戦国時代の日本において、数多の武将が覇を競ったが、その中でも特異な存在感を放つのが、信濃国(現在の長野県)北部に勢力を誇った村上義清(むらかみ よしきよ、1501-1573)である 1 。彼は、戦国最強の武将の一人とされる武田信玄(当時は晴信)に対し、生涯で二度も大規模な合戦で勝利を収めた唯一の人物として知られている 2 。その勇猛さから「信濃のブルファイター」とも称され 2 、一時は北信濃に広大な支配圏を築き上げた 1 。
しかし、その武勇とは裏腹に、義清は最終的に武田信玄の巧みな調略によって本拠地を追われ、越後の上杉謙信(当時は長尾景虎)を頼る亡命生活を余儀なくされる 1 。彼の生涯は、戦国時代における武力と戦略、そして人間関係の複雑さを象徴している。卓越した戦場の指揮官でありながら、政治的な策略の前には脆さを見せた義清の姿は、個人の武勇だけでは生き残れない戦国乱世の厳しさを示唆している。本稿では、入手可能な史料に基づき、この信濃の獅子、村上義清の生涯、武田信玄との激闘、そしてその後の運命と遺産について詳述する。
村上義清関連 年表
年代(西暦) |
出来事 |
典拠 |
文亀元年(1501) |
葛尾城にて誕生 |
1 |
永正17年頃(1520頃) |
父・顕国の後を継ぎ家督相続か(異説あり) |
4 |
天文10年(1541) |
海野平の戦いで海野棟綱らを駆逐、小県郡を掌握 |
1 |
天文17年(1548) |
上田原の戦いで武田晴信(信玄)に勝利 |
3 |
天文19年(1550) |
砥石城の戦い(砥石崩れ)で武田晴信に大勝 |
3 |
天文20年(1551) |
真田幸隆の調略により砥石城が落城 |
1 |
天文22年(1553) |
武田軍の侵攻により葛尾城を放棄、越後へ亡命。川中島の戦いの発端となる。 |
1 |
天文22年~永禄7年 |
上杉謙信の配下として川中島の戦いに参陣 |
1 |
永禄8年頃(1565頃) |
越後根知城主に任命される |
13 |
元亀4年(1573) |
越後根知城にて病没(享年73) |
1 |
天正10年(1582) |
武田氏滅亡後、子・国清(山浦景国)が海津城代となり、一時的に旧領回復 |
2 |
村上義清は、信濃国埴科郡葛尾城(かつらおじょう)を本拠とした戦国武将である 1 。その出自は古く、平安時代以来、信濃国更級郡村上郷を本拠地としてきた清和源氏の流れを汲む名門・村上氏の末裔とされる 1 。文亀元年(1501年)3月11日、葛尾城にて、父・村上顕国(頼平・頼衡とも)と、母・斯波義寛(室町幕府管領家)の娘の間に生まれた 4 。幼名は武王丸(ぶおうまる)と伝わる 2 。
父の跡を継いで家督を相続した時期は、父・顕国の没年について諸説あるため明確ではないが、永正17年(1520年)あるいは大永6年(1526年)頃と考えられている 4 。義清が当主となった頃、村上氏はすでに北信濃の有力な国人領主であったが、彼はその勢力をさらに拡大し、全盛期を築き上げた。本拠地の葛尾城は、千曲川流域を見下ろす葛尾山の山頂に築かれた堅固な山城であり、戦略的に重要な拠点であった 1 。
義清の支配領域は、最盛期には小県(ちいさがた)、埴科(はにしな)、高井(たかい)、水内(みのち)、佐久(さく)といった信濃国の東部から北部にかけての広範囲に及び 1 、地域最大の独立勢力を誇った 1 。その勢力拡大の過程で特筆すべきは、天文10年(1541年)の海野平(うんのだいら)の戦いである。義清は、甲斐の武田信虎(信玄の父)や諏訪頼重と同盟を結び、小県郡の有力国人であった海野棟綱(うんの むねつな)とその一族(滋野氏)を攻撃、これを駆逐して小県郡の支配権を確立した 1 。
この勝利は村上氏の勢力拡大に大きく貢献したが、同時に、この戦いで敗れて上野国へ亡命した海野一族の真田幸隆(幸綱)が、後に武田信玄に仕官し、義清にとって最大の脅威となる伏線も生み出した 1 。幸隆は信濃の地理や人物に通じており、彼の存在が後の武田氏による信濃侵攻、特に調略において重要な役割を果たすことになる。義清が築き上げた北信濃での支配力は、隣国・甲斐から信濃全土の制圧を目指す武田氏との衝突を不可避なものとした。そして、かつての戦いで追放した人物が、その衝突において自身の没落を招く一因となるという、戦国時代特有の皮肉な運命が待ち受けていたのである。
天文10年(1541年)に父・信虎を追放して甲斐国の実権を握った武田晴信(後の信玄)は、信濃侵攻を本格化させる 3 。諏訪氏を滅ぼし(天文11年、1542年)、佐久郡へと勢力を伸ばす武田氏に対し、北信濃に一大勢力を築いていた村上義清との衝突は避けられないものとなった 17 。若く野心に燃え、連戦連勝を重ねていた晴信にとって、義清は信濃統一の道における最大の障壁であった 2 。義清は、この「甲斐の虎」に対し、二度にわたる大規模な合戦で勝利し、その名を戦国史に刻むことになる。
天文17年(1548年)2月、晴信は5,000とも8,000ともいわれる大軍を率いて北信濃の小県郡に侵攻した 2 。これに対し、村上義清は葛尾城・砥石城を拠点とし、上田原(現在の長野県上田市)に進出して武田軍を迎え撃った。村上軍の兵力は5,000から7,000程度であったとされる 2 。
2月14日(旧暦)、両軍は産川を挟んで激突した 6 。『甲陽軍鑑』などの軍記物によれば、武田軍の先鋒を務めた重臣・板垣信方は、緒戦で村上勢を押し込んだものの、勝利を確信して油断し、敵前で首実検を始めたとされる 2 。村上義清はこの隙を見逃さなかった。彼は巧みに後退して板垣勢を誘い込み、油断したところを急襲、猛烈な反撃を加えた 2 。不意を突かれた板垣勢は混乱に陥り、信方は討ち死にした 3 。
先鋒の敗北により武田軍全体に動揺が広がる中、義清はさらに攻勢を強め、部隊を二手に分けて武田本陣に突撃したとも伝えられる 2 。この激戦で、武田軍は板垣信方に加えてもう一人の重臣・甘利虎泰も失うという甚大な被害を受けた 3 。晴信自身も二か所に傷を負ったと記録されている 3 。武田軍の死者は700から1,200人にのぼったとされる一方、村上軍も屋代基綱・小島権兵衛といった将兵を失い、損害は少なくなかったが、戦場を保持し勝利を収めた 6 。
この上田原の戦いは、常勝を誇った武田晴信にとって生涯初の大敗北であり、その無敗神話を打ち砕いた 2 。武田氏の信濃侵攻は一時的に停滞し、村上義清の名声は一層高まった。越後の長尾景虎(上杉謙信)もこの勝利を聞き、義清を「弓矢の父」と称賛したと伝えられる 3 。この戦いにおける義清の勝利は、単なる幸運ではなく、敵の油断を突く戦術眼、効果的な flanking(側面攻撃)や挟撃 2 、そして特筆すべきは、弓兵や鉄砲兵といった飛び道具部隊を最前列に配置し、弾矢が尽きた後に白兵戦に移るという、当時としては革新的な兵種別編成の陣形(隊列)を用いたことにあるとされる 2 。自ら先頭に立って戦う勇猛さ 2 と相まって、義清の戦術的な才能を示すものであった。
上田原での雪辱を期す武田晴信は、天文19年(1550年)9月、再び大軍(7,000人)を率いて村上領に侵攻し、義清の重要拠点である砥石城(戸石城とも書く)を包囲した 7 。砥石城は、義清の本拠・葛尾城と東信濃を結ぶ要衝に位置し 3 、文字通り砥石のような険しい崖に囲まれた天然の要害であった 8 。
城を守る村上方の兵力はわずか500人程度であったが、その多くは以前武田氏に滅ぼされた志賀城(笠原氏)の残党兵であり、武田に対する強い憎悪と復讐心に燃えていた 2 。この高い士気が、圧倒的な兵力差を覆す要因の一つとなる。
9月9日、武田軍は総攻撃を開始したが、砥石城の守りは固く、崖を登る兵士に石や熱湯を浴びせるなどしてこれを撃退した 8 。20日以上にわたる猛攻にも城は持ちこたえた 8 。攻城に手間取る武田軍のもとに、村上義清が宿敵であった北信濃の高梨政頼と一時的に和睦を結び、2,000の兵を率いて救援に向かっているとの報が届く 2 。
戦況不利と見た晴信は撤退を決断するが、時すでに遅かった。義清は撤退する武田軍の背後を急襲し、同時に城兵も打って出て、武田軍を挟撃する形となった 2 。村上軍の追撃は熾烈を極め、武田軍は総崩れとなり、「砥石崩れ」と称される歴史的な大敗北を喫した 3 。この戦いで武田軍は約1,000人もの死傷者を出し、重臣の横田高松も討死したとされる 3 。一方、村上軍の損害は193名と比較的軽微であった 8 。晴信自身も影武者を身代わりにして辛うじて戦場を離脱したと伝えられるほど、惨憺たる敗北であった 2 。
砥石崩れは、武田信玄の生涯における最大級の軍事的失敗とされ 7 、村上義清の武名をさらに高めた。この勝利は、堅固な城の地形、守備兵の高い士気、そして義清自身の迅速な判断と機動力、城内外からの連携攻撃(挟撃)といった要因が複合的に作用した結果であった 2 。しかし、この華々しい勝利は、皮肉にも義清自身の没落への序章ともなった。二度にわたる直接対決での敗北により、武田信玄は力攻めの限界を悟り、戦略を大きく転換させることになるのである 2 。
武田信玄に対する二大勝利の比較
項目 |
上田原の戦い (1548) |
砥石崩れ (1550) |
場所 |
信濃国小県郡 上田原 |
信濃国小県郡 砥石城 |
兵力 |
武田軍: 5,000-8,000 / 村上軍: 5,000-7,000 |
武田軍: 7,000 / 村上軍(城兵): 500 + 援軍: 2,000 |
経過 |
武田軍先鋒の油断を突き、村上軍が反撃・猛攻。 |
武田軍の長期攻城失敗。村上義清の援軍到着により、城兵と連携して武田軍を挟撃、追撃。 |
義清の戦術 |
敵の油断を利用、側面攻撃・挟撃、兵種別編成の陣形(弓・鉄砲隊先行)、自ら先陣を切る。 |
堅城での籠城、地の利活用(崖からの攻撃)、高梨氏との一時和睦、迅速な救援、城兵との連携による挟撃、熾烈な追撃。 |
結果 |
村上軍の勝利。武田軍重臣・板垣信方、甘利虎泰ら戦死。信玄自身も負傷。武田軍死者 700-1,200。 |
村上軍の大勝利(武田軍の大敗)。武田軍重臣・横田高松ら戦死。武田軍死者 約1,000。村上軍死者 約193。信玄は影武者を使い脱出。 |
意義 |
信玄の生涯初の大敗北。信玄の不敗神話崩壊。武田の信濃侵攻一時停滞。義清の名声向上。 |
信玄の生涯最大級の敗北。義清の武名最高潮。しかし、信玄に力攻めを諦めさせ、調略重視へと戦略転換させる契機となった。 |
典拠 |
2 |
2 |
上田原、そして砥石崩れという二度の屈辱的な敗北を喫した武田信玄は、村上義清との正面からの武力衝突を避けるようになる 2 。代わりに彼が用いたのが、「調略(ちょうりゃく)」、すなわち謀略、内応工作、離間策といった非軍事的な手段であった 2 。この戦略転換が、戦場では無類の強さを誇った義清を徐々に追い詰めていく。
信玄が調略の実行者として重用したのが、真田幸隆(幸綱)であった 1 。幸隆はかつて海野平の戦いで義清らによって故郷を追われた人物であり、信濃の地理や国人衆(在地領主)たちの内情に精通していた 1 。彼は個人的な恨みも抱きつつ 22 、武田家のために村上方の切り崩し工作に奔走した。
幸隆の調略は功を奏し、義清配下の国人衆や城主たちの間に動揺が広がり、武田方へ寝返る者が相次いだ 1 。その決定的な打撃となったのが、天文20年(1551年)の砥石城の陥落である。前年に義清が死守した難攻不落の砥石城が、幸隆の調略によって、城内の足軽大将(一説には幸隆の弟・矢沢頼綱)が内応したことで、武田本軍の力を借りることなくあっさりと奪われてしまったのである 1 。この事件は、義清の勢力圏に深刻な動揺を与え、その威信を大きく低下させた 1 。
さらに、義清と同盟関係にあった信濃府中(松本)の小笠原長時なども武田軍に敗れて信濃を追われ、義清は次第に孤立していく 1 。かつて北信濃に覇を唱えた村上氏の結束は、武田方の巧みな調略によって内部から崩壊し始めた。義清は天文21年(1552年)の常田(ときだ)の戦いなどで局地的な勝利を収めることもあったが 4 、家臣団の離反という大きな流れを食い止めることはできなかった。
この状況は、村上氏のような国人衆の連合体としての性格を持つ勢力の脆弱性を示している。外部からの軍事的な脅威に対しては一致団結して戦うことができても、個々の領主の利害や不満を突く政治的な工作に対しては、内部からの結束を維持することが困難であった。義清のリーダーシップは戦場では絶大な効果を発揮したが、複雑化する戦国時代の政治・外交戦においては、信玄のような老獪な戦略家に対抗するには限界があったのかもしれない 2 。
そして天文22年(1553年)4月、武田軍の圧力が本拠地・葛尾城に及ぶと、城内からも離反者が出るなど抵抗力を失い、義清はついに城を支えきれなくなった。城は武田軍の攻撃により「自落」(じらく)、すなわち内部崩壊または放棄に近い形で陥落した 1 。義清は、一族や僅かな家臣と共に、長年本拠としてきた葛尾城を後にし、北へ逃れることを余儀なくされたのである 1 。葛尾城落城に際しては、義清夫人の悲劇的な逸話も伝えられている 11 。
葛尾城を失い、信濃における拠点を失った村上義清は、同じく武田信玄によって追われた高梨氏や井上氏といった北信濃の国人衆と共に、北隣の越後国(現在の新潟県)へと逃れた 1 。彼らが頼ったのは、当時、越後の実力者であった長尾景虎、後の上杉謙信である。
義清らによる旧領回復の訴えは、謙信自身の戦略的な判断と結びついた。武田氏の勢力が、越後の国境に接する善光寺平にまで及ぶことは、謙信にとっても看過できない脅威であった 4 。義清らの救援要請を受け入れた謙信は、信濃への出兵を決意する。これが、天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)までの12年間に5回(またはそれ以上)にわたって繰り広げられることになる、戦国史上最も有名な対決の一つ「川中島の戦い」の直接的な引き金となった 1 。謙信自身も後年、武田との戦いの理由として「村上義清殿に頼まれ、止むを得ず干戈を交えた」と述べている 25 。
最初の信濃出兵(第一次川中島の戦い、1553年)において、上杉軍は武田方を一時的に撃退し、義清は葛尾城を取り戻すことに成功した 11 。しかし、上杉軍が越後に引き上げると、武田軍が再び侵攻し、義清は塩田城なども失い、結局、越後への亡命を余儀なくされた 1 。
以後、義清は上杉謙信の家臣(客将としての待遇であったともされる)となり 2 、謙信に従って度々川中島の戦場に赴き、宿敵・武田信玄と対峙し続けた 1 。特に激戦として知られる第四次川中島の戦い(永禄4年、1561年)では、上杉軍の一翼を担い 4 、信玄の弟・武田信繁を討ち取ったとも伝えられている 5 。
義清の亡命は、彼自身の立場を大きく変えた。北信濃の独立した大名から、越後の大名・上杉謙信に従属する一武将へと転じたのである。彼の個人的な旧領回復の願いは、武田と上杉という二大勢力の地政学的な争いの中に組み込まれていった。強力な庇護者を得た一方で、彼は自身の行動の自由を失い、謙信の戦略目標に依存する存在となった。義清の息子・国清(後に山浦景国)も謙信に仕え、一説には謙信の猶子となり、養女を娶るなど厚遇された 4 。国清は後に上杉一門の山浦氏の名跡を継ぎ、越後国内に所領を与えられている 15 。これは、謙信が義清とその一族を一定の敬意をもって遇していたことを示唆するが、同時に村上家が上杉家の体制下に組み込まれたことも意味していた。義清の悲劇は、戦国時代の大きな歴史の転換点の一つとなったのである。
川中島の戦いが永禄7年(1564年)の第五次合戦を最後に大規模な衝突を見なくなると、村上義清の旧領回復の夢はますます遠のいていった。上杉謙信はその後、義清を越後国内の根知城(ねちじょう、現在の新潟県糸魚川市)の城主に任命した 4 。根知城は越後と信濃の国境に位置する要害であり 13 、信濃方面への監視と、将来的な軍事行動の拠点としての役割を期待されたものと考えられる。義清はこの城の守りを固め、城郭の整備に努めたと伝えられている 13 。
しかし、信濃の地を再び踏むことは叶わなかった。元亀4年(1573年)1月1日(西暦2月3日)、村上義清は根知城にて病のため死去した 1 。享年73 1 。奇しくも、生涯の宿敵であった武田信玄が病没するわずか数ヶ月前のことであった 4 。根知城主としての任命は、謙信からの信頼を示すものであったかもしれないが、同時に義清の信濃からの永続的な追放を象徴するものでもあった。国境の城から故郷を望むことはできても、その主として帰還することはなかったのである。彼の墓所については、根知城下の安福寺、あるいは日滝寺、魚沼郡内など諸説あり、定かではない。旧領である坂城町の家臣・出浦氏の墓所には、後年分骨されたと伝わる墓も残っている 1 。
義清自身は故郷回復の悲願を果たせなかったが 1 、その遺志は息子・国清(山浦景国)に引き継がれた。天正10年(1582年)、織田信長によって武田氏が滅亡すると、状況は一変する。上杉景勝(謙信の後継者)に仕えていた国清は、同年8月、武田氏の旧拠点であった信濃川中島の海津城代に任命されたのである 2 。これは、村上氏が象徴的ながらも、かつての勢力圏に復帰を果たした瞬間であった。期間は短かったものの、父・義清が果たせなかった旧領回復が、息子の代になって実現したことは、戦国時代の劇的な運命の変転を示している。義清が選択した上杉氏との同盟が、最終的に、形を変えながらも次世代に繋がった結果と言えるだろう。国清はその後、景勝に従って会津へ移封され、塩の森城代などを務めた 15 。
村上義清は、戦国時代の武将として、特にその卓越した軍事的能力において高く評価されるべき人物である。
強み:
弱み:
村上義清は、個人の武勇や戦場での指揮能力といった、中世的な武士の価値観を体現する武将であったと言える。しかし、戦国時代が進むにつれて、単なる武力だけでなく、より高度な政治力、情報収集能力、そして中央集権的な支配体制の構築が求められるようになった。義清は、この時代の変化に対応しきれなかった側面があるのかもしれない。彼は「合戦」の達人であったが、国衆をまとめ上げ、領国全体を盤石にする「戦争(長期的な国力・戦略戦)」においては、信玄のような相手には及ばなかった。彼の生涯は、戦国時代における武将のあり方が変容していく過渡期を象徴しているとも言えるだろう。
村上義清は、戦国時代の北信濃において、一時期、他の追随を許さない強大な勢力を築き上げ、特に甲斐からの侵攻を進める武田信玄に対する最大の障壁として、歴史にその名を刻んだ武将である。
彼の最も輝かしい功績は、疑いなく、当時無敵と謳われた武田信玄に対し、上田原の戦いと砥石崩れという二つの主要な合戦において明確な勝利を収めたことである 2 。これは、彼の卓越した軍事的才能と、戦場における不屈の闘志を如実に物語っている。
しかし、その武勇にもかかわらず、義清の物語は悲劇的な側面も持つ。戦場での輝かしい勝利の後、彼は信玄の巧みな調略によって徐々に勢力を削がれ、最終的には故郷である信濃を追われ、越後の地で亡命者として生涯を終えることとなった 1 。
村上義清は、戦国時代における地方の独立勢力が、中央集権化を進める強大な隣国に抵抗した象徴的な存在と見ることができる。彼の姿は、伝統的な国人衆連合に基盤を置く勢力が持つ強み(地域に根差した武力、結束時の爆発力)と弱み(政治的な脆弱性、内部結束の難しさ)の両方を体現している。また、彼の越後への亡命と救援要請が、戦国時代を代表するライバル対決である川中島の戦いを引き起こしたことは、彼の個人的な闘争が、より大きな歴史の流れと深く結びついていたことを示している 1 。
結論として、村上義清、「信濃の獅子」あるいは「信濃のブルファイター」は、戦国時代の魅力的な人物像として記憶されるべきである。彼は、戦場における勇気と戦術的な革新性の証人であると同時に、戦国乱世における権力と生存の多面性、そして武力だけでは乗り越えられない時代の変化を示す教訓的な存在でもある。最終的に領地を失ったとはいえ、「信玄を二度破った男」としての彼の功績は、戦国史の中で決して色褪せることはないだろう。