松井宗信は今川義元に仕え、二俣城主として武官・文官を兼任。三河戦線で活躍し「粉骨無比類」と称賛された。桶狭間の戦いで主君に殉じて討死。その忠義は後世に語り継がれた。
戦国時代の日本には、同姓同名の人物が数多く存在する。中でも「松井宗信」という名は、歴史の中に複数見出すことができる。例えば、室町幕府の管領家であった細川氏に仕えた松井越前守宗信や、鎌倉時代の足利氏家臣であった松井兵庫頭宗信などがその例である 1 。本報告書が対象とするのは、これらの人物とは異なり、「海道一の弓取り」と謳われた戦国大名・今川義元に仕え、その最期の戦いである桶狭間の合戦で命を散らした、**松井左衛門佐宗信(まつい さえもんのすけ むねのぶ)**である 2 。
松井宗信の生涯は、主君・今川義元の下で駿河・遠江・三河の三国を領し、絶頂期にあった今川家の栄光と、そのあまりにも劇的な崩壊を象徴するものである。彼の忠義と死は、単なる一個人の物語に留まらない。それは、戦国大名今川家の権力構造、その強さと脆弱性、そして当主の死がいかに連鎖的な崩壊を引き起こすかを如実に示す、歴史の縮図と言える。宗信の活躍は義元時代の安定した支配体制の産物であり、彼の死とそれに続く一族の混乱は、今川家の権力基盤が特定の有力家臣の存在にいかに依存していたかを物語っている。本報告書では、この松井宗信という一人の武将の生涯を徹底的に追うことを通じて、今川家の盛衰の力学を深く掘り下げていく。
松井宗信の揺るぎない忠誠心の源流を理解するためには、彼が属した遠江松井氏の歴史を遡る必要がある。
遠江松井氏の伝承によれば、その祖は清和源氏為義流に連なる松井冠者源維義とされ、山城国葛野郡松井(現在の京都市右京区)を発祥の地とする 5 。鎌倉時代には幕府の御家人として山城国に根を張っていた一族であった 5 。
この松井氏が、後の主家となる今川氏と運命的な結びつきを持つのは、南北朝時代の建武年間(1334年-1338年)のことである。当時、山城国の御家人であった松井宗次(兵庫亮)とその子・助宗(八郎)は、後醍醐天皇の建武政権から離反した足利尊氏に味方した。そして、足利一門の宿老であった今川範国に属して各地で戦功を挙げたのである 5 。その恩賞として、建武5年(1338年)に駿河国葉梨荘(現在の静岡県藤枝市)の地頭代職を与えられ、一族は東国へ移住。ここに、今川家譜代の臣としての歴史が始まった 5 。
時代は下り、戦国期に入ると、松井宗能(山城守)が父(名は義行とも)の忠功により、永正10年(1513年)に今川家9代当主・氏親から遠江国鎌田御厨の所領を与えられた 5 。これにより、一族は駿河から遠江へと本格的な足がかりを築く。
宗能の子である 松井貞宗 (さだむね、兵庫介)は、大永8年(1528年)に家督を継承し、遠江国平川郷の堤城主となった 7 。この時点で、松井氏は遠江における有力な国人領主としての地位を確立する。さらに、貞宗の長男であった
松井信薫 (のぶしげ/のぶか、左衛門亮)は、永正11年(1514年)、土着の二俣氏に代わって遠江北部の要衝・二俣城(現在の静岡県浜松市天竜区)の城主となり、一族の勢力を一層強固なものにした 5 。この信薫こそ、本報告書の主題である松井宗信の実兄である。
これらの複雑な人物関係を整理するため、以下に主要人物の系譜図を示す。
【表1:遠江松井氏 主要人物系譜図(戦国期)】
人物名(通称・官途名) |
続柄 |
主要な居城 |
備考 |
松井宗能(山城守) |
貞宗・宗信の祖父 |
- |
今川氏親より遠江に所領を得る 5 |
松井貞宗 (兵庫介) |
宗信の父 |
堤城 |
宗能より家督を継承 7 |
松井信薫(左衛門亮) |
宗信の兄 |
二俣城 |
貞宗の長男。病により早世 5 |
松井宗信 (左衛門佐) |
本報告書の主題 |
二俣城 |
貞宗の次男。兄の死後、家督を継ぐ 4 |
松井宗親 |
宗信の甥(信薫の子) |
二俣城 |
宗信の死後、城主となるも氏真に謀殺される 4 |
松井宗恒(八郎・山城守) |
宗信の嫡子 |
- |
宗信の死後、家督を継承 4 |
この系譜図は、後の章で詳述する宗信の家督相続の背景や、彼の死後に一族を襲う悲劇を理解する上で重要な基盤となる。
享禄2年(1529年)、二俣城主として松井家の勢力を伸長させていた兄・信薫が病によってこの世を去る 4 。これを受け、次男であった宗信が兄の跡を継ぎ、松井家の家督と遠江の要衝・二俣城主の座を継承することとなった。時に宗信はまだ若年であり、これは彼にとって予期せぬ重責であったと推察される。
兄・信薫には宗親という嫡子がいたにも関わらず、弟の宗信が家督を継いだ背景には、宗親がまだ幼少であった可能性や、周辺の国人衆との緊張関係の中で、即戦力となる武将が家を率いる必要があったなど、当時の松井家が置かれた緊迫した状況が考えられる 4 。
宗信が城主となった二俣城は、単なる一城郭ではなかった。天竜川と二俣川の合流点に位置するこの城は、水運の結節点であると同時に、北の信濃方面からの侵攻路を扼し、南の遠州平野への入り口を固める、軍事上・交通上の極めて重要な拠点であった 11 。宗信はこの戦略的要衝の防衛と、周辺地域の統治という重責を担っていたのである。
宗信の能力は、遠江の一国人領主の枠に収まるものではなかった。彼はやがて駿府に出仕し、今川義元の 近習・馬廻り衆 として、主君の側近くに仕えるようになる 7 。これは、彼が単なる地方の有力者ではなく、今川家の中枢にも影響力を持つ、義元直属の信頼された家臣であったことを示している。
さらに注目すべきは、彼が軍事指揮官としての役割に加え、遠江における 代官職 を安堵されていた点である 15 。永禄2年(1559)には、義元の子・氏真から改めて遠江における松井氏の知行と代官職が安堵されており、今川家二代にわたる信頼の厚さがうかがえる 7 。
宗信のこの経歴は、戦国大名・今川氏の統治システムを理解する上で重要な示唆を与える。今川氏は、遠江のような征服地の国人領主を、単に軍事力として動員するだけではなかった。彼らを在地領主として地域の安定を担わせる一方で、中央(駿府)に出仕させて主君の側近とし、さらには代官として地方行政の実務を担わせるという、多層的な役割を課していた。これにより、中央集権的な支配を浸透させ、領国の一元的な統治を強化しようとしたのである。宗信のような文武に秀でた人物は、まさにこの高度な統治システムを支える支柱であり、その潤滑油でもあった。彼の存在そのものが、義元時代の今川家の強さの証明であったと言えよう。
今川義元の治世は、領国経営の安定化と並行して、西方への領土拡大が積極的に推し進められた時代であった。特に、隣国・三河をめぐる織田氏との激しい抗争において、松井宗信は今川軍の尖兵としてその武名を轟かせた。
今川氏が三河への影響力を強めていく過程で、宗信は幾度となくその先鋒部隊を率いて各地を転戦した 5 。彼の武将としての能力は、三河国田原城攻めや、天文17年(1548年)に織田信秀と雌雄を決したとされる小豆坂の戦いなど、数々の実戦で磨かれていった 17 。彼は、義元の野望を実現するための、まさに「剣」であった。
宗信の働きぶりは、主君・義元の目に留まるところとなる。天文8年(1539年)、義元は宗信の目覚ましい戦功に対し、直々の書状、すなわち感状を送って労った 7 。この感状の中で、宗信の働きは「
粉骨比類無(ふんこつひるいなし) 」―その身を粉にして働く様は、他に比べるものがない―と最大級の賛辞で賞されたと伝えられている 15 。
これは単なる褒賞ではない。主君から与えられる感状は武士にとって最高の栄誉であり、「粉骨無比類」という言葉は、彼の忠誠心と働きぶりが、主君・義元に比類なきものとして認められていたことの動かぬ証拠であった。興味深いことに、この感状が与えられたのと同年の9月には、父・貞宗も新たに久津部郷の知行を与えられている 7 。この事実は、宗信個人の武功だけでなく、松井家全体が今川家から厚い信頼を寄せられ、一族を挙げて三河経略に貢献していたことを物語っている。
永禄3年(1560年)5月、今川義元は駿・遠・三の兵、総勢2万5千と号する大軍を率いて尾張への侵攻を開始した。これは今川家の威勢を天下に示す、まさに世紀の遠征であった。そして、この戦いが松井宗信にとって、その忠義を尽くす最後の舞台となる。
この歴史的な遠征において、松井宗信は一族郎党200余名(一説には1,500名)を率い、今川軍本隊の**前衛部隊(前備え)**という重要な役割を担った 4 。彼の部隊は、尾張国内の織田方諸城を見渡せる戦略的要地、
高根山から幕山にかけての丘陵地帯 に布陣した 19 。眼下には、織田軍が立てこもる鳴海城や善照寺砦が一望できた。
5月19日、戦端が開かれる。織田方の武将、佐々政次・千秋季忠らが今川軍の動静を探るべく仕掛けてきた陽動攻撃に対し、前衛の松井隊はこれを冷静に迎撃。見事に撃退し、緒戦の勝利を飾った 19 。この時点では、戦況は完全に今川方の優勢であり、宗信もまた、熟練の指揮官としてその役割を完璧に果たしていた。
しかし、その直後、戦場の天候が急変する。折からの豪雨に乗じ、織田信長率いる本隊が、義元の本陣が置かれた桶狭間山へと奇襲をかけたのである。大軍の油断と悪天候、そして地の利を得た信長の奇策により、戦況は一瞬にして覆った。
前線にいた宗信の耳に、本陣の危機、あるいは義元討死の報が届く。もはや戦況は絶望的であり、軍事的な合理性から判断すれば、部隊を保全して速やかに撤退するのが最善の策であった。事実、部下たちも退却を進言したという 2 。
しかし、宗信の選択は違った。彼は主君の危機に際し、生き延びる道を選ばなかった。伝承によれば、彼は**「我が主・今川治部大輔 常に此処に在りぃ!!」**と叫び、主君と運命を共にすることを決意したとされる 15 。この行動は、合理的な軍事判断を超えた、主君への「殉死」という価値観に貫かれている。それは、主君の危機に駆けつけ、共に死ぬこと自体を武士の至上の名誉とする、当時の主従関係の理想形を体現したものであった。
宗信は手勢を率いて、崩壊しつつある本陣へと馳せ戻った。そして、乱戦の中に身を投じ、織田軍を相手に懸命に奮戦したが、衆寡敵せず、主君・義元の後を追うように討ち死にした 4 。享年46 4 。彼の死は、一個の戦闘行為であると同時に、今川義元というカリスマ的当主と、彼に心酔する家臣との間に築かれた強固な主従関係の終わりを象徴する、悲劇的な幕切れであった。
松井宗信が命を賭して守ろうとした主君・今川義元の死は、今川家の運命を根底から揺るがした。宗信をはじめ、井伊直盛ら多くの有力家臣を同時に失った今川軍は統制を失い、その支配体制は急速に崩壊へと向かう 22 。
義元の死は、今川領国、特に国境地帯であった遠江・三河に深刻な権力の空白を生んだ。この機を逃さず、三河の松平元康(後の徳川家康)が独立。これを皮切りに、今川家の権威は雪崩を打って失墜していく 22 。
宗信の死後、今川家11代当主となった氏真は、宗信の忠功に報いる形で、その嫡子である 松井宗恒 (むねつね)に家督と所領を安堵した 10 。しかし、この措置も今川家の混乱を収拾するには至らなかった。
宗信の死によって生じた権力の空白と今川家の弱体化は、遠江の国人衆の離反、いわゆる「 遠州錯乱 」と呼ばれる大混乱を引き起こした 7 。この混乱の中で、松井一族は悲劇に見舞われる。宗信の死後、二俣城主の座を継いだとされる甥の
松井宗親 (宗信の兄・信薫の子)が、引馬城主・飯尾連龍の反乱に同調したとの嫌疑をかけられ、主君であるはずの氏真によって駿府に呼び出され、謀殺されてしまったのである 4 。
この事件は、氏真政権が領国を統制する力を失い、猜疑心に駆られていたことを象徴している。そして、ここには戦国時代の非情なパラドックスが存在する。松井宗信は今川家への絶対的な忠義を貫いて死んだ。しかし、その彼の死が今川家の弱体化を招き、遠江の混乱を引き起こした。そして、その混乱の中で、彼の甥は主君に殺され、残された一族は存亡をかけて離反と従属を繰り返さざるを得なくなったのである。最高の忠臣の死が、皮肉にも彼の一族を「不忠」の道へと追いやる状況を生み出した。宗信が命を賭して守ろうとした主家そのものが、彼の遺族に牙を剥くという、あまりにも痛ましい結末であった。
今川家が滅亡すると、松井一族は甲斐の武田信玄と三河の徳川家康という二大勢力の間で翻弄され、分裂を余儀なくされた 7 。最終的に、一族の一部(松井宗直の系統)は徳川氏の旗本として家名を保ったが、かつて遠江に威を振るった国人領主としての松井氏の勢力は、この混乱の中で完全に失われた 5 。
松井宗信の生涯は、桶狭間の露と消えた。しかし、その忠義の記憶は、戦場となった地と故郷、そして後世の人々の心に深く刻み込まれている。
宗信が最期の奮戦を遂げた愛知県豊明市の 桶狭間古戦場伝説地 には、今なお彼の記憶を留める史跡が残る。明和8年(1771年)に建立された「 七石表 」と呼ばれる七基の石碑のうち、二号碑が宗信の戦死した場所を示すと伝えられている 25 。さらにその傍らには、明治9年(1876年)に有松の住人・山口正義によって建てられた「松井兵部少輔宗信墓」の墓碑が、主君・義元の墓碑と並んで静かに佇んでいる 26 。
一方、故郷である遠江にも彼の魂は眠る。静岡県磐田市(旧豊岡村)にある菩提寺・ 天龍院 には、桶狭間の戦場から家臣が持ち帰った宗信の首が手厚く葬られたという伝承が残り、現在もその供養塔が墓地の一画に建てられている 24 。
宗信への追慕の念は、墓碑の建立に留まらない。愛知県名古屋市にある 長福寺 の堂内には、主君・今川義元の木像と並んで、松井宗信の木像が安置されている 15 。主君と家臣が死後も同じ寺で並んで祀られることは稀であり、これは後世の人々が彼を義元の最も忠実な家臣の一人として記憶し、顕彰してきたことの何よりの証左と言えよう。
松井家の血脈は、近代まで受け継がれた。昭和期に陸軍大将を務めた 松井石根 は、この遠江松井氏の子孫であり、祖先、特に宗信の遺業を深く敬い、たびたびその墓碑を訪れて供養を欠かさなかったという 4 。
松井宗信の生涯は、滅びゆく主君に命を捧げた「忠臣」の典型として、後世に語り継がれてきた。彼の生き様は、戦国武士が理想とした主従の絆と忠義の価値を体現する一方で、その純粋さゆえに一族を悲劇に導いた、戦国乱世の非情さと複雑さをも内包している。彼の物語は、460年以上の時を経た今もなお、我々に多くのことを問いかけている。
西暦(和暦) |
年齢 |
出来事 |
関連情報 |
1514年(永正11年) |
- |
兄・松井信薫が二俣城主となる。 |
5 |
1515年(永正12年) |
1歳 |
松井宗信、誕生。 |
4 |
1529年(享禄2年) |
15歳 |
兄・信薫が病死。宗信が家督を相続し、二俣城主となる。 |
4 |
1539年(天文8年) |
25歳 |
三河での戦功により、今川義元から「粉骨無比類」と記された感状を受ける。 |
14 |
1559年(永禄2年) |
45歳 |
今川氏真から遠江における知行・代官職を安堵される。 |
7 |
1560年(永禄3年)5月19日 |
46歳 |
桶狭間の戦いで戦死。 |
4 |
1560年(永禄3年)12月 |
- |
子・宗恒が今川氏真から家督相続を認められる。 |
10 |
1563年-1565年頃(永禄6-8年) |
- |
遠州錯乱が勃発。甥・宗親が飯尾連龍の反乱に連座した嫌疑で氏真に謀殺される。 |
4 |
1568年(永禄11年) |
- |
徳川家康の遠江侵攻。松井氏は徳川方・武田方などに分裂する。 |
4 |
1569年(永禄12年) |
- |
今川家が滅亡する。 |
13 |