最終更新日 2025-07-20

村上吉充

戦国期芸予の海将、村上吉充の生涯と因島村上氏の興亡

序章:瀬戸内の覇者、村上水軍と因島村上氏

日本の戦国時代、陸上の群雄が天下の覇を競う一方で、西日本の大動脈である瀬戸内海には、独自の秩序を築き、時には天下の趨勢をも左右する力を持った海上勢力が存在した。その筆頭が、能島・来島・因島の三家からなる村上水軍である。彼らは、現代の我々が想起するような単なる略奪者、すなわち「パイレーツ」とはその本質を大きく異にする存在であった。芸予諸島の複雑な潮流と無数の島々が織りなす海の難所を熟知し、その卓越した操船技術をもって水路の安全を保障する「海の領主」だったのである。彼らは航行する船舶から通行料(帆別銭)を徴収し、水先案内人を務め、海上警固を請け負うことで、瀬戸内海の交易と流通の秩序を維持し、莫大な富と権勢を築いた。

この三島村上氏の中でも、本州・備後国に最も近い因島を本拠としたのが因島村上氏である。彼らは当初、伊予の有力大名である河野氏の影響下にあったが、次第に備後守護の山名氏、そして戦国中期には中国地方に覇を唱え始めた毛利氏との関係を深めていく。特に、毛利元就の三男・小早川隆景が小早川家の水軍力を掌握すると、因島村上氏はその中核を担う存在として、歴史の表舞台へと躍り出ることになる。

本報告の中心人物である村上吉充(むらかみ よしみつ)は、この因島村上氏の第六代当主であり、一族の最盛期を現出した稀代の海将である。彼の生涯は、毛利氏の中国統一戦、織田信長との存亡を賭けた死闘、そして豊臣秀吉による天下統一とそれに伴う「海賊停止令」という、戦国時代から近世へと移行する時代の大きなうねりと軌を一にする。吉充の選択と行動は、一個人の武将の物語にとどまらず、独立した海上勢力であった「村上海賊」が、いかにして中央の統一権力の下に再編され、その姿を変えていったかを物語る貴重な証言でもある。本報告では、現存する史料を丹念に読み解き、村上吉充の生涯を多角的に検証することで、戦国という時代の海に生きた武将の実像に迫るものである。

第一章:村上吉充の出自と人物像

生没年と系譜

村上吉充の正確な生没年については、残念ながら現存する史料からは特定することができない。これは、水軍衆の記録が個人の生涯よりも「家」としての活動を主眼に置く傾向があること、また後述する関ヶ原の戦い以降の混乱の中で記録が散逸した可能性などが考えられる。

しかし、その系譜は比較的明らかになっている。彼は因島村上氏の第六代当主であり、父は第五代当主の村上尚吉であった。兄弟には村上吉忠、村上亮康がいたことが記録されている。因島村上氏は、14世紀末から15世紀初頭にかけて因島に進出した伊予由来の海賊衆を源流とし、代々この地を拠点として勢力を拡大してきた一族である。

家督相続と家族構成

吉充は父・尚吉の跡を継いで家督を相続した。彼の正室は、毛利氏の重臣であり、小早川隆景配下で水軍を率いた乃美宗勝の妹であった。乃美宗勝は毛利水軍の中核を担う人物であり、この婚姻は単なる個人的な結びつきではなく、因島村上氏が毛利・小早川勢力と軍事的・政治的に不可分の関係を築く上で決定的な意味を持つ政略結婚であった。これにより、吉充は毛利家臣団の中枢と直接的な姻戚関係を結び、その後の活動における強力な後ろ盾を得ることになった。

吉充には実子がいなかったとされ、家の存続のために養子を迎えている。初めは弟・村上亮康の子である景隆を養子としたが、この景隆は早世してしまう。そのため、吉充は景隆の弟にあたる村上吉亮を改めて養子として迎え、後継者とした。この吉亮は、後に小早川隆景から元服祝いとして「白紫緋糸段縅腹巻」を贈られており、吉充と毛利・小早川氏との良好な関係が次世代にも引き継がれていたことが窺える。

人物像と官位

吉充の通称は又三郎と伝わる。彼が公的な場で用いた官位は「新蔵人(しんくろうど)」であった。この官位は、弘治三年(1557年)、すなわち厳島の戦いで毛利氏を勝利に導いた功績が認められた後、小早川隆景が吉充のために朝廷へ推挙することを約束した書状が現存している 1 。これは、吉充の地位が単なる一地方の海賊衆の頭領にとどまらず、毛利氏という巨大な権力の庇護のもとで、朝廷からも認められた公的な権威を持っていたことを示している。

彼の具体的な人物像を伝える直接的な史料は少ない。和田竜の歴史小説『村上海賊の娘』では、豪放磊落な能島の村上武吉らとの対比から、物腰の柔らかい理知的な人物として描かれているが、これはあくまで創作上の設定である。しかし、毛利氏との関係を一貫して重視し、巧みな政治力で一族を最盛期に導いた軌跡は、彼が単なる武勇一辺倒の将ではなく、大局を見据えることのできる優れた戦略家であったことを示唆している。因島水軍城に現存する彼の肖像画は、その面影を今に伝える唯一の手がかりであり、全国的にも類例のない貴重な文化財である。

第二章:毛利氏への臣従と躍進

因島村上氏が戦国期の瀬戸内海においてその勢力を最大限に高めた背景には、村上吉充の指導のもと、中国地方の覇者・毛利氏との連携を深めるという明確な戦略があった。独立志向の強かった能島村上氏とは対照的に、吉充は有力な陸上勢力と強固な主従関係を結び、その軍事組織に組み込まれることで自家の安定と発展を図る道を選んだのである。

毛利氏との関係深化の契機

因島村上氏と毛利氏との関係が決定的なものとなったのは、天文二十三年(1554年)頃、毛利元就の三男・小早川隆景から、因島の対岸に位置する向島の一円支配を認められたことに始まる。この約束は、翌弘治元年(1555年)の厳島の戦いを目前に控えた卯月十日付の小早川隆景書状によって、より具体的に保証された。この書状には、毛利方への「同心」(味方すること)を条件として、「向島一円之事」を与えることが明記されており、神仏に誓って違約しないとまで記されている。これは、毛利氏が目前に迫った大戦を前に、因島村上氏の持つ卓越した海上戦力をいかに渇望していたか、そしてその協力を得るために具体的な領地という恩賞を惜しまなかったことを示す一級史料である。

厳島の戦い(弘治元年、1555年)における貢献

天文二十四年(日本暦では弘治元年)、毛利元就が生涯最大の賭けとも言われる厳島の戦いを起こした際、村上水軍の動向が戦の帰趨を決する鍵であった。当時、毛利氏が直接動かせる水軍は小早川水軍などを合わせても100艘余りであり、陶晴賢が率いる大内水軍に対抗するには、瀬戸内海に君臨する村上水軍の協力が不可欠だったのである 2

この時、三島村上の中でも早くから毛利氏への加担を明確にしていたのが、吉充率いる因島村上氏であった。吉充は小早川隆景が指揮する水軍部隊の中核として参戦し、嵐の夜に紛れて厳島へ奇襲部隊を輸送する作戦に従事した。そして、毛利本隊が陸上から陶軍本陣を強襲するのと呼応し、海上から陶軍の船団を攻撃し、その退路を完全に遮断した。この水陸からの挟撃によって陶軍は壊滅し、総大将の陶晴賢は自刃に追い込まれた。この歴史的な勝利は、毛利氏が中国地方の覇者となる礎を築いただけでなく、毛利方水軍の主力として決定的な貢献を果たした因島村上氏と村上吉充の名を、戦国史に深く刻み込むこととなった。

防長経略と九州での活動

厳島の戦いの後、毛利氏は勢いに乗って大内氏の領国であった周防・長門への侵攻(防長経略)を開始する。この戦役においても、村上吉充率いる因島村上水軍は毛利軍の一翼を担い、特に関門海峡の海上封鎖において重要な役割を果たした。これにより、九州からの大内方への援軍や補給を断ち、毛利氏による防長平定に大きく貢献した。

その後も吉充は、毛利氏の主要な軍事行動に水軍を率いて参加し続けた。北九州の覇権をめぐる大友宗麟との戦いでは、豊前蓑島の合戦などに参加し、その水軍としての実力を遺憾なく発揮した。これらの度重なる戦功を通じて、因島村上氏は毛利氏の軍事戦略に不可欠な存在として、その地位を確固たるものにしていったのである。

第三章:織田信長との対決 ― 木津川口の戦い

毛利氏の勢力圏が東へ拡大するにつれ、天下統一を目指す織田信長との衝突は避けられないものとなった。両者の対立が先鋭化したのが、信長による石山本願寺攻め(石山合戦)である。浄土真宗の一大拠点である石山本願寺は、信長に対して10年にも及ぶ徹底抗戦を続けたが、その抵抗を背後で支えたのが毛利氏であった。そして、毛利氏による本願寺への兵糧・弾薬の補給作戦において、村上吉充率いる因島村上水軍は主役として歴史的な海戦を演じることとなる。

第一次木津川口の戦い(天正四年、1576年)― 焙烙火矢の猛威

天正四年、信長軍による海上封鎖で窮地に陥った石山本願寺を救援するため、毛利輝元は大規模な水軍の派遣を決定した。この毛利水軍の主力こそ、村上吉充や能島の村上武吉らが率いる村上水軍であった。彼らは800艘ともいわれる大船団を組織し、摂津国木津川口(現在の大阪湾)で待ち構える織田水軍に決戦を挑んだ。

この海戦で村上水軍がその真価を発揮したのが、得意の「焙烙火矢(ほうろくひや)」戦法であった。焙烙火矢とは、素焼きの土器に火薬や油を詰めた一種の焼夷弾であり、これを敵船に投げ込むことで火災を発生させる兵器である。村上水軍は、海の難所で培われた巧みな操船技術で織田方の大型船に素早く接近し、焙烙火矢を次々と投擲した 3 。木造船である織田水軍の艦船は格好の標的となり、たちまち炎上、壊滅的な打撃を受けた。

この戦いは村上水軍の圧勝に終わり、石山本願寺への兵糧搬入という戦略目的を完全に達成した。永禄十一年(1568年)の信長上洛以来、敵の包囲網が外部からの武力によって強行突破された初めての事例であり、信長に強烈な衝撃を与えた戦いとして知られる 3 。村上吉充と村上水軍の名は、この勝利によって天下に轟いた。

第二次木津川口の戦い(天正六年、1578年)― 鉄甲船の衝撃

第一次木津川口の戦いでの屈辱的な敗北に、信長は即座に次の一手を打った。彼は配下の九鬼嘉隆に命じ、従来の海戦の常識を覆す新兵器の開発に着手させた。それが、船体を鉄板で覆い、大砲や多数の鉄砲を装備した巨大船「鉄甲船」である。これは、焙烙火矢による火攻めを完全に無力化することを目的とした、まさに「浮かぶ要塞」であった 4

天正六年、再び本願寺への補給を試みた毛利・村上水軍は、木津川口でこの鉄甲船6艘を中核とする織田水軍と対峙した。毛利水軍は前回同様、焙烙火矢を駆使して攻撃を仕掛けたが、鉄甲船には全く通用しなかった。火矢は鉄板に弾かれ、燃え移ることはなく、逆に鉄甲船に搭載された大砲や鉄砲からの猛烈な集中砲火を浴びることになる 4

戦いの結果は明白であった。伝統的な海賊戦法は、圧倒的な防御力と火力の前に完全に封じ込められ、毛利水軍は多数の船を失うという惨敗を喫した。この第二次木津川口の戦いの敗北は、毛利氏による海上からの補給路を完全に断絶させ、長期にわたった石山合戦の終結を決定づける一因となった。この二度の海戦は、村上水軍の戦術の栄光と限界、そして戦国時代の海戦における技術革新の劇的な転換点を象徴する出来事であった。

第四章:因島村上氏の統治と経済基盤

村上吉充は、卓越した海将であると同時に、因島を中心とする支配領域を治める優れた統治者でもあった。彼の時代の因島村上氏は、戦略的に配置された城郭群と、制度化された経済活動によって支えられた、さながら「海上王国」の様相を呈していた。彼らの活動は、陸上の封建領主が土地と農民を支配したのと同様に、海と航路を支配することで成り立っていたのである。

本拠地(城郭)の変遷と支配体制

村上吉充の統治下で、因島村上氏の本拠地は戦略的重要性に応じて変遷を遂げた。一族の初期の拠点であったとされる因島南部の長崎城 から、弘治元年(1555年)に毛利氏より向島を与えられると、その経営拠点として向島南部の余崎城へ本拠を移した。しかし、吉充の在城は長くはなく、永禄十年(1567年)には再び因島へ戻り、瀬戸内海交通の要衝である尾道水道の西口を扼する青木城を新たな本拠とした。さらに、因島中央部の青影山には大規模な山城である青陰城を構え、本拠城の詰城(有事の際の最終拠点)としての役割を果たしたとされる。

これらの城郭の配置は、因島村上氏の支配が単に因島一島にとどまらず、尾道水道を含む広範な海域に及んでいたことを示している。統治体制としては、吉充を頂点に、第一家老の救井氏、第二家老の稲井氏、第三家老の末永氏、第四家老の宮地氏、第五家老の南氏といった家臣団が、軍事、交易、徴税などの各分野を分担して支えていたと伝えられている。

【表1:村上吉充時代の因島村上氏 主要城郭】

城郭名

所在地

使用時期(伝承)

戦略的役割・機能

長崎城

因島南部

~1555年頃

初期の本拠地、海の砦

余崎城

向島南部

1555年~1567年

毛利氏から与えられた向島の経営拠点

青木城

因島北西部

1567年~

尾道水道の監視・統治拠点、後期の主城

青陰城

因島中央部

戦国期

本拠城(青木城)の詰城、大規模な山城

海の領主としての経済活動

因島村上氏の権勢を支えた経済基盤は、その支配海域における多角的な活動にあった。最も重要な収入源は、彼らが管理する航路を通過する船舶から徴収する通行料であった。因島南東部の美可崎城には海の関所が設けられ、金山氏という奉行を置いて備後灘を行き交う船から運行税を徴収していた記録が残っている。これは場当たり的な略奪ではなく、航路の安全保障と引き換えに定められた料金を徴収する、制度化された経済活動であった。

また、複雑な潮流が渦巻く芸予諸島において、彼らの持つ航海術は極めて高い価値を持った。そのため、水先案内人として船を安全に導くことも重要な業務の一つであった。さらに、家臣の中には支那貿易や国内回漕船隊を担う者がいたとの伝承もあり、自ら交易活動にも従事していた可能性が示唆される。これらの海上活動に加え、平時には漁業も行っており、海から得られるあらゆる収益が彼らの富の源泉となっていたのである。

第五章:天下統一の奔流の中で

村上吉充が因島村上氏の最盛期を築き上げた時代は、同時に日本の歴史が大きな転換点を迎えた時代でもあった。織田信長、そして豊臣秀吉による天下統一事業は、各地に割拠していた独立勢力の存在を許さず、日本全体を一つの巨大な権力構造の下に再編していく過程であった。この巨大な潮流は、瀬戸内海に独自の秩序を築いてきた村上水軍にも、否応なく変革を迫ることになる。

豊臣秀吉の台頭と「海賊停止令」

天正十年(1582年)の本能寺の変で信長が倒れると、その後継者として急速に台頭したのが羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)であった。秀吉は、全国の大名間の私闘を禁じる「惣無事令」を発令するなど、中央集権的な支配体制の構築を強力に推し進めた。その一環として、天正十六年(1588年)に発布されたのが「海賊停止令(海賊取締令)」である。

この法令は、大名の許可なく海上で通行料を徴収したり、私的な武力行使を行ったりすることを全面的に禁止するものであった。これは、村上氏をはじめとする海賊衆の経済基盤と存在意義そのものを根底から覆すものであった。彼らは、①豊臣政権に認められた大名となる、②いずれかの大名の家臣団に組み込まれる、③全ての武力を放棄して漁民や農民となる、という三つの選択肢の中から自らの生きる道を選ばねばならなくなった。

この歴史的な転換点において、三島村上氏の運命は大きく分かれた。来島村上氏の当主・来島通総は、早くから秀吉に接近し、その麾下に入ることで伊予国に1万4000石の所領を持つ近世大名として生き残る道を選んだ。一方で、一貫して毛利氏との連携を重視してきた村上吉充率いる因島村上氏は、能島村上氏と共に、毛利氏の家臣としてその水軍組織に正式に組み込まれる道を選択した。ここに、独立した「海の領主」としての村上水軍の歴史は、事実上の終焉を迎えたのである。

文禄・慶長の役(1592年~1598年)

海賊としての活動は禁じられたものの、彼らの持つ卓越した水軍としての能力は、秀吉の次なる野望である大陸侵攻、すなわち文禄・慶長の役において必要とされた。因島村上氏は、主家である毛利氏の軍団に所属し、小早川隆景の部隊の一部として朝鮮半島へ渡海した。

この戦争における彼らの主な役割は、十数万人に及ぶ大軍の兵員や、膨大な量の兵糧・武具といった軍需物資を、玄界灘を越えて朝鮮半島へ安全に輸送すること、そしてその補給路を確保することであった。李舜臣率いる朝鮮水軍との激しい海戦にも参加したとみられるが、この戦役における村上吉充個人の具体的な戦功を記した史料は、現在のところ確認されていない。

関ヶ原の戦い(慶長五年、1600年)

秀吉の死後、天下の覇権をめぐって徳川家康率いる東軍と、毛利輝元を総大将に担いだ西軍が激突した関ヶ原の戦いが勃発する。主君である毛利氏が西軍の総帥となったため、その家臣である因島村上氏も当然ながら西軍として参戦した。

この時、既に家督を継いでいた養子の村上吉亮(あるいはその子・元充)は、能島村上氏と共に伊予国へ出陣。東軍に属した加藤嘉明の居城・伊予松前城を攻撃するなど、西軍の一翼として戦った。しかし、本戦である関ヶ原での西軍の敗北により、彼らの戦いもまた終わりを告げることとなった。

終章:晩年と後世への遺産

関ヶ原の戦いにおける西軍の敗北は、総大将であった毛利氏、そしてその家臣であった因島村上氏の運命を大きく変えた。栄華を極めた海の領主、村上吉充の物語もまた、時代の大きな転換の中で静かな終焉を迎える。

関ヶ原後の吉充と因島村上氏

戦後処理の結果、毛利氏は安芸・備後など中国地方8か国112万石の大大名から、周防・長門の二国、約37万石へと大幅に減封された。これに伴い、家臣団も大幅な再編を余儀なくされ、因島村上氏も本拠地であった因島を離れ、新たな領地である長門国へ移住することになった。しかし、毛利氏から与えられた知行はわずか1800石(一説には2800石)に過ぎず、かつての勢威を考えれば、あまりにも厳しい処遇であった。

この結果を受けてか、あるいは故郷の海への強い思いがあったのか、村上吉充は家督を継いだ元充(吉亮の子)の一行とは別れ、一人因島へ帰郷し、その地で静かに生涯を終えたと伝えられている。彼の法名は「晟清寺殿英中晟春」とされる。正確な没年は不明であるが、その最期は、中央の歴史の喧騒から離れ、自らが支配した海を望む故郷で迎えた。それは、独立した海の領主としての時代の終わりと、一人の海将が歴史の表舞台から静かに退場していく姿を象徴しているかのようである。

萩藩船手組としての存続

吉充が築いた毛利氏との関係は、家の存続という形で実を結んだ。吉充の後を継いだ村上氏の子孫は、江戸時代を通じて長州藩(萩藩)の家臣団に組み込まれ、藩の海軍に相当する「船手組」の中核を担った。能島村上氏が船手組の組頭を務め、因島村上氏も番頭として、藩主の参勤交代の際の御座船警護や、朝鮮通信使の先導・曳航、海難救助など、海に関わる重要な役目を果たし続けた。かつての「海賊」は、近世的な藩体制の中で、その専門技術を生かす武士として生き永らえたのである。

歴史的遺産と文化的価値

村上吉充とその時代を今に伝える貴重な文化財が、彼の故郷である因島を中心に数多く残されている。

  • 紙本著色村上新蔵人吉充像(尾道市重要文化財) : 因島水軍城に所蔵される吉充唯一の肖像画。穏やかで理知的な表情を浮かべたその姿は、彼の人物像を偲ばせる。他に類例のない貴重な作例として高く評価されている。
  • 白紫緋糸段縅腹巻(広島県重要文化財) : 吉充が養子・吉亮の元服に際し、小早川隆景から贈られたと伝わる甲冑。白、紫、緋の糸で鮮やかに彩られた腹巻形式の鎧は、実用性と美しさを兼ね備え、因島村上氏と毛利・小早川氏との緊密な関係を物語る。
  • 因島村上家文書(広島県重要文化財) : 鎌倉時代から戦国時代に至る古文書群。特に吉充の時代のものとして、小早川隆景との間で交わされた書状などが含まれ、毛利氏との関係や当時の瀬戸内海の情勢を知る上で欠かせない一級史料である。
  • 菩提寺と墓所 : 因島中庄にある金蓮寺が因島村上氏の菩提寺とされる。寺の裏山には、一族の墓と伝えられる18基の宝篋印塔と多数の五輪塔が集められており、往時の勢力を偲ばせている。しかし、後世に集められたため、どの石塔が吉充個人のものかは特定できていない。

村上吉充の生涯は、戦国乱世という激動の時代において、一地方の海上勢力が生き残りをかけて大勢力と結び、一時は栄華を極めながらも、最終的には中央集権化という時代の大きな潮流に飲み込まれていく過程そのものであった。彼は、因島村上氏を「最盛期」へと導いた優れた統治者であり、毛利水軍の中核として歴史的な海戦で武名を馳せた勇将であった。しかし、彼が選択した有力大名への従属という道は、結果として「海賊」としての独立性の喪失に繋がった。その意味で、彼は自らの時代の勝者であると同時に、来るべき新しい時代の前に去りゆく者の悲哀をも背負った人物であったと言えるだろう。彼の遺した文化財と、故郷の因島で余生を終えたという伝承は、中央の歴史からは見えにくい、一人の海の領主の誇りと記憶を、今なお我々に静かに語りかけている。

引用文献

  1. Contents - 尾道市 https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/uploaded/attachment/47870.pdf
  2. 激闘!海の奇襲戦「厳島の戦い」~ 勝因は村上水軍の戦術 | 歴史人 https://www.rekishijin.com/11740
  3. 第一次木津川口の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  4. 燃えない甲鉄船で毛利船団を殲滅! 九鬼嘉隆は日本一の海賊大名と ... https://www.rekishijin.com/18021