最終更新日 2025-07-14

松前景広

『松前景広の実像:『新羅之記録』の編者、藩主の補佐役、そして信仰の人』

序論:松前景広とは何者か

松前景広(まつまえ かげひろ、慶長5年(1600年) - 明暦4年(1658年))という人物は、日本の近世史、特に北方の歴史において特異な光を放つ存在です。一般的には、松前藩の成り立ちとアイヌとの闘争史を記録した歴史書『新羅之記録(しんらのきろく)』の編者としてその名を知られています 1 。しかし、彼の人物像を単なる一人の文人、あるいは藩主の一家臣として捉えることは、その本質を見誤ることに繋がります。景広の生涯と業績は、より広範で複雑な文脈の中に位置づけられるべきです。

本報告書は、松前景広を、近世初頭の松前藩という、日本史上極めて特異な政治体が自己のアイデンティティを模索し、確立しようともがいた時代の中心にいた「アイデンティティの設計者」として捉え直すことを目的とします。彼の行動は、単一の動機から発せられたものではありません。本報告書では、景広の行動原理を以下の三つの軸から多角的に分析し、その実像に迫ります。

第一に、 藩の正統性確立という政治的要請 です。米の石高ではなく、アイヌとの交易を経済基盤とする松前藩が、徳川幕藩体制の中でいかにして自らの支配の正当性を主張し、大名としての地位を盤石にするかという、藩の存亡に関わる課題に景広がいかに応えたかを探ります。

第二に、 藩主一門としての役割 です。初代藩主・松前慶広の子として生まれ、藩主の弟、そして甥である藩主たちの補佐役という複雑な立場にあった彼が、一族の結束と藩政の安定のためにどのような役割を担ったのかを明らかにします。

第三に、 個人の篤い信仰心 です。記録に残る彼の深い信仰心は、単なる私的な精神活動に留まらず、寺社の建立や『新羅之記録』の編纂という公的な事業へと結実しました。この信仰が、彼の政治的・文化的活動にどのように影響を与えたのかを考察します。

これらの視点を通じて、景広が遺した最大の功績である『新羅之記録』の編纂事業や、彼が主導した寺社建立といった活動が、それぞれ独立したものではなく、相互に深く関連し合いながら、黎明期の松前藩の存立基盤を思想的、宗教的、そして政治的に強化するためにいかに機能したかを解き明かしていきます。これにより、歴史の記録者という一面的な評価を超え、歴史の創造者としての松前景広の全体像を提示することを目指します。

第一章:松前景広の生涯 ― 藩主の弟として、補佐役として

松前景広の生涯は、江戸時代初期の松前藩が直面した政治的・社会的な変動と密接に結びついています。藩主の弟という出自、一度は他家を継いだ経歴、そして藩政の中枢で果たした役割は、彼の人物像を形成する上で不可欠な要素です。本章では、景広の個人的な経歴を追い、松前家における彼の複雑な立場と、藩政における彼の役割を詳述します。

1. 出自と家系:松前慶広の七男

松前景広は、慶長5年(1600年)、松前藩の初代藩主である松前慶広(まつまえ よしひろ)の七男(一説には六男)として、蝦夷地の松前で生を受けました 2 。幼名は岩丸(いわまる)と伝えられています 2 。彼の母は、慶広の側室であった斎藤宗繁(さいとう むねしげ)の娘です 2

景広の父・慶広は、蠣崎(かきざき)氏の五代目当主として生まれ、豊臣秀吉や徳川家康といった中央の権力者と巧みに交渉し、蝦夷地における支配権を公認させ、姓を「松前」と改めることで、戦国大名から近世大名への脱皮を成し遂げた傑物でした 3 。景広は、このような偉大な父の下、多くの兄弟姉妹と共に育ちました。『寛政重修諸家譜』などの記録によれば、彼には兄として盛広(もりひろ)、忠広(ただひろ)、利広(としひろ)、由広(よしひろ)、次広(つぐひろ)が、弟には安広(やすひろ)、満広(みつひろ)などがおり、非常に多産な家系であったことが窺えます 2

この複雑な家族構成は、必然的に家督継承を巡る緊張関係を生み出しました。本来の嫡男であった長兄・盛広は慶長13年(1608年)に父に先立って早世し 7 、四兄の由広は、一時は盛広の養子となるも後継者の座から外され、豊臣秀頼に謁見したことが徳川方の疑念を招くなど、悲劇的な逸話を残して慶長19年(1614年)に亡くなっています 8 。このような一族内の力学は、藩主の庶子である景広の立場や後の行動に、少なからぬ影響を与えたと考えられます。彼は、自らの立ち位置を常に意識し、宗家との関係を慎重に図りながら生きることを余儀なくされたのです。

2. 河野家継承から松前姓復姓へ:揺れ動くアイデンティティ

景広の生涯において特筆すべきは、その姓と立場が一度大きく変化したことです。慶長7年(1602年)、わずか3歳の時、景広は父・慶広の命令により、慶広自身の母方の祖父にあたる河野季通(こうの すえみち)の名跡を継承することになりました 2 。これにより、彼は「河野時広(こうの ときひろ)」と名乗り、河野家の歴代当主が用いた通称である「加賀右衛門(かがうえもん)」を称しました 2

この養子縁組は、単なる個人的な事情によるものではなく、高度に政治的な意図に基づいた措置でした。河野氏は、松前氏の始祖とされる武田信広の時代から蝦夷地で活動した有力な在地領主であり、慶広の母も河野家の出身でした 3 。慶広が自らの子にこの名跡を継がせたのは、藩の草創期において重要な役割を果たした母系の家系を藩主一門の管理下に置くことで、家臣団の結束を強化し、潜在的な対抗勢力となることを未然に防ぐ狙いがあったと推察されます。これは、有力な親族や家臣の家系に自らの子を送り込むことで勢力を安定させる、戦国時代以来の常套的な統治戦略の一つでした。

しかし、景広は後に松前姓に復姓します 2 。その具体的な時期や経緯を記した史料は明確ではありませんが、この復姓が彼の人生における役割の変化を象徴する出来事であったことは確かです。史料には、彼が父・慶広の死後(元和2年(1616年))、宗家の藩主を補佐するようになったと記されています 2 。このことから、分家の当主としての立場から、宗家を直接支える長老格の補佐役へと彼の役割が移行する過程で、松前姓への復帰が行われたと考えられます。彼の権威の源泉が、もはや河野家という特定の家系の当主であることではなく、支配者である松前宗家の一員であることに由来するようになったため、松前姓を名乗ることが政治的に不可欠となったのです。このように、景広の姓の変遷は、彼の個人的なアイデンティティの揺らぎというよりも、松前藩の権力構造内における彼の政治的役割の変化を如実に反映したものでした。

3. 藩主の補佐役としての活動

父・慶広が元和2年(1616年)に亡くなると、家督は兄・盛広の長男であった公広(きんひろ)が継ぎ、松前藩第二代藩主となりました 10 。景広は、この甥にあたる公広、そしてその跡を継いだ氏広(うじひろ、第三代藩主)の二代にわたり、藩主の叔父という立場で宗家を補佐する重責を担いました 2

具体的な役職名や役料が記録されているわけではありませんが、藩主一門の長老格として、藩の重要政策の決定に深く関与していたことは想像に難くありません。彼が生きた時代は、松前藩がその統治基盤を固める上で極めて重要な時期でした。第二代藩主・公広の治世(1617年 - 1641年)には、福山館を中心とした城下町の整備が進められる一方で 10 、寛永14年(1637年)には福山館が火災で焼失するという災難に見舞われました 10 。さらに、寛永16年(1639年)には、幕府の厳命により領内のキリシタン106名を処刑するという痛ましい事件も発生しています 10

景広は、こうした藩政の安定と危機が交錯する激動の時代に、藩の中枢にあって藩主を支え、自らの知見と経験をもって助言を与えていたと考えられます。特に、彼が後に編纂する『新羅之記録』が、藩の歴史とアイヌとの関係を詳述していることを考えれば、彼の関心が藩の統治の根幹に向けられていたことは明らかです。彼の補佐役としての活動は、単なる血縁者としての後見に留まらず、藩の未来を見据えた、より大きな視点に立ったものであったと言えるでしょう。

4. 晩年と死

藩主の補佐役として長年藩政を支えてきた景広ですが、寛永20年(1643年)、44歳の時に隠居し、仏門に入りました。そして「快安(かいあん)」という法名を名乗ります 2 。この隠居の年は、彼が『新羅之記録』の編纂に着手する直接的なきっかけとなった、幕府による『寛永諸家系図伝』編纂のための系図提出が命じられた年と奇しくも一致します 1 。このタイミングでの隠居は、藩政の第一線から退くことで、松前家の歴史を後世に遺すという一大事業に専念するためであった可能性、あるいは藩内の世代交代を円滑に進めるための政治的な配慮であった可能性も考えられます。

出家後も、彼の探求心や活動が衰えることはありませんでした。正保3年(1646年)には、近江国(現在の滋賀県)の園城寺(三井寺)を訪れ、松前家の権威の源泉として『新羅之記録』に記すことになる新羅明神の縁起について調査を行っています 12

そして明暦4年(1658年)1月18日、松前景広はその波乱に満ちた生涯を閉じました。享年59でした 2 。彼の墓は、北海道松前郡松前町にある松前家代々の菩提寺、法憧寺(ほうどうじ)の境内にある国指定史跡「松前藩主松前家墓所」の中にあり、今も静かに眠っています 13


表1:松前景広 略年表

西暦 (和暦)

景広の年齢

松前景広の動向

松前藩・蝦夷地の動向

幕府・国内の動向

1600 (慶長5)

1歳

松前慶広の七男として誕生。幼名、岩丸 2

父・慶広が福山城(松前城)の築城を開始 6

関ヶ原の戦い。

1602 (慶長7)

3歳

父の命により河野季通の名跡を継ぎ、河野時広と名乗る 2

1603 (慶長8)

4歳

徳川家康が江戸幕府を開く。

1604 (慶長9)

5歳

父・慶広が家康より黒印状を受け、蝦夷地交易の独占権を公認される 6

1614 (慶長19)

15歳

兄・由広が死去 8

大坂冬の陣。

1616 (元和2)

17歳

父・慶広が死去。

徳川家康が死去。

1617 (元和3)

18歳

この頃までに松前姓に復姓か。甥の公広が家督を継ぎ、藩政の補佐を開始 2

松前公広が第二代藩主となる 10

1620 (元和6)

21歳

公広、福山館の城下町を整備 10

1625 (寛永2)

26歳

木古内・佐女川神社を創建したとの伝承がある 16

大館の八幡宮を福山に遷宮 17

1634 (寛永11)

35歳

ルルモッペ場所(現・留萌周辺)の知行主となる 18

1639 (寛永16)

40歳

幕命により、藩内でキリシタン106名を処刑 10

1641 (寛永18)

42歳

藩主・公広が死去。その子・氏広が第三代藩主となる 10

1643 (寛永20)

44歳

隠居し、出家。法名を快安と号す 2 。『新羅之記録』の編纂に着手。

幕府へ松前家の系図を提出 1

幕府が『寛永諸家系図伝』の編纂を開始。

1646 (正保3)

47歳

近江国園城寺を訪問 12 。『新羅之記録』を完成させ、浄書させる 19

1658 (明暦4)

59歳

1月18日、死去。享年59 2

明暦の大火(1657年)。

1666 (寛文6)

(没後)

景広が生前に建立を計画した白符大神宮が、知行地の白符村に創建される 21


第二章:不朽の業績 ― 『新羅之記録』の編纂

松前景広の名を歴史に刻むことになった最大の業績は、疑いなく『新羅之記録』の編纂です。この書物は、単なる一藩の歴史記録に留まらず、松前藩という国家の「創世神話」を構築し、その支配の正統性を内外に示すための、極めて戦略的な文化事業でした。本章では、この不朽の書がいかなる動機と背景のもとに生み出されたのか、その内容と構造を深く分析します。

1. 編纂の動機と時代背景

『新羅之記録』編纂の直接的な引き金となったのは、寛永20年(1643年)、三代将軍・徳川家光の治世下で、幕府が全国の諸大名および旗本に対して系図と家伝の提出を命じたことでした 1 。これは、幕府が各家の由緒と主従関係を公式に確定し、支配体制を文書の上でも完成させるための壮大なプロジェクト、『寛永諸家系図伝』の編纂事業の一環でした。

この時、松前藩も幕府の命令に従い、自家の系図や記録を提出しました。しかし、その内容には不備や誤りが少なくなかったとされています。松前景広は、この幕府に提出した公式記録を補足し、訂正する目的で、本書の編纂に着手したのです 1

しかし、この事業は単なる記録の訂正作業ではありませんでした。その背後には、より切実で高度な政治的意図が存在しました。松前藩は、日本の他の藩とは根本的に異なる特性を持っていました。すなわち、その経済基盤は米の収穫高(石高)ではなく、蝦夷地の先住民であるアイヌとの交易独占権にありました 23 。また、その地理的位置は本州から遠く離れた辺境です。このような特異な存在である松前藩にとって、自らの支配の正統性を、幕府や他の大名が納得するような「物語」として確立することは、幕藩体制の中で確固たる地位を築き、存続していくための死活問題でした 24 。景広は、歴史を編纂することによって、松前藩の「正史」を創造し、その存在理由を定義しようとしたのです。

さらに、個人的な動機も無視できません。景広にとって、父・慶広は、一介の蝦夷地の土豪であった蠣崎氏を、幕府公認の大名である松前氏へと押し上げた偉大な藩祖でした。その父の輝かしい事績を正確に記録し、後世に伝えたいという、子としての強い使命感と敬愛の念が、この大事業を推し進める大きな原動力となったことは間違いないでしょう 1

2. 「新羅」に込められた意味 ― 権威の創造

『新羅之記録』という書名、そしてその内容の核心は、松前氏の出自を、日本の武家社会において最も権威ある系譜の一つである清和源氏、その中でも特に武勇で名高い新羅三郎義光(しんらさぶろう よしみつ)に繋げた点にあります 1 。新羅三郎義光は、平安時代後期の武将・源頼義の三男であり、甲斐源氏(後の武田氏)や常陸源氏(後の佐竹氏)の祖とされ、武家の名門の象徴的存在でした。

景広は、松前氏の直接の祖とされる武田信広(たけだ のぶひろ)を、この新羅三郎義光に連なる若狭武田氏の出身であると記述しました。これにより、蝦夷地で勢力を拡大した一地方豪族に過ぎなかった松前氏の出自は、一躍、日本武家の本流に連なる由緒正しい名家へと「創造」されたのです。これは、出自の不確かさを抱える松前氏にとって、自らの権威を劇的に高めるための、極めて巧みな系譜操作でした。

この権威付けをさらに補強するのが、書名の由来ともなった「新羅明神」の存在です。新羅明神は、近江国(現在の滋賀県)の名刹・園城寺(通称、三井寺)の鎮守社であり、源義光がこの神前で元服したことから「新羅三郎」と名乗ったという伝説があります 12 。景広は、本書の完成年とされる正保3年(1646年)に、わざわざ松前から近江の園城寺まで足を運び、寺の僧侶から新羅明神の縁起を直接聞き取ったとされています 12 。そして、その神聖な縁起譚を『新羅之記録』の冒頭に荘厳に配置しました。この行為は、中央の権威ある宗教的物語を、辺境である松前家の起源譚として取り込み、自家の歴史に神聖な権威を付与するという、周到な戦略でした。

また、本書が純粋な漢文ではなく、日本語の語順や語彙の影響を強く受けた「和様漢文」で書かれている点も重要です 1 。これは、漢文の持つ公的な記録としての権威性を借用しつつも、必ずしも高度な漢文読解能力を持たないであろう藩内の武士たちが内容を理解しやすいようにという、実用的な配慮があった可能性を示唆しています。権威の「輸入」と、それを在地に根付かせるための「国産化」という二重の戦略が、ここにも見て取れるのです。

第三章:史料批判 ― 『新羅之記録』を読み解く

『新羅之記録』は、松前景広の不朽の業績であると同時に、その記述を無批判に受け入れることのできない、複雑な性格を持つ史料です。歴史史料として極めて高い価値を持つ一方で、編纂者の明確な意図によって「粉飾」された部分も内包しています。本章では、この書物を歴史学の視点から客観的に評価し、その光と影、すなわち史料としての価値と限界を批判的に検討します。

1. 北海道史の「記紀」としての価値

『新羅之記録』が後世の研究者から高く評価される最大の理由は、それが現存する松前藩最古の歴史書であり、同時に、和人の手によって編纂された北海道史に関する最古の体系的な記録であるという点にあります 1 。この唯一無二の価値ゆえに、歴史家の高倉新一郎氏をはじめとする多くの研究者は、本書を日本の正史である『古事記』『日本書紀』になぞらえ、「北海道の記紀とも称すべき文献」と評しています 1

本書の価値は、特に和人、すなわち松前氏(蠣崎氏)が、いかにして蝦夷地という異境の地で勢力を築き、支配体制を確立していったのか、その過程を和人側の視点から詳細に記録している点にあります 1 。蠣崎氏の祖・武田信広の渡海から、アイヌとの度重なる抗争、そして父・慶広の時代に豊臣・徳川政権から公認を得て近世大名へと至るまでの軌跡は、本書なくしては具体的に知ることができません。

中でも、康正3年(1457年)に勃発した、和人とアイヌとの大規模な武力衝突である「コシャマインの戦い」に関する記述は、この事件を伝えるほぼ唯一の文献史料として極めて重要です 27 。また、その後も「夷賊蜂起止まず」と記されるように 30 、和人とアイヌとの間に頻発した緊張と対立の歴史を知る上で、本書は不可欠な基本史料であり続けています。

2. 「粉飾」された系譜と英雄譚 ― 史料批判の視点

一方で、『新羅之記録』を史料として扱う際には、慎重な史料批判が不可欠です。編者の景広には、松前家の権威を高めるという明確な政治的意図があったため、その記述には客観的な事実を超えた「粉飾」が含まれていることが、現代の歴史学では定説となっています。

その最も顕著な例が、松前氏の出自に関する記述です。前章で述べた通り、松前氏の祖を清和源氏の名門・新羅三郎義光に繋げる系譜は、歴史学的には「多くの粉飾を認めざるを得ない」と評価されています 1 。これは、家の由緒を権威あるものに見せるための意図的な創作であり、松前氏が自らの支配の正当性を構築するために行った、いわば「歴史の創造」であったと理解されています。

同様に、藩祖・武田信広の活躍、特にコシャマインの戦いにおける役割の描かれ方にも、英雄化の傾向が強く見られます。本書では、信広はこの戦いで絶体絶命の危機にあった和人を救う救世主として登場し、敵将コシャマイン父子を討ち取るという超人的な武功を挙げます 25 。しかし、近年の研究では、信広の蝦夷地への渡海時期がコシャマインの戦いの後であった可能性が指摘されるなど、本書の記述には矛盾点や疑義が呈されています 27 。信広の英雄譚は、松前氏による蝦夷地支配が、単なる武力による征服ではなく、混乱を平定し秩序をもたらした正義の行為であったと物語るために、劇的に脚色された可能性が高いのです。

なぜ、このような「粉飾」が必要だったのでしょうか。それは、徳川幕府という巨大な権力構造の中で、辺境の無高の大名という特殊な立場にあった松前氏が、自らの存在を正当化し、他の大名と対等な家格を主張するための、必死の生存戦略でした。景広にとって、歴史を「編纂」することは、自家の権力を「創造」し、未来を確かなものにすることと表裏一体の行為だったのです 24

3. 描かれたアイヌ民族像とその限界

『新羅之記録』の史料的価値を考える上で、最も注意深く検討しなければならないのが、アイヌ民族の描かれ方です。本書は徹頭徹尾、和人、すなわち支配者である松前氏の視点から書かれています。そのため、アイヌはしばしば「夷狄(いてき)」 31 や「夷賊(いぞく)」 30 といった、文明化されていない、あるいは反抗的な存在として描かれ、松前氏による征伐や教化の対象として登場します。

もちろん、アイヌとの交易や対立に関する具体的な記述は、当時の両者の関係性を知る上で非常に貴重な情報を含んでいます。しかし、その記述の背後には、常に和人側の論理と自己正当化のバイアスが働いていることを忘れてはなりません。例えば、両者の抗争の原因は、決まってアイヌ側の理不尽な「蜂起」にあるとされ、その背景にあったであろう和人側による不公正な交易レートの設定や経済的搾取といった側面は、ほとんど語られることがありません 32

この書物によって形成された、和人に従順でないアイヌを「悪」とするようなステレオタイプなアイヌ像は、後世の和人社会のアイヌ観に長く影響を及ぼしたと考えられます。したがって、現代の歴史研究においては、『新羅之記録』の記述を鵜呑みにすることは厳に戒められています。その記述を、考古学的な発掘成果や、文字を持たなかったアイヌの人々が伝えてきた口承文芸(ユーカラなど)、あるいは他の周辺民族の記録といった、異なる視点からの史料と多角的に突き合わせ、批判的に読み解いていく作業が不可欠となっているのです 27

第四章:松前景広の遺産と影響

松前景広の功績は、『新羅之記録』の編纂という文事だけに留まりません。彼は藩主一門の重鎮として、また一人の知行主として、松前藩の宗教的・経済的基盤の構築にも深く関与しました。本章では、編纂事業以外の景広の具体的な活動とその影響を、信仰と経済という二つの側面から探り、彼が後世に遺した多面的な遺産を明らかにします。

1. 篤い信仰心と寺社建立

史料は、松前景広を「信仰心が非常に厚く、多くの神社仏閣を建立した」人物として記録しています 2 。彼のこの篤い信仰心は、単なる個人的な精神性の発露に終わらず、藩の精神的な支柱を築き、領地を聖化するという公的な意味合いを帯びた具体的な行動へと繋がっていきました。

その最も明確な事例が、北海道松前郡福島町に現存する白符大神宮(しらふだいじんぐう)の創建です。この神社は、寛文6年(1666年)、景広自身の知行地であった白符村に、彼の発願によって建立されたと伝えられています 21 。当初は大日堂と呼ばれ、後に神明社、大神宮と改称されましたが 22 、祭神として伊勢神宮と同じ天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)を祀る神明社を建立したという事実は、極めて重要です。これは、当時全国的に広まっていた伊勢信仰という、中央の最も権威ある信仰体系を蝦夷地の辺境に「移植」する行為でした。この神社建立は、『新羅之記録』において松前家の系譜を中央の源氏に繋げたのと同様に、宗教的な側面から自らの支配地の神聖性と正統性を強化しようとする、景広の一貫した思想の現れと見ることができます 37

さらに、北海道上磯郡木古内町にある佐女川(さめがわ)神社も、寛永2年(1625年)に「松前伊豫(景広の別称か)」が創建したという伝承が残っています 16 。これらの活動は、景広が松前藩領内における宗教的なインフラストラクチャーの整備に、主導的な役割を果たしていたことを強く示唆しています。

2. 知行主としての経済活動

景広の文化活動や宗教活動を支えた経済的な基盤を理解するためには、松前藩の独特な知行制度に目を向ける必要があります。松前藩は、家臣に対して俸禄として米の生産地(知行地)を与える代わりに、アイヌとの交易を行う権利(商場、あきないば)を知行として分与する「商場知行制」を採用していました 39

松前景広もこの制度の下で知行を与えられた家臣の一人であり、史料によれば、寛永11年(1634年)にルルモッペ場所(現在の北海道留萌市周辺)の知行主となっています 18 。知行主は、自ら交易船を仕立てて米や酒、布、鉄製品などを知行地である商場に運び、現地のアイヌが生産した鮭や昆布、獣皮などと交換します。そして、持ち帰った産物を松前に来航する本州の商人たちに売りさばき、その利益を自らの収入として生活を立てていました 40

この経済的現実は、景広の歴史編纂事業と決して無関係ではありませんでした。彼の収入と社会的地位は、ルルモッペ場所におけるアイヌとの交易が円滑に行われるかどうかに直接依存していました。しかし、この交易関係は、和人側による不公正な取引などにより、しばしば緊張や対立を生む、脆弱なものでもありました 32

このような背景を考慮すると、『新羅之記録』の編纂は、この商場知行制という経済システムそのものを、歴史的に正当化するためのイデオロギー装置としての側面を持っていたことが見えてきます。すなわち、松前氏の祖先が「反乱を起こす」アイヌを平定し、蝦夷地に秩序をもたらした英雄であるという物語を構築することによって、その子孫である松前氏とその家臣たちがアイヌとの交易を独占し、支配する権利が、歴史的に正当なものであると主張したのです。景広の文筆活動は、彼自身の生活基盤を含む、松前藩の経済構造全体を思想的に支えるための、極めて重要な営為であったと言えるでしょう。

3. 子孫と家系の行方

松前景広の家系は、彼一代で終わることはありませんでした。彼の妻は、松前藩の重臣であった下国由季(しものくに よしすえ)の娘と記録されています 2 。二人の間には、男子として宣広(のぶひろ)、広維(ひろつな)らが、女子も複数生まれました 2

景広が興したこの家系は「河野系松前家」とも称され、彼の子孫は代々、松前藩において上級家臣が列する「寄合席」の家格を維持し、藩政に重きをなしました 16 。景広の子供たちは、藩祖以来の有力な家臣である蠣崎氏や、妻の実家である下国氏、あるいは佐藤氏といった藩内の有力な家系と次々に婚姻関係を結んでいます 2 。これは、景広の家が、藩内の権力構造を維持・安定させるための人的ネットワークにおいて、重要な結節点として機能していたことを示しています。彼の血筋は、藩主家を支える重要な支流として、幕末に至るまで松前藩の歴史と共に歩んでいきました。


表2:松前景広の家族関係

関係

氏名・情報

備考

出典

松前 慶広(まつまえ よしひろ)

松前藩初代藩主。

2

斎藤 宗繁の娘

慶広の側室。

2

養父

河野 季通(こうの すえみち)

慶広の母方の祖父。景広はこの名跡を継いだ。

2

兄弟

松前 盛広、忠広、由広、安広など多数

藩主継承を巡る複雑な関係性の中にあった。

2

下国 由季の娘

正室とみられる。

2

長男

松前 宣広(まつまえ のぶひろ)

2

次男

松前 広維(まつまえ ひろつな)

2

三男

高橋 季信(たかはし すえのぶ)

高橋家の養子となったか。

2

長女

蠣崎 宗広の室

藩の有力家臣・蠣崎氏へ嫁ぐ。

2

次女

下国 安季の室

妻の実家である下国氏へ嫁ぐ。

2

三女

佐藤 権左衛門の室

2

四女

新井田 吉広の室

2


結論:歴史の編纂者、松前景広の再評価

松前景広の生涯と業績を多角的に検証した結果、彼は単に『新羅之記録』という一冊の歴史書を遺した編纂者という評価に留まる人物ではないことが明らかになりました。彼は、藩主の弟であり、藩政を支える補佐役であり、アイヌ交易を基盤とする知行主であり、そして篤い信仰心を持つ宗教者でもありました。これら複数の顔を持つ景広は、まさに近世初期の松前藩という特異な政治体の形成期を象徴する、極めて重要な人物であったと言えます。

彼の最大の功績である『新羅之記録』の編纂は、客観的な事実を淡々と記録する行為ではありませんでした。それは、松前家の出自を権威ある清和源氏に繋げ、藩祖の英雄譚を創造し、アイヌとの関係を自らに都合よく物語ることで、松前家による蝦夷地支配の正統性を「創造」する、極めて戦略的な文化・政治活動でした。幕藩体制という新たな秩序の中で、自家の存続と地位の向上を図るため、彼は筆を武器として、松前藩という「国」の思想的な礎を築いたのです。この意味において、彼は歴史の「記録者」であると同時に、まさしく歴史の「創造者」でした。

彼の活動は、藩のイデオロギー構築に留まりません。知行地に神明社を建立した行為は、中央の宗教的権威を辺境の地に根付かせ、自らの支配を聖化する試みでした。また、知行主としての彼の経済活動は、松前藩の根幹をなす商場知行制というシステムそのものを体現しており、『新羅之記録』の物語が、この経済システムをいかに正当化する役割を担っていたかを理解する上で不可欠な視点を提供します。

松前景広とその著作『新羅之記録』を深く理解することは、単に一人の歴史上の人物を知ることに終わりません。それは、近世日本の周縁で展開された、和人とアイヌという二つの民族の複雑な関係史、中央政権と地域権力のダイナミズム、そして権威や正統性がいかにして「物語」によって構築され、維持されていくかという、より普遍的で重要な歴史的テーマを考察するための、不可欠な鍵となります。松前景広は、北の世界の歴史を、そして近世日本の多様性を理解するための、避けては通れない重要人物として、今後も再評価され続けるべきでしょう。

引用文献

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