村上通康は来島村上氏の当主。伊予河野氏の娘婿となり、宿老として活躍。厳島の戦いでは毛利氏に協力。河野氏の家督争いでは後継者となるも辞退。宇都宮氏との戦い中に病死。
戦国時代の日本列島において、瀬戸内海は単なる広大な内海ではなかった。京都・畿内の中央政権と、西国、さらには大陸とを結ぶ経済・軍事の大動脈であり、この海上交通路を掌握する者は、西日本の覇権争いにおいて絶大な影響力を行使することができた 1 。この「海の道」に君臨し、その秩序を支配していたのが、能島(のしま)、因島(いんのしま)、来島(くるしま)の三家を中核とする村上水軍である。彼らは、しばしば「海賊」という言葉で一括りにされるが、その実態は、航行の安全を保障する見返りに関銭(通行料)を徴収し、独自の海上支配圏を確立した「海の領主」と呼ぶべき存在であった 1 。
本報告書は、この村上三家の中でも、伊予国の守護大名・河野(こうの)氏と深く結びつき、その卓越した武勇と政治力によって、一時は主家の後継者にまで擬せられた来島村上氏の当主、村上通康(むらかみ みちやす)の生涯に焦点を当てる。彼の波乱に満ちた生涯を丹念に追うことで、独立性の高かった海上勢力が、陸の戦国大名の権力闘争にいかに深く関与し、その中で自らの立場を築き、そして時代の大波に翻弄されていったかの実像を、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。
村上三家の一角をなす来島村上氏は、伊予国風早郡の来島を本拠地とした一派である 3 。来島は、現在の今治港の沖合に浮かぶ周囲約2キロメートルの小島に過ぎないが、日本三大急潮の一つに数えられる来島海峡の激しい潮流に面しており、それ自体が天然の要害をなしていた 5 。近年の発掘調査では、城郭の存在を示す岩礁ピット群や郭、石垣といった遺構が確認されており、来島城が16世紀に海城として最盛期を迎えていたことが考古学的にも裏付けられている 6 。
村上通康の生年は、永正16年(1519年)と伝えられている 3 。しかし、その出自、特に父親が誰であったかについては、史料によって見解が分かれ、判然としない。一部の系図では父を「村上康吉」とするものもあるが 3 、江戸幕府が編纂した公式系図『寛永諸家系図伝』においては、主君である河野通直の娘婿として位置づけられているのみで、実父の名は記されていない 4 。
通康が歴史の表舞台に登場する背景には、血筋よりも彼自身の卓越した軍事的能力と政治的手腕があった。彼が青年期を迎えた頃、来島村上氏の勢力圏に隣接する伊予府中(現在の今治市周辺)では、正岡氏や重見氏といった在地領主の反乱が頻発していた。通康はこれらの鎮圧に目覚ましい活躍を見せることで、府中方面における来島村上氏の地位を不動のものとした 4 。特に享禄3年(1530年)、重見通種が府中石井山城に拠って反旗を翻した際には、通康がこれを攻撃して城から追放し、通種は周防国の大内氏を頼って亡命したと記録されている 11 。
通康の出自が不明確であるという事実は、逆説的に、彼の権力基盤が伝統的な血縁によるものではなく、個人の実力と、後に結ぶことになる主家・河野氏との姻戚関係に大きく依拠していたことを示唆している。旧来の権威が揺らぎ、実力がものをいう戦国乱世ならではの現象と言えよう。彼が鎮圧した府中周辺の反乱は、結果として来島村上氏の勢力伸張の好機となり、主家である河野氏にとって、通康が領国支配のために頼らざるを得ない重要な存在へと急成長を遂げる決定的な要因となったのである。
通康の武将としての実力と活躍を高く評価した伊予守護・河野弾正少弼通直(こうの だんじょうのしょうひつ みちなお)は、破格の待遇をもって彼を自陣営に深く取り込んだ。通直は、広大な化粧田(嫁入りの際の持参地)を添えて自らの娘を通康に嫁がせたのである 3 。この婚姻により、通康は単なる有力家臣という立場から、河野氏の一門に準ずる特別な地位を獲得するに至った。
姻戚関係を結んだ通康は、名実ともに河野氏政権の中枢を担う存在となった。平岡氏のような譜代の重臣らと共に、宿老・加判衆として領国経営の枢要に参画したのである 12 。天文10年(1541年)頃に河野通直が発給した文書の中には、領内の重要事項について「毎事、重見・来島・平岡に相談候て」と記されている箇所があり、通康が河野氏の領国支配において、政策決定に関与する不可欠な人物であったことが明確に読み取れる 12 。
通康の価値は、その軍事力において最も顕著に発揮された。天文10年(1541年)、西国の雄・大内義隆が派遣した大内水軍が、伊予国一の宮である大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)の鎮座する神の島・大三島に侵攻するという事件が勃発した 4 。主君・通直の命を受けた通康は、得居氏、平岡氏といった伊予の警固衆(水軍)を率いて直ちに出陣。さらに、同じ村上水軍である能島村上氏の援軍も得て、大三島の神官・大祝(おおほうり)氏と共に大内水軍を果敢に迎撃し、これを撃退することに成功した 4 。この勝利は、来島村上氏の武名を瀬戸内海に轟かせると同時に、河野氏にとって通康が防衛の要であることを改めて証明するものであった。
村上水軍にとって、大山祇神社は特別な存在であった。海の神、そして山の神でもある祭神・大山積神は、海上を生業とする彼らの守護神として篤い信仰を集めていた 13 。特に来島村上氏は、大山祇神社の神紋である「折敷に三文字(おしきにさんもんじ)」を自らの家紋として使用することを許されており、その精神的な結びつきの深さが窺える 14 。この共通の信仰は、水軍の結束と士気を高める精神的な支柱としても機能していた。
通康と河野氏の関係は、単なる主従関係を超えた、いわば「運命共同体」であった。河野氏にとって通康は、領内の反乱を鎮め、大内氏のような外部の強大な敵から領国を守るための「剣であり盾」であった。一方、通康にとって河野氏は、自らの武力に権威と正統性を与えてくれる「後ろ盾」であった。この強固な相互依存関係が、やがて河野家の内紛「天文伊予の乱」という異常事態を引き起こす直接的な原因となるのである。
【表1】村上通康の家族構成と主要姻戚関係
関係 |
氏名・情報 |
備考 |
本人 |
村上 左衛門大夫 通康 |
来島村上氏当主。 |
父 |
村上康吉(説あり)/ 不詳 |
『寛永諸家系図伝』では実父不詳 4 。 |
正室 |
河野弾正少弼通直の娘 |
主家との関係を決定づけた婚姻 3 。 |
側室/後室(説) |
天遊永寿(宍戸隆家の娘) |
毛利元就の外孫。毛利氏との連携を象徴する関係 4 。 |
子(判明分) |
得居通幸(長男)、来島通総(四男)、通清 |
通総が家督を継承。得居氏は分家 3 。 |
子(説) |
河野通直(伊予守) |
天遊永寿の子で、後に河野家の養子になったとする説 4 。 |
娘(判明分) |
松溪妙寿(穂井田元清正室)、村上武吉室 |
一人は毛利一門、一人は能島村上氏へ嫁ぐ 3 。 |
主要姻戚 |
河野氏(主家・舅)、毛利氏(同盟相手・娘婿の主家) |
彼の権力基盤が姻戚関係によって構築されていたことを示す。 |
主君・河野通直は、長らく男子の跡継ぎに恵まれなかった。通直は、自らの後継者として、最も信頼を寄せる娘婿であり、数々の武功を挙げてきた村上通康を指名するという、前代未聞の決断を下した 4 。これは、血縁を何よりも重んじる当時の価値観からすれば、極めて異例のことであった。
この決定に対し、河野氏の伝統を重んじる譜代の家臣団は一斉に猛反発した。彼らは、河野氏の分家である予州家の当主・河野通政(みちまさ、後の晴通)こそが正統な後継者であると主張し、その擁立のために結束した 5 。彼らにとって、血の繋がりのない、しかも元をただせば外様の一水軍頭領に過ぎない通康が主家の家督を継ぐことは、到底容認できるものではなかった。この対立は、新興勢力である通康と、旧来の権益を守ろうとする譜代家臣団との深刻な亀裂を浮き彫りにした。
対立はついに武力衝突へと発展した。通政を盟主として担いだ反乱軍は、通直と通康が籠る河野氏の居城・湯築城(ゆづきじょう)を大軍で包囲した 5 。城内で通直方に味方する者はごく僅かで、主に通康の手勢のみが防戦にあたった。しかし、衆寡敵せず、戦況は絶望的となった。追い詰められた通直は自害を覚悟するが、その時、通康がこれを強く押しとどめ、自ら主君・通直を背負って敵の包囲網を突破し、本拠地である来島城へと落ち延びた、という逸話が軍記物『予陽河野家譜』にドラマチックに描かれている 4 。
湯築城を占拠した反乱軍は、勢いに乗じて来島城に攻め寄せた。しかし、来島城は激しい潮流に守られた海の要塞であり、攻め手は容易にこれを陥落させることができなかった 5 。戦況が膠着状態に陥る中、双方の間で和議の機運が生まれ、交渉が開始された。
長期にわたる交渉の末、最終的に以下の条件で和睦が成立したと伝えられている 5 。
この一連の騒乱は、通康の類稀なる政治的交渉能力を証明するものであった。彼は、家督相続という最大の目標こそ断念したものの、軍事的に劣勢な状況から、来島城という地理的優位性を最大限に活用して戦いを長引かせ、交渉のテーブルに着くことに成功した。そして、実現不可能であった「家督」を譲歩する代わりに、一族の家格を主家と同等にまで高める「越智姓と家紋」という、実質的かつ永続的な名誉と地位を獲得したのである 10 。通康は、表面的な「負け戦」を、一族の未来に繋がる「政治的勝利」へと巧みに転換させたのであった。
天文20年(1551年)、中国地方の勢力図を根底から揺るがす大事件が起こる。大内氏の重臣・陶晴賢(すえ はるかた)が、主君である大内義隆を討つというクーデター「大寧寺の変」である 21 。これにより大内家の実権を握った陶に対し、安芸国の国人領主であった毛利元就が「主君殺しの逆賊を討つ」との大義名分を掲げて反旗を翻した 21 。しかし、動員できる兵力において、毛利軍は陶軍に圧倒的に劣っていた。この絶望的な兵力差を覆すため、元就は陶の大軍を援軍の来ない孤立した島におびき寄せて奇襲するという、一世一代の博打に打って出た。その決戦の地として選ばれたのが、安芸国の厳島であった 22 。
元就の奇襲作戦が成功するか否かは、ただ一点、瀬戸内海の制海権を握る村上水軍を味方に引き入れられるかにかかっていた。
元就は、自らの三男であり、水軍の将としても知られた小早川隆景に村上水軍との交渉を命じた。隆景は、配下の水軍の将であり、村上通康と個人的に親交があった乃美宗勝(のみ むねかつ)を説得の使者として派遣した 21 。当時、村上三家のうち因島村上氏は既に毛利氏に服属していたが、最大勢力である能島村上氏と、河野氏の重臣である来島村上氏(通康)は、陶氏からも味方になるよう誘いを受けており、旗幟を鮮明にしていなかった。
乃美宗勝は、旧知の仲である通康のもとを訪れ、必死の説得を行った。軍記物によれば、宗勝の「刺し違えてでも毛利の味方に引き入れる」という鬼気迫る気迫に心を動かされ、通康は毛利方への加勢を決断したとされる 21 。一説には、通康は当時、能島村上氏の若き当主・村上武吉の養父、あるいは後見人的な立場にあったとされ、彼の決断が能島村上氏の動向にも決定的な影響を与え、村上水軍の主力が毛利方につく流れが生まれたと言われている 21 。
天文24年(1555年)10月1日未明、折からの暴風雨に乗じて、村上水軍の船団は毛利軍本隊を厳島へと秘密裏に輸送した 23 。夜明けと共に毛利軍の奇襲攻撃が開始されると、陶軍は大混乱に陥った。村上水軍は厳島周辺の海上を完全に封鎖し、混乱して海へ逃れようとする陶軍の兵士たちを次々と討ち取り、あるいは船を転覆させて溺死させた 23 。この海上封鎖がなければ、陶軍の多くは対岸へ脱出できていた可能性が高く、村上水軍の参戦は、毛利軍の歴史的勝利に決定的な貢献を果たしたというのが通説である。
一方で、近年の研究では、この厳島の戦いに来島・能島村上氏は参戦しておらず、毛利方に味方したのは因島村上氏のみであったとする説も有力に唱えられている 4 。この説は、合戦当時の一次史料に三家全ての参戦を明確に裏付ける記述が見当たらないことなどを根拠としている。
厳島の戦いにおける来島村上氏の役割を巡る記述は、後の時代に編纂された歴史書、特に毛利氏側の視点で書かれた『陰徳太平記』などの軍記物において、軽視、あるいは意図的に無視される傾向が見られる 27 。
この歴史記述の歪みの背景には、通康の死後、その子である来島通総が豊臣秀吉の調略に応じて、長年同盟関係にあった毛利氏から離反したという、後の歴史的事件が大きく影響している 27 。毛利氏(後の長州藩)から見れば、「裏切り者」の一族となった来島氏の功績は、歴史から抹消、あるいは過小評価する必要があった。その一方で、江戸時代を通じて毛利家臣として存続した能島村上氏の役割が、実際以上に強調されるという、政治的な意図に基づいた歴史の「修正」が行われた可能性が極めて高い 27 。
厳島の戦いを巡る参戦・不参加論争は、単なる事実認定の問題に留まらない。それは、「歴史がいかに勝者や後世の権力者の都合によって記述され、変容するか」という、歴史学の根源的なテーマを内包している。通康の功績が、彼自身の行動ではなく、彼の子の後の行動によって歴史から「抹消」されかけたという事実は、戦国武将の評価が、その人物一代だけでなく、一族のその後の運命によっても左右されるという非情な現実を示している。通康の事例は、史料を批判的に検討する重要性を我々に教える、絶好のケーススタディと言えるだろう。
厳島の戦いを経て、村上通康は毛利氏との協調路線を一層強固なものとしていく。毛利元就が周防・長門二国を完全に平定する防長経略(大内氏残党の掃討戦)や、九州の有力大名・大友宗麟との覇権を争った門司城の戦いなど、毛利氏の主要な軍事行動において、通康は来島水軍を率いて中核部隊として参戦し、数々の功績を挙げた 4 。
毛利氏との関係が深まる中で、両者の結びつきをさらに強化するための政略結婚が行われた可能性が指摘されている。毛利元就の孫娘にあたる女性(元就の娘婿・宍戸隆家の娘、名を天遊永寿という)が、通康の後室または側室として嫁いだとされる説である 4 。さらに、この説はより複雑な様相を呈する。この女性は通康の死後、主家である河野通宣の室となり、その際に通康との間に生まれた子(後の河野伊予守通直)を連れて再嫁し、その子が実子のいなかった通宣の養子として河野家の家督を継いだ、というものである 4 。この説の真偽は未だ確定していないが、事実であれば、通康と毛利氏が極めて密接な血縁関係を結び、伊予・河野氏の家督問題にまで毛利氏が深く関与していたことを示唆しており、非常に興味深い。
永禄10年(1567年)、河野氏は、伊予国内の有力国人領主である宇都宮豊綱との間で深刻な対立状態にあった。河野氏の主力として、通康はこの宇都宮氏との戦いに出陣したが、その陣中において突如、急病に倒れてしまった 4 。
病床にあって自らの死を悟った通康は、主家・河野氏の将来を深く案じ、最後の力を振り絞って毛利元就に援軍を要請する使者を送った。元就は、厳島の戦いにおける通康の多大な貢献と、その後の長年にわたる忠勤という「恩義」に報いるため、この要請を即座に受諾。小早川隆景を総大将とする大軍を伊予へと派遣した。毛利の援軍は、宇都宮氏とその支援勢力であった土佐一条氏を打ち破り、河野氏を滅亡の危機から救った(毛利氏の伊予出兵) 4 。しかし、この勝利を見届けるかのように、通康は河野氏の居城・湯築城へと戻ったものの回復せず、同年10月23日、49歳でその激動の生涯に幕を閉じた 3 。
厳島の戦い以降の通康と毛利氏の関係は、単なる主従や同盟を超えた「戦略的パートナーシップ」と評価できる。毛利氏は陸の覇者、通康は海の支配者として、互いの専門領域を尊重し、補完しあうことで西日本の覇権を争った。通康の最期の願いが毛利への援軍要請であったことは、彼が自身の死後も、このパートナーシップこそが主家・河野氏を守る最善の策であると固く信じていた証左に他ならない。彼の死は、河野氏にとって最大の軍事的支柱を失うことを意味し、結果として、河野氏の毛利氏への従属を決定的なものにしたのである。
村上通康の死後、来島村上氏の家督は、四男であった通総(みちふさ)が継承した 17 。通総の生母が、主君・河野通直の娘であったことから、血統的な正統性の観点から彼が後継者に選ばれたものと考えられている 28 。
しかし、当主が通総の代になると、来島氏と主家・河野氏の関係は急速に悪化の一途をたどる。その背景には、通康という絶対的な実力者が亡くなったことで、これまで抑えられていた対立が表面化したことが挙げられる。通康の死後に河野氏の家中を主導した平岡氏ら譜代の家臣団との根深い確執や、毛利氏への従属をますます強めていく河野氏の外交方針への反発があったとされている 17 。
天正10年(1582年)、通総はついに大きな決断を下す。父・通康が築き上げた主家・河野氏、そしてその背後にいる大大名・毛利氏との同盟関係を断ち切り、中央で天下統一事業を急速に進めていた織田信長の重臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の調略に応じたのである 17 。これは、父の路線からの完全な決別を意味した。この離反により、来島氏は直ちに毛利・能島村上連合軍の猛攻撃を受け、一時的に本拠地である来島城を追われ、秀吉のもとへ身を寄せることとなった。
秀吉の配下に入った通総は、その水軍力と武勇を高く評価された。天正13年(1585年)、秀吉による四国征伐が始まると、通総は小早川隆景の軍勢の先鋒として伊予に上陸し、かつての主家・河野氏を攻めるという皮肉な役割を果たした。その戦功により、戦後、通総は伊予国風早郡に1万4千石の所領を与えられ、戦国大名の一員となった 17 。秀吉が彼を「来島、来島」と呼んで重用したことから、通総は姓を「村上」から本拠地の名である「来島」へと正式に改めた 3 。これは、三島村上水軍という海賊衆の共同体から完全に離脱し、豊臣政権下の近世大名として生きる道を選んだことを、内外に明確に示す象徴的な出来事であった。
通康が遺した血脈は、大名となった来島氏だけでなく、全く別のルートでも後世へと繋がっていた。彼の娘の一人、松溪妙寿は、毛利氏の一門である穂井田元清に嫁いでいた。そして、二人の間に生まれた男子こそ、後に長州藩初代藩主・毛利輝元の後継者となり、毛利宗家を継いだ毛利秀元なのである 4 。歴史の皮肉というべきか、通康の血は、息子・通総が離反し敵対した毛利氏の、まさにその中枢にも脈々と受け継がれていったのであった。
通康の生涯は、来島氏の地位を飛躍的に高めたが、同時にその強大化した力が、次代における主家との破局の遠因ともなった。通康が心血を注いで築いた河野氏・毛利氏との蜜月関係は、彼の死と共に瓦解し、息子・通総は父とは全く逆の、反河野・反毛利の道を選ばざるを得なかった。しかし、その通総が秀吉のもとで大名として生き残れたのは、通康が一代で築き上げた来島氏の軍事力と瀬戸内における政治的プレゼンスという、偉大な「遺産」があったからに他ならない。
【表2】村上通康の子孫の動向と来島氏の変遷
人物 |
関係 |
動向・結末 |
来島通総 |
四男・家督相続者 |
河野・毛利から離反し、豊臣秀吉に臣従。姓を「来島」に改め、伊予1万4千石の大名となる。慶長の役、鳴梁(ミョンニャン)海戦にて李舜臣率いる朝鮮水軍と戦い、戦死 17 。 |
得居通幸 |
長男 |
弟・通総を補佐し、共に秀吉に仕える。伊予で3千石の所領を得る。文禄の役、唐浦(タンポ)海戦にて戦死 17 。 |
松溪妙寿 |
娘 |
毛利一門・穂井田元清に嫁ぐ。その子・毛利秀元は毛利宗家を継ぎ、長州藩の支藩・長府藩の初代藩主となる 4 。 |
村上通康は、瀬戸内海にその名を轟かせた卓越した海将であると同時に、主家の家督争いに深く介入し、さらには中国地方の覇者・毛利元就の戦略に決定的な影響を与えるほどの、高い政治力と交渉力を兼ね備えた稀有な人物であった。彼は、伝統的な主従関係や血縁の枠組みを超え、自らの実力と巧みな姻戚関係によってのし上がった、まさに戦国乱世を象徴する風雲児であったと言える。
彼の生涯は、瀬戸内海に割拠した独立性の高い海上勢力が、陸の巨大な権力構造に次第に組み込まれ、その中で生き残りをかけて自己変革を迫られるという、時代の大きな転換期を体現している。彼が選択した河野氏・毛利氏との協調路線は、彼の死後、息子・通総によって完全に否定された。しかし、その通総が海賊衆から近世大名へと一族を脱皮させる礎を築いたのもまた、父・通康が遺した有形無形の遺産であったことは疑いようがない。
後世の政治的状況によって、その功績が歴史の記述から不当に軽視、あるいは抹消されることもあった。しかし、その実像を多角的に検証する時、村上通康は、一族の繁栄と存続のために知力と武勇の限りを尽くし、戦国時代の瀬戸内海に確かな足跡を刻んだ偉大な「海の領主」として、再評価されるべき人物である。