元亀元年(1570年)5月19日、天下布武を掲げ、急速にその勢力を拡大していた織田信長の胸元を、二発の弾丸が掠めた。歴史の表舞台に突如として現れ、そして凄惨な最期と共に消えていった狙撃手、杉谷善住坊(すぎたに ぜんじゅうぼう)。彼の名は、信長の命を脅かした数少ない人物として、戦国史に特異な光芒を放っている 1 。
しかし、その出自、動機、狙撃の技術的側面、そして3年間にわたる逃亡生活の実態は、一次史料の乏しさから多くの謎に包まれている 3 。彼は何者で、何故、そして如何にして天下人を狙ったのか。その行動は、個人の暴挙だったのか、あるいは背後に巨大な政治的意図が隠されていたのか。
本報告書は、織田信長の家臣・太田牛一によって記された信頼性の高い史料である『信長公記』を基軸としつつ、公家の日記、宣教師の記録、各地の伝承、さらには地理的・考古学的知見を統合・分析することで、この謎多き人物の生涯と、彼が生きた時代の力学を徹底的に解明することを目的とする 4 。断片的な記録の点と点を繋ぎ合わせ、歴史の闇に埋もれた一人の狙撃手の実像に迫る。
杉谷善住坊という人物を理解する上で、まず直面するのはその正体に関する複数の説である。彼は甲賀の忍者だったのか、伊勢の国人領主だったのか、あるいはまた別の出自を持つ者だったのか。ここでは各説を検証し、その実像に迫る。
杉谷善住坊の出自については、大きく分けて「甲賀忍者説」と「伊勢国人説」が対立しており、その他にもいくつかの可能性が指摘されている。
最も広く知られているのは、彼が近江国甲賀郡の出身者、すなわち「甲賀者(甲賀忍者)」であったとする説である 4 。甲賀には戦国時代、「甲賀五十三家」と呼ばれる地侍の連合体が存在し、その中に「杉谷家」の名が確認できる 9 。現在の滋賀県甲賀市甲南町には「杉谷」という地名も現存しており、善住坊はこの杉谷一族の者であった可能性が高い 9 。甲賀衆は、南近江の守護大名であった六角氏と長年にわたり密接な関係を築いていた 9 。その関係は絶対的な主従というよりも、軍事契約に基づく傭兵的な側面が強く、独立性の高い集団であった 12 。信長に本拠の観音寺城を追われた旧主・六角義賢(承禎)の依頼を受けて信長を狙撃した、という『信長公記』の記述は、この甲賀衆と六角氏の関係性を踏まえると極めて説得力を持つ 5 。
一方で、善住坊を伊勢国の国人領主とする説も存在する。三重県三重郡菰野町には「杉谷城跡」と伝わる城跡があり、これが善住坊(あるいは萩原善住坊)の居城であったとされている 6 。この地は、狙撃現場となった千草街道の伊勢側に位置しており、地理的な関連性は深い 17 。この説に立てば、善住坊は単なる一介の忍者や傭兵ではなく、自らの領地を持つ土豪であったことになる。ただし、この城の築城年や城主に関する確実な一次史料は乏しく、伝承の域を出ない点も指摘されている 6 。
その他にも、鉄砲の名手という共通点から、当時最大の鉄砲傭兵集団であった紀伊の「雑賀衆」や「根来衆」の一員であったとする説、あるいは特定の組織に属さないフリーランスの「賞金稼ぎ」や「猟師」であったとする説も存在する 4 。
これらの説は一見矛盾するように見えるが、戦国時代の流動的な社会構造を考慮すれば、複合的な人物像が浮かび上がる。甲賀衆は農業を営む地侍でありながら、契約に基づき傭兵として各地で活動する集団であった 12 。したがって、善住坊が「甲賀の杉谷出身」の人物であり、六角氏との契約に基づき「傭兵(狙撃手)」として活動したという見方が最も蓋然性が高い。その上で、伊勢方面にも何らかの拠点や縁戚関係を持っていた可能性も否定できない。彼の出自に関する諸説の多様性は、特定の身分に固定されない、個人の技能が重視された戦国時代の実像を映し出していると言えよう。
表1:杉谷善住坊の出自に関する諸説の比較
説の名称 |
主な根拠・史料 |
状況証拠・補強材料 |
弱点・反証 |
甲賀忍者説 |
甲賀五十三家に「杉谷家」が存在 10 。『信長公記』に六角氏の依頼と明記 5 。 |
甲賀衆と六角氏の長年の関係 9 。甲賀衆の傭兵的性格 12 。甲賀に伝わる鉄砲術。 |
一次史料で善住坊が甲賀出身と直接的に記したものはない。 |
伊勢国人説 |
三重県菰野町に「杉谷城跡」の伝承 6 。 |
狙撃現場・千草街道との地理的近接性 17 。 |
城主であったことを裏付ける確実な一次史料の欠如。 |
雑賀衆・根来衆説 |
鉄砲の名手という共通点 4 。石山合戦などで信長と敵対。 |
雑賀衆・根来衆は当時最高の鉄砲技術を誇る集団であった 19 。 |
善住坊がこれらの集団に属していたことを示す直接的証拠がない。 |
猟師・賞金稼ぎ説 |
鉄砲の扱いに長けている点 4 。 |
特定の組織に縛られない自由な立場を想定。 |
組織的な背景を持つ六角氏の依頼という事実とやや整合性が低い。 |
杉谷善住坊の行動を理解する上で、彼が「鉄砲の名手」であったという事実は欠かせない。『信長公記』がわざわざ「鉄炮の上手にて侯」と記していることから、その技量は当時広く知られていたと推測される 20 。
当時の火縄銃は、現代の銃器とは比較にならないほど性能に制約があった。一般的なものであれば、有効射程距離は100メートル程度、確実に命中させられるのは50メートル以内であったとされる 21 。また、火縄を用いるため雨や湿気に弱く、装填にも30秒から1分程度の時間を要した 24 。善住坊の狙撃は、こうした武器の特性を熟知した上での、周到な計画に基づいていた。
第一に、狙撃距離である。『信長公記』によれば、その距離は「十二、三間」(約21~23メートル)であった 5 。これは火縄銃の性能を考慮すれば、必殺を期した至近距離であり、標的をこの距離まで引きつける冷静さと大胆さ、そして待ち伏せ場所の巧みな選定がなければ不可能である。
第二に、使用した弾薬である。『信長公記』は「二つ玉にて打ち申し候」と記す 5 。この「二つ玉」の解釈には、銃身が二つある二連銃、二丁の銃を連続して使用した、あるいは殺傷能力や命中確率を高めるために二つの弾丸を紙や糸で連結した特殊な散弾であった、など諸説ある 27 。いずれの解釈をとるにせよ、通常の射撃とは異なる高度な技術や特殊な装備を用いていたことを示唆しており、善住坊が単なる射手ではなく、武器や弾薬に関する深い知識を持つ専門家であったことを物語っている。
彼の狙撃は、単なる一発の銃撃ではない。地形を読み、武器の限界を知り、最も効果的な戦術を選択する、まさにプロフェッショナルな「狙撃手」の仕事であった。この技術こそが、彼を歴史の舞台へと押し上げた原動力だったのである。
元亀元年(1570年)、杉谷善住坊の放った銃弾は、日本の歴史を大きく変える可能性を秘めていた。この一瞬に至る背景には、戦国乱世の複雑な力学が存在した。
事件が起こる直前の元亀元年(1570年)4月、織田信長は人生最大の危機に直面していた。越前の朝倉義景を討つべく進軍したところ、同盟者であり義弟でもあった北近江の浅井長政に突如として背後を突かれたのである。これにより信長軍は進退窮まり、朝倉・浅井両軍による挟撃の危機に陥った。この絶体絶命の窮地を、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や徳川家康らの決死の殿軍によって辛くも脱し、信長はわずかな供回りのみで京都へ逃げ帰った。これが世に言う「金ヶ崎の退き口」である 1 。
京都で態勢を立て直した信長は、本拠地である岐阜への帰還を急いだ。しかし、浅井氏が支配する北近江を通る主要街道(東山道)は使えず、南方のルートも浅井方に呼応した一揆勢によって封鎖され、危険な状態にあった 28 。信長は戦闘を避け、安全な帰国ルートを模索した結果、近江の日野城主・蒲生賢秀や甲津畑の地侍・速水勘六左衛門らの協力を得て、近江と伊勢を結ぶ険しい山道「千草街道(千種越え)」を選択せざるを得なかった 5 。普段であれば選ばれることのない、警備も手薄な裏街道。そこが、狙撃の舞台となった。
この好機を逃さなかったのが、かつて近江の覇者であった六角義賢(承禎)である。永禄11年(1568年)、信長の上洛軍によって本拠の観音寺城を追われた六角氏は、甲賀の山中などに潜伏し、信長への抵抗の機会を窺っていた 11 。信長が金ヶ崎で敗走し、孤立無援に近い状態で危険な山道を通るという情報は、六角氏にとってまさに千載一遇の好機であった。そこで、旧来より関係の深い甲賀衆の中から、鉄砲の名手である杉谷善住坊に白羽の矢を立て、信長暗殺を依頼したのである 5 。善住坊の狙撃は、個人の怨恨や腕試しなどではなく、信長の勢力拡大によって形成されつつあった「信長包囲網」という大きな政治的・軍事的文脈の中で、旧勢力・六角氏がその存亡を賭けて放った起死回生の一手であった。
元亀元年(1570年)5月19日、蒲生賢秀らの先導で千草街道を進む信長一行に、山中から二発の銃声が轟いた。
狙撃現場となった千草街道は、現在の滋賀県東近江市甲津畑から鈴鹿山脈を越えて三重県菰野町へと抜ける、当時としても険しい山道であった 17 。善住坊が身を潜めたと伝わる「かくれ岩」は、街道沿いの谷川の対岸に位置し、身を隠しながら道行く標的を狙うには絶好の場所であったとされている 5 。
この歴史的瞬間を、最も信頼性の高い史料である『信長公記』は次のように記している。
「杉谷善住坊と申す者、佐々木左京大夫承禎に憑(たの)まれ、千種山中道筋に鉄砲を相構へ、情(つれ)なく、十二、三間隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道昭覧にて、御身に少しづつ打ちかすり、鰐の口を御遁(のが)れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。」5
この記述は、実行犯が杉谷善住坊、依頼主が六角承禎であり、約20メートル余りの至近距離から二発の弾丸が発射されたものの、信長はかすり傷のみで難を逃れたことを明確に伝えている。一方、当時の公家である山科言継の日記『言継卿記』には、「鉄放4丁にて山中よりこれを撃つ」とあり、複数の狙撃者がいたかのような情報も伝わっているが、これは伝聞に基づくものであり、二連銃や二丁の銃を誤認した可能性も考えられる 5。
名手による至近距離からの狙撃がなぜ失敗に終わったのか。その要因については、いくつかの説が考えられる。第一に、『信長公記』が「天道昭覧にて」と記すように、信長の強運に帰する見方である 5 。第二に、馬上で動く標的を撃つことの技術的な難しさや、山中の湿気による火薬の不調などが考えられる。第三に、信長の供回りが咄嗟に盾になった可能性や、懐中の干し餅に弾が当たって助かったという有名な伝承もある 4 。そして第四に、戦国の常として信長が影武者を使っていた可能性も完全に否定することはできないが、これを裏付ける直接的な史料はない 35 。
おそらく、失敗の要因は単一のものではなく、これらの要素が複合的に作用した結果であろう。善住坊の計画と技術は完璧に近かったが、僅かな弾道のずれ、信長の咄嗟の動き、あるいは何らかの偶発的要素が重なり、歴史を揺るがすはずだった弾丸は、天下人の袖をかすめるにとどまったのである。
信長暗殺に失敗した杉谷善住坊であったが、その後の彼の運命は、信長の執念と戦国時代の非情さを象徴するものとなった。
狙撃現場から巧みに姿を消した善住坊は、すぐには捕縛されなかった 1 。しかし、命を狙われた信長の怒りは凄まじく、犯人である善住坊を捕らえるため、徹底的な捜索網が敷かれた 1 。これにより、善住坊は実に3年にも及ぶ長い逃亡生活を余儀なくされる。
この3年間、彼がどのようにして信長の執拗な追跡を逃れ続けたのか、その具体的な足取りを示す記録は存在しない。しかし、彼が甲賀衆の一員であったとすれば、その広範なネットワークや、山中での潜伏術を駆使したことは想像に難くない。また、依頼主であった六角氏の残党や、当時信長と激しく対立していた石山本願寺などの反信長勢力が彼を匿っていた可能性も十分に考えられる。
長く続いた逃亡生活は、天正元年(1573年)9月、突如として終わりを迎える。善住坊は、近江国高島郡堀川村(現在の滋賀県高島市新旭町)にあった阿弥陀寺に潜伏していたところを、ついに捕らえられた 26 。この阿弥陀寺の故地には、今も善住坊にまつわる伝承が残されている 38 。
そして、この捕縛劇の主役となったのは、意外な人物であった。元浅井氏の家臣で、「浅井四翼」の一人に数えられた猛将・磯野員昌である 28 。員昌は姉川の戦いで織田軍を大いに苦しめたが、居城の佐和山城が敵中に孤立したため、元亀2年(1571年)に信長に降伏。その後は信長の家臣として、善住坊が潜んでいた高島郡の所領を与えられていた 39 。
降将である員昌にとって、織田家臣団の中で生き残るためには、自らの武勇と忠誠心を具体的に示す必要があった。信長が長年追い求めていた宿敵・善住坊を捕らえることは、彼にとってこの上ない手柄であり、信長の信頼を勝ち取るための絶好の機会であった 40 。旧主・浅井氏の宿敵であった信長に仕え、その信長を狙った男を捕らえるという皮肉な巡り合わせは、主家を変えながら乱世を生き抜こうとする戦国武将の厳しい現実を物語っている。
磯野員昌によって捕らえられた善住坊は、信長の本拠地である岐阜へと送られた。そこで菅屋長頼、祝重正らによる尋問を受けた後、彼を待っていたのは戦国時代においても最も残虐とされる極刑であった 4 。
その処刑方法は「鋸挽き(のこぎりびき)」と呼ばれた。道端に首から下を生き埋めにし、その首を、通りかかる人々に竹製の鋸で少しずつ引かせて絶命に至らしめるという、想像を絶するものであった 28 。この刑は、主君殺しや親殺しといった、当時の社会秩序を根底から揺るがす大罪人にのみ科される見せしめのための刑罰であった 44 。信長がこの刑罰を選択した背景には、天下人である自身への反逆がいかに重い罪であるかを世に知らしめ、他の反抗勢力を恐怖によって抑え込もうとする、冷徹な政治的意図があったことは明らかである 43 。
興味深いことに、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』にも、この出来事を彷彿とさせる記述が存在する。そこには、名前こそ記されていないものの、「ある仏僧が立ったまま生き埋めにされ小さなノコギリで首を切断された」とあり、その理由として「書状でもってある1つの城を信長に敵対させようとしていた」と述べられている 4 。
もしフロイスが記す「仏僧」が善住坊と同一人物であるならば、彼は3年間の逃亡期間中、単に身を隠していただけでなく、反信長勢力の密使として、各地の国人を織田方から離反させるための政治工作に従事していた可能性が浮上する。そうなれば、信長にとって善住坊は、単なる暗殺未遂犯にとどまらず、自らの支配体制を内側から切り崩そうとする危険な「政治犯」であったことになる。鋸挽きという極刑は、単なる報復を超え、信長政権に対するあらゆる反逆の芽を摘むための、恐怖による支配の象徴的行為だったのである。
杉谷善住坊の生涯は、彼個人の物語であると同時に、戦国時代という時代の価値観や戦術、そして後世の歴史認識を映し出す鏡でもある。
戦国時代の武士の理想像は、戦場で正々堂々と名乗りを上げて戦い、武功を立てて「誉れ」を得ることにあった。しかし、それはあくまで理想であり、現実の戦場では、勝利のためにはいかなる手段も厭わないという冷徹な合理主義が支配していた。謀略、奇襲、そして要人暗殺もまた、兵力で劣る側が強大な敵を打ち破るための有効な戦術として認識されていた 9 。
特に、杉谷善住坊の出自とされる甲賀衆や、鉄砲技術で名を馳せた雑賀衆は、特定の主君に絶対的な忠誠を誓う封建的家臣団とは異なり、契約に基づいて軍事力を提供する傭兵集団としての性格が強かった 12 。彼らにとって、依頼主の命令を遂行することは契約に基づく「義」であり、それが暗殺という任務であっても、職務の一環として遂行されたと考えられる。善住坊の行動は、後世の武士道が説く倫理観とは異なる、戦国乱世のプロフェッショナルとしての論理に基づいていた可能性が高い。彼の狙撃は、旧来の価値観を持つ勢力が、新しい時代の覇者に対して、その最も得意とする手段(鉄砲)で一矢報いようとした試みでもあった。
杉谷善住坊による狙撃は、信長がその生涯で経験した数々の暗殺未遂事件の中でも、火縄銃を用いた計画的な狙撃として記録に残る最初期の事例であり、特筆に値する 47 。この事件の特異性から、善住坊は時に「日本史上初のスナイパー」と称されることもある 47 。
史実における記録が少ない一方で、その劇的な生涯は後世の創作者たちの想像力を大いに刺激した。江戸時代の講談や歌舞伎では、主に信長の強運や神格性を引き立てるための敵役として、やや類型的に描かれることが多かった 49 。
しかし、近代以降の小説や映像作品では、彼に人間的な深みが与えられるようになる。南原幹雄の小説『信長を撃(はじ)いた男』では、追われる者としての苦悩や人間性が描かれ、読者の共感を呼んだ 50 。特に大きな影響を与えたのが、1978年に放送されたNHK大河ドラマ『黄金の日日』である。この作品で善住坊(演:川谷拓三)は、主人公である堺の商人・呂宋助左衛門の親友として描かれた。お人好しながらも時代の波に翻弄され、信長狙撃という大役に駆り出され、最後は鋸挽きの刑で凄惨な死を遂げる。その悲劇的な人物像と衝撃的な最期は、多くの視聴者の記憶に深く刻み込まれた 51 。
このように、杉谷善住坊の物語は、史実の断片的な記述を核としながらも、時代ごとの価値観を反映して様々に変容し、語り継がれてきた。彼は、旧体制の義理に生きた最後の抵抗者として、あるいは巨大な権力に立ち向かった一人の専門家として、今なお我々の関心を引きつけてやまないのである。
杉谷善住坊。その出自は甲賀の地侍か、あるいは伊勢の国人か、今なお確たる証拠はない。しかし、彼が卓越した鉄砲技術を持つプロフェッショナルな狙撃手であったことは、疑いようのない事実である。
彼の織田信長狙撃は、単なる個人の凶行ではなく、信長によって本拠を追われた旧守護大名・六角氏が、その再興を賭けて仕掛けた組織的な軍事行動であった。それは、浅井・朝倉の離反によって形成された「信長包囲網」という、より大きな政治的文脈の中に位置づけられるべき事件である。
狙撃そのものは、信長の強運か、あるいは僅かな技術的要因によって失敗に終わった。しかし、この一発の銃弾は、天下人・信長をあと一歩のところまで追い詰め、鉄砲という新兵器が個人の手によって歴史を動かしうる強大な力を持つことを天下に示した。そして、その後の3年にわたる執拗な追跡と、鋸挽きという前代未聞の残虐な処刑は、信長の徹底した合理主義と、自らに歯向かう者を決して許さないという苛烈な性格を、後世にまで鮮烈に印象付けた。
杉谷善住坊は、歴史の表舞台にいた時間はあまりにも短い。だが、その行動は、滅びゆく旧勢力の最後の抵抗と、台頭する新しい時代の激しい胎動が交錯した、戦国乱世のダイナミズムを雄弁に物語っている。確たる史料の乏しさが、かえって我々の想像力を掻き立てる。歴史の闇に消えた一人の狙撃手は、これからも多くの問いを我々に投げかけ続けるだろう。