最終更新日 2025-06-25

杉重矩

「杉重矩」の画像

大内氏滅亡の枢軸:杉重矩の生涯と実像

序章:矛盾を宿した男 ― 杉重矩とは何者か

戦国時代の西国に君臨した大内氏。その栄華が頂点に達し、そして音を立てて崩れ落ちる激動の時代に、一人の武将が歴史の枢軸として存在した。その名は杉重矩(すぎ しげのり)。彼は、大内氏譜代の重臣にして豊前守護代という要職を担いながら、主君・大内義隆を死に追いやる謀反に加担し、その直後には共闘したはずの同志・陶晴賢(すえ はるかた)によって滅ぼされるという、矛盾に満ちた生涯を送った人物である。

彼の行動は、単なる裏切りや権力闘争として一面的に語られることが多い。しかし、その実像は、戦国大名家臣団の内部に渦巻く複雑な力学、派閥の論理、そして一族の存亡を賭けた個人の冷徹な政治的判断の連続であった。本報告書は、杉重矩という人物の生涯を、出自からその最期、そして彼の死がもたらした歴史的影響に至るまで徹底的に分析し、その多面的な実像を明らかにすることを目的とする。

本報告書の構成は以下の通りである。第一部では、大内家臣としての彼の地位と、彼を取り巻く政治環境を詳述する。第二部では、大内氏滅亡の直接的契機となった「大寧寺の変」における彼の役割、そして同盟の破綻と非業の最期を追う。第三部では、彼の死が引き起こした復讐の連鎖と大内氏の最終的な崩壊過程を解明し、その歴史的評価を再検討する。これにより、「忠臣」と「叛臣」という二つの顔を持つに至った彼の行動原理を、時代の文脈の中に深く位置づけていく。

第一部:大内氏の重臣として

第一章:杉氏の出自と豊前守護代

大内氏譜代の臣、杉氏

杉氏は、陶氏、内藤氏と並び称される大内氏の宿老であり、その一族は「八本杉」と形容されるほどに分家が多く、複雑な血縁関係を構築していた 1 。彼らは周防国を本拠とする大内氏の譜代家臣として、豊前国(現在の福岡県東部から大分県北部)の守護代職を世襲したことで知られるが、それ以外にも長門国、和泉国、筑前国などの守護代に任じられるなど、大内氏の広大な領国経営と軍事行動において中核的な役割を担っていた 1 。この強力な家臣団の一員であるという事実は、杉重矩の政治的地位と行動原理を理解する上で不可欠な背景となる。杉氏は、大内氏の権力構造に深く根を張り、主家の浮沈と運命を共にする存在であった。

杉重矩の登場と経歴

杉重矩の確実な史料上の初見は、享禄3年(1530年)10月14日付の防府天満宮の棟札に記された「杉七郎重信」の名である 5 。彼の父は豊前守護代を務めた杉重祐(しげすけ)あるいは杉重清(しげきよ)とされ、重矩もその家督を継承し、豊前守護代の地位に就いた 5 。彼はその生涯において、「重信(しげのぶ)」から「重矩(しげのり)」へ、そして最晩年の天文22年(1553年)には「重将(しげまさ)」へと、少なくとも二度の改名を行っている 5

彼の家臣団内での地位は高く、天文7年(1538年)12月には朝廷より従五位下伯耆守に叙任されている 5 。これは、彼が大内氏の重臣として公にも認められた存在であったことを示している。

豊前守護代としての活動

豊前国は、九州の雄・大友氏と国境を接する、大内氏にとって地政学的に極めて重要な最前線であった。守護代としてこの地に赴任した重矩は、大友氏や、同じく九州北部に勢力を持つ少弐氏との間で繰り広げられる熾烈な覇権争いの渦中に身を置くこととなった 5 。彼の軍事指揮官として、また統治者としての能力は、この緊張状態が続く最前線での厳しい経験を通じて磨かれていったと考えられる。彼の存在は、大内氏の対九州政策における重要な駒であった。


表1:杉重矩 関連年表

西暦(和暦)

出来事

杉重矩の動向・役職

関連人物

典拠

1530年(享禄3年)

防府天満宮棟札に名が見える

史料上の初見。「杉七郎重信」と記載。

-

5

1538年(天文7年)

叙位・任官

12月、従五位下伯耆守に叙任される。

大内義隆

5

1539年(天文8年)

改名

「重信」から「重矩」へ改名。

-

5

1543年(天文12年)

第一次月山富田城の戦い

大内軍が尼子氏に大敗。義隆の養嗣子・晴持が死亡。

大内義隆, 陶隆房

8

1548年(天文17年)頃

陶隆房との対立

隆房に謀反の疑いありと義隆に進言したとされる。

大内義隆, 陶隆房

10

1550年(天文19年)

相良武任との対立激化

陶隆房ら武断派が文治派の相良武任の暗殺を計画。

陶隆房, 相良武任

12

1551年(天文20年)

大寧寺の変

8月、陶隆房の謀反に同調し、主君・大内義隆を自害に追い込む。

大内義隆, 陶隆房, 内藤興盛

4

1552年(天文21年)

陶隆房との再対立

大友晴英(大内義長)の擁立を巡り、隆房と対立。

陶隆房, 大内義長

2

1553年(天文22年)

自害

1月、陶隆房に攻められ、長門国厚狭郡長光寺にて自害。直前に「重将」と改名。

陶晴賢(隆房)

5


第二章:大内家中の力学 ― 武断派と文治派の確執

挫折と変節:主君・大内義隆の変化

大内氏の運命を大きく揺るがした転換点は、天文12年(1543年)に訪れた。当主・大内義隆が総力を挙げて敢行した出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)は、尼子氏の頑強な抵抗の前に惨憺たる大敗に終わり、さらに悪いことに、義隆が後継者として期待していた養嗣子・大内晴持が敗走の途中で不慮の溺死を遂げるという悲劇に見舞われた 8 。この二重の衝撃は義隆の精神を深く蝕み、彼は軍事や領国経営への情熱を急速に失っていった。その代わりに、京都から招いた公家たちとの交流や、和歌、茶の湯といった文治的な活動に深く傾倒していく 8 。この主君の劇的な変化が、大内家中の権力構造に深刻な亀裂を生じさせ、後の破局へと繋がる遠因となったのである。

武断派と文治派の形成

義隆の文治主義への傾倒は、新たな側近グループの台頭を促した。その筆頭が、吏僚としての才覚に長けた相良武任(さがら たけとう)である。彼に代表される「文治派」は、義隆の寵愛を背景に内政の実権を掌握し、租税徴収などを通じて大内氏の権力中央集権化を図った 8 。これは、これまで各地で軍事と統治を担ってきた守護代たちの権力を抑制する動きでもあった 8

これに対し、長年にわたり軍事を担い、大内氏の武威を支えてきた譜代の重臣たちは、自らの影響力が削がれていくことに強い危機感を抱いた。周防守護代の陶隆房(後の晴賢)や豊前守護代の杉重矩ら、歴戦の将たちは「武断派」として結束し、義隆の寵臣である文治派と激しく対立するようになった 11 。家中の対立は、単なる政策論争の域を超え、両派閥の存亡をかけた権力闘争の様相を呈していった。

犬猿の仲:陶隆房との関係

杉重矩と陶隆房は、共に武断派の中心人物でありながら、その仲は「犬猿の仲」であったと伝えられている 1 。この複雑な関係こそが、後の大内家の悲劇を理解する鍵となる。史料によれば、天文18年(1549年)頃、重矩は陶隆房に謀反の心ありと主君・義隆に讒言したとされる 11 。しかし、義隆が文治派の相良武任を介して真相を問いたださせると、重矩は自らの立場が危うくなることを恐れたのか、態度を豹変させた。彼は、隆房と対立していたはずの重臣・青景隆著(あおかげ たかあき)と手を組み、隆房のもとを訪れると「一連の騒動は、相良武任が主君に讒言したのが原因である」と告げたという 11

この二枚舌とも取れる重矩の行動は、単なる個人の裏切りや気まぐれとして片付けるべきではない。それは、より大きな視点から見れば、彼の冷徹な現実主義と派閥の論理に基づいた行動であった可能性が高い。当初の讒言は、武断派内部における陶隆房の突出した影響力への牽制、あるいは主導権争いの一環であったと考えられる。しかし、文治派・相良武任の権勢が日増しに強まり、武断派全体の存立そのものが脅かされるという、より大きな脅威が目前に迫ると、内輪の対立は二の次となった。重矩は、個人的な遺恨を一時棚上げにし、武断派の筆頭である陶隆房と手を組んで共通の敵である文治派を排除するという、極めて政治的な判断を下したのである。彼の行動は、「忠誠」や「信義」といった倫理観よりも、「敵の敵は味方」という派閥の論理によって一貫していたと解釈できる。


表2:大寧寺の変 前夜における主要人物関係図

人物名

派閥/立場

主要な関係性

典拠

大内義隆

当主

文治派を重用し、武断派と疎遠になる。

8

陶隆房(晴賢)

武断派(筆頭)

周防守護代。文治派の相良武任と激しく対立。杉重矩とは個人的に不和。

11

杉重矩

武断派

豊前守護代。陶隆房とは不和だが、共通の敵である相良武任を排除するため連携。

5

内藤興盛

武断派

長門守護代。陶隆房に同調し、謀反に加担。

8

相良武任

文治派(筆頭)

義隆の寵臣。武断派から命を狙われる。

8

冷泉隆豊

義隆親近派

義隆に忠誠を尽くし、陶らの危険性を進言するも聞き入れられず、最後まで義隆に殉じる。

8

杉興運

義隆親近派

筑前守護代。杉氏の一族だが重矩とは一線を画し、義隆側につく。変後、陶晴賢に討たれる。

4

(注:線で結ばれた関係は、赤破線が「対立」、青実線が「協力・同調」を示すと仮定した場合の図示が可能である。本表ではテキストで関係性を記述する)

第二部:大寧寺の変と最期

第三章:謀反への加担 ― 宿敵との一時的共闘

大寧寺の変の勃発

天文20年(1551年)8月28日、陶隆房はついに挙兵し、1万ともいわれる軍勢を率いて大内氏の本拠地・山口に侵攻した 4 。主君・大内義隆の周囲には2,000から3,000の兵しかおらず、しかもその多くは戦意を喪失し逃亡したため、防戦は不可能であった 4 。義隆は側近らと共に山口を脱出し、海路での九州亡命を図るも、悪天候に阻まれる。万策尽きた義隆は、長門国深川(現在の長門市)にある大寧寺へと入り、9月1日、辞世の句を残して自害した 4 。西国に三十余年にわたり君臨した名門大内氏は、家臣の謀反によって事実上崩壊したのである。

重矩の動機分析

杉重矩は、この未曾有のクーデターに、長門守護代の内藤興盛と共に加担している 8 。彼が宿敵であったはずの陶隆房と手を組み、主君を弑逆するという大逆に至った動機は、複合的なものであった。第一に、そして最も直接的な理由は、文治派・相良武任への積年の憎悪と、彼らを排除して武断派として家中の主導権を奪還することにあった 5 。武任らの台頭は、守護代としての自らの権益と存在意義を脅かすものであり、これを排除することは、彼にとって自己保存のための必然的な選択であった。

しかし、彼の動機は単なる権力闘争に留まらない。主君・義隆自身への深い失望と不満もまた、彼を謀反へと駆り立てた重要な要因であった。後世の編纂物である『武者物語』には、若き日の義隆の守役を重矩が務めたという逸話が残されている。それによれば、幼い義隆が銭(ぜに)で遊びたがった際、重矩は「主君となるべき方が、銭のような汚らわしい物を見るのは恐れ多い」と述べ、黄金の笄(こうがい)で銭を突き刺し、笄もろとも汚物の中に投げ捨ててみせたという 5 。この逸話の真偽はともかく、それは重矩が義隆に抱いていた理想の君主像、すなわち富や文弱に溺れず、質実剛健を旨とする「武家の棟梁」としての姿を象徴している。

この観点から見ると、重矩の謀反加担は、権力闘争という側面だけでなく、かつて自らが教育したはずの主君が、自身の理想から大きく逸脱してしまったことへの、いわば「教育者」としての深い絶望感と、それを力ずくで「矯正」しようとする歪んだ忠誠心の発露であった可能性が浮かび上がる。成長した義隆が文治に傾倒し、相良武任のような文治派を重用する姿は、重矩の価値観からすれば、主君がかつて自らが戒めた「汚らわしい物」に心を奪われた堕落に他ならなかった。この理想と現実の絶望的な乖離が、「このままでは大内家が滅びる」という危機感と結びつき、彼を「主君を討つ」という大逆へと向かわせた。彼の中では、この謀反は「道を誤った主君を排除し、大内家を本来あるべき姿に戻す」という、ねじれた形での「奉公」として正当化されていたのかもしれない。

第四章:同盟の破綻と長門での自害

傀儡の擁立と再対立

大寧寺の変によって大内義隆を排除した陶隆房(この頃、晴賢と改名)は、新たな大内家当主として、豊後の大友義鎮(宗麟)の異母弟である大友晴英(後の大内義長)を迎え入れることを画策した 4 。これは、大友氏との連携を強化し、新体制を安定させるための政治的判断であった。しかし、この方針を巡って、杉重矩と陶晴賢の間に再び深刻な対立が生じたとされる 2 。権力分担を巡る意見の相違か、あるいは大友氏という強力な外部勢力の介入に対する重矩の警戒心か、目的達成のために結ばれた両者の束の間の同盟は、急速に崩壊へと向かった。

決定打「相良武任申状」

両者の対立を決定的なものとしたのは、陶晴賢が、殺害した相良武任の遺品の中から「相良武任申状」と呼ばれる書状を入手したことであった 5 。この書状には、武任が自らの潔白を訴えると共に、「陶隆房と内藤興盛に謀反の企てあり。そして、彼らとの対立の責任は杉重矩にある」と、かつて重矩が隆房を讒言した事実が記されていたと伝えられる 12 。これを知った晴賢は激怒し、重矩討伐を断行する。

敗走と最期

天文22年(1553年)1月、陶晴賢の攻撃を受けた重矩は敗れ、自らの所領である長門国厚狭郡万倉(現在の宇部市)の長光寺(史料によっては長興寺とも)に追い詰められた 1 。もはやこれまでと悟った重矩は、ここで自害して果てた。彼の首は山口に送られ、晴賢によって「義隆公の霊に捧げる」として晒し首にされたという 2

この一連の出来事は、単なる私怨の清算や権力闘争の結果と見るだけでは本質を見誤る。陶晴賢による杉重矩の討伐と、その首を旧主・義隆の霊前に晒すという行為は、極めて計算された政治的パフォーマンスであった。晴賢は主君殺しという最大の汚名を背負っており、その正当性は常に揺らいでいた。このままでは、他の家臣や外部勢力から「逆臣」として攻撃される口実を与えかねない。

そこで彼は、強力な同盟者でありながら潜在的なライバルでもあった杉重矩を「真の讒言者」「主君を惑わせた元凶」として断罪し、討伐する必要があった。「相良武任申状」は、そのための絶好の口実となった。これにより晴賢は、「自分は重矩に騙されていた被害者であり、今や主君の無念を晴らす忠臣である」という新たな物語を構築することができた。重矩の首を義隆の霊前に捧げるという行為は、この演出のクライマックスであり、自らの謀反を「義隆のための復讐」へと昇華させ、新政権の正当性を内外に宣言するための政治的儀式だったのである。杉重矩の死は、陶晴賢が自らの権力を合理化し、確立するための最後の生贄であった。

第三部:死後の影響と歴史的評価

第五章:復讐の連鎖と大内氏の崩壊

子の復讐:杉重輔による陶長房討伐

父・重矩が非業の死を遂げたことは、その子・杉重輔(しげすけ)に陶晴賢に対する消えることのない遺恨を残した 22 。彼は報復の機会を虎視眈々と狙っていた。そして天文24年(1555年)10月、陶晴賢が厳島の戦いで毛利元就に討たれるという千載一遇の好機が訪れる。重輔はこの機を逃さず、ただちに手勢を率いて挙兵。晴賢の居城であった周防富田若山城(現在の山口県周南市)を急襲し、留守を守っていた晴賢の嫡男・陶長房(ながふさ)を攻め滅ぼし、ついに父の仇を討ったのである 1

共倒れ:内藤隆世による重輔討伐

しかし、この復讐劇はさらなる悲劇の連鎖を生んだ。重輔の行動は、陶長房の母方の叔父にあたる長門守護代・内藤隆世ら、陶派の重臣たちの激しい怒りを買った 23 。隆世はただちに重輔討伐の兵を挙げ、主君である大内義長の仲裁も空しく、両者は山口の市街で全面対決に突入。市中は炎上し、大内氏の本拠地は焦土と化した 22 。激しい戦闘の末、弘治3年(1557年)3月、重輔は防府にて内藤軍に討ち取られた 1 。これにより、大内氏を支えてきた二大重臣家である杉氏の宗家と陶氏は、互いを滅ぼし合う形で共倒れとなった。

漁夫の利:毛利元就の防長経略

大内家臣団内部で繰り広げられたこの致命的な内紛は、隣国で好機を窺っていた安芸の毛利元就にとって、またとない「漁夫の利」をもたらした。家中の主だった武将を内ゲバで失い、統制能力を完全に喪失した大内領国に対し、元就は満を持して周防・長門への本格的な侵攻(防長経略)を開始する 22 。もはや抵抗する力を持たない大内義長は追い詰められ、同年4月、長門長福寺にて自害。ここに西国に栄華を誇った名門大内氏は、完全に滅亡した。

杉重矩個人の死は、単なる一武将の最期ではなかった。それは、大内家臣団の内部崩壊を決定づける引き金となったのである。大寧寺の変が、大内氏の「頭脳」である義隆を失わせた事件だとすれば、重矩の死から始まった復讐の連鎖は、その「両腕」とも言うべき杉・陶という二大重臣家を自己破壊へと導いた。この内部抗争 1 は、大内氏の軍事力を内側から食い潰し、毛利元就という外部の脅威に対処する能力を完全に麻痺させた。杉重矩の死は、個人的な悲劇(ミクロ)が、家臣団の分裂、そして大名家の滅亡(マクロ)へと直結するドミノの、最初の牌だったのである。彼の存在と死がなければ、大内氏の滅亡は、たとえ避けられなかったとしても、全く違った形になっていた可能性が高い。

第六章:杉重矩の遺産と子孫

生き残った一族

杉重矩が率いた杉氏の宗家は、復讐の連鎖の果てに悲劇的な結末を迎えたが、「八本杉」と称された杉一族の全てが滅び去ったわけではなかった。例えば、庶家であった杉元相(もとすけ、初名は隆相)は、毛利氏が周防に進出するといち早くこれに帰順し、その功績によって所領を安堵された 1 。彼は毛利隆元から「元」の字を賜り、以後毛利家臣として家名を存続させることに成功した。

一方、重矩の直系の孫、すなわち重輔の子である重良(しげよし、幼名・松千代)は、父の死後、毛利元就によって家督相続を許され、一時は毛利氏に仕えた 1 。しかし、後に彼は毛利氏に叛いて大友氏に通じたため、天正7年(1579年)に討伐され、豊前蓑島で自害している 25 。このように、杉一族は宗家と庶家、あるいは個人単位で分裂し、それぞれが激動の時代を生き抜くための苦渋の選択を迫られたのである。

後世の評価

史料において、杉重矩はしばしば「義隆に(陶晴賢の)ことを讒言しておきながら、いざとなると晴賢に寝返った悪人」といった否定的な文脈で描かれることがある 5 。これは、大寧寺の変を正当化しようとした陶晴賢、そして最終的に防長二国を手中に収めた毛利氏という、歴史の勝者の視点が強く反映された評価と言えるだろう。彼の行動の背後にあったであろう、武断派としての立場、主家の変質に対する危機感、そして一族の存続をかけた政治的判断といった複雑な動機は、結果としての「裏切り」という単純な言葉の前にかき消されがちである。本報告書で試みたように、彼を一方的な悪人と断じるのではなく、時代の論理の中で必死に活路を見出そうとした、矛盾と悲劇を宿した政治的人物として捉え直す視点が不可欠である。

総括:杉重矩 ― 西国史を動かした悲劇の枢軸

杉重矩の生涯は、大内家の栄光と衰退、そして滅亡という、西国史の一大転換期の全過程と軌を一にしている。彼は豊前守護代として大内氏の武威を支える忠臣であると同時に、家中の激しい政争に深く関与し、最終的には主君殺しという大逆の一翼を担った。しかし、その権力闘争の果てに得たものは束の間の勝利に過ぎず、直後には自らもまた闘争の渦に呑まれて非業の最期を遂げ、その死はさらなる復讐の連鎖と大内家臣団の自壊を招いた。

彼を単なる忠臣、あるいは冷酷な叛臣という単純な二元論で評価することは、その本質を見誤らせる。彼は、主家の変質と文治派の台頭に強い危機感を抱き、自らの一族と所属する派閥の存続のために、時に権謀術数を弄し、時に宿敵と手を結ぶという、戦国乱世の現実を生き抜こうとした極めて政治的な武将であった。彼の行動は、現代的な倫理観から見れば裏切りと映るかもしれないが、家と派閥の存亡をかけた、当時の論理における合理的な選択の連続であったと評価できる。

歴史における彼の役割は、意図せずして巨大な歯車を回した「悲劇の枢軸」であった。彼の陶晴賢との対立と協調、そして彼の死が引き金となった家臣団の崩壊は、結果的に毛利元就の台頭を決定的に助け、中国地方の勢力図を根底から塗り替えるという、彼自身も予期しなかったであろう巨大な歴史的変動をもたらした。杉重矩の生涯は、一人の有力家臣の動向が、いかにして大名家全体の運命を左右し、新たな時代の到来を促すかを示す、戦国時代の力学を象徴する典型的な事例として、後世に多くの教訓を残している。

引用文献

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  19. 第13話 大寧寺の変(後) 当主義隆の栄光 - 龍造寺家の御家騒動(浜村心(はまむらしん)) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16816927859143119156/episodes/16816927861281870328
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