本願寺顕如(けんによ)、諱は光佐(こうさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて浄土真宗本願寺派の第11世宗主を務めた僧侶である 1 。顕如の時代、本願寺教団は宗教的権威のみならず、強大な政治力、経済力、軍事力を有し、日本の歴史に大きな影響を与えた 2 。特に、天下統一を目指す織田信長との10年以上にわたる石山合戦は、顕如の指導者としての力量と本願寺の底力を示す象徴的な出来事であった 1 。
戦国時代は、室町幕府の権威が失墜し、各地の戦国大名が覇権を争う群雄割拠の時代であった。そのような中で、織田信長のような新たな統一権力が台頭し、既存の勢力構造を大きく揺るがした 6 。宗教勢力、とりわけ本願寺は、広範な門徒組織(一向一揆)を背景に独自の勢力圏を形成し、新たな支配秩序を築こうとする世俗権力としばしば衝突した 2 。
本願寺の存在は、織田信長にとって天下布武の実現を阻む最大の障壁の一つと認識されていた 2 。顕如が率いる本願寺は、単なる一地方勢力ではなく、全国に広がる信仰ネットワークと巨大な経済力を背景に持つ一大勢力であった。したがって、信長と本願寺の対立は、領土や資源をめぐる争いであると同時に、新たな統一国家のあり方、すなわち世俗権力と宗教権力の関係性を問うものであった。顕如は、この歴史的転換期において、信仰共同体の指導者として、また時には政治的・軍事的指導者として、困難な舵取りを迫られたのである。
表1:顕如の生涯と本願寺関連の主要年表
年代 |
主要な出来事 |
典拠 |
1543年 |
顕如、本願寺第10世証如の長子として誕生 |
1 |
1554年 |
父・証如の死去に伴い、12歳で本願寺第11世宗主を継職 |
8 |
1557年 |
三条公頼の娘・如春尼と結婚 |
9 |
1558年 |
長男・教如が誕生 |
9 |
1570年 |
石山合戦始まる。織田信長、石山本願寺を攻撃 |
5 |
1570年-1580年 |
10年間にわたる石山合戦 |
1 |
1576年 |
第一次木津川口海戦。毛利水軍が織田水軍を破り、本願寺に兵糧を補給 |
12 |
1578年 |
第二次木津川口海戦。織田水軍が毛利水軍を破り、本願寺の海上補給路を遮断 |
12 |
1580年 |
顕如、正親町天皇の勅命講和を受け入れ、石山本願寺を退去。長男・教如は当初抵抗 |
5 |
1580年以降 |
顕如、羽柴(豊臣)秀吉と関係を構築 |
1 |
1582年 |
本能寺の変で織田信長死去。顕如、教如と和解 |
13 |
1583年 |
豊臣秀吉、顕如に大坂・天満の地を与え、本願寺再建を許可 |
6 |
1591年 |
豊臣秀吉の命により、本願寺は京都七条堀川(現在の西本願寺)に移転 |
10 |
1592年 |
顕如死去(享年50歳) |
1 |
1593年 |
顕如の妻・如春尼の働きかけと豊臣秀吉の命により、教如は宗主を退き、弟・准如が第12世宗主となる |
9 |
1602年 |
徳川家康、教如に京都烏丸六条の寺地を寄進。これが東本願寺の始まりとなる |
13 |
この年表は、本報告書で詳述する出来事の時系列的な理解を助けるものである。
顕如は天文12年(1543年)、本願寺第10世宗主である証如の長男として誕生した 1 。母は庭田重親の娘、顕能尼である 1 。幼名は光佐(こうさ)であり、顕如は後に用いられた号である 1 。
父・証如が天文23年(1554年)に死去したため、顕如はわずか12歳で本願寺第11世宗主の座を継承した 8 。若年のため、当初は祖母である鎮永尼や、実従といった教団内の有力者たちの補佐を受けながら教団を運営したと記録されている 8 。この早期の継承は、本願寺における指導者地位の世襲制と、若き指導者を支えるための教団内システムが存在したことを示している。
顕如の家族構成、特にその妻と息子たちは、後の本願寺内部の権力闘争や教団分裂において極めて重要な役割を果たすことになる。
顕如の結婚は、単なる個人的な結びつきを超えた戦略的な意味合いを持っていた。戦国時代において、婚姻は重要な外交手段であった。如春尼との結婚は、本願寺に以下の二つの大きな利点をもたらしたと考えられる。第一に、朝廷との繋がりである。これにより本願寺の社会的地位は向上し、朝廷を介した調停(例えば、後の織田信長との和睦交渉)の道が開かれた。第二に、有力大名との同盟関係の構築である。如春尼の姉が武田信玄の正室であったことから、本願寺は反信長連合の重要な一角を占める武田氏と間接的な姻戚関係を結ぶことになった 20 。これは、顕如(あるいは若年であった彼を補佐する教団幹部)が、教団の存続と影響力拡大のために、世俗の権力政治に積極的に関与する必要性を認識していたことを示唆している。本願寺は、大名家と同様の戦略的婚姻を通じて、その地位を強化しようとしていたのである。
表2:顕如に関連する主要人物とその関係
人物名 |
顕如との関係 |
織田信長 |
石山合戦における最大の敵対者。 |
豊臣秀吉 |
当初は信長の家臣として敵対したが、信長死後は本願寺に寺地を与えるなど庇護者となり、本願寺の継承問題にも介入した。 |
徳川家康 |
本願寺の内部対立を利用し、その勢力削減を図り、結果的に東西分裂を後押しした。 |
如春尼 |
妻。本願寺の政治に大きな影響力を持ち、特に准如の宗主継承に尽力。公家出身で、武田信玄とも姻戚関係にあった 1 。 |
教如 |
長男。対信長強硬派の指導者。宗主継承問題の中心人物となり、後に東本願寺を創設。 |
准如 |
三男。顕如・如春尼によって後継者に指名され、西本願寺の宗主となる。 |
武田信玄 |
対信長同盟の盟友。顕如の義理の兄(如春尼の姉が信玄の妻) 20 。 |
上杉謙信 |
対信長同盟の盟友。反信長包囲網の一翼を担う 22 。 |
毛利輝元 |
石山合戦における重要な同盟者。水軍による兵站支援などを行った 12 。 |
足利義昭 |
室町幕府最後の将軍。織田信長と対立し、反信長包囲網の形成を呼びかけ、顕如もこれに参加した 6 。 |
この表は、顕如の生涯に関わった主要な人物と、彼らが本願寺および顕如自身とどのような関係にあったかを簡潔に示し、複雑な人間関係の理解を助けるものである。
顕如が指導した時代の本願寺は、単なる宗教団体ではなく、戦国大名に匹敵するほどの強大な世俗的権力をも有していた。
浄土真宗は、阿弥陀仏への信仰と念仏による救済を説く、民衆に広く受け入れられた宗派であった 26 。本願寺はその総本山として、日本全国に末寺のネットワークと熱心な門徒(信者)を擁していた 6 。顕如の時代は本願寺の最盛期とされ 28 、寺格の最高位である「門跡」の地位も獲得している 28 。
経済的にも本願寺は豊かであった。大坂の石山本願寺は、寺院であると同時に、多くの商人や職人が集住する寺内町(じないちょう)を形成し、一大経済センターとなっていた 2 。全国の門徒からの莫大な寄進も教団の財政を潤し、これが軍事活動の資金源ともなった 2 。この経済力こそ、織田信長が本願寺を脅威と見なした大きな理由の一つであった 2 。
軍事力としては、一向一揆がその中核を担った。一向一揆は、浄土真宗の門徒たち(農民、地侍、僧侶など)によって組織された武装集団であり、信仰に基づく強固な結束力と高い戦闘能力で知られていた 2 。彼らは「進めば極楽、退けば地獄」という信仰心に支えられ、ゲリラ戦や籠城戦で無類の強さを発揮した 6 。石山本願寺自体も、天然の要害に位置し、堅固な防御施設を備えた難攻不落の要塞であった 3 。また、鉄砲などの最新兵器も多数保有していた 27 。
顕如は、父・証如の時代から進められていた一向一揆の中央集権化をさらに推し進め、教団の統制を強化した 8 。また、積極的に外交を展開し、諸大名との同盟関係を構築したり、朝廷との連携を深めたりした 8 。
顕如治下の本願寺は、明確な拠点(石山とその周辺、加賀などの実質的支配地域)、多数の忠実な門徒、経済的自立性 2 、独自の軍事力(一向一揆) 3 、そして顕如を中心とする中央集権的な指導体制 12 を備えており、その実態は国家に近いものであったと言える。それは、幕府や特定大名の直接支配を受けない自律的な存在であり、独自の「外交政策」(諸大名との同盟)を展開する地域国家であった。織田信長が本願寺の徹底的な打倒を目指した背景には 2 、単に軍事的脅威を除去するというだけでなく、中央集権的な統一国家を樹立する上で、このような強力な自律的宗教勢力の存在が根本的に相容れないものであったという認識があった。石山合戦は、二つの異なる統治モデルの衝突であったと言えるだろう。
一向一揆の熱狂的な信仰心は、顕如にとって強力な武器であった。これにより、織田信長との10年にも及ぶ戦争を戦い抜くことができた。しかし、この強固な信仰は、時として現実的な政治判断や妥協を困難にさせる要因ともなり得た。強硬派の指導者であった教如の姿勢は、その一例である。顕如の指導には、一向一揆の力を最大限に活用しつつ、時には妥協も必要となる複雑な政治状況を乗り切るための、絶妙なバランス感覚が求められた。この緊張関係が、結果的に教団内部の分裂の一因となった可能性も否定できない。
石山合戦は、天下統一を目指す織田信長と、顕如率いる本願寺勢力との間で繰り広げられた、10年にも及ぶ大規模な宗教戦争であった。
信長が京都で勢力を確立すると、本願寺に対して多額の矢銭(軍資金)を要求し(当初5千貫、顕如はこれに応じた)、さらには石山本願寺の寺地の明け渡しを迫ったことが、対立の直接的な原因となった 6 。顕如は、教団の自治と存続が脅かされると判断し、信長への抵抗を決意。「打倒信長」を掲げ、全国の門徒に蜂起を促し、反信長包囲網の一翼を担った 1 。合戦は元亀元年(1570年)に始まった 1 。
合戦の中心は石山本願寺の攻防戦であった。石山本願寺は、河川や湿地帯に囲まれた天然の要害であり、直接攻撃は困難を極めた 12 。しかし、各地の一向一揆拠点も戦場となった。特に伊勢長島の一向一揆は激しく抵抗したが、信長はこれを徹底的に殲滅(1571年~1574年)、その残虐性は顕如の後の判断に影響を与えたとされる 6 。
海上からの補給路の確保が、籠城する本願寺にとって死活問題であった。
顕如は最高指揮官として 12 、門徒を鼓舞し、同盟大名との連携を図った 5 。主な同盟者は、毛利輝元(兵站支援) 12 、武田信玄(義理の兄弟、反信長包囲網の中核) 20 、上杉謙信(反信長包囲網に参加し本願寺と和睦) 22 、そして追放された将軍・足利義昭(反信長ネットワークの形成者) 6 であった。顕如の戦略は、これらの同盟と広範な一向一揆ネットワークを活用し、信長に対して多方面戦争を強いることであった 6 。
しかし、武田信玄(1573年)や上杉謙信(1578年)といった有力な同盟者の相次ぐ死去 33 、そして第二次木津川口海戦での敗北により、本願寺の戦況は次第に悪化していった 12 。信長による長島一向一揆の徹底的な殲滅は、石山本願寺の門徒たちにも同様の運命が待ち受けているのではないかという恐怖を抱かせた 12 。このような状況下で、正親町天皇による勅命講和の動きが本格化し、近衛前久らが仲介にあたった 11 。信長自身も講和を望んでいたとされる 11 。
天正8年(1580年)、顕如はついに和睦条件を受け入れた。これは実質的な降伏であった 5 。主な条件は、信長による門徒の赦免、顕如らの石山本願寺からの退去などであった 5 。顕如は紀伊国鷺森に退去した 11 。
この和睦に対し、顕如の長男・教如を中心とする強硬派は徹底抗戦を主張して反対した 6 。教如は一時的に石山本願寺に籠城を続けたが、最終的には退去を余儀なくされた 11 。この父子の意見対立が、後の本願寺分裂の遠因となる。
石山合戦は、戦国時代の軍事技術と戦略の実験場であったとも言える。毛利水軍の焙烙火矢 12 に対抗して信長が鉄甲船を開発したこと 12 、本願寺側(特に雑賀衆)の鉄砲の集団運用が信長の戦術に影響を与えた可能性 30 など、双方が革新を迫られた。顕如の抵抗は、結果的に敵対者である信長の軍事的進歩を促した側面もあった。
また、最終的な和平が天皇の勅命によって実現したこと 11 は、戦国時代においても天皇の権威が完全に失われていなかったことを示している。信長にとって、天皇の権威による和平は自らの支配の正統性を高めるものであり、顕如にとっては、教団の全面的な壊滅を避け、ある程度の体面を保って戦争を終結させる手段であった 12 。
長島での虐殺という前例 6 を踏まえ、顕如が最終的に和睦を選択したのは、門徒と教団の存続を最優先した現実的な判断であったと言える。これは、徹底抗戦を主張する教如の姿勢とは対照的であり、指導者としての苦渋の決断であった。信長の心理戦が効果を発揮したとも解釈できる。
本能寺の変(1582年)で織田信長が横死すると、顕如は信長の後継者として台頭した羽柴(豊臣)秀吉と速やかに良好な関係を築いた 1 。石山合戦後、顕如は信長やその家臣たちとの関係改善に努めており、贈答品を交換するなど外交努力を続けていたことが、秀吉との円滑な関係構築に繋がったと考えられる 11 。
秀吉は、本願寺とその門徒が持つ経済力や技術力を認識しており、これらを自身の政策に活用しようとした。例えば、石山本願寺の跡地に大坂城を築城する際には、旧本願寺寺内町のインフラや人材が利用された 1 。
秀吉は顕如に寺地を与え、本願寺の再興を認めた。石山合戦後に紀伊鷺森に退いた後 1 、和泉貝塚、そして天正11年(1583年)頃には大坂の天満に寺基を移した 6 。最終的に天正19年(1591年)、秀吉の命により、本願寺は京都の七条堀川(現在の西本願寺の地)に移転させられた 10 。この移転は、影響力の大きな本願寺を新たな政治の中心地である京都の監視下に置くという、秀吉の深謀遠慮があったと考えられる。
顕如は晩年、秀吉の庇護のもとで教団の再建と運営に注力した 31 。しかし、長年の心労がたたったのか、健康状態は芳しくなかったと伝えられている 14 。天正20年(文禄元年、1592年)、京都移転の翌年に脳卒中で倒れ、50歳(数え年)で死去した 1 。
秀吉の本願寺に対する政策は、信長の強硬策とは異なり、懐柔と統制を組み合わせたものであった。寺領の寄進や庇護は本願寺の忠誠を確保する手段であったが、同時に寺地の移転命令や寺社に対する検地、寺内掟の施行 34 、刀狩令による武装解除 35 などは、かつて石山合戦で見せたような本願寺の自律的な政治・軍事力を削ぎ、中央集権体制に組み込むための統制策であった。顕如は、教団の存続を確保する代償として、かつての独立性を放棄し、新たな支配者のもとで活動するという現実を受け入れざるを得なかった。
本願寺を大坂(かつての権力拠点であり、戦略的な港湾都市)から京都(天皇の都であり、秀吉の政治的中心地)へ移転させたことは、極めて象徴的かつ戦略的な意味を持っていた。それは、本願寺の服従を内外に示し、秀吉の新たな都市計画(大坂城を中心とする軍事・商業拠点化) 1 の一環でもあった。本願寺はもはや独立した政治勢力ではなく、統一権力者が定めた枠組みの中で活動する一大宗教団体へと変質していったのである。
顕如の晩年から死後にかけて、本願寺内部では深刻な対立が顕在化し、これが後の東西分裂へと繋がる。
顕如と長男・教如の関係は、天正8年(1580年)の織田信長との和睦を巡る意見の相違から決定的に悪化した。教如が徹底抗戦を主張したのに対し、顕如は妻・如春尼らの支持を得て和平を選択した 6 。顕如は教如を義絶(関係断絶)し、三男・准如を後継者に指名したとされる 6 。信長死後の天正10年(1582年)に父子は和解したと伝えられるが 13 、根本的な対立構造と派閥は解消されなかった。
顕如が天正20年(1592年)に死去すると、当初は教如が秀吉の朱印状を得て第12世宗主を継職した 13 。しかし、顕如の未亡人である如春尼が、顕如が准如を後継者と定めた遺状(「留守職譲状」)があると秀吉に訴え出た 9 。如春尼の働きかけや、石田三成ら准如派の画策 13 、あるいは本願寺の統制を狙う秀吉自身の判断により、事態は急変する。
文禄2年(1593年)、秀吉は教如に隠居を命じ、わずか17歳の准如を第12世宗主とした 9 。教如は本願寺境内の一角に押し込められた。
如春尼は、石山合戦時には和平派の中心人物であり 27 、顕如死後の宗主継承問題においても、秀吉に直接働きかけるなど、極めて大きな政治力を発揮した 9 。彼女の行動は、表向きは顕如の遺志を尊重するものであったが、結果として教如と准如、およびそれぞれの支持者間の亀裂を深めた。
教如の失脚は、彼の勢力を完全に削ぐものではなかった。秀吉の死後(1598年)、天下の実権を掌握しつつあった徳川家康は、本願寺の内部対立に介入の好機を見出した。教如は家康と誼を通じ 6 、慶長7年(1602年)、家康は教如に京都の烏丸六条に寺地を寄進した 6 。教如はこの地に新たな寺院を建立し、これが東本願寺(真宗大谷派)の始まりとなった。一方、准如が率いる本願寺は西本願寺(浄土真宗本願寺派)と呼ばれるようになる。家康の狙いは、依然として強大な影響力を持つ本願寺の勢力を分裂させ、弱体化させることであったとされる 6 。
本願寺の宗主継承問題は、単なる教団内部の家族間の争いに留まらず、当時の日本を揺るがした広範な政治的駆け引きと深く結びついていた。秀吉の介入は、自身の支配下にある本願寺に御しやすい指導者を据えるという意図があったと考えられ、後の家康による教如支援は、潜在的な脅威となりうる巨大宗教組織を分裂させ、統制下に置こうとする計算高い戦略であった。顕如家の内紛は、天下人たちの政争の具とされたのである。
また、如春尼の行動は、戦国時代の女性が決して無力な存在ではなかったことを示している。顕如の未亡人として、また後継者たちの母として、彼女は特異な立場にあった。准如の擁立にかける彼女の執念は、それが顕如の遺志に基づくものであれ、彼女自身の判断であれ、あるいは政治的洞察力によるものであれ、秀吉の決断を直接的に引き出した。彼女は受動的な傍観者ではなく、当代随一の権力者の宮廷を渡り歩き、目的を達成した能動的な政治主体であった。彼女の行動は、本願寺分裂へと至る出来事の直接的な触媒となった。
顕如と教如の父子間の個人的・思想的対立は、深刻かつ永続的な結果をもたらした。それは、圧倒的な世俗権力に対して本願寺がいかに関わるべきかという根本的な見解の相違(現実主義 対 非妥協的抵抗)を象徴していた。この初期の不和は、顕如の死後もくすぶり続け、本願寺内部に派閥を生み出した。そして、この内部対立が、秀吉や家康といった外部勢力による本願寺支配・弱体化の介入を容易にした。本願寺の歴史における最も重大な出来事の一つである東西分裂は、顕如時代の未解決の緊張関係に直接その起源を遡ることができる。和平と後継者に関する顕如の決断は、短期的には教団を存続させるためのものであったかもしれないが、意図せずして長期的な分裂の種を蒔くことになったのである。
顕如の指導者としての資質は多面的に評価される。第一に、当時の最大権力者である織田信長に対し、10年間にわたり教団を率いて抵抗を続けたその粘り強さと決断力は特筆に値する 1 。第二に、諸大名との同盟締結、朝廷工作、そして後の豊臣秀吉との複雑な関係構築に見られる政治的洞察力も評価されるべきである 1 。第三に、最終的には教団と門徒の存続を優先し、大きな犠牲を払ってでも和平を選択した現実主義的判断力も指導者として重要であった 12 。第四に、本願寺の最盛期を指導し 28 、秀吉政権下で教団の再建と移転を成し遂げた行政手腕も認められる 31 。そして何よりも、門徒たちの信仰を守るための戦いを体現した宗教的指導者としての側面が強い印象を残している 31 。
顕如の活動は、日本の宗教史および政治史に大きな影響を与えた。彼の抵抗は織田信長の天下統一事業を著しく遅滞させた 11 。石山合戦は、宗教勢力が持ちうる強大な力と、中央集権化を目指す世俗権力にとってそれがどれほどの脅威となりうるかを明確に示した。そして、彼の指導下および死直後に生じた内部対立と後継者問題は、浄土真宗本願寺の歴史的な東西分裂という、今日まで続く結果を直接的にもたらした 6 。
歴史学の分野では、神田千里氏などの研究者が、激動の時代にあって教団の存続と「仏法再興の志」 33 を追求した顕如の姿を強調している。神田氏の著作『顕如 仏法再興の志を励まれ候べく候』は、史料分析を通じて顕如の生涯と、大名としての側面、石山合戦の実態などを明らかにしようと試みている 33 。学界の一般的な見解としては、顕如は強大な敵に直面しながらも、形を変えつつもその巨大教団を維持した重要な人物として評価されている。
顕如は、NHK大河ドラマ『国盗り物語』 40 や数々の小説 41 など、大衆文化の中でも描かれてきた。これらの作品は、しばしば織田信長との対立に焦点を当てている。
顕如は、本願寺の自治権の「悲劇の英雄」と見なすこともできるかもしれない。彼は本願寺最盛期に指導者の地位を継承し 29 、信長と10年間戦ったが 1 、最終的には本拠地石山を明け渡さざるを得ず 5 、彼の行動や決断が後の教団分裂の一因となった 6 。彼の生涯は信仰と門徒を守ることに捧げられたものであった 31 。顕如は、強大で自律的な宗教・政治共同体の指導者として、信長による国家統一という抗いがたい時代の潮流に立ち向かった。彼が確保したのは浄土真宗の信仰と本願寺という組織の「存続」であったが、それは独立した政治勢力としての本願寺の「敗北」を意味した。彼の物語は、戦国・安土桃山時代における強力な宗教組織と中央集権化への容赦ない動きとの衝突を示す痛切な事例である。
顕如の生涯はまた、統一されつつある日本における「宗教指導者」の定義の変化を画定するものでもある。指導者としての初期において、顕如は軍事力と政治力を振るう世俗領主でもある戦国時代の宗教指導者を体現していた 12 。石山合戦は、そのような人物による最後の主要な抵抗であった。敗北後、秀吉、そして後の徳川政権下で、本願寺の指導者の役割は変容した。精神的・社会的には依然として絶大な影響力を保持しつつも、直接的かつ自律的な政治・軍事力は抑制された。顕如は、国家権力に武力で直接挑戦した最後の偉大な宗教的人物の一人であった。彼の後継者たちは、広大な宗教組織を率いつつも、世俗権力が至上であるという枠組みの中で活動することになった。本願寺の指導者は、国家内の一大宗教団体の精神的指導者および管理者へと変化していったのである。
本願寺顕如は、大僧正、政治戦略家、軍司令官、そして強大な社会経済組織の長という、多岐にわたる顔を持つ複雑な人物であった。本願寺を最盛期に導き、織田信長に対する10年間の抵抗を指揮し、そして最終的には教団の存続と再建を成し遂げたことは、彼の主要な功績として挙げられる。
顕如が歴史に残した遺産は大きい。第一に、浄土真宗本願寺が日本の主要な宗教勢力として存続したこと。第二に、彼の時代とその直後の出来事の直接的な結果として、本願寺が西本願寺と東本願寺に恒久的に分裂したこと。第三に、彼の生涯が、日本の統一期における宗教的権威と世俗権力の関係性を考察する上で、極めて重要な事例研究となっていることである。
総じて、顕如は日本史における最も激動した時代の一つを、卓越した手腕と強靭な精神力で乗り切った、極めて重要な歴史的人物であった。圧倒的な統一勢力の前に本願寺のかつての自治権を維持することはできなかったものの、彼の指導力は教団の存続を確実にし、日本の宗教史と政治史に消えることのない足跡を残した。彼の物語は、信仰、対立、政治的駆け引き、そして信念の不朽の力についての物語であると同時に、深刻な社会変動期にしばしば伴う痛みを伴う妥協と内部分裂の物語でもある。「戦国の世にあって、武将にも劣らぬ決断力と統率力で本願寺という大教団を導き、存続させた—それが予の最大の功績であったと思う」という言葉 31 は、彼の自己評価を端的に示している。
もし顕如の究極の目標が、たとえ政治的影響力が低下したとしても、浄土真宗の信仰と本願寺という組織そのものを守り抜くことであったならば、彼は最終的に成功したと言える。彼は壊滅を避けるために石山を明け渡すという困難な決断を下し 12 、秀吉と巧みに交渉して教団の再建を確保した 1 。教団は後に分裂したが、東西両派ともに繁栄し、彼が遺した信仰と組織の根底にある強さを示している。純粋に宗教的な観点から見れば、顕如の遺産は、存亡の危機を乗り越えた巧みな指導の成果である。彼は、親鸞聖人の教えと本願寺という組織が、何百万もの人々に教えを伝え続けることを確実にした。これは、イデオロギー的な純粋さや絶望的な継続的紛争よりも、最終的な現実的選択を優先した彼の指導力の証左である。「仏法再興の志」 33 は、この意味において達成されたと言えるだろう。