最終更新日 2025-07-16

村上義忠

能島村上氏の村上義忠は、息子武吉を当主とするため内訌を主導し大内氏と連携。武吉が「日本最大の海賊」となる礎を築いた。遭難死説は史料と矛盾する。

能島村上氏、飛躍の礎を築いた男 ― 村上義忠の実像と時代

序章:瀬戸内海の覇者、能島村上氏

戦国時代の日本において、陸の武将たちが領土を巡り鎬を削る一方で、海の世界には独自の秩序を築き、時には天下の動向すら左右する力を持った者たちがいた。その代表格が、瀬戸内海に君臨した「村上海賊」である。

瀬戸内の支配者「村上海賊」の実態

「海賊」という呼称は、現代においては無法な略奪者のイメージを喚起させる。しかし、戦国時代の村上海賊は、宣教師ルイス・フロイスが「日本最大の海賊」と評したように 1 、単なる略奪者(パイレーツ)とは一線を画す存在であった。彼らは、瀬戸内海の交易と流通の秩序を支える、いわば海の安全保障を担う海上勢力だったのである 1

彼らの本拠地である芸予諸島は、大小の島々が複雑に連なり、その間を最大10ノット(時速約18km)にも達する激しい潮流が渦巻く、古来より航海の難所として知られていた 1 。村上海賊はこの特異な地理的条件を熟知し、卓越した航海術を駆使してこの海域を支配した。彼らは航行する船舶の安全を保障する見返りとして、「帆別銭(ほべつせん)」や「警固料」と呼ばれる通行料を徴収し、これを主たる収入源としていた 4 。平時には水先案内や海上運輸を担い、戦時には小早船を巧みに操り、「焙烙火矢(ほうろくひや)」などの火器を用いた得意の海戦術で、周辺大名から恐れられる軍事力として活躍した 7

村上海賊は、大きく三つの家、すなわち芸予諸島の中央航路を扼する「能島(のしま)村上氏」、広島県側の沿岸航路を押さえる「因島(いんのしま)村上氏」、そして愛媛県側の航路を手中にした「来島(くるしま)村上氏」に分かれていた 8 。彼らは「三島村上氏」と総称され、時には同族として結束し、時には互いの利害のために争いながら、瀬戸内海に広大な勢力圏を築き上げたのである 10

能島村上氏とその本拠地

三島村上氏の中でも、能島(現在の愛媛県今治市)を本拠とした能島村上氏は、宗家的な立場にあり、最も独立性の強い勢力であったとされている 7 。彼らの本拠地である能島城は、周囲約720mの小島そのものを城塞化した「海城」であり、島の周囲を巡る激しい潮流が天然の堀として機能する、難攻不落の要害であった 14 。この城を拠点に、能島村上氏は西は北部九州から東は塩飽諸島に至る広大な海域の海上交通を掌握し、周辺の戦国大名たちと対等に渡り合うほどの力を持っていた 7

本報告書の課題 ― 記録の少ない男、村上義忠

能島村上氏の歴史において、最もその名が知られているのは、フロイスをして「日本最大の海賊」と言わしめた村上武吉であろう 1 。しかし、その武吉の父でありながら、歴史の表舞台にその名がほとんど現れない人物がいる。それが、本報告書で焦点を当てる村上義忠(むらかみ よしただ)である。

義忠に関する記録は極めて乏しく、一次史料においてはその名が確認できるものは僅か一点に過ぎない 18 。彼は一体どのような人物で、どのような生涯を送ったのか。本報告書は、この歴史の影に埋もれた村上義忠という人物の実像を、彼が生きた時代の政治情勢、一族内部の力学、そして西国最大の勢力であった大内氏との関係性といった周辺状況を徹底的に分析することを通じて、立体的に浮かび上がらせることを目的とする。それは、村上武吉の時代を準備した重要人物として、義忠を歴史の中に正しく再評価する試みである。

第一章:村上義忠の出自と時代背景

村上義忠の実像に迫るためには、まず彼がどのような血縁関係の中に生まれ、いかなる時代を生きたのかを正確に把握する必要がある。

能島村上氏の系譜における義忠

村上義忠は、能島村上氏の歴史において重要な転換期に位置する人物である。彼の血縁関係を整理すると、その立場はより明確になる。

義忠の父は、能島村上氏の基礎を固めたとされる村上隆勝(たかかつ)である 20 。隆勝には三人の息子がおり、長男が義雅(よしまさ)、次男が義忠、三男が隆重(たかしげ)であった 21 。家督はまず長男の義雅が継いだが、彼は早世してしまう 21 。義雅の子が、後に家督を巡って争うことになる義益(よします)である。一方、次男である義忠の子が、後に能島村上氏の最盛期を築き、「日本最大の海賊」と称されることになる村上武吉(たけよし)である 12 。三男の隆重は、後に甥である武吉の後見人として、その家督相続を強力に支援することになる 21

この複雑な関係性を理解するために、以下の略系図を示す。

家督継承の流れと対立関係

村上隆勝

├─ 村上義雅 (長男・家督相続後、早世)

│ └─ 村上義益 (義雅の子・家督争いの一方の当事者)

├─ 村上義忠 (次男・本報告書の中心人物)

│ └─ 村上武吉 (義忠の子・家督争いの一方の当事者)

└─ 村上隆重 (三男・武吉の後見人)

この系図が示すように、村上義忠は能島村上氏の当主の次男という立場であり、兄の早世によって、自らの息子・武吉と、兄の息子・義益との間で家督を巡る争いの中心人物となる運命にあった。

官途名「掃部助(かもんのすけ)」の持つ意味

史料において、村上義忠は「村上掃部助(むらかみかもんのすけ)」という官途名で登場する 18 。この官途名は、単なる呼称以上の重要な意味を持つ。戦国時代において、官途名は自称されることもあったが、多くの場合、幕府や朝廷から、あるいはその地域の有力な守護大名などを介して与えられるものであった。

16世紀前半の瀬戸内海西部において、その種の権威を背景に影響力を行使し得た最大の勢力は、周防・長門を本拠とし、中国地方西部に覇を唱えていた大内氏であった。義忠が「掃部助」という官途名を名乗っていたという事実は、彼が後述する家督争いが表面化する以前から、大内氏と何らかの主従関係、あるいはそれに準ずる密接な協力関係を築いていた可能性を強く示唆している。この官途名は、彼の政治的立場を読み解く上で、極めて重要な手がかりとなるのである。

16世紀前半の瀬戸内海を巡る情勢

義忠が生きた16世紀前半の瀬戸内海は、複数の大勢力が複雑に関係しあう、緊張に満ちた海域であった。

西国随一の大名であった大内氏は、日明貿易の利権を掌握し、その経済力を背景に強大な軍事力を有していた。その勢力は瀬戸内海にも及び、海上交通路の支配を企図して、海賊衆への影響力を強めようとしていた 25

一方、伊予国(現在の愛媛県)には守護大名・河野氏が存在し、三島村上氏の一角である来島村上氏は、伝統的に河野氏の配下として、その水軍の中核を担っていた 29

こうした大勢力に挟まれた能島村上氏は、その独立を維持するために、極めて高度で巧みな外交戦略を必要としていた 13 。いずれかの一大勢力に完全に飲み込まれることなく、自らの利益を最大化するためには、状況に応じて提携と対立を使い分ける必要があった。村上義忠の生涯は、まさにこの激動の時代の渦中で繰り広げられたのである。

第二章:能島村上氏の内訌 ― 家督相続を巡る一大政治闘争

村上義忠の生涯を語る上で避けて通れないのが、能島村上氏の家督相続を巡る一族内の深刻な対立、すなわち「内訌」である。この争いは、義忠が息子の武吉を当主の座に就けるために主導した、一大政治闘争であった。

内訌の勃発

能島村上氏の当主であった村上義雅が若くして亡くなると、その嫡子である村上義益が家督を継承した 21 。しかし、近世に編纂された史料によれば、義益は病弱であり、「主将之器」ではないと見なされ、一族内にはそのリーダーシップに対する不満が燻っていたとされる 33

この状況を、一族の将来を憂い、また自らの政治的影響力を拡大する好機と捉えたのが、義雅の弟である村上義忠と、その弟の村上隆重であった。彼らは、義忠の実子であり、当時はまだ幼名「道祖次郎」を名乗っていた武吉を新たな当主として擁立することを画策する 23 。これに対し、義益を正統な当主として支持する譜代の家臣らも存在し、能島村上氏は当主・義益を支持する派閥と、武吉を擁立しようとする義忠・隆重派閥の二つに分裂。ついに家督の座を巡る武力闘争へと発展したのである 25

対立の深層 ― 大内氏を巡る路線対立

この能島村上氏の内訌は、単なる一族内の権力闘争という側面だけでは説明できない。その深層には、当時の西国における覇者・大内氏への帰属を巡る、深刻な「政治路線闘争」という本質が隠されていた。

この対立構造を解き明かす鍵は、双方の外交的立場にある。まず、天文10年(1541年)の史料によると、当主であった義益が率いる能島村上氏は、大内氏と敵対関係にあった厳島神主・友田興藤を支援していることが確認できる 33 。これは、義益が明確に「反大内」の立場を取っていたことを示す動かぬ証拠である。

一方で、義忠は前述の通り「掃部助」という官途名を名乗っており、これは彼が以前から「親大内」路線を歩んでいたことを強く示唆する。そして、この推測を裏付ける決定的な史料が存在する。天文11年(1542年)には、義忠(村上掃部助)が、大内氏の奉行人たちと連携して伊予方面への軍事行動に関与している記録が明確に残されているのである 18

これらの事実を突き合わせると、家督争いの構図は極めて明快になる。すなわち、この内訌は「反大内派」の当主・義益と、「親大内派」の挑戦者・義忠(およびその子・武吉)との間の、外交路線を巡る対立であった。当時、瀬戸内海への影響力拡大を目指していた大内氏にとって、強力な海上戦力である能島村上氏を自陣営に取り込むことは、戦略的に極めて重要であった。この観点から見れば、この内訌は、大内氏が能島村上氏の内部対立に介入し、親大内派である義忠・武吉親子を支援することで、同氏を間接的に支配下に置こうとした「代理戦争」の側面を色濃く帯びていたと分析できる。義忠の行動は、単に息子の将来を思う親心からだけではなく、激動する国際情勢の中で一族が生き残るための、冷徹な政治的決断であったのだ。

戦闘の経過と拠点 ― 中途城の攻防

親大内派の攻勢により、本拠地である能島での立場が危うくなった反大内派の義益は、来島海峡に浮かぶ小島「中途島(なかとしま)」に築かれた中途城に立てこもり、最後の抵抗を試みた 33 。中途城は、海峡の要衝に位置する海の要塞であり、義益派の抵抗拠点となった。

この反抗勢力を完全に排除するため、大内義隆は当主自らが鎮圧に乗り出す。大内氏の重臣・冷泉隆豊(すえ たかとよ)に水軍を率いさせ、天文15年(1546年)頃にかけて、中途城への執拗な攻撃を繰り返させたのである 33 。この大内水軍による攻撃には、当然ながら親大内派の義忠らも加わっていたと考えられる。長期にわたる攻防の末、義益派はついに敗北し、その後の動向は史料から完全に姿を消す 33

この内訌における義忠・武吉派の勝利は、能島村上氏の運命を決定づけた。天文16年(1547年)頃には、能島村上氏の本拠地は完全に大内方の影響下に入り、義忠の息子である武吉が新たな当主となる道筋が、ここに確固たるものとなったのである 25

第三章:史料に見る村上義忠の活動と、その死を巡る謎

村上義忠は、歴史の表舞台から姿を消した人物であるが、彼の具体的な活動を示す貴重な一次史料が存在する。それは、彼の死を巡る通説に大きな疑問を投げかけるものでもある。

唯一無二の一次史料 ― 天文11年の活動記録

現存する史料の中で、村上義忠の活動を同時代的に伝える、最も信頼性の高いものが、天文11年(1542年)4月付で大内氏の奉行人が発給した書状である 18

この書状の内容は、大内氏が敵対勢力の攻撃を受けている伊予国中島の棚林要害へ援軍を送るにあたり、その渡海の段取りについて、現地の小原隆名という人物と「村上掃部助(義忠)に相談して進めるように」と具体的に指示するものであった 18

この一文が持つ意味は計り知れない。これは、村上義忠が単に大内氏に従属する一武将ではなく、海を渡る軍事作戦の計画と実行を任されるほどの、海事に関する高度な専門知識と、それを実行するだけの海上部隊を掌握した現地の有力者として、大内家中枢から認識され、高く評価されていたことを物語っている。義忠は、大内氏が伊予方面へ勢力を拡大する上で、不可欠な戦略的パートナーと見なされていたのである。彼の役割は、単なる兵力の提供に留まらず、作戦立案の中核にまで及んでいた可能性が高い。

義忠の死 ― 通説への挑戦と再検証

一方で、村上義忠の死に関しては、後世に成立した記録や伝承に基づく「天文5年(1536年)に、乗船していた船が嵐に遭い遭難死した」という説が広く知られている 26 。この説は、幼い武吉が父を失い、家督争いの渦中に巻き込まれていくという、劇的な物語の導入としてしばしば語られてきた。

しかし、この通説は、先述した天文11年(1542年)の一次史料の存在によって、根本からその信憑性が揺らぐことになる。歴史学研究の基本原則は、後世の編纂物や伝承よりも、同時代の一次史料を優先することにある。この原則に則れば、両立し得ない二つの情報のうち、信頼性の高い一次史料の記述を正とするのが、論理的かつ学術的な態度である。

したがって、「天文5年遭難死説」は、武吉の生涯をドラマチックに演出するために後世に創作された可能性が高く、史実としては退けられるべきである。村上義忠は、少なくとも天文11年(1542年)の時点では健在であり、能島村上氏の内訌において、親大内派の主導者として積極的に活動していたと結論付けるのが妥当である。

では、義忠はいつ亡くなったのか。彼の確実な没年を示す史料は現存しない。しかし、彼の活動が確認できる最後の年が天文11年(1542年)であり、一方で息子の武吉が能島村上氏の当主として正式に活動を開始するのが、内訌が終結した天文15年から16年(1546-47年)頃であることから、義忠の死は、この1542年から1547年までの間にあったと推定するのが、現時点では最も蓋然性の高い解釈と言えるだろう。

第四章:義忠の遺産 ― 「日本最大の海賊」への道筋

村上義忠は、歴史の記録に乏しい人物であるが、彼が次代に残した遺産は計り知れないほど大きい。それは、息子・村上武吉が「日本最大の海賊」へと飛躍するための、盤石な礎であった。

最大の功績 ― 息子・武吉への権力移譲

村上義忠の生涯における最大の功績は、個人的な武勇伝や華々しい戦功ではない。それは、一族を二分する内訌という最大の危機を、巧みな政治戦略によって乗り越え、自らの政治路線を継承する息子・武吉に、統一され安定した能島村上氏の支配権を、ほぼ無傷の形で継がせたことにある。

義忠は、対立する義益派を「反大内」という政治的な枠組みの中に追い込み、西国最大の勢力である大内氏の軍事介入を正当化させた。そして、その力を利用して政敵を排除し、能島村上氏の内部を親大内派で固めることに成功した。これにより、武吉は家督相続と同時に、強力な後ろ盾と、安定した領内支配を手に入れることができたのである。義忠が準備したこの強固な政治的・軍事的基盤なくして、武吉が後に瀬戸内海に覇を唱えるほどの勢力を築くことは不可能であっただろう。

親大内路線の継承と、その後の影響

義忠が敷いた「親大内」という外交路線は、そのまま息子の武吉に引き継がれた。この政治的遺産は、戦国史の大きな転換点の一つである天文24年(1555年)の「厳島の戦い」における能島村上氏の動向を理解する上で、決定的に重要な意味を持つ。

厳島の戦いを巡っては、能島村上氏が毛利方に味方したのか、あるいは参戦しなかったのか、という論争が存在する 35 。この複雑な状況は、まさに義忠の遺産から解き明かすことができる。

厳島の戦いは、大内義隆を討ち、その実権を握った陶晴賢と、それに反旗を翻した毛利元就との間の戦いであった 35 。陶晴賢は、主君を討ったとはいえ、形式的には大内氏の後継者であった。義忠・武吉親子が長年にわたり築いてきたのは、この大内氏との協力関係である。そのため、能島村上氏は当初、陶晴賢方に与するのが自然な流れであり、実際にそのように行動していたことを示唆する史料も存在する 36 。これが、一部で「能島は参戦していない」あるいは「当初は陶方だった」という説が唱えられる根拠となっている。

しかし、毛利元就は巧みな調略によって来島・因島村上氏を味方につけ、最終的には能島村上氏も毛利方として参戦し、毛利軍の勝利に決定的な貢献を果たしたというのが通説である 17 。この一見矛盾するような動きこそ、能島村上氏が置かれていた状況の複雑さを物語っている。すなわち、武吉は、父・義忠が築いた「親大内(陶)」という基本路線を維持しつつも、安芸国で急速に台頭する毛利元就という新たな勢力との関係を天秤にかけ、最終的には勝利の可能性が高い毛利方につくという、極めて現実的な政治判断を下したのである。父の政治的遺産は、次世代の外交政策の出発点となり、同時に新たな状況に対応するための選択の基盤ともなった。義忠の存在なくして、厳島の戦いにおける村上水軍の活躍を正しく理解することはできないのである。

結論:歴史の影の立役者、村上義忠の再評価

本報告書は、戦国時代の海上勢力・能島村上氏の頭領、村上武吉の父でありながら、その実像がほとんど知られてこなかった村上義忠という人物について、現存する断片的な史料と、彼を取り巻く政治状況から、その生涯と歴史的役割を再構築する試みであった。

分析の結果、村上義忠は、単に「武吉の父」というだけの存在ではないことが明らかになった。彼は、一族の存亡を賭けた家督相続の内訌において、冷静な情勢分析に基づき、西国最大の勢力である大内氏と結ぶという大胆な政治的決断を下した戦略家であった。彼はこの同盟を巧みに利用して対立派閥を排除し、能島村上氏の権力基盤を再統一することに成功した。

彼の死を巡る「天文5年遭難死説」は、より信頼性の高い一次史料との矛盾から、後世の創作である可能性が高い。彼は少なくとも天文11年(1542年)まで生存し、この政治闘争を自ら主導していたのである。

村上義忠の最大の功績は、この内訌に勝利し、息子・武吉に安定した支配権と、大内氏という強力な後ろ盾を遺したことにある。この政治的遺産があったからこそ、武吉は能島村上氏を率いて、毛利氏の台頭や織田信長との対決といった、さらに大きな歴史の荒波を乗り越え、「日本最大の海賊」と称されるほどの全盛期を築き上げることができた。

村上義忠は、歴史の表舞台で華々しく活躍することはなかった。しかし、彼は次代の英雄が躍動するための舞台を、見事に整えてみせた。本報告書は、村上義忠を、歴史の転換点を静かに、しかし決定的に動かした真の「影の立役者」として再評価することを提言するものである。彼の存在を正しく位置づけることによって、戦国時代の瀬戸内海史は、より一層の深みと複雑さをもって我々の前に姿を現すであろう。

引用文献

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