が起きたことも、人物像を複雑にしている 1 。
教如の歴史的評価は、本願寺の東西分立という結果と不可分である。西本願寺側からは分裂の原因を作った人物と見なされる傾向がある一方、東本願寺側からは困難の中で法灯を継承し、新教団の礎を築いた創設者として高く評価されている 23 。
25 (ともしび掲載論文)では、教如が「織田信長と石山合戦を戦い、豊臣秀吉に本願寺門主の座を追われ、徳川家康に拾われて東本願寺を建ててもらった」という一般的なイメージに対し、教如独自の理念や思想があったと論じ、東本願寺創設の正統性を主張している。
彼の行動は、近世における本願寺教団のあり方を大きく変え、その影響は現代にまで及んでいる。教如に対する評価が肯定的側面と批判的側面の両方を持つのは、彼が生きた時代が激動期であり、かつ彼自身がその中で常に困難な選択を迫られ続けた結果であると考えられる。彼の行動原理には、仏法護持という純粋な信仰的動機が見られる一方で 1 、権力者との折衝や教団内部の掌握といった政治的・戦略的行動も顕著である 2 。彼の行動は、本願寺の分裂という結果をもたらし 21 、これは立場によって評価が分かれる。家族問題や人事を巡る対立 1 は、人間的な側面や指導者としての課題を示唆する。これらの異なる側面は、彼が置かれた戦国末期から江戸初期という、価値観が大きく変動し、宗教勢力も政治権力と緊張関係にあった時代背景と切り離しては考えられない。したがって、教如を単純に善悪二元論で評価することは困難であり、彼の行動の背景にある複数の動機や、時代の制約を考慮した多角的な理解が必要とされる。
教如には4人の妻がおり、3男10女をもうけた 1 。
教如の複数の妻妾や多くの子供たちの存在、特に側室・教寿院如祐尼とその所生の子供たちを巡る寵愛や後継者問題は、単なる家庭内の出来事に留まらず、創設初期の東本願寺教団の安定に少なからぬ影響を与えたと考えられる。教如には複数の妻と多くの子供がいたことは 1 、当時の有力者としては珍しくないが、継承問題を複雑化させる要因となった。特に側室のおふく(教寿院如祐尼)への寵愛と、彼女が多くの子供を産んだことが問題視されたことは 1 、正室や他の側室、さらには教団内の勢力バランスに影響を与えた可能性がある。教如の母・如春尼がおふくを敵視したという記述 1 は、家族内の対立が深刻であったことを示している。教如の死後、おふくが外孫の公海を次期門主に擁立しようとし、宣如の継承を巡って争いが起きたことは 1 、教団のトップの継承という最重要事項に、法主の個人的な家族関係が直接介入した例である。教如の遺品である茶入を巡る争いも、同様の文脈で理解できる 1 。これらの事実は、創設間もない東本願寺が、指導者の個人的な問題を乗り越えて教団としての安定を確立する必要があったことを示している。
国宝『顕浄土真実教行証文類』(坂東本)は、親鸞聖人の真蹟として現存する唯一のもので、真宗大谷派(東本願寺)が所蔵している 28 。
元は親鸞の高弟・性信を開基とする坂東報恩寺に伝持されていたが 49 、東本願寺に所蔵されるに至った経緯の詳細は、提供資料からは明確ではない。 54 には、東本願寺蔵の坂東本がかつて報恩寺の所蔵であったこと、報恩寺には教如裏書の五百代方便法身尊像があったことなどが記されているが、坂東本の東本願寺への移管に教如が直接関与したかどうかの具体的な記述は見当たらない。関東大震災後に京都で保管されるようになったとされている 49 。
東本願寺が国宝『教行信証(坂東本)』という浄土真宗における最重要典籍の真筆を所蔵していることは、東西分立後の東本願寺にとって、その教義的正統性と宗祖親鸞からの法灯の直接的継承を象徴する上で極めて大きな意味を持ったと考えられる。『教行信証』は浄土真宗の根本聖典であり、その親鸞真筆である坂東本は宗派にとって最高の宝である 28 。本願寺が東西に分立し、それぞれが正統性を主張する状況下で、宗祖の真筆を所蔵することは、教義上の正統性や法灯の継承を内外に示す上で非常に強力な象徴となる。東本願寺が坂東本を所蔵しているという事実は 28 、西本願寺に対する東本願寺の立場を強化する上で重要な意味を持ったはずである。教如は聖教の書写を行うなど 37 、教義の伝承に熱心であった。彼が坂東本の重要性を認識していなかったとは考えにくい。したがって、坂東本の東本願寺への将来は、偶然の産物ではなく、教団の権威確立戦略の一環であった可能性も視野に入れるべきである(直接的な教如の関与を示す史料は見当たらないが、状況証拠として)。
本願寺教如は、戦国時代の動乱期から江戸時代初期にかけて、浄土真宗本願寺の指導者として、また一人の宗教者として、その信念に基づいて激動の時代を生き抜いた。石山合戦における徹底抗戦の主張、父・顕如との対立と和解、豊臣秀吉による法主退隠、そして徳川家康の支援を得ての東本願寺創立と、その生涯は波乱に満ちていたが、一貫して親鸞聖人の教えを継承し、広めることに尽力した。
教如の行動と思想は、本願寺の東西分立という形で現代の浄土真宗のあり方に直接的な影響を与えている。彼が創立した東本願寺は、今日においても多くの門徒を擁する大教団として存続している。
教如に関する研究は、大桑斉氏や同朋大学仏教文化研究所などを中心に進められているが 25 、彼が発給した膨大な消息類や関連史料のさらなる詳細な分析、特に彼の宗教思想の核心である救済論や、教団運営の具体的な実態については、今後も研究の深化が期待される。また、彼を巡る様々な逸話や評価の史料批判を通じた再検討も重要な課題と言えるであろう。