杉隆泰
戦国武将の杉隆泰は、大内氏重臣。主家の内紛で陶晴賢に加担後、毛利氏の侵攻と隣人の讒言により鞍掛山城で討死。享年31。その悲劇は千人塚や鞍掛城まつりとして今も地域に刻まれる。
周防鞍掛山の悲将、杉隆泰の生涯 ― 大内家臣団の動揺と毛利氏の台頭の中で
序章:乱世に翻弄された大内家臣
16世紀中盤、日本の西国に最大版図を築き、栄華を極めた守護大名がいた。周防国山口を本拠とし、周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の六カ国守護職を兼ね、日明貿易の利権を独占した大内氏である 1 。その当主、大内義隆の下で「大内文化」は爛熟の極みに達し、山口は「西の京」と称されるほどの繁栄を誇った 2 。しかし、その巨大な権力構造は、盤石ではなかった。義隆政権末期には家臣団の内部対立が深刻化し、隣国・安芸から台頭する毛利氏の影が、その栄華に暗い影を落とし始めていた。
本報告書の主題である杉隆泰(すぎ たかやす)は、まさにこの時代の大きな転換点に生きた、一人の武将である。彼は西国最強と謳われた大内氏の譜代重臣の一族に生まれながら、主家を揺るがす謀叛に加担し、最終的には新たな時代の覇者となった毛利氏の侵攻によって、その短い生涯を閉じることとなる。
彼の生涯は、主家の衰退、家臣団の分裂、そして新興勢力による侵攻という、戦国時代中期の地方領主が直面した典型的な苦悩と悲劇を映し出す鏡である。杉隆泰の選択と運命を丹念に追うことは、単なる一個人の伝記に留まらない。それは、杉隆泰というプリズムを通して、巨大守護大名・大内氏が滅亡へと至る内部の力学と、周防国における支配構造の劇的な変質を、より深く解き明かすための試みである。本稿では、現存する史料を基に、彼の生涯を徹底的に検証し、その歴史的意義を考察する。
第一章:大内氏の柱石 ― 杉一族の系譜と地位
杉隆泰の生涯を理解するためには、まず彼が属した杉一族が、大内氏の支配体制の中でいかに重要な位置を占めていたかを知る必要がある。杉氏は単なる一地方の家臣ではなく、大内氏の権力を支える中枢的な存在であった。
1-1. 大内家臣団における杉氏の威勢
杉氏は、陶氏・内藤氏と並んで大内氏の三家老に列せられることもある、譜代の重臣であった 4 。その一族は「八本杉」と称されるほど多くの分家を有し、大内氏の広大な領国の各所で、主君の代理として軍事・行政を司る守護代の職を世襲していた 4 。特に豊前国(現在の福岡県東部から大分県北部)では、杉氏が百数十年にわたって守護代職を保持し、現地の武士層を自らの家臣として組織化することで、主家である大内氏を支え、時にはその意向を左右するほどの強大な軍事力を形成するに至っていた 8 。
しかし、この「八本杉」という呼称が示すように、杉氏は一枚岩の組織ではなかった。豊前守護代家、筑前守護代家、そして杉隆泰が属する周防玖珂郡の鞍掛杉氏など、各分家はそれぞれに領地と権益を持ち、独立した勢力としての側面も有していた 4 。彼らは大内氏という共通の主家を頂く一族連合であり、その行動原理は、必ずしも一族全体の統一された意志に基づくものではなかった。各分家は、それぞれの置かれた状況と利害に基づき、時には連携し、時には独自に行動した。大内氏の権威が揺らぎ始める動乱期において、この一族内部の複雑な構造が、彼らの多様な、そして時には矛盾した行動を理解する上で極めて重要な鍵となる。
1-2. 鞍掛杉氏の出自と杉隆泰
杉隆泰の家系である鞍掛杉氏は、応永6年(1399年)、室町幕府と大内氏から周防国玖珂郡(現在の山口県岩国市周辺)を拝領したことに始まるとされる 12 。この地は、大内氏の本拠地である山口の東方を固め、安芸国との国境を扼する戦略的要衝であった。
隆泰の父は杉興頼(おきより)といい、後に出家して宗珊(そうさん)と号した 12 。隆泰自身は、当時の武士の慣習に従い、主君である大内義隆から諱の一字(偏諱)を賜り、「隆泰」と名乗った 12 。これは、彼が大内氏の家臣団秩序に正式に組み込まれていたことを示すものである。天文19年(1550年)7月19日には従五位下に叙され、治部大丞(じぶのたいじょう)の官途名を得ている 10 。
彼は周防国玖珂郡の鞍掛山城を居城とし、三万石の所領を有したと伝えられる国人領主であった 13 。その統治形態は、平時には主君のいる山口へ出仕して大内氏全体の統治業務に従事し、自らの所領である玖珂郡の日常的な支配は、影響下にある在地領主たちに委任するというものであった 12 。
この事実は、杉隆泰が二つの側面を持つ存在であったことを示唆している。一つは、主君から官位と偏諱を与えられ、中央に出仕する「大内家臣」としての顔。もう一つは、先祖代々の土地に根を下ろし、自らの城と家臣団を持つ「在地領主(国人)」としての顔である。主家への忠誠と、自領と一族の保全という、時に相反する二つの要請の狭間で、彼は戦国乱世の荒波の中、難しい決断を迫られていくことになる。
第二章:主家への叛旗 ― 大寧寺の変と隆泰の決断
大内義隆の治世後期、その栄華の裏で、家臣団の亀裂は修復不可能なレベルにまで深まっていた。この内部崩壊が、杉隆泰の運命を大きく左右する最初の転換点、すなわち「大寧寺の変」を引き起こすことになる。
2-1. 大内義隆政権の末期症状:文治派と武断派の対立
天文11年(1542年)、大内義隆は宿敵・尼子氏を討つべく出雲国へ大軍を率いて遠征するも、国人衆の離反に遭い大敗を喫した。この月山富田城の戦いで、義隆が寵愛していた養嗣子・大内晴持を失ったことは、彼の心に深い傷を残した 1 。この敗戦を契機に、義隆は軍事や領土拡大への関心を急速に失い、京都から招いた公家たちとの交流や、和歌、連歌といった文治的な活動に傾倒していく。
この義隆の変化に伴い、大内家の政務は、能筆家で行政手腕に優れた相良武任(さがらたけとう)ら「文治派」と呼ばれる側近たちが主導するようになった 19 。彼らの政策は、日明貿易などで得た莫大な富を背景に、合理的で安定した統治を目指すものであったかもしれない 1 。しかし、この動きは、これまで武功によってその地位を築き、恩賞として所領を得てきた「武断派」の家臣たちの強い反発を招いた。
武断派の筆頭は、大内家随一の重臣である陶隆房(後の晴賢)であった。彼や、同じく重臣の内藤興盛、そして杉氏の宗家格である杉重矩(しげのり)らは、相良武任を主君を惑わす「奸臣」とみなし、その対立は日増しに激化していった 4 。この対立は、単なる家臣間の個人的な感情のもつれや権力闘争ではなかった。それは、軍事行動と恩賞によって成り立つ伝統的な武士の価値観と、文治的・官僚的な統治を目指す新たな政治路線の間の、構造的な衝突であった。義隆の文治主義への傾倒は、武断派の家臣たちにとって、自らの存在意義そのものを揺るがし、既得権益を脅かすものと映ったのである。陶晴賢の謀叛は、個人的な野心や憎悪に加え、大内家の「国のかたち」を巡る路線対立が爆発した、体制維持のためのクーデターという側面を色濃く持っていた。
2-2. 隆泰の加担と、杉一族内の温度差
天文20年(1551年)8月、ついに陶晴賢は山口で兵を挙げ、主君・大内義隆を討つべく進軍を開始した。この「大寧寺の変」において、杉隆泰は陶方に味方したことが記録されている 16 。ただし、史料には彼の具体的な役割として「鞍掛在城」とだけ記されており 26 、山口での戦闘に直接参加したわけではなく、自らの居城である鞍掛山城にあって陶方に呼応したことを示している。
ここで注目すべきは、同じ杉一族内での対応の違いである。豊前守護代であった杉重矩は、陶晴賢と犬猿の仲でありながら、最終的には晴賢に同心して主君・義隆を討っている 4 。しかし、変の後、重矩は再び晴賢と対立し、逆に晴賢によって攻め滅ぼされてしまった 4 。この時の遺恨は、重矩の子・重輔に引き継がれ、後の大内家中のさらなる混乱の火種となる 15 。
一方で、筑前守護代であった杉興運(おきゆき)は、最後まで主君・義隆に忠誠を尽くし、陶軍と戦って討死している 11 。これらに対し、杉隆泰の系統は、晴賢が新たに当主として擁立した大内義長(大友宗麟の弟)のもとで、引き続き家臣として仕えており 16 、杉一族が monolithic な一枚岩ではなく、それぞれの立場と思惑で動いていたことが明確にわかる。
杉隆泰の謀叛加担は、杉重矩のような大内氏中枢における高度な政治的駆け引きとは一線を画すものであったと考えられる。玖珂郡という周防東端の国人領主である彼にとって、最も優先すべきは自領と一族の安泰であった。陶晴賢が内藤氏ら他の重臣の支持も得て蜂起した時点で、軍事バランスはもはや圧倒的に陶方に傾いていた。この状況で、遠い山口の主君に殉じることは、自らの滅亡を意味する。したがって、隆泰の選択は、イデオロギーへの深い共感というよりは、巨大な権力の奔流に逆らわず、新たな権力構造の中で生き残りを図るという、戦国時代の地方領主として極めて現実的かつ合理的な判断であったと推察される。
第三章:防長経略の序章 ― 鞍掛合戦の悲劇
大寧寺の変の後、陶晴賢の傀儡である大内義長政権が成立し、杉隆泰はひとまずその体制下で生き残ることに成功した。しかし、その平穏は長くは続かなかった。安芸国から、新たな時代の嵐が吹き荒れようとしていた。
3-1. 新たな嵐の到来:厳島の戦いと毛利氏の侵攻
弘治元年(1555年)10月1日、安芸国の戦国大名・毛利元就は、厳島の戦いにおいて、油断していた陶晴賢の本隊を奇襲し、これを壊滅させた 28 。大内軍の主力を率いていた晴賢の死は、大内氏にとって致命的な打撃となった。
この好機を逃さず、元就は間髪入れずに周防・長門両国の完全制圧を目指す「防長経略」を開始する 31 。安芸国との国境に位置する杉隆泰の鞍掛山城は、毛利軍にとって、周防侵攻の最初の障害物として立ちはだかることになった 13 。この時、隆泰を取り巻く人間関係は、彼の運命を決定づける複雑な様相を呈していた。
人物名 |
所属・役職 |
拠点 |
毛利氏への対応 |
備考 |
杉 隆泰 |
大内氏家臣 |
周防国 鞍掛山城 |
当初降伏、後に敵対 |
椙杜隆康の讒言により討伐対象となる。 |
杉 宗珊 |
隆泰の父 |
周防国 鞍掛山城 |
隆泰と運命を共にする |
法名は宗珊。 |
椙杜 隆康 |
大内氏家臣 |
周防国 蓮華山城 |
早期に降伏・協力 |
隆泰とはかねてより不和。鞍掛山城攻めの先導役を務める。 |
大内 義長 |
大内氏当主 |
周防国 山口 |
敵対 |
陶晴賢死後、大内家の統率に苦慮。 |
毛利 元就 |
毛利氏当主 |
安芸国 吉田郡山城 |
防長経略の主導者 |
厳島の戦いに勝利し、大内領侵攻を開始。 |
小方 隆忠 |
大内氏家臣 |
周防国 祖生領 |
早期に降伏・協力 |
鞍掛合戦に参加し、隆泰を討ち取ったとされる。 |
表1:鞍掛合戦における主要人物と所属勢力(弘治元年/1555年頃) 1
この表が示すように、鞍掛合戦は単なる「毛利 対 大内」という単純な構図ではなかった。それは、大内家臣団内部の亀裂と、それに乗じた毛利氏の巧みな調略が絡み合った、地域の覇権を巡る最終戦争の序章であった。特に、同じ主君に仕えるはずの隣接領主、杉隆泰と椙杜隆康が全く対照的な道を選んだことは、大内氏支配体制の末期的な崩壊を象エンブレムしている。
3-2. 隣人との宿縁:椙杜隆康の裏切り
杉隆泰の鞍掛山城のすぐ北には、同じく大内家臣である椙杜隆康(すぎのもりたかやす)が居城とする蓮華山城が聳えていた 32 。両者は、かねてより不仲であったと伝えられている 29 。
この根深い対立の背景には、大内氏の支配力が及ばなくなった周防東部における、国人領主間の生存を賭けた熾烈な競争があったと考えられる。周防国玖珂郡は、大内氏の本拠地・山口から距離があり、在地国人の自立性が比較的高い地域であった 40 。杉氏と椙杜氏は、大内氏の被官であると同時に、地域の覇権を争うライバルでもあったのである 36 。
陶晴賢の死によって、彼らを抑えていた大内氏という「重し」が事実上消滅した。これは、地域の秩序がリセットされることを意味した。この権力の空白地帯に、毛利元就という新たな強大な外部勢力が侵入してきたのである。この状況下で、椙杜隆康は機敏に動いた。彼は毛利軍が侵攻してくると、いち早く降伏してその軍門に下り、協力を申し出た 31 。
一方の杉隆泰も、当初は毛利氏に降伏の意を示したとされる 17 。しかし、ここで隣人・椙杜隆康が動く。彼は元就に対し、「隆泰の降伏は偽りであり、密かに山口の大内義長に内通して救援を求めている」と讒言したのである 15 。江戸時代の軍記物である『陰徳太平記』には、隆康が隆泰の密使を捕らえ、その書状を証拠として元就に突きつけたという、より具体的な逸話が記されている 34 。この椙杜隆康の行動は、単なる個人的な憎悪からではなく、地域の勢力図を自らに有利に塗り替えるための、冷徹で戦略的な判断であった。長年のライバルである杉隆泰を、新支配者・毛利元就の手で排除することは、自らの領地の安堵と拡大を図る上で、またとない好機だったのである。
3-3. 鞍掛城、落つ:壮絶なる攻防戦
椙杜隆康の讒言を受け入れた元就は、杉隆泰の討伐を決定した。毛利軍の兵力は7,000とも8,000ともいわれる大軍であったのに対し、隆泰が父・宗珊と共に鞍掛山城に籠城させた兵力は、1,300から2,600程度と、圧倒的な差があった 13 。
戦いの火蓋は切られた。当初、毛利軍は城の正面にあたる野口から攻め寄せたが、杉軍はこれをよく防ぎ、撃退することに成功する 32 。攻めあぐねた毛利軍は、山口方面へ進軍するかのように見せかけて、一旦兵を退いた。隆泰もこれが元就の計略であることを見抜いていたとされる 32 。
しかし、元就の策は隆泰の想像を上回っていた。毛利軍の本隊は、この地の地理に詳しい椙杜隆康の案内で、城の背後にあたる防御の薄い搦手(からめて)へと大きく回り込んでいたのである。そして弘治元年10月27日(一説には11月14日)の未明、毛利軍は奇襲を敢行した 31 。
不意を突かれた城内はたちまち大混乱に陥った。奮戦の中、まず父・宗珊が討死。隆泰も自ら槍を振るって敵中に討ち入り、獅子奮迅の働きを見せたが、多勢に無勢であった。毛利方に降っていた小方隆忠(元康)の手によって、ついに討ち取られた 12 。享年31。その若すぎる生涯であった 12 。城は炎に包まれて落城し、現在でもこの戦いの際に焼けた米が出土することがあるという 31 。
第四章:後世への継承 ― 隆泰の遺族と記憶
鞍掛山城の落城と杉隆泰父子の死は、鞍掛杉氏の滅亡を意味した。しかし、その血と記憶は、形を変えて後世へと継承されていくことになる。
4-1. 遺された者たち:嫡男・杉鎮頼の流転
鞍掛城が炎に包まれた時、隆泰の嫡男であった専千代丸(せんちよまる)は、母と共に山口の屋敷にいたため、幸いにも難を逃れることができた 32 。
主家も本拠地も失った専千代丸は、豊後国(現在の大分県)へと逃亡する。彼が頼ったのは、豊後の戦国大名・大友義鎮(後の宗麟)であった。義鎮は、隆泰が仕えた最後の主君・大内義長の実の兄であり、その縁故を頼ったのである 1 。この事実は、主家を失った武士が新たな仕官先を求める際に、血縁や地縁といった「縁」がいかに重要であったかを示している。
義鎮に庇護された専千代丸は元服し、義鎮から「鎮」の一字を拝領して「杉鎮頼(しげより、または「ちんらい」)」と名乗り、大友氏の家臣として仕えることになった 12 。彼のその後の人生は、武士として生きる道を選んだ者の宿命を辿る。天正6年(1578年)、大友氏と島津氏が九州の覇権を賭けて激突した日向国・耳川の戦いにおいて、鎮頼は島津軍と戦い、討死した 12 。
父の仇である毛利氏と敵対する大友氏に身を寄せ、その家臣として戦場で命を落とした杉鎮頼の生涯は、大内氏滅亡後の旧臣たちが経験した流浪の人生と、新たな主君の下で武士としての本分を全うしようとした生き様を象徴している。
4-2. 地域に刻まれた記憶
杉隆泰の悲劇的な最期は、単なる歴史上の一事件として忘れ去られることはなかった。それは、彼が命を賭して守ろうとした土地に、深く、そして鮮やかに刻み込まれることになる。
鞍掛山城の麓には、この合戦で討死した1,300余名の将兵を弔うための「千人塚」が築かれ、現在も「鞍掛戦死者之碑」として大切に守られている 17 。隆泰と父・宗珊の墓も、かつて城の麓にあった祥雲寺の跡地にひっそりと佇んでいる 12 。
さらに驚くべきことに、この450年以上前の合戦は、現代の地域文化として生き続けている。地元である山口県岩国市玖珂町では、毎年11月になると、杉隆泰とその家臣たちを偲び、鎧武者たちが出陣の様子を再現する「鞍掛合戦出陣絵巻」をメインイベントとした「鞍掛城まつり」が盛大に開催されている 48 。
この物語が広く知られるようになった背景には、この地(旧玖珂郡)の出身である国民的作家・宇野千代の存在も大きい。彼女は自らの随筆の中で、自身の祖先が鞍掛合戦で戦死した杉隆泰の家臣であったと記している 50 。千人塚の傍らには、彼女が寄せた直筆の追悼句碑が建てられており、訪れる人々に歴史の悲哀を伝えている 29 。
これらの事実は、杉隆泰の物語が、単なる敗戦の記録から、「隣人の裏切りによって、圧倒的な大軍を相手に最後まで抵抗し、悲劇的な最期を遂げた郷土の英雄」という、人々の共感を呼ぶ物語へと昇華されたことを示している。杉隆泰と鞍掛合戦は、歴史書の中の出来事であると同時に、地域の歴史と文化を象徴する「生きた物語」として、現代にまで継承されているのである。
終章:杉隆泰という武将が映し出すもの
杉隆泰の生涯は、激動の戦国時代を生きた一人の地方領主の縮図であった。西国随一の名門・大内氏の譜代重臣として生まれ、主家の内紛であるクーデターに加担して新体制下での生き残りを図るも、それも束の間、より強大な新興勢力・毛利氏の侵攻と、積年のライバルであった同僚の裏切りによって、志半ばでその命を絶たれた。
彼の行動は、戦国時代の国人領主が直面した普遍的なジレンマを体現している。すなわち、巨大な権力構造が転換する時代において、旧来の秩序への忠誠、新たな覇者への順応、そして何よりも自らの領地と一族の保全という、三つの相克する要求にいかにして応えるかという、極めて困難な問題である。大寧寺の変における彼の選択は、時勢に従う現実的な判断であったが、その後の毛利氏への対応においては、隣人の讒言という不運も重なり、結果として最も悲劇的な結末を迎えることになった。
彼の死は、彼個人の資質や判断の誤りというよりも、大内氏という巨大な地域国家が内側から崩壊し、毛利氏という新たな秩序が形成される過程で、必然的に生じた構造的な犠牲であったと結論づけられる。
戦国史は、しばしば天下統一を果たした英雄たちの華々しい成功譚によって語られる。しかし、杉隆泰の物語は、その輝かしい歴史の陰で、無数の地方領主たちが経験したであろう苦悩、葛藤、そして滅亡の、生々しい一断面を我々に示してくれる。彼の辞世の句と伝えられる歌が残っている。
「見よかくてくらかけの野にくちぬとも、和(なご)ある世をば祈りてやまん」 29
(この身が鞍掛の野で朽ち果てようとも、平和な世が来ることを祈り続けるであろう)
この歌が真に彼の作であるかは定かではない。しかし、戦乱の中で命を落とした一人の武将が、自らが奪われた平和な世界を希求したというこの物語は、450年以上の時を超えて、今なお我々の胸を打つのである。
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