最終更新日 2025-06-18

来次氏秀

「来次氏秀」の画像

出羽の風雲児・来次氏秀 ― 大勢力の狭間で生き抜いた国人領主、その生涯の全貌

序章:出羽庄内の風雲児、来次氏秀 ― その生涯と時代背景

はじめに:なぜ来次氏秀か

日本の戦国時代史において、出羽国の豪族・来次氏秀(きすぎ うじひで)の名は、織田信長や徳川家康といった天下人の影に隠れ、決して広く知られているとは言えない。ユーザーが提示した「大宝寺家と最上家の間で去就に迷い、十五里ヶ原合戦以降は上杉家に従った」という概要は、彼の生涯の重要な転換点を的確に捉えている 1 。しかし、この簡潔な記述の背後には、激動の時代を生き抜くために下された、幾多の苦渋に満ちた決断と、一族の存続を賭けた冷徹な戦略が隠されている。

本報告書は、この来次氏秀という一人の地方国人領主の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に掘り下げることを目的とする。彼の行動を単なる「変節」や「日和見」として片付けるのではなく、戦国末期の出羽庄内という、複数の大勢力が熾烈な覇権争いを繰り広げる「草刈り場」で、彼がいかにして自らの一族を守り、生き残りを図ったのかを多角的に分析する。氏秀の生涯は、中央の歴史からは見えにくい、地方国人のリアルな生存戦略を解き明かすための、極めて貴重なケーススタディなのである。

戦国期出羽国庄内地方の地政学的重要性

来次氏秀がその生涯を送った出羽国庄内地方は、戦国大名にとって極めて魅力的な土地であった。広大で肥沃な庄内平野は、豊かな米の収穫をもたらす一大穀倉地帯であり、経済的基盤として計り知れない価値を持っていた。さらに、日本海に面した酒田港は、北国と畿内を結ぶ海上交易の重要拠点であり、莫大な富を生み出す「金のなる木」であった 2

この経済的・戦略的な重要性ゆえに、庄内地方は常に周辺大名の標的とされてきた。北からは越後の上杉氏、東からは山形の最上氏が虎視眈々とその支配を狙い、在地領主である大宝寺氏は、これら外来の勢力と時に結び、時に争いながら、地域の覇権を維持しようと苦心していた。来次氏秀の生涯は、まさにこの上杉、最上、大宝寺という三つの勢力が複雑に絡み合う、地政学的な断層の上で繰り広げられたのである。

庄内四大豪族と来次氏の出自

来次氏は、出羽国庄内川の北側(川北)を領した有力な国人領主であった 1 。その出自については、古代の豪族である出羽清原氏の後裔とする説も存在するが、これを裏付ける確かな史料は現存しない 1 。確かなことは、戦国期の庄内において、彼らが大宝寺(武藤)氏、土佐林氏、砂越氏と並び称される「四大豪族」の一角を占めていたという事実である 1

当初、これらの豪族はそれぞれが独立性を保ち、庄内地方で割拠していた。しかし、次第に大宝寺氏が勢力を伸長させると、来次氏もその支配体系の中に組み込まれていくこととなる 1 。この主家である大宝寺氏との関係こそが、氏秀の前半生を規定し、彼の運命を大きく左右する最初の要因となった。

本拠地・観音寺城(出羽国)

歴史ファンの間で「観音寺城」と言えば、近江国(現在の滋賀県)にあって六角氏の拠点として名高い、日本五大山城にも数えられる巨大城郭を想起するであろう 5 。しかし、来次氏秀の居城であった観音寺城は、この近江の城とは全くの別物であり、混同を避ける必要がある。

来次氏の観音寺城は、出羽国飽海郡、現在の山形県酒田市観音寺(旧遊佐町)に位置した山城であった 1 。その規模は近江の城には及ばないものの、庄内川北を押さえる国人領主の拠点として、地域の政治・軍事の中心であった。郷土史料である『庄内札所霊場三十三観音御縁起』によれば、城跡には今も館跡や池跡が残り、麓にある来次氏の菩提寺・見龍山円通寺には、かつて城の裏門であったと伝わる山門が現存している 10 。さらに、円通寺が来次家の家紋である「三両引」を用い、境内には来次一族の墓所が残されていることからも、城と寺、そして領主一族が一体となった、地域に深く根差した支配を築いていたことがうかがえる 10

項目

詳細

典拠

城名

観音寺城(かんのんじじょう)

1

所在地

出羽国飽海郡(現:山形県酒田市観音寺)

1

城の種類

山城

10

主な城主

来次氏

1

関連史跡

・見龍山円通寺(菩提寺)

・円通寺山門(城の裏門を移築と伝わる)

・円通寺境内の来次家墓所

10

現状

城跡(館跡、池跡)、円通寺に遺構と墓所が残る

10

特記事項

近江六角氏の観音寺城とは同名の別の城である

5

第一章:大宝寺家臣としての雌伏と反逆

父・時秀の死と家督相続

来次氏秀のキャリアは、悲劇的な出来事から始まった。永禄8年(1565年)、父である来次時秀が、当時の庄内の覇者であった大宝寺義増との戦いに敗れ、討死したのである 11 。この結果、氏秀は若くして来次家の家督を継ぐこととなった。

この父の死は、来次氏と大宝寺氏の関係に、表面的な主従関係とは裏腹の、根深い遺恨を残した可能性が極めて高い。主君に父を殺されたという経験は、若き当主の胸中に複雑な感情を刻み込んだはずである。後の氏秀の行動を理解する上で、この「父の仇」でもある主君の下で力を蓄え、一族の再興と飛躍の機会を窺うという、長期的な視点が彼の行動原理の根底にあったと考えることは、決して不自然ではない。

「悪屋形」大宝寺義氏への臣従

氏秀が家督を継いだ頃、大宝寺氏では義増の子・義氏が当主となっていた。義氏は、越後の上杉謙信という強大な後ろ盾を得て庄内の支配を確立し、その権勢は「悪屋形」とまで呼ばれるほどであった 12 。氏秀は、この大宝寺義氏に臣従し、その証として主君の名前から「氏」の一字を偏諱として与えられ、「氏秀」と名乗った 1 。これは、彼が形式上、大宝寺氏の家臣団に完全に組み込まれたことを示すものである。

家臣として、氏秀は義氏の北方経略において重要な役割を担った。由利郡の国人衆(由利十二頭)に対して大宝寺氏への仕官を促す書状を送るなど、外交的な調略活動に従事した記録が残っている 1 。また、敵対する安東愛季のもとへ大宝寺方の使者として赴くなど、武人としてだけでなく、交渉役としての能力も発揮していたことがうかがえる 1 。彼は主君の下で忠実に働きながらも、着実に家臣団の中での存在感を高めていったのである。

謙信の死と氏秀の謀反

天正6年(1578年)、事態は急変する。大宝寺氏の最大の庇護者であった越後の「軍神」上杉謙信が、志半ばで急死したのである。この出来事は、大宝寺義氏の権威を根底から揺るがし、庄内における彼の求心力は急速に低下していった 1

来次氏秀はこの千載一遇の好機を逃さなかった。彼は義氏に対して、突如として謀反の兵を挙げたのである 1 。父の代からの遺恨を晴らし、大宝寺氏の軛から逃れるための、周到に準備された反乱であった可能性が高い。しかし、この反乱は結果的に鎮圧されてしまう。通常、戦国時代の謀反人には一族皆殺しという厳しい運命が待っている。だが、氏秀に下された処遇は驚くべきものであった。彼は処断されるどころか、逆に義氏から所領を与えられて懐柔されるという、異例の結末を迎えたのである 1

この不可解とも言える処遇は、義氏の権力基盤が決して盤石ではなく、氏秀のような有力な国人を完全に排除する力、あるいはその覚悟がなかったことの動かぬ証拠であった。義氏は、氏秀を罰することで他の国人衆の離反を招くことや、彼が完全に最上氏のもとへ走ることを恐れたのである。この一件を通じて、氏秀は自らの一族が持つ戦略的な価値と、主君である大宝寺氏の潜在的な弱さを、同時に見抜いたに違いない。この「失敗した謀反」は、氏秀にとって、次なるより大胆な行動への布石となる、大きな教訓をもたらしたのである。

第二章:激動の庄内と二つの決断

最上義光の調略と大宝寺氏の滅亡

上杉謙信の死後、庄内情勢の空白を突いて急速に影響力を増してきたのが、山形城主「羽州の狐」最上義光であった。義光は庄内に対して執拗な調略工作を仕掛け、大宝寺氏の内部切り崩しを図った。来次氏秀もその主要なターゲットの一人であり、最上氏の重臣・鮭延秀綱から送られた書状をきっかけに、次第に最上氏へと傾倒していく 1

そして天正11年(1583年)、庄内の歴史を揺るがす大事件が勃発する。来次氏秀と砂越氏が最上氏と通じて謀反を起こし、これに呼応した大宝寺氏の重臣・東禅寺義長が、主君である大宝寺義氏を急襲し、自害に追い込んだのである 1 。このクーデターの成功により、長年にわたり庄内を支配してきた大宝寺氏は事実上滅亡した。その背後には、最上義光の巧みな策謀があったことは言うまでもない。義氏の死後、庄内は最上氏の強い影響下に入り、東禅寺氏、来次氏、名跡を継いだ大宝寺氏、砂越氏らによる、不安定な共同統治体制へと移行した 12

決断一:最上氏との同盟深化

大宝寺氏という共通の敵を排除した後、来次氏秀は新たな支配者として最上氏を選び、その関係を決定的に深めるための大胆な一手を打つ。男子の後継者がいなかった氏秀は、同盟相手である最上義光の三男・光氏を養子として迎えたのである 11 。さらに、自身の娘である清水姫を、義光の継室(側室)として嫁がせた 11

養子縁組と婚姻という二重の血縁関係は、単なる政治的同盟を超え、運命を共にするという、戦国時代における最も強固な結束の形であった。この時点での来次氏は、もはや最上氏の単なる同盟者ではなく、その一族の一部とも言えるほど深く結びついていた。これは、自らの一族を新体制の中核に位置づけようとする、氏秀の明確なビジョンに基づいた積極的な戦略であった。この極めて深い関係性が、後に彼が下すことになる、もう一つの重大な決断の劇的な性質を際立たせることになる。

決断二:十五里ヶ原の戦い(天正16年)と上杉方への帰順

最上氏による庄内支配が確立したかに見えた天正16年(1588年)、事態は再び大きく動く。越後に逃れていた大宝寺氏の正統な後継者・大宝寺義勝と、その実父で歴戦の勇将である本庄繁長が、上杉景勝の全面的な支援を受けて、失地回復と領土拡大を目指し庄内に侵攻したのである 2 。世に言う「十五里ヶ原の戦い」の勃発である。

この庄内の覇権を決定づける戦いにおいて、来次氏秀が取った行動については、史料によって記述が異なり、重大な矛盾が存在する。

  • 説A(最上与党・降伏説): 『庄内年代記』などの記録によれば、氏秀は当初、養子や娘を通じて血縁関係にある最上義光の与党として、上杉・本庄軍と戦った。しかし、本庄繁長の猛攻の前に最上方は敗色濃厚となり、氏秀は一族の存続のため、やむなく降伏し、上杉氏に従ったとする説である 4
  • 説B(上杉内通・加担説): 一方で、別の史料では、氏秀が最上氏との深い関係を断ち切り、合戦の趨勢を見極めた上で、勝者となるであろう本庄・上杉方に合戦開始前から同調、あるいは合戦の最中に寝返り、積極的に勝利に貢献したとする説も存在する 1

この史料上の矛盾は、単なる記録の誤りというよりも、氏秀の置かれた極限状況と、彼の取った行動の多面性を反映していると解釈すべきであろう。彼は、血縁という情よりも、一族の存続という実利を優先し、最終的に勝者となるであろう上杉方につくという、冷徹な判断を下した。その過程が、見る者の立場によって「信義に厚い敗者」とも「抜け目のない内通者」とも映ったのではないだろうか。この決断こそが、来次氏の運命を再び大きく転換させる、決定的な分岐点となった。

合戦は上杉・本庄連合軍の圧倒的な勝利に終わり、庄内全域は上杉氏の支配下に入った。そして来次氏秀もまた、その家臣団に組み込まれることになったのである 1

第三章:上杉家臣としての後半生 ― 武人から文人へ

藤島一揆と上杉家への完全帰服

十五里ヶ原の戦いを経て上杉氏の傘下に入った来次氏秀であったが、この時点ではまだ観音寺城を拠点とする在地領主としての地位を保っていた。しかし、天正19年(1591年)、彼の身分を決定的に変える出来事が起こる。豊臣秀吉の全国統一事業の一環として行われた太閤検地に反発した、大規模な農民一揆(藤島一揆)が庄内で勃発したのである。

上杉景勝はこの一揆の鎮圧に乗り出し、その過程で庄内の支配体制を再編した。この時、氏秀は「城周辺で一揆が起きた責任を取る」という形で、長年拠点としてきた観音寺城を去ることになった 4 。これは、彼の領主としての自治権が剥奪され、土地から切り離された上杉家の直臣として、完全にその支配体制に組み込まれたことを意味する。十五里ヶ原での帰順が軍事的な服属であったのに対し、この藤島一揆後の処理は、氏秀の「国人領主」としての時代の終わりを告げるものであった。慶應義塾大学所蔵の史料が、この藤島一揆討伐の際に景勝に「帰服」したと記しているのは、この身分上の大きな変化を指していると考えられる 4

文人としての才能開花

領主の座を失った氏秀であったが、彼は新たな環境で生き抜くための道を見出す。それは、武人としてではなく、文化人としての才能を開花させることであった。史料には、彼が書に優れ、新たな主君である上杉景勝の右筆(ゆうひつ、秘書役)や、和歌の相手という、極めて知的な側近の役目を務めたと記録されている 4

その教養の高さは、具体的な記録からも裏付けられる。慶長5年(1600年)正月、上杉家の宰相・直江兼続が主催した格式高い連歌会「何船(いづれふね)連歌」に、氏秀は上杉家の重臣たちと共に参加者として名を連ねている 16 。また、現在、酒田市の指定文化財となっている彼の書簡群の中にも、連歌に関するものが含まれていることから、彼の文化的な素養が単なる趣味の域を超えた、専門的なレベルにあったことがわかる 17 。戦の時代が終わり、統治と教養が重んじられる時代へと移行する中で、氏秀は自らの「ソフトパワー」を最大限に活用し、旧領主という立場から、新体制下で信頼される側近へと、見事な転身を遂げたのである。

慶長出羽合戦と米沢への移封

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、それに連動して東北地方でも「慶長出羽合戦」が勃発した。上杉景勝は西軍の主軸として、東軍の徳川家康に与した最上義光と激しく争った。この戦いで、来次氏秀は上杉軍の一員として、かつて養子を迎え、娘を嫁がせた旧主・最上義光と干戈を交えるという、皮肉な運命に直面することになる。この激動の時期における彼の具体的な活動を裏付ける一次史料として、米沢市の上杉博物館(伝国の杜)には「来次氏秀書状」が所蔵されている 18

しかし、関ヶ原における西軍の敗北により、上杉家は会津120万石から米沢30万石へと大幅に減封されるという、絶体絶命の苦境に立たされた。この時、多くの家臣が上杉家を去る中で、来次氏秀は主君・景勝に従い、故郷である庄内を永久に捨てて米沢へ移住するという、人生最後の大きな決断を下した 1

終章:米沢藩士来次家と後世へのまなざし

米沢藩士としての来次氏

米沢へ移った来次氏秀のその後の動向について、詳細な記録は乏しい。しかし、彼の子孫は江戸時代を通じて米沢藩士として家名を存続させたことが確認されている 1 。米沢藩の公式な家臣団の系譜をまとめた『米沢藩御家中諸氏略系譜』には、確かに「来次」の名が記されており、初代から明治維新に至るまでの系図が収録されている 19 。また、酒田市立図書館が所蔵する「来次朝秀連署状」という書状は、米沢藩士として活動した氏秀の子孫によるものと考えられており、一族が新天地で武士としての務めを果たし続けたことを物語っている 20

来次氏秀の人物像の総括

来次氏秀の生涯を振り返ると、彼が「裏切り者」や「日和見主義者」といった単純なレッテルでは到底評価できない、複雑で奥行きのある人物であったことがわかる。彼の行動原理の根底には、常に自らの一族をいかにして存続させるかという、極めて冷徹な現実主義(リアリズム)があった。そのためには、主君への反逆も、血縁関係の断絶も厭わない非情な決断を下すこともあった。

しかし同時に、彼は時代の大きな変化に柔軟に対応する、優れた適応能力の持ち主でもあった。武勇が全てであった戦国の世から、統治能力や教養が求められる近世へと移行する中で、彼は武人としてのキャリアを終えた後、書や和歌・連歌の才を活かして新たな地位を築いた。来次氏秀の生涯は、まさに戦国末期から近世初期への移行期を生きた、地方国人領主の苦悩と戦略、そして見事なまでの生存術を体現しているのである。

史料と伝承を訪ねて

来次氏秀の物語は、書物の中だけのものではない。彼の故郷である山形県酒田市周辺には、今もその面影を伝える史跡が残されている。彼が拠点とした観音寺城の跡地、そして、城の裏門が山門として移築され、一族の墓が静かに眠る菩提寺・見龍山円通寺 10 。これらの地を訪れることは、大勢力の狭間で激動の生涯を送り、見事に一族を未来へと繋いだ一人の武将の息吹を、時を超えて感じさせてくれるに違いない。

引用文献

  1. 来次氏秀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E6%AC%A1%E6%B0%8F%E7%A7%80
  2. 十五里ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%94%E9%87%8C%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  3. 大宝寺義氏の戦争と外交 - 秋田大学学術情報リポジトリ https://air.repo.nii.ac.jp/record/5448/files/akishi64(43).pdf
  4. 「武士の時代 中世庄内のつわものたち」 - 酒田市 https://www.city.sakata.lg.jp/bunka/bunkazai/bunkazaishisetsu/siryoukan/kikakuten201-.files/0203.pdf
  5. 残念すぎる日本の名城 第52回:観音寺城|石垣のマチュピチュ、近江の幻城|白丸 - note https://note.com/just_tucan4024/n/n8711025ed27c
  6. 観音寺城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/western-japan-castle/kannonji-castle/
  7. 観音寺城 (4) – 観音正寺坊院群と家臣団屋敷 - 城郭墓所砲台 https://yukimufort.net/castle/kannon04/2220/
  8. 観音寺城跡 - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042776.pdf
  9. 観音寺城 余湖 http://mizuki.my.coocan.jp/siga/kannonji.htm
  10. 庄内三十三観音霊場のご案内・オフィシャルサイト https://syounai33.sakura.ne.jp/4syounai33kwannonengi.html
  11. 最上家の武将たち:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会 https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=149233
  12. 大宝寺義氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E6%B0%8F
  13. 大宝寺氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%AF%BA%E6%B0%8F
  14. F978 武藤頼平 - 藤原氏 - 系図 https://www.his-trip.info/keizu/F978.html
  15. 十五里ヶ原合戦 https://joukan.sakura.ne.jp/kosenjo/juugorigahara/juugorigahara.html
  16. Title 埼玉県立文書館蔵慶長五年正月廿一日賦何船連歌「梅か香は ... https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00296083-20201200-0139.pdf?file_id=156908
  17. 酒田港港湾計画資料 ( その2 ) - 山形県 https://www.pref.yamagata.jp/documents/4268/r2kaitei_siryou2.pdf
  18. Untitled - 米沢市上杉博物館 https://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/pdf/nenpo/nenpo22.pdf
  19. 岸本良信公式ホームページ 藩士と幕臣の名簿 米沢藩 https://www.kishimotoyoshinobu.com/%E7%B1%B3%E6%B2%A2%E8%97%A9/
  20. 図 書 館 の 概 要 - 【公式】MIRAINI ミライニ 酒田市 https://miraini-sakata.jp/lib/files/R2_tosyokangaiyo.pdf
  21. 図 書 館 の 概 要 - 【公式】MIRAINI ミライニ 酒田市 https://miraini-sakata.jp/lib/files/libimg1628225504.pdf