来島長親
来島長親は村上水軍の血を引く海賊大名。関ヶ原で西軍につき改易されるも、福島正則の斡旋で豊後森藩主として再起。海を捨て内陸の領主となった。
時代の奔流に翻弄された海賊大名:来島長親の生涯と来島氏の変容
序章:移行期の武将、来島長親
来島長親(くるしま ながちか)という武将の名は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった天下人の影に隠れ、歴史の表舞台で大きく語られることは少ない。しかし、彼の生涯は、戦国乱世の終焉と江戸幕藩体制の確立という、日本史上最も劇的な移行期を象E徴する稀有な軌跡を描いている。彼は、瀬戸内海に覇を唱えた村上水軍の血を引く「海賊大名」の跡継ぎとして生まれながら、その拠り所であった海を奪われ、内陸の小藩主として生きることを余儀なくされた人物である。
本稿は、来島長親の生涯を徹底的に掘り下げ、彼が直面した時代の荒波と、その中で下した苦渋の選択、そして一族の存続をかけた変容の過程を明らかにすることを目的とする。彼の物語は、父・通総が築いた水軍大名としての栄光と悲劇に始まり、天下分け目の関ヶ原合戦における敗北と改易、そして縁故を頼った必死の存続工作を経て、豊後国の山間部で新たな領主として再起するまでを描く。それは、個人の武勇や戦略が絶対的な価値を持った時代から、中央集権的な秩序への忠誠と政治的適応力こそが生存を左右する新時代への移行を、身をもって体験した一人の武将の記録である。
本稿では、長親の生涯を以下の五部構成で詳述する。第一部では、彼の出自と父・通総の時代を概観し、彼が継承した「海賊大名」という遺産の光と影を明らかにする。第二部では、関ヶ原合戦という存亡の岐路における彼の決断と、その破滅的な結果を追う。第三部では、一族の命運を懸けた政治工作と、水軍の無力化という徳川家康の深謀によって実現した豊後森藩への移封の背景を分析する。第四部では、新天地における初代藩主としての統治と、その早すぎる死までを描く。そして第五部では、彼の死後、姓を「久留島」と改めた一族が、如何にしてその血脈を後世へと繋いでいったのかを検証する。
来島長親の人生は、華々しい武功の物語ではない。それは、時代の奔流の中で旧来の価値観が崩壊していく様を目の当たりにしながら、一族の存続というただ一点のために、誇りを捨て、過去と訣別し、新たな秩序に適応していった、移行期の指導者の苦悩と選択の物語なのである。
来島長親 略年譜
年代(西暦) |
元号 |
年齢(数え) |
出来事 |
典拠 |
1582年 |
天正10年 |
1歳 |
誕生。父は伊予風早郡1万4000石の領主、来島通総。 |
1 |
1597年 |
慶長2年 |
16歳 |
父・通総が慶長の役、鳴梁海戦にて戦死。家督を相続する。 |
2 |
1600年 |
慶長5年 |
19歳 |
関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗戦。戦後、伊予の所領を没収される(改易)。 |
1 |
1601年 |
慶長6年 |
20歳 |
妻の伯父・福島正則らの斡旋により赦免され、豊後国玖珠郡森に1万4000石を与えられる。森陣屋の築造を開始。 |
1 |
時期不詳 |
慶長年間 |
不詳 |
徳川家康から一字を拝領し、名を「康親(やすちか)」と改める。 |
1 |
1612年 |
慶長17年 |
31歳 |
3月15日(または25日)、病により死去。 |
1 |
1616年 |
元和2年 |
- |
長親の死後、嫡男・通春が姓を「来島」から「久留島」に改める。 |
2 |
第一部:海賊大名の遺産 ― 父・通総の時代
来島長親の生涯を理解するためには、まず彼が生まれ育った特異な環境、すなわち瀬戸内海を支配した「海賊大名」としての来島氏の歴史と、父・来島通総(みちふさ)が下した重大な決断について深く知る必要がある。
瀬戸内の覇者・村上水軍と来島氏の出自
中世から戦国時代にかけて、瀬戸内海、特に芸予諸島周辺の複雑な海域は、村上水軍として知られる海上勢力によって支配されていた 5 。彼らは単なる略奪を行う「海賊(パイレーツ)」ではなく、航行する船から通行料(帆別銭)を徴収する代わりにその安全を保障し、水先案内や海上輸送を担う、秩序の維持者としての側面も持っていた 7 。戦時には、その卓越した操船技術と海上戦闘能力を武器に、有力大名に雇われる傭兵集団としても活躍した 8 。
村上水軍は、能島(のしま)、因島(いんのしま)、そして来島(くるしま)を本拠地とする三家(三島村上氏)によって構成されていたが、これらは常に一枚岩ではなく、それぞれが独立した勢力として緩やかな同盟関係にあった 7 。
来島長親の祖先である来島村上氏は、その名の通り、伊予国今治沖に浮かぶ来島を本拠地としていた 10 。来島は、日本三大急潮の一つである来島海峡の渦中にあり、島全体が天然の要塞と化していた 13 。この地理的利点を活かし、来島氏は伊予国の守護大名である河野(こうの)氏の配下として、その水軍の中核を担う重臣的な立場にあった 11 。しかし、その関係は単純な主従ではなく、河野氏の権威を認めつつも、海においては高い独立性を保つという複雑なものであった 17 。
父・来島通総の決断:中央政権への帰属
長親の父・通総は、この村上水軍の伝統と秩序が大きく揺らぐ時代に、一族の運命を左右する重大な決断を下した人物である。16世紀後半、織田信長が天下統一事業を推し進め、中国地方の雄・毛利氏と激しく対立すると、瀬戸内海の海上権益はその帰趨を決定づける重要な要素となった。
天正4年(1576年)の第一次木津川口海戦では、能島・因島村上氏は毛利方に与して織田水軍を打ち破った。しかし、若き当主であった通総は、旧来の毛利・河野との関係よりも、中央で台頭する織田勢力の将来性に着目した 10 。天正10年(1582年)、通総は主家である河野氏から離反し、織田信長の重臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の勧誘に応じてその麾下に加わったのである 10 。この「裏切り」に激怒した毛利・河野連合軍の猛攻を受け、通総は一時、本拠地の来島を追われ、秀吉のもとへ逃走する事態となった 13 。
しかし、この賭けは結果的に成功する。本能寺の変の後、天下統一の覇権を握った秀吉は、いち早く味方についた通総を高く評価した。秀吉が親しみを込めて「来島、来島」と呼んだことから、通総は正式に姓を「村上」から「来島」へと改めたとされる 18 。そして天正13年(1585年)、秀吉の四国征伐において、通総は小早川隆景軍の先鋒として故郷伊予に侵攻し、旧主家である河野氏を滅ぼす側に回った 18 。その功績により、伊予国風早郡などに1万4000石の所領を与えられ、独立した海上領主から豊臣政権下の近世大名へと、その地位を大きく転換させた 10 。これは、秀吉が天正16年(1588年)に発布した「海賊停止令」に先んじて、海賊衆から大名へと脱皮する道を選んだ、通総の先見の明を示すものであった 10 。
朝鮮出兵と鳴梁の悲劇:父の死と若き跡継ぎ
大名となった通総は、秀吉の九州征伐や小田原征伐にも水軍を率いて従軍し、豊臣政権の忠実な武将として活躍した 10 。しかし、その忠誠は彼に悲劇的な最期をもたらす。
文禄元年(1592年)から始まった朝鮮出兵(文禄・慶長の役)において、通総は水軍の将として朝鮮半島へ渡海した 3 。慶長2年(1597年)9月16日、朝鮮水軍の名将・李舜臣(イ・スンシン)との間で繰り広げられた鳴梁(ミョンリャン)海戦において、日本水軍の一員として奮戦するも、潮流を巧みに利用した朝鮮水軍の前に大敗を喫し、壮絶な戦死を遂げた 3 。享年36(または37) 3 。この戦いで戦死した大名は、日本全軍を通じて通総ただ一人であり、その死は来島氏にとって計り知れない打撃となった。
父の突然の死により、当時まだ16歳の少年であった長親が、混乱の極みにあった豊臣政権末期において、来島家の家督を継承することになったのである 1 。彼が相続したのは、父が命と引き換えに手に入れた1万4000石の所領と、「豊臣大名」という不安定な地位、そして目前に迫る天下分け目の大乱であった。
第二部:激動の継承と存亡の岐路 ― 関ヶ原合戦
父・通総の死からわずか3年後、豊臣秀吉が逝去し、日本は徳川家康率いる東軍と、石田三成らが擁立した毛利輝元を総大将とする西軍とが対峙する、天下分け目の局面を迎えた。若き当主・来島長親は、この巨大な政治的・軍事的対立の渦中で、一族の存亡を賭けた決断を迫られることとなる。
西軍加担の背景と決断
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、来島長親は西軍に与した 1 。この選択は、彼の領地である伊予国が、西軍の総大将・毛利輝元の本拠地である中国地方と地理的に極めて近く、その強大な影響下にあったことが最大の理由と考えられる。また、四国の他の大名、例えば長宗我部盛親なども西軍に属しており、地域の情勢が西軍優位にあると判断したとしても不思議ではない。
父・通総は豊臣秀吉個人に忠誠を誓うことで大名となったが、秀吉亡き後の豊臣政権の正統性を継承すると標榜する西軍に与することは、豊臣恩顧の大名として自然な流れであったとも解釈できる。いずれにせよ、この19歳の若き当主の決断は、結果的に来島氏を最大の危機へと追い込むことになる。
伊予の「関ヶ原」:三津浜夜襲
長親自身が関ヶ原の本戦に参加したか、あるいは別の戦線にいたかについての具体的な記録は乏しいが、彼の本国である伊予では、関ヶ原の主戦場と連動した激しい戦闘が繰り広げられていた。これは「三津浜夜襲(みつはまやしゅう)」または「刈屋口の戦い」と呼ばれる 21 。
関ヶ原の本戦で東軍に加わっていた伊予松山城主・加藤嘉明の留守を狙い、毛利輝元は旧河野氏の家臣団などを糾合した軍勢を伊予に派遣した 21 。毛利軍は松山沖の三津浜に上陸し、布陣する 21 。これに対し、加藤嘉明の家臣・佃十成(つくだ かずなり)は、数で劣る兵力を率いて夜陰に乗じて奇襲を敢行した。油断していた毛利軍は大混乱に陥り、軍勢を率いていた能島村上氏の一族・村上元吉(もとよし)が佃十成に討ち取られるなどして惨敗、伊予からの撤退を余儀なくされた 21 。
この伊予における局地戦は、東軍方の加藤氏の勝利に終わった。皮肉にも、長親が西軍として戦っている間に、彼の故郷は東軍の手に完全に落ちていたのである。この戦いに長親自身が直接関与した形跡はないが、彼の不在の間に本国の戦況が東軍優位に傾いたことは、戦後の彼の立場をさらに苦しいものにした要因の一つであったかもしれない。
敗戦、改易、そして離散
慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原における本戦は、小早川秀秋らの裏切りもあって、わずか半日で東軍の圧勝に終わった 23 。この報は全国に伝わり、西軍に与した大名たちは過酷な運命を辿ることになる。
来島長親も例外ではなかった。西軍敗北の責を問われ、徳川家康によって伊予国風早郡1万4000石の所領はすべて没収された(改易) 1 。父・通総が命懸けで築き上げた大名としての地位は、長親の代でわずか3年にして失われた。家臣団は離散し 1 、来島氏は歴史の舞台から姿を消す寸前まで追い詰められた。戦国時代から続いた来島村上氏の栄光は、ここに潰えたかに見えた。
第三部:海との訣別 ― 豊後森藩の成立
関ヶ原の敗戦により全てを失った来島長親であったが、彼の運命は完全には尽きていなかった。武力や戦略ではなく、婚姻による縁故と巧みな政治工作が、絶望的な状況から一族を救い出すことになる。しかし、その代償は、来島氏のアイデンティティそのものであった海との永遠の訣別であった。
赦免への道:福島正則の斡旋
来島氏存続の鍵を握ったのは、東軍の猛将として武功を挙げた福島正則であった。長親の正室・玄興院は、福島正則の養女(血縁上は従兄弟・福島高晴の娘)であり、長親は正則の義理の甥にあたる関係だった 2 。
正則は、関ヶ原での戦功により安芸広島49万8000石を与えられた有力大名であり、徳川家康に対しても大きな発言権を持っていた。彼はこの立場を利用し、徳川政権の中枢であった本多正信らを通じて、長親の赦免を熱心に働きかけた 1 。また、一説には長親が知己であった大坂商人の口添えもあったとされ、政治的な縁故だけでなく、経済的な繋がりも命綱となった可能性が示唆されている 2 。
この必死の嘆願が功を奏し、慶長6年(1601年)、家康は長親を赦免し、大名としての復帰を許すという異例の決定を下した。
内陸への移封:水軍の無力化という徳川の深謀
しかし、家康の裁定は単なる温情ではなかった。長親に与えられた新たな領地は、かつての本拠地である伊予の海辺ではなく、九州の豊後国玖珠郡森(現在の大分県玖珠郡玖珠町)、1万4000石であった 1 。ここは四方を山に囲まれた完全な内陸地であり、来島氏が何世代にもわたって培ってきた水軍としての能力を全く発揮できない場所であった 26 。
この移封は、徳川家康の巧みな政治戦略の現れであった。福島正則の顔を立てて来島氏の家名を存続させる一方で、その牙を完全に抜き去る。つまり、水軍としての潜在的な脅威を無力化し、陸上の小領主として幕藩体制に組み込むという、計算され尽くした処置だったのである 26 。この政策は来島氏に限ったことではなく、他の水軍大名に対しても同様の措置が取られており、徳川政権が旧来の独立性の高い海上勢力をいかに警戒し、解体しようとしていたかがうかがえる。
関ヶ原合戦後の主要水軍大名の処遇比較
大名 |
関ヶ原での立場 |
戦後の処遇 |
海との関係 |
典拠 |
来島長親 |
西軍 |
敗戦後改易、のち赦免。伊予1.4万石→豊後森1.4万石へ移封。 |
内陸に移され水軍としての力を完全に失う。 |
1 |
九鬼守隆 |
東軍(父・嘉隆は西軍) |
鳥羽5.6万石を安堵。戦功により加増。 |
守隆の死後、お家騒動を理由に幕府の裁定で摂津三田・丹波綾部へ分割・内陸移封。水軍としての歴史に終止符が打たれる。 |
29 |
脇坂安治 |
西軍→東軍へ寝返り |
所領安堵。のち伊予大洲5.3万石へ加増転封。 |
大名として存続するも、活動の中心は完全に陸上の藩政運営へと移行。水軍大将としての役割は終焉。 |
31 |
この表が示すように、関ヶ原で東軍に味方し勝利に貢献した九鬼氏ですら、次の世代には内陸へ移されており、徳川幕府が一貫して水軍勢力の力を削ごうとしていたことは明らかである。長親の豊後森への移封は、この大きな時代の流れの中に位置づけられる出来事であった。
海の記憶「頭成港」と臣従の証「康親」
豊後森藩の領地は山間部であったが、唯一の例外として、別府湾に面した速見郡の頭成(かしらなり)に飛び地として港を持つことが許された 2 。しかし、この頭成港はかつての来島のような軍港ではなく、主に年貢米の搬出や、江戸への参勤交代の際に御座船を出すための、純粋な経済・交通港であった 33 。それは、来島氏がかつて支配した広大な海の記憶をとどめる、ささやかな名残に過ぎなかった。
そして、大名としての復帰を許された長親は、徳川家康への完全な臣従の証として、その名を通親(みちちか)あるいは長親から「康親(やすちか)」へと改めた 1 。これは家康の「康」の字を拝領する「偏諱(へんき)」であり、徳川の家臣として再出発することを天下に示す行為であった。海を失い、名を変え、来島氏はここに全く新しい存在として生まれ変わったのである。
第四部:新領地の経営と早すぎる死
豊後森藩の初代藩主となった来島長親(康親)の残りの人生は、失われた海への郷愁を胸に秘めながら、山間の新領地で藩政の礎を築くことに捧げられた。しかし、その治世はあまりにも短かった。
初代藩主としての治政:山間の統治
伊予から移ってきた長親と家臣団にとって、豊後森での統治はゼロからの出発であった。彼らの多くは、潮の香りと共に生きてきた海の男たちであり、稲作を中心とする農村の経営は未知の領域であった 27 。土地の検地を行い、年貢の徴収体制を確立し、現地の民心を掌握することは、初代藩主としての長親に課せられた最も重要な課題であった。
後の時代の森藩の家臣団構成を見ると、給人、中小姓、徒士、足軽といった、典型的な江戸時代の陸上藩の職制が整えられており 36 、長親の時代から、水軍組織から陸上藩の統治機構への転換が図られていったことがわかる。この困難な移行を主導し、藩の基礎を固めることが、長親の治政の中心であった。
森陣屋の築造と故郷への想い
豊後森藩は1万4000石であり、幕府の規定では城を持つことを許されない「無城大名」であった 25 。そのため長親は、この地にあった中世の山城・角牟礼城(つのむれじょう)を廃城とし、その南麓に藩の政庁であり藩主の居館となる森陣屋(もりじんや)を新たに築いた 25 。
陣屋は城郭に比べて小規模な施設であるが、長親が築いた森陣屋は、有事の際には背後の角牟礼城と連携することも想定された、防御機能も考慮されたものであった 4 。後の8代藩主・久留島通嘉(みちひろ)の時代には、壮大な石垣や庭園、天守の代わりともされる茶屋「栖鳳楼(せいほうろう)」が築かれ、さながら小城のような威容を誇るようになるが、その基礎を築いたのは長親であった 4 。
この陣屋の築造において、長親の故郷への想いを物語る象徴的な行為がある。彼は、来島村上氏が代々氏神として崇敬してきた、伊予国大三島の大山祇(おおやまづみ)神社の分霊を森の地に勧請したのである 38 。この神社は後に末廣神社となり、来島(久留島)氏の新たな鎮守として、また故郷の海と祖先を偲ぶ精神的な支柱として、幕末まで藩主と領民の信仰を集め続けた 4 。
三十一年の生涯:藩祖の死
新領地での藩政基盤の確立に奔走した長親であったが、慶長17年(1612年)3月、病に倒れ、31歳という若さでこの世を去った 1 。豊後森藩主としての治世は、わずか11年であった。
彼の短い生涯は、激動の時代の波に翻弄され続けた。父の死による16歳での家督相続、19歳での関ヶ原の敗戦と改易、そして20歳での奇跡的な大名復帰と新天地での苦闘。彼には、藩政改革や大規模な開発といった、後世に名を残すような治績を上げる時間はなかった。しかし、彼の最大の功績は、絶望的な状況から一族を存続させ、海から陸へとその拠点を移し、新たな土地に根を下ろすという、最も困難な「創業」を成し遂げたことにある。藩祖・来島長親の死後、その遺志は幼い嫡男・通春へと引き継がれていく。
第五部:久留島氏の誕生と後世への継承
来島長親の早すぎる死は、豊後森藩にとって大きな痛手であったが、彼が命懸けで守り抜いた血脈は、その後250年以上にわたってこの地で受け継がれていく。その過程で、一族は過去と完全に決別し、新たなアイデンティティを確立する象徴的な一歩を踏み出した。
「久留島」への改姓:過去との決別
長親の死から4年後の元和2年(1616年)、家督を継いだ長男の通春(みちはる)は、一族の姓である「来島」の漢字を「久留島」へと改めた 2 。この改姓は、単なる表記の変更以上の、深い意味を持っていた。
「来島」は、瀬戸内海の故郷の島の名であり、水軍としての輝かしい過去を象徴する姓であった。それを「久しく留まる島」を意味する「久留島」へと変えることは、もはや故郷の海へ帰る望みを捨て、この豊後の山間の地を永住の地と定めるという、一族の固い決意表明であった 4 。それは、父・長親が強いられた海との訣別を、次世代が完全に受け入れ、内陸の領主として生きていく覚悟を内外に示した、象徴的な出来事であった。
豊後森藩の治世と藩祖の記憶
初代藩主・長親が築いた礎の上で、久留島氏は第12代まで、明治維新を迎えるまで豊後森藩主としてこの地を治めた 2 。藩の財政は常に厳しかったが、8代藩主・久留島通嘉のように、藩札の発行や専売制度の導入といった藩政改革を断行し、藩校「修身舎」を創設して文武を奨励するなど、藩の発展に尽力した名君も現れた 41 。
藩祖である長親は、一族の菩提寺である玖珠町の安楽寺に葬られ、歴代藩主と共に手厚く祀られている 42 。また、旧森陣屋跡の庭園には、久留島家の家紋である「折敷に縮み三文字」が刻まれた、長親のものと推定される石像が今も静かに佇んでいる 4 。それは、海の覇者の末裔が、山の領主として生きる道を選んだ、苦難の初代藩主の姿を後世に伝えている。
血脈の広がり:日本のアンデルセン・久留島武彦
戦国の荒波を乗り越えた久留島氏の血脈は、思わぬ形で近代日本の文化史にその名を刻むことになる。長親から数えて十数代後の子孫にあたる久留島武彦(くるしま たけひこ、1874-1960)は、明治から昭和にかけて活躍した児童文学者であり、「日本のアンデルセン」と称されるほどの功績を残した 2 。
彼は、日本全国を巡って子供たちに童話を語り聞かせる「口演童話」の先駆者であり、日本の児童文化の発展に大きく貢献した。かつて武力で海を支配した一族の末裔が、今度は物語の力で子供たちの心を豊かにしたのである。現在、旧豊後森藩の地である大分県玖珠町には、彼の功績を記念した「久留島武彦記念館」が建てられ、多くの人々に親しまれている 42 。これは、来島長親の一族が遂げた、武から文への劇的な変容の最終的な到達点と言えるだろう。
結論:時代の奔流を生き抜いた選択
来島長親の生涯は、戦国時代の終焉という巨大な地殻変動の中で、一個人が、そして一つの家が、如何にして生き残りを図ったかの克明な記録である。彼が父・通総から受け継いだのは、瀬戸内海という限定された世界で絶対的な力を誇った「水軍」という名の旧時代の遺産であった。しかし、彼が生きた時代は、もはや地域の海上武力が独立性を保てる時代ではなかった。豊臣秀吉による天下統一と海賊停止令、そして徳川家康による中央集権体制の確立は、彼らのような勢力に「大名としての臣従」か「滅亡」かの二者択一を迫るものであった。
関ヶ原の戦いにおける西軍への加担は、地政学的には自然な選択であったかもしれないが、結果として来島氏を改易という破滅の淵に追いやった。ここからの再生は、武力ではなく、妻の縁故という政治的資産と、それを最大限に活用した必死の嘆願によって成し遂げられた。
徳川家康が下した「豊後森への移封」という裁定は、来島氏にとって、海との訣別という、アイデンティティの根幹を揺るがす過酷なものであった。しかし、それは同時に、一族の存続を許す唯一の道でもあった。長親はこの現実を受け入れ、内陸の藩主として新たな統治の礎を築き、故郷の神を祀ることで一族の精神的な繋がりを保った。彼の早すぎる死は惜しまれるが、その短い治世は、来島氏が「久留島氏」として250年以上続くための、最も重要で困難な第一歩を記した期間であった。
来島長親の物語は、戦国武将の華々しい成功譚ではない。むしろ、敗北と喪失、そして屈辱的な妥協の連続であった。しかし、彼の選択は、結果として一族を幕末まで存続させ、その血脈を近代日本の文化を担う人物にまで繋いだ。それは、時代の奔流に抗うのではなく、流れを読み、時に身を委ね、新たな岸辺に根を下ろすことで得られた、静かな、しかし確かな勝利であったと言えるだろう。彼の生涯は、激動の時代を生き抜くための知恵が、武勇や戦略だけではないことを、我々に静かに語りかけている。
引用文献
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- 久留島陣屋 [1/2] 水軍で名を馳せた来島氏が江戸期を通じて治めた地。 https://akiou.wordpress.com/2017/04/28/kurushima-jinya/
- 村上海賊 | 因島のおすすめ | いんのしま観光なび(因島観光協会) https://kanko-innoshima.jp/recommended/kaizoku
- 村上海賊とは? https://murakamikaizoku.jp/murakamikaizoku
- 村上水軍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E8%BB%8D
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- 2017年 #8 村上水軍博物館 高橋剛館長 海活インタビュー | 海と日本PROJECT in えひめ https://www.youtube.com/watch?v=UMmUkAyW8Sg
- 来島通総とは 李舜臣に挑んだ村上水軍の雄 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/kurushimamitifusa.html
- 村上水軍とは 前編 能島・来島・因島と海賊王・河野氏 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/murakamisuigun.html
- 来島村上氏 - 戦国日本の津々浦々 https://proto.harisen.jp/sizoku1/kurusima-murakami.html
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- 来島 | 観光スポット - 今治市 https://www.city.imabari.ehime.jp/kanko/spot/?a=100
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- 来島城:島全体を要塞化していた来島村上氏の活動拠点。 - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2018/08/11/kurushima/
- 来島通総(くるしま みちふさ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E9%80%9A%E7%B7%8F-1072640
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- ”敗者の想いを探して”伊予・河野氏 Vol.1(松山城・道後・義安寺) - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/10779011
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