杉若氏宗は豊臣秀吉に仕え紀伊田辺1.9万石を得る。関ヶ原で西軍につき改易。その後消息不明となるも、水軍として活躍した。
年代(和暦・西暦) |
出来事 |
関連人物 |
場所 |
備考・史料 |
天正13年(1585年) |
羽柴秀吉の紀州征伐。父・無心(越後守)が秀長軍に降伏し、案内役を務め、芳養泊城を攻略。 |
杉若無心、豊臣秀吉、豊臣秀長、湯河直春 |
紀伊国 |
功により、戦後紀伊田辺の領主となる。当初の居城は泊山城 1 。 |
天正18年(1590年) |
父・無心が新城として上野山城(後の田辺城)を築城、城下町の整備に着手。 |
杉若無心 |
紀伊国田辺 |
領国経営の拠点として近世城郭を整備 1 。 |
文禄年間(1592-95年) |
氏宗、家督を相続。紀伊国田辺上野山城主となり、1万9000石を領する。 |
杉若氏宗 |
紀伊国田辺 |
官位は従五位下、主殿頭 3 。 |
文禄元年(1592年) |
文禄の役に従軍。父・無心、堀内氏善らと共に水軍を率いて朝鮮へ渡海。 |
杉若氏宗、杉若無心、堀内氏善 |
朝鮮半島 |
動員兵力は650人と記録される 3 。 |
慶長2-3年(1597-98年) |
慶長の役において、加徳倭城の城番を務める。 |
杉若氏宗、桑山一晴、桑山貞晴 |
朝鮮半島 加徳倭城 |
桑山氏と共に最前線の防衛任務にあたる 3 。 |
慶長5年7月(1600年) |
関ヶ原の戦いで西軍に属し、大坂城玉造口の守備を担当。 |
杉若氏宗、石田三成、毛利輝元 |
大坂城 |
豊臣家への恩義から西軍に参加 3 。 |
慶長5年9月(1600年) |
大津城の戦いに参加。毛利元康を総大将とする攻城軍の一翼を担う。 |
杉若氏宗、毛利元康、京極高次 |
近江国 大津城 |
関ヶ原本戦の敗報を聞き、攻城軍は降伏 3 。 |
慶長5年9月下旬(1600年) |
徳川家康の命を受け、同じ西軍の堀内氏善が籠る新宮城を攻撃し、落城させる。 |
杉若氏宗、徳川家康、堀内氏善 |
紀伊国 新宮城 |
本領安堵を期待しての軍事行動 3 。 |
慶長5年10月(1600年) |
戦後処理により、紀伊一国が浅野幸長に与えられることが決定。杉若氏は改易となる。 |
杉若氏宗、徳川家康、浅野幸長 |
- |
功績は認められず、領地を全て没収される 3 。 |
慶長5年以降(1600年-) |
改易の決定を受け、氏宗は逐電。その後の消息は不明となる。 |
杉若氏宗 |
- |
歴史の表舞台から姿を消す 3 。 |
日本の歴史上、最も劇的な社会変革期の一つである戦国時代から江戸時代初期への移行期。数多の武将が、天下統一の巨大な潮流の中で、あるいは栄達し、あるいは没落していった。その中に、紀伊国田辺に拠点を置き、豊臣政権下で大名へと駆け上がりながらも、天下分け目の合戦における一つの選択によって歴史の表舞台から姿を消した一人の武将がいた。その名を杉若氏宗という。
杉若氏宗の生涯は、父・無心の代に豊臣秀吉の紀州平定に協力したことから始まる。在地勢力から巧みに中央政権へと結びつき、紀伊田辺に1万9000石の所領を得て大名へと成長。朝鮮出兵では水軍を率いて海を渡り、豊臣政権の一翼を担う武将として確固たる地位を築いた。しかし、その栄光は長くは続かない。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、彼は豊臣家への恩義から西軍に属する道を選ぶ。この決断が、彼の、そして杉若家の運命を大きく狂わせることになる。
本報告書は、この杉若氏宗という人物の生涯を、現存する断片的な史料を丹念に繋ぎ合わせることで、可能な限り詳細に描き出すことを目的とする。謎に包まれたその出自から、豊臣政権下での飛躍、関ヶ原合戦における苦渋の選択と行動、そして没落に至るまでの軌跡を多角的に分析する。氏宗の生涯を追うことは、単に一人の武将の伝記を辿るにとどまらない。それは、豊臣政権という体制の下で生まれた在地大名が、徳川家康が構築する新たな天下秩序へと移行する過程で、いかにして淘汰されていったのか、その過酷な現実を浮き彫りにする試みでもある。時代の奔流に翻弄され、歴史の闇に消えていった将の実像に、ここに光を当てたい。
杉若氏が歴史の舞台に登場するのは、天正年間、豊臣秀吉による紀州征伐の頃であるが、その出自については複数の説が存在し、明確な定説を見ていない。一方は越前の名門・朝倉氏の旧臣とする説、もう一方は紀伊の海を支配した熊野水軍の系譜に連なるという説である。これら二つの説は、一見すると矛盾するようにも思えるが、戦国乱世を生き抜くための彼らのしたたかな生存戦略を読み解く鍵を秘めている。
杉若氏の出自として比較的広く知られているのが、越前国の戦国大名・朝倉氏の家臣であったとする説である 1 。この説によれば、氏宗の父である杉若無心(越後守)は越前国の出身で、かつては朝倉家に仕えていたとされる。
この説を補強する間接的な証拠として、近江国坂本(現・滋賀県大津市)において、越前朝倉氏の家臣であった杉若盛安なる人物が寺院を再興したという伝承が残っている 8 。杉若盛安と無心の直接的な関係は不明ながらも、「杉若」という姓を持つ人物が朝倉氏の勢力圏内に存在し、活動していたことを示唆している。朝倉氏は越前において、守護の被官から戦国大名へと成長し、在地に深く根差した支配体制を築いていたことが古文書からも確認されている 9 。
天正元年(1573年)、織田信長によって朝倉義景が滅ぼされると、多くの家臣団は離散し、新たな主君を求めて各地へ流浪した。無心もその一人として、主家滅亡後に浪人となり、何らかの経緯を経て、当時飛躍的な勢いで台頭していた羽柴秀吉に仕官したという経歴は、この時代の武士の生き方として極めて自然な流れである。この「朝倉旧臣」という経歴は、単なる出自を示すだけでなく、彼が武士としての「格」を備えていたことを中央政権に示す上で、重要な意味を持っていた可能性がある。
一方で、杉若氏を紀伊の在地勢力、特に熊野水軍(海賊衆)の出身とする説も有力である 4 。この説は、杉若氏が紀伊田辺という沿岸地域を本拠地とし、文禄・慶長の役で水軍を率いて参陣したという具体的な事実に基づいている。
複数の資料において、杉若氏宗は、同じく水軍を率いて大名となった志摩の九鬼嘉隆や、紀伊新宮の堀内氏善と並べて言及されており、彼らが熊野の海に深く根差した勢力であったことを物語っている 4 。ある資料では、氏宗を「紀州の豪族」「熊野水軍を率いる」と明確に記述しており 11 、豊臣政権が彼らを大名として取り立てた背景には、その卓越した海上軍事力を高く評価したことがあると推察される。
豊臣秀吉は天下統一事業を進めるにあたり、日本各地の在地勢力を巧みに政権内に組み込んでいった。特に、瀬戸内海から熊野灘にかけての海上交通路を掌握することは、西国支配と、その先の朝鮮出兵を見据えた上で不可欠な戦略であった。杉若氏のような水軍勢力を大名として処遇することは、彼らの持つ海に関する専門知識と戦闘能力を、政権の軍事力として正式に編入することを意味した。この観点から見れば、杉若氏が熊野水軍の系譜に連なるという説は、彼らが豊臣政権下で果たした役割と密接に結びついている。
「越前朝倉氏家臣」と「熊野水軍出身」。これら二つの出自は、果たしてどちらか一方が正しく、他方が誤りなのであろうか。しかし、戦国時代という出自が流動的であり、自己の経歴を戦略的に構築することが珍しくなかった時代背景を考慮すると、これらは矛盾するものではなく、むしろ杉若氏が時代の変化に対応するために使い分けた、二つの「アイデンティティ」であったと解釈することも可能である。
一つの可能性として、父・無心の経歴が挙げられる。彼は元々、越前の武士(朝倉家臣)であったが、主家滅亡後に浪人となり、流転の末に紀伊国にたどり着いた。そこで現地の水軍勢力と結びつき、その実力と統率力によって頭領格の地位を築いたのではないか。この仮説に立てば、彼は「越前の武士」と「紀伊の水軍頭領」という二つの側面を持つことになる。
この二つの顔は、それぞれ異なる場面で戦略的な価値を発揮したと考えられる。豊臣秀吉のような中央政権に仕官する際には、「由緒ある朝倉家の旧臣」という経歴を前面に出すことで、単なる「海のならず者(海賊)」ではなく、武士としての格式を持つ人物であることをアピールし、より有利な処遇を引き出すことができたであろう。一方で、紀伊田辺という新たな領地を実効支配するにあたっては、「熊野水軍の一員」という側面を強調することで、現地の海民や在地豪族たちからの親近感や支持を得やすくなり、領国経営を円滑に進めることができたに違いない。
このように、杉若氏は中央政権に対しては「武士」としての顔を、在地に対しては「水軍」としての顔を巧みに使い分けることで、戦国末期の乱世を生き抜き、大名への道を切り開いたのではないか。彼らの謎に包まれた出自は、単なる歴史のミステリーではなく、激動の時代を生き抜くための、したたかな生存戦略の表れと捉えることができるのである。
杉若氏が歴史の表舞台で確固たる地位を築いたのは、豊臣政権の成立と拡大に深く関わっている。父・無心が時勢を読んで豊臣方に帰順したことから、その運命は大きく開ける。氏宗の代には、紀伊田辺に1万9000石を領する大名となり、豊臣政権の重要な軍事行動である朝鮮出兵にも参加し、その最盛期を迎えた。
杉若氏の躍進の原点は、天正13年(1585年)に豊臣秀吉が断行した紀州征伐に遡る。当時、紀伊国は根来衆や雑賀衆といった強力な武装勢力が割拠し、秀吉の天下統一事業における大きな障害となっていた。秀吉は弟の羽柴秀長を総大将とする大軍を派遣し、紀伊の平定に乗り出した。
この時、紀伊の在地勢力の一つであった杉若無心(越後守)は、当初、他の国人衆と共に抵抗の構えを見せていた可能性がある。しかし、彼は秀長軍の圧倒的な軍事力の前に、抵抗の無益を悟る。そして、芳養(ひはや)を拠点としていた無心は、秀長軍に降伏するという迅速かつ現実的な決断を下した 2 。
彼の決断は、単なる降伏に留まらなかった。無心は、紀伊の地理に明るい案内役として秀長軍に協力し、抵抗を続ける湯河直春が籠る芳養泊城(泊山城)の攻略に大きく貢献した 1 。この時、攻撃は苛烈を極め、地域の信仰の中心であった斗鶏神社をはじめとする社寺を焼き払ったとも伝えられており、豊臣方としての忠誠を鮮明に示す行動であった 2 。この時勢を的確に読んだ見事な転身により、無心は滅ぼされるべき敵方から一転して豊臣方の功臣へと立場を変えることに成功した。これが、杉若氏が紀伊田辺に根を張り、大名へと至る礎となったのである。
紀州征伐における功績により、父・無心は戦後、紀伊国田辺の領主として認められ、当初は攻略した泊山城を居城とした 1 。さらに天正18年(1590年)には、新たな拠点として上野山に近世城郭(後の田辺城)の築城を開始し、城下町の整備にも着手した 1 。これは、杉若氏が単なる一時的な軍事占領者ではなく、この地に恒久的な支配を確立しようとする明確な意志の表れであった。
その後、文禄年間(1592年-1595年)に、嫡男である氏宗が家督を相続する 3 。彼は父が築いた基盤を引き継ぎ、紀伊田辺上野山城主として1万9000石を領する大名となった 3 。この石高は、豊臣政権下の大名としては小規模な部類に入るものの、紀伊という戦略的に重要な地域において、水軍を擁する独立した大名として確固たる地位を築いていたことを示している。通称を伝三郎、官位は従五位下・主殿頭を名乗り 3 、名実ともに豊臣大名の一員として認められていた。
豊臣政権下の大名として、杉若氏宗は秀吉が推し進めた対外戦争、すなわち文禄・慶長の役への従軍を命じられる。水軍としての能力を期待された彼は、父・無心や、同じく熊野水軍の系譜を引く新宮城主・堀内氏善らと共に、海を渡った 3 。文禄の役における杉若氏の動員兵力は650人と記録されており 5 、その水軍力を政権のために提供した。
特に注目されるのは、慶長の役における彼の役割である。休戦期から慶長の役本戦にかけて、氏宗は朝鮮半島南岸に築かれた倭城の一つ、加徳倭城(かとくわじょう)に、桑山一晴・貞晴親子と共に城番として駐屯した 3 。加徳倭城は、日本軍の補給路を確保し、敵の攻撃に備える最前線の拠点であり、その防衛任務は極めて重要かつ過酷なものであった。
この朝鮮の地での経験は、単なる軍役以上の意味を持っていた可能性がある。敵地という極限状況の中、他家の大名である桑山氏と長期間にわたり共同で城を守るという任務は、両家の間に強い連帯感か、あるいは逆に対立関係を生じさせたかもしれない。後に桑山一晴は関ヶ原の戦いで東軍に属することになる。この加徳倭城での共同任務を通じて、氏宗と桑山氏の間にどのような関係が築かれたのか、史料は具体的に語らない。しかし、もしこの時に良好な協力関係が築かれていたとすれば、氏宗の中に東軍方への情報ルートや一定の親近感が生まれていた可能性も考えられる。逆に、関係が悪化していたならば、彼らと袂を分かつ西軍への参加を心理的に後押しした要因の一つになったかもしれない。いずれにせよ、この朝鮮での経験は、関ヶ原の戦いを前にした大名間の複雑な人間関係を形成する重要な機会であり、後の氏宗の運命の選択に、何らかの影響を与えたと見るべきであろう。
豊臣秀吉の死後、徳川家康の台頭によって豊臣政権は大きく揺らぐ。この天下の動乱は、杉若氏宗にも運命の選択を迫った。豊臣家への恩義と、自家の存続。その狭間で彼が下した決断は、結果として杉若家を没落へと導くことになる。関ヶ原の戦いにおける彼の動向と、その後の悲劇的な末路は、時代の転換期に生きた中小大名の過酷な現実を物語っている。
慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝討伐のために大坂を離れると、石田三成らが家康打倒の兵を挙げ、関ヶ原の戦いが勃発する。この時、杉若氏宗は父・無心と共に、迷うことなく西軍に与した 3 。
彼が西軍参加を決断した理由は、主に三点考えられる。第一に、最も大きな要因は豊臣家への恩義であろう。杉若氏は、父・無心の代に豊臣秀長によって見出され、秀吉によって大名に取り立てられた、まさに豊臣恩顧の大名であった。秀頼を頂点とする豊臣政権を守るために戦うことは、彼らにとって当然の選択であった。第二に、地理的な要因も大きい。彼らの領地である紀伊国は、西軍の総大将・毛利輝元が座す大坂城に近接しており、周辺の堀内氏善らも西軍に属するなど、完全に西軍の勢力圏内にあった。このような状況下で東軍に与することは、物理的にも政治的にも極めて困難であった。第三に、情報網の限界も無視できない。中央の政治情勢に関する正確な情報が、紀伊の在地中小大名である杉若氏にまで十分に届いていたかは疑問である。開戦当初の西軍の勢いや大義名分から、大勢が西軍に有利であると判断した可能性も否定できない。
西軍に属した氏宗は、同年7月、まず豊臣家の本拠地である大坂城に入り、玉造口の守備を担当した 3 。これは、西軍の中核部隊の一つとして、その緒戦から重要な役割を担っていたことを示している。
大坂城での守備任務の後、杉若氏宗は新たな戦場へと向かう。それは、近江国の大津城であった。大津城主・京極高次は、当初西軍に与する姿勢を見せていたが、突如として東軍に寝返り、手勢3,000と共に城に籠城した 14 。大津城は東海道と中山道が合流する交通の要衝であり、これを放置すれば東軍の進軍を助けることになってしまう。
西軍は、毛利元康を総大将とし、立花宗茂、長束正家らを含む1万5千の大軍を編成して大津城を包囲した 6 。杉若氏宗もこの攻城軍の一翼を担い、長等山などに布陣して城への攻撃を開始した。攻城軍は城に向けて激しい砲撃を加えるなど猛攻を続けたが、京極高次の守りも固く、戦いは数日に及んだ。
しかし、彼らが大津城に釘付けになっている間に、歴史は大きく動いていた。9月15日、美濃国関ヶ原において、東西両軍の主力部隊が激突。そして、小早川秀秋の裏切りをきっかけに西軍は総崩れとなり、戦いはわずか半日で東軍の圧倒的な勝利に終わった。この本戦における壊滅的な敗報が大津城の攻城軍にもたらされると、彼らの戦意は完全に喪失した。大将の毛利元康らは戦いを断念し、京極高次に降伏。杉若氏宗もまた、この地で武器を置くこととなった 3 。局地戦で奮闘するも、天下の趨勢を決する本戦には全く寄与できず、彼は勝敗が決した後に降伏するという、最も不利な立場で戦後処理を迎えることになったのである。
降伏した杉若氏宗であったが、彼は家名存続の道を諦めてはいなかった。彼は、勝者となった徳川家康から新たな命令を受ける。それは、同じく西軍に属し、なおも抵抗を続ける紀伊新宮城主・堀内氏善を攻撃せよ、というものであった 3 。これは、西軍に与した者同士を戦わせることで、徳川方の手を汚さずに紀伊の抵抗勢力を排除しようとする、家康の巧みな戦後処理戦術であった。
氏宗はこの命令を受け入れ、自らの軍勢を率いて新宮城へ向かった。西軍の敗将という立場から、東軍への忠誠を示すことで罪を償い、本領安堵という一縷の望みを繋ごうとしたのである。彼は新宮城を攻撃してこれを落城させ、その後も家康からの沙汰を待つべく、しばらく同地に駐屯を続けた 3 。
しかし、氏宗の期待は無残に裏切られる。家康が進める戦後処理の構想において、杉若氏の存続という選択肢は、もはや存在しなかった。家康にとって、天下平定後の最重要課題の一つは、豊臣恩顧の大名が多く、潜在的な反乱の温床となりうる西国、特に豊臣家の本拠地・大坂に隣接する紀伊国を、完全に信頼できる人物の下で掌握することであった。
その観点から見れば、杉若氏のような在地出身の中小大名は、たとえ恭順の意を示したとしても、地域の土着勢力と深く結びついており、将来的に新たな火種になりかねない危険な存在と映った。彼らの忠誠心は未知数であり、家康の目指す中央集権的な統治体制においては、むしろ整理・淘汰すべき対象であった。
家康が選んだ最適解は、浅野幸長であった。幸長は豊臣恩顧の大名でありながら、関ヶ原の戦いでは東軍として抜群の功績を挙げており、家康への忠誠心は証明済みである。彼に紀伊一国37万石余りを与えることは、論功行賞として申し分なく、かつ紀伊の安定化に最も効果的な人事であった。
結果として、紀伊一国は浅野幸長に与えられることになり、杉若氏は改易、すなわち領地を全て没収されるという最も厳しい処分を下された 3 。氏宗が本領安堵を信じて戦った新宮城攻めは、家康の冷徹な「戦後国家構想」の前では何の意味もなさなかった。彼は、新しい時代の礎となるために使い捨てられた駒だったのである。彼の悲劇は、個人的な資質や行動の問題ではなく、「功績を挙げれば許される」という戦国的な価値観と、「新たな統治体制の構築」という近世的な視点との間に生じた、埋めがたい齟齬が生んだ必然的な結果であった。
改易という非情な決定を下された杉若氏宗のその後の人生は、歴史の闇に閉ざされている。史料にはただ、彼がこれにより「逐電した」と記されているのみである 3 。これは、彼が主を失い、領地を失った浪人として、どこかへ姿をくらましたことを意味する。
関ヶ原で敗れた他の大名の中には、立花宗茂のように後に奇跡的な大名復帰を果たした者や、真田昌幸のように子・信之の功績によって家名を保った者もいた 15 。しかし、杉若氏にそのような道は開かれなかった。父・無心も生没年不詳であり 1 、親子二代にわたって築き上げた大名としての地位は、関ヶ原の戦いを境に完全に失われ、彼ら自身の消息もまた、歴史の記録から静かに消え去ったのである。
杉若氏宗の生涯は、関ヶ原の戦いを境に歴史の表舞台から姿を消すが、彼が紀伊田辺で活動した痕跡は、城跡という形で今にその面影を伝えている。彼が拠点とした城の変遷は、杉若氏の興亡そのものを象徴しているかのようである。
杉若氏が紀州征伐の功により、紀伊田辺に入封して最初に拠点としたのが、芳養の泊山城(泊城とも)であった 1 。この城は、元々この地を支配していた湯川氏の支城であり、海に突き出した丘陵に築かれた中世城郭であった 16 。杉若無心は湯川氏を滅ぼした後、この城に入ったが、ここはあくまで一時的な拠点であった。天正18年(1590年)に、より大規模で恒久的な拠点となる上野山城(田辺城)を築くと、泊山城はその役目を終えて廃城となった 12 。
かつては石垣なども残存していたと伝わるが、この泊山城跡は昭和45年(1970年)頃の開発によって丘陵ごと削り取られ、現在ではその遺構は完全に消滅してしまった 12 。杉若氏が紀伊で最初に足がかりとした拠点が、物理的に完全に失われてしまったという事実は、彼らのその後の運命を暗示しているかのようでもある。
杉若氏の領国経営の中心となったのが、父・無心が築き、氏宗が受け継いだ上野山城、すなわち後の田辺城である。この城は会津川の河口左岸に位置し、海と川を天然の堀とする、水運にも適した立地に築かれた近世城郭であった 1 。
杉若氏が改易された後、この城は紀伊一国の領主となった浅野氏の支城となり、家老の浅野知近が入った 18 。その後、元和5年(1619年)に徳川家康の十男・頼宣が紀州藩主となると、田辺城には紀州徳川家の付家老(御三家の家老の中でも特に格式の高い家臣)である安藤直次が3万8千石で入城し、以降、明治維新に至るまで安藤氏が代々城主を務めた 19 。
明治4年(1871年)の廃藩置県と共に城は払い下げられ、城郭の主要部分は破却された。城跡は市街地化が進み、錦水町(現在は上屋敷)という地名にその名残を留めるのみである 17 。しかし、かつての城の姿を今に伝える貴重な遺構が一つだけ残されている。それは、会津川に面して築かれた「水門跡」の石垣である 20 。この水門跡は、隅部の石が隙間なく精巧に積まれた「切込接(きりこみはぎ)」に近い技法と、その周囲の自然石を荒々しく積み上げた「野面積(のづらづみ)」が対照的な姿を見せており、築城技術の変遷を知る上で非常に興味深い 21 。この石垣こそが、杉若氏宗がかつてこの地を治めたことを示す、唯一の確かな物理的証拠と言えるだろう。
杉若氏宗の生涯を総括すると、それは戦国末期から江戸初期への移行期に存在した、数多くの中小大名の典型的な盛衰の軌跡を体現していると言える。彼は、父・無心の時代に時流を掴んで豊臣政権に帰順し、その功績を基盤として大名としての地位を確立した。紀伊田辺の領主として、また水軍を率いる将として、豊臣政権の一翼を担い、その最盛期を謳歌した。
しかし、時代の大きな転換点であった関ヶ原の戦いにおいて、彼は豊臣家への恩義を貫き西軍に与するという、結果的に「時流を読み誤った」選択をする。降伏後、家名存続をかけて徳川への奉公に励むも、彼の個人的な努力や武勇では抗うことのできない、徳川家康による新たな天下秩序構築という巨大な政治的力学の前に、その存在は無慈悲に淘汰された。
彼を単なる「敗者」として片付けるのは容易い。しかし、与えられた状況の中で、主家への忠義を尽くし、最後まで家の存続のために戦った一人の武将として捉え直す時、その姿は異なる様相を帯びてくる。彼の生涯は、個人の力が時代の奔流にいかに無力であるか、そして歴史がいかに勝者の視点で描かれるものであるか、その非情さを我々に教えてくれる。改易され、歴史の闇へと逐電した彼のその後の沈黙は、この時代に敗れ去っていった数多の者たちの、声なき声として、歴史の深淵に静かに響いているのである。